第二十七話 「おいでませ夏の東護大作戦の前哨戦」

 そんなに広くねぇのに、人数が少ねぇせいでやけに広く見える柔道場で、

『あしたーっ!』

 俺と主将、そしてキイチが揃って神棚に頭を下げる。

「ぶはぁっ!あぢぃっ!」

 礼をが終わると同時に顔を起こした俺は、すぐさま襟を掴んでバタバタ煽ぐ。入ってくる空気は温いが、風になってる分ま

だマシだ。

「サツキ君汗臭いっ!酸っぱ臭いっ!」

 煽いだ俺から流れた風を横で浴びたキイチが、即座に顔を顰めて逃げながらちょっとショックな事を言う。

「し、仕方ねぇだろ!?頑張った汗だ!青春の汗!」

 焦りながら弁解する俺と逃げるキイチを見て、主将と理事長が笑った。

「主将だって汗かいてんだぞ!?」

「主将は迷惑にバタバタしないもん!」

 迷惑っ…!?

「我慢できない暑さでもないし」

 顔は汗で光ってるし、息も上がってるけど、主将は苦笑いして応じる。襟バタバタもしねぇ。

 上座に座った理事長は、優雅に扇子で顔を仰ぎながらニコニコしてる。…暑くねぇのか?ずっとあの顔なんだけどよぉ…。

 更衣室なんてねぇから、いつも通りに道場の隅に行って、俺と主将は着替える。

 キイチは、俺達の着替えが終わるまでにさっさと掃除。一人でやらせんのは悪ぃけど、何せ稽古してるのが二人だけで、使っ

てる範囲も狭いからな、畳拭きもすぐに終わる。

 一学期が終わって夏休みに入ったが、俺達は今も寮に残って、全国大会目指して稽古稽古の毎日だ。

 集中力で暑さも吹っ飛ばす!

 …なんて息巻いてた夏前が懐かしいぜ…。我らがボロい道場は当然エアコンなんて付いてねぇし、風がねぇ日はとにかく蒸

す!窓も出入り口の戸も開けっ放しなんだが、今日は仔猫の鼻息程度にも風がねぇ炎天!

 …蒸すのは俺の体から出てる大量の汗が湿気に変わってるからだってキイチは言うが…、嘘だ。そんな事ねぇ。あってたま

るか!

「今日も凄く絞れそうだね」

 手早く掃除を終わらして戻ってきたキイチは、俺が脱いだ柔道着をじっと見つめて、まるで今まで考えてた事を読んだよう

に口を出して来た。

 …最近こうなんだよコイツ…。体を絞るためには常に意識しなきゃなんねぇとかで、デブってる点についてとにかくもうつ

つくつつく…。

「では、お疲れ様でした」

 小さめの発泡スチロール製保冷バックにドリンクと保冷剤を入れて持ち込んでる理事長は、俺達の着替えが終わると、一本

ずつプレゼントしてくれた。

 夏の間は結構時間が取れるとかで、理事長はマメに稽古を見に来てくれてる。でもって、毎回きーんと冷えたドリンクを差

し入れしてくれてんだ。

 たっぷり汗を掻いたあとの俺達には、この一本が何よりのご褒美なんだよなぁ!

 礼を言って受け取った俺達は、早速グビグビやる。内側どころか芯まで熱がこもった体に、冷えた水分がじわーっと染みて

来る気がする。

 こいつが、五臓六腑に染み渡るってヤツなんだろな。

 戸締まりは俺達に任せて、理事長はにこやかに手を振りながら、開けっ放しの出入り口から出て行った。

 …理事長は毎回こんな風に、終わるとすぐ行っちまうんだけど…。キイチが言うには、本当は忙しいんじゃねぇかって事だ。

何とか都合を付けて稽古に立ち合ってくれて、差し入れに来てくれてるけど、本当はあんまり余裕がねぇんじゃねぇかって…。

 主将も引退先延ばしにして付き合ってくれてんだし、理事長にもこうまでして応援されてんだから、なおさら全国じゃいい

トコ見せねぇとな!

 密かに気合いを入れ直し、麦茶をグビグビッと一気飲みした俺と、緑茶をチビチビ飲んでるキイチに、

「そうだ二人とも!午後からウシオと一緒にプールに行くんだけど、一緒にどうだい?」

 主将が思い出したようにそんな事を言った。

「プール…」

 呟いたキイチが俺をちらっと見る。

「隣町に新しくできた所、知ってるだろう?ウォータースライダーがある…」

「あ〜、済んません。俺達ちっとばっかし用事が…」

 せっかくのお誘いだったが、申し訳ねぇ気分で耳を倒しながら断る。

 …プールの予定…、あるにはあるんだが…。

「そうか。デートかい?」

「うえっ!?」

 さらっと訊ねて来た主将に、首を引いた俺は一瞬口ごもったが、

「そんな感じです」

 キイチは微苦笑しながらそう答えた。

 いや、デートじゃねぇだろ?…ん?デートになんのかこれも?



 雲がねぇだだっ広く青い空!被毛をじりっと焼く日差し!

 太陽に炙られたプールサイドなんか足の裏が焼けちまいそうにあっちぃっ!夏って感じがするぜ!

 一回寮に戻って着替えを準備した俺達は、飯を食って食休みした後、学校のプールにやって来た。

 今日は、キイチの苦手克服作戦!泳げるようになって東護でみんなで海行こうぜ計画の為にも、こっちに居る間に何とかし

たいってのが、キイチのお言葉!

 くぅ〜っ!俺ぁ嬉しいぜ!何たってあのキイチが、積極的に泳ぎの練習をしてぇって言いだしてくれたんだもんなぁ!

 ダイエットだなんだで世話になりっ放しだからな!ここらで俺もお返しに世話を焼いてやんねぇと!さぁ思う存分頼ってく

れきっちゃん!

 …けど、ホントはよ…、海が良かったんだよな…。

 夏の日差しの…ほれ、マリンブルーって言うのか?あの青と波のキラキラした照り返しなんて最高だろ?

 でも…、いきなり海ってのは、キイチがあんまり乗り気じゃねぇんだよな…。人前で無様なトコ見せたくねぇって…。

 だからまずは、公衆の面前を避けて、ひとが少ねぇプールで練習して、泳げるようになろうって話になった訳だ。

 別によぉ、海に行ったって綺麗に泳げなきゃいけねぇ訳でもねぇし…、傷が気になるのは判るが、濡れても良いシャツでも

着てれば良いじゃねぇか?

 …むしろ、濡れて張り付いたシャツと体のラインとか、俺としちゃドキッと来るスタイルなんだけどよ…。

「何ブツブツ言ってるの?」

 キイチが仔猫みてぇに可愛く小首を傾げながら俺を見上げる。

「いや、何でもねぇ」

「濡れたシャツが何?」

 …気付かなかったが口に出ちまってたらしい…。

「何でもねぇっての!お?」

 誤魔化しにかかった俺は、プールサイドの白いテントの下…日陰で椅子に座って団扇を動かしてる虎の大男に視線を止めた。

 だぼっとしたトランクス型のパンツを穿いた先生は、首から白いプラスチックのホイッスルを吊してる。

 今日の監視員トラ先生かぁ…。白衣とかワイシャツ姿ばっか見てるから、ああいう格好は新鮮だな。

「いやぁ、今日も暑いなぁ」

 しんどそうに言いながら肉が付いた顎の下をグイッと手の甲で拭う先生。

 …トラ先生の裸って、明るいトコではっきり見んの初めてだけど、オジマ先輩と同じで腹側が白くて縞模様がねぇ。虎って

みんなこんな感じなのか?

 けどちっと違う印象があるな…。太って腹が出てるせいなのか、白い面積がやたら広いんだよ。

 真正面から見ると柔っこそうな腹がデンと幅きかしてて、脇腹の隅っこにしか黄色っぽい毛との境界が見えねぇし。

 先生は、がらがらのプールを見遣って、「ほぼ貸し切りだぞぉ」とのんびりした…てか、ちょっと活きが悪ぃ声で言う。…

暑いの苦手なんだろうなぁ。俺も判るぜ、デブだから…。

「そうみたいですね…」

 眉根を寄せるキイチ。確かにガラガラだ。こんなに暑ぃんだからもっと混んでて良さそうなんだが…。

「何でこんな空いてんすか?」

「ん〜…。ほら、この間川向こうにプールがオープンしたじゃないか。ウォータースライダーなんかがある巨大レジャープー

ル。皆あっちに行くんだろうなぁ」

「あ、なるほど納得っす」

 …やっぱ皆あっち行くのか…。ただでも飾り気がちっともねぇプールより、金を払っても面白ぇ方に行きてぇもんなぁ…。

 俺達の他には同じ寮の虎…マガキ先輩と、太った白い豚の先輩と、鼻の下にちろっと泥棒のヒゲみてぇな模様があるちっと

小柄な犬の先輩しか居ねぇ。…マガキ先輩も腹側は白いんだな?やっぱ虎の黄色と黒の模様って外側だけか?

「アブクマとイヌイも涼みに来たのかぁ?」

「ん?あ〜、いや…。水泳の特訓かな?」

 応じた俺はキイチの横顔を見下ろす。

「俺じゃなくコイツのっすけど」

 そう言った直後にふと引っかかって、俺は言葉を切る。

 …あれ…?そういや、先生に知られるとまずいのか?

 キイチはプールの授業を免除して貰ってんだ。傷跡を見られたくねぇからって事で、親御さんから学校にお願いしてあると

かなんとかで…。もう毛も随分生え揃って、掻き分けたりしねぇとそうそう見えねぇんだけどよ、お日様さんさんなトコで水

に浸かって傷跡が出るのはやっぱ困るからな…。

 先生って、キイチの事どこまで知ってんだ?担任って何処まで知らされるんだ?

 プールの授業免除されてる理由は?傷の事は知ってんのか?キイチの本当の親と、今の家に養子に入ったって事は…。

 俺の視線に気付いたのか、キイチはくいっと顔を上げ、ちょっと考えるみてぇに眉根を寄せた後、「あ」と声を漏らす。

「先生は全部ご存知のはずだよ?実家の事も…」

 キイチの言葉に、俺はきょとんとした。

「ですよね?」

 見上げた顔の向きをそのまま変えたキイチに、先生は「うん」と頷いた。

「担任の私や校長、理事長には、ご両親からお話があったからなぁ。だがまぁ、他の先生方は知らない事だし、言うつもりも

ない。そこは信用しなさい」

 先生は柔和な顔をさらに緩めて笑みを作った。

「…ふぅ…」

 思わずため息をついた俺を、キイチと先生が揃って首を傾げながら見つめる。

「どうしたのサツキ君?」

「どうしたぁアブクマ?」

 俺は苦笑いしながら頬を掻く。だってよぉ…。

「なんか…、ホッとしちまった…」

「え?何に?何で?」

「どうしてだぁ?」

 口々に言う二人に、上手く言えねぇもどかしい感じを胸に抱えながら、俺は言った。

「何つぅか…、味方してくれる大人が、ここにも居たんだよなぁって…」

 ちょっと安心して、ちょっと嬉しかった。

 トラ先生は知ってる。理事長も知ってた。キイチの事を知って、力になってくれる大人が居るんだ。

 そう判ったら気が楽になって…。俺は、どっかでこう考えてたのかもな…。

 全部知ってるのは俺だけだから、キイチに何かあったら、俺が何とかしなきゃならねぇんだ、ってよ…。

 意識はしてなかったが、もしかしたらそれで肩張ってたトコもあったのかもしれねぇ。気持ち的に。

 キイチはちょっと黙った後、微かに微笑んだ。

 トラ先生は普段から細い眠そうな目を、糸みてぇにさらに細くしてた。



 さて、特訓なんだが…。俺、実は今回名案があるんだぜ?

「おっし!さぁ来いキイチ!」

 プールの中、ひんやり気持ちいい水に浸かったまま、俺はキイチに声をかける。飛び込み台におっかなびっくり登ったキイ

チに…。

 キイチは尻尾を太くして、毛を逆立ててビクついてる…。可愛いなぁおい!ギュッとやりてぇ!

「こういうのは慣れだ!度胸なんぞ慣れりゃ後からついてくる!飛び込んじまえば少々の事はおっかなくねぇだろ?」

 どうだこれ?我ながら名案だと思うぜ!

「どーんと来い!やばそうなら引っ張り上げてやるからよ!」

 ところが、キイチは飛び込み台の上で固まったまま動かねぇ。

「なんだよ?下は水だぜ?地面と違って硬くねぇし…」

「水だからこそ怖いんじゃないっ!」

 キイチが必死の形相で言う。

「痛くねぇだろ?」

「そういう問題じゃないのっ!高ければ怖いでしょ!?しかも泳げないんだからっ!」

 泣きそうなキイチ。可愛いけど…、困ったな。動けそうにねぇ…。

 一回ドボォンって飛び込んだら、「あ、何故だか考えていたよりもおっかなくなかったや!ははは!」的にハードルを乗り

越えられると思ったんだけどよ…。

 そこで、困ってる俺の視界の横側から、ぬぼ〜っと黄色と黒の太い先生がキイチに近付いてった。

「まぁ、不慣れな内に飛び込みは、やっぱり怖いだろうなぁ」

 先生はそう言いながら、固まってたキイチの手を取って、飛び込み台から下ろしてやる。

「けどよぉ先生、最初にハードル高ぇの経験しちまえば、少々の事は平気になんじゃねぇすか?」

「ん〜…。一理あるなぁ」

 先生はたっぷり顎を引いて頷いた。ほらな!

 キイチを見遣って胸を張った俺は、

「が、それがトラウマになると、そこから先が続かなくなったりもするからなぁ」

 トラ先生が続けたそんな言葉で目を丸くした。

「え?ダメっすか?」

「場合に寄りけり、本人次第だとは思うんだがなぁ。無理矢理やらせてすっかり嫌になる子も居る訳だし、こうまで嫌がるな

ら、ソフトに行くべきかなぁ…とも、思う」

 ぐむむ…!そういうもんか…!

 キイチは先生を味方だと思ったらしい。後ろ側に回って俺から隠れて、横からこそっとこっちを見る。

 …ショック!物凄ぇ不信の目!俺ぁお前の為を思ってやってんのに!っつぅか先生を障害物にして隠れんな!こっち来いよ!

 そんなキイチを、先生は困ったような笑みを浮かべながら振り返った。

「基本中の基本という事で、だ。まずは水遊びから初めてみるかぁ?」



 先生が言う事にゃ「基本的に子供は水遊びが好きだ」と。遊んでる内に水に慣れて、気付けば泳げるようになってるかもし

れねぇって。

 そんなこんなで、俺と先生はプールの中からキイチを手招きした。

 深さだって、とことん小柄でちんまいキイチでも爪先立ちで顔が出るぐれぇなんだし、問題ねぇ。…はずなんだが…。

「どうしたキイチ?」

「大丈夫だぞぉイヌイ」

 プールの上り下り用についてる梯子を掴んで、片足を水に突っ込んだまま、キイチは固まってた。…こりゃ相当だぜ…。

「…水自体が怖い…という事じゃないんだよなぁ…?」

 トラ先生が胡乱げに訊ねて来て、俺は顔を顰めながら頷く。

 泳げねぇってだけで、水恐怖症じゃねぇ。あくまでも傷を見られたくねぇからプールに入らなかっただけだ。泳げねぇのは

元々運動音痴だったからで、何かが心に傷を作ってそうなったって事じゃねぇはず…。

 そういやユウト姉ちゃんはトラウマがなんたらで泳げねぇって聞いたけど…、親戚なのにあのひとの事はあんま知らねぇん

だよなぁ…。カナヅチで帰国子女とか、そのぐれぇしか。

「イヌイ。ひとの体は水に浮くんだ。足だってつくんだから、怖がる事は無いぞぉ?」

 トラ先生の優しい語りかけで物思いを中断した俺は、「そうだぜキイチ。重いけど俺だって浮くんだぜ?」と合いの手を入

れる。

「私も浮力には自信があるぞぉ?何せ天然の浮き輪スーツを着ているような物だからなぁ」

 リラックスさせようとしたんだろう。冗談めかして胸の辺りを太い指でつついて見せる先生。が、キイチはこっちを見よう

ともしねぇ。プールサイドの汚れをじっと見てる。表情も浮かべず…。

「俺だってそうだぜキイチ!浮き袋なんか目じゃねぇからな!だははははっ!」

 胸を張って腹を突き出して見せる俺。けどやっぱりキイチは見向きもしねぇ…。カチコチに固まったままだ…。

 …仕方ねぇ、こうなったら…!

 ザブザブ水を掻き分けて傍に寄った俺は、キイチを背中側から捕まえて、無理矢理引っ張った。

「キシャーッ!」

 よほど怖ぇのか、振り向いて牙を剥き威嚇するキイチ!

「落ち着け!足がつく深さなんだよ!足が!」

 まずは水の中で立つ事から始めさせようとしたんだが、キイチがやたら暴れて話を聞かねぇ!

 手足をバタバタさせて水しぶきを上げまくるキイチに、正面から近寄ったトラ先生が、

「大丈夫だイヌイ。ほら、ちょっと立ってみよう。な?」

 そう声をかけたが、俺の手の中で暴れまくってたキイチがツルッと滑った。

 タポン。

 両手を前に出したまま、俺は下を向いた。

 先生も下を向いて、水中に沈んだクリーム色の猫を…ってか、コポコポ浮いて来る泡を見つめる。

 ………。

 キイチぃいいいいいっ!?浮いて来ねぇええええっ!!!

「き、キイチどうしたぁっ!?つくだろ足!?」

 慌てて水中に手を突っ込む俺とトラ先生。浮いてくる泡が当たる感触の中、細い腕を掴んだ俺は、即座にそれを引っ張り上

げて…、

 ガリッ!

「はぬぁっ!?」

 水の中から飛び出した、やたらめったら振り回される手で鼻を引っ掻かれる!

 俺が仰け反ってる間に、浮上してバシャバシャしてるキイチをトラ先生が捕まえ、抱き上げる。ナイス先生!

「あ。痛っ、いたたたたたたっ!」

 ところが、キイチを抱き上げた先生が痛がり出す。鼻を押さえながら何事かと見つめると…、キイチが先生に爪を立ててし

がみつい…うぉおおおいっ!?

 必死の形相の猫は太った虎の右胸と左脇腹に手を伸ばしてるが、力が籠もりまくって指が毛皮に食い込んでるっ!

 トラ先生のたっぷりした右胸は、キイチの細い指にギリギリ食い込まれて、深ぇ溝が五本できて形を変えてる!左脇腹のた

ぷんとした肉も、同じく爪を立てて食い込まれて…!

 キイチの指が細ぇからなお痛そうに見える!

「痛い、痛い痛い痛い!お、落ち着きなさいイヌイ!いたたたたっ!」

 苦痛で顔を顰める先生。だがキイチは言う事を聞こうとしねぇ!やめろおい先生からピュッピュ血ぃ出んぞ!

「放せキイチ!落ち着け!」

「放したら死ぬじゃない!」

 返事が来たと思えば…、ダメだコイツ!冷静さがまるっきり無くなっちまってる!

「と、とにかく一回プールから上げんぜ先生!」

 俺はキイチを後ろから掴み、無理矢理引っぺがしてキイチを自ら上げようとしたが…、

「キシャーッ!」

「痛い痛い痛い!アブクマ!引っ張っちゃ痛い!」

 一体どこにこんな力があるってんだコイツ!?キイチの指は先生の贅肉にガッシリ食い込んで外れねぇ!火事場の馬鹿力っ

てヤツか!?

「せ、先生も一緒に動いてくれ!キイチちっとも剥がれねぇっ!」

「シャーッ!」

「痛っ!いたたたたたた!…あ?あ、ち、違う方で痛っ!いたたたた!足!足攣った…!」

 ガラガラで静かだったプールは、急に騒がしくなった…。



 っくぁ!痛ぇ!鼻ヒリヒリする…!

 プールサイドに座り込んだ俺は両手で鼻を覆って呻いた。

 その横では…。

「まことに申し訳ございませんでした…」

 胡座をかいて攣った足を両手で揉んでるトラ先生に、土下座して詫びるキイチの姿。

「いやいや、大丈夫だとも」

 俺達と先生の周りには、騒ぎに気付いて助けに来てくれた先輩方が立ってる。

 マガキ先輩はいつものむっつり気難しそうな顔で、白豚先輩はちょっとおどおど心配そうで、泥棒髭の犬の先輩は呆れ顔だ。

 マガキ先輩は俺がキイチを引っ剥がして、押し上げるのを手伝ってくれて、白豚先輩と泥棒髭先輩は足を攣ったトラ先生を

プールから上げてくれた。…自力で梯子を登れなくなってた先生を押し上げるのは重労働で、結局途中から俺とマガキ先輩も

加わって、でけぇケツを押し上げたけどな…。

 冷静さを取り戻したキイチは平謝り。

 …結構コイツの事判ってやれてるつもりだったけど、まさかあんな取り乱し方するとは思わなかったぜ…。

「泳ぎの修練か」

 一通り俺から事情を話したら、マガキ先輩は難しい顔でボソッと呟いた。…修練って言うとやたら堅苦しくて重苦しいな…。

「喧嘩でもしてんのかと持った…」

 これは泥棒髭先輩。…まぁ、何も知らねぇで見たらそうも見えるかもなぁ…。

 しかしよぉ、どうしたら良いんだ?こんなんじゃ泳ぎの練習にならねぇぞ?

 困りまくる俺が、鼻を押さえたままウンウン唸って考えてると、

「ヤスキ」

 マガキ先輩が白豚先輩を見遣って声を掛ける。

「う、うんっ?なんです?」

 黙り込んでキイチを見下ろし、何か考えてた風の白豚先輩は、マガキ先輩を見返して首を傾げた。

「昔はカナヅチだったと、前に言ったな?」

「です。浮く事は浮くですけど、泳げなかったです」

 白豚先輩が頷くと、マガキ先輩は少し考えてから再び口を開いた。

「どうやって克服したか、その時少し聞いた覚えがあるが…。その方法で慣らしたらどうだろうな?」

 そう言ったマガキ先輩は、キイチと俺を順番に見て、「身長差があり過ぎるか?」と呟く。

 ん?何だ?何するって?



 五分後。

 キイチはプールの中に居た。白豚先輩におぶられて…。

 最初はまぁ嫌がったが、さっきのあの騒ぎで反省したんだろう。渋々ながらも言われた通りに、白豚先輩におぶられる事に

なった。

 白豚先輩はキイチをおぶったまま、プールの端をゆっくり歩いてる。

 …これが、先輩方が言う泳ぎの練習の準備なんだと。

 贅肉がタプタプついてて幅はあるが、白豚先輩はそれほど背が高くもねぇ。おんぶされてるキイチは肩胛骨の下ぐれぇまで

水に浸かってる。

 俺がおぶるとこうは行かねぇ。あんまり水から体が出ててもダメらしいから、白豚先輩が適任なんだと。おぶられてる側も

水にしっかり浸かる状態にしなきゃいけねぇとかで…。

 最初は白豚先輩の白い体を血の赤い筋だらけにしちまうんじゃねぇかとハラハラしたんだが、キイチは頑張って我慢してる。

 そうしてしばらくした後、白豚先輩はキイチに声をかけた。

「あの、どうですか?何となく、水の中で体が軽い気がしませんか?」

「え?あ、は、はい…!」

 カチンコチンのキイチに、白豚先輩は続ける。

「足がこう、ふわーっとです、浮く感じとか…、あの、判るですか?」

「…な、何となく…」

 頷くキイチは表情も声も硬質!いつ爆発するか心配で気が気じゃねぇ俺は、すぐにでもキイチを引っぺがせるように、先輩

のちょっと後ろをついて回る…。そのまた後ろを、首の後ろで手を組んだ泥棒髭先輩が、面白がってるみてぇな顔で追いかけ

て来る。

 ところが、俺の心配をよそに、キシャー爆発はいつまで経っても来なかった。

 それどころか、キイチの顔から強ばりがちょっとずつ消えてく。

「安心できる状況から浮力を実感させる…。という事らしい」

 プールサイドでマガキ先輩が先生とボソボソ話してる声が、ちょっと耳に入った。

「アイツは親父さんにそうされて、浮く事を実感してから泳ぎの練習を始めたそうだ」

「なるほどなぁ…。経験者の話ほど頼りになる物は無い、か」

 先輩、トラ先生とため口?ちょっと意外だぜ。ウシオ団長ともやたらお堅い敬語で話してんのに…。

 だがまぁ、この行動のいみがは判ったぜ。「浮く」って事を確認させながら慣らすって事だな?なるほど、なら俺がおんぶ

してケツから上が水から出ちまってたら確かに効果はねぇや。

 ちょっとオドオドしてる白豚先輩と、まだ硬いキイチは、そのまま長い間、プールの端を何周も回ってた。



 そして、三日後…。

「おーおー、すっかり慣れたんじゃね?」

 泥棒髭先輩は目の上に手でひさしを作り、プールサイドから水面を見下ろしてそう言った。

 今日もガラガラのプールの中で、キイチは後ろ向きに歩く白豚先輩に両手を捕まえて貰いながら、バタ足の練習中。

 あの先輩、シロアンってあだ名らしい。白くてあんこ型だからシロアンだって。相撲部らしいけど、四股名の延長でそうい

う風に付けられたとか…。

「いいよぉ。上手上手。その調子ですよぅっ」

「は、はいっ!」

 水にちょっと慣れて、シロアン先輩にすっかり慣れたキイチは、一生懸命可愛くバタ足特訓を続ける。

 …ああいう役やりたかったな…。先輩が羨ましいぜ…。

「少し泳げるようになれば、後は一人でも練習できるでしょう」

「そうだなぁ。付き合って貰わなければならないのも、もう少しだなぁ」

 マガキ先輩の言葉に応じて、トラ先生が満足げにウンウン頷く。

 …やっぱ敬語だよなぁ?あん時ため口きいてたみてぇに思えたのは、俺の聞き間違いだったのか?

「はい、ちょっと休憩するですよ」

 立ち止まったシロアン先輩が、慣性で進んできたキイチを抱き止める。

 うお!あの役やりたかったぁっ!先輩が羨ましいぜっ!あれ本当は俺の役…!

 やわっこい白にむぎゅっと抱き締められて、ホッとしたように表情を弛ませて笑うキイチ。

 …俺の役…。

「随分懐いたっぽいな」

 泥棒髭先輩が笑う。

「…っすね…」

 元気無く相槌を打つ俺。

 俺、阿武隈沙月。星陵の一年で柔道部所属。胸元の三日月に夏の日差しを浴びながらプールサイドに呆然と佇み、誰かを特

訓すんのって難しいって事を思い知った熊。

「先輩。もう少しやってみます!」

「う、うん。頑張ろうですよぅ」

 …俺の…役…。