第十八話「気が休まるやりとり」

ワイシャツに袖を通し、後頭部でツンツンしてる寝癖を、鏡でチェックしながら手早く直す。

気分は…、うん、悪くない。体調も良好。誰がどう見てもすっかり完治!

「キイチ〜、行くぞ〜」

「うんっ!」

部屋の出口から声が飛んで来て、僕は鏡の前を離れた。

僕、乾樹市。星陵高校一年生で、柔道部のマネージャーを務める猫。

少し前まで真っ白だった被毛は、だんだん薄黄色を帯びて来て、今ではもうすっかりクリーム色になってる。

その内に、昔みたいな黄色に戻るかなぁ?

「おまたせ!」

廊下側に立ってドアを押さえて待っていてくれた大きな熊の前に立ち、僕は鍵を取り出した。

ドアをロックする僕の手元を、上から覗き込むようにして眺めてるのは、幼馴染みでありルームメイトであり、恋人でもあ

る熊獣人、サツキ君。

軽率な行為が原因になって県大会前という大事な時期に風邪を引いてしまった僕を、見事全国行きの切符を勝ち取って帰っ

て来たサツキ君は、入念な観察の下に置いた。

熱は下がったし体調も良かったのに、昨日なんて学校を休まされそうになったし…。

今朝も起き出したばかりの僕に体温計を咥えさせた上で、額に手を当てて難しい顔をしながら熱をチェックし、息の音にま

で耳を澄ませ、あげくは胸に耳を押し付けて来た。

そんな執拗なまでのチェックをクリアした僕は、ようやくサツキ君にも完治したと認めて貰えたんだけど…。

「あ、キツいだろ?鞄持つか?マスクは持ったよな?」

「大丈夫だよぉ…」

ここ数日で急に心配性になったサツキ君は、他の皆が病人扱いを止めても、この通りあれこれと気を回してる。…物凄い過

保護ぶりで…。

まぁ、昨日なんかはトラ先生も朝のホームルーム後におでこに触って熱を確認して来たし、主将も何かと「大丈夫?」を連

呼するけど…。

僕は廊下を見回すと、僕らと同じく登校の為に廊下を歩いてる他の寮生を確認する。

…よし、皆あまりこっちを気にしてない…。

注意が向けられていない事を確認した僕は、まだ体調への気遣いを止めないサツキ君を手招きしつつ、口元に手を当てた。

…要するに耳を貸してサイン。

意図を察して少し腰を曲げ、身長差のある僕に耳を寄せたサツキ君へ、こっそり耳打ち…。

「今夜、約束してたご褒美ね?」

「うぇうおっ!?」

潜めたコショコショ声を聞くなり、サツキ君は変な声を上げつつ、弾かれたように顔を離した。

「ご、ごごご褒美ってそれ…!」

「しーっ!声おっきいよ!」

皆の視線が集まり、僕は慌ててサツキ君に注意を促す。

「わ、悪ぃ…。け、けけけけどお前、病み上がりでそんなっ…!」

「さすがにもう完治したってば」

あからさまに動揺しているサツキ君を促し、僕は廊下を歩き出す。

いつまでも部屋の前でコソコソ話をしてるのは、周りの目を引いちゃうし…。

動揺からか、動き出すのが少し遅れたサツキ君は、何故かちょっと前屈みになりながら後ろから追いついて来て、こそこそっ

と小声で囁く。

「…ほ、ほんとに平気なのか…?約束だからって無理しなくて良いんだぞ…?お、おお俺ぁ別に急がねぇんだから…」

「大丈夫だってばぁ…」

しつこく言い続けるサツキ君に応じながら、僕は寮を出て学校へ向かう。

いつものように二人並んで、いつものように言葉を交わし、いつものように空を眺めて。

抜けるような朝の空には、気楽そうにプカプカ浮かぶいくつかの白い雲。

県大会突破という目標の一つを成し遂げ、次の目標である全国大会はまだ先。

登校というありふれた毎日の一コマは、しばらく忙しかった僕らに休息の時間が訪れた事を象徴するように、何の変哲もな

く、どこまでも平和で、穏やかで気が休まった。



「ネギたっぷり入れた月見うどんとか、結構キくんよぉ?」

唐突に何の話かと困惑しながら首を傾げる僕の前で、大きくてふくよかなパンダ女子が、一人でウンウン頷いてる。

困惑している僕に、ササハラさんの横でベーコンレタスサンドを食べていた眼鏡の女子が助け船を出してくれた。

「…たぶんユリカ、風邪をひいた時に効果がある食べ物の事を言っているのよ」

「なるほど…」

シンジョウさんの説明に納得して頷いた僕は、

「そう。あたしも風邪ひくと食べるしねぇ。風邪ひかなくてもだけど。あ、ネギラーメンも良いね?考えてたら何かニンニク

ラーメン食べたくなって来ちゃったぁ」

料理も好きだけど、食べるのも好きなんだよねぇササハラさん。誰かさんと気があうはずだよ。

徐々に自分の食べたい物へと話をシフトさせて行くササハラさんに微笑を向け、僕はそのまま視線を横へ移す。

手すりに寄り掛かったジャーマンシェパードと眼鏡をかけた狐が、何やらケンケンと言い合ってる。

…午前中の授業の内容についてウツノミヤ君が解説を入れてたんだけど…、どうやら「飯時にまで小難しい話をすんじゃね

え!」と、オシタリ君が反発した模様。

そこから喧嘩腰の応酬になったみたいだけど…、まぁこれも日常の平和な、気が休まる風景…、

「…の前もギリッギリだっただろ!?いつからのんびり昼飯が食える程偉くなったんだキミは!?」

「うっ…!?うるせえっ!飯食うのに偉いも偉くねえも関係ねえだろが!?」

…気が休まらないかも…。オシタリ君の勉強具合…、今もまだ結構ヤバい?

「ぬはははっ!大変だなぁオシタリも!」

僕の横で大きなお腹を揺すって笑ったのは、自分も決して褒められるような成績ではないサツキ君。

…さっちゃんってば…、自分も中間テストはほぼ全科目がギリチョンだったのに、他人事みたいに言うなぁ…。

今日のお昼休みは、皆と屋上で昼食を摂ってる。

昨日は「風に当たると体に障るかもしんねぇからダメだ!」…って、サツキ君に止められたけど、今日は許可が下りた。

来る途中で学食行きのシンジョウさんとササハラさんを見つけたから、二人も誘って、こうしてわいわい過ごしてるわけ。

「シンジョウさんの方は、まだ忙しいの?」

話の合間に、ここしばらくの間、部活の取材や競技の勉強で何かと立て込んでいたらしい彼女にそう尋ねると、

「そろそろ落ち着くわ。なにせ県大会も終わったし、ゴタゴタもおさまったしね」

少し口元を緩めて微笑み、シンジョウさんが答えた。

ん?何だかすっきりしたような顔?

県大会前、例の容疑者アブクマ事件の後、シンジョウさんはさらに忙しそうにしてて、時々声をかけそびれるくらいに思い

つめた顔で何か考え込んでたんだけど…。

「ゴタゴタ?何かあったの?」

「あー…。まぁ、大した事じゃ無かったのよ。解決済み」

シンジョウさんはそう言うと、話題を打ち切るようにカフェオレのストローを咥えた。

事情を知っているのかいないのか、シンジョウさんのルームメイトであり親友のササハラさんは、話に興味も示さず豪快に

おにぎりを貪ってる。

僕はサツキ君と視線を交わしたけど、彼が軽く首を竦めて「まぁいいだろ」的なジェスチャーを見せたから、それ以上は追

求しない事にする。

僕らに話すべき事なら、その内に話してくれるだろうしね…。

「あ、そうそう…。イヌイ君に訊かれていた件だけれど…」

思い出したように口を開いたシンジョウさんは、昨日僕が訊ねた事について、一日で調べられた限りの結果を教えてくれた。

「…そう。やっぱり居ないんだ…」

僕が首を傾げると、サツキ君も眉根を寄せて不思議そうな顔つきになった。

「やっぱよぉ、今年になって急に強くなったとか、そういう選手なんじゃねぇのか?」

「う〜ん…」

考えながら唸る僕に、各種大会の資料が揃っている新聞部のデータベースで検索してくれたシンジョウさんが続ける。

「二年前まで遡ったし他の階級も当たったから、まさか見逃しは無いと思うけれど…、新人戦も含めて名前は無かったわよ?」

「サツキ君の言う通りなのかなぁ…?」

サツキ君と同じ無差別級で全国大会に出場する他都道府県代表の選手は、殆どが前年から活躍している強豪だった。

けれど、その中にたった一人だけ、この手のデータに詳しいイワクニ主将も、陽明のネコヤマ先輩も知らない選手が混じっ

てる。

祭玉代表になった三年生選手なんだけど、本人だけじゃなく、学校自体も柔道では無名だ。

「去年までのウチとどっこいどっこいなレベルの学校なんじゃないかな?」

とは、自嘲じゃなく素直な感想として主将が口にした言葉。

僕と主将だけじゃなく、シンジョウさんが調べてもなお、その選手の名前はどこの大会でも見つからない。

それまで公式試合で上位に食い込んだ事が無いっていう、確かな証拠ではあるんだけど…。

サツキ君が言うように、それまで埋もれてた選手が実力をつけて、ぱっと急に芽を出したのかなぁ?

土台が出来ていたとはいえ、春から今までで急成長したイワクニ主将も、去年と今年じゃまるっきり違うって、ネコヤマ先

輩も言ってたし…。一年で劇的に成長する事も無いわけじゃないんだよね…。

「…う〜ん…。どんな選手なんだろう?その………」

「むもっ?」

僕がその選手の名前を呟いた途端、どこからかくぐもった声がした。

「どうしたのユリカ?」

シンジョウさんが横を向いて首を傾げ、僕とサツキ君も視線を動かす。

おにぎりを頬張ってほっぺをパンパンに膨らませたパンダ。

その口が、咀嚼も忘れて止まってる…。

ササハラさんは、口の中の物を飲み込むのも忘れたように、しきりに首を傾げて何かを不思議がってた。

「何だよユリカ?俺達何か変な事でも言ったのか?」

サツキ君が訝るような顔になって訊ねると、急いで「ンゴキュッ!」と口の中の物を飲み込んで、ガブッと喉にココアを流

し込んだササハラさんは、相変わらず何かを不思議がっているような顔で「ん〜…いやぁ…」と、小声で呻く。

「名前、どっかで見たか聞いたかした事あるような気がしたんだけど…」

「え!?それってどこで!?」

僕が少し身を乗り出すと、しばらく考え込んだ後、ササハラさんは耳を倒して首を左右に振った。

「ん〜、ゴメン。たぶん気のせいだぁ…。柔道やってる知り合いなんてサツキしか居ないしさぁ」

済まなそうに謝るササハラさんに「あ、気にしないで」と応じつつ、僕は正体不明の選手についての考察を、ひとまず中断

しておく事にした。

むしろ優先して考えなくちゃいけないのは、去年から大活躍していた、実力がはっきりしてる他の強豪の事だ。

気になるってだけであれこれ想像してても始まらないしね。

シンジョウさんに調査はもう十分だと告げた僕は、お礼を言って話題を打ち切る。

ササハラさんはまだ何か引っかかっているように、それからも少し考え込んでいたけれど、やがて記憶を手繰るのを諦めた

らしく、豪快な食事を再開していた。

…ついに全国かぁ…。

本人はそれほど騒いでないけど、全国集会で誉められたし、地方紙にも写真載ったし、これって物凄い事なんだよね?

そうそう、サツキ君が気にしていた先輩も、見事全国に勝ち上がったんだった。

サツキ君やジュンペー君が、「キダ先生を除けば知り合い中で最強」って呼ぶ選手。

中学一緒だったし人柄は話に聞いてるけど、まだ僕が実際に話した事はないんだよねぇ…。

一体どんなひとなんだろう?イイノ君の恋人って…。

「覚えたって言ってんだろが!バームクーヘンだろ?」

「コペンハーゲンだ馬鹿っ!」

想いを馳せながら見上げる空に、ウツノミヤ君の怒声が響き渡った。



授業も終わり、寮に帰って来た僕は、サツキ君の居ない部屋でパソコンを立ち上げた。

今頃サツキ君は道場で主将と稽古中だね…。

マネージャー復帰を宣言した僕は、残念ながらサツキ君だけでなく主将にまでダメ出しされて、真っ直ぐ帰るよう言いつけ

られた。

「今日は軽い物に留めるつもりだから、すぐ終わるしね」

との主将の言葉を受けて、渋々道場を後にした僕の気分は…、言うなれば、仲間はずれにされた気分…。

パソコン弄って気を紛らわせつつ、サツキ君が帰って来るまでの時間を潰そうと考えた僕は、ドアがノックされるなり耳を

ピンと立てた。

もしかして、すぐ切り上げて帰って来たのかな?

一瞬そう思ったけれど、そもそもサツキ君なら、ノックしないでドアを開けて「ただいま〜!」って言うね…。

「どうぞー、開いてまーす」

腰を上げながら返事をした僕は、ドアを開けて「失礼」と中を覗き込んできた人物の顔を見るなり、「あれ?」と声を漏ら

した。

「邪魔しても構わんか?イヌイ」

ドアを押さえたまま僕にそう訊ねたのは、見上げるほど大きな雄牛…。

この寮の副寮監にして応援団員の、ウシオ団長だった。



麦茶のボトルからキャップを外した僕は、座卓の脇にどっかと胡座をかいたウシオ団長に尋ねた。

「練習、お休みだったんですね?」

「県大会に練習試合と応援も続いたものでな。今日のところは各自発声練習をするよう告げて、団としての活動は休養とした」

コップにお茶を注ぎながら訊ねた僕に、団長はそう答えてくれた。

ちょっと寂しくなってたから、このタイミングでのお客さんは有り難いなぁ…。

いっつも主将に空気読めないとか言われてるけど、今日は登場タイミングバッチリですよ、ウシオ団長。

「お休みって、団長が決めてるんですか?今日は休みとか、その日に?」

「いや、普段は前もって休みを決めとるが、今日はたまたまな」

「たまたま?」

「うむ。団員達の調子を見て、疲れとる者があまりに多いようなら、一日自主練習に切り換えて解散をかける事もある」

「へぇ…」

それって、団長の意図で変則的に休みを入れる場合もあるって事だよね?

ちょっと興味を持った僕の視線に気付いたのか、団長は口元にコップを持っていく途中で手を止めて、説明を加えてくれた。

「張り続ける一方では弓も楽器も弦が駄目になるのと同じ道理でな、弛む余地が無ければひともへばる。よって、時には調整

の意味で休みを入れる」

そう言ったウシオ団長は、冷たいお茶を美味しそうに一気飲みして、大きく息をついてから続けた。

「その点については、昨年度までのサトルはワシら同様とは言い難かった」

「主将が?」

意外に思った僕は、ほぼ反射的に訊ねてた。

主将はちゃんと僕らの体調にも気を配ってくれるし、計画的に休みも入れてくれるけど…。

「あいつは稽古の虫だからな…。昨年などは途中から自分一人だったという事もあり、大会が迫ればなりふり構わず過度な練

習をしては体を痛めとった。それで動けんようになっては、自分は駄目だとヘコんでなぁ…。熱心を通り越しとったが、ワシ

が忠告しても全く改善されんかった。「判った」と返事はしても行動に変化が無く、かと言ってワシも団の活動があるので放

課後常にサトルを監視しとる訳にいかん。オーバーワークは禁物と口で言いながらも、体を動かさずにおれん心理状態になっ

とったようだ」

「あ、あぁ…、なるほど…」

納得して頷いた僕に、団長は笑みを向けて来た。

「ところがだ。今年は後輩もおるせいだろうな、きちんと休みの日を作っとる。後輩を率いるおかげで無茶をせんようになっ

た。…これはイヌイとアブクマのおかげだ」

予想していなかった所から褒めに持って行かれて、僕は「い、いえそんな…」と、気恥ずかしく思いながら、背後で立てた

尻尾をプルプルさせる。

「気付けば話の順番が逆になっとったが…、そのサトルからイヌイが暇しとるかもしれんと聞いてな。せっかくだから話でも

しようかと、こうして邪魔したのだ」

「主将から聞いて?」

またも意外な言葉を聞いて目を丸くする僕。

主将、まさかとは思うけど…、仲間はずれにされた気分で寂しがっているかも…とか、そんな風に思って?

子供じゃないんだから、そんな事ありませんからね!?…まぁ、ちょっとは寂しかったけど…。

複雑な心理状態になっている僕に、団長は苦笑いして見せた。

「道場に稽古の様子を見に言ったら、イヌイは今日だけ念のために帰した事を聞かされてな。もっとも、ワシが見物しとると

気が散って稽古に身が入らんから、追い出されたのかもしれんが…」

「ん〜…。見られるだけでも気が散りますかね?いつだって僕もストップウォッチ片手に見てるのに…」

「声を出したくなるからな。ワシ」

…なるほど、それは確かに気が散りそうです…。

声出したくなるっていうのは…、応援したいって血が騒いじゃうのかなぁ?

空になった団長のコップにお茶のお代わりを注ごうとしたら、

「いや結構。自分でやるからそう気を遣わんでくれ」

と、僕の手はボトルを取り上げられる。

ドボボッとお茶を注いでグイッと一口飲んだ団長は、「それで…」と、口調を改めた。

「今日はその…あれだ。先日はゆっくり話もできんかった事だし、そのぉ…、お互いの状況と言うか何と言うか、その辺りに

ついて情報交換でもしようかと思ってだな…」

チラチラと僕の反応を伺いつつ、ぼそぼそとそう言った大きな牛に、

「そうですね。情報交換は有意義かもです…」

僕は微苦笑しつつ、団長に頷いた。

おっきな体をモジモジさせて恥かしそうにしてると、団長、何だかさっちゃんみたいでちょっとかわいいかも…。



僕と団長の情報交換は、終始和やかに進んだ。

団長から見れば、僕とサツキ君は初めて身近にできた同類であり、交際経験という面では先輩になる。

僕から見れば、団長は初めて実際に接した年上の同類。

僕は自分とサツキ君の付き合いの始まり…まぁ、僕の家庭に関わる事情は抜きにしてかいつまんで話して、勉強を見てあげ

たのをきっかけに親しくなって、サツキ君から告白されて付き合いだした事や、その後今までどう過ごして来たかについて、

時々団長からの質問を挟みながら、一通り説明した。

一方で僕が気になっている事というと、ウシオ団長自身の、耐え難い我慢を重ねて来たはずの二年間の事…。

同室の相手…つまりイワクニ主将に恋をしながら、二年間も正式な交際を我慢するという、とんでもない忍耐力が必要とさ

れたであろう団長の寮生活については、僕でなくとも興味は湧くはず…。

途中で我慢できなくなったりとか無かったのかなぁ?

「同室で二年間も我慢って、大変だったんじゃないですか?」

僕の疑問に、ウシオ団長は先っぽに房がついた尻尾で床をパタフパタフ叩きつつ、「ま、まあな…」と頷いた。

「何が大変だったと言えば、アレだ…、ムラムラ来た時が最も大変だった」

「あぁ…、それは…」

何となく判って頷いた僕の前で、団長は太く逞しい腕を組んで、困っているように顔を顰めた。

「サトルには先に本心を伝えてあったとはいえ、ワシがその…、サトルの事を考えながらナニをしとると実感されては…、ワ

シだけでなく向こうも気まずい…」

「返事を保留された状態だから…、間柄が複雑ですねぇ…」

「そうなのだ。…よって、本当は興味もないのだが、「真っ当な」スケベ本などをこう…、ダミーとして用意したりだな…、

いかにも他で気を紛らわせているから気にするなと言わんばかりに、しかしわざとらしくない程度に隠し場所からはみ出る程

度で目に付くよう配置したり…。思い返せば我ながら滑稽だが…、色々と気を遣った…」

頷いた僕に、団長は恥ずかしげに頭を掻きながら説明してくれた。

…やっぱりこれまで苦労して来たんですね…、団長…。

「しかしまぁ、先に言ったように昨年のサトルは無茶な練習を頻繁にやっとったからな、筋肉マッサージ程度は接触があった。

…不謹慎だが、同室であるが故に許された役得だな…」

「マッサージ…」

ちょっと恥ずかしそうに苦笑いする団長の前で、僕はオウム返しに呟く。

マッサージか…。筋肉マッサージを覚えておけば、マネージャーとしても役立つかも?

そういえば、去年ダイちゃんやジュンペー君と一緒にスケートに行って、全身が筋肉痛になった時には、サツキ君がマッサ

ージしてくれたっけ…。

「僕もマッサージ覚えたいんですけど、良かったら教えて貰えませんか?…それとも、ちょっとやそっとじゃ身に付かない程

度に難しいんでしょうか?」

「いや、ワシら素人レベルの簡単なマッサージなら、そう構える程に難しい物でもないぞ?もっとも、職にしようと考えて専

門的に勉強するとなれば別だろうがな。多少の疲労軽減や筋肉をほぐすだけの事なら十分」

「あ…、でも僕、握力とか無いからダメかも…」

「そんな事は無い。確かに多少疲れはするが、マッサージ効果そのものには腕力の強さはあまり関係せん」

「へ?そう…なんですか?」

意外に思って聞き返すと、団長はウンウンと頷いた。

「力さえ込めれば良いという物でもなくてな…。あまり強く負荷を与えても、揉まれる側が体を固くし、効果がいまひとつに

なるのだ。つまり、負荷に備えて力を込めてしまい、筋肉に力が篭ってしまう訳だな。この反応で筋肉痛を起こすのが、いわ

ゆる「揉み返し」というあの症状だ」

「あ、揉み返しって言うのは聞いた事あります」

「うむ。アレは揉み手が力を込め過ぎ、受け手が体を固くする事が殆どの要因だ。マッサージとは、相手が痛みを訴えるほど

キツく揉むばかりではない。むしろ相手が体を弛緩させる程度に優しく、緩く刺激してやる事が肝心なのだ」

「なるほど…。勉強になります…」

そういう事なら腕力の無い僕でも大丈夫そうだ。やり方を覚えておいた方が良いね。

「しかし…、イヌイの場合は大変だろうなぁ…」

ウシオ団長は面白がっているように口元を綻ばせ、耳を倒して僕を見つめる。

「ワシは相手がさして大きくもないサトルだから苦労せんが…、相手がアブクマでは手に余るだろう?」

「手に余るのは大きさだけじゃなく、お肉もなんですけど」

僕と団長は揃って、声を上げて笑う。

「こちらも体格差はあるが、マッサージするのがワシだったからな。苦にならんかったが…」

「ええ、僕は体力も無いし、たぶん物凄〜く疲れると思います。…あ。繰り返してれば体力つくかも?握力とか」

「がはははっ!違いない!初めの頃は案外イヌイの方が連日筋肉痛に悩まされる事になるかもしれんな?」

「その時はサツキ君にマッサージして貰…、あれ?これじゃ本末転倒になっちゃいますね…。あははっ!」

「がははははっ!」

僕と団長は再び声を上げて笑った。

…凄く気楽な感じ。ダイちゃんやジュンペー君と話していた時と同じ、同類に対する、警戒心が必要無い気が休まるやりと

り…。

団長も同じように感じてくれているのか、今日は普段よりずっと饒舌で、色々な話をしてくれた。

今になって実感し始めたけど、主将と団長が同類で、本当に幸運だった…。

こんなにも身近に理解し合えるカップルが居るなんて…。

ひとしきり笑いあった後、団長は「ところで…」と表情を改め、真面目な顔つきになる。

…が、直後に顔を伏せ、耳を倒して、尻尾で床をパタフパタフ叩きながらモジモジし始めた。

「マッサージの指南に対しての交換条件という訳でもないのだが…、そのぉ…、アブクマとイヌイのだな…、恋人としてのこ

う…、付き合い方というか…、で、デートの内容というか…、そういった情報について教えて欲しいのと…、できれば駆け出

しカップルへのアドバイスなど…」

大きくて逞しい体をモジモジ揺すり、ちらちらと上目遣いに僕を伺いながら、団長はそんな事を小声でブツブツ呟いた。

…団長、予想外にウブ…。

硬派なイメージはあったけど、恋愛には奥手なのかなぁ?

二年待たされても我慢できたのは、本人が奥手だったのも一因だったり…?

「だ、ダメか…?」

僕が考え込んでいると、団長が不安そうに尋ねて来た。

「い、いいえっ!ダメなんかじゃないですよ!僕で良ければ喜んで情報提供者兼アドバイザーになりましょうっ!」

「そ、そうか!恩に着る…!」

僕の返答を聞いた大きな牛は、嬉しそうに、そして少し恥かしそうに顔を弛ませた。

 …団長…。やっぱり所々さっちゃんと似てるかも…。