序話・参 〜宇都宮充〜
やっとの事で入学式と、上級生との対面式が終わり、ボクは他の新入生と一緒に教室へ向かった。
この学校の校長、獅子獣人の海原鋼悟郎(うなばらこうごろう)校長は、厳格な事で知られている。
新入生に対する初の挨拶も、やはり堅苦しいものだった。…しかもやけに長い…。
ゾロゾロと続く新入生の列から、廊下の途中で一人だけ離れて、手洗いに入る。
鏡を見て、被毛の跳ねや衣類の乱れをチェック。
最近は減少傾向にある黒い学生服は新品で、艶やかに光を照り返す。
…よし、身なりは問題無し…。
自分で言うのもなんだが、ボクは優等生だ。
成績は上位だし、中学の時も生徒会役員を務めている。この星陵にも推薦で入った。
だが、正確には優等生を演じていると言った方が良いだろう。
規則を守るのが好きな訳でもないし、勉強が好きな訳でもない。
優等生であれば学生としての校内生活が格段に過ごしやすいから、優等生であるよう務めているだけだ。
真面目で、勉強がそこそこできれば、先生方の評価が良くなる。
そして厄介事には近付かなければ、面倒事とは無縁でいられる。
それらによって、快適なスクールライフが約束される。
それがボクの持論であり、実際にこれまでこの方針に従って来て、面倒に巻き込まれた事は一度も無い。
眼鏡の位置を微妙に直し、フサフサした自慢の尻尾の毛並みを確認…、よしバッチリ。
身だしなみを確認し終えたボクは、手洗いを出て教室に向かう。
第一印象は大切だ。担任の先生にしっかり優等生のイメージを植え付けなくては…。
ボクは宇都宮充(うつのみやみつる)。星陵ヶ丘高校の新入生だ。
狐の男子で、縁無し眼鏡がトレードマーク。もっとも、伊達眼鏡なんだけどな。
教室のドアを開けたボクは、目の前に聳える黒い何かに直面し、立ち止まった。
何故入り口に壁が?一瞬そんな事を考えた。
顔を上に向けると、茶色いフサフサした毛が視界に入る。…頭…?
…驚いた事に、この巨大な物体は生物。しかもどうやら人類であるらしい。
加えて言うならば制服を着ている事から、この学校の生徒である事が覗える。
縦だけでなく、横にも広いその巨大生物は、ドアが開いた事に気付いたのか、ボクを振り返る。
ボクよりも四十センチ近く高い位置にある目が、少しだけ大きくなった。
巨大生物の正体は、恐ろしくでかい熊獣人だった。何を食ったらこんなにでかくなるんだろうか?
さらに驚いた事に、襟章を見るとこの大熊は一年生…、つまりボクと同学年らしい。…ひょっとしてダブりか?
「…中に…入りたいんだけど…?」
驚きが治まり、ようやくそう声をかけると、
「おお。悪ぃ悪ぃ!」
大熊は太い指で頬を掻きながら苦笑し、のっそりと横に動いて道を開けた。
大熊が横に退いてから初めて気付いたが、彼の前にはもう一人の生徒が立っていた。
こちらはえらく小柄な、クリーム色の猫獣人だ。
…見覚えがある。確か、推薦入試で見た顔だな…。
彼もボクを覚えていたのか、微笑みかけられた。
猫に軽く会釈して、道を空けた二人の脇を通り抜けようとしたその時、
「待てよ」
頭上から声がかかり、ボクは足を止めた。
振り向くと、目の前に大きな熊の顔があった。
熊獣人は腰を折って、グイッと身を乗り出して目を細め、何やら喉の奥で唸りながら、ボクの顔を鼻先が触れそうな程の距
離で見つめていた。近い近いっ!
思わず仰け反ったボクの顔を、熊獣人はさらに身を乗り出し、執拗に見つめる。
…もしかして、通せと言った事が気に障りでもしたのか?
気付けば教室は静まりかえり、皆がボクらの方を見つめていた。
誰もが息を押し殺している静かな教室の中で、熊獣人の微かな唸り声だけが聞こえている。
ちらりと視線を向ければ、ボクと同室のあいつは、こちらに視線を向けるでもなく、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
…別に、助けなんか期待してなかったけどな…。
「…おい」
熊獣人は、ボクの顔をじっと見つめながら口を開いた。
「お前もしかして…、ウッチーじゃねぇのか?」
…は?
呼ばれることの無くなって久しい、ボクが父の転勤先、東北地方に住んでいた頃の、昔のあだ名…。
この熊、何故このあだ名を知っているんだ?
「やっぱりそうだ!お前宇都宮だろ!?懐かしいなぁおい!」
熊獣人はニカっと笑みを浮かべると、ボクの肩を掴んでがっくがっくと揺さぶった。
その無邪気な笑みを見た途端、ずっと昔…、ボクがまだ小学生だった頃の事を思い出した。
「知り合いなの?」
クリーム色の猫獣人が大熊に尋ねる。
「おう!小学三年まで一緒だったんだ!引っ越してってそれっきりだったけど、まさかこんな離れたトコで会えるとはなぁ!」
大熊は猫に応じつつ、ボクの肩を掴んだまま、嬉しそうに笑っている。
もしかして…?いや、間違いない、この熊…!
「ブーちゃんなのか!?」
驚きながらそう尋ねると、大熊は鼻の頭を指先で擦りながら苦笑いした。
「そういやぁ、そんなあだ名もあったっけなぁ…」
猫獣人は不思議そうに首を傾げ、熊の顔を見上げた。
「ブーちゃん?」
「おう、アブクマのブを取って「ブーちゃん」って呼ばれててな。…と言いてぇとこだが、実際にはデブだったからブーちゃ
んだな」
ボクの旧友、阿武隈沙月(あぶくまさつき)がそう言うと、クラスのあちこちからクスクスと押し殺した声が漏れた。
が、彼が首を巡らせて一瞥すると、笑っていた生徒達は黙り込む。
…まぁ無理もない。この見てくれだ、刺激したくはないだろう。
アブクマは苦笑を浮かべると、鼻の頭をポリッと掻いた。
「まぁ、子供ってのは正直なもんだ。我ながら笑えるあだ名つけられたもんだぜ。ぬはははっ!」
緊張した教室の空気が、アブクマの笑い声でフッと緩んだ。
相変わらずおかしなヤツ…。
がさつでずぼら、ぞんざいな口調と態度、ガラの悪そうな言動とは裏腹に、場を和ませる事も、引き締める事もできる。
威圧感とも違う妙な存在感が、こいつにはある。
クラスメート達に笑いかけていたアブクマは、ボクに向き直ると、興味深そうに尋ねてきた。
「眼鏡なんかかけちまって、雰囲気ちょっと変わってたから、最初は解らなかったぜ」
「あれから何年経つと思ってるんだ?変わってなかったらおかしいだろう。それと、これは伊達眼鏡だ」
「ぬはは!違いねぇや!そういや、この近くに家があんのか?」
いきなり、触れられたくない辺りの話題になった…。
「…いや、住んでいた場所はちょっと遠い。一昨日からここの寮に入っているんだ。キミこそ今はどうしているんだ?こっち
に引っ越したのか?」
突っ込んで訊かれる前に、ボクはアブクマの現況に話題を振る。
「家は今でも変わってねぇよ。俺も夕べから寮暮らしだ」
「なるほど。…それにしても…」
ボクはまじまじとアブクマの顔を見つめた。
「ん?」
この首を捻っている大熊、言っちゃ悪いが頭はあまり良くなかったはずだ。
まだボクが同じ小学校に居た当時、かけ算をマスターできなくて難儀していた、…っていうか結局投げ出したのを良く覚え
ている。
なのに、決してレベルは低くない、進学校であるここに受かっているのが驚きだった。
「それにしても、何だよ?」
「いや、何でも…。ところで、寮は何処なんだ?ボクは第二の103号だが…」
「え?それじゃあお隣さんだね?」
黙って話を聞いていた猫が、少し驚いたように口を開いた。
「だな。俺達102だ。…っと、紹介しとくぜ」
アブクマは傍らの猫獣人に視線を向けた。
「こいつは乾樹市(いぬいきいち)。俺の幼馴染みで、ここに入学させてくれた恩人だ」
アブクマが笑みを浮かべると、猫獣人は微笑みながら会釈した。
「イヌイです。よろしくね、ウツノミヤ君」
「宇都宮充だ。よろしくイヌイ」
ボクが会釈を返すと、イヌイは「あれ?」と首を傾げた。
「103号室だと、オシタリ君と一緒?」
「ああ。そうだけれど、もしかしてキミらの知り合いか?」
問いかけると、イヌイは首を横に振る。
「昨日、僕達と一緒に入寮したんだ。無口なひとみたいだね?まだ話もしていないよ」
ああ…。まぁ、確かに話さないよなアイツ…。
ボク達は首を巡らせ、窓際の席で、頬杖をついて窓の外を眺めているジャーマンシェパードに視線を向けた。
忍足慶吾(おしたりけいご)。ボクのルームメイトだが、無愛想で極端に無口だ。
緊張しているだけなのかと思ったが、どうも違うらしい。
昨日の夕方に初めて会ってから彼が口にした言葉は、「オシタリだ」という第一声と、ベッドは下で良いか?というボクの
問いに対しての「ああ」と言う返事だけ。
点呼に来た寮監達にも、返事もせずに頷くだけだった。
ボクも度を越してギャアギャアうるさいようなルームメイトは望んでいなかったが、ここまで無口だとさすがに居心地が良
く無い。というよりむしろ過ごし難い。
「ま、せっかくお隣さんになれたんだ。よろしくなウッチー!」
「ああ、よろしくブーちゃん」
「…できれば…、「ブーちゃん」やめてくんねぇかな…?」
不満だったのか、昔馴染みの大熊は顔を顰めて鼻の頭を掻き、イヌイは小さく吹き出した。
それから程なくして、教室にやってきた担任は、黒板にカッカッと名前を書いてから、ボク達に向き直った。
でっぷりした腹を揺らして、のっそりと。
ボク達の担任は、虎獣人だった。
…だが、これまでにボクが抱いていた虎獣人のイメージを、根底から覆すような虎だ。
黒縁眼鏡の奥の目は眠たげに細められ、長くて太い縞々の尻尾は、尻から力なくだら〜っとぶら下がっている。
膨れた頬。ダブついた顎。身に付けているのはよれよれの白衣。
そして開いた白衣の前からは、ワイシャツのボタンが飛びそうな、丸々とした腹が突き出ている。
かなり大柄な上に、でっぷりむっちり肥えている。
背はアブクマの方が高いだろうが、ボリュームでいうなら良い勝負だろう。
黒板には白いチョークで、寅、大、のたった二文字が、でかでかと書いてあった。
「あ〜…。今日から君らの担任を務める、トラだ。下の名前はこれでヒロシと読む。一年間、よろしくなぁ」
大虎は間延びした口調で名乗りながら、クラス全員の顔をゆっくりと見回した。
中年太り。…というか、明らかに太り過ぎなその虎からは、なんというかこう、覇気に欠けた、だらしない印象を受ける。
虎というと、もっとこう雄々しくて、精悍なイメージがあったんだが…。
まぁ、担任である事は間違いない。
マイナスイメージを抱いている事は、ばれないように振る舞おう。
優等生である印象を刷り込んでおけば、後々も楽だし…。
それにしても、だ…。ボクは前に座る二人の背中を見る。
座席は名前の順だ。
窓際の先頭から、男子、女子が列ごとにそれぞれ順番に座っているが、ボクの前には先程言葉を交わした二人が座っている。
アブクマ、イヌイ、ウツノミヤ…。そしてボクの後ろには、ろくに会話していないルームメイト、オシタリの順だ。
何でこの付近にクラスの獣人が集中しているんだ?まぁ名前順だから偶然なんだが…。
いや、問題はそこじゃない。そこじゃなくて…、
「では、今日は以上だ。明日の始業式は、新入生の君らは休みになるから、うっかり教室に来るなよぉ?早く勉強を始めたい
気持ちは解るが…、いやぁ、やっぱり解らないが、授業は無いからなぁ?」
学園生活についての諸注意を説明していたトラ先生は、やたらとのんびりした口調でそう言い、クラスの皆がクスクスと笑う。
「まぁ、新生活に慣れるまで少しかかるだろうから、明日一日はの〜んびり過ごせば良い。私からは以上だが、何か質問はあ
るかぁ?」
先生の問いに、クラスの女子の数人が手を上げた。
「あ〜、それじゃあ…、角田、何だぁ?」
先生が指名すると、女子の一人が立ち上がる。…ん?
「はい!先生は、結婚してるんですかぁ?」
…お約束とはいえ、こういう質問って失礼だよな…。
「ははは。独り身だなぁ。見ての通り、モテないんでなぁ」
肥満虎は目を細めて笑う。…そら見ろ。結婚してなさそうだ、とか想像できるだろう?その位は察してやれよ女子。
…それにしても…。
「じゃあ次…、野村」
指名された別の女子が立ち上がる。…まただ…。
「お独り暮らしなんですか?」
…それはそうだろう!?聞かなくても解るだろうが!
「うん。アパートで気楽な独り暮らしだ。それじゃあ次は…」
先生は次々指名し、好奇心丸出しの不躾な女子達の質問に答えて行く。
…やっぱり…そうなのか?
「えぇと次は…。イヌイ、何だぁ?」
あれ?イヌイ?いつのまに手を上げていたんだろう?
席を立った小柄な猫は、不思議そうに小首を傾げ、先生に質問する。仕草が何だか可愛い。
「全員の名前、もう覚えていらっしゃるんですか?」
イヌイの質問で、クラス中が小さくざわめいた。
アブクマが首を巡らせて、立っているイヌイを振り返る。
「あれ?そういやそうだな…。何で名前解んだろ…?」
そう。ボクもそこが気になっている。
先生は、名簿を見るでもなく、指名する生徒の名前を呼んでいた。
ボクらと顔をあわせるのは、今日が初めてのはずなのに、だ。
「あ〜。まぁ下の名前はまだ自信がないんだが…、苗字と顔だけは、資料と睨めっこしてなんとかなぁ」
クラスが小さくざわついた。何人かはすっかり感心した様子で、眠そうな顔をしている肥満虎を見つめている。
「ん〜、質問は以上かぁ?…本当は、校則や行事上の事での質問は無いかと聞きたかったんだがなぁ、私なんかの事じゃあな
く…。もし体重でも訊かれたらどうしようかとビクビクしたぞぉ?」
先生がぼ〜っとしてるような弛んだ笑みを浮かべながら言うと、教室が笑声に包まれた。
「それじゃあ、今日はここまでにしようかぁ。気をつけて帰れよぉ?」
トラ先生はそう話を締め括ると、アブクマに視線を向けた。
「あ〜。悪いけどアブクマ、学級委員が決まるまでは、号令頼むなぁ」
「うす!」
アブクマが立ち上がり、起立、礼の号令をかけると、皆はザワザワと帰り支度を始めた。
今日はこのまま下校して良い事になっている。けれど…、
「先生」
教室を出ようとしていた先生を、ボクは後ろから呼び止めた。
「ん〜?どうしたぁ?」
振り返り、眠そうな細目で見つめてくる先生に、気になっていた事を話してみる。
「ボクの前の席のイヌイなんですが」
「うん?」
「一番前のアブクマの陰になって、前が見辛いようです」
「あぁ〜…」
先生はゆっくりと頷くと、細目をさらに細める。
…なんだか今にも眠ってしまいそうな顔だ…。
「良く気が付いたなぁ。うん。アブクマは大きいもんなぁ。…判った、二人に話してみて、あそこだけでも席替えをしてみるか」
先生は帰り支度をしていた二人を呼び、さっそく席順について話をした。
「先生。俺、キイチの後ろで良いっすよ」
アブクマはそう言うと、傍らのイヌイの肩をポンと叩いた。
普通の身長ならそうでもないのだろうが、小柄なイヌイはアブクマの横に乗り出すようにして、窓際の壁にある週予定を見
ていた。あれじゃあさすがに不便だろう。
「それじゃあ二人の席を交換するか。ウツノミヤは大丈夫なのかぁ?」
「あ。ボクは平気です」
先生はボク達に頷き、
「じゃあ、明後日からはその順番でなぁ」
そう言って教室を出て行った。
「ほんとに済まねぇキイチ…、目隠しになっちまって…。ウッチーも、気付いてくれてありがとな?」
「そんなヘコまないでよサツキ君…。体が大きいのは落ち度でも何でもないんだからさ」
「忘れるなよ、一つ貸しだぞ?…アブクマへのね」
耳を伏せて眉尻を下げ、情け無い表情を浮かべたアブクマの顔を見上げ、ボクとイヌイは揃って小さく吹き出した。
急ぎの用事でもあるのか、二人は話が終わると足早に教室を出て行った。
…なお、ボクらが先生と話している内に、オシタリのヤツは姿を消していた。
円満な学園生活を送るためにも、級友達とは過不足無く友達付き合いしておくのが好ましい。
その点に関しては、アブクマとイヌイとは難しくないだろう。
だが、問題は同部屋のオシタリだ。話しかけても頷くか首を振るかのリアクションしか返って来ない。
一人で話し続けるのも馬鹿らしいので、昨夜はボクもあまり喋らずに過ごした。
新品の靴を履いて玄関を出た所で、聞き覚えのある声を耳にし、ボクは足を止めた。
「柔道部です。よろしくお願いします!」
部活の勧誘だろう。ビラ配りをしている先輩方の中に、線の細い五分刈りの人間男子…、第二寮の寮監を務める三年生、イ
ワクニ先輩の姿があった。
あの線の細い先輩が柔道部だなんて、少し意外だ。って…。
「アブクマに、イヌイ?」
先輩の両隣には、足早に教室を出て行った二人の姿がある。
「やぁウツノミヤ。今帰りかい?」
歩み寄ったボクに、イワクニ先輩が笑顔を向けた。
「お?丁度良かったウッチー!柔道部一ついらねぇか?」
先輩に会釈したボクに、アブクマがグイッとビラを突きだした。
…それ、勧誘のセリフにしてはおかしいぞブーちゃん?
「運動部に入るつもりは無いんだ。悪いけど他当たってくれないか。…それにしても…」
ボクは通りかかる新入生に歩み寄り、ビラを配って回っているイヌイに視線を向ける。
「意外だな。彼も柔道部なのか?」
「いや、あいつは手伝ってくれてるだけだ。他にやりてぇ事があるんでな」
「やりたい事?」
聞き返したボクに、アブクマは困ったような顔で頬を掻いた。
「何なのかは知らねぇ。照れ笑いするばっかで、教えてくれねぇんだよ…」
正直、柔道部には興味無いし、どうでも良いんだが…。
「よし、ボクも手伝おう。早く帰ってもどうせ暇だしな」
「良いのかいウツノミヤ?」
手早くビラを配っていたイワクニ先輩が、振り向いてボクを見た。
「ええ。少し分けて下さい。皆が帰るまでが勝負ですから、人数居た方が有利です」
ボクは三人からビラを分けて貰い、柔道部の勧誘に協力した。
断っておくと、別に善意だけでこんな酔狂な真似をしている訳じゃない。
協力する事で寮監である先輩に好印象を持たせる事もできるし、隣部屋の二人と交友を深める事にもなる。
いわゆる、人脈という名の見返りを求めての行動だな。
ボクは手早く新入生を捕まえ、一枚ずつビラを渡して行く。
…考えてもみれば、柔道部に入らないボクが勧誘するというのも妙な図式だ…。まぁ、イヌイも同じだが…。
数分の内に、だんだん人が少なくなって来た。そろそろ皆帰り終える頃か…。
そんな事を考えながら玄関に目を向けると、見覚えのある犬獣人の姿が目に映った。
…オシタリ?ボクらより先に教室を出たはずなのに、まだ残っていたのか?
ボクはオシタリに歩み寄って、ビラを差し出した。
「どうだオシタリ?柔道部に入ってみないか?背も高いし筋肉質だし、向いてるんじゃないか?…良く判らないけど」
オシタリは足も止めずに無言でちらりとボクを見たきり、ふいっと視線を逸らしてそのまま脇を通り抜ける。
「あ、おい。オシタリ」
「………な…」
「え?何だ?」
ぼそっと呟いた声が聞き取れず、ボクは聞き返した。
オシタリは足を止め、首だけ巡らせてボクを見る。
…いや、見る、なんて感じじゃない。睨む、と言った方が正確だ。
「俺に構うな。部活なんて下らねえモノに費やす時間はねえんだよ」
そう吐き捨てると、オシタリはさっさと歩き去る。
…なんなんだあいつ…!?
別に部活に興味がないならそれでもいい。でも、他にもっと言い方があるだろう!?
ボクはムカムカしながら、ビラを整え、ふと気になって先輩達に視線を向ける。
…先輩も、アブクマも、イヌイも、こっちを向いていた。
どうやら聞こえていたらしい。帰る生徒も少なくなっていたから、こっちに注意が向いていたんだ。って…!
ボクは少し注意してアブクマを見る。…苦笑いしているが、どうやら怒ってはいないらしい。
…今はどうだか知らないが、以前は一旦キレると手が付けられないヤツだったから、少しばかり警戒してしまった…。
イワクニ先輩も苦笑している。
オシタリがどう思われようとボクには関係ないが、あの無礼な物言いも許容してくれるらしい。
まったく、お優しい事で…。
イヌイだけが、なにやら難しい顔でオシタリが去って行った校門を眺めていた。
その細められた目に、共感のような、そして憐れむような、少し悲しげな光が宿っていたように見えたのは、ボクの気のせ
いだろうか?
寮も同じだから帰る先は一緒だ。
ボクはアブクマ、イヌイと一緒に寮へ戻り、彼らの部屋にお邪魔して、テーブルを囲んで話をしていた。
イワクニ先輩はビラ配り後、副寮監のウシオ先輩と一緒に、用事があるから、と何処かへ出かけた。
別れ際にボクの手を握り、何度もお礼を言っていた。
あんな腰が低い事で、寮監が務まるんだろうか?
「へぇ。アブクマの勉強、キミが見てやったのか」
ボクは感心して、野菜ジュースを啜っているイヌイの横顔を見た。
「大したことはないよ。サツキ君、コツを飲み込むのが早いからね。手こずったのは暗記ものだけ」
イヌイがそう言って笑うと、大熊は居心地悪そうに身じろぎする。
アブクマの話では、イヌイは推薦入試を満点で突破したらしい。
そんなヤツが居たとは聞いていたけれど、まさか彼がそうだったとは…。
イヌイは物静かで落ち着いている。おまけに頭も良い。たぶん、上手くやって行けるだろう。
アブクマは極めて大柄で、確かに見た目は取っつきにくい。
でも、裏表がない馬鹿正直な性格で、口調はぞんざいだが乱暴なヤツじゃない。…普段は…。
悪いヤツじゃない事は重々知っているから、気楽に付き合っていける。
イワクニ先輩もいい人そうだ。「いい人」というのは褒め言葉にも貶し言葉にもなるが、今回は悪い意味じゃない。
ウシオ先輩は単純そうだし、寮監の二人とは適度な付き合いができるだろう。
問題は、オシタリだ。
無口で無愛想。そう思っていたけれど、どうやら少し違うらしい。
さっき見たあの表情と態度…、関わりを拒絶する感じがあった。
まぁ、それならそれでも良い。ボクには心配してやるべき義務もないしな。
交友関係無しでの学生生活は、決して滑らかには回らない。それで良いなら好きにすればいいさ。
「ところで、今みんなはどうしてる?イイノとか…、ナギハラとか…、あと、なんて言ったっけ?ほら、アブクマといつも一
緒に居た…」
ボクが昔の級友の事を尋ねると、アブクマとイヌイの顔色が変わった。
なんだか、悲しそうな、寂しそうな?
「…ケントか…」
アブクマが呟くように言った。
そうだ。そういう名前だったな、あの犬獣人。
確か「けんちゃん」って呼ばれていたっけ。何かあったのか?
「ケントは…一昨年の春に、事故で…な…」
みなまで言わなくとも、二人の表情で判った。
…事故死、か…。一昨年といえば、まだ中二の頃だ。それほど親しかった訳じゃないが、少しばかり心が痛んだ。
「そうか…。済まない。辛い事を思い出させて」
「いや、良いんだ。忘れちゃいけねぇ事なんだよ。俺達が憶えておいてやる事も、あいつが生きた証の一つだ」
アブクマは、少し寂しそうにそう言った後、微苦笑した。
「ま、キイチの受け売りなんだけどな」
「どうりで、キミらしくない含蓄のある言葉だと思った」
「ぬははっ!やっぱりそう思ったか?」
ボクの軽口に頭を掻きながら苦笑いで応じ、アブクマは他の級友達の事を話してくれた。
それほど恋しいと思った事は無かったが、話を聞くうちに、懐かしい気持ちにはなった。
…遠くだから簡単には行けないが、いずれ、足を伸ばしてみるかな…。
オシタリはその夜、門限ギリギリに帰ってきた。
点呼に来たイワクニ先輩の態度は、別に変わった様子は無かった。
あんな事を口走った生意気な一年坊を前にしても、だ。…本当に人が良い。
名を呼ばれたオシタリが面倒くさそうに頷いただけなのも、昨夜と同じだった。
順風満帆にスタートするはずのボクの高校生活において、こいつの存在だけが想定外だった。
「なあ?部活やる暇が無いって、何か別にしたい事があるのか?」
ボクの問いに、オシタリは答えない。
机に座り、ただ黙ってタウン誌を読んでいる。
何処に行っていたのかは知らないが、帰ってきてからずっとこの調子だ。
「やっぱり、部活なんかより遊びに時間を使いたいのか?」
答えはまぁ、無いだろう。期待していなかったが、予想外にも返事があった。
「…せぇ…」
「ん?」
「…うるせぇ…」
聞き返したボクの耳に、シェパードが発した低い声が忍び込む。
「な、なんだよ?ボクが何か気に障る事言ったか?」
少しムッとして言うと、オシタリはギロリとボクを睨んだ。
「…オレに…構うな…」
「…!…判ったよ…!」
ボクはそのまま寝室に向かい、ベッドによじ登った。
平静を装ってはいたが、オシタリが向けた鋭い眼光に、体が竦むような思いだった。
声を荒げられた訳でもない。
なのに、あの目には怒鳴られるよりも遥かにキツい迫力があって…。
スタンドの灯りをつけて、本を開いたものの、イライラして内容が頭に入ってこなかった。
…一体なんなんだ?あいつ…!