第二十九話 「はるばる来たぜ!」

ぶわっと浮いた主将の体が、宙で少し体勢を戻しながら尻から落ちて、背中が畳に付く。

一本…。試合終了だ。

受け手が半回転する豪快な内股を決めたのは、強豪、醒山学園柔道部の選手だ。

ひょろっと背の高ぇ人間なんだけど、細身な割に腕力もある。おまけにあのリーチだ。ちょいと小さめな主将からするとや

り辛ぇだろうなぁ…。

投げられた主将はきょとんとしたような顔…いや、感心してんだろうなぁ、あの表情は…。

手を借りて立ち上がった主将は、「どうも…」と少し恥ずかしそうに笑って、相手もつられてちょっと笑った。

開始のラインに戻って一礼した二人は、それぞれ左右に別れて試合場から出る。

しっかし、本当に全国屈指の強豪校なんだなぁここ。選手層も厚いぜ。あれで一年生の補欠かぁ…。

改めて驚いてる俺を、傍らのキイチが見上げてきた。

「サツキ君、疲れたりしてない?」

「ん?普通だと思うけどな…。何でだ?」

「だって、飛行機で随分興奮してたから…」

戻って来た主将にドリンクを渡してくれたキイチがそう言うと、主将も苦笑いした。

「子供みたいだったもんなぁ、アブクマの興奮具合は」

「いや、そんな事ねぇって」

否定した俺は、

「…もしかして、結構ウザかったっすか…?」

 思い直して二人に訊いてみた。

「ウザいとは言わないけど…」

「可愛かったよな?」

クスクス笑うキイチと主将。…可愛かった…?

ま、まぁとにかく…、はるばる来たぜ!醒山!

俺達は今、道北のスポーツ名門校、私立醒山学園の柔道部にお邪魔してんだ。

強豪中の強豪、名門中の名門、獣人王国北街道でも常に三本指に入り続けてるこの柔道部は、俺はよく知らねぇけど、オジ

マ先輩やイイノからすれば何が何でも入りてぇ進学先だったらしい。

で、今は全国前のラスト稽古中。理事長が話をつけてくれたおかげで実現した、あっちの部と合同での最終調整中なんだ。が…、まぁそれはひとまず置いといてだ…。

聞いてくれ。

飛行機はすげぇ!俺みてぇなのを乗せても飛ぶんだぜ!?しかも北街道まであっという間だった!

飛行機で飛んだ距離の方がずっと長ぇのに、電車の乗り継ぎとか駅での待ち時間を合わせた方が長かったぜ。不思議な感じ

だよなぁ!

俺はデブだから椅子二つ占領しちまったし、中央の席右二つだったから窓も遠かったけどよ、それでも凄ぇんだぜ!景色が!

窓の向こうで変な具合に傾いたと思ったら、すぐ見えなくなっちまって!便所行くふりして外覗いたら、信じられねぇぐれぇ

下にあんだよ!地面が!

ぐ〜って体が椅子に押し付けられたあの感触も凄ぇモンだったし、あれに乗ってる内に星陵も東護も海峡もずっと後ろに置

いてって、北街道までひとっ飛びだもんなぁ…!つくづく凄ぇ!

機内食ってのか?飯も食えたんだけどよ、そう美味ぇモンでもなさそうなのにやけに美味かった。食ってる場所が雲の上だ

からか?不思議だよなぁ…。

お代わりしようとしたら「食い過ぎだ」「具合悪くなる」「トイレ近くなる」って、キイチに止められちまったんだけど…、

もうちっと色々食ってみたかったな。滅多に経験できねぇんだし…。

「あ。サツキ君、次の次だよ?準備して」

キイチの声が、夢見心地の俺を現実に引き戻す。

合同練習の締めに試合形式で順番に対戦してんだけど、こっちは選手二人、向こうは大勢なもんで、大半は向こうの選手同

士が対戦してる。

でもまぁ、主将なんか「宝の山だ…!」って目ぇキラキラさせて試合に見入ってるし、俺もハイレベルな試合で見取り稽古

できるから結構満足。

「おし、行ってくる」

頷いた俺は…、向こう側に相手選手の姿を探して…、お?

「あれ?」

キイチの声が、歩き出した俺の耳を後ろから撫でる。

たぶんキイチは俺と同じトコを見てる。俺と当たるはずだったセントバーナードに何か言って代わりに入った、ゴツい虎を。

…へっ…!嬉しい真似してくれんなぁ…!

順番待ちで足を止めた俺に、試合場向こうの虎はニコリともしねぇで視線を向けて来る。

鋭ぇ視線。険しい顔。懐かしいなぁ…、あんたとキダ先生にしごかれた毎日を思い出すぜ…!

記憶の中に焼き付いてるあの頃の姿より一回り逞しくなった先輩は、しばらく俺を見つめた後、屈伸して体をほぐし始めた。

道北の若虎…。今じゃ先輩はそうあだ名されてるらしい。俺が勝ちてぇと心底思った二人の一方、尾嶋勇哉先輩は…。

去年は、一年生なのに並み居る強豪を薙ぎ倒して、北を掻き回したってイイノから聞いてる。話に聞くだけじゃ俺の頭で理

解すんのは難しいけどよ、アイツが話してくれる先輩の武勇伝で、どんだけ胸の内側が熱くなったか…!

こっちで揉まれてますます強くなった先輩と試合できんだなぁ…!

あとちょっとの我慢だってのに、体がうずうずして来るぜ…!

俺にとってはかなり長い待ち時間…ほんの数分がジリジリ過ぎて、前二組の試合がやっと終わる…。

俺は腹が大きく膨らむほど、すぅ〜っと深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。

…おし、そんなに緊張してねぇ。良い具合に体もほぐれてるぜ。

へへ…!別に本番って訳じゃねぇけどよ、オジマ先輩と試合なんて今じゃそうそうできねぇし、公式戦じゃ階級が違って当

たらねぇからな!気合の入り方は、やっぱ普通の乱取りとか試合形式の稽古とは違って来るんだよ!

 バシンと両手で頬を叩き、いつも通りに気合を入れた俺は、オジマ先輩より先に大股で試合場の真ん中へ向かう。オジマ先

輩は少し遅れて中央に寄って、ほんの数メートル先で立ち止まった。

 試合場中央で向き合った俺と先輩は、合図を待って睨み合う。

 力んでもねぇ、静かに立ってるだけのオジマ先輩からは、あの頃と変わらねぇ迫力が滲み出てくる…。

 懐かしいなぁ…。こうして久々に向き合うと、柔道覚えたてで滅茶苦茶に揉まれてた頃を思い出すぜ。

 ジュンペーに基本教わって、このひとに散々投げ飛ばされて、気が付いたら柔道にのめり込んでたんだよなぁ。

…良い先輩だった。口数も少ねぇから、主将と違って口で丁寧に説明してくれたりなんかしなかったけど…。来る日も来る

日もしごかれて、何で嫌にならねぇのか自分でも不思議だったっけな…。

オジマ先輩は140キロ級。でかくてデブな俺と比べりゃ50キロ以上軽いし、体だって小せぇ。なのに、あの頃だって今

だって、こうして向き合うと馬鹿でかく見える。

たぶんそいつは、静かな気迫と肌で感じる力量のせいだろうな。

オジマ先輩の体は筋肉の塊だ。

骨太な上に贅肉がねぇムキムキの体格は、馬力も瞬発力も超一級品…、おまけに技術もトップクラス。俺が勝ってるのは体

重と単純な腕力ぐれぇのもんだ。

 先輩があれからどんだけ強くなったのか、俺がどの程度追いつけたか、確かめるまたとねぇ機会!…なんだが、明日の試合

の事考えて、無茶すんなって釘さされてんだよなぁ…。

まぁ、荒っぽいのは抜きにして、丁寧に試合するか!サボっちゃいねぇって証明しねぇと!

「はじめ!」

「おぉーっ!」

 あっちの先生の合図で、俺と先輩は同時に構える。

 声を上げて、両腕を肩の高さで大きく広げる俺と、無言のまま腕を俺よりちっと前向きに伸ばしたオジマ先輩は、間合いの

探り合いも無しに踏み出して、歩み寄った。

 組手争いは一瞬。掴みかかった俺の右袖をオジマ先輩の左手が取る。

 スピードで負けんのは百も承知だ。とにかくこっちも掴んでおかねぇと良いようにやられちまうからな。

 胸元に伸びて来たオジマ先輩の右袖を落ち着いて捕まえに行く俺。が、内側に逃げる袖を掴み損ねて襟を取られちまう。…

馬鹿っ速ぇっ…!

 仕方ねぇから右肩の位置で道着を掴んだが、その時にはもう襟を掴んで拳になったオジマ先輩の右手が、俺の弛んだ胸にめ

り込むようにして押して来てる。

 まずい!と思ったその時には、襟を掴んだ自分の右手に吸い寄せられるようにして、オジマ先輩が反時計回りに回転しなが

ら俺の懐に入り込んでる。

 足が畳から殆ど離れねぇ、独特の摺り足で移動する先輩の体から肩を掴んだ俺の左手が外れる。手首の内側に向かって回ら

れたせいで力がかからなくなっちまった!

 おまけに掴まれた右袖が引かれる。俺の体は左半分を押されながら右腕を引っ張られる格好になり、さらにちっと右側へ前

のめりになった。

 腰を落として踏ん張りを利かせた俺を、懐に入って体の右側を押し付けた状態から、先輩の体が跳ね上げにかかる。

 背負い投げだ!俺の両足が畳から浮いた。それも、簡単に…!

「っく!」

 間一髪、俺は咄嗟に足を絡めに行った。オジマ先輩の右足にやや後ろから絡ませる格好になって、何とか体勢を崩して投げ

を防げたが…、あっぶね…!自分でも上出来の反応だったおかげで助かったけど、秒殺されるとこだったぜ…!

 何とか堪えた俺は、先輩を抱える格好で捕まえ、崩れた体勢そのままに押し潰しにかかる。本当は立ち技の方が得意なんだ

が、この位置関係から寝技に持ち込みゃ俺が有利だからな。

 つんのめる格好で後ろから俺に組みつかれた先輩は、受け身を取って畳の上に転げながら体を回した。そして畳に膝をつい

て、半分俺に向き直る形に身を捩ってる。…何て反射神経とスピードだよ!潰せねぇ!

 体がでけぇのにやたら素早い先輩は、尻尾をひゅんっと向こう側で翻しながら俺の右腕を極めにかかる。

 この時点で、先輩が俺に押し倒される格好から、俺が先輩に引き倒される形に優劣が変わってる。相変わらずの化物ぶりだ

ぜ…。けどなぁ…!

「ふん!」

 俺は先輩に取られた右腕を引きながら、中腰の姿勢でぐっと堪えた。寝技に引き込む格好になってた先輩の体がガクンと止

まる。それに反応して先輩が身を捻りつつ、膝を立てようと足を動かしたが…、ここだ!

 俺の左手が、畳を踏み締めようとした先輩の右踵を後ろから刈るように払う。尻餅をつくオジマ先輩の目が、ほんの少し見

開かれた。

 ネコヤマ先輩相手にたっぷり稽古したからな。柔軟で速ぇ選手と対戦した時の備えはバッチリだ!このまま襟を取って…、

「ふっ!」

 先輩の呼気が耳に届いた瞬間、俺は目を見張った。片足を払われて前に出して、もう片足が脛で畳に付いてるその状態で、

先輩の胸が、取ったばかりの襟が、俺の手から離れて遠ざかった。

 嘘だろ!?腰の力だけ!?一緒に跳ねさせて、反動で体を後ろに逃がした!?くそっ、襟を浅くしか取れなかったせいもあ

るが、こんな…!

 馬力には結構自信があるけどよ、俺じゃ体が重過ぎてこんな真似はできねぇ。尻餅をつきそうになった状態からケツで後ろ

に跳ぶようなもんだぜ!オジマ先輩のボディバランスだからできるんだろうが、度胆抜かれちまった…!

 俺の袖を掴んだまま、腰を引いて中腰になる格好で足を戻して立ったオジマ先輩は、すっかり体勢を整えてる。隙がまるで

ねぇ…!

 けどまぁもう一回仕切り直しだ!袖を掴まれたままの腕を振り解くように引いて、それでも掴まれたまま外れねぇ事を確認

しつつ、俺はどしっと大きく踏み込む。

 そいつを読んでたように、畳につく直前の足にオジマ先輩が出足払いを仕掛けて来たが…、ここだ!

 俺の足に、オジマ先輩の足がかかる。が、思い切り体重をかけて踏み下ろす俺の足はちょっとやそっとじゃ動かねぇ!

 オジマ先輩の足払いが止まって、俺の足はしっかり畳を踏み締める。足が弾かれる格好になったオジマ先輩は、流石にあの

摺り足で移動できねぇ…!

 逃げられねぇと踏んで掴みに行った俺の手が、それでも身を捩ったオジマ先輩の胸元を掠めて襟を掴み損ねた。

 ギラッと光る虎の両目。反撃のチャンスと思ったんだろうが…、こちとらハナから襟なんぞ狙ってねぇ!

 俺の肩を掴みに来た先輩の腕は無視して、そのまま腕を伸ばし、腋の下に入れる。オジマ先輩がハッとしたように目を大き

くしたが、久々で忘れちまったかな?俺の十八番!

 肩を取られたまま腋の下に腕を入れ、そのまま体を寄せるように深く突っ込む。

 踏み込んだ足はそのまま…、脇に入れた腕で持ち上げる…、上半身を回すようにして腰に乗せて、腰の後ろで転がすように

反対側へ投げる…。

 俺が柔道を始めたきっかけ…、キダ先生にぶん投げられた最初の技、大腰っ!

 確かにかけやすい技でも、手軽な技でもねぇが、俺はどんな投げよりこいつが一番得意だ。

 回転に巻き込んだオジマ先輩の両足が畳から離れる。俺の腰の後ろに乗った先輩の腰が確かな重みを伝えて来る。

 このまま反対側に投げ落と…ん?

 俺は一瞬、妙な感覚で気が逸れた腰の後ろが急に軽くなって、肩に重みが…。

 一拍おいて、俺は失敗に気付いた。

 肩を掴んだままのオジマ先輩は、そこを支点に自分の体を引っ張って、投げから抜け出してた。

 自由になる場所を残したまま強引に行ける相手じゃなかった…。後悔した矢先に、回転が半端なままの俺が体勢を戻すより

早く先輩が着地した。そして腋の下に入ったままの俺の腕を掴み直し、するっと身を捻って懐に深く入り込んで…。

 …やられた…!

 袖を引かれ、腕を前へ、そして下へ引かれ、俺の体もそこに引き込まれる。

 一本背負い。

堪える事もできねぇまま、俺の図体は先輩の上を飛び越す形で宙を舞った…。



「すっげぇ強くなってんなぁ、オジマ先輩…。良いトコ見せられなかったぜ」

「だろう?でも、アブクマはむしろ良い勝負をしていたんだぞ?ウチの部員じゃもう手が付けられないからな」

 廊下を歩く俺の隣で、分厚い肩を竦めた猪は、良く通るバリトンボイスで喋りながら困ったような顔で笑った。

数か月ぶりに会うんだが、肩幅が広くなって胸の厚みが随分増したような気がする。名門校だから稽古厳しいだろうし、何

より先輩にしごかれてんだろうなぁ…。

 悔しいけど完敗だぜ。ちくしょ〜、差ぁ縮んでねぇなぁ…。広げられた気までするぜ…。

 俺達は今、醒山学園校舎内を見物して歩いてる。

合同稽古終了後、理事長から自由行動して良いって言われて、こっちに進学してる同郷の古馴染み…イイノに案内して貰っ

てんだ。…まぁ、見物だけが目的じゃねぇんだけどよ…。

 しかし、星陵も大概だがこっちもでけぇ学校だなぁ…。何かワクワクしちまう。隅々まで見て回りてぇ気分だ。

俺が感心しながら高くて広い廊下を見回してる間にも、イイノの話は続く。

「先輩があんまり強過ぎるおかげで、同階級の連中は上に行ける見通しが全くない。嬉しい事はまぁ…、嬉しいんだけれども

なぁ…。これも困った物でなぁ…」

「そいつは…」

 お前も含めてか?と言おうとした俺は、言葉を飲み込んだ。先輩と鉢合わせして沈められた事、イイノは結構気にしてるっ

ぽいからな…。

 その代わりじゃねぇけど、イイノとは俺を挟んで反対隣を歩いてるキイチが口を開く。

「でも、イイノ君もかなり強い選手なんでしょ?サツキ君も常々そう言ってるし、さっき主将も「上手い」って言ってたし…」

「残念だけれど、それでも全然及ばないんだ。あの先輩には」

 苦笑いしたイイノは、「それにしても…」と、ふと思い出したように言う。

「久々に会うのに柔道の話ばかりだな?お互い」

「ぬはははっ!言われてみりゃそうだ!」

 俺は頭の後ろで腕を組みながら笑い、キイチも「そうだねぇ」と顔を緩めた。

「イイノ君はどうなの?先輩と上手く行ってるの?」

「ん?う〜ん…、まぁボチボチかな」

 そう応じるイイノは照れ笑いしてる。

「ぬふふ…!ボチボチなんてモンじゃねぇんじゃねぇのか?ええおい!良い塩梅でひっついてんだろ!?寮生活だしよぉ!邪

魔が入らねぇ部屋で毎晩お楽しみ…イデェっ!」

「やだこのスケベ!」

 キイチが尻をギュゥッと抓って、俺は飛び上がった。

「アブクマ…、本当にスケベオヤジっぽかったぞ今の?」

 イイノは呆れ顔。キイチは不機嫌面。…あれ?俺言い過ぎた?

「節度を守っているさ。何せ相手はあのオジマ先輩なんだぞ?」

 …言われてみりゃそうか…。いちゃいちゃしてるトコなんていまいち想像できねぇもんなぁ…。

「じゃああれか?結構ほったらかしにされてんのか?」

「そうでもないな…。なんだかんだでいつも一緒には居るし、忙しくさえなければ向こうから寄ってくる。まぁ、判り易いい

ちゃつき方をしてくれないだけで…」

 イイノは考えながらそう言って、ちっと恥ずかしがってるように目を細めた。

「大事にはしてくれてる。…まぁ、時々柔道に嫉妬するけれどな」

 そんなイイノの言葉でキイチは「え?」と首を傾げたが、俺はすぐに判った。

 オジマ先輩の柔道好きは、やっぱ恋人が妬く程なんだなぁ…。

「で、そのオジマ先輩は何でウチの主将を連れてったんだ?」

 俺が気を取り直して訊ねると、キイチも頷いて「会った事無いよね?」と不思議そうに言う。

 そう。稽古を終えて着替えた後、ふと目を離した隙に主将が居なくなってたんだ。

 で、また普通に更衣室ん中に紛れ込んでた理事長が言うには、オジマ先輩に連れられる格好でどっか行ったって…。

「それはたぶん…」

 イイノはぽつりと呟いてから、少しの間黙り込んだ。

 妙な沈黙が俺の不安を煽る…。なんてったって相手が相手だからな…。

「何だよ?はっきり言えって」

 俺が急かしてもイイノはなかなか続きを喋らなかったが…、

「…たぶん、話をしたかったんだろうな…。アブクマの先輩に興味があったらしいから…」

そう、大きく二回頷きながらしみじみ言った。

「主将に?オジマ先輩が?」

キイチが訊ねて、俺もちょっと疑問に思った。

口にはしなかったが、主将はオジマ先輩の興味をそそりそうな強い選手じゃねぇ。おまけに階級が違うばかりか人間だし、

公式戦で当たるはずもねぇ。だからオジマ先輩が興味を持つのは不思議だった。

「うん。前々から言っていたんだよ」

イイノは俺相手とはちょっと違う、少しやわっこい口調と笑顔になって、歩きながら俺の腹越しにキイチを覗き込んだ。

「ネコムラは…ああいや、今は…イヌイ…だっけ?」

「うん」

「イヌイはまだ良く判らないかもしれないけれどね、柔道に限らず大半のスポーツっていうのは、身近に上手い奴、強い奴が

居るかどうかって事が凄く重要なんだよ。つまり、切磋琢磨できる相手が居るかどうかって事がさ。日常的に稽古できる相手

に強い奴が居るのはかなり大きい」

「何となく判る気がする…」

 キイチが頷くと、イイノは「それなら理解できるんじゃないかな?」って、口元を緩めた。

「けなすつもりはないけど…、そっちの主将さん、柔道は上手いし丁寧だけど、あまり強くない」

「…まぁ、そうだな…」

 イイノは悪気があってこういう事を言うヤツじゃねぇから、俺は複雑な気分になりながらも頷く。

「だからだよ。だから先輩は気になるんだ。弱小校に進んだアブクマが弱くなっていない…それどころか強くなっていたのは、

きっとそっちの主将さんの手腕があっての事だろうからさ。…っと」

 イイノは言葉を切ると、「そこに居るかも…」と顎をしゃくった。

 ちっと向きを直したイイノの視線は、食堂って書かれたプラスチックの札が天井近くで張り出してる、両開きの扉が開けっ

放しの部屋。中から話し声が聞こえて来る。

 イイノを追いかける格好になってついて行った俺とキイチは、そっと覗き見した猪が「しっ」と口元で指を立てたから、顔

を見合わせてから壁際に寄った。

 そして、俺がイイノの上から、キイチがイイノの下から、顔を三つ縦に並べて中をこっそり覗き見る。…傍から見ると馬鹿っ

ぽい不審者三人組だよなこれ…。

 食堂の中にはちらほら生徒の姿がある。その中には、他の連中からちょっと離れて座る主将とオジマ先輩の姿も…。

「どんな話をしてるんだろうね?」

「それは…、柔道の話じゃないかな?やっぱり…」

「何か照れてんぞ主将」

「褒められたのかな?」

「かもしれない。先輩の顔つきと態度からじゃ判り辛いけど…」

「あの…、イイノ君?ごめんちょっとお腹で押されてるんだけど…」

「あ、ごめん。アブクマ、腹で押されているんだが…」

「おう悪ぃ。ってか結構窮屈だなこの姿勢…」

 なんて、覗き見してる俺達がごねてると…、何だか照れてるっぽい主将が頭を掻きながらこっちを向…しまった!

 一斉に引っ込んで壁に隠れた俺達の耳に「アブクマ?イヌイ?」と、主将の訝しげな声と、「こらイイノっ!」と、オジマ

先輩の怒鳴り声が届く。…見つかっちまった…。

 観念してしぶしぶびくびく出て行くと、オジマ先輩がイイノをギロっと睨んだ。

「邪魔はするなと言っただろう?」

「いや、邪魔する気なんてこれっぽっちもないんですけどね…」

 イイノは居心地悪そうに首の後ろをもそもそ掻く。その様子を何か考え込んでるような顔で眺めてた主将は、

「…あっ!もしかしてきみ、イイノ君!?」

 と、ちっとばっかり声を大きくした。

 助け舟が入った気になったらしいイイノは、ホッと表情を緩めて主将に顔を向け、「はい、そうですが…?」と応じる。

「アブクマと同じ中学で主将をやっていたっていう、イイノ君!?」

「ええ。…そうか、コイツから聞いていたんですね?」

「そうか!きみがオジマ君と一回戦で当たって玉砕したっていうイイノ君か!」

 ちょ、主将ぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!?

 ちっと興奮気味っつぅか、納得ビックリ顔って言やぁ良いのか、とにかく何だか喜んでるっぽい主将は…珍しく口を滑らし

たっ!

 ず〜んと暗くなって項垂れたイイノの半開きになった口から、ため息が長く漏れ出る…。

「あ…、ご、ごめん!」

 失敗に気付いて慌てた主将が謝ったが、キイチが耳を倒しつつ「あ〜あ…」って声を漏らして、俺はイイノにじとっとした

目で睨まれて、軽く仰け反る…。

 やっぱ相当気にしてんだコイツ…!昔からくじ運悪ぃけど、それも含めて…!

「…そんな事までバラしてんだぁ?アブクマ…」

「うぇっ!?い、いやその、ちっと口が滑ったっつぅか…、…とにかくゴメン…」

「…ダメ…。許してやんない…」

 主将が申し訳なさそうな顔になったが、傍に寄ってったキイチが大丈夫だって耳打ちする。

「…それでイイノ。何を覗き見していた?」

 俺を目で責めてたイイノは、しばらく黙ってたオジマ先輩がそう口を挟んだら首を縮めて頭を掻いた。

「え?い、いやそれは…。オジマ先輩ってほら、顔から体付きから存在から何から何まで怖いから…」

「大きなお世話だ…」

 フンと鼻を鳴らしたオジマ先輩だが、イイノは先を続ける。

「だからアブクマとイヌイの大事な先輩を、普段から無駄に発散させてる迫力で無駄に警戒させてるんじゃないかと心配になっ

て…」

「うっ…?巨大なお世話だ…」

「だから…」

「もういい」

 手を上げてイイノを黙らせようとしたオジマ先輩だが、

「それにしても、先輩にしては珍しく、いつになく饒舌だったんじゃないですか?どんな話をしていたんです?」

 表情を変えた猪にそんな風に訊ねられて、小さく鼻を鳴らす。

「昨日のフィギュアスケートについてだ」

 ぜってぇ嘘だ。

 俺、阿武隈沙月。星陵高校一年、柔道部の熊。

 はるばるやって来た決戦の舞台…道北では、知り合いが居るせいか、なんだかんだ言ってもリラックスして過ごせてる。