序話・五 〜阿武隈沙月〜

目覚めた俺は、ベッドの中で大きく伸びをしてから起き上がった。

二段ベッドの天井を見上げ、それからそっとベッドから出る。

背伸びしてつま先立ちになって上の段を覗き込むと、ルームメイトはまだ眠ってた。

今日は始業式だ。つっても、今学期の始業式は二年と三年の先輩達だけが出席する。

昨日入学式を済ませた俺達一年は、なんとも有り難ぇ事に丸一日休みだ。

寮の食堂は今日から開いてる。俺達も使えるらしいから、キイチが起きたらさっそく行ってみるか。

…ちっと腹は減ってるけど、それまで我慢我慢…。

元気のねぇ音を出した空きっ腹を撫でて宥めながら、リビングを横切って、洗面台と流しがある反対側の部屋に向かう。

顔を洗って歯を磨きながら、流し台と電子コンロを眺め、ふと思いついた。

午前中は買い物に出るか。せっかくコンロがあるんだしな、調理器具揃えとこう。

今日の始業式は午前で終わる。

その後はイワクニ主将に柔道場に連れてって貰う事になってるから、昼飯を食ったら学校に行くつもりだ。

っと…、今のうちに今期初の自己紹介、やっとくか。

俺は阿武隈沙月(あぶくまさつき)。星陵ヶ丘高校一年で、柔道部。…所属予定。

濃い茶色の被毛に、胸元の白い月輪がトレードマークの熊獣人だ。



「………んぅ〜………」

腕立てをしていたら、クリーム色の猫獣人が、ぼーっとした寝起きの顔で寝室から出てきた。

「おう、おはようキイチ」

猫は返事もしねぇで目を擦りながら、ふらふらと向かいの部屋に入ってく。

それからややあって、ジャブジャブと水の音が聞こえ始めた。

あいつ朝に弱ぇんだが、今日は結構起き出すの早かったなぁ。

黙々と筋トレを続けながら数分待つと、クリーム色の猫は、タオルで顔をごしごししながら戻ってきた。

「うん。おはよう、サツキ君」

すっかり目が覚めたらしい。やっとさっきの挨拶の返事が返ってきた。

こいつは幼馴染にしてルームメイト。そして俺の自慢の恋人でもある、乾樹市(いぬいきいち)。

立ち上がった俺は、キイチが差し出した乾いたタオルを受け取って、軽く汗を拭う。

「目ぇ覚めたか?」

「うん。なんとなく疲れが抜けてないけど平気。さっちゃん、イくのは早いくせにスタミナあり過ぎだよ…」

「だははぁ〜…」

軽く肘で脇腹をつつかれた俺は、鼻の頭を掻きながら苦笑いした。

…昨日の晩も、思いっきり甘えさせて貰っちまったもんなぁ…。

しばらく一緒に居られねぇ時間が続いたせいか、どうにも堪えが利かなくなっちまってら…。

明日からは授業だし、新しい生活に慣れねぇ内はちょいと自重しよう…。

「んじゃあ朝飯だ。さっそく食堂行くか?」

「うん。待たせちゃってごめんね?午前中はどうするの?」

「買い物に行こうと思ってんだが、どうする?一緒に来るか?」

「もちろん!」

キイチはすぐさま、笑顔で頷いた。



「おはよう。アブクマ、イヌイ」

食堂に行くと、隣室の住人の片割れが片手を上げた。

「おう。おはようウッチー」

「おはよう、ウツノミヤ君」

キツネ色の被毛に、フサフサの尻尾。白い開襟シャツに、紺の綿パン。

縁なし眼鏡をかけた、こざっぱりした身なりのこの狐は、俺の小学の時のクラスメート、宇都宮充(うつのみやみつる)。

ウッチーってのは小学生当時のあだ名だ。

三年の時に親の仕事の都合で越してったんだが、偶然にもこの星陵で再会できた。

ウッチーの手にはまだ何も乗っかってねぇ空のトレイ。あっちも今朝飯を食いに来たトコらしい。

見回せば、一年は皆遅く起きてきたのか、まだ結構人が居た。

「なぁ?朝飯、一緒に食おうぜウッチー?」

「ああ。そうしようか」

ウッチーは頷くと、俺とキイチの顔を交互に見つめ、「ふぅ」と、小さく息を吐き出して、

「…良いよな、ルームメイト同士、仲が良くて…」

そうボソッと呟くと、飯を取りにカウンターへ向かってく。…何だありゃ?

「オシタリ君は…、居ないみたいだね?」

キイチの言葉に改めて食堂を見回してみたが、ウッチーのルームメイト、無愛想なシェパードの姿は見えなかった。

「まぁ、誰かさんと同じでネボスケなんじゃねぇか?」

「かなぁ?」

この朝までは、俺はまだ、オシタリにそれほど興味を持っちゃいなかった。



食堂にはいくつも丸テーブルがある。

内装がカフェっぽいこの食堂は、来たばっかりの俺達新人寮生には大好評だ。

俺達三人はテーブルの一つに陣取り、あれこれ話をしながら朝飯を食う。

「オシタリ君はまだ寝ているの?」

「知らないよ、あんなヤツ」

キイチが尋ねると、ウッチーは嫌そうに顔を顰めた。

優等生で交友関係も広いこいつにしては、ちっと珍しい反応だな?

…まぁ、一緒だった頃からだいぶ時間も経っちまってるし、色々と変わってるとこもあんだろうけど…。

そんな風に考えたのが俺の表情に出てたのか、ウッチーは取り直すように付け加えた。

「朝早く、六時ごろに起き出して出かけたよ」

「出かけたって…、そんなに早くに何処へ?」

キイチの問いに、ウッチーは首を横に振る。

「「お前には関係ねぇ」…だってさ」

んん?俺とキイチは思わず顔を見合わせる。

俺達が寮に入ってから、今日で三日目。

オシタリも同日に入寮だったが、まともに言葉を交わした事はまだねぇ。

確かに、無口で無愛想には感じたが…。そか、ウッチーとオシタリ、まだ打ち解けてねぇのか。

まぁ、同じ部屋で寝起きすんだ、その内仲良くなんだろ。

「それにしても…」

ウッチーは口調を変え、俺の方を見た。

なんか、驚いてるような、呆れてるような、そんな顔してるな。

「朝からそんなに食って、大丈夫なのかブーちゃん?」

「ん?朝だからこそきっちり食っとくんだろ?」

ウッチーはぼそっと呟く。

「物には限度ってものがある…。そんなに食ってるとブクブク太るぞ?」

…ギクリ…。

「い、いや…、部活も始まるし、体力つけとかねぇと…」

「ウツノミヤ君の言うとおりだよ?少し体を絞るって、君自身も言ってたじゃない?」

俺の言葉を遮り、キイチもウッチーに同調する。…う〜ん…、旗色悪ぃな…。

それ以上二人がかりでつつかれるのも嫌だったんで、俺はさっさと飯をかっこんだ。



飯を食ってすぐ、上着を羽織って財布を持ち、俺はキイチと一緒に寮を出た。

近場にある、屋根付きのアーケードが続く商店街。そこが、三年間俺達が買い物をする中心地になりそうだ。

どことなく東護のショッピングモールを思い出すなぁ…。これならすぐに馴染めそうだ。

「今買ったのがフライパンだろ、鍋だろ、フライ返しと泡立て器、お玉もオッケー。包丁に果物ナイフも買ったし…、とりあ

えずこれで全部か?」

買い込んだ品を確認し、俺は荷物を詰め込んだザックを背負い直す。

キイチはさっき向かいの本屋に入ってったが、丁度会計の最中。

レジのトコに立ってるのが見えるから、もうじき出て来るはずだ。

視線を外して何気なく通りに目をやった俺は、向こうから歩いてくる見知った顔を見つけて手を上げた。

「よう!シンジョウ!」

あっちは俺が声をかける前から気付いてたらしい、シンジョウは微かに笑うと、軽く手を上げて応じた。

「おはよう。買い物?」

「おう。調理器具一式と、足りなかった日用品な」

この眼鏡の女子は新庄美里(しんじょうみさと)。俺やキイチと同じで、東護から進学して来た同級生だ。

二、三年の先輩方にも東護中の卒業生はいねぇから、東護のOB、OGは星陵で俺達だけだ。

そしてシンジョウは、この町で俺とキイチの仲を知ってる唯一の存在でもある。

「ネコムラ君…じゃないわね、イヌイ君は?」

「キイチなら、ほれ」

俺が顎をしゃくった先には、丁度本屋から出てくるキイチの姿。

「あ、おはようシンジョウさん」

「おはようイヌイ君。良いわねぇ、相変わらずラブラブで」

シンジョウはクスクスと笑い、俺とキイチは顔を見合わせて苦笑する。

「ところで…」

シンジョウは笑いを収めると、少し表情を引き締めた。

「少し時間ある?話したい事があるんだけれど…」

「構わねぇけど」

「僕も大丈夫だよ」

「ありがとう。なら、ちょっと場所を変えましょうか」

シンジョウはそう言うと、来た方向へと引き返し始めた。

顔つきから察するに、どうにも軽い話題じゃなさそうだなぁ…。

俺とキイチは顔を見合わせ、首を傾げながらその後に従った。



「ほれ」

俺が自販機で買ったコーヒーと茶をそれぞれ手渡すと、シンジョウとキイチは揃って礼を言った。

シンジョウに連れてこられたのは、商店街の裏手にある公園だ。

長方形の公園には、ベンチが四つとブランコ、シーソー、砂場に滑り台。広くはねぇが遊具は揃ってる。

「で、何だ?」

二つのブランコに座ったシンジョウとキイチに、向き合う形でブランコを囲む手すりにケツを預け、俺は尋ねた。

「少し迷ったけれど、貴方達なら変に騒ぎ立てることもないでしょうし、話しておくべきだと思って…」

シンジョウはやけに慎重な、言葉を選んでるような口ぶりで話し始めた。

「これから話すのは、まだ裏も取れてない話なんだけれど…。二人とも、忍足慶吾(おしたりけいご)っていう男子と同じク

ラスでしょう?」

「おう。同じクラスな上に、寮の隣の部屋だ」

俺が頷くと、シンジョウは少しばかり驚いた様子だった。

「何もなかった?彼、どんな様子?」

「どんなって…、あいつほとんど喋らねぇからなぁ…。印象で言うなら、無口で愛想がねぇってとこか?」

「そう…」

シンジョウは押し黙り、俺とキイチはシンジョウの言いたい事が解らず、顔を見合わせた。

「…彼には、気を付けて…」

ぽつりと言ったシンジョウに、俺達が視線を注ぐ。

「気を付けるって…、何に?」

キイチが問いかけると、シンジョウは小声で話し始めた。

「…彼、地元では有名な不良だったみたいなのよ」

これには俺とキイチも少々驚く。

無愛想で無口なシェパードから感じる、険のある雰囲気…。

言われてみりゃ、確かにそう見えねぇ事もねぇけど…。

「喫煙や喧嘩なんかで補導された事も一度や二度じゃないらしいわ」

「おぉ〜!やっぱ骨のあるやつなんだな!?」

「そうじゃないでしょ!?」

感心して言った俺を、シンジョウがピシャリと遮る。

「三年になってから急に静かになったって話なんだけれど、とにかく気を付けてよね?彼、狂犬って呼ばれていたらしいから」

「判ったよ。…で、裏が取れてねぇってのは?」

「この学校を目指した動機よ。ここに来るぐらいなら、入れる学校は他にもあるわ。にもかかわらず、自宅から遠く離れたこ

の学校に進学した理由。それに、中学生活後半になってから静かになった理由。これらがまだはっきりとは判らないの」

…ふ〜ん…。気になってんのか…。

俺はシンジョウの目をじっと見つめる。…やっぱり、思ったとおりの光がそこにあった。

「荒れてた事にも、この学校に来た事にも、何か理由がある…。そうなっちまってた…、そうしなきゃならなかった理由が…。

シンジョウは、そう思ってんだな?」

「そういう事。噂だけで人を判断するようじゃ、記者になんて到底なれないわ」

「それで…、彼の事を調べて、どうするつもりなの?」

心配そうな表情を見せたキイチの問いに、シンジョウは苦笑する。

「どうもしないわよ。単に、貴方達の傍に火種かも知れないものがあるのが落ち着かないだけ。この学校じゃ三人だけの同郷

なんだもの」

俺とキイチは、揃ってシンジョウに笑いかけた。

「ありがとよ。気ぃつけとく」

「忠告ありがとう。でも大丈夫」

キイチはクスクスと笑って続ける。

「僕には雷様よりも強い、サツキ君がついてるから」

シンジョウは眉根を寄せて首を傾げ、俺は頬を掻く。

…うっわ〜…まだ憶えてんのかよ…?あん時俺が雷さんに怒鳴った事…。

「私の話はそういう事。本当に気を付けてよ?喧嘩でも柔道でも「不沈艦アブクマ」が負ける事はそうそうないでしょうけど、

暴力事件で退学にでもなったら困るから」

…また昔の妙なあだ名を持ち出しやがって…。ま、忠告は有り難く聞いとこう…。

「だな。大人しくしとく。それに、正直なとこ、柔道部が面倒な事になってるから、他に構ってる余裕もあんましねぇんだ」

「あぁ…、そういえば一昨日、廃部寸前って言ってたわよね?」

「まぁ、そんなに難しくはねぇさ」

「あと一人部員見つければ良いんだしね」

「ふふ。応援してるわよ」

笑いながら応じた俺とキイチに、シンジョウは微笑みを返してくれた。



それから、シンジョウとキイチに少し弄られたりもしたが、そこは伏せておく…。

…にしても、なんであいつ、俺が包茎だって事まで知ってんだ?油断も隙もねぇな…。



「どう思う?オシタリ君の事…」

昼飯を食った後、主将との約束に遅れねぇように寮を出ると、見学したいとついてきたキイチが唐突に言った。

「気になんのか?」

並んで歩きながらそう聞き返すと、キイチはコクリと頷いた。

なんだ?…なんとなく元気がねぇかな…?

「勘だけどよ、そんな悪ぃヤツには見えねぇかなぁ…。昔の事は知らねぇが、少なくとも今はな」

キイチは微かに頷くと、俺の顔を見上げた。

何だか戸惑ってるみてぇな感じだ。言おうかどうか、迷ってるような…。

「言えよ。お前の考えはあてになるし、どう思ってんのか俺も知りてぇ。もちろん、お前が良いって言うまで誰にも…、シン

ジョウにだって話さねぇからよ」

キイチは少し目を伏せて、「うん…」と頷いた後、

「変な感じなんだ…。僕、彼の姿を、態度を見ていたら、なんだか親近感が沸いてきて…」

と、ボソボソっとした声で呟いた。

「親近感?」

思わず足を止めて問い返すと、キイチも立ち止まり、俺の顔を見上げた。

「彼、周囲と距離を置こうとしてる。何があったのかは知らないけど、誰にも気を許しちゃいけないって、傍に近付けちゃい

けないって、気を張り詰めてるような気がして…」

なるほど、それで親近感か…。

キイチ自身、一時期は周りを警戒して生きてきたから、他人のそういうトコにも敏感なのかも知れねぇな…。

「ま、少し気ぃ配ってみるか。取っつきやすいタイプじゃねぇからな、俺からそれとなく話しかけるようにしてみる。キイチ

も、何か気付いたらその都度教えてくれるか?いつまでも打ち解けねぇと、ウッチーも大変だろうしな」

「…ん…」

まだ元気のねぇキイチに、俺は胸をドンと叩いて見せた。

「任しとけって!色眼鏡で見られんのは俺も慣れてる。偏見なんて持たねぇ。それに、こう見えて、捻くれもんを懐柔すんの

は得意なんだぜ?」

「…うん。僕も懐柔されたしね!」

キイチは、少しほっとしたように頷いて、やっと笑顔を見せてくれた。

…あぁ〜!俺、この顔に弱ぇんだよなぁ…。何でもしてやりたくなっちまう…!



「これが、我らが柔道場だ」

五部刈り頭の人間の男子が、木立の中に建つ道場の前で、そう口を開いた。

いつも姿勢が良い、ちっと細めの体付き。五部刈り頭に真っ直ぐな眉、鼻筋の通った顔立ちから真面目な印象を受ける。

いかにも柔道部員って感じのこの主将、名前は岩国聡(いわくにさとる)。三年生で、俺達の寮の寮監でもある。

イワクニ主将が引き戸をガララッと開けるのを眺めながら、俺とキイチはポカンと口を開けた。

黒瓦の屋根、色がくすんだ白土の壁、年季の入った引き戸…。

それらは良い、むしろ俺好みだ。広さだって問題ねぇ。…問題なのは…、

「畳、毛羽だってるっすね…」

「うん…、十年ほど替えていないらしいから…」

「えぇと…。あそこの畳が外してある所は何ですか?」

「ああ、雨漏りが酷くてね…」

「なんか、壁に穴あるんすけど…」

「ぼくが来た時から開いていたんだ…。昔、稽古中に踵が当たって空いたらしい」

俺とキイチの問いに、主将は恥じ入ったように小さくなって答える。

「修理しようにも、部費が無くてな…。代々人数が少ない上に、成績も残せていないから、ずんずん削られて…」

なんつぅか、すげぇボロだ。…ってか、主将はずっとこんな状況で稽古してたのか?

俺の頭に、毛羽立った畳の上で、一人黙々とエビなんかをやってる主将の姿が思い浮かんだ…。

…うあ、やべぇ…。あんまりにも物悲しい絵面で、泣けてきそう…!

ふと見れば、神棚は綺麗になってるし、埃やクモの巣なんかも全然見えねぇ。きちんと掃除されてんなぁ…。

でも、掃除は主将だけでやれても、他は一人でどうこうできる荒れ具合じゃねぇもんな…。

「今年の部費はいつ出るんですか?」

「仮入部期間が終わって、正式に部員数が決まったら予算交渉に入るんだ。その後に使える金額が決定される」

「なるほど…」

主将の答えを聞くと、キイチは荒れた畳を見回しながら頷いた。

「まぁ、畳はもちろんっすけど、雨漏りからなんとかしなきゃなんねぇっすね。ついでに壁も直して…」

俺がそう言うと、主将は小さくなったまま、首を横に振った。

「修繕、かなり高くつくそうなんだ…」

俺は主将にニヤリと笑って見せる。こういう時こそ、特技ってもんを活かさねぇとな!

「俺ん家、工務店なんすよ。ガキの頃から仕込まれてるから日曜大工なら得意っす。材料で買えば安く上がるし、道具なら学

校にも寮にも置いてあるっすからね」

「サツキ君、凄く上手いんですよ?文化祭で喫茶店をした時には、本物の喫茶店顔負けの椅子やテーブル、カウンターまで手

作りしちゃったんですから」

キイチが少し誇らしげに俺の腕をポンと叩いた。

「そうなのか?…それじゃあ、上手く部が存続できたら、頼んでも良いかな…?」

「主将!「できたら」じゃねぇっす!何としても存続させるんすよ!」

「あ…?あははは!そうだった!困ったなぁ、弱気になる癖がついてる」

俺が拳を握って力説すると、主将は困ったように苦笑いして、五部刈り頭を掻いた。



愛用の白帯をギュッと締め、壁にかけられた鏡(思いっきりヒビが入って、ふちが欠けてる)に映った自分の姿を見る。

白い道着に身を包んだ、濃い茶色の毛に覆われた熊が、そこに立ってる。

開いた胸元には、トレードマークの横に寝た三日月。ここは道着と同じく真っ白だ。

…久々だなぁ。道着に袖通すの…。

「…かっこいいよ、サツキ君…!」

キイチが小声でそう言ってくれたんで、俺の耳がへにゃっと倒れ、短ぇ尻尾がせわしなく動いた。

…が…、キイチには黙っとくが、実は袖丈が少し短くなって、ちょいと胸と肩周りがきつくなってた。

襟も少し開きがでかいが…、まぁこんぐれぇは大丈夫だろ…。

体、絞んねぇとな…。それと道着も新調した方が良いか?まだ成長期終わってねぇし…。

着替えを終えた主将が、俺と向き合ってため息をついた。

「こうして間近で向き合うと、本当に迫力あるなぁ。まるで山だ…。小兵のぼくには羨ましい限りだよ」

主将は細身の体に、ビシッと隙無く道着を身につけてる。着こなしがさまになっててかっこいい。

この人はどんだけ強ぇのかなぁ?うずうずしてくるぜ!

…ん?良く見りゃ俺と同じで、主将も白帯なのか…。

「ぬはは!でも、柔道は体のでかさじゃねぇっすから。俺、自分の半分もねぇ人間の女教師に投げ飛ばされてから柔道始めた

んすよ?」

「…その先生、本当に人間だったかい?人間似のゴリラ獣人とかじゃなく?」

…それ、本人に聞かれたら殺されちまうっすよ主将…?

まぁ、キダ先生は国体選手だったからな。

国際大会にも何回も出てたらしいし、あの別格の強さも納得行く。

なんせあのオジマ先輩ですら、三年間挑み続けてやっと一本取ったって話だ。

…ん?俺?…一本も取れてねぇよ…。そもそも三年に上がってからは試合してすらくんなかったし…。

「んじゃ、軽〜く乱取りしてみるっすか!」

道場を見せてくれるって言った時に、主将は軽く組んでみようとも言ってくれたんだ。

うあ〜!うきうきすんなぁ!誰かと組み合うなんて何ヶ月ぶりだ?

「軽く…。うん、軽くな?あくまで軽くだから」

主将はそう言いながら、道場の真ん中に向かって歩き出した。

俺は興奮してる自分を宥めながら、その後ろに続く。

高校のレベルってどんなだろうなぁ?主将はどんだけ強ぇんだろう?う〜!早く組みてぇなぁ!



「せ、先輩!?しっかり!」

「大丈夫っすか主将!?」

俺とキイチが声をかけると、主将はゆっくりと目を開け、それからガバッと身を起こした。

「ぼくは…、気を失って?」

軽く頭を振った後、主将は俺の顔を見て、それから畳に視線を落とした。

俺が仕掛けた大外刈りで、主将は受け身を取り損ね、勢い良く背中と首のつけね辺りを畳に落として、意識が飛んじまった

んだ。

「強いな…、アブクマは…」

主将はため息をついて、寂しそうに言った。

「がっかりしただろ?主将なんて言っても、こんなにも弱くて…」

組み手争い、足捌き、引きと押しの強さ、反応、体重移動…、俺は短ぇ乱取りの中で感じ取れた事から、主将の実力を測っ

てみたが…、確かに、主将はお世辞にも強ぇとは言えねぇ腕前だった。

「ぼく、小学進級頃に初めて、柔道歴は十年以上にもなるのに、公式の試合では、まだ一度も勝った事が無いんだ…」

そう。主将の実力は、東護の柔道部で言えば、一年生の駆け出しよりちょっと上ってトコ…。反応と動きは結構良いのに…。

「ごめんな…。嬉しそうなアブクマの顔を見ていたら、言い出せなくて…」

主将は項垂れ、力なく笑った。

「失望…、しただろう…?」

「何でっすか?」

俺は即座に聞き返してた。

「何でって…」

「何で俺が失望しなきゃならねぇんすか?」

主将は顔を上げ、俺の顔を見つめた。

「いやまぁ…、怒られんの承知で言やぁ、正直びっくりはしたけど…、失望なんかしてねぇっすよ?」

「アブクマ…?」

「だってよ…、小学から十年以上…、それこそ俺の三倍以上、主将は柔道を続けてる」

主将の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、俺は小せぇ脳みそを捻って、伝えてぇ言葉を選び続けた。

「そして、今までだってたった一人で、柔道部を存続させようって頑張って来たんじゃないすか?」

「そう、だけど…、でも…」

「俺、馬鹿だから上手く言えねぇんだけど…。つまり、主将は柔道好きなんだろ?」

「そうだけど…ぼくは、こんなにも弱くて…、名前だけの主将で…」

「がっかりなんて、失望なんてしてねぇよ。主将はそこまで柔道が好きなんだ。柔道が好きなヤツが頭を張ってる。部員の俺

が、その事に何の不満があるってんだ?」

「でも…」

ぼそぼそと呟く主将に、俺は少しばかりいらついた。

「俺達が寮に入った日、主将はウシオ団長に言ってたよな?柔道好きでもねぇヤツ集めて部を存続させても意味がねぇって。

俺はあん時、あんたのあの言葉にグッと来た。偽りのねぇ真っ直ぐな気持ちで、このひとは柔道が好きなんだって、そう思っ

たら嬉しくなった。そんな主将と一緒に柔道出来るんだって、そう思ったら本当に嬉しかったんだ!」

俺は主将の丸まった背中を、平手でバシッと叩いた。

「強ぇ弱ぇなんて二の次だろ?柔道が好きならそれで良いじゃねぇか!しゃんと背ぇ伸ばして、ぐっと胸ぇ張りやがれ!」

前につんのめりかけた主将は、驚いたように俺の顔を見た。

「誰が何て言おうと、うちの主将はあんただ!誰が何て言っても、あんたは俺の先輩だ!」

「アブクマ…」

主将は俺の顔をじっと見ながら呟いた。

「ぼくを…、こんなに弱くても主将って認めてくれるのか?」

「言ったろ?強ぇ弱ぇなんて二の次だ。あんた以外に、俺が主将って仰ぐ相手は居ねぇよ」

そう言って笑いかけると、主将はやっと笑ってくれた。

「ありがとう、アブクマ…」

「ぬはは!礼言われるような事はしてねぇって!」

俺は照れ臭くなって、苦笑いしながら鼻の頭を掻く。

「…あのさ…、サツキ君…?」

おずおずと声をかけて来たキイチを見ると…、あれ?何だか困り顔だ。どうかしたのか?

「さっきから、思いっきりタメ口になってるよ…?」

……………あ!

「す、すんません主将!どうにも敬語ってヤツが苦手でっ…!」

頭を掻きながら小さくなると、主将はまた、照れたように笑った。

「いや、良いんだ。ああいう風に言われるのってあまりなかったから、その…、ちょっと新鮮だったよ…」

まずったなぁ…。興奮したら敬語の事なんて頭から飛んでっちまってた…。

ふと見れば、キイチは呆れたような顔で苦笑いしてた。

「…僕は敬語で話さないと逆に落ち着かないけどなぁ…」

うらやましいなぁそれ。…ま、敬語もおいおい練習してくか…。



寮の部屋に戻った後、床にあぐらをかいて、久々に袖を通した道着を広げて、ちょっと懐かしく思いながら見つめてると、

「ところでさ」

後ろから背中におぶさって来ながら、キイチが口を開いた。

キイチが俺の右肩に顎を乗っけてる体勢。たま〜に、こうしてキイチの方から甘えてくれるのが嬉しかったりする。

…いつもは俺の方からちょっかいかけてるからな…。

あ。念の為に言っとくと、嫌がられねぇ程度にだぞ?無理矢理迫ったりはしてねぇからな?いやホントに…。

キイチはトレーナーの上から、脂肪が乗った俺の胸を軽く撫でながら言った。

「柔道着、ちょっときつかったんじゃない?」

…ギク…!

「やっぱり、運動しない期間が長くて、筋肉が脂肪に代わってた?」

ギクギクッ…!

「立派なお腹になっちゃってるもんねぇ…」

キイチは俺の肩の上から手を伸ばし、俺の腹を手の平で軽く叩く。

ポンと、意外にも良い音がして、腹の肉が揺れた。

俺達は顔を見合わせ、それから小さく吹き出す。

「あはは!結構良い音が出るねぇ!」

「ぬはは!狸じゃあるまいし、熊の腹鼓みってのもなんだか妙な具合だなぁ!」

だははははっ…。こりゃ一回ぎっちり絞らねぇとダメだなぁ…。

おっし…!明日から早速、ジョギング再開するか!

さぁて、色々あって順風満帆とは行かなかったが、いよいよ明日から授業開始だ。

いよいよ本格的に高校生活もスタート。張り切って行くぜ!