第五話 「俺のトラウマ」

「はい、195センチね」

クラス全員が集まった体育館で、校医の南波良子(なんばりょうこ)先生が俺の身長を読み上げると、辺りからどよめきが

上がった。

「凄い!2メートル目前だね!」

「何食ったらそんなにでかくなるんだ?」

キイチとウッチーが口々に言う。

「で、体重は179キロね」

先生が体重を読み上げ、辺りからさらにでけぇどよめきが上がる。

「凄い…。180キロ目前だね…」

「何食ったらそんなに重くなるんだ…?」

「い、いやおかしいって!三月初めごろは169だったんだぞ!?」

慌てて身長体重計のデジタル表示を確認したが、そこにはきっちり179の表示…。

「下着だ!パンツが重いんだって!い、一ヶ月でこんな…!」

「そのトランクスが何キロあるって言うんだ?」

「うっ…!?」

ウッチーにつっこまれた俺は、低く呻いて口をつぐむ。

…くそぉ…!昨日は頑張って長風呂して、結構汗流したのに!

「はいはいアブクマ君、終わったらさっさと退く。それじゃあ次、イヌイ君ね」

先生は無表情に言い、俺はへこみながら体重計を降りる。

…これ、昨日長風呂したり、朝飯減らしたりしなけりゃ、ひょっとすると180行ってたんじゃねぇのか…?

「はい、145センチね」

…お?キイチずいぶん背ぇ伸びたなぁ!?

去年の夏休み前で130ちょいだったはずだから、一年足らずで12センチとか伸びてんじゃねぇか。

「体重は40キロね」

うおっ!あいかわらず軽っ!?俺の四分の一ぐれぇしかねぇのかよ!?

俺達獣人の体重は、筋肉や骨の組成だか密度だかの関係で、普通の人間よりだいたい三割前後は重くなる。

キイチの体は、細くて筋肉が全然ついてねぇからなのか、獣人じゃあありえねぇ程軽い。

…ま、まぁ…、伸びなんかするとうっすらあばらが浮いて、指でなぞれるとこなんかが堪んなくセクシーなんだけどな…。

俺は阿武隈沙月。星陵ヶ丘高校一年で柔道部所属、濃い茶の被毛の熊。

胸にある白い月輪がトレードマークなんだが、このクラスじゃあ初のお披露目だな。

とりあえずの目標は…、170キロ代維持だ…。



「お〜お〜、見事な腹だなぁ…。これが180キロの腹かぁ…」

「…179だ…!」

俺の腹を指でプニプニつつくウッチーに、俺はブスッとしながら言い返す。

…しかし、ヤベぇのは自分でも判る…。前にも増して曲面が強くなったフォルムが既にヤベぇ…。

オマケに、ウッチーに軽くつつかれただけで、厚みを増した皮下脂肪がプヨンと揺れてる…!

「ウシオ副寮監を抜いて校内最高身長で、相撲部のカバヤ先輩とタイで最重量だそうだ。記録更新おめでとうブーちゃん」

「聞きたくもねぇ情報ありがとよ…。ってか肉を摘むな肉を!」

「ああ悪い。意外にも手触りが良くてつい…」

ウッチーが手を放すと、代わりにキイチが俺の腹の肉を摘む。ってか掴む。

「まさか一ヶ月ちょっとで10キロ増量してるなんて…。た、大変…だ、ね…ぷふっ…」

…キイチ…、顔がおもっくそ笑ってんぞ…!…にしても…。

シャツを着たキイチの胸を見下ろしながら思う。

少々心配だったんだが、キイチの傷痕は少し前から、新しく伸びた毛に覆われて、ほとんど見えなくなってる。

今少しだけシャツを脱いでた間も、辺りからは特に視線を受けてなかった。変な詮索されずに済んで、ほっとしたぜホント…。

自分の中で決着はついたって言っても、思い出せば辛ぇに決まってる。なるべくなら、キイチの胸の傷の事には触れて欲し

くねぇ…。

ふと視線を巡らすと、ズボンを穿いてるオシタリの姿に目が行った。

薄着してんの見たことねぇから、これまであんまり気にしてなかったが、体付きは結構がっしりしてる。

特に腕と肩周り、二の腕なんかはかなり筋肉がついてる。俺と違って無駄な肉がほとんどついてねぇ、締まった身体だ。

何か運動みてぇな事…、それも結構きつい事してねぇと、こういう身体にはならねぇはずだけど…、毎晩出かけてる事と何

か関係あんのか?



身体測定に引き続き、ジャージに着替えて体育館内での体力測定が始まった。

握力測定、背筋力測定、肺活量、垂直跳び、反復横跳び、踏み台昇降、伏臥上体そらし、どれも問題ねぇ。

筋力はもちろん、こう見えて持久力にも瞬発力にも、柔軟性にも自信がある。が、立位体前屈は駄目だ。

…え?…ん、その…、あれだ…。

説明すんのは屈辱的なんだが…、腹がその、邪魔になってだな…。

あとこう、体のバランスの関係で、前につんのめっちまうから…。

…ま、まぁ良いだろそんな事は!



次いで校庭に出て、体力測定はなおも続けられる。

砲丸投げに、50メートル走、走り幅跳び、斜め懸垂などなど。

ん?俺の体重で懸垂できんのかって?

馬鹿にしちゃいけねぇよ。普通の懸垂だって連続50回は鼻歌まじりで行けるぜ?

自分の身体ぐれぇコントロールできる筋力がねぇと、柔道なんてやってらんねぇからな。

…まぁ、体力測定での問題は一つ、俺にとっての最難関が残ってんだが…。



「はぁっ…、ひぃっ…、はぁっ…、ふひぃっ…!」

「がんばれブーちゃん。お先」

周回遅れでドスドス走る俺を、涼しい顔でウッチーが追い抜いて行った。

「さぁ、残り3分だぞ〜」

小柄な柴犬獣人、体育の柴田範保(しばたのりやす)先生が声を上げる。

嘘だろ!?あと3分もあんのかよ!?

今、俺達は12分走の真っ最中。12分走り続け、何メートル走れるか測るって種目だな。

…これ、俺にとっちゃ拷問以外の何モンでもねぇ!この種目考えたヤツは相当なドSに違いねぇ!

「ぜっ…、ぜへぇっ…!ふっ…、はっ…、ぶはっ…!へひぃっ…!」

…き…、きっつい…!ジョギングは再開してたけど、ありゃ自分のペースで走ってるからなぁ…。

前にも増して長距離走苦手になってんじゃねぇのか俺?やっぱ太ったからか?

…って…、あれ…?

重い体をドスドスと必死に運ぶ俺の横を、脇腹を押さえて苦しげな表情を浮かべるキイチがトテトテと追い抜いて行った。

…あ、あれ?あれれれれ?お、俺、キイチからも周回遅れなのか!?

必死になってて気付かなかったけど、もしかして…、いや、もしかしなくとも俺…、ドンケツなんじゃねぇのか!?

息が苦しい!体が重い!くそっ!痩せてやる!今日からよりハードにダイエットすんぞ!



「ぜへぇ〜…、ぜへぇ〜…」

グラウンドに倒れ込んで、大の字に伸びている俺の顔を、キイチが覗き込んでくる。

「大丈夫?」

「はひぃ〜…、へひぃ〜…」

答える余裕もねぇ…。キイチは苦笑いしながら、俺の顔から汗を拭ってくれた。

…もしかして、体力測定の後に身体測定やりゃ、少しは体重落ちてたかも…。

なんとか呼吸が落ち着いてきた俺は、すぐ傍に座り込んでるキイチに笑いかけた。

「くっそ〜…、キイチに負けちまった…。へこむなぁ…」

「うん。二周差だったね。運動関係でさっちゃんに勝ったの、初めてだ。ふふ…!」

うわ…?そんなに差ぁついてたのか?俺ダントツでビリじゃねぇか…。

「ねぇ?サツキ君、スタミナあるよね?踏み台昇降も平気だし、長い石段昇っても涼しい顔してるのに、何で長距離走だけ駄

目なの?」

キイチは心底不思議そうだ。

…いやまぁ、確かに長距離が苦手なのは、体格の問題だけじゃねぇ。

実は他にも自覚してる要素があるんだが…、ちっと…言いづらい…。

「…後で話す…」

俺がぼそっと答えると、キイチは首を傾げた。

…ちっと恥ずかしい話になんだよなぁコレ…。なもんで、あんまし周りに聞かれたくねぇんだ…。



部活を終えて寮に戻った後、食堂に入った俺は、またオシタリの向かいに腰を下ろした。

オシタリは、顔を上げて俺のトレイを見つめた後、ちらっと顔を見てくる。

…何が気になってんのかは判る。俺の飯の量だ。

今日はいつもの四分の三ぐれぇしかよそってきてねぇからな。

「…ダイエット中なんだよ…」

オシタリは納得したのか、視線を食器に落として食事に戻る。

しばらく黙々と飯を食っていたオシタリは、

「180キロか…」

と、ぼそっと呟いた。

「…聞いてたのかよ!?ってか179だ!まだギリギリセーフだ!」

思わず声を大きくして弁解する俺。何がセーフなのかは言った俺自身も良く判んねぇ。

「くそ〜…、不摂生が祟ったぜ…」

ため息をついた俺の前で、

「…ふっ…、くくっ…!」

オシタリが、声を押し殺して笑った。

「なんだよ。そんな可笑しいか?」

「デブなのは、気にしてねえんじゃなかったのか?」

オシタリは口の端を微かにつりあげてる。初めて見る、こいつの笑い顔だった。

「言われても腹が立たねぇってだけだ。全然気にしてねぇって訳じゃねぇよ」

「まったく、変な野郎だ…」

オシタリはトレイを掴んで席を立ち、

「ま、せいぜい頑張りな」

口元をニヤリと歪めてそう呟くと、席を離れて行った。

…う〜ん…。俺にしちゃ不本意な話題だったんだが、オシタリのヤツこれまでで一番喋ったよな?

…それに、何だかんだ言っても、あいつ、初めて笑って見せてくれたな…。



「ねぇ、昼間してくれなかった話、聞かせてよ?」

風呂から上がって自室に戻ると、キイチはよほど気になってたのか、すぐに尋ねてきた。

「あ〜、うん。長距離走の話な…?」

まぁ、キイチには隠し事なんてしたくねぇし…、良い機会だ、話しとくべきだろ…。

俺はテーブルの脇に座り、条件反射でコーラに伸びた手を慌てて引っ込めた。

「原因っつぅか、苦手な理由は…、俺のトラウマにあんだろうな…」

…思い出したらケツが痛くなってきた…。キイチは意外そうに目を丸くする。

「トラウマ?君が?」

「そんな意外そうな顔すんなよ。昔は苦手なもんが山ほどあった事、お前も知ってんだろ?」

俺は苦笑しながらキイチに応じる。

昔、小学校に上がる直前までは、俺は鈍くさくて泣き虫で甘えん坊の、どうしようもなく気弱なガキだった。

図体ばかりでかくて、てんで意気地が無くて、しょっちゅう虐められちゃあキイチやケントに庇って貰ってたもんだ…。

キイチが引っ越していって、ケントが俺に性格矯正メニューを施し始めた頃の出来事…。

それは、6歳の俺が出くわした、忘れられねぇ恐怖の体験だ…。



ケントから受けた性格矯正メニューには、体力作りが大量に組み込まれてた。

運動させる事で、俺に自信と根性をつけさせる。それが目的だったらしい。

そんな訳で、俺は小学校に上がるまでの短い間、今みてぇに朝にジョギングしてた。

家を出てぐるっと、そこそこ長ぇ距離を休み休み走るコースだったんだが…、二週間続けて慣れ始めた日曜の朝、俺はどう

いう訳か道を間違え、いつもと違うコースに入り込んだんだ…。

「あれぇ…?」

あまり入った事のねぇ路地に入り、幼稚園児だった当時の俺は首を傾げて立ち止まった。

「ヘンだなぁ…?」

呟きながらうろうろしたが、元のコースに戻る道が判らなかった。

「…たぶん、まっすぐいけば…でられるよね…?」

あまり通ってねぇとはいっても、あくまで地元だ。

少し進めば馴染みの道に戻れる事は知ってたから、俺は大して不安に思うこともなく、そのままジョギングを続けた。

…が、それが間違いだった…。

お世辞にも軽快とは言えねぇ足取りでジョギングを続けた熊の子は、ある一軒の屋敷の前で足を止めた。

小せぇ頃からでかい建物が好きだった俺は、そのでかい屋敷に目を奪われた。

広い敷地に、海外の映画やドラマなんかに出てくるような、三階建ての立派な洋館が建ってて、俺は思わず鉄柵みてぇな大

きな門扉に歩み寄って、柵を掴んで屋敷を眺めた。

「おとーさんも、あんなおうちをつくったりするのかなぁ…!?」

憧れにも似た感情を抱き、屋敷をもっと良く見ようと、俺は身を乗り出した。

その途端、ロックがかかってなかったのか、門扉はぎしっと動いて、内側に少し開いた。

慌てて手を放した俺の耳に、妙な音が聞こえたのはその時だった。

「ぐるるるるるるっ…!」

門の向こう、敷地内の植え込みの影から、そいつはのそっと姿を現した。

それは、トゲトゲ付きの真っ黒な革の首輪を付けた、大きなシェパードだった。

硬直した俺を睨んだまま、そいつはゆっくりと門に近付いて来た。

はっきり言って無茶苦茶怖かったが、門もあるし、出てこれねぇはずだった。

が、ほっとしたのも一瞬だけ、熊っ子は、つい今しがた、自分がその門を少し開けちまってた事に気付いて、首周りの毛を

逆立てた。

「あ…、あ…!」

門の隙間から、唸り声を漏らすシェパードがするりと抜け出す。

縋るような思いで恐ろしげな形状の首輪を見遣ったが、残念な事に、綱はついてなかった。

「ひ…、ひっ…!ひぎゃぁぁぁぁあああああっ!」

恐怖に駆られ、シェパードに背を向けた俺は、悲鳴を上げながら一目散に逃げ出した。

今なら判る。それがぜってぇ〜にやっちゃいけねぇ事だってのは。

だが、そんな事も知らねぇ、完全にパニクってた当時の俺は、大声で叫びながら逃げるっていう、犬の狩猟本能を刺激する

行動をとっちまった。

「わっ!わっ!うわぁぁぁぁぁああああっ!ひぃぃぃいいいいいん!」

「ウォンッ!ウォンウォンウォンッ!」

吠えながら追ってくるシェパードから必死に逃げ、俺は無我夢中で走り回った。

「わぁぁぁぁん!!!ひぐっ!はぁ、はぁっ!あ、ああぁぁん!ぜぇ、ぜぇ!」

泣き叫びながら、息も絶え絶えになって逃げ回った俺は、どこをどう走ったのか、屋敷の前に戻って来ちまった。

…どうやら、振り切ろうと無茶苦茶に角を曲がって、住宅地を一周してたらしい…。

そして俺は屋敷の前で力尽き、つんのめるようにして前のめりに転び、後ろから飛びかかって来たシェパードに…、

ガブリ!

「ひんっぎゃぁぁぁぁぁぁああああああああああああっ!!!」

…ケツを噛まれた…。



「ぷふっ!ぷっ、ぷくふっ、ふふふふっ…!」

口元を押さえ、キイチは笑い声を押し殺した。

「笑いたきゃ声上げて笑って良いぞ…。でも含み笑いはイラっと来るからやめろな…!」

「ご、ごめん…ぷっく!で、でも当時のさっちゃんを想像したら、我慢できな…、ぷふっ!さ、さぞ、可愛い…いや、可哀そ

うだったろうね…!」

肩を震わせて笑いを噛み殺すキイチを軽く睨み、俺は話を進めた。



今になって思えば、シェパードは本気で襲って来てた訳じゃなかったんだろう。

やろうと思えばできたはずなのに、首やら顔なんかには噛み付こうとしなかった。

…まぁ、あいかわらずケツに噛み付いたままだったけどな…。

俺が俯せに倒れたまま、逃げる事もできずにわんわん泣いてると、横手で鉄の門扉がギギッと開いた。

痛みを堪えて首を捻って視線を向けると、鉄の門扉が開いた隙間に、一人の人間の女の子が立ってる。

何て言や良いのか、フランス人形が着てるような、フリル付きの可愛い服を着た。そりゃあもう可愛い女の子だった。

女の子は俺を見て驚いたように目を丸くすると、次いでシェパードに視線を向けた。

「ロバート!いけません!」

女の子が声を上げると、シェパードのロバートは、やっと俺のケツから口を離した。

きちんとお座りしたシェパードの脇で、うつ伏せに倒れたままわんわん泣いてる俺に駆け寄ると、女の子は頭の上に手を乗

せて、そっと撫でてくれた。

「だいじょうぶ?ごめんなさい。ロバートったら!ほんとうにいたずらっこなんだから…」

いたずらでケツをガブリはやり過ぎだろう?とは思ったが、当時の俺はぐずるばかりで何も言えなかった。

手を取って立ち上がらせてくれた女の子は、俺の右手を引いて、屋敷の中に引っ張って行った。

玄関前まで、シェパードが俺の左手の匂いを嗅ぎながらついて来てたから、俺はもぉ怖くて恐くて、自分の半分もねぇよう

な女の子にぴったり寄り添ってた。

女の子は屋敷の中の、居間っぽい洋室に俺を入れると、救急箱を持って戻ってきた。

「おしりみせて。おくすりつけるから」



「ぶふぅーっ!ぷはっ!あ、あははっ!あはははははっ!」

キイチは腹を抱えて床の上を転げ回り、大爆笑してる。

…一応、俺にとっちゃ深刻なトラウマの原因を話してるんだけどな…。

「ご、ごめっ!でもっ、が、我慢できなっ…、あははははははっ!」

「…良いけどな…。先続けんぞ…」



もちろん俺は嫌がった。恥ずかしいし…。

だが、女の子に「バイキンがいたらたいへんよ?」などと説得され、俺は女の子に背中を向け、ズボンとパンツを脱いだ。

女の子は嫌がるでも恥ずかしがるでもなく、俺のケツを指先で触って傷の有無を確認すると、ほっとしたように言った。

「よかった。けがはしてないみたい」

あんなに痛かったのに傷がねぇって事が不思議だったが、きっと、シェパードが噛む力を加減してくれてたんだろう。

ズボンにもパンツにも穴は無く、尻を強烈につねられたみてぇな感じになってたわけだ。

尻に湿布を張ってくれた女の子は、ずっとぐずってた俺を励ますように笑いかけた。

「あなたはおっきなクマさんでしょう?そんなになかないで」

「で、でもぉ…、ぼくぅ、よわむしだしぃ、ワンちゃんにもかてないし…、グスッ!」

「クマさんだもん、すぐにもっともっとおっきくなって、つよくなるわ!でも、あなたがおっきくなって、ロバートよりつよ

くなっても、ロバートがかんじゃったこと、ゆるしてあげてね?」

そう言って背伸びし、頭を撫でてくれた女の子は、綺麗な包み紙にくるまれたお菓子をいくつか持たせてくれた。

ゲンキンなもんで、頭を撫でて慰められて、持ち上げられて、菓子まで貰ったら、俺は泣き止むことができた。

大きな通りまで見送ってくれた女の子にお礼を言って、手を振った俺は、ケツをさすりながら家に向かった。

結局。女の子の名前を聞くのも、自分の名前を言うのも忘れていた事に気付いたのは、家に帰って貰った菓子を食べていた

その時だった。

その日から、中学で柔道をやるようになって再開するまで、俺は朝のジョギングを止めたんだ…。



「とまぁそんな事があったわけだが…。それ以来か?長ぇ間走ってると、あん時追っかけられた時の事を体が思い出しちまう

のか、勝手に汗が噴き出して、全身に妙に力が入るようになってなぁ…、無駄に体力を消耗するようになっちまってんだ。だ

から毎朝のジョギングも時々休みながらじゃねぇと、長ぇ距離は走れねぇ」

「そ、そうだったんだ…」

キイチはさっきまでの大笑いの名残り、目尻の涙を拭いながら呟いた。

…まったく…、喉がヒューヒュー音を立てるまで笑わなくたって良いじゃねぇか…。

「ご、ごめん。結構深刻な話のはずなのに、全然哀しくなれなかった…。っぷ…くくく…!」

「…良いけどな…、同情して貰っても、どんな顔すりゃいいのか迷うし…」

「でも、参考になったよ。その癖っていうか、特性を活かせば、効率の良いダイエットメニューを組めるかもしれない」

…へ?何?

「僕、一応マネージャーになったんだからね。トレーニングメニューとか纏めてみようと思ってるんだ。ついでにサツキ君の

減量メニューも作ってみるよ」

「もしかして、その為に俺が長距離苦手な理由を聞きたがってたのか?」

「うん。まぁ好奇心もあったけれどね?あの異常な汗のかきかた見てたら、使えるんじゃないかなぁと思ったんだ」

キイチはニコニコ笑っている。

「そっか、役に立つのかこのトラウマ…」

「転んでもただでは起きないねぇ、サツキ君は。…それにしても…」

キイチは首を傾げる。

「その女の子とわんちゃんとは、もうそれっきり会ってないの?」

「いや、再会した」

俺の返事に、キイチは興味を覚えたのか、目をキラキラさせた。

「と言っても、そいつがあの時の女の子だって、最初は気付かなかった。随分時間も経ってたし、あっちも憶えてねぇみてぇ

だし…。でも、本当は三年前に再会してたんだよな」

「三年前…?もしかして、東護中の生徒!?」

「おう。こっ恥ずかしいから俺も言ってねぇし、向こうも思い出してねぇみてぇだしな」

キイチは首を捻る。

「立派な屋敷…、広い敷地…、…あ!」

何かに気付いたのか、キイチは声を上げた。

「もしかして、サカキバラさん!?」

「いや違う」

俺が否定すると、キイチは首を捻ってまた考え込む。

「えぇ〜?それじゃあ誰なの?」

「誰だって良いじゃねぇか。もう昔の話だ。時効だ時効」

「え〜!?教えてよぉ!」

キイチは頬を膨らませて尋ねるが、俺は苦笑いしながら煙に巻いた。

最初は、本当に気付かなかった。

ってか、そもそも三年の二学期に直接言葉を交わすまで、そんな生徒が同じ学校に居るって事すら知らなかったんだ。

俺はあれっきりあの区画に近付かなくなってたから、年老いたシェパードを散歩させてたあいつに偶然出くわさなきゃ、恐

らく今でも気付いてなかったろう。

背中に覆いかぶさって話をせがむキイチを苦笑いしてあしらいながら、俺は散歩中のあいつらに会った、何度目かの時の事

を思い出す。



「あら、今日もジョギング?精が出るわね」

「おう。継続は力なりってな。元気かロバート?」

「ウォンッ!」

俺はすっかり顔なじみになった老犬の前に屈み込み、頭を撫でた。

「今なら負けねぇが…、さすがに時効だしな…。勘弁してやるよ」

笑いかけながら小声でそう言ってやったら、意味が判ってるのか、それともやっぱり判ってねぇのか、ロバートは尻尾を左

右に振った。

ロバートは俺のことを憶えてたらしい。あの時と同じように、会う度にしきりに手の匂いを嗅いでくる。

飼い主のあいつは、俺が初めからロバートを名前で呼んだ事を不思議がってたっけなぁ。

俺があの時の泣き虫な子熊だとは、さすがのシンジョウも、まだ気付いてねぇ…。