第二十二話 「僕のトラウマ」
舗装された土手の上には、爽やかとは言い難い、むわっと蒸した空気がたむろしていた。
太陽はかんかん照り。頭上には雲がない。そして風もない。
通り雨が上がった直後のアスファルトはほぼ乾いていて、そのくせ空気は異様に湿っぽい。
真夏の青空の下、麦わら帽子を被って自転車を漕ぐ僕の前には、
「はひっ!はひぃっ!うぇほえほっ!ぶはぁっ!」
息も絶え絶えにドスドスとよろめきながら走る、大きな熊の背中。
僕は乾樹市。星陵の一年生で、柔道部のマネージャー。
休日の今日は寮の自転車を借りて、サツキ君の自主トレに付き合ってる。
後ろから自転車であおるボクがチリンチリンと鈴を鳴らし、ペースダウンしている事を知らせると、サツキ君は元気を振り
絞ってラストスパートをかけた。
と、ほぼ同時に…。
「スパート行こうっ!」
『おうっ!』
右手の川面を滑るようにゆく一人乗りのボートの一団からも、ラストスパートの声が上がっていた。
スパートの号令をかけたのは、並ぶ四艘の内でやや前に出ているボートを操る、イケメン灰色狼。
同時にスパートがかかったのに、速さは段違い。ぐんぐんスピードを上げて後輩達を引き離す。
全国大会を間近に控えたシゲさんは、今までとあまり変わらない。春先と同様、後輩達の指導と自主練習が半々の割合だ。
三年生の引退に際して部長になるよう要請されたらしいけれど、柄じゃないからと辞退したそうだ。
何でも、責任を背負いながら指導するより、無責任に指導した方が気楽だから…との事らしい。…シゲ先輩らしいと言えば
確かにらしいかも…。
柔道部にはイワクニ主将が責任者として残ってくれているけれど、個人競技なら、普通は敗退した時に引退しちゃうんだよ
ね…。三年生なんだし、受験勉強や就職活動と、やるべき事は山ほどある。自分が好きだからと主将は言うし、僕らも有り
難いけれど、主将自身にとっては貴重な時間を僕らと柔道部の為に使ってくれてるんだ…。
僕は視線を前に戻して、サツキ君の背中…汗でびっしょり濡れて変色したシャツを見つめる。
こっちに来る前、自転車に乗る時はサツキ君やダイちゃんに荷台を押さえて貰ってたのに、柔道部のランニングで必要だか
ら猛練習した結果、転ばずに乗れるようになった。
それだけじゃなく、今ではもうチリンチリン鳴らしながら快適に走り、よそ見運転までできるようになってる。運動音痴の
僕にしては上出来だと思う。
実は、ランニングだけなら体力のない僕も走って付き合える。サツキ君の長距離走はそのぐらいローペースだから。
僕がわざわざ自転車に乗って付き合っているのは、こうやって後ろからあおる為だったりする。
一緒に走ってると、僕は背中を押したり手を引っ張ったりするから、サツキ君がそれに甘えるし。…軽くて力のない僕が引っ
張ったり押したりしても助けになんかならないけど、嬉しがってね…。
サツキ君は今にも倒れ込みそうだけど、土手上のサイクリングロード中央、車両侵入防止の金属柱はすぐそこだ。
「ゴールはすぐだよ!ほらファイトファイト!」
「へひっ!はひっ!えひっ!」
返事をする余裕もないらしいサツキ君は、ドスドスと巨体を揺すってポールを目指す。
やがて、ようやくたどり着いたゴールラインを越えたと同時に、
「はいゴール!」
「お…おふぁっ!…も、もう駄目…!」
サツキ君はがっくりと膝をつき、次いでべたんと俯せに倒れ込んだ。
今日も頑張ってる太陽に念入りにあぶられたアスファルトは、確かめるまでもなく相当熱いだろうに、俯せになったサツキ
君は「あぢぃ〜…!あぢぃ〜…!」と呻きながらも起き上がろうとしない。
自転車を降りた僕は、カゴに積んでいた保冷バックを開けて、ミネラルウォーターを取り出した。
「はい、お疲れ様」
「お、おおおぉう…!水ぅっ!」
サツキ君の顔の前で屈んでボトルをぶら下げて揺すったら、大きな手が伸びて来て、拝むように挟んでキャッチした。
そのままごろんと横に転がってあぐらをかいたサツキ君は、ボトルからもどかしげにキャップを外し、ゴップゴップと一気
飲みする。
サツキ君が休憩している間、僕は川の上をスイーッと滑ってゆくボートやカヌー、そして向こう岸の土手なんかを眺めて時
間を潰す。
…あれ?向こうの土手の上にもランニングしてる一団が…。
皆お揃いの短パンにランニングシャツ姿。…あの短パン、確か陽明商業の運動着だ。
ランニングシャツの胸には何か書いてある。部活のロゴでも入ってるのかな?字も大きくなくて、その上距離があって、こ
こからじゃちょっと読めないけど…。
体格の良いひとが多いなぁ。っていうか太ってる人が多い。何部だろう?
見知った顔は無いし、ネコヤマ先輩は今日は練習試合で遠征って言ってたから、少なくとも柔道部じゃないよねぇ?
先頭を走るのはずんぐり丸っこい猪。どこもかしこも太くて逞しいから、手足が短く見える。
あんな体型してるのに結構速いなぁ…。丸みを帯びた体を弾ませて、バテて来たらしい後続をちょっとずつ引き離してる。
やや長くなってる列を目で追った僕は、最後尾で視線を止めた。
ああ…、あっちにもサツキ君みたいなひとが居る…。
大男達が成す列の中でも一際大きい真っ白な犬が、舌を出して喘ぎながらどっすんどっすん走ってる。
白犬はかなり大きい上にとても太ってる。被毛もふさふさだから、周りの大男達の五割り増しぐらいボリュームがある。お
腹がどーんと突き出て、お尻もむっちり。
ランニングシャツ越しでも、胸やお腹がタップンタップン揺れてるのが遠目にはっきり判った。
遅れるのも納得。それはまぁ、あんな体してたら走るのは得意じゃないよねぇ…。
どうやら既にグロッキーらしい大きな白犬の隣を、集団の中で唯一小柄で細い犬が走ってる。
僕よりはさすがに背が高いだろうけど、それでもちびっ子だ。線が細くて華奢で童顔。…なんだか親近感…。
軽やかに走る柴犬らしきその男子は、白犬を励ましてでもいるんだろうか?自分よりかなり高い位置にある彼の顔を見上げ、
何か言っているみたいだった。
…和む眺めだなぁ…。
そして僕は和み気分を打ち切り、ぐてーっと仰向けになっているサツキ君に視線を向ける。
「そろそろ良い?」
「うぇっ!?も、もうちっと休ましてくれよぉ!」
情けない声を上げるサツキ君を仁王立ちになって見下ろし、僕は突き放すように「駄目」と答える。
「汗、どれぐらいかいた?」
「思いっきりかいてるって!」
「その割にはズボン変色してないよね?」
「してるって!ケツ汗と腹汗が全体に染みてるって!絞れるぐれぇ!」
慌てて身を起こしたサツキ君は、短パンの裾を摘んで見せる。…確かに、じっとりしてる…。
寝転がってたアスファルトにはサツキ君の形に汗が染みて、魚拓ならぬ熊拓ができあがってた。
「じゃあ一分だけ休憩延長」
「い!?一分だけ!?」
「不服?ならすぐ再開するけど?」
「いやねぇです!文句ねぇです!」
大きな熊は首をブンブン横に振る。
…ちょっと厳しいように見えるかもしれないけれど、このスパルタには訳がある。
ここで昨夜の事をちょっと振り返ってみよう…。
「いや壊れてんだってこれおかしいもんゼッテーおかしいってこんな数字出る訳ねぇって有り得ねぇからマジで」
体重計の上で、パンツ一丁の熊は必死になってそう言い訳した。
が、向き合って立つ僕は彼の顔を見ていない。
逆さまに見るデジタル表示を凝視して、言葉も出ない有様だった。
下を向いていた僕は、目眩を覚えてふらっと揺れ、すれすれにあった頭でサツキ君のお腹に触れた。
…指でつつけば際限なく沈み込む、底なし沼みたいなお腹に…。
「ねぇ…、サツキ君…」
僕の声は、自分でも意外なほど低くて、疲れが滲んでいた。
「お、おう…?」
「ひゃくきゅうぢゅうごって…何?」
「…な、なんだろな…」
僕はサツキ君のお腹に頭をつけたまま両手を上げて、柔らかい両脇腹のお肉をぎゅむっと掴んだ。
「ほんと…。何なの一体このお腹ぁああああああああああああっ!」
「うひぃっ!?いでででででっ!ちょっと待っ…!いでぇってキイチ!」
きつめに抓ってだぶだぶ揺さぶってサツキ君に悲鳴を上げさせた僕は、キッと顔を上げて恋人の顔を睨む。
「アイス食べ過ぎだって言ったじゃない!あれほど!」
「だ、だだだだって送られて来るからっ!それにキイチあんま食わねぇからっ!」
ああ…!恨みますお母さん!気持ちは嬉しいけど、大量に送られたアイスクリームはサツキ君をこんなに肥え太らせました!
「今日からしばらくアイス禁止!あとコーヒー牛乳もコーラも禁止っ!焼きそばとかパスタをおかずにしてご飯食べるのも禁
止っ!」
「ええええええええええええええええっ!?」
「えぇー、じゃないのっ!駄目!絶対!」
サツキ君のぼてっと垂れたお腹の下に手をあてがい、たぷたぷと揺すりながら僕は口調をきつくする。
「何この水袋みたいなお肉!?重くなってるもん明らかに!さすがにこれは痩せなきゃ駄目!夏太りって、体重落とすのかな
り大変らしいんだよ!?」
太ってる事も含めてサツキ君の事は大好きだけど、肥満症となれば別。
どの程度までがサツキ君の体にとって許容範囲なのかは判らないけれど、この短期間でのこの増量は絶対マズい。
その大半が、涼を取るために食べたアイスクリームや、がぶ飲みしていたジュース類で蓄積されたカロリーだもん。
しぶしぶながら約束したサツキ君は、しきりに僕の顔色を窺いながらこう言った。
「…あの…さ…。風呂上がりに食おうと思って買って来た雪見だいふくとピノが二つずつと、買い溜めしといた練乳バーが五
本ぐれぇ残ってんだけど…。あれだけ食っても良…」
「フシャーッ!!!」
「わわわ判った!判ったよぉきっちゃん!」
慌てて両手を振った大きな熊は、耳を伏せて哀しげに項垂れた。
早送りで回想を終えた僕は、腕時計を確認してパンパンと手を叩いた。
「はい、休憩終了!」
「…おう…」
おっくうそうに身を起こしたサツキ君は、明らかに重くなった足取りでランニングを再開する。
幼少時のトラウマのおかげで、一定距離走ると体温が異常上昇して大量に汗をかくサツキ君にとっては、体を絞るにはラン
ニング以上に効果的で効率の良い運動は無い。
主将は今日はお休みって言ったけど、今日から始めるダイエット!明日から〜なんて言ってたら、その明日がいつ来るか判
らないんだから。
汗だくになって走るサツキ君をチリンチリンとあおり、僕はプンプンしながらペダルを漕いだ。
「イヌイって、アブクマには時々厳しいよな?」
部屋を訪れた伊達眼鏡の狐は、事の次第を聞いて唸った。
アイスを食べにやって来たウツノミヤ君とオシタリ君は、僕の仕打ちについて語るサツキ君の話をじっと聞いていた。
「そうそう。俺限定で厳しいんだよコイツ…」
うんうん頷いたサツキ君は、隣に座る僕の肩に手を乗せて抱き寄せようとした。
「暑いしベタ付くからくっつかないで」
そっけなく言って手を払って逃れた僕がオシタリ君側に少し寄ると、サツキ君は傷ついた表情を浮かべる。
伊達眼鏡の奥の目を訝しげに細めたウツノミヤ君は、サツキ君に小声で尋ねた。
「…太った以外にも、イヌイを怒らせるような事、何かやらかしたんじゃないのかブーちゃん?」
「そ、そんな事…」
サツキ君は困ったような顔になってから、「あ」と声を漏らして目を丸くした。
「け、今朝方、寝起きで…、寝ぼけててキイチの尻尾握っちまったけど…。まさか…」
『尻尾?』
ウツノミヤ君とオシタリ君の声がハモる。
「尻尾がどうしたってんだ?」
「あっ!触んなオシタリっ!」
慌てて止めるサツキ君の制止は遅く、オシタリ君の手が僕の尻尾をそっとすくい上げる。
「ああ馬鹿!放せっ!放して謝れっ!」
顔を引きつらせて腰を浮かせるサツキ君を、オシタリ君とウツノミヤ君が胡乱げに見遣った。
「…あれ…?え?あれ?」
サツキ君はきょとんとする。僕が尻尾を触られても怒らないのが不思議だったんだろう。
「尻尾が…何だ?」
ウツノミヤ君が首を傾げ、オシタリ君はいつもの仏頂面のまま僕の尻尾をさわさわと撫でる。
「…お、おかしいなぁ…?何で怒んねぇんだキイチ?いつもなら…」
首を捻ったサツキ君は、四つん這いになって僕に近付き、手を伸ばしてくる。
ちょっと我慢してみた僕は、触れられた瞬間にやっぱり無理だった事を悟った。
体がカッと熱くなって、体中の毛がブワッと逆立つ。
「キシャーッ!!!」
「ぎゃぁああああああああああああああっ!?やっぱ怒ったぁあああああああああっ!」
「うおっ!?」
「何だ!?」
我慢できなくて反射的に威嚇した僕からサツキ君が慌てて離れ、オシタリ君が飛び退き、ウツノミヤ君が仰け反った。
僕のトラウマは、我ながらなかなか根深い。
ひょっとしたら、今日サツキ君にちょっと辛く当たってたのも、寝起きに尻尾を握られたからっていうのが、本当の原因な
のかも…。
「僕のトラウマ…なのかも…」
座り直した僕に、サツキ君が目を丸くしながら「トラウマぁ?」と問い返した。
「うん…。凄く昔の…」
頷いた僕はボソボソと応じたけど、サツキ君は不思議そうだ。…前々からそんな素振りも見せなかったし、たぶん覚えてな
いんだろうとは思ってたけど…、やっぱりね…。
「他のヤツは大丈夫でも、アブクマにだけ尻尾に触れられるのが駄目なのは、そのトラウマのせいなのか?」
ウツノミヤ君が興味深そうに少し身を乗り出し、僕は再び「うん…」と頷いた。
「何かひでえ事されたのかよ?アブクマに…」
「何もしてねぇよ!」
オシタリ君のじっとりした視線を向けられたサツキ君は、鼻息を荒くして言い返したけれど、
「…やっぱり、覚えてないよね…?」
僕が確認したら、「うぇっ!?」と顔を引きつらせた。
「おっ、おおっ、おおおおおお俺が原因なのかっ!?」
「イヌイに何したんだアブクマ?」
「おらっ!やっぱてめえが何かしたんだろがデブ!」
「し、してねぇよ!ってか知らねぇ!何だよキイチ!?俺何かしたっけ!?」
今更あんな話を蒸し返すのもどうかと思うけど…、やっぱり、話しておくべきなのかなぁ…?
「えぇと…。凄く昔の事なんだけど…」
僕はちょっと口ごもりながら、その事件について話し始めた。
僕らが幼稚園児だった頃、近所には、ザリガニがいっぱい居る場所が結構あった。
雑草だらけの休耕田とか、泥が分厚く底に積もった溜め池とか、用水路や排水路と、場所も種類も色々。
そんな環境だったから、辺りの男の子の遊びにザリガニ釣りがあるのは当然だった。
かくいう僕ら、サツキ君やケントも同様で、バケツと木の枝、糸とスルメを持って、何度も何度もザリガニ釣りに出かけた。
特撮ヒーローやアニメなんかの話をして、ふざけ合いながら暗くなるまでのんびりザリガニ釣りをするのは、当時の僕らに
はとても楽しい事だったんだ…。
そして、その事件があった日も、僕らはザリガニ釣りに出かけていた。
「ねぇ〜、けんちゃんはぁ〜?」
むっくり太った熊の子が、僕の後ろをテクテクついて来ながら首を捻った。
サツキ君はこの頃から既に立派な体格をしていて、知らない人が見ても、とても幼稚園児とは思えなかったらしい。
…もっとも、この頃のサツキ君は今とは全然違う性格で、人見知りで気が弱くて引っ込み思案で、大柄な体に見合わない、
大人しくてちょっと臆病な性格だったけれど…。
「でかけるときに、げんかんのカビンおっことしてね、こわしちゃったんだって。おかあさんおこってるから、きょうはおで
かけだめなんだって」
「ふぅん…。けんちゃんのおかあさん、おこってるんだぁ…」
今ではぼくにとってもお母さんだけど、ケントだけのお母さんだった時から、おかあさんは穏和なひとだった。だからサツ
キ君は、お母さんが怒っている所が想像しにくいみたいだった。
そんな事や、前日のテレビ番組について話しながら、二人で浅い用水路目指してとことこ歩いているその時だ。サツキ君が
「あ!」と突然声を上げたのは。
「ごめん。いとわすれてきちゃった…。すぐいくから、きっちゃんさきにいってて」
小走りに走って行くサツキ君に手を振って、僕は先に釣り場へ向かった。
深さ20センチ程度の水がよどんだ用水路は、1メートル程道より低くて、ゆるい傾斜の坂…というより段の下を流れてた。
僕は一足先に先に水辺に座り込んで、竿を水上に突き出して糸を垂らし、ザリガニを釣りながら待った。
釣竿と言っても、僕らのそれは、木の枝に白い縫い糸を結んで、先にスルメを結んだ物だったけど…。
結構長く待ったような気もするけど、サツキ君が来るまで、実際には短時間だったと思う。
息を切らせてどてどてと走ってきたサツキ君は、道の上から「まった〜?」と声をかけてきた。
ぼくは首を巡らせて「ううん」と答えたけれど、水の中から糸が引っ張られて、すぐに顔を戻したんだ。
「かかった…!」
声を潜めて僕が言うと、サツキ君は「やった!」と嬉しそうな声を上げて…、それから…、
「あわぁーっ?」
間延びした、悲鳴のようなビックリ声のような、変な声を上げてた。…僕には見えていなかったけれど、坂をずり落ちたら
しい。
僕やケントは正面むきにピョンっと飛び下りてたけど、サツキ君はそうするのが怖いらしくて、いつも後ろ向きに坂に四つ
ん這いになって、ずりずりっと滑り降りてた。
ところがこの時はバランスを崩して、ずり落ちたサツキ君はどしぃんと、盛大な音を立てて着地した。
が、僕はその時、地響きを伴うようなサツキ君の足音よりも、大きな、はっきりとした、致命的な音を聞いていた。
グボキィッ!
その音は、背骨を駆け上り、頚骨を伝い、頭蓋骨を通過し、脳の芯を直撃した。
…激痛と共に!
「あ〜、ビックリしたぁ…」
自分は無事でほっとしたようなサツキ君の声を聞きながら、僕は固まっていた。
って言うか動けなかった。あまりの痛みに。そして、自分の尻尾がどんな有様になっているのか確認するのが怖くて。
僕の尻尾を踏ん付けたままだったサツキ君は、ようやく気付いて「あ」と声を上げた。そしてそろ〜っと足を退けて…、
「わ…、ブーメランみたい…」
何ですとっ!?
どうやらブーメランのような有様になっているらしい僕の尻尾をしばらく見下ろした後、サツキ君はそ〜っと横顔を窺って
来た。
ズキズキジンジン尻尾から響いてくる痛みで動けず、表情まで凍り付いてる僕の顔を。
そして、僕が気付いてないと踏んだのか、やにわに屈んで僕の尻尾を掴み…。
「んっしょ…」
ボキュッ!
僕の全身の毛は、それまで以上にぶわっと逆立った。
サツキ君は、あろう事か、当時から既に備わっていたその馬鹿力を十二分に発揮し、容赦も遠慮も無く、力ずくで尻尾を元
通りに捻じ曲げた。
そしてサツキ君は再びそっと僕の横顔を窺い、
「ばれてないばれてない…」
そうほっとしたように呟きながら、僕の横にどすっと腰を下ろし、ちょっとまごつきながら太い指で木の枝に糸を結び、釣
り糸を垂らした。
「きょうは、こないだのけんちゃんのヤツより、もっともっとでっかいのつるんだー」
楽しげなサツキ君の言葉にも、僕は頷く余裕さえ無かった。
涙目の視界の中で滲んだでっかい西の太陽は、ゆっくりと傾いて行った…。
「…待てキイチ。…そ、それって…、マジ…?」
顔を引きつらせたサツキ君が、ドギマギしながら僕の横顔を窺って来た。あの時と同じように。
「大マジ。とってもマジ」
僕が神妙に頷くと、サツキ君は耳を倒しながら俯き、ぶつぶつと言う。
「…お、俺…、ちっとも覚えてねぇんだけど…?」
「僕あの頃、一週間幼稚園休んだ事があるんだけど…」
「ん?あ〜…、そういえば一回長く休んだ事があったような気もすんなぁ…。風邪か何か…って、えっ!?」
気付いたのか、サツキ君は目を大きくした。
「…つまりそれは、ブーちゃんに踏まれた尻尾が原因だったのか?」
それまで黙っていたウツノミヤ君がボソリと言い、僕はまたも神妙に頷く。
「脱臼してから強引にはめられた尻尾が、腫れて熱をもっちゃってね…。熱も腫れも一週間引かなかったんだ」
僕がため息混じりに言ったその直後、ぐるるるるっ!と、地面を這うような低い唸り声が耳に忍び込んで来た。
「てめえ…!自分の腹腫らすだけじゃ足りねえで、イヌイの可愛い尻尾まで腫らしたのかよ…!」
オシタリ君は獰猛に鼻面に皺を刻み、獰猛な声音で言った。…あの…。今さらっと口にした、可愛い尻尾って、何…?
「おおおおお俺の腹は腫れてるわけじゃねぇっ!ここここりゃ膨れてんだよっ!」
動揺しているのか、変な言い返しを試みるサツキ君。…膨れてるのが既に問題なんだけど…。そう反論するのはどうかと思
う。心底。
「うるせえドデブ!てめえ今朝もイヌイの尻尾を「ボキュッ!」ってやろうとしたんじゃねえのか!?ああんっ!?」
「する訳ねぇだろ馬鹿野郎っ!そもそもそんな事したのも忘れてたんだ!」
「覚えとけ!てめえのでかくて臭え足が、イヌイの尻尾を可哀想な事にしたんだろが!そんな真似した事忘れてんじゃねえ水
風船!どんだけ無責任だ脂肪袋!」
「お前嗅いだ事あんのかよっ!?臭ぇって何で判んだ!?適当言ってんじゃねぇぞ!」
「わざわざ嗅がなくても、鼻どころか目に来るものすげえ臭いがすんだよ!てめえが靴履き替える時とかよ!毒ガスかてめえ
の体臭は!」
「…おお…。ちゃんと辛辣な毒が吐けるじゃないかオシタリ…」
感心したように呟く狐に、エキサイトするシェパード&ベア。
取っ組み合いになりそうな二人を僕とウツノミヤ君で宥めて、今夜は早々と解散する事になった…。
「あの…よ…」
二人が自室に戻って間も無くの事。パジャマに着替え、寝支度を整えていた僕に、ブリーフ一丁のサツキ君は、顔と耳を伏
せて控え目に声をかけて来た。
「何かもぉ、ごめん…。トラウマ拵えた本人が忘れてたとか…、その時の事、今でも思い出せねぇとか…、ありえねぇよな…」
大きな体を小さくして、しょんぼりしながらサツキ君は謝った。
「いいよ、もう。怒ってる訳じゃないし、ほとんど反射なんだから」
僕は我慢できなくなって少し笑う。
サツキ君のしょげ具合が、僕自身がトラウマについて考える以上に深刻そうで、申し訳ないけどなんだか可笑しくて。
「言ってくれりゃあ良かったのに…。昔のソレが原因で、尻尾触られたくねぇんだって…」
「う〜ん…。時間が解決してくれればって思ってたし…。そんな小さい頃の事、わざわざ蒸し返さなくても良いかなぁって思っ
て黙ってたんだけど…」
一度言葉を切った僕は、肩を竦めて苦笑いした。
「克服しなくちゃね。もうボキュッてやられる事も無いだろうし…」
肩を落としてすっかり縮こまったサツキ君に歩み寄り、僕はぼよんと突き出たお腹を指でつついた。
「体重の事もあったけど、今日辛めに当たったのは、尻尾の事もどこかで引っかかってたからかも…。ごめんね?粘着質で」
おへその下、一番柔らかい部分をプニプニつつきながら言った僕に、サツキ君は「悪かったよ、どっちも…」と再び謝った。
「もう謝りっこ無し!僕もトラウマ解消の努力してみる!」
真下から顔を見上げて笑った僕に、サツキ君は、
「けど、どうやって克服とかすんだ?」
と、僕自身にも改善方法の心当たりが無い事を見透かしたように訊ねて来た。
「う〜ん?サツキ君が、この間貰った褌とか付けるようになったら改善するかも?」
「え?何で?ってかホントか?褌で?」
「うん。ホント。凄くホント」
僕が真顔を作ってまじめ腐って頷くと、半信半疑だったサツキ君はやっぱり冗談だと悟ったらしく、笑い混じりのふくれっ
面をした。
「まったく…。あんまりからかうと、手っ取り早く、弄りまくって慣れさせんぞ?」
サツキ君はそう言って僕をきゅっと軽く抱きしめ、柔らかな被毛と脂肪に少し沈んだ僕は、ぼてっとしたそのお腹に腕を回
して目を閉じる。
このボリューム…。手触りは良いけどやっぱりまずいよ…。減量はしばらく続けないとね。大会も迫ってるんだし…。
そんな事を考えていた僕は、唐突にお尻の先に走ったその感触で、ゾワッと全身の毛を逆立てた。
「キシャーッ!」
早速慣らしを始めようとしたんだろう、サツキ君に尻尾を摘まれた僕は反射的に身を固くし、脇腹に当てた手を柔らかなお
肉にガッとめり込ませる。
「ぎゃあああっ!いででででででで!いでぇえええええええええええええっ!ごめぇえええええええんっ!」
思い切り脇腹を抓られたサツキ君は、物凄い悲鳴を上げた。
…なかなか根深い僕のトラウマ…。改善も急には無理っぽいね…。