第十七話 「ただいまキイチ!」
俺、阿武隈沙月。星陵ヶ丘高校の柔道部員。ちなみに一年生だ。
濃い茶色の毛と、胸にある白い三日月がトレードマークの熊。
何回も上り下りした階段を駆け上って、歩き慣れた廊下を走り抜けた俺は、何度も手をかけた馴染みのノブを握ってドアを
引き開けた。
「ただいまキイチ!具合はどうだ!?」
部屋に飛び込んで声を上げた俺に、
『しーっ!』
トラ先生とウッチーとオシタリとウシオ団長が、揃って人差し指を口に当てて、静かにするように注意して来る。
「あ…。済んません…」
頭を掻きながら詫びた俺の後ろから、いがぐり頭の人間男子が部屋の中を覗き込んだ。
「ただいま。…あ、先生、ただいま帰りました」
「あ、あぁ…。ただいま戻りました…」
主将に倣って頭を下げて、帰った挨拶をした俺に、
「おめでとう。凄いぞぉアブクマ」
トラ先生が普段以上に顔を緩ませて、
「うむ!実に立派だ!ワシも誇らしいぞ!」
ウシオ団長がウンウンと何度も頷き、
「…頑張ったじゃねぇか…」
オシタリがぼそっと、
「おめでとう、ブーちゃん」
ウッチーが口の端を少し上げて、口々に祝いを言ってくれた。
「ぬははっ!どもっす!」
褒められ慣れてねぇ俺は、皆から一斉に褒められたせいで、照れ臭くなって頭を掻く。
…頭の天辺から尻まで、背中側がムズムズすんなぁ…。
「イワクニもご苦労さんなぁ。応援から準備から、色々大変だったろう?」
「いえ。今のぼくがやれるのはそれぐらいですし、何よりまだ現役の主将なんですからね。しっかりやらないと」
トラ先生に労いの言葉をかけられた主将は、ビシッと気を付けして生真面目に応じる。
「理事長からも聞いていたんだぞぉ。柔道の事をさっぱり知らない、形だけの顧問である自分に代わって、イワクニが主将と
しての本来の役目以上に頑張ってくれているとなぁ」
「買いかぶりです、褒められるほど大した事はできていません…」
にこやかに話す先生に、主将は照れ臭そうに謙遜してる。
…それはそうと…。
「あの、先生。昨夜は泊まりでまでキイチの面倒見て貰っちまって…、本当にお世話んなりました」
改めて深々と頭を下げたら、先生は「ん?あぁ…」と、声を漏らした。
…ん?先生の緩んだ笑み…、いつもとほんのちょっとだけ変わってるような…?
「良い子にしていたぞぉ。今も言いつけを守って寝て…」
先生の言葉は、途中で途切れた。
その原因…、カチャッと音を立てて回った寝室のドアノブに、全員の視線が集まる。
「……はよ…」
ゆっくり開いたドアの向こうから、目を擦りながらよろよろっと出てきたのは…、愛しのニャンコ!
「キイチ!帰ったぞ!」
俺は寝ぼけ顔をしてるクリーム色の猫に駆け寄って、その頼りねぇぐれぇ細くてちっこい体を、腋の下に手を入れる恰好で
ひょいっと抱き上げた。
「元気か!?体の調子、どうだ!?何処も痛くねぇか!?」
勢い込んで訊ねる俺に、
「おかえり。お疲れ様。おめでとう。…ちょっと、おろしてよサツキ君…」
体調はもうだいぶ良いのか、目が醒めたらしいキイチは、口元を緩めてちょっと困ったように微笑んだ。
「おっと悪ぃ!」
ゆっくり床におろすと、キイチは俺の顔を見上げながら、もう一回「おかえり」って繰り返して、笑いかけて来た。
あぁ…!俺ぁこの笑顔が見たくて見たくて仕方無かったんだよ!たった一晩顔を見れなかっただけだってのになぁ…。
体の調子はどうだ?もう熱下がったか?…ってな具合に、実は昨夜なんか早めにベッドに入った割に、なかなか寝付けなかっ
たんだ。心配で心配でもう…。
「帰ってきたら起こしてやるつもりだったんだけれどな…。寝ていたんじゃなかったのか?」
ウッチーがそう訊くと、キイチは微苦笑した。
…あぁ…。キイチ笑ってる…。元気になったんだなぁ…。
「うつらうつらしてたけど、聞き慣れた足音が…っていうか、地響きがしたから」
…地響きっ…!?
意図してかしねぇでか、チクッと一刺ししたキイチは、主将にペコッと頭を下げた。
「お疲れ様でした。おかえりなさい主将」
「ただいまイヌイ。もう良いのかい?」
「おかげさまで、すっかり良くなりました。そのぉ…」
キイチは一度口ごもると、俯き加減になって主将を上目遣いに見た。
「ご心配をおかけして、済みませんでした…。サツキ君も、ゴメンね…。今度からは、無理して頑張らないで…、具合が悪かっ
たらちゃんと、大事になる前に正直に言います…」
そう言うなり、耳を伏せてるキイチは深々と頭を下げた。
…一体どうしちまったんだ?改まって…。
俺もそうだが、主将もキイチの態度にキョトンとしちまってる。
ふと見ればトラ先生が、キイチの様子を眺めながら、満足そうに笑いながらウンウン頷いてた。
…ん?何かあったのか?
今夜はもう大丈夫だろうって事で、先生はすぐに帰って行った。
ウッチーとオシタリもそれから程なく部屋に戻って、主将と団長が最後に残る。
「どれ、二人が戻ってきた所で…。点呼が終わり次第、希少な同志としての意見交換をだな…」
「このアホウシっ!」
ズビスッ!
「どぅおうっ!?」
真面目な顔で切り出した団長の額に、隣に座った主将が鋭く水平チョップを叩き込んだ。…かなり良い音したぞ今?
「な、何をするイワクニ!突然の衝撃だったぞ!」
「ウシオの提案の方がよっぽど突然の衝撃だ!」
額を両手で押さえ、ビックリした顔をしてる大牛に、主将は声を高くして詰め寄る。
「な、何もそう怒らんでも…。昨夜はアブクマと語り合ったのだろう?」
「語り合ってない!ぼくらが何しに行ってたのか理解してないのか!?」
顔を真っ赤にして怒鳴る主将。
「まさか病み上がりのイヌイから無理矢理話を訊いたりとかしていないだろうな!?」
「流石にそこまではせん!先生もウツノミヤも居て、他人の目があるというのに…」
…団長…。そいつぁつまり、他の目が無かったら訊いてたって事っすか?
俺と主将の疑わしげな視線を受けながらも、団長はまるで気にした様子もなくウンウン頷いてる。
「そうか。そちらも話はしとらんか。…では改めて四人揃った所で意見交換会を…」
ガシッ!グイッ!
「くあおぅっ!?」
主将の手が素早く伸びて、床をパタコラ打ってた牛の尻尾がガッシリ掴まれた。
ウシオ団長の尻尾を逆手に握った主将の手には、引っ張るってか、むしろ引っこ抜くつもりのように力が籠もってる…。
「し、尻尾は!尻尾はそれ程頑丈では…!そ、そう乱暴に引っ張るな!もうちょっと優しく、ソフトタッチに…!」
「えぇい!黙らないと玉結びにするぞ!?」
怒ってるらしい主将に尻尾をギュウギュウ引っ張られて、付け根を押さえて苦鳴を上げる団長。…苦鳴…だよな?なんか表
情が微妙だけど…。
このカップル。アドバンテージは主将が握ってるっぽいな…。
「今日はもう良いだろう?ぼくらは疲れてるし、イヌイだって病み上がりなんだ」
「むぅ…?しかし見たところ至って元気…。いてっ!おい!耳を引っ張るなサトル!耳は!耳は駄目!」
「…く・う・き・を・読・め…!」
耳を掴む主将に抗議した団長は、耳元にそっと息を吹きかけられ、物凄ぇ低い声で囁かれたら、ゾクゾク来たのかブルルッ
と身震いする。
「わ、判った…。またの機会にする…」
団長がしぶしぶ納得すると、主将は少し困っているような微苦笑を、じっと夫婦漫才を見物していた俺達に向けて来た。
「そういう訳で、ぼくらもそろそろ退散するよ。話したい事も一杯あるだろうけど、明日からまた学校だ。あまり夜更かしし
ないようにするんだよ?」
…あぁ…。主将、二人きりになれるように気ぃ回してくれてんのか…。
鈍い俺でも判った事だ、キイチも当然気付いたらしく、ちょっと恥ずかしそうに尻尾で床をパタパタ叩いてた。
在寮確認できたから点呼には来ねぇって言い残した主将達を、俺は廊下で見送った。
二人の姿が角を曲がって見えなくなってから引っ込んで、ドアを閉め、鍵をかけた俺は、座卓についてるキイチを振り返る。
こっちを見てたキイチに笑いかけられたら、俺の顔にも自然に笑みが浮かんだ。
短ぇ尻尾をモソモソ動かしながら座卓に歩み寄って、チョコンと正座してるキイチの隣に、のそっと腰を据える。
そして、その華奢な肩に腕を回して、そっと抱き寄せた。
ああ…。猫族独特のやわっこい感じ…、キイチの感触…!元気になったんだなぁ…!
「主将は一緒だったけどよ…、やっぱちょっと寂しかった…」
胸元に寄り掛からせるようにして抱き寄せたキイチに、俺は正直にそう言った。
クリーム色の猫は微笑して、俺の垂れ気味な右胸に頭をもたれかけたまま、そっと手を上げて左肩から胸にかけて撫でる。
「甘えん坊だね、サツキ君は」
「だ、だって…、体調とか心配だったしよ…」
胸を撫でられる感触を味わってた俺は、キイチにくすっと笑われて、モゾモゾ身じろぎした。
「でも…、本当は僕もちょっと寂しかった」
首を曲げたキイチは、俺の顔を真下から見上げて微笑む。
…くぅっ…!ちくしょう!こういう不意打ち、胸のど真ん中にズキューンって来んなぁ!
堪んなくなって顔を突き出し、キスを求めた俺の鼻を、しかし素早く伸ばされたキイチの手が押さえた。
「ふがっ!?」
「今日は念のためにキスとかは駄目。もう体調は良いけど、直接口なんかくっつけて、もしも風邪がうつっちゃったら困るも
ん…。ね?」
「う〜っ…!」
不満はあったが、聞き分けのねぇ事言ってキイチを困らせたくねぇから、俺はしぶしぶながら頷いた。
…この分だと、今夜はあんまりベタベタさせて貰えそうにねぇな…。
まぁ、今日のトコはそれでもしょうがねぇや…、我慢我慢…。
今日は欲しかった全国行きの切符まで手に入ってんだ。こうして元気になってくれただけでも十分だって思わなくちゃ、欲
張り過ぎでバチがあたっちまうよな。…チューしてぇけど…。
俺は自分に言い聞かせながら、抱き寄せたキイチの感触をじっくり噛み締める。
「…ぬははっ…!これだけでも十分じゃねぇか…」
「うん?」
「…何でもねぇ」
俺はキイチの頭に顎を乗せて、満面の笑みを浮かべてグリグリする。
…あ…。そういや、あの事も話しといた方が良いよな?
「あのさ、キイチ…」
「うん?何?」
…ちっと恥かしかったが、俺はキイチに、あっちでの事を打ち明けようと思った。
「俺さ…、あっちでネコヤマ先輩に怒られちまった…」
少し身を離した俺が、ガリガリ頭を掻きながら呟くと、キイチは気になったように顔を向けて来る。
「全国行きたかったし、負けたくねぇから…、勝負に臆病になっちまってさ…。柄でもねぇ柔道しちまってよ…」
横顔に注がれるキイチの視線を感じてる俺に、あの…、勘違いに気付かされた時の恥かしい思いが甦って来た…。
「誰かの為とか格好つけて、誰かのせいにすんなって…。勝負してんのは俺自身だろって、怒られちまったんだ…。俺、主将
の為とか、皆を全国に連れてくとか…、「勝ちてぇ」が、「勝たなきゃならねぇ」になっちまってたんだ…」
言葉を挟まねぇで聞いてくれてるキイチに、俺は苦笑いを浮かべながら続ける。
「自惚れちまってたんだよなぁ。残ってんの俺だけだって、皆の為に頑張ってんだって、そんな気分に浸っちまってたんだ…」
「………」
「本当は自分も勝ちてぇくせに、「皆の為」って自分に言い訳して。スタイルまで変えてよ…。ネコヤマ先輩と主将にああ言っ
て貰えなけりゃ…、今頃項垂れて帰って来てただろうな…」
話し終えた俺の顔を、キイチは何かを考え込むような表情で、じっと見つめていた。
「…何だよ?」
「え?あ、うん…」
キイチは俺の顔から視線を外して、膝の上に乗っけた手に向ける。
「サツキ君に大事なこと教える役…。いっつも、誰かに取られちゃうなぁって…」
…あれ…?キイチ…、ちょっとヘソ曲げてる?
「まぁ…、その場に僕が居ても、主将やネコヤマ先輩みたいに柔道を見る目がないから…、同じように忠告できたとは思えな
いけど…。何だか、大事な役目を取られちゃったような気がして、ちょっと悔しいかも…」
「ぶふっ!」
口を尖らせてブツブツ言うキイチの様子が、子供みてぇで可愛過ぎて、思わず吹き出しちまったら、
「何?」
キイチは耳をぴんと立てて、不機嫌そうに口を尖らせた顔で俺を見つめて来た。
…ぬふふ…!その顔やめろっての!我慢してんのに、思いっきり抱き締めてキスしたくなっちまうじゃねぇか!
「ぬはははは!俺を注意する機会なんて、これからも嫌んなるぐれぇあるさ!足りねぇトコなんて山ほどあんだからよ」
「足り過ぎてる所も一杯あるけどね」
そう言ったキイチは、手を伸ばして俺の脇腹…、紐を締めたジャージのズボンの上で、横にはみ出るようになってる贅肉を
ムニュッと摘んだ。…厳しいなぁおい…。
「実は僕もね、トラ先生に叱られちゃった…」
キイチの囁くような声に、俺は少し目を大きくする。
こいつが誰かに叱られるなんて珍しい…。おまけにそれが、何をしても怒りそうにねぇあのトラ先生?
キイチは少し恥ずかしそうに目を伏せて、ぼそぼそと続ける。
「心配かけないようにって黙っていられるのは、周りはかえって辛いんだって…。自分だったら打ち明けて貰いたいって、そ
ういう風な事を言われて…」
しゅんと小さくなったキイチは、耳をペタンと寝せて、尻尾をフルフルさせてた。
「黙ってられると、信用されてないような、頼りにされてないような気がしちゃうって…。先生にそう言われたら、僕、自分
が間違ってたって実感できた…。実際に、我慢してたせいで悪化させて迷惑かけちゃったし…。黙ってたせいでかえって心配
させちゃったし…」
一度言葉を切ったキイチは、俺の顔を上目遣いに見上げて来た。
「ゴメンねサツキ君…。黙ってて、ゴメン…」
「お、おう…」
俺はキイチに詫びられながら、さっきこいつが主将と俺に向けた、あのやけに丁寧な詫びの事を思い出した。
…そっか…。あれって、先生の話を受けたキイチの、黙っててゴメンって意味の詫びだったのか…。
気遣っちまうから遠慮しちまう。その結果かえって迷惑をかけちまう事だって、誰にでもあるって思う。
俺が主将の為と思っていながら、結局は心配かけちまったように…。
キイチだってそうだ。今回はあんな風に大騒ぎになっちまったけど、心配かけたくねぇから黙ってた訳で…、そこに、絶対
に悪ぃって言い切れるもんはねぇ。
気遣いも遠慮も必要なもんだと思う。けど、良かれと思って使い所を間違っちまう事もある。
俺達はまだまだガキなんだ。だから変に大人ぶって、しなくて良いトコで背伸びして、時には足首捻っちまう…。
先輩方や先生方に甘えられるのって、きっと、今の俺達の特権なんだ。
素直に甘えて、迷惑かけて、ゴメンって謝って…、きっと今はまだそれが許されるんだ。
甘え慣れてねぇキイチはともかく、つい数ヶ月前まで最上級生だったせいか、俺もそんな事を忘れちまってた。
同じような失敗しちまったんだって気付いたら、何だか急にキイチが可愛くなって…、俺は小さな恋人をキュッと、軽く抱
き締めた。
「…キイチ。この際だからずっと思ってた事、今言っとくぞ…。ちっと自惚れるけどよ、俺、お前に信用されてねぇとは思っ
てねぇんだ」
「うん」
「けど、もっともっと頼って欲しいって思う。キイチはいっつも「何でもない」って言いながら頑張り過ぎるからよ…」
「うん…」
「次からはよ、黙ってんのナシな?遠慮しねぇで、な…」
「ん…」
キイチは俺の胸に顔を埋めて、俺の一言毎に頷いた。
「俺、馬鹿だから上手く言えねぇけど…、相手が大切だから変に気遣って失敗しちまう…、変に遠慮しちまって悲しませちま
うっての…、あると思うんだ…」
「…うん…」
「俺もたぶん、お前の事気遣って、逆に迷惑かけちまうような遠慮をしちまう事もあると思う…。俺だって、威張って叱って
やれるぐれぇ出来たヤツなんかじゃねぇんだからよ…」
「…うん…」
「だからよキイチ。俺がしなくて良い遠慮してるって思ったら、注意してくれよな?柔道じゃあ主将やネコヤマ先輩が注意し
てくれても、普段の俺の事はお前のがよっぽど身近で見てくれてんだ。…俺、お前の事、他の誰より頼りにしてんだからよ…」
「さっちゃん…」
顔を上げたキイチは、俺の目を間近で見つめながら、はにかんだようにちょっとだけ笑う。
「ありがとう…。ちょっとジーンと来た…」
「ぬはは!そっか?」
耳を寝せて笑みを返し、俺はキイチをしっかりと抱き締める。
細くてちっこくて華奢な、一見頼りねぇけど、誰より頼りにしてる恋人を…。
足りなくて当たり前。出来なくて普通。
見た目もデコボコで特技も違う俺達は、だからこそお互い頼って頼られる…、ずっとそんな関係だった。そう、小せぇ頃か
らずっと…。
…まぁ、俺の方が頼ってる率ちょびっと高ぇけど…。
…ん?
俺はちょっとした事を思いついて、キイチの肩に手を掛けて少しだけ離す。
「なぁキイチ」
「うん?」
顔を上げて真っ直ぐに見上げて来るキイチに、俺はちょっとドキドキしながら、期待を込めて言う。
「さ、さささっき…、風邪うつっちまうかもだからキスは駄目だよ〜…みてぇなって言ったけどよ…」
「うん」
「このぐれぇひっついてても、…え〜と…なんつぅんだ?うつるかも率?」
「感染率?」
「あ、それだ。ちょ、ちょっとぐれぇその…、ちゅ…、チューしても…、かか、変わんねぇんじゃねぇのかなぁ?なんて…」
「…かもね…」
キイチは目に瞼を半分被せて、俺の言った事の中身を考えてる。
お?こいつはひょっとすると、チューの許可出るかも…?
「でもやっぱり駄目。全国大会に行く選手、明後日全校集会で登壇させられるんだから」
う〜っ!やっぱ駄目かぁ…!
残念がってる俺の耳に、さらに追い打ちをかけるようなキイチの言葉が続けて入って来る。
「僕も軽はずみだった。今夜はちょっと離れておこうね?」
「えっ!?」
慌てる俺からそっと身を離したキイチは、「念のため念のため」と言いながら、テーブルの横側に移った。
…しょぼん…。余計な事言うんじゃなかったぜ…。
席を移ったキイチは、「サツキ君」と、鈴を転がすような明るい声音で、落ち込んでる俺に話しかけてきた。
「本当に、全国へ連れてってくれたね?」
「え?…おう…。まぁ約束って訳でもなかったけどな…」
また改まって褒められんのかなぁと、首後ろがムズムズし始めた俺に、キイチはニッコリと笑いかけてきた。
「おめでとう。そして有り難う」
「ん?何でアリガトだ?」
聞き返した俺に、クリーム色の猫は、いかにも嬉しそうに耳を寝せて口元を緩ませる。
「全国行きの切符を持ち帰ってくれた…。僕には、一足早いバースデープレゼントだよ」
合点が行った俺は、思わず顔を伏せて含み笑いを漏らした。
「ぬははっ…!誕生日のプレゼントはまた別だよ。実はもう候補絞り込んでんだ」
「え?い、いいよ!腕時計とか栞とか、色々貰っちゃってるのに、また高い物とか買わせる訳には…」
「悪ぃけど、今回はあんま金かけねぇよ。かけんのは手の方だ」
俺が笑いながら応じたら、キイチはきょとんとした。
「今はまだ秘密な。当日になってのお楽しみだ!」
俺の顔を窺うように見つめてたキイチは、「…うん」と、ちょっと顔を綻ばせて頷いた。
「…にしても、全国行き決まったせいで、夏休みの使い方は決まっちまったなぁ」
「だね。大会、夏休みの真っ最中だもん。東護に帰るのは済んでからになっちゃうね」
話題を変えた俺に頷いたキイチは、意味ありげに口の端を上げる。
「夏の盛りだから、暑がりのサツキ君には、北街道が会場なのは有り難いね?」
「言えてるな。まぁ、中学ん時の全国はアレだ、どこもかしこも冷房入ってたから苦じゃなかったけどよ」
応じた俺は、大切な事を思い出した。
「あ〜…。遠征費用、もうねぇんだった…。親父に連絡入れて、旅費とか頼まねぇと…」
「あ。僕もだ…」
俺とキイチは揃って腕組みし、口をへの字にする。
「全国行けるんなら、畳を後回しにして部費温存しても良かったかもな…」
「仕方ないよ、凄く毛羽立ってたもん…。アレじゃ稽古もはかどらないし、怪我しちゃうかもしれなかったから…」
「…そうだよな…。けど、遠征なんかは理事長が出してくれたし、飯代だってそうだ。削れるトコなんて他にいくらも…」
「ちょっと色を付けて貰えたらしいけど、今になって考えると、元々足りなかったんだよね、部費…」
…ちっとブルー…。
けどまぁ、今になって無い物ねだりしたって仕方ねぇ。
理事長と主将も色々話して、やりくり考えてくれてんだ。足りねぇ分は親父に頼むしかねぇよなぁ…。
…来月から仕送り減らされたりして…。
しばらく黙り込んでいると、キイチが唐突に「あ」と声を漏らした。
「サツキ君、そろそろお風呂行って来たら?僕はウツノミヤ君達と一緒に入ったから」
「そっか。んじゃさっさと行って来る」
改めて考えると、キイチ、最近はウッチーやオシタリとも、普通に風呂に入るようになったなぁ…。
ちょっと前までは誰かと一緒にならねぇかって、ちょっとビクビクしてたってのに…。
なんだかちょっと嬉しくなった…。寮生活って、キイチにとって悪くねぇリハビリんなってると思う。
風呂の準備をして部屋を出ようとした俺を、キイチは「サツキ君」と、何か思い出したようにちょっと高い声で呼び止めた。
「お疲れ様のご褒美は、明日の晩まで待ってね?」
「…お…、おお、おぅ…!」
即座に込み上げて来た生唾を飲み込んで、ちょっと掠れた声で返事をする俺。
「それと、ウツノミヤ君に頼んで、今日県大会があった所の速報を調べて貰って、プリントアウトしたの」
キイチはパソコンの横…、まだ綴じてねぇ、重ねただけの資料を指さした。
「これで全国出場者が全地区で出揃ったから、後で名簿だけでも確認してみて?サツキ君が当たった事のある、名前を知って
る選手が上がってるかもしれないから、参考までに」
「う、うん…」
唐突に真面目な話をしたキイチに、直前にご褒美を確約された俺は、かなり照れたままモジモジと頷いた…。
小躍りしたいのを堪えて部屋を出て、モソモソと勝手に動く短ぇ丸尻尾を手で押さえつつ、足取りも軽く風呂場に向かう俺
は…、…やべぇ…、勃ってる…。
下っ腹の肉が張り出てるから、勃ってもどうせ目立たねぇんだけど、一応周囲を気にしてちょっとだけ前屈みになる。
風呂に誰も居なきゃいいんだが…、でなきゃちょっと冷まさねぇとまずいな…。
…この時の俺は、まだ知らなかった。
プリントされて、パソコンの横に重ねられた資料の一番上。
関東圏の代表の中に、今年の無差別級で台風の目になる男の名前が載ってる事には…。