第三十一話 「最高の先輩だ!」

 顔を両手で挟むように、思い切り叩く。

 バシィン!と響いた音と刺激が、脳みそを叩き起こして気合を入れ直させる。

 真っ直ぐ見つめる試合場。…次の出番だ…!

「さぁて、行って来るぜ!」

「うん!」

「ファイトだアブクマ!」

 歩き出した俺の背中をキイチと主将の声が叩いた。

 俺は阿武隈沙月。星陵高校一年の熊。柔道部。

 全国大会個人戦、三回戦。…ここまではまぁ順調だったって言えるんじゃねぇかな?

 調子はいい、たぶんここ数ヶ月で一番のコンディションで、完璧に万全の全力。今日だったらオジマ先輩相手でも一本勝ち

決められそうだぜ。

 主将もキイチも、応援に来てくれたオシタリとか、取材に来てるシンジョウとか、ここまで監督やってくれたユリちゃんと

か、醒山のヤマトさん達も、ここまでの試合には満足してくれてんじゃねぇかな?

 …ただ、問題はココだぜ。

 俺が、反対側から対戦相手が、同時に試合場に上がった。

 三回戦の相手は猪だ。

 印象は…丸い。とにかく丸い。ただし贅肉で丸いんじゃねぇ、筋肉で膨れて丸いこの肥り方は、まるで鉄の球みてぇだ。ク

レーンで吊って建物を壊す、あの鉄球。

 神原猪太。

 何か色んな競技で名前が出てる、成績優秀なスポーツマンらしい。そりゃあすげぇ戦績らしいが、俺が気になるのはそういっ

た実績とか成績とかじゃなくて…。

 試合場の真ん中で相手と向き合う。気合バッチリの猪は、俺より背は低いが「デカい」。のしかかって来る重圧が段違いに

重くて分厚くて、肌がピリピリしてくる。

 ただ、あっちもたぶんちょいと緊張してる。きっちり警戒してこっちを窺ってる。強敵認定はお互い様ってか?

 息を確認する。手、足、問題ねぇ。集中は…できてるな。相手と審判、色違いの畳以外目に入らねぇ。いつでも行ける。

 ちょっとワクワクして、思い切りピリピリして、俺は待った。

 そして、はじめの合図。

 両腕を上げて体をさらに大きく見せる、いつもの構えで声を出す。

 相手のカンバラ選手は…、「おう!」って気合の声を出しながら、…え?何で腕が真横?通せんぼの格好か?

 何か妙にしっくり来ねぇ格好だけど、本人もそうらしい。少しぎこちねぇ遣り難そうな構えで、柔道の足運びじゃねぇ普通

の踏み出し方で、隙だらけで前に出て来て…うお!?

 カンバラ選手が俺の袖…つまり、威嚇する熊っぽい格好で上げてる腕に、上向きに掴みかかって来た!

 おい!何かおかしいだろそれ!?普通は襟とかに手を伸ばすだろ!?って、やりにくそうな顔してんなアンタ!?いや、そ

りゃやり辛いだろうよ俺もやり辛ぇよビックリして手も足も出なかったよ!

 普通なら仕掛けるチャンスだったのに、ある意味不意打ち喰らわされた俺は、警戒も半分あって何もやれなかった。そして

結局、軽く跳ねてまでして袖を取って来た相手に合わせて、仕方ねぇから袖を取り合う形で組む。

 俺の右手とカンバラ選手の左手が、お互いの袖を掴み合って繋がった格好だ。…と来れば、襟を取って…。っと!?

 気付いたら、俺の左肘の下で道着が掴まれてた。そして、猪の体がグンと回転して…、

「お!」

 息が漏れて喉を擦って声になった。猪は俺の道着を捕まえた二点保持で、回転に引っ張り込んできた。

 目で畳を追う。…危ねぇ、間に合う!

 遠心力でブン投げられそうな勢いの回転に合わせて、俺は掴んだ襟を引きつけながら腕を抱えて、足を絡ませてのしかかり、

相手もろとも畳に転げた。

 判定は…有効!?危ねぇ!

 マジかこりゃ!?あんな勢いで190キロある俺の体振ったら、普通は指が外れんぞ!?どんだけ鍛えりゃこんな握力にな

んだよ!?アルかコイツ!?

 …ん?アル?

 ダチのシロクマの事を思い出した俺は、一瞬で血が冷えた。

 あのプレッシャー…、このひともアイツと同じって訳か?けど、問題はだ、アルと違ってその…、動きが柔道から離れ過ぎ

てて読めねぇ…!素人みてぇに突拍子もねぇ動きすんのに、仕掛けて来る技は変形してたり雑だったりすんのに、どれも喰らっ

たらヤベぇ…!何だこれ!?ものすげぇ遣り辛ぇぞ!?

 寝技の追撃を警戒したら、…腰引いて離れられた。結構体勢悪かったのに…。勝手が違い過ぎるぜ…!

 お互い立った状態に戻って、気を取り直してこっちから仕掛ける。袖を取り合って掴み合ったままだ、とにかく揺さぶって、妙なペースに巻かれねぇように…。

 …ん?

 足払いをかけられて堪え直した俺は…、何かまた違和感に頭の毛を引っ張られた。足払いは重い。ジンジン来る強烈さだ。

…が、何か堪え難い?単に払われんじゃなくてこう、足を跳ねられるんじゃなく、ずらされるって言うか…。いや!今は攻め

だ!攻めろ攻めろ!踏み込んで攻め勝て!

 畳を擦って低く足を送る。投げが変な具合で凌ぎ難いのは判った。けど、こっちの投げにはどう対処…って、足払いか!

 今度はきっちり反応できた。打点をずらして掠らせて…。

 足の外側に浅く衝撃が走った次の瞬間、俺の脚が前に泳いだ。…どうなってんだ?払われた途端に、足が何かで引っ掛けら

れたみてぇに前に行くぞ…!?

 しかも、相手は畳に根っ子生えてるような踏ん張り。足腰が滅茶苦茶強ぇ!揺さぶりあいながら様子を見るが、時々グッと

押されて不意に体勢を崩される!

 足払いからまた引きこまれる。打つ手がねぇんじゃなく、手を出すタイミングが掴み辛ぇ。おまけに動きが判り難くて調子

が掴めねぇ。この遣り難さが何とかなれば…。

「アブクマ!」

 集中してる俺の耳に、声が入った。雑音の中から、それだけがはっきり…。

「新人に胸を貸すつもりで行け!」

 主将の声でハッとする。

「新人の後輩と組んだ時の事を思い出せ!指導した時の事を思い出せ!ちぐはぐでたどたどしい所は同じだ!」

 …ああ、そっか!そうだったのかよ!ぬはははははっ!

 主将のアドバイスでモヤモヤが吹っ飛んだ。

 そうだよ。この選手、柔道単体で見るとそんなに上手くねぇんだ。俺が遣り難くなっちまうのはそのせい…。だったら!

 腰を少し低めに構えて、重心を落として落ち着く。中学の頃、柔道始めたばっかの後輩に稽古つけてやってた頃を思い出し

ながら。いろいろ居たもんな、予想外の動きをしてくるヤツは…!

 出される手と足をよく見る。

 袖狙い…、いなす。

 出足払い…、すかす。

 引きこみ…、踏ん張る。

 そっからの押し込み…、ここでこっちが引きこむ!

 袖を引きつつ足を払ったら、カンバラ選手がグラッと大きく横に崩れて尻餅をついた。

 判定は…有効!おし、まず一つ返したぜ!

 コレで良いんだ。動くのは見てからでいい。予想もできねぇ変な動きを無理に読もうとするから引っ張られちまうんだ。相

手のペースに無理に付き合う事はねぇ、全国まで来て変な話だが、駆け出しの後輩に胸を貸す気分でやるとしっくり来る。

「行けアブクマ!相手を休ませるな!寝技なら有利だぞ!」

 また、歓声を貫通して来る主将のアドバイスが聞こえた。聞き慣れてるからか?不思議に良く聞こえる。…心強いってのは

こういう気分か!

 確かに、さっき俺が崩れた時も寝技に来なかった。あんまり練習できてねぇか、苦手なのか…、チャンスで狙わなかった事

は間違いねぇ!

 すぐさま押し倒して組み伏せる。主将が睨んだ通り、カンバラ選手は寝技が苦手っぽいな、焦り顔で目を丸くして…、

「あ、やべ…」

 押し倒す瞬間、うっかり漏れた本音が聞こえた。正直者か!?

 仕掛けるのは横四方…と見せかけて、逃れようと体をずらしたそこで本命の縦四方に移る。まんまと引っかかったカンバラ

選手は、俺の腹に手を当てて完全に詰むのだけは避けてた。…ブリッヂで耐えるとか滅茶苦茶な抵抗の仕方だが…、これはこ

れで腰がフリーになってるから、体ずらして逃げるには良い体勢なんだよな。でもたぶん本人はソレが判ってねぇ。馬鹿正直

に上に押し返そうとするだけだ。

「イノタン!ズレて逃げろー!」

 って、焦りまくった声が聞こえた。たぶん仲間なんだろうが、カンバラ選手にゃ聞こえてねぇっぽい…。

 何だかんだで、必死の抵抗で堅め損なった俺は、結局審判に分けられちまった。

 はだけた道着を直して、位置について向き合う。

 カンバラ選手は積極的に前に出てきた。警戒してねぇんじゃなく、攻め切らなきゃ勝てねぇって気になったんだろうな。

 さっきと同じ、俺は相手の動きを見て迎撃する。今更だけどちょっと判って来たぜ、「後の先」ってのはこういう遣り方だっ

たのか…。キモは、ペースを崩すほどの深追いはしねぇ事と、強引に行き過ぎねぇ事…。変なモンだぜ、稽古つけてるような

試合しながら、こっちも勉強させられてる。

 って、お!?

 また、足払いに引っ張られた。跳ねられんじゃなく「引っ張られる」んだ。コイツだけはペース崩されるぜ、どうなってんだ?

「くるぶしにかけられるな!足首を内側に曲げて避けろ!」

 主将のアドバイスが飛んできた。…くるぶしに、かけられ…?………。あ、ああ!そういう事だったのかよ!カンバラ選手

の足、内側に足の裏を向けて、指を広げて当てて来てんだ。ソイツが熊手みてぇに引っかかって、吸い付けられる感じで引か

れるってわけか!

 主将の声はカンバラ選手にも聞こえたみてぇだが…。

「…?」

 何かこう…、え?って…、え?って言うような顔して自分の足の方気にしてんぞ?気付いてなかったのか?天然か!?

 気になってた足払いの対処が判ったら、もういちいち驚く事もねぇ。ペースを握ったまま、少しずつ攻めの配分を増やして

く。…後の先ってのがやっとどういうモンかイメージできてきたが、柔道って深ぇなぁ、今更だけどよ…。

 俺とは逆に、ペースを掴めなくなったカンバラ選手は遣り難そうだった。とにかく防御のミスが目立つ。反応はして来るん

だが、寝技が頭にチラついてんのか、腰が変に引けてバランスが悪くなってんな。…で、チャンスだ。

 弱腰になってるところへ畳み掛ける。

 丁寧に、重ねて、思い切った攻め手は密度を高く…。一撃必殺は、大体の場合一撃必殺なんかじゃねぇ。使えなきゃ意味が

ねぇソイツを、使うまでの手順が大切…。

 キダ先生から習ってた事が、今ごろになって少しずつ判って来た。俺も大概な初心者だぜ…。

 密度もペースも上げて攻め続ける中の一瞬、カンバラ選手は腰を思い切り引きながら足払いを避けた。

 フェイントの足払いを踏み込みに変えた俺は、腰を前へ送って詰める。

 俺の得意技。柔道始めるきっかけになった一発…、大腰!

 腰に乗せて重心が浮いたカンバラ選手を回し投げる。風切り音は…おかしかった。

 野生の勘か、猪は腰に乗せた時点で自分から崩れに入った。反射神経すげぇな…。際どいトコだが掛かりが浅い、こいつは

一本になりそうにねぇぞ?

「参ったなぁ~…」

 零したカンバラ選手と俺が見た先で、審判は有効を示してた。

 位置に戻って、向き合うのも三度目。また派手に着崩れてた道着を直したカンバラ選手は、困り顔でガリガリ頭を掻いてか

ら大きく深呼吸した。ため息つくみてぇに。

 途端に、雰囲気が変わった。

 少し目つきが鋭くなって、乱れてた呼吸がピタッと静かになった。

 俺の全身で鳥肌がたって、緊張で毛が逆立った。

 はじめの合図。改めて、両腕を上げて吠える。

 カンバラ選手は無言で、息を吸って溜めて、両腕をだらっと下げたまま背中を丸めて、腰を低くした前屈みの体勢。そして、

足で畳みを後ろにザッ、ザッ、と掻く。牛なんかが突進する前の、準備運動みてぇに…。

 無防備なようで、隙だらけなようで、そうじゃねぇ。狙ってんのは捨て身の一発…。たぶん次に来るのが、このひと最大の

一発だ。

 動きは…、間違いねぇ真っ直ぐ来る気だ。守りを捨てた真っ向勝負…。

 畳が音を立てた。

 視界の中でカンバラ選手の体が膨れ上がった。

 接近速ぇ。が、掴める。狙うのは襟。

 手。間に合う。届く。

 …え?

 飛び込んできながら、カンバラ選手は回転してた。懐に入るまでに旋回して、俺に背中を向けた。もちろん襟なんか取れや

しねぇ。

 …まじか。こう来んのか…。背中向けて突っ込むとか、しくじったらお終いじゃねぇか?足をチョイと払われただけでコケ

ちまうし、相手がどんな手で来るか見えもしねぇ。どんな度胸してんだよ?

 そんな事考えながら、襟を獲りに出した腕を担がれる光景を、俺は呆れ半分、感心半分で見てた。

 仕掛け方は滅茶苦茶だったけど、闘い方は滅茶苦茶だったけど、カンバラ選手が最後に仕掛けたのは、柔道をあんま知らねぇ

ひとでも名前ぐれぇ知ってるメジャーな投げ…、一本背負いだった。

 腕が引かれて、腰が引っこ抜かれて、カンバラ選手の背中に担がれて、俺は宙を舞って逆さまになった。

 ドンと背中に衝撃があって、それが掴まれてる右腕以外の手足の端まで伝わって行って、ブレた視界が落ち着いて天井が見

えた。

 急に、昔キダ先生が言ってた事を思い出した。

 柔道が柔道になる前。柔術だった頃よりもっと前。組んだり、掴んだり、そうやって相手を揺さぶったり、投げたり、転ば

せたりする…、その大元はスポーツじゃなくて、武者なんかが実戦で使う武芸で…。そう、「合戦組討」って言ってたっけ?

コレがそうだったのかもな。

「げほっ!」

 かなり遅れて咳き込んだ。背中のジンとした痺れにやっと気付いた。

 …やられた!こりゃあ完璧に、言い訳もできねぇ投げられっぷり…!

「一本…!」

 審判の旗が上がる。そりゃそうだ、文句のつけようもねぇ…!

 上半身を起こして咳き込んでたら、目の前にヌッと手が出てきた。

 顔を上げたら、カンバラ選手が手を差し出してた。

 大丈夫か?そんな表情で俺を窺った後、カンバラ選手は一瞬ホッとしたような顔になって、それから苦笑いした。何つぅか、

恥かしそうな済まなそうな、ひとの好さそうな表情だった。

 俺も苦笑いする。…やられた!最後のは完全に出し抜かれた。どんな手が飛び出すか判んねぇって、あれだけ注意してたの

によぉ…。

 握手して、手を借りて、立ち上がった俺は、そこでやっと拍手の音に気付く。…完全に脳みそが試合専用になってたんだよ

なぁ。主将の声、よく聞こえたもんだ…。

 カンバラ選手と礼を交わす。満足した。思い切り、やれるだけの事はやった。…けど…。

 舞台を降りて戻った俺を、主将も、キイチも、理事長も、オシタリもシンジョウも、拍手で迎えてくれた。

「はぁ~…」

 ため息が漏れた…。

 白帯締めて何言ってんだって笑われそうだけどよ…。全国の表彰状とか欲しかったんだ。イワクニ主将の柔道部に、形にな

るモンを一つでも多く飾りたかったんだ…。

 でもまぁ、黙ってたら変な空気になっちまう。これで終わりなんだし…、

「ぬははっ!負けちまったよ!ちっくしょ~っ!見事にやられたなぁ!」

 やっぱ最後はすっきり行かねぇとな!

「済んません主将。ゆりちゃん。やれるだけやってみたけど、勝てなかったよ…。悪ぃなオシタリにシンジョウ。応援に来て

貰ったのによ…。…キイチ。イマイチ決まんなかったなぁ俺…」

「そんな事…」

 主将が慰めるような顔で口を開いて…、

「そんな事無いっ!」

 キイチが、急にでかい声で言った。

「僕はまだ柔道の事そんなに詳しくないし、自分でもやってないけど…、それでも思った!さっちゃんは立派だった!凄く立

派に試合してた!かっこよかったよ、とびっきり!」

 …ちょっとビックリしたぜ。

 でも、何か良かったって思う。マネージャーでつき合わせちまってるけど、キイチ、良いモン見たって気になれたのかな?

「そうですよアブクマ君。立派でした。とても良い試合をしたと、私も思いますよ」

 ユリちゃんが優しい笑顔で褒めてくれた。

「「どうだ!」って胸を張って良いわよ。誰からも文句がつけられない名勝負だったって、この私が保証してあげる!」

 シンジョウが眩しい笑顔で褒めてくれた。

「…まぁ、見応えはあったぜ…」

 オシタリはオシタリらしく、そっぽを向きながらそっけなく褒めてくれた。…ぬはは!コイツぐれぇのが照れ臭さが無くて

いいぜ!

「アブクマ…。あの…」

 控えめな声の元を俺は見る。主将は声を掛けてきて、そのまま黙った。

 誰も、何も言わなかった。主将を急かしたりもしなかったし、俺に何か言えとも言わなかった。

 俺は…、照れ臭くなって鼻を掻く。

「主将の応援、きっちり届いたっすよ。おかげで善戦できた…。助かったっすよ本当に。やっぱ主将は頼りになるぜ!」

 一瞬、主将は口をギュッと結んで泣きそうな顔になる。

「…何言ってるんだよ…、ぼくは何も…、力になってやれなくて…」

 震えた声で言った主将は…、笑ってくれた。無理矢理、不器用な笑顔で。

「お疲れ様…!ぼくは最高の後輩を持ったよ…、アブクマ!」

 主将の言葉と涙で潤んだ目は…、俺にとって、最高の褒美だった。



「終わりかぁ…」

 更衣室に向かう途中で、今日までをぼんやり振り返りながら漏らした俺に、

「そうだなぁ…」

 付き添ってくれてる主将がしみじみ頷いた。

 キイチたちは試合の記録確保係って事で、試合場に残ってる。来年の為に、ってな。

「主将、俺さぁ…」

 声を小さくして言う。こんな時に蒸し返さなくても良いんじゃねぇか?って思ったりもしたけど、今じゃねぇと言えねぇ気

がして。

「前に一回怒られたけど、それでもやっぱ、主将とか皆の為にも勝ちてぇって思ってた。…勿論、自分自身の勝ちてぇって気

持ちもでけぇよ…。それでもやっぱ…、さ…」

「うん…」

「思い上がりだって事は判るよ…。けど、誰かのせいにするとかじゃなくてよ…、誰かのため「にも」って思うとさ、今まで

以上に頑張れた…。張り合いがあるっつぅか…」

「…うん…」

「学校の為とか、部活の為とか、主将の為とか…、何かの為「だけ」ってのは、頑張る理由として歪な気はする…。けどよ、

俺はやっぱ…、自分の為「だけ」じゃイマイチ張り合いがよ…。…欲張りなのかなぁ、俺…」

「そうだなぁ…。でも…」

 主将は俺の意見を突っぱねねぇで、穏やかな声で応えてくれた。

「ぼくやネコヤマはああ言ったけれど、もしかしたらアブクマは、理由を欲張った方が頑張れるのかもしれない。…それはきっ

と、悪い事じゃないよ。むしろ素晴らしい事かもしれない」

 意見を聞いて貰えて嬉しいのが半分、もしかしたら試合後だから気ぃ遣ってこう言ってくれてんのかな?ってのが半分で、

俺は主将の顔をチラッと覗った。

「ぼくやネコヤマはさ、誰かの為にって思って打ち込めるほど、気持ちに余裕が無いんだよ。柔道の、試合の、相手の事…、

つまり自分自身と、自分が向き合う物に集中して、他に何か背負い込む余裕は無い。負担を軽くして試合に臨む為にも、他の

何かの為にっていう理由まで背負うのは厳しいんだ」

「背負い込む…」

 繰り返した俺に頷いて、主将は話を続けた。

「けれど、きっとアブクマは体も心もでっかいから、ぼくらと違って他の物も背負えるんだろうなぁ。そしてそれが頑張りの

原動力にもなるのかもしれない。だから張り合いが感じられるのかもしれない。…だとしたらそれは、とても素晴らしい事だ

よ」

 主将はそれから少し黙って、俺の顔を見上げてきた。

「ああ…。何もかも越えて行くなぁ、アブクマは…。ぼくにはもう、手を貸してやらなきゃいけないような事は残って無さそ

うだ」

「…主将?」

 俺は、主将の顔に目を吸いつけられた。

「主将…、目…」

 涙が…、主将の目から、涙が零れてた…。

 主将は目尻に触ってから気がついて、苦笑を浮かべる。

「はは!呆れるなぁ…。試合をしたのはアブクマだったのに…」

 俺は前を向く。主将は笑ったんだ。ならもう涙は見ねぇ。

「試合は、主将もしてたじゃねぇっすか。あの後半…、主将の声がけが無かったら、あそこまで盛り返せなかったぜ、俺…」

 お世辞とかじゃねぇ、本当の事だよ主将。さっきは主将のアドバイスが無かったら…。

「…やっぱ主将は、最高の先輩だ!」

 主将は返事をしなかったけど、それでもいい。これが俺の本心だ。主将がどんなに謙遜したって、それでも譲れねぇ本音だ。

 しばらく黙ってた主将は、「帰路の途中でお別れだから、次に会うのは夏休み明けだなぁ」って、話題を変えた。

「休み明け最初の部活は、全国大会の反省会兼お祝いのミーティングだ!」

「あー、そういや明日からしばらく会えねぇっすね」

 話題変更に乗っかった俺は、「祝いも兼ねてって事は、菓子とか用意してっすか?」って、半分冗談、半分期待して訊いて

みる。

「そうだなぁ。パーッと行こうか!何せ…」

 また主将が黙る。俺も黙る。

 そのミーティングが、俺達三人で集まれる部活の最後だ。主将が引退して、部員は俺とキイチだけになる…。

「主将。その時さ…」

「うん?」

 ちょっと照れながら、俺は主将にお願いしてみる事にした。

 そりゃあ、引退の日は普通、お別れ会みてぇな締め方すんだろうけど…、区切りっつぅか何つぅか…。

「あの…、そん時さ…、最後だから、俺と…」

 主将がダメって言わねぇなら…、最後に一回、俺の我儘を…。

「よっ」

 ん?

 後ろから声をかけられて、俺と主将は立ち止まる。振り返ると…、丸い、鉄球猪がそこに居た。

 カンバラ選手?何か用事か?三回戦で勝ち残ると、そっからはいよいよ試合数が減ってるから出番が来るペースが早くなる。

ウロウロしてる時間あんまりねぇはずだけど…。

「なんでぇなんでぇ?お前さんら同じガッコだったんだなぁ!いやいやこいつは吃驚さね!」

 カンバラ選手は俺達の顔を見比べながら笑った。

「さっきはあんがとさん!イワタニ君!」

「どういたしまして。…イワクニなんだけど…」

「うっ…!?」

 呻いて首を縮めた猪が、「こりゃ失礼…」って、決まり悪そうに頭をガシガシ掻く。それから気を取り直したように俺に目

を向けて来た。

「強ぇなぁ、お前さん」

「先輩のが強ぇっす。完敗だったぜ」

 勿論本音だ。試合結果はこの通りだし、主将のアドバイスが無かったら善戦できたかどうかも怪しい。技が下手とか動きが

おかしいとか、そんなのは問題じゃねぇ。このひとは本当に強かった。

「気持ちの良い野郎だなぁお前さん…。兄貴と賭けさえしてなけりゃ、ズル抜きで勝敗決めたかったけど…」

 ん?ズル?反則とかは無かったけどな?

「ま、一方的なズルでもねぇかね?」

 カンバラ選手は俺の体をじっくり見回して、「…んで、ちょいと訊きてぇ事があるんだけどよぉ…」と呟いた。

「何すか?」

「お前さんの「そいつ」は…、生れつきかい?それとも後天的なモンかい?」

 ん?何が生まれつき?体型か?

 少し目を細くしたカンバラ選手に、俺は訊いてみる。訊かれてる内容が判んねぇし…。

「生れつきって、何がっすか?」

「んん…?」

 猪は少し考えてから、納得したような顔で頷いた。

「…ん…、なるほどな…、誤魔化してる風でもねぇし、どうやら自覚がねぇらしいやね」

「…だから、何がっすか?」

 意味不明過ぎる…。体型の事だったら生まれつきっつぅか遺伝だけどよ…。

「じゃあちょいと質問を変えるが…、お前さん、死にかけた事ぁねぇかい?例えとかじゃなく、事故か病気か何かで、実際に

よぅ」

 …え?

 気がついたら俺は腹に手を当ててた。前に刺された場所に…。

「なんで…」

 何でそう思ったんだ?…って訊く前に、カンバラ選手は肩を竦めた。

「どうやらこっちにゃ心当たりがある様子だなぁ?なるほどなるほど…。けどまぁ、俺っちの見立てじゃあ緩みも致命的って

程じゃあねぇし、無自覚とはいえ制御もしっかりしてらぁ。悪ぃ風には使わねぇだろうし、手ぇ出す必要もねぇさね?」

 軽くなった口調でそう言ったカンバラ選手が、口の端をちょっと上げた。…やべぇ、全然話が判んねぇまま勝手に進んでく

アレじゃねぇかコレ…。

「しっかし、お前さんには借りができちまったなぁ」

「借り?って何すか?」

 もう全然判んねぇまま、勝手に脳が休憩に入る…。

「まぁこっちの話さね。…自覚ねぇんだから、説明しねぇで放っといた方がお前さんのためでもあるしなぁ…。とにもかくに

も、俺っちにしてみりゃあ借りは借りだから、いずれ返してぇとこだけど…、あ、そうだ」

 何だか考え込んでたカンバラ選手は、急にニパッと笑顔になった。

「もしもこっから先よぅ、お前さんが、普通じゃあり得ねぇような事でどうしようもなく困ったらなんだけど…。何処でも良

いから交番か警察署にでも駆け込んで、「五番目の猪に連絡取りたいから上のヤツ出せ」って言ってくんな。おまわりさんに

よっちゃあ困惑するかもしれねぇけど、上役に「次男坊に用がある」って伝えてくれりゃあ話は通るから」

「あー…、ん…?えぇと…」

 助けを求めて主将を見る。うん。主将も困り顔だ。コレ俺の頭が悪ぃせいで理解できねぇんじゃねぇな。うん。

「良いな?どうしようもねぇような時は必ずだぜぃ?悪いようにはしねぇって約束するから!」

 カンバラ選手は手を出してきて、俺はもう考えんの止めて「どうも…」って握手した。

 …すげぇ手だな…。毛が擦り切れてゴツゴツしてる。こんなんなるまで鍛え込んでりゃ…、そりゃあ強くもなる訳だ…。

 カンバラ選手は主将とも握手しながら、「そういや、お前さん達どこの高校だっけ?」と訊いてた。気にする順番がバラバ

ラじゃねぇかこのひと?

「俺っち個人の名前でしか相手の事確認してなかったから、高校とかいまいち判んなくてよぅ」

「星陵。北陸だよ」

 主将が教えたらカンバラ選手が「んぉ?」って目を丸くした。

「星陵?北陸の?もしかして半島の?」

「うん。知っているかい?野球なんかではちょっと有名なんだけれど…」

「知ってる知ってる!…っつぅかね!知ってるってか、俺っちの知り合い星陵ケ丘に住んでんだよ!こないだも泊りがけでお

邪魔してきた!うはははっ!ほんっと、偶然ってなぁあるもんさねぇ!吃驚だぁ!」

 主将の手を握ったままブンブン振るカンバラ選手。よく判んねぇけどすげぇ嬉しそうで楽しそうだぜ…。

「えっと…、イワクニ君は俺っちと同い年かな?」

「え?うん、三年生だけれど…」

「んじゃさ!いっこ上にミギワってトドが居たと思うんだけど、知んねぇかね?寮に入ってて、相撲部だったんだけど」

「ミギワって…、藤堂汀(とうどうみぎわ)さん?恰幅の良いトドの?」

「そうそう!知ってんだ!?うはははははははっ!こりゃまたすっげぇ偶然さねぇ!うはははははっ!面白ぇねホント!」

 えぇと…主将の知ってる先輩と知り合い?って話なのか?混乱してたら、カンバラ選手はグリンッてこっち向いた。

「俺っち時々そっちに行ってんだ!ダチも居るし、お世話んなってる人も居るからよぅっ!今度行ったら連絡入れるから、ゆっ

くり話でもしてぇね!」

「う、うっす…」

「おっと、すっかり時間取らせちまった!」

 カンバラ選手が主将の手を離す。

 スチャッと手を上げて「んじゃまたっ!」と別れの挨拶をして、引き返し始めた猪は…、

「ああ、そうそう…」

 何か思い出した風で、立ち止まって振り返った。

「俺っち、ぜっ…………てーにっ!優勝すっから!たぶん今日の相手ん中じゃ、お前さん達が一番強ぇ!」

 自信満々に言い切って、カンバラ選手は今度こそ去ってった。

「「お前さん達」…だって…?」

 主将から疑問の声。

「そりゃあ「達」っすよ。主将の声が無けりゃあ手も無く捻られてたんだ。あのひともそこんとこ判ってんだろうなぁ…」

 俺は苦笑いする。

「それにしてもよ…。何つぅかこう…、台風みてぇなひとだな…」

 そんな意見に、主将も頷いてた。

「一つ、疑問に思った事があるんだけれど…。「連絡するから」って言っていたけれども…、ぼくらの連絡先も訊かずに?」

「あ」

 主将の当たり前な言葉で、俺はポカンとした。…あのひと強ぇけど…、大丈夫なのか?色々…。