第十六話 「汚いでしょ、僕…」
…気が重い…。…修学旅行が近い…。
…あ。ごめんね?出だしからローテンションで…。
僕は根枯村樹市。東護中学三年で図書委員会所属。極めて薄いクリーム色の被毛をした猫の獣人。
修学旅行は首都方面。中体連の全国大会で、一度サツキ君の試合を応援には行ったけど、見物に行くのは初めてになる。
首都見学そのものには、もちろん興味有るんだけれど…。…はぁ…気が重いなぁ…。
僕の心境を反映したように、ここ数日は天候が悪い。今にも降り出しそうな鉛色の空の下、僕は水溜りの残る歩道をトボト
ボと歩いて下校している。久し振りに寄り道するって言うのに、気分は晴れない…。
来週には、自由行動で一緒に行動する班を編制するらしい。特に仲が良いようなクラスメートは殆ど居ないから、人数が少
ない所に混ぜて貰う事になるかな…。でも、できれば…。
「キイチっ!」
「ん?」
聞き馴染んだ声が緊張を孕んで響き渡り、僕は顔を上げた。次の瞬間、太い腕に抱え込まれ、ぐいっと引っ張られる。
直後、バシャッという音と同時に、全身に冷たい水がかかった。
「え?」
制服が泥水でビショビショになっていた。振り返ると、赤いスポーツカーが凄いスピードで走り去って行く所だった。
今走り抜けていったその車が、歩道を歩いていた僕達に泥水を跳ねかけて行ったらしい。
「馬鹿野郎!気ぃつけやがれっ!」
呆然としている僕を抱え込んだまま、サツキ君は走り去ってゆく車に拳を振り上げて怒鳴った。
「平気かキイチ?…ってビショ濡れだな…」
心配そうに僕の顔を覗き込んだのは、大柄な熊の獣人。クラスメートであり、僕の恋人の阿武隈沙月君だ。
咄嗟に僕を庇ってくれた彼は、僕より遙かに凄い状況になっている。頭の先から背中全体、ズボンまでが泥水でビショビショだ。
「有り難う。でも、サツキ君の方が…」
「俺は良い。汚れたって目立たねぇ色の毛並みだからな」
そう言って笑って見せると、サツキ君は僕の額に手を伸ばし、泥水を拭った。
「あ〜、だいぶ汚れちまったな…。綺麗な体が台無しだぜ…」
僕の体を覆う淡い色の柔らかい被毛は、泥水を吸って所々黒く滲んでいた。
「こりゃ寄り道は無しだなぁ…」
サツキ君は自分の顔についた泥水を手の甲で拭いながら、残念そうに呟いた。
受験生って言ったって、勉強ばかりじゃ息が詰まる。ここしばらくは真っ直ぐ帰って勉強っていうスケジュールだったから、
今日は息抜きを兼ねて商店街をぶらついて、たこ焼きを買い食いして帰る予定だったんだけれど…。確かにこの格好じゃ無理
だね…。
「予定とはちっと違うけど…、今日も俺ん家寄ってけよ。シャツ貸すからさ」
ちょっと迷ったけれど、サツキ君の好意に甘える事にした。
前にも一度借りた事があるけれど、サツキ君の服は僕にはかなり大きかったっけ。
僕達は泥だらけのまま、彼の家に向かって歩き出す。歩き出してすぐに、サツキ君は僕に尋ねてきた。
「どうしたんだ?キイチ」
「ん?何が?」
「何がって…、ずっとため息つきながら、ぼーっと考え事してるじゃねぇか」
…あれ?そうだったの?自分では気付いて無かったな。
「何か心配事でもあるような顔だぜ?」
「う〜ん、心配事って言う訳じゃないんだけれど…」
修学旅行の事を考えると、気が重いんだよねぇ…。
「ごめんね?心配させて。でも、大した事じゃないんだ。気分の問題みたいなものだから」
「そっか」
サツキ君はそう言って頷くと、それっきり何も聞いてこなかった。…きっと、話し辛いのを察してくれたんだと思う…。
なんとなく申し訳なくなって、僕はサツキ君の手を握った。手を握ると言っても、僕の手は小さく、サツキ君の手は大きく
て厚いから、普通には握れない。だから人差し指と中指をキュッと握った。
サツキ君はちょっと驚いたように僕を見た後、照れたように鼻を擦りながら、視線を前に戻した。
「あれ?まだおばさん帰って来てないの?」
今週には実家から帰って来るって聞いていたんだけれど、サツキ君の家には誰も居なかった。
「ああ。帰っては来たんだけどよ、昨日から町内会の旅行に行ってる」
う〜ん。なかなか顔を合わせる機会が無いなぁ。…できれば合わせない方が良いんだろうけれど…。
「風呂沸かすから、シャワーで泥を落としたら少し身体を温めとけよ?風邪引いちまったら困るだろう」
「え?そんな、サツキ君が先に入ってよ。僕こそ後で良いから…」
「良いんだよ。俺はほれ、この脂肪のおかげで寒さは平気なんだから」
すでに制服を脱いでいたサツキ君は、タンクトップの上からお腹の肉をムニッと摘んで見せ…る………って…、
「サツキ君。ちょっと良い?」
「ん?」
サツキ君のお腹に触れてみた。
「だはは!くすぐってぇって!」
指先で軽く摘むと、むにっと柔らかくて手触りが良い…。じゃなくて…、摘むっていうか…、掴めちゃうんですけどサツキ
さんっ?
「もしかして、またちょっと太った?」
「…むぅ!?」
言われて気付いたのか、サツキ君は慌てた様子でお腹の辺りをなで回す。
「ま、まあとにかくだ…。先入れよ。俺は後で良いから」
サツキ君は強引に話しを打ち切って僕の背を押し、脱衣場に押し込めてドアを閉めた。
サツキ君の足音が遠ざかったのを確認し、制服とシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。トランクス一枚になった時に、ふと洗面台
の鏡が目に入った。
鏡には、骨と皮ばかりの、貧弱な僕の身体が映っていた。
あばら骨の浮いた胸に手を当て、そこに刻まれた消えない刻印にそっと触れる。
このままサツキ君と付き合っていれば、いつか、彼の目にも触れる事になる…。その時サツキ君がどんな顔をするのか、想
像するだけで怖くなる。
この刻印が消えたならどんなに良いだろう?…でも、きっと一生消えることは無い…。これは、僕が犯した罪の印だから…。
鏡から目を逸らし、トランクスを脱ごうと手をかけた瞬間、獣が唸るようなゴロゴロという音が、遠くから微かに聞こえた。
反射的に身体が硬くなった。全身が小さく震え、呼吸が浅く、速くなる。
落ち着け…。大丈夫、音はかなり離れて…。
自分にそう言い聞かせたとたん、ゴロゴロと、さっきより大きく空が唸り、僕は背を丸め、自分の両腕を抱え込む。身体の
震えが大きくなり、歯がカチカチと音を立てた。鼓動が速くなり、息も喘ぐような速さになっている。
どんなに心を落ち着けようとしても、僕の身体は勝手に反応していた。
窓の外が一瞬明るくなり、間を置かずに、バリバリッビシャンッ、と音がした。雷鳴。稲光。地面に伝わる振動。その瞬間、
僕の中に残っていた冷静さは吹き飛んだ。
「うわぁああああああああああっ!!!」
意志に反し、僕の口から絶叫が迸った。
身体はガタガタと震え、膝が折れる。床にぺたんと座り込んだまま、僕は両腕で自分の身体を抱き締めていた。
…怖い…。歯がガチガチと鳴る。
…怖い…。激しい動悸が耳元で聞こえる。
…怖い…。全力で走った後のように呼吸が荒くなる。
…怖い…。身動き一つできず、僕はただ震え続ける。
「キイチ!どうした!?」
悲鳴を聞きつけたのか、脱衣場のドアが開き、サツキ君が慌てた様子で入ってきた。
「き、キイチ…?」
彼は僕の様子を見て、驚いているようだった。
その時、さっきよりも近くでバリバリッドォンッ、と雷が鳴り、地面が微かに振動した。
「わぁぁぁぁあああああっ!!!」
背を丸めた僕の喉から、押し出されるように悲鳴が飛び出した。…だめ…もう限界…!
その時、僕の身体を太い腕がしっかりと抱きかかえた。
「しっかりしろ!大丈夫だキイチ!」
力強く僕を抱き締めたサツキ君は、耳元でそう言った。
また、外で雷が鳴った。ビクリと痙攣した僕の身体を、サツキ君は全身で包み込む。
「俺がついてるから!だから安心しろ!」
気が付いたら、僕はサツキ君にしがみつき、胸に顔を埋めていた。サツキ君は右腕で僕の頭をしっかりと抱え込み、左腕を
僕の背に回して抱きかかえてくれていた。
サツキ君は何度も「大丈夫だ」と繰り返した。サツキ君の声が、彼の胸の奥から聞こえる心臓の音が、雷への恐怖を、雷鳴
を、打ち消している。
震えはだいぶ治まり、呼吸も落ち着いてきた。サツキ君の大きな体に抱え込まれ、その温もりを感じている僕は、それだけ
で安心感に包まれていた。
やがて、僕は自分の震えが完全に止まっている事に気付いた。雷はいつしか鳴り止み、屋根を叩く激しい雨音が聞こえた。
そっと顔を上げると、サツキ君と目があった。
ずっと僕を見つめていたのだろう。心配そうな表情を浮かべた顔が、ほっと緩んだ。
「平気か?キイチ…」
…なんてかっこわるい所を見られてしまったんだろう…。急に恥ずかしくなった…。
「ご、ごめん…。…有り難う…」
身を離した僕は、サツキ君が息を飲んだのに気付き、その顔を見上げる。そして思い出した。
僕は今、上に何も着ていない…。サツキ君の視線は、僕の胸に注がれている…。
左胸、鳩尾、右脇腹、へその上、左脇腹…。大きく見開かれたサツキ君の目が、僕の身体に残る、醜く引き攣れた傷跡を見
つめていた。
これが、僕の罪の印…。犯した大罪を忘れることが決してないように、消える事のない刻印…。
「…びっくりした?」
僕は両腕で身体を抱えて傷を隠し、言葉もなく固まっているサツキ君に声をかけた。
「汚いでしょ、僕…」
「そんな事はねぇよ」
サツキ君は僕から視線を逸らしてそう言うと、項垂れた。
「悪ぃ…。見られたく、無かったんだよな…?」
「ん…、平気…」
気まずい沈黙が、僕達の間に落ちた。
雷の光を目にするたび、雷鳴を耳にするたび、鮮明に記憶が呼び覚まされる。
雷光を受けた鉄の輝き。真っ赤に染まった白いシーツ。冷たくなっていく身体。耳の奥に残る悲痛な叫び声…。そして血と涙…。
「風邪…ひいちまうぞ?もう沸いてるから、風呂入れよ…」
立ち上がりかけたサツキ君の手に、僕は無意識に手を伸ばしていた。手を掴まれたサツキ君は、少し驚いたような顔で僕の
手を、それから顔を見つめる。
あの時の事を思い出し、身体が、また震えだしていた。
…お願い…。傍に居て…。一人にしないで…!
言葉には出せなかった。けれど、サツキ君は少しの間僕を見つめた後、手をギュッと握り返してくれた。
「…大丈夫だ。俺は傍に居るから…」
僕の心の声が聞こえたかのように、サツキ君はそう言ってくれた。
結局、一人になるのが怖くて、手を掴んだまま放せない僕を、サツキ君は一緒にお風呂に入れてくれた。
「…もう平気か?」
少し大きい椅子にチョコンと腰掛けた僕に、背中を洗ってくれていたサツキ君が、気遣うように声をかけてきた。
僕が頷くと、サツキ君はほっとしたように息を吐く。
嘘じゃない。不安も恐怖も、身体についた泥水と一緒に、サツキ君が洗い流してくれた。
背中まで洗う必要は無かったんだけれど、サツキ君は僕が落ち着くまで、頭と背中を丁寧に洗ってくれた。思い出してみる
とちょっと恥ずかしいけど、さっきまでは恐怖で身体がガチガチに固まって、恥ずかしい所じゃ無かったんだよね…。
背中にシャワーがかけられ、泡が洗い流されると、僕はなるべく元気に聞こえるように、サツキ君に声をかけた。
「有り難う。交代しようか」
「え?いや、俺は良いよ。自分でやれるから…」
僕は照れたような顔で遠慮するサツキ君の背後に回り込む。
「だ〜め。ずるいよ。僕の身体だけ好きなだけ触っておいて」
そう言うと、彼は困ったように頭を掻いた。
「あ、いや…!そんなつもりじゃ無かったんだが…。…悪ぃ…」
「あはは!冗談だってば。ね、遠慮しないで?背中流すからさ」
サツキ君はしぶしぶ頷くと、小さい僕が洗いやすいように、タイルの上に直接あぐらをかいて座った。
僕はシャワーでサツキ君の毛を湿らせる。サツキ君の被毛は、僕のと比べてかなり長くてタップリしている。水を吸った毛
が身体にそってペタっと寝ると、なんだか少しスリムに見えた。
「水に濡れると、少し痩せて見えるね」
「お、そうか?」
「うん。水も滴るいい男だよ」
「いやぁそれほどでも!」
「あははっ。冗談だけどねっ」
サツキ君は大げさにガックリと肩を落として見せた。
ボディシャンプーをたっぷり手に取り、大きな背中に塗りつける。軽く擦るとすぐに泡だった。サツキ君の身体は、みっし
り筋肉が詰まった上に脂肪がついていて、長くてフサフサの毛と合わせた手触りがとても良い。
「お客さ〜ん。かゆい所は無いですか〜?」
「なんだよお客さんって?あ、もっちょい上のとこ。そこそこ…、あ〜!気持ち良い〜!」
「お客さ〜ん。肩もだいぶこってますねぇ〜」
「え?そうなのか?そんな事も分かんのか?」
「ううん。適当に言ってみただけ」
「…お前最近よく俺をからかうよな?」
「だって、弄り甲斐があるんだもん。サツキ君素直だから」
「それ、褒めてねぇだろ?」
「まあね」
僕達は声を上げて笑った。お風呂の中で反響した笑い声は、いつもより凄く大きく聞こえて、少し驚いた。
シャワーで泡を流し終えると、僕達は一緒にお風呂に入った。
サツキ君の家のお風呂は広い。浴槽は2メートル四方ある。湯船が広いのは家族みんなが大きいからかもしれない。僕達が
並んで湯船に浸かっても、まだかなりの余裕があった。
サツキ君は、僕の傷について何も聞かないでくれたし、特に視線も向けなかった。意図的に逸らすような事もせず、傷なん
か見えていないように振る舞っていた。安心するとともに、心遣いが嬉しかった。
サツキ君の胸の三日月マークを横目で眺めていた僕は、ふと気になって視線を湯の中に向ける。サツキ君は膝を立て、股間
は見えなかった。いや、たぶん隠しているんだと思う。
…裸で身体を洗い合って、今さら恥ずかしがる事もないだろうに…。…うふふ、ちょっと意地悪してやれ…。
サツキ君が天井を見上げている隙に、僕はそっと手を伸ばし…、
「ひゃっ!?」
チンチンをキュッと掴んでやったら、サツキ君は可愛い声を出して仰け反った。
僕達は湯船を出て、軽くかいた汗をシャワーで流した。
え?何してたのかって?…いや、サツキ君が可愛い声を出したからちょっと興奮して…。
これもまた大きなバスタオルを借りて身体の水気を取り、獣人用のジェットタオルで被毛を乾かす。…え?それは何かって?
まあ、トイレなんかに設置してある、手を入れると強風が出て水気を飛ばす装置、あれの送風口が足下から頭の高さまで、壁
にずらっと並んでいる感じの機械だね。
すっかり落ち着いた僕は、サツキ君の服を借り、彼の部屋でジュースをご馳走になった。
…何やってるんだろうね…。無様な格好見せた上に、お風呂借りて、服も借りて、ジュースまでご馳走になって、…お風呂
の中では無理矢理迫ったし…。…はぁ、自己嫌悪…。
サツキ君は、やっぱり僕に何も聞かなかった。
隠し通せるはずも無かった事だ。バレて良かったんだと思う。とりあえずは、彼が嫌な顔を見せなかった事に、少し安心した。
「お?雨、上がったみてえだな」
お風呂上がりでサッパリした様子のサツキ君が、窓の外を眺めて言った。
「それじゃあ、そろそろ帰るね」
僕が立ち上がると、サツキ君は心配そうに眉をひそめる。
「平気か?なんなら送ってくか?」
「ううん。大丈夫」
それから、僕はサツキ君に見送られ、玄関を出た。
「今日は、色々とごめんね」
「気にすんなって!苦手なものの一つや二つ、誰にでもあんだろ?俺にとっての勉強とか、キダ先生のピーマンとかよ」
「…今日は、勉強できなかったね?」
そう言うと、サツキ君は少し顔を引き攣らせて苦笑いした。
「まぁ、また今度頼むわ」
踵を返しかけると、サツキ君が口を開いた。
「キイチ。修学旅行の班編制、同じ班にしようぜ」
彼はそう言うと、鼻を擦りながら続けた。
「シンジが調べたんだが、泊まるホテルさ、大浴場の他にも部屋毎にユニットバスついてるらしい。俺、お前が入ってる時は、
外で見張っとくからよ…」
…あ!…気付いたんだ…。僕が修学旅行の、入浴で悩んでいた事に…。
「…うん…!」
僕は、心の底からの笑顔をサツキ君に向けた。
彼の気遣いが、思いやりがとても嬉しかった。
…同時に、全てを打ち明けることができない自分が、とんでもなく卑怯に思えた…。