第四話 「顧問獲得」

僕は乾樹市。星陵ヶ丘高校一年生で、クリーム色の被毛をした猫。

そして、柔道部の駆け出しマネージャーでもある。

「思ったより、安上がりで済みそうだね」

「おう!このぶんなら、畳も少しは替えられるかもな」

アーケードを抜けた先にある、大型ホームセンターの駐車場を抜けながら口を開くと、隣を歩くムクムクの大きな熊が、嬉

しそうな笑顔で頷いた。

道場補修用の材料を見積もった僕達は、思いの外少ない費用で材料を揃えられる事が分かって、意気揚々と引き上げる。

修繕そのものは、特技を活かしてサツキ君がやってくれるから、工賃はゼロ!

きっと、畳を替える余裕もできるはずだ!

夕暮れに染まり始めた商店街のアーケードを歩いて、寮までの道をのんびり引き返していると、サツキ君は薬屋の看板を見

上げて歩調を緩めた。

「あとは、救急箱に補充する包帯や湿布なんかが欲しいなぁ。古くなってんの結構多かったはずだし…。とりあえず、後で俺

の手持ちのを入れとくか。たぶん足りねぇけど」

「あ、そうか。そういうのも必要なんだ…。他にはどういう物が要るの?」

マネージャーを買って出たはいいけれど、僕は運動部そのものを良く知らない、まるっきりの素人だ。

必要な物やマネージャーとしての仕事は、サツキ君や主将に聞いて覚えるしかない。

…二人に練習に集中してもらう為にも、早いところ一人前にならなくちゃね…。

「他は、そうだなぁ…。道場にゃあ見当たんなかったし、トレーニング用具なんかが欲しいとこだけど…。ま、そいつらは贅

沢品だ。あり合わせで何とかしてみるさ。道具揃えんのに部費使い切っちまったら、練習試合なんかで遠征できなくなっちまう」

「あぁ、なるほど…。部費の使い道、道具だけじゃないもんね…」

部費が決まったら、改めて二人に必要な物や支出予定を聞いて、どれだけ使うのか試算してみよう。

まずマネージャーとしての初仕事は、部費管理と道具を揃える所からかなぁ。

もっとも、顧問の先生が決まらないと、部費の運用もできない。

主将が探してくれてはいるけれど、なかなか良い返事が貰えないみたいなんだ。

任せて欲しいとは言われているんだけれど…、僕とサツキ君も手伝うべきだよね?

…あ、そうだ…。

「ねぇサツキ君、僕にも応急手当とか教えてくれない?本来は、そういうのもマネージャーの役割なんだよね?」

「ん?まぁ、そうかもな…。良いぜ、覚えてて損はねぇだろうし、暇見て教えるようにする」

「うん。よろしくね」

マネージャーの仕事って、あと何があるかな?トレーニングメニューを組んだりとか、選手の体調管理とか?

「きゃあー…」

何処か気の抜けた悲鳴(だよね?)が後ろの方から聞こえたのは、僕らがアーケードのちょうど中間辺りに差し掛かった頃

だった。

僕は振り向き、そして目を見開く。

小柄なおばさんが倒れていて、バッグを抱えたサングラスにマスクの男がこちらに走って来る。

…これって、もしかして…?

「ひったくりだ!」

誰かがそう叫んで、僕は自分の予測が正しかった事を悟る。

男は道行く人を突き飛ばし、押し退け…、あ!?こっちに向かって走ってくる!?

「…キイチ、ちっと下がってろよな?」

サツキ君は僕の肩を掴むと、男の進路から遠ざけるように押し退けた。

一瞬後ろを向いて追って来る人が居ないか確認していた男は、きっと、前を向いたその瞬間、目の前に立ち塞がる壁のよう

なものを、視界いっぱいに見た事だろう。

男が後ろを気にしている間に、その進路を塞ぐように立ちはだかった大熊は、男が「あっ!」と声を上げた時には、すでに

ジャンバーの襟を右手で掴んでいた。

そして左手で男の左の袖を掴み、丸太みたいに太い右足で相手の両足を払いつつ、担ぐようにしてぶん投げるっ!

男が右脇に抱えていたバッグが、放り出されて宙を舞う。

その下で、サツキ君に投げられた男の両足が、走り込んで来た勢いそのままに綺麗なアーチを描いた。

…なんとも…鮮やか…!

走ってきた男の体が、全く滞りなく、まるで初めからそう決められていたみたいに、流れるような一連の動きで宙に舞ってる。

ドシンっと、背中と腰を凄い勢いで歩道に叩き付けられた男は、「ぐぇっ!」とカエルみたいな声を出した。

硬い石畳に頭を打たないように配慮してか、サツキ君は男の襟と左腕をしっかり掴んだまま、首を起こさせている。

こんな状況で、良くもまぁそこまで気が回るなぁ…。

本人の意図に反して、本当に荒事慣れしちゃってるよ、さっちゃん…。

くるくる回って宙を舞ったバッグは、僕の方に飛んで来た。

慌てて前に伸ばした僕の手に、バッグは底を下にして、ストンと落ちた。…ほっ…!ナイスキャッチ…。

幸いにも割れ物なんかは入っていなかったのか、中で物が壊れたような感じはしなかった。

「よっこいせっと」

男を投げ飛ばしたサツキ君はさらに、大の字になった男の胸に腰を下ろした。

片手を地面について体重を逃がしてはいるものの、170キロのサツキ君に、座布団代わりにされれば堪ったものじゃない。

男は「ぐぇぇぇぇ…!」と、今度は潰れたカエルみたいな声を上げる。

「大人しくしてろよな?…でねぇとこのままノシイカにしちまうぞ…!?」

サツキ君は座布団にしている男に、牙を剥いて凄んだ後、

「…あ。悪ぃけど、誰かお巡りさん呼んでくれねぇっすか?ヒャクトーバンって何番だか知らねぇもんで…」

と、急に表情を戻して、何でもないように言った。…だから110番でしょ…。

商店街を賑わす突然の捕り物劇に呆然としていた観衆の中、サツキ君の声が聞こえたのか、近くに居たサラリーマン風の男

の人がはっと我に返って、携帯でお巡りさんを呼んでくれた。

事態が収まったと判断したのか、男とサツキ君を囲んでざわついていた人々から、歓声と拍手が沸き起こる。

サツキ君は驚いたような、困ったような顔で辺りを見回すと、急に恥かしくなったのか、少し俯いてぽりぽりと鼻の頭を掻く。

僕はバッグを抱えたまま、そんなサツキ君を誇らしい気持ちで見つめていた。

…ふぅ…。ちょっとドキっとしたけど、偉いっ!凄くかっこいいよ、さっちゃん!



ほどなく、男は駆け付けたお巡りさんに引き渡され、僕達はおばさんと一緒に、一応交番まで同行した。

ほわんとした雰囲気のおばさんは、サツキ君に大いに感謝していた。

サツキ君ったらすっかり照れちゃって、終始俯き加減でしきりに頭を掻いていた。

そうそう。サツキ君が高校生だと知ったら、おばさんも、お巡りさん達も、かなり驚いていた。

あんまり立派な体格をしているから、社会人だと思い込んでいたらしい。

ふふっ…!もちろん本人は不本意そうだったけどねっ!

お礼をしたいと言うおばさんの申し出をやんわりと辞退して、サツキ君は僕の手を引いて交番を後にした。

…それにしても、あのおばさん、星埜(ほしの)さんって言ったけれど、どこかで見たような気がするなぁ…?



「凄いなぁアブクマ!良いことをしたじゃないか!」

食堂で一緒に夕食を摂りながら、イワクニ主将は顔を綻ばせた。

「…大した事じゃねぇっすよ…。相手が刃物とか抜いてたら、あんな真似しなかっただろうし…」

サツキ君は照れ臭そうに俯いて、誉めてくれる主将にもごもごと応じる。

本当は今日もオシタリ君の所に行くつもりだったようだけど、部費確保交渉で食事が遅くなった主将とウシオ先輩に呼び止

められ、一緒のテーブルについている。

いつも二人と一緒に食事を摂っている、シゲ先輩も一緒だ。

…ちなみに、僕とウツノミヤ君も同席させられた。

「お手柄だったなぁアブクマ!実に立派だ!ワシらも誇らしいぞぉ!」

ウシオ先輩も満足げにうんうん頷いている。

「その人も喜んでいただろう?ホント、やるなぁアブクマ!」

シゲ先輩が笑みを深くしながら誉めると、サツキ君は頭を掻きながら身じろぎした。

「あ、あんまり褒めねぇでくれ先輩方…。なんかムズムズして…居心地悪ぃっすよぉ…」

商店街での騒ぎの際に、サツキ君の勇姿を見ていた寮生が居たようで、僕達が戻った時には、すでに皆に話が広まっていた。

褒められる事をしたっていうのに、サツキ君はとにかく居心地が悪そうで、大きな体を縮こめている。

ふふ…!そんなに照れなくていいのに!君は立派な事をしたんだよ?

「あ〜、アブクマは居るかなぁ〜?」

間延びした声が聞こえて首を巡らせると、よれよれ白衣を羽織り、色あせたワイシャツに大きなお腹を押し込んだ虎獣人が、

食堂の入り口できょろきょろしているのが見えた。

「トラ先生だ。何だろう?」

首を傾げるウツノミヤ君の横で、サツキ君が席を立つ。

「居るっすよ。どうかしたんすか先生?」

サツキ君が歩いて行くと、トラ先生はいつも眠そうに見える半眼を向け、口を開いた。

「アブクマ、明日の朝、緊急の全校集会で表彰されるからなぁ?」

「…は?」

「校長先生からそう伝言があってなぁ。よろしくって」

「え?ちょ、ちょっと待てよ先生!表彰なんて俺…」

先生はサツキ君の言葉を完全に無視して、自分よりも少し背が高い熊の頭に、ポンと手を置いた。

「偉かったなぁアブクマ。うん、いい子だ、いい子だ」

トラ先生は柔和な笑みを浮かべ、ワシワシとサツキ君の頭を撫でると、踵を返してのそのそと食堂を出て行った。

取り残されたサツキ君は、トラ先生が歩き去って行くのを、その場で固まって眺めていたけれど、やがて恥ずかしげに俯き、

鼻の頭をポリっと掻いた。



「誉められるっての…、苦手なんだよ…」

部屋に戻ったサツキ君は、恥かしくて暑くなったのか、トレーナーを脱ぎながら呟いた。

「でも、サツキ君は、皆から誉められるだけの立派なことをしたよ」

サツキ君は照れ臭いのか、僕に背中を向けて、脱いだトレーナーをクルクルっと丸めたり、広げたりし始めた。

「別に、そんな大した事はしてねぇのに…」

十分、大した事だと思うけど…。

「僕も偉いと思うよ?ちょっとドキっとしたけれど…」

苦笑した僕を振り返り、サツキ君は首を傾げた。

歩み寄った僕は、タンクトップの薄い生地越しに、サツキ君のむっちりしたお腹に手を当てる。

 フサフサの長い毛に覆われたお腹は、ムニムニと柔らかくて温かい。軽く押せばプニっとへこむ、魔性の触り心地。

「…あぁ…」

やっと思い出したのか、サツキ君は耳を伏せて目尻を下げ、ちょっと困ったような表情を浮かべて僕を見下ろした。

もう、傷痕も残ってはいないけれど、僕はきっと、一生忘れる事はない。

サツキ君は以前、僕を庇って、包丁で刺された事がある…。

その時負った、生死の境を彷徨う程の深い傷…。それは、僕が今手を当てているここ、おへその上だった。

「さっき先輩方にも言ったろ?相手が刃物でも抜いてりゃ、あんな真似しなかったって…」

サツキ君は僕の後頭部に手を当てて、サワサワと、優しく撫でてくれた。

僕は無言で、まん丸お腹の傷があった辺りを撫で回しながら、サツキ君の顔を見上げる。

「俺だって、もうあんなのこりごりだ。無茶はしねぇよ」

「…うん…」

微笑みかけてくれたサツキ君に、僕は頷いた。

僕だって、もうあんなの絶対に嫌だからね?さっちゃん…。

君が居なくなっちゃうかもしれないって、あんな怖い思いをするのは、二度とゴメンだよ…。

サツキ君はちょっと目を泳がせて、

「それに、そのぉ…。刺される事なんかより、お前に泣かれる事のが、ずっと堪えるし…」

ぼそぼそとそう呟きながら、僕の頭をワシワシッと、少し強く撫でた。

「………」

僕はサツキ君にギュッと抱きつき、サツキ君は僕をキュッと抱きしめ返した。

そうしてしばらく抱き合った後、僕達は少し体を離す。

そして、僕は精一杯背伸びして、サツキ君は腰を折って背中を丸めて、口付けを交わした…。

…もちろん。この後はたっぷり気持ち良くなって貰った。一応、僕なりのご褒美ってヤツ…!



翌朝、臨時の全校集会で、獅子獣人の海原鋼悟郎(うなばらこうごろう)校長から感謝状を手渡されたサツキ君は、困った

ような顔をしていた。

厳格な事で知られるウナバラ校長も、この時ばかりは微笑んでいた。

僕は誇らしいけれど、サツキ君にとっては、周囲からたくさん褒められるのはただただ居心地が悪いらしい。

「俺、滅多に褒められる事なんてねぇから、免疫がねぇんだよ…」

とはサツキ君本人の弁。

でも、本人の意志とは関係なく、この一件でサツキ君は新入生一の有名人になってしまった。

大変だねぇ、さっちゃん!



その日のお昼休み。学食に行ってみたら、かなり席が混み合っていた。

そこで僕らはおにぎりやパンや飲み物を買って、中学の時にそうしていたように、屋上へとやって来た。

サツキ君としては、ただでさえ今朝の集会で武勇伝が広まっているから、混み合っている食堂に居たくなかったんだと思う。

「なんつうかこう…、こっちは海の色が違うよな」

サツキ君は、海を眺めながらそんな事を言った。

校舎の屋上から見る星陵の景観。

町並みの向こうに広がる日本海は、なるほど確かに、僕らの故郷である東護町で眺める海…、太平洋とは色が違う。

色が深い。濃い青色の海が太陽光を反射して、風が穏やかで凪いでいる今日は、鮮やかなマリンブルーに輝いている。

サツキ君は首を傾げ、目を細めたり、目の上に手でひさしを作ってみたりしながら、訝しんで海を眺め続けている。

「何で違うんだ?解るかキイチ?」

サツキ君は不思議そうな顔で、傍らの僕に視線を向けた。

その顔は、初めて目にする奇妙な現象を前にした子供のようにあどけない。

体も大きいし、考え方も大人びてるけれど、こういう時に見せる表情は小さい頃のままなんだよねぇ。

「なんとなくはね。うろ覚えだけれど…」

「お?なら聞かしてくれよ。なんか気になんだよなぁ」

サツキ君はそう言って、僕に話をせがんだ。

「確か、太陽の向きと山の関係じゃなかったかな?この国、魚の骨みたいに真ん中を山脈が通ってるでしょ?で、山脈の陰に

なるからって何かで読んだ事があるよ。山陰、山陽っていう言葉があるくらいだしね」

「山の陰かぁ…」

納得したようにサツキ君が呟いた。

「それに、この町も海に向かって山を背負う形になってるでしょ?それでなおさらなのかもしれないね」

「はぁ〜、なるほどなぁ…!」

疑問が解決したサツキ君は、スッキリした顔で頷き、学食で買ってきたおにぎりを口の中に押し込んだ。

彼にかかればコンビニサイズのおにぎりが普通に一口…。

「この海の色、あんまり好きじゃない?」

「まさか!気に入ってるぜ!」

尋ねてみると、サツキ君は笑いながらそう答えた。

「海も空とおんなじだな。日毎に色も顔も変わってよ。それでもやっぱり海は海だ」

サツキ君はご機嫌な様子。どうやら、この屋上から見る景色も気に入ったみたいだ。

「お前はどうだ?ここ」

「僕?うん。もちろん気に入ったよ!」

笑顔でそう答えたら、サツキ君は嬉しそうに笑った。

僕だって嬉しい。こういう時、サツキ君と同じように物事を感じられているんだなぁと、実感できて。

そんな単純な事が、どういう訳か、僕にとっては堪らなく嬉しいんだ…。

「おし。混んでる時は、また中学ん時みてぇに屋上で飯にするか!」

「あ。賛成〜!」

僕らは青い空の下で笑い合う。

この町から見える海と空の色は、東護町とは違う。

けれど、海は海で、空は空。そして僕らは僕らだ。

きっと、何処へ行っても変わらないよね?さっちゃん!



「判りました。それじゃあちょっと試算してみますね」

「ああ。済まないけれど、宜しく頼む」

予算が確定した日の放課後、道場に集まった後、主将は嬉しそうな笑顔で、部費の総額のメモを差し出した。

柔道部についた予算は、主将の予想を大きく超えたものだった。

なんでも、部員数がたった三人の部としては異例の予算らしい。

きっと、サツキ君の活躍で色を付けて貰えたんだろうって、主将は大喜びだ。

でも、当の本人は…、

「偶然だろ?去年少なかった分、今年は気ぃ遣ってくれたんじゃねぇっすか?」

と、完全に否定する。

「それで主将、顧問の先生は見つかったんすか?顧問も見つかんねぇとやべぇんすよね?」

「それがなかなか…。まぁ、部員数を確保して、暫定継続はしてるから、このまま廃部って事は無いけど」

「お!?ほんとっすか!?顧問も居ねぇとやべぇんだと思ってた!」

「いや、やばい事はやばいよ。今週中には見つけないとさすがにまずい。それに、顧問不在じゃ大会に出られない」

主将はそう言いながら腕を組んで、難しい顔をした。

「実は、掛け持ちでお願いするなら、そう難しい事じゃないんだ。時間がかかっているのは、専属顧問になってくれる先生を

探しているからでね…」

「専属顧問?って、何ですか?」

尋ねた僕に、主将は五分刈りの頭を困ったように掻きながら説明してくれた。

「他の部との掛け持ちじゃない、その部だけの顧問さ。本当ならそれが望ましい。…って言うのも、他の部との掛け持ちだと、

大会や練習試合が被った時、来て貰えるかどうかで、参加か見送りかが変わって来るから…」

「あ、なるほど…。大会参加も、生徒だけじゃダメなんですね…」

「そういう事。もっとも、贅沢を言っていると、せっかく部員も集まって、良い予算がついたのに、顧問不在のために活動停

止…、なんて事になってしまう。いざとなったら、もうなりふり構わず、掛け持ちでも良いから頼もうと思っているんだが…」

「そういえば主将、去年の顧問はどうしたんすか?」

僕も疑問に思った事を、サツキ君が代わりに訊いてくれた。

「三月で、学校移っちゃってね…」

…なるほど納得…。僕とサツキ君は眉根を寄せて顔を見合わせる。

なんだってこう、困難が重なった状況になってるんだろうねぇ、この部は…。

「近い内になんとかするよ。掛け持ちを頼むのはそれほど難しく無いからね。アブクマのおかげで名前も売れたし、ほとんど

の先生は快く首を縦に振ってくれるさ」

笑いながら言った主将は、ノックの音を聞いて首を巡らせた。

僕もサツキ君も揃って、滅多に来客を迎える事が無い引き戸を見る。

「お邪魔しますね」

引き戸を開けて顔を出したのは、見覚えのあるご婦人…。

「あれ?おばちゃん?」

相手の姿を確認したサツキ君が、目を丸くしながら口を開いた。

そう。そこに居たのは、先日サツキ君が荷物を取り返してあげた、ひったくりにあったおばさんだった。

何でここに?あの時は逃げるように交番を出てきたから、わざわざお礼を言いに来てくれたのかな?

「…り…」

主将が上ずった声を上げ、僕達は振り返った。

「理事長!?」

主将がビシッと気を付けする。

…理事長…?…って、あっ!?

僕は、何故このおばさんに見覚えがあったのか、今更になって気が付いた。

それもそのはず、見覚えがあって当然だったんだ!学校案内のパンフレットで顔を見ているんだから!

星埜恵(ほしのめぐみ)理事長。この星陵の最高責任者だ!

小柄な理事長は、64歳って聞いていたけれど、どう見ても40代後半ぐらいにしか見えない…。

「あらあらあら、かしこまらないでちょうだいな?今日は私の方がお礼を言いに来ているんですから」

事態が飲み込めていないのか、サツキ君がぽかんと口を開けて主将を見る。

「主将の知り合いっすか?それとも有名人?」

「…この学校の理事長さんだよ…!」

慌てて柔道着の袖を引っ張って、彼女が誰なのか小声で簡単に説明すると、

「へぇ〜、なるほどなぁ…」

サツキ君はうんうん頷いた。が、

「…で、リジチョーってば…、なんだ?」

と言いながら眉根を寄せて首を傾げる。

ああもうっ!今の「なるほど」は何に納得した「なるほど」だったのっ!?

「…この学校で一番偉い人っ…!」

また小声で説明すると、サツキ君は「ふぅん、なるほど…」と頷いた。

…また「なるほど」だ…。この様子じゃあ、たぶん解ってないと思う…。

「アブクマ君。昨日は本当にありがとうございました」

理事長が深々と頭を下げると、

「あ、いや…!よしてくれよ改まって…!当たり前の事しただけなんすから…」

サツキ君も慌てた様子でぺこっと頭を下げる。

「それで、今日聞いた事なのですけれど、顧問が見つからなくて探している最中だとか…」

「まぁ、そうなんすけど…。あ、そうだ。理事長、顧問探してくんねぇっすかね?学校で一番偉いんなら、先生達にも顔きく

んだろ?」

あまりと言えばあまりな発言に、僕と主将は青くなる。…「解ってない」って恐い!

「あ、アブクマ!理事長は色々と忙し…」

「ええ。本当はね、今日はお礼ついでにそのつもりでお邪魔したの」

「ほらサツキ君!理事長もああおっしゃって…」

…はい…?

僕と主将は目を丸くして理事長を見つめた。

「お?本当っすか?いやぁ助かるぜ!良いんだろ主将?」

僕らの動揺には気付いた様子もなく、サツキ君は嬉しそうに主将に同意を求める。

「え?あ、いや、しかしですね…。理事長のお手を煩わせる訳には…」

「まずは一言…、私は柔道は素人ですし詳しくもないから、名前ばかりの顧問になってしまいますが、いいかしら?」

…へ…?

理事長の口から出た言葉は、何か、おかしかった…。

「い、今、何と…?」

主将が金魚みたいに口をパクパクしている内に、理事長はすらすらと続ける。

「もっとも、こう見えていろいろとやることもあるから毎日は顔を出せないけれど…。良ければやらせて貰えないかしら?主

将さん」

理事長はやんわり微笑みながら言う。

…え?そ、それって…え…?それってその、つまり…?

「り、理事長が、顧問に…?」

「ええ」

ニッコリ微笑んでいる理事長を前に、僕と主将はフリーズする。

「あら?もしかして、ダメかしら?」

微笑みながら首を傾げた理事長を前に、主将はしばらく戸惑った後、

「そ、そそそれはっ…!理事長がそれで宜しいとおっしゃられるのであられりるれば!ぼくらとしては勿論こば、こばもっ、

拒む事などありおりはべりいまそかりっ!」

主将!噛んじゃってますし、言葉遣いが何だかおかしいですよっ!落ち着いてっ!

「そう、よかったわ。では、至らない事ばかりかと思いますけれども、これからよろしくお願いしますね?皆さん」

「こ、こちらこそとんだご迷惑を…!有り難うございます!」

「ありがとうございます理事長!」

「おう!よろしくっす理事長さん!」

緊張して、直立不動でお辞儀する僕と主将の横で、サツキ君はニコニコしながら会釈した。

…前々から思っていた事だけれど、サツキ君は、物凄い大物になるかもしれない…。

ま、まぁとりあえず…。顧問獲得…、だよね…?



「まったく、恐い物知らずって言うか、何て言うか…」

僕は自室の机に座り、パソコンで部費の割り振り表を作りながら、呆れ半分に呟いた。

「恐ぇもんなら結構あるぞ?怪談とか、ホラー映画とか、お化け屋敷とか」

サツキ君は僕の背後で床に寝そべり、ストレッチをしながら応じる。

「しかし、渡りに船ってのはああいう事を言うんだろうなぁ。ホントに良いタイミングで来てくれたぜ、あの理事長さん」

…「あの理事長さん」って…。

サツキ君には、自分がこの学校の最高権力者を味方に付けたっていう自覚が、全く無いらしい。

そもそも、あの後詳しく説明はしたものの、理事長という存在がどういったものなのか、恐らくは全然理解してくれていな

いと思う。

改めて説明し直そうかと、椅子を回転させて振り向いた僕は、言葉を飲み込んだ。

「ん?どうした?」

「…柔らかいね…、体…」

サツキ君は両手両足を左右に広げ、ベタッと床に伏せた状態で、僕の顔を見上げて小さく首を傾げた。

相撲の股割りみたいな、あんな感じの格好だ。

真上から見れば土の字になってるだろう。…なんか可愛いよぅっ…!

柔軟性は武器になる。とは前にサツキ君から聞いていたし、結構体が柔らかいのは知っていたけれど、ここまで柔らかいと

は思わなかったから、かなりビックリしちゃった。

…なんだか、堅い事を説明する気力が失せたなぁ…。

「もしかして、ヨガのアレとかもできるの?首の後ろで足を組んだりとか、ああいうの」

「ん〜、肉がつっかえて邪魔にならねぇヤツなら、真似できるもんもあるかもな?」

べたっとした格好のまま、サツキ君は苦笑いした。

が、一瞬後にはその苦笑いを凍り付かせ、ガバッと起き上がる。

「…風呂入ってくる…」

「え?さっき入ったじゃない?」

サツキ君は何故か暗い顔をしていた。

「…もっかい入って汗かいて来る…。…すっかり忘れてたけど、明日、身体測定だ…」

「…行ってらっしゃい…」

…今更無駄…。とは思うけれど、言わないでおいてあげよう…。

サツキ君の減量メニューとかも組んでみようかな…、恋人兼マネージャーとして…。