序話・壱 〜岩国聡〜
明後日は始業式。高校最後の一年間がいよいよスタートか…。
校舎裏口のコンクリートの叩きにあぐらをかき、校内美化委員会の手入れの行き届いた裏庭を眺めながら、ぼくはシューズ
の紐を結び直す。
明日は新入生との対面式、明後日は始業式になるから、今日は春休み最終日だ。
だが、ぼくには休みだからといって、特にする事は無い。
なのでストレッチとランニングだけでもやっておこうかと思って学校に来ている。
…もっとも、毎日かかさないこの自主トレにも、果たして意味があるのかどうか…。なにせ、我が部はもう…。
「あ!ねぇ?こっちも見てみよう?裏側にも庭があるよ」
「おい待てって。ここ広いんだから、そんな歩き回ると迷子になんぞ?」
誰かの話し声と、敷かれた砂利を踏み締める音が聞こえ、ぼくは首を巡らせた。
校舎を回り込んで来たのか、出っ張った壁の向こうから、ひょこっと小柄な男子が顔を出す。
少しくすんだ、クリーム色の被毛。くりっと大きな目。背が低くてちょっと可愛いその少年は、猫の獣人だった。
袖から覗いた手も、襟元から覗く首も細く、かなり華奢で小柄だ。
身に纏っている上着は一見ロングコートにも見えたが、実際にはやけに大きな黒いダウンジャケット。
まるでお父さんの上着を着てみた子供…、そんなイメージがある。
猫獣人はぼくに気付くと、ちょっと驚いたように眉を上げた。
小学の高学年か、中学一年、そんなところだろうか?そう思って笑いかけたぼくは、笑顔のまま凍り付いた。
立ち止まった猫獣人の後ろ、壁の陰から、先程声が聞こえていたもう一人が、のっそりと現れたのを目にして。
…で…でかい…!
上背は2メートル近い。いや、上に高いだけじゃない。かなり幅がある体は、どこもかしこも造り自体がでかい。
手足はまるで丸太のようで、胸は分厚く、腹は丸く膨れ、腰もどっしりと太い、ものすごい巨漢…。
猫獣人に続いて現れたのは、小山のような体躯の熊獣人だった。
これは…、ひょっとしなくとも、ウシオよりでかいぞ?
モスグリーンのセーターを着た茶色い被毛の熊は、ぼくに気付くと足を止め、片方の眉を上げた。
あまりにもでかいから、見ているだけで圧倒されそうになる。
「どうも。この学校の人っすか?」
大学生?いや、社会人だろうか?熊獣人は座り込んだままのぼくに話しかけて来た。
「え?あ、はい、ここの三年生ですが…」
シューズの紐がまだ結び終わっていないまま、ぼくは立ち上がる。
親子…?いや違うか…。この二人、何者でどういう関係なんだろう?
…ん〜…、学校を見学に来た親戚の子供と、保護者…とか?
そんな事を考えていたぼくに、熊獣人はニカッと笑みを向けた。
いかつい顔にごっつい体付きだが、丈夫そうな歯を見せて笑うと目尻が下がり、怖そうな顔に人なつっこい表情が浮かぶ。
「そっすか!んじゃあ俺達の先輩だ!」
…へ…?
「失礼しました。初めまして、先輩」
クリーム色の猫が、そう言いながらペコリとお辞儀した。
並んで立つ二人は、笑みを浮かべてぼくを見つめている。
「…もしかして、君達、新入生かい?」
「はい。今年から星陵の生徒になります」
ぼくの問いに、猫の方が答え、熊の方が次いで口を開く。
「俺は阿武隈沙月(あぶくまさつき)。で、こっちは…」
「僕は乾樹市(いぬいきいち)です」
アブクマ君に、イヌイ君か。
ぼくもあまり大きい方じゃないが、イヌイ君の頭はぼくの肩ぐらいまでしかないだろう。
それに対し、アブクマ君の方はぼくより頭一つ以上背が高い。
デコボコの二人の頭の、ちょうど中間ぐらいの高さにぼくの頭がある。
…ん?アブクマって、何処かで聞いたような…?
「あ。ぼくはイワクニ。よろしく二人とも」
とりあえず名乗り、それからふと疑問に思って尋ねてみる。
「明日入学式なのに、わざわざ今日見物に来たのかい?」
「ええ、時間も余って、特にする事も無いので、せっかくなので一足早く見学しようかと…」
ぼくの問いにイヌイ君がそう答えた。
「そうなのか…。どうかな?良ければ案内してあげようか?」
ぼくの提案に、極めて小柄な猫獣人と、極めて大柄な熊獣人は、それぞれ見上げ、見下ろし、顔を見合わせた。
「良いんすか?これから部活か何かなんじゃ…」
大きな熊は遠慮がちに口を開き、ぼくを覗い見る。
「暇なんだ。ぼくのはただの自主トレだから」
ぼくが苦笑いしながら応じると、二人は一度視線を交わし、それから微笑して頷いた。
ぼくは岩国聡(いわくにさとる)。星陵ヶ丘高校三年生だ。
これが、ぼくの大事な後輩、アブクマと、イヌイとの、最初の出会いだった。
「凄ぇ…」
案内の途中で立ち寄った、裏門から山の上までずっと続く桜並木を見つめ、アブクマ君は呟いた。
舞い散る桜の花びらが静かに降り注ぐ中、目を細めて微かな笑みを浮かべた熊は、目の上に手でひさしを作って山の上を見
上げている。
「星見山(ほしみやま)って言うんだ」
「この先にゃ何があるんすか?」
「小さな神社がある。恋愛の神様のね」
イヌイ君は腕組みをして、小さく顎を引いて頷いた。なんだか興味深そうな様子。
「恋愛の神様…ですか…。後で行ってみる?」
「だな。きっちり拝んどくか」
二人はそんな事を言って、笑みを交わした。
二人とも恋人が居るんだろうか?いや、居ないから拝むのか?どっちにしろ、誤解が無いように先に言っておこうか。
「ちなみに、恋人と一緒にお参りしちゃダメだからな?」
『へ?』
ぼくの言葉で、二人は虚を突かれたように目を丸くした。
「あくまでも恋愛成就の神様なんだ。つまり、「想いを遂げられますように」って拝む、片想いを両思いに変えてくれるって
いう神様なんだけど、実は朔夜星見姫(さくやのほしみひめ)って名前の女の神様でね。カップルがお参りすると、嫉妬して
別れさせちゃうって言い伝えがあるのさ」
『………』
説明したら、二人は微妙な表情で黙り込んだ。
言っておいて良かった。どうやら、恋人とお参りするつもりだったらしい…。
「ここが体育館。結構立派だろう?」
「そうっすね…。俺らの中学の体育館がスポッと収まっちまうなぁ…」
アブクマ君は体育館を間近で眺めながら、感心したように言う。
うちの学校はバスケとバレー、硬式野球が強い。
ボート部もまぁ、結果だけ見れば良い所まで行ったんだが、あれはシゲ一人の成績だからなぁ…。
「裏手には殆どの運動部の部室が入った部室棟があるんだ。文化部の部室については校内にあって、それぞれ別れてる」
「殆どの運動部って…、全部じゃないんですね?」
ぼくは察しのいいイヌイ君に頷き、説明する。
「ボート部とカヌー部は川沿いに専用の艇庫があって、そこと部室が一緒なんだ。あと、柔道、剣道、空手部は、それぞれの
道場と併設している」
「へぇ…」
アブクマ君は興味を覚えたのか、少し眉を上げた。
最初はイヌイ君の保護者かと勘違いしたほどに高校生離れした体格の彼だが、こういうあどけない顔をすると、やはりまだ
少年なのだと実感する。
…そう言えば、ガタイも良いし、彼も何処か運動部に入る予定なんだろうか?
「二人は、部活は何かする予定なのかい?」
「僕は予定無しです。運動自体が苦手なので、少なくとも運動部は無しですね」
と、イヌイ君。それから彼はアブクマ君の顔を見上げた。
「サツキ君はもう決めてますけど」
「そうなんだ?…良い体してるもんな…」
正直、彼の立派な体格は、ぼくには羨ましい。
「ところで、どの…」
「サトルさーん!」
どの部に入るのか?そう聞きかけたぼくは、良く響く、聞き慣れた声を耳にして首を巡らせた。
ぼくと二人が揃って振り返ると、長い二本の棒を肩に担いだ獣人が、こちらに歩いて来る所だった。
「シゲ。練習は終わりか?」
「ええまぁ。でも、オールの先、塗装がはげて来てるんで、塗り直しておこうかと思いましてね。何て言ったって、新入生が
見学に来るんだから、かっこよくきめておかないと」
薄い灰色のフサフサした被毛に、狼族特有の引き締まった顔。
鍛え込まれた腕や肩、太ももなんかは筋肉で盛り上がってる。
狼特有の切れ長の目はしかし、穏やかな光を湛え、鋭さよりも落ち着いた印象を与える。
彼の名は水上重善(みなかみしげよし)、通称シゲ。ぼくの幼馴染みでもあり、後輩でもある、二年生の狼だ。
シゲはボート部で、肩に担いでいる二本の棒は愛用のオール。
ぼく達の傍まで歩いてくると、シゲは興味深そうな顔でイヌイ君の顔を見つめ、それからアブクマ君の顔を見上げた。
「こっちの二人はイヌイ君とアブクマ君。新入生だよ」
「へぇ…。どっちもそうは見えないなぁ。迷い込んだ中学生と父兄かと思ったよ」
「こら…!初対面で失礼だぞシゲ」
ぼくと同じ印象を受けたらしいシゲは、オールを手近な壁に立てかけながら、失礼にも忌憚のない意見を述べた。
「ま、老けて見られんのは慣れてるっすけどね」
「僕も、たまに小学生に間違えられたりします」
二人は怒った様子もなく、笑いながらそう応じていた。
「ははは!おれはミナカミ。よろしくな二人とも?」
シゲは笑いかけると、二人に手を差し伸べて、軽く握手を交わす。
「…っと、遅くならない内に済ませないと…。じゃ、サトルさん、また後で」
「ああ。お疲れ様」
シゲは再びオールを担ぐと、ぼく達に手を振って艇庫の方へと歩き去る。
「…かっこいい人っすね」
アブクマ君がぽつりと呟く。
「まぁね。女子の人気は高いよ。スポーツも勉強もできるし、ルックスも良いし、おまけに気さくだ。…気さく過ぎて困ると
ころもあるが…」
「先輩方、親しいんすか?」
「幼馴染みなんだ」
ぼくの返答で納得したのか、アブクマ君は頷く。
「ところで、部か…」
「お!?そこに居るのはもしや…、新入生かイワクニ!?」
部活は何処に?と聞こうとしたぼくの声は、今度はでかい声に遮られた。
再び振り向くと、大柄な牛獣人が立っている。
「そうだけど…」
「やはりそうか!どうだ!?輝かしい高校生活、ワシらと一緒に応援団員として皆を支えてみんか!?」
この無節操に勧誘を始めた焦げ茶色の牛は、応援団長の潮芯一(うしおしんいち)。ぼくの同級生だ。
名乗りもせずに勧誘を始めたウシオの事を、ぼくはとりあえず二人に紹介してやった。
ウシオは良いヤツだ。良いヤツなんだが、一言だけ言わせて貰いたい。
…空気読め…!
「うむ!君は実に良い体をしているな!声もでかいだろう?どうだ!?一つ応援団に!?」
ウシオはアブクマ君の肩をバンバンと叩く。
ぼくならつんのめるような馬鹿力だが、ウシオよりもさらに大柄なアブクマ君はビクともせず、困ったように鼻の頭を掻い
ていた。
「あ〜…、いや、悪いんすけど、俺はもう部活決めてるんで…」
「…新入生?」
「…え?あそこ?」
ウシオのでかい声が聞こえたらしい、部室棟の方からわらわらと人がやって来た。
集まってきた連中は、一様にアブクマ君に視線を向ける。
彼の巨躯を見た一同からは、感嘆の声すら漏れた。
「君!ぜひ空手部に!」
「いやいや!我が相撲部に!」
「何を言う! 彼はラグビー部にこそ相応しい!」
一斉に殺到する勧誘に、アブクマ君はたじろいだように後ずさる。
「アメフト部に!」
「ウェイトリフティング部に!」
「ボディビルダー部に!」
「美術部にぃっ!」
「う…、わ、悪いんすけど、もう部活は決めてるんで…」
大熊はたじたじしながら断りを入れるものの、連中には引き下がる気配はない。
「す、すんません!失礼します!」
アブクマ君はがばっと頭を下げると、小柄なイヌイ君を素早く小脇に抱えた。
そして、身を翻したと思うといきなり駆け出す。
かなり太っているのに、彼は驚くほど足が速かった。
グラウンドを縦断し、追い縋る一同を振り切って、しつこく食らいつくラグビー部の猛追をかわし、みるみる遠ざかって行く。
小柄とはいえ、イヌイ君を脇に抱えたあの体勢で…、とんでもない馬力だ…。
「せんぱーい!済みませーん!そして、案内ありがとうございましたー!」
二人が校門を抜けて消える寸前に、後ろ向きに、まるで手荷物のように小脇に抱えられたイヌイ君が、口に手を当ててメガ
ホンにし、ぼくに向かって叫んだ。
「おお。イヌイと言ったか?彼も良い声をしているな!」
隣で嬉しそうに呟いたウシオのすねを、ぼくは思い切り蹴飛ばした。
「いてっ!何だイワクニ?ワシ何かまずい事でもしたのか?」
「静かに見物させてやりたかったのに…」
二人に振り切られ、しぶしぶ引き上げてくる連中を眺めながら、ぼくは首を傾げているウシオの横でため息を吐いた。
…うちの部に入ってくれないかなぁ…。
そろそろ時間だ。今日は大事なイベントがあるんだから、遅れるわけにはいかない。
時間に気をつけて自主トレを切り上げ、寮へ戻る途中で、ぼくはばったりシゲと出くわした。
「あの二人、どうしたんです?」
寮への帰り道を並んで歩きながら、シゲはそう尋ねてきた。
「あの後やって来たウシオのアホが、大声で新入生だって事をバラしてな。…いやまぁ、本人にバラす意思も、バラした自覚
も無かったんだが…。結局部室棟の中まで聞こえて、ドッと勧誘が押しかけたんだ。二人とも大慌てで逃げ出したよ」
「あ〜、団長の声が聞こえたと思ったら、そういう事…。はは!それは災難でしたね。アブクマでしたっけ?あっちの熊は確
かに引く手数多だろうなぁ」
そう言うと、シゲはぼくの顔を横目で見て、口元に笑みを浮かべた。
「サトルさんも欲しいんでしょう?」
「当たり前だろ?」
…とは言ったものの、うちの部は今年も存続できるか怪しい…。
心配をかけるから、シゲにもウシオにも言っていないが…。
話をしながら歩いている内に、ぼく達は寮の前についた。
濃紺に塗られた四階建ての建物。ここが、ぼく達が寝起きしている第二男子寮だ。
ホテルを思わせる間取りの寮は、一階は談話室や食堂、二階が一年生の部屋、三階が二年生の部屋、四階が三年生の部屋に
なっており、それぞれの階を太い螺旋階段が繋いでいる。
ちなみに浴場は二階から四階に一つずつあり、学年別に利用している。
木に囲まれた裏庭には芝生がしかれ、ベンチや花壇がある。
物干し台が並ぶ屋上にもベンチがあり、それぞれは寮生が愛するくつろぎのスペースだ。
玄関を潜ると、そこは広めのホールだ。壁際にはいくつかのソファーがあって、いつも何人かが話をしている。
今日の夕方には新しく入寮する新入生がやって来る。
ここ五日間の内に入寮する決まりになっているので、今日来るのが最後の一団だ。
…と言っても、今日来るのは三人だけと聞いている。数十人を捌かなければならなかった昨日までを思えば気が楽だ。
言い忘れたが、ぼくはこの第二男子寮の今年の寮監だ。ちなみにウシオが副寮監。
なので、ぼく達は彼らに部屋を割り当て、案内しなければならない。
まずは荷物を部屋に置いて来て、それから新入生の到着を待つか…。
ホールを抜けて階段に向かおうとしたぼくは、ふと視界の隅に入った二人の姿に気付き、首を巡らせた。
「…あれ…?」
ぼく達に気付いた小柄な猫が、壁際のソファーから立ち上がってペコリとお辞儀した。
その横では、背もたれに両腕をかけ、天井を仰ぐようにして目を閉じて、大口をあけている大柄な熊。
二人の足下には、かなりの量の荷物が纏めて置いてある。
「さっきは、急に逃げ出しちゃったりして済みません。ありがとうございました、先輩。…サツキ君?サツキ君ってば…!」
ペコリとおじぎすると、イヌイ君は傍らのアブクマ君の肩に両手を当てて軽く揺する。
「んあ…?」
眠っていたのか、アブクマ君は薄く目を開けると、ぶるぶるっと頭を振って立ち上がった。
「あ、先輩方。さっきはどうも」
笑みを浮かべる彼は、黒いダウンジャケットを着ていた。
どうやら先程イヌイ君が着ていたそれは、元々は彼のものらしい。どうりでぶかぶかだった訳だ。
「もしかして二人とも、新しい寮生?」
シゲの問いに頷き、イヌイ君はポケットから封筒に入った文書を取り出した。
「えぇと…、第二男子寮に、十六時までに集合と聞いています」
…何て偶然だろう?この二人は寮生、しかもうちの寮に入る生徒だったのか。
「言いそびれたけれど、ぼくはここの寮監だ。もう一人来るはずだから、そうしたら…」
「もしかしてそれ、あいつの事っすかね?」
アブクマ君が視線を巡らせた先、少し離れたソファーに、犬獣人が座っていた。
彼の足下にも大荷物。という事は…、
「君も、今日入寮する生徒かい?」
ぼくの問いに、犬獣人は立ち上がりながら無言で頷く。
精悍な顔立ちに鋭い眼、三人目の新寮生はシェパードだった。
予定より一時間ほど早いけれど、揃った以上は案内を始めても良いか。
「おれも手伝いますか?」
「いや、大丈夫だ。有り難う」
シゲの申し出は有り難かったが、ぼくはやんわり辞退した。
まだ時間には早いからウシオも戻って来ていない。
本来は二人で当たる事だから、シゲはぼくを気遣って手伝いを申し出てくれたが、三人だけだ、ぼく一人で平気だろう。
「それじゃあ、名簿を確認して部屋の割り当てをする。その後は寮を案内しよう」
部屋に荷物を放り込み、代わりに取ってきた名簿を見つめる。
「えぇと…、まず阿武隈沙月」
「うっす」
アブクマ君が返事をし、ぼくは名簿に印をつける。
「乾樹市」
「はい」
イヌイ君が返事をし、また名簿に印をつける。
「忍足慶吾(おしたりけいご)」
「………」
犬獣人が無言で頷き、名簿に三つ目の印をつける。これで全部埋まった。
「揃ったところで、さっそく部屋割りを…。そうそう、寮の部屋は二人部屋になっていてね、名前順にもう割り当てられてい
る。まぁ、ルームメイトと上手く行かないようなら、部屋替えも有り得るが…。と言うわけで、さっそく部屋番号を教えるよ」
緊張しているのか、アブクマ君がごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。
あ〜…、解る解るその気持ち。へたな相手と相部屋になる事とか考えると気が重いんだよな。ぼくも二年前に経験したよ…。
…まぁ。結局ウシオと同室になったんだけどな…。
「アブクマ君とイヌイ君は102号室。オシタリ君はその隣の103号室ね。あ、103号には昨日の内にルームメイトが入っ
ているからよろしく」
オシタリ君は黙って頷く。そしてアブクマ君とイヌイ君は…、
「ぃやったぁぁぁぁあああ!!!」
突然あがった声に、ぼくは目を丸くした。
アブクマ君は子供を高い高いするようにして、イヌイ君をひょいっと抱き上げ、満面の笑みを浮かべていた。
「やったぜキイチ!相部屋だ!相部屋だぜっ!ぬははははっ!」
「ちょっとサツキ君!落ち着いて!」
「…っと…!わ、悪ぃ…」
アブクマ君はぼくとオシタリ君の視線に気付き、苦笑いしながらイヌイ君を下ろす。よほど嬉しかったんだろう。
まぁ、寮生活っていうのは、最初は不安なものだ。知り合いと同じ部屋なら少しは安心だしな。
かたやオシタリ君はクールだ。っていうか顔に全然表情がでないから、何を考えているのか全く判らない。
ぼくは三人を案内し、それぞれは自分に割り当てられた部屋に荷物を運び込んだ。
なお、103号の先住民は外出中だったので、オシタリ君は挨拶しそびれたようだった。
「…以上だけど、質問はあるかな?」
一通りの案内が終わった後、談話室で寮の決まり事などが書かれたプリントを渡し、説明を終えたぼくは、三人に問い掛けた。
長机を挟んで、ぼくが三人と向かい合う形だ。
「あ〜、うん…。たぶん大丈夫っす…」
なんとなく自信が無さそうなアブクマ君に、イヌイ君が苦笑する。
「覚えきれなかった分は、後で教えてあげるから」
この二人、外見も性格も全く違うけれど、とても仲が良い。
「オシタリ君は大丈夫かな?」
クールなシェパードはこくりと頷くと、初めて口を開いた。
「…先輩。終わりなら部屋に行きてぇんだけど」
「ああ、説明は終わりだから、あとは自由にしてて良いよ。お疲れ様、これからよろしく」
笑みを向けたぼくに、しかしオシタリ君は一瞥を投げかけただけで、無言のまま談話室を出て行った。
「ふん…。無愛想な野郎だなぁ」
アブクマ君はそう呟いたが、口調そのものには棘は無い。
彼に興味を覚えたのか、何処か面白そうな顔をして、口の端を上げている。
「ところで、二人は友達?中学が一緒なのかい?」
ぼくの問いに、二人は揃って頷いた。
「ええ。同郷で、幼馴染みなんです」
イヌイ君が頷きながらそう教えてくれた。なるほど、仲が良いのも納得だ。
「ところで…」
何度も邪魔が入ったが、やっと質問できそうだ…。
「アブクマ君、部活は何処にするつもりなんだい?」
アブクマ君は「ん?」と眉を上げ、ぼくを見た。
正直、羨ましいほど良い体格だし、向いていると思う。もしも入部してくれれば、間違いなく戦力になるんだが…。
…えぇい!ダメ元だ、勧誘してみよう!
「柔道部とかどうかな?もちろん無理にとは…」
「柔道部に入りてぇと思ってるんすけど…」
…ん…?同時に口を開いたぼくとアブクマ君は、
「え?柔道部に…、入りたい…?」
「先輩、もしかして柔道部なんすか?」
目を丸くして互いの顔を見つめ合った。
「…い…」
「い?」
「ぃやったぁぁぁぁぁあああああ!!!」
ぼくは机から身を乗り出し、アブクマ君の手をがっしり握った。
「え?な、何?ど、どうしたんすか先輩?」
戸惑っているアブクマ君の大きな手を、ぼくはブンブンと振る。
イヌイ君はというと、呆気にとられたようにぽかんと口を開けて、一人興奮しているぼくを見ていた。
アブクマ君は、中学でも柔道をやっていたそうだ。
その事を聞いたぼくは、何故彼の名前に聞き覚えがあったのか、やっと判った。
「もしかして、去年の中体連で全国二位の?」
「あぁ、そうっすね」
アブクマ君はあっさりと頷いた。
どうりで…。昨年、彼が進出した決勝トーナメントの映像はぼくも見た。
でも、相手選手もかなり大柄な白熊だったせいか、それほど大きくは見えていなかった。
映像と、実際に目にするのとではやっぱり違うな…。ここまでの巨体の持ち主だとは思わなかった。
彼は強い。初めて見た時、ぼくはビデオに釘付けになった。
絡め手が嫌いなのか、それとも苦手なのか、小細工抜きで正面から組み合うのを好む、シンプルで力強い柔道…。
準決勝の前半までは、時々動きが鈍っていたようにも見えたが、どっしりと構える落ち着いたスタイルが実に力強く、そし
て圧倒的だった。
ぼくは自分が柔道部主将である事を話し、歓迎の意を表した。
「主将だったんすか!改めて、これからもよろしく!」
アブクマ君はニカッと笑みを浮かべ、ぼくと握手を交わした。
やった!早くも一人確定!それもスーパールーキーだ!これはもしかしたら、もしかするぞ!
…いや、その前に…。
ぼくは現実を思い出し、笑みを消す。
アブクマ君は笑みを浮かべたまま、ぼくの様子を見てあどけなく首を傾げた。
…どう伝えようか…、我が部が置かれている、非常に危機的なこの状況の事を…。
「は…」
大柄なアブクマ君が、ガタンと椅子を倒して立ち上がる。
「廃部ぅぅぅううううううう!?」
向かいに座ったぼくの顔を見つめたまま、アブクマ君は呆気にとられたような顔をした。
「まだ決まった訳じゃない。でも、そうなる可能性も…」
「な、何で廃部になるんすか!?」
納得が行かないのだろう。アブクマ君は興奮したように身を乗り出す。
怒っているわけでもないんだろうが、体が大きいせいで、身を乗り出されると物凄い迫力だ…!
気圧されたぼくは、思わず仰け反るように身を引いてしまう。
「ぶ、部の存続条件を満たせないかもしれないんだ…」
「サツキ君、少し落ち着いて。まずは話を聞かなくちゃ」
イヌイ君が袖を引っ張ると、アブクマ君は「ぐぅ…」と呻いて椅子を立て直し、どすんと腰を下ろす。
不機嫌そうに身じろぎした彼の下で、重みを受けた椅子がギシッと悲鳴を上げた。
「…冗談じゃねぇ…。柔道やるって、キダ先生や皆とも約束したんだ、それなのによ…」
途方に暮れたような顔で、アブクマ君はぼそぼそと呟く。
「その存続条件というのを満たさないと、廃部になってしまう。そういう事なんですね?」
イヌイ君の問いに、ぼくは頷く。
「つまり、その条件さえ満たせれば、廃部にはならない。だから廃部はまだ決まったわけじゃない。そうですよね?」
重ねられた質問に、ぼくは再び頷く。
「ほらね?まだ決まった訳じゃないんだ。元気出して、ね?」
そうイヌイ君に声をかけられると、アブクマ君は黙って頷いた。
「それで、存続の条件というのは?満たすのは難しい事なんですか?」
イヌイ君の問いに、ぼくは部の存続条件を説明した。
「条件は二つ…。まず一つは、部員の確保だ」
「部員って…、何人必要なんすか?」
「我が校では最低三人の部員が居ないと部とは認定されない。だから昨年の三年生が卒業した今、二人以上新入部員を確保で
きないと…」
アブクマ君はほっとしたように表情を緩めた。
「なんだ。三人なら問題な…」
言いかけた言葉が、途切れた。熊獣人はまじまじとぼくの顔を見つめる。
「えっと…、主将だろ?俺だろ?…あとは…?」
「うん。現在の所、ぼくとアブクマ君しか居ない」
アブクマ君とイヌイ君はぽかんと口を開けた。
「つまり…、上級生の部員は…、イワクニ先輩しか居ないわけですね?」
「…そういう事だね…」
「…柔道…、人気ねぇんすかね…」
「そんな事はないさ!…ただ…、この辺じゃ川向こうの学校が柔道強いし…、最初から柔道やりたい子は、ほとんどあっち行っ
ちゃうだけで…」
イヌイ君とアブクマ君にそれぞれ答え、ぼくは話を続けた。
「…ごほん!えぇと、次の二つめは顧問の確保。まぁ、これはぼくが先生方に掛け合う他無いね」
アブクマ君は、口の端を吊り上げ、笑みを浮かべた。
「へっ!部員はここに二人、最低あと一人見つけりゃ良いんだ。簡単な事っすよ!」
「でも僕達、まだ知り合いも全然居ないよ?」
「明日入学式だろ?それが終わったら当然、勧誘やるっすよね?主将」
難しい顔をしているイヌイ君にそう応じると、アブクマ君はぼくに話を振った。
「そうだな。一応…、ビラなんかも用意してるが…」
「うし!んじゃ明日中にとっとと部員確保だ!心配しねぇでも、声かけられなくたって柔道やりてぇヤツの一人や二人、きっ
と居るっすよ!」
笑みを浮かべながら、アブクマ君はうんうんと頷く。どうやらやる気満々な様子、なんだか頼もしいぞ!
「ビラ配りなら、僕も手伝います」
イヌイ君も微笑みながらそう言ってくれた。これは、運が向いて来たかもしれない!
「そりゃそうと…」
アブクマ君はぼくの顔に視線を向け、口調を改めた。
「俺達は後輩なんだ。君付けなんぞ必要ねぇっすよ、主将」
彼の隣でイヌイ君も頷く。
「ええ。呼び捨てにして下さい」
「でねぇと、なんか落ち着き悪ぃっす…」
アブクマ君はそう言って苦笑した。
「うん、判った。そうさせて貰うよ」
ぼくが笑みを浮かべて頷くと、二人も揃って笑顔を見せてくれた。
…考えてみれば、部活で後輩ができる事が無かったせいか、親しい後輩なんてシゲの他には数人しか居ない。
会ったばかりの二人にいきなり先輩扱いされて、なんだかこそばゆい気分になった…。
「ビラ、後で見せて貰えるっすかね?」
「あ、僕も。配る前にちょっと見てみたいです」
そう言ったアブクマとイヌイに頷いたぼくは、スッと、静かに開いた談話室のドアに視線を向けた。
焦げ茶色の、大柄な牛獣人が、のそっと室内に入ってくる。
ぼくの視線に気付き、アブクマとイヌイも後ろを振り向いた。
「あ、ウシオ。悪いけれど、時間前に全員揃ったから先に入寮手続きを…」
「何故黙っていた?」
ウシオはぼくの言葉を遮り、開口一番そう言った。…って、あれ?ウシオ…ちょっと怒ってる…?
「部の存続の危機だなどと…、そんな大事な事を、何故ワシには一言も言わなかった!?」
…今の、聞いてたのか…?ウシオの目は吊り上がり、鼻息は荒い。
「済まない。心配をかけると思って黙っていたんだ。それに、言ってどうなるものじゃないだろう?」
ぼくが素直に詫びて、気遣いをさせたくなかったから黙っていた事を告げると、
「…水くさいぞ、イワクニ…」
ウシオは一転して哀しげな顔をして、そう呟く。
「幸い、応援団は人員に不足は無い。今年の入団希望者から、柔道部へ何人か…」
「団長権限で退団させて回すとでもいうつもりか?このアホウシ!」
今度はこっちがカッと来た。ぼくは立ち上がり、ウシオを睨み付ける。
「そんな事で入部した部員が、柔道部員と言えるか?そんな部員で人数を合わせて存続したところで、柔道部と言えるのか?
第一、その生徒達の意思はどうなる!?」
「…それは…」
「否!断じて否だ!そんな存続の仕方、ぼくも、卒業して行った先輩方も望んでいない!」
ウシオは口を引き結んで「むぅ…」と唸ると、肩を落とした。
「…済まん…。気が利かん事を言った…。無神経だったな…」
しょぼくれたウシオの顔を見たら、冷静さが戻ってきた。
…ちょっと…きつく言い過ぎたな…。ウシオはぼく達の為を思って、善意で提案してくれたのに…。
「…いや、悪い…。ぼくも言い過ぎた…。座れよ。改めて二人に紹介しよう。さっきはドタバタしてろくに挨拶もできなかっ
たからな」
「む…」
ウシオはのしのしと歩いてくると、ぼくの隣の椅子を引き、腰を下ろした。
「学校ではゆっくり挨拶できなかったな。副寮監の潮芯一だ。改めて、よろしく頼む」
「阿武隈沙月っす。こっちこそよろしく、ウシオ団長!」
「乾樹市です。至らない事ばかりかと思いますが、よろしくお願いします。ウシオ先輩」
アブクマはニカッと笑みを浮かべて挨拶し、イヌイは微笑みながら丁寧に挨拶する。
「そうだ。寮内の案内を…」
「済んだよ。さっき言っただろう?」
「む?そうだった…」
ウシオは頭をガリガリ掻く。
「もう一人居るけれど、もう自室に戻っている。あとで点呼を取る時に挨拶しような」
「点呼って、何時くらいなんすか?」
「寮の門限が九時だから、九時半開始で下から順に点呼に行く。君らの部屋は最初から2番目に点呼を取りに行くよ」
「ワシらが点呼に行く時間には、なるべく部屋に居て貰えると助かる。でないと、何周もするハメになってしまうからな」
ぼくとウシオの言葉に、アブクマとイヌイは頷いた。
「そうだ。せっかくだから聞いておきたい事があれば、このウシオに何でも聞いてやってくれ。…仕事したいんだろウシオ?」
「うむ!出遅れたからな、引き受けよう!」
体はでかいし顔は恐いが、ウシオは良いヤツだ。
二人と早く打ち解けられるように気を利かせて、ぼくはそっと自室に戻った。
大量に作ったビラをトントンと机の上で揃え、ぼくはこれから始まる最後の一年を夢想する。
万年弱小だった我が校の柔道部だけれど、早くも有力な新人が入部してくれる事になった。
…今年こそは、汚名返上できると良いな…。