第十三話 「キイチの影響かな」
俺、阿武隈沙月。東護中三年の熊の獣人だ。胸元の白い三日月がトレードマーク。って言ってもあんまり見せる機会はねぇ
んだけどな。
今は昼休み。本来なら愛しのキイチと過ごす至福の一時なんだが、今日はちょいと用事ができちまって、先に屋上に上がっ
て貰ってる。
用事ってのはまぁ、…先生に呼び出しくらったわけだ…。
俺は首を捻りながら生徒指導室のドアをノックした。
「アブクマっす」
「入れ」
名乗ると、中からキダ先生の声が返って来た。
「失礼します」
ドアに手をかけながら、俺はここに来るまでずっと考えてきた事を、また自問してみる。
…俺、なんかやったっけ?心当たりはねぇんだけどな…。
キダ先生は机の向こうに座っていた。で、俺にも座るように促す。
「先生。心当たりねぇんだけど、俺、なんかしたっけ?」
眉根を寄せてそう尋ねると、先生は一瞬目を丸くした後、苦笑を浮かべた。
「済まん。そういう用事で呼び出した訳ではないんだ。進路の事で話しておきたくてな」
「進路?」
俺はキイチの説得で、高校に進学する事を決めた。その関係の話だろうか?
「お前が柔道推薦枠のある高校ではなく、星陵を選んだ理由は、ネコムラが目指しているからか?」
「…だけってわけじゃねぇけど、それもある」
恋人同士だって事はもちろん伏せとくが、ここは一応正直に答えとく。
「まあ、詳しい理由は聞かん。言いたくないようだからな」
…ま、言いたくねぇってか、言えねぇ、ってのが正確なとこなんだけどな…。
「話したかった事は、実はお前の事ではない。ネコムラの事だ」
「あいつの事?」
キイチの進路で俺に話だと?思わず身を乗り出して聞き返すと、キダ先生が頷いた。
「ネコムラは、全国模試でもトップレベルの成績を修めている。もっと上を目指せるにも関わらず、あえて星陵を選んだ理由
は、将来の夢の為だそうだ」
「ああ、そういややりてぇ事があるって言ってたな…」
「それは構わない。本人の強い希望あっての事だからな。だが…」
キダ先生は困ったように眉根を寄せた。
「何度も勧めたのだが、何故か推薦を受けようとしないのだ」
…あ。キイチくらい頭が良けりゃ、そりゃあ推薦で行けるよな?
「なんで推薦断るんだ?行きてぇ高校なのに?」
「その理由がさっぱりでな…。お前なら知っているかとも思ったのだが、話してはいなかったか」
考えてもなかったし、初耳だ。推薦で行けるならその方が良いだろうに…。
「他の誰かに推薦枠譲ろうとしてるとか?」
「それは無い。星陵を目指す生徒の中に、ネコムラ以外に推薦条件に見合うだけの成績の者は居ないからな」
その辺の仕組みは良く分かんねぇが…、じゃあなんでキイチは推薦を断る?
「で、お前に頼みたい。それとなく理由を聞き出してみてくれんか?それと、できればお前の方からも推薦を受けるように話
してくれると助かる」
キイチにとっても得になる話だ。キイチが推薦となりゃ、もちろん俺だって嬉しいし誇らしい。
「そういう事なら引き受けるよ」
当然、俺に反対する理由はねぇ。それとなく、なんてまどろっこしいのは抜きだ。さっそくキイチに聞いてみよう。
「推薦?」
屋上の手すりにもたれかかりながら、俺はキイチに推薦を拒む理由を聞いてみた。
パック入りの牛乳を飲みながら、キイチは微妙な表情で「う〜ん」と唸った。
「なんだよ?考え込まなきゃ分かんねぇくらいに理由がねぇのか?」
「そういう訳じゃないんだ。ちょっとした意地みたいなもの」
「意地?なんだそりゃ?」
「入試なんて始めての事だし、そうそう無い機会なんだから、皆と同じ条件で入りたいじゃない?せっかくの機会を推薦で潰
すのも勿体ないなと思って」
「…お前…、なんつうか…」
呆れて一瞬言葉が出なかった。
「こう言っちまうとアレだが。…あんなに頭良いのに、なんでそんな馬鹿なんだ?」
なんとも贅沢なこだわりだ。試験の度に四苦八苦してる俺みてぇなのも居るってのに、キイチにとっては入試すら軽い腕試
しなんだよなぁ…。
「うん。自分でも馬鹿げてると思う」
キイチはそう言って笑った。ほんとに馬鹿だなお前…。…でも、ちょっとかっこいいぜ!
「それにさ、正直に言うと、君の入試前に、僕だけ推薦入試で一抜けた〜って、そういうのもなんとなく嫌なんだよね…」
…ピンときた。たぶんこっちのが大きな理由だな…。
「…あのなぁ。俺に気を遣う必要なんてねぇんだぞ?」
「…でも…」
キイチは何か言いかけ、そして言いづらそうに口ごもった。俺は黙って話の続きを待つ。
「…君は…、僕の言うとおりに星陵を受ける事にした…。他の学校なら柔道での推薦が望めるのに、推薦枠の無い星陵を受け
る事に決めた。…それなのに、僕だけ推薦で行くのは、フェアじゃないよ…」
…ああ…。なるほどな、そういう事か…。
「あのなぁキイチ。お前の気持ちは嬉しいし、立派な考え方だと思う」
俺はキイチの顔を見下ろし、上手く伝えられるように言葉を選んだ。
「でもな、俺はお前と一緒に居てぇから目指してる。きっかけはお前の言葉だったとしても、こいつは間違いなく俺自身の希
望だ。…なぁキイチ、お前が推薦で合格決めたからって、俺は別にやっかんだりしねぇよ。逆に、先に決めて貰った方が俺に
とっては嬉しい」
「でも、二人で一緒に受験勉強した方が…」
「だからさ、そっちのがよっぽど俺が足引っ張ってるみてぇだろ?それによ、推薦の試験って一週間だけだけど、一般入試よ
り先なんだろ?そうしたら俺のラストスパート期間中、遠慮しねぇでみっちり教えて貰えるじゃねぇか?」
俺の言ってる事は、ちゃんと伝わってるみてぇだった。頭の良いキイチの事だ。俺に言われるまでもなく、どっちのが効率
が良いかは分かってたんだろう。
「頼むよキイチ。お前の気持ちは分かってるつもりだけどよ、わざわざ苦労背負い込むような真似しねぇで、推薦ですぱっと
決めちまってくれ。そうしたら、俺も気兼ねしねぇでお前に甘えられるんだからよ」
そう笑いかけると、キイチは少し考え込んだ後、小さく頷いた。
「分かった。サツキ君がそこまで言うなら…、推薦、受ける事にするよ」
「そか!ありがとよ!」
笑みを浮かべて頷いた俺に、キイチは微笑みを返した。
「…あれ?そう言えば、進学するのに、なんか問題が残ってるとかなんとか言ってたけど…、そっちはどうなったんだ?」
「そっちはもうちょっとかかりそうかな…。でも、焦っても仕方ない事だから…」
なんとなく言いづらそうだ。しばらく待ったが答えは返って来ず、代わりに別の言葉がキイチの口から飛び出した。
「ずるいなぁキダ先生、君を刺客に選ぶなんて」
刺客って…、ありゃ…?バレてたのか?
「なんだよ?気付いてたのか?」
「だって、僕が推薦断った事なんて、先生にでも言われなきゃ分からないでしょ?」
そりゃそうだよな…。悪ぃ先生、それとなく聞き出すなんて、俺にはハナっから無理だった。まあ、推薦は受ける事にして
くれたみてぇだから、勘弁してくれ。
「でも、なんだかサツキ君さ」
「うん?」
キイチは悪戯っぽく笑った。
「考え方や話す内容が、急に大人びてきたんじゃない?」
「…そいつは、お前の影響だろうなぁ…」
俺は苦笑して応じる。自覚しねぇで喋ってたけど、言われてみればらしくもねぇ事を話してたな。
「あ、ところでさ。僕、午後から南華中に行って、あっちから直接帰るからね?」
「ナンチュー?なんでまた?」
「午後の授業免除で、地区内の中学の図書委員会の打ち合わせなんだ。活動や取り組みの報告会ね。で、その会場が南華中」
図書委員ってそんな打ち合わせがあんのか、全然知らなかった。
妙なところで感心していると、キイチは残り少なくなった牛乳をジュルジュルと啜った。…こいつ、牛乳好きなんだけど、
なかなか背が伸びねぇんだよな…。ってか、牛乳飲むと身長伸びるっての、迷信だったっけ?
「んじゃ俺は…、久々に道場にでも顔出してくかな」
「いいね。たまには思い切り体動かして、スッキリしてきたら?最近ちょっと肉付き良くなり過ぎてきたみたいだし」
むぅ…、やっぱりそうなのか?
「…見学だけのつもりだったんだけどな…。何かの時にと思って道着はロッカーに入れといたし、稽古にまじってくか…」
ジョギングは今も続けてるんだがなぁ…。もうちっと体を絞った方が良さそうか…?
「ち〜っす。…って先輩!?」
後輩の田貫純平(たぬきじゅんぺい)が、部室の掃除をしていた俺を見て驚いた。俺が来た時、部室には誰も居なかった。
で、暇だから掃除してたんだが…。
名字そのままに狸獣人のジュンペーは、俺達のいっこ下で二年だ。今年の全国にもコマを進めた猛者で、俺達三年が引退し
た後は主将を引き受けてくれた。
去年の春、柔道を始めたばかりの俺は、元々柔道経験者だったこいつにいろんな事を教わった。そんな事もあり、他の後輩
達と比べても、こいつとはかなり親しい間柄だ。
「よう!しっかりやれてるか?タヌキ主将」
「えぇまぁボチボチ…、って何してるんです先輩!?掃除なんてオレ達でやりますから…」
ジュンペーはそう言うと、俺の手から箒とちり取りをもぎ取った。そして俺の格好を眺めて、
「なんだか、先輩の道着姿、凄く久しぶりに見たような気がします」
そう言って笑った。
「俺もずいぶん久々に着たような感じがする。毎日着てたのに、ほんの数ヶ月着なかっただけで、妙に懐かしい気分になるも
んだなぁ」
そう、引退して数ヶ月だってのに、この道場も更衣室もひどく懐かしい。…たぶん、心のどっかで、もう自分はここを去っ
たんだと自覚してるからなんだろうな。
「今日、稽古にまぜてくれねぇか?少し体を動かしてぇんだ」
「もちろんオッケーですよ!皆も喜びます!」
ジュンペーがえらく嬉しそうに頷いてくれると、道場の方で何人かの声が聞こえた。
「お、来たな来たな?皆びっくりするぞ…」
ジュンペーはそう言うと、俺を手招きして部室のドアの前に立たせた。
「腕組みしてて下さい。あと、なるべく不機嫌そうな顔で…」
「なんだよ一体?」
「怒ってるふりしてて下さいね?最近皆気が抜けてるみたいなんで。ドアを開けた所でいきなり先輩を見たら…、きっと心臓
が口から飛び出してランバダを踊り狂う事でしょう」
…ランバダって…、古ぃなおい…。
そんなやりとりをしている間に、部室のドアが開いた。
「ちわ〜っ…す…!?」
ドアを開けた所で、4人の部員が俺の姿を認め、硬直した。
言われたとおりに仏頂面で腕組みしてるが、どうやらちゃんと怒ってるように見えてるらしい。
「…先輩はお怒りだ…」
ジュンペーは神妙な口調で話し出した。
「先輩方が引退してからというもの…、皆気が緩んで、大会前のようなきびきびした態度は見られなくなっている…。日に日
に集まる時間は遅くなり…、道場の掃除も手が抜かれ…。先輩はたいそうお怒りの様子で、一人で更衣室を掃除してらっしゃ
った…」
部員達の背後に、さらに後から何も知らねぇ部員達が固まってやって来る。そして、一様に俺を見て凍り付いた。
「…ぷっ…!」
俺が我慢の限界を超え、小さく吹き出した途端、全員がビクリと身を竦ませた。
「ぬはははっ!済まんジュンペー、もう無理だ!」
「え〜?もうちょっとなぶりたかったのに…」
ジュンペーが不満げに言うと、後輩達もドッキリだった事に気付いたらしく、ほっとしたように顔を見合わせた。
「悪かったな。ジュンペーに言われて、ちょいとからかっただけだ。別に怒ってねぇよ」
笑いながらそう言うと、皆が安堵したように笑みを浮かべる。
「だが、ジュンペーの言うとおり、俺らが抜けたからって、気ぃ抜いてるようじゃダメだぞ?」
俺は全員の顔を見回しながら続ける。
「上が居なくなったから気ぃ抜いて良いって訳じゃねぇ。上が居なくなったからこそ、気張ってかなきゃなんねぇんだ。今は
お前らがこの部を背負ってんだからよ」
全員が神妙な顔で俺の話に聞き入ってる。…どうにもガラじゃねぇなこういうのは…。
「ま、気ぃ抜くのは、俺みてぇに引退した後に思う存分やりゃあ良い。だが、覚悟しとけよ?引退してだら〜っと気ぃ抜けた
生活してると…」
「そうそう!先輩みたいに一気に太るぞ?」
「その通り。…って何言わせんだ!」
ジュンペーの頭を俺が小突くと、部員達は一斉に笑い声を上げた。
久々の稽古は、なまった体にはちっときつかった。が、心地良い疲労と懐かしさが、少々のきつさなんて吹き飛ばしてくれる。
「先輩。せっかくだから、一年と乱取りして貰えませんか?先輩方の引退前はまだまだだった連中も、結構成長してるんですよ?」
タオルで汗を拭いながら休憩していると、手が空いたジュンペーが話しかけてきた。
そういや、大会前は自分達の稽古で手一杯だったからな。眺めて、たま〜に指導するだけで、組み合って稽古をつけてやる
機会なんぞ全然無かった。俺やイイノに気を遣ってか、二年の連中が中心になって一年の指導してたもんなぁ…。
「悪ぃな。俺、大会前は自分の事で手一杯になってたもんな…。考えてみりゃ一年の連中、たまに声をかけてやる以外はほっ
たらかしにしてた」
「仕方ないですよ。大事な時期だったんですから。それに…」
ジュンペーは言葉を切り、悪戯っぽく微笑んだ。
「…それに、何だよ?」
「いいえ、なんでも!それより指導、引き受けて貰えますか?」
「俺が教えるんじゃ不安が残るがな…」
「怪我さえさせなきゃポイポイぶん投げてくれて構いませんから」
肩を竦めたジュンペーに苦笑を返し、俺は一年の連中を呼び集めた。
「終わったら寝技の稽古付き合って下さいね〜!」
ジュンペーはそう言いながら、手を振って稽古に戻って行った。
あいつ、なんでか昔から寝技の稽古が好きなんだよなぁ。
「おい上原、足が止まってんぞ?あんまり大技意識しねぇで、持ち味の機敏さを活かせ。お前のスピードは一年でも群を抜い
てんだからよ」
「押忍!」
「お?小牛田、随分積極的に攻めるようになったじゃねぇか!ガタイ良いし、足腰もかなり強ぇんだからよ、その調子でどっ
しり構えて、落ち着いて攻めてけ」
「は、はいっ!」
「おぉ、ずいぶん動きが良くなったなぁ今野。新人戦、期待できんじゃねぇか?」
「あ、有り難うございます!」
「おっと、色川は確か経験者だったな?良い攻めだぞ。基本をみっちりやってたな?」
「恐縮でっす!」
手加減しつつ、一人一人となるべく多くの時間立ち会う。そしてこの数ヶ月での確かな成長を確認し、俺は少しばかり嬉し
くなった。
どいつもこいつも真剣だ。三年が引退して、多少は気が緩んでたかもしれねぇが、だらだら稽古してるヤツなんぞ一人も居
ねぇ。まぁ、キダ先生の指導と、ジュンペーの主将としての牽引力の賜物だな。
「うっし、一回りしたな。そんじゃ小休止!だらしなくしてねぇで、体はほぐしとけよ」
『うっす!』
タオルで汗を拭って、道着をバタバタやって胸元に風を入れていると、再びジュンペーがやってきた。
「お疲れ様です。どうでした?」
「おう!真面目にやってたんだなぁ。皆見違えたぜ」
俺の返事を聞いたジュンペーは、可笑しそうに笑った。
「なんだ?俺、なんか変な事言ったか?」
「先輩、やっぱり気付いてないんですね?」
「…ん?何にだ?」
「さっき、自分の事で手一杯だったって言ってましたけど、本当にそうだったなら、どうして引退前との違いが分かるんです?
先輩は大会前だって、ちゃんと一年にアドバイスしてきたじゃないですか?」
…そうだったっけ…?自覚して無かったけどなぁ…。
「そうだったなら、少しは気が楽になったかな」
「「そうだったなら」じゃなくて、「そうだった」んですよ。でなきゃ一年の連中があんなに先輩の事を慕ったりしません」
「…慕われてたっけ?俺?」
「…ほんと…、鈍感なんだから…」
ジュンペーは呆れたように、そして何故か少し寂しそうに苦笑する。
「まぁいいや。それより寝技の稽古、お願いしますよ」
「ブランクがあんだから、お手柔らかに頼むぜ?」
「平気平気、先輩また重くなったろうから、勘が戻って無くてもいい練習になります」
「…お前、顔合わせる機会が減ったら結構毒舌になったな…」
『ち〜っす!』
俺がぼやいていると、道場内に皆の挨拶の声が響き渡った。
道着を着た眼鏡美人が、神棚に一礼して道場に入って来る。
「ちっす」
「お、来ていたなアブクマ」
キダ先生は挨拶した俺を見て笑みを浮かべた。心なしか、少し嬉しそうに見える。
ちなみに、キイチが推薦を受けるらしいと報告に行った際に、道場に顔を出してく事は伝えてある。その時もえらく嬉しそ
うだった。
「どうだタヌキ?アブクマと一本、本気でやってみては?」
「え?えぇ〜!?オレなんか一瞬で圧殺されちゃいますって!」
…瞬殺なら分かるが、なんで圧殺なんだ?そもそも、さっきは寝技の稽古に付き合えって言ってたくせに。立ち技は嫌なのか?
「やろうぜジュンペー。お前もどのくらい成長してるか、しっかり確認しときてぇし」
俺が請け負うと、ジュンペーはしぶしぶながら頷いた。
「一本!そこまで!」
キダ先生の声と同時に、俺は押さえ込みを解いた。
「ぶはっ!」
俺の腹の下でもがいていたジュンペーが、水中から上がってきたみてぇに息をついた。
「先輩の四方固めは反則ですよ…。オレじゃ絶対返せっこない」
へたり込んで息をしているジュンペーに、俺はニヤリと笑ってやった。
「何言ってやがる。寝技の稽古つけてくれって言ってたじゃねぇか?それに、イイノは結構頻繁に抜けて来たぞ?」
「ボクと先輩方とじゃウェイトに差が有り過ぎますって!」
まぁ、引退後にちょいと肉が付いて172キロ、無差別級の俺と、110キロ級でも最軽量、80キロそこそこのジュンペ
ーは、公式戦なら当たりっこねぇんだけどな。
「だが、えらい強くなったな。それとも俺の大腰がなまくらになったか?あのタイミングで凌がれるとは思わなかったぜ」
そう、俺の得意技の大腰を、ジュンペーは体勢を崩しながらも耐えきって見せた。ま、その後は崩れてたとこを引き倒して、
希望通りに寝技に持ち込んでやったんだけどな。
差し出した手を握って立ち上がりながら、ジュンペーは嬉しそうに笑った。
「お褒め頂き、光栄ですっ!」
「あした〜っ!」
『あしたっ!』
礼を終えて、全員が道場の掃除に入ると、キダ先生が俺を手招きした。
「今日は助かった。皆喜んでいたぞ」
「先生の気のせいじゃねぇのか?先輩なんぞ来ねぇ方が、普通は気楽でいいだろ」
キダ先生は苦笑しながら俺の肩を叩いた。
「まったく、お前は自分が他人からどう見られているかが、まるで分かっていないな」
「なんだそりゃ?」
「慕われているんだよ、お前は。なにも柔道部だけじゃない。うちのクラスでもだ。お前は阿武隈沙月という男の持つ影響力
を、まるで分かっていない」
そりゃ先生の勘違いだろ?とは思ったが、俺はそう言う代わりに別の事を口にした。
「…また、来てもいいかな?」
先生は俺の顔を見上げ、それから苦笑した。
「いつでも来いと、前に言ったはずだぞ?」
「…そういやそうだったよな。今度は、イイノ達も誘ってくる」
「それはいいな。なんなら現役チーム対三年チームで試合でもしてみるか?」
「ぬははっ!そりゃ面白そうだ!」
俺とキダ先生がそんな事を企んでいるのが、なんとなく気配で分かったのか、気付くと、部員達は手を止め、不安げな顔つ
きで俺達を見ていた。
「先ぱ〜い!一緒に帰りましょ〜!」
シャワーを終え、帰り支度を整えた俺が屈み込んで靴を履いていると、ジュンペーがガバッと背中におぶさってきた。
まったく、主将になってもガキっぽいとこは相変わらずだな…。
「一緒に帰ってやるから、とりあえず靴を履かせろ」
「あ、ずりぃぞタヌキ!俺も一緒に帰るっすよ先輩!まだまだ話とかしたいし!」
「ああ!俺だって先輩が出て来んの待ってたんだぞ!?」
「先輩っ!おれ達も一緒に帰っていいですか?お前も一緒が良いだろゲン?」
「う、うんっ…!」
わらわらと集まってくる部員達。そういや、練習で遅くなった後、イイノやジュンペーと固まって下校してたっけなぁ…。
キイチとつるむようになってからはあいつと二人で帰ってたけど。
「おっし、一緒に帰るか!」
懐かしい気分に浸りながら、俺は皆と一緒に外へ出た。
日は沈み、すっかり暗くなった中、俺達は大声で喋りながら道場を後にした。
説教される事の多い俺が、なんだか、今日はらしくもねぇ事ばっか喋ってた気がする。
もしかすると、冗談抜きにキイチの影響かな?