第十八話 「優しさに甘えてる」

僕は根枯村樹市。東護中学三年。クリーム色がかった白い被毛をした猫の獣人。

風邪を引いて二日間寝込んでたけれど、やっと今日から学業に復帰、現在登校中。

サツキ君にも勉強教えなくちゃならないんだから、しっかり遅れを取り戻さなくちゃね。

…サツキ君といえば…。ついに昨日、僕の住んでいる家に来てしまった…。

何も聞こうとしなかったけれど、きっと僕の家の事、気になってるだろうな…。

顔を合わせたら、きっと聞いて来るよね…?その時は何て言って誤魔化そう?…上手くはぐらかせるかな…。

サツキ君は僕について色々と知ってしまった。このままずるずると、いつまでも誤魔化して行けるだろうか?…いつかは、

やっぱりバレちゃうのかな…。僕らが幼なじみだって事も、僕の家がどうなったのかも…。

そんな事を考えながら校門を抜けると、

「うっすキイチ!」

突然背中を叩かれ、僕は前のめりになってたたらを踏んだ。考え事をしていたから、咄嗟の事に声も出なかった。

「っと、悪ぃ悪ぃ…。大丈夫か?」

振り返った僕の視線が、小山のように大きな体で遮られる。大きな手で僕の体を押し倒しかけたのは、考え事の原因である

熊獣人だった。

サツキ君は決まり悪そうに僕を見つめ、僕の背を押した手を宙でブラブラさせた。

「平気だよ。ちょっとびっくりしただけ。おはようサツキ君!」

「おう!…もう平気なんだな?」

「うん。おかげさまですっかり良くなったよ」

「そか、そりゃ良かった!」

サツキ君は安心したように笑みを浮べた。

夕べこの笑顔を見たら、自分がどんなに彼に会いたかったか良く分かった。サツキ君はこの世で一番の友達で、秘密の恋人だ。

…でも、やっぱり言えない…。彼に知られたら、もう一緒に居られなくなるから…。

「どした?暗い顔して…」

顔に出たらしい、サツキ君は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「ほんとは、まだ風邪が抜けてねぇんじゃねぇのか?」

僕の額に手を当て、サツキ君は自分と熱を比べる。熱はもう無いはずだけど、嬉しいのか恥ずかしいのか、顔が熱くなった。

「平気だってば。それよりもう教室に行こう?そろそろ予鈴が鳴っちゃう」

「だな。良いか?無理すんなよ?風邪は治りがけが肝心って言うからな。具合が悪くなったら、無理しねぇですぐに言えよ?」

「うん。ありがとう!」

気遣いが嬉しくて笑みを浮かべたら、サツキ君は照れたように鼻先を擦った。



昼休みも、いつものように二人っきり、屋上で過ごしたけれど、サツキ君は家の事も、傷痕の事も尋ねず、僕達は普段のよ

うに他愛の無い話をしただけだった。

色々と質問が来るものと構えていた僕は、拍子抜けしながらも、有り難くてほっとした。

もしかしたら、気を遣って聞かないでくれてるのかな…?そう考えたら、ますます自分が嫌になった。



授業が終わり、荷物を纏めていたら、これもまたいつものように、机の前にサツキ君がやってきた。

「どうする?今日は真っ直ぐ帰った方が良くねぇか?」

「大丈夫、もう平気だよ。それより僕が居ない二日間、ちゃんと勉強してた?」

「…まぁ、それなりには…、な…」

サツキ君は歯切れ悪く応じながら苦笑いした。

昨日、授業の進み具合を僕に教えてくれた事から、ちゃんと授業を受けていた事は分かっている。高校進学を目標にしてか

らというもの、サツキ君はいつも真面目に授業を受けているし、一生懸命勉強してる。実際のところ、それほど心配してる訳

でもないんだけどね。

「それじゃあ、僕も遅れを取り戻したいし、今日はハードに勉強会と行こうか」

「…いや…、病み上がりなんだから、ソフトな勉強会で良いぞ…?」

微妙な半笑いで応じるサツキ君。勉強嫌いはなかなか治らないねぇ…。



「ただいまー!」

サツキ君が玄関を開けて声を上げると、家の奥から、

「おかえりー」

と、女性の声が返ってきた。…あれ?

台所から顔を覗かせたのは、サツキ君より頭一つ小さい熊獣人の女性。小さいと言っても、体付きは熊獣人らしくがっしり

していて骨太だ。

…昔とあまり変わっていない、サツキ君のお母さんがそこに居た。

サツキ君の胸にある月の輪は、月輪熊種の血が混じっているおじさん譲りだ。おばさんは薄茶色の被毛の羆種で、月の輪は

無いらしい。

「お袋〜、友達一緒なんだ。なんか菓子ねぇかな?」

サツキ君の言葉に返事もしないで、おばさんは僕を見つめたまま、不思議そうに何度か瞬きした。

「お袋?」

「え?ああゴメンね。お友達?」

「初めまして、根枯村樹市です。サツキ君にはいつもお世話になっています」

お辞儀すると、おばさんは柔和な笑みを浮べた。

「あら…、初めまして貴方が噂のネコムラ君ね?」

おばさんは楽しげな笑みを浮べる。…って、噂の?何のことだろう?

「貴方に説得されたら、うちのドラ息子がやっと高校に行く気になったって、お父さんも感謝してたわ」

「ドラ息子って何だよ…」

「あら、ドラ息子じゃない?昔はちょっと気が弱いけれど繊細で素直で気の優しい可愛い子だったのに…、今じゃ乱暴になって

がさつになって無駄に大きくなって可愛く無くなって…」

「…ひっでぇ言われようだなおい…」

「さぁさぁ、どうぞ上がってゆっくりしていってちょうだいね。なんならお夕飯も食べて行ってくれたらいいわ」

「い、いえ、そこまでは…」

さすがに遠慮した僕に、おばさんは笑顔で言う。

「遠慮しないでちょうだい。昨日はサツキがご馳走になってるんだし」

あ、昨日一緒に夕飯食べた事、知ってるんだ…。サツキ君自身は、僕の事をおばさんにはどう話しているんだろう?その事

がちょっと気になる…。

結局、懐かしい笑顔に押し切られる形で、僕は夕飯をご馳走になる約束をしてしまった。



「おばさん。帰って来てたんだ?」

サツキ君の部屋で、僕達は教科書を広げる。

「おう、一昨日な。町内旅行が温泉巡りでさ、ここ三日間、毎朝毎晩、食卓に必ず温泉卵が出てくんだよ…」

「温泉かぁ…」

「いいよなぁ。広〜い風呂で手足伸ばして、ゆっくり湯船に浸かりてぇよなぁ」

「サツキ君の家のお風呂。すごい広いじゃない?」

「もっと広い方が良いんだよ!それに温泉とか銭湯の風呂って、やっぱり雰囲気が違うだろ?」

う〜ん…。正直なところ良く分からないけど…、そういうものなのかな?

「僕、行ったことないんだ。銭湯も温泉も。興味は有るけれど…、ちょっとね…」

「え?」

サツキ君は一瞬不思議そうな顔をした後、何かを思い出したように黙り込み、鼻の頭を掻いた。…僕の体の傷の事を、思い

出したんだろう。

「…あのさ。キイチ」

「うん?何?」

サツキ君は言いにくそうに少し俯き加減になり、僕の顔色を窺うように上目遣いで見つめた。

 …来た。当然気になってたよね、傷の事も、家の事も…。

「あのさ…。イヤだってんなら無理にとは言わねぇけど…」

「…うん」

「柔道部の後輩、前にも何回か話したジュンペーな、あいつん家、銭湯やってんだ」

「…はい…?」

…一体、何の話だろう?

「狸湯っていうんだけどよ。俺、休日なんかはジョギングが終わった後たまに寄って、風呂掃除手伝ったりとかしてさ、開店

前の誰も居ねぇ内に湯船使わせて貰ったりしてんだ。だから、もし興味あるんなら、今度一緒に行かねぇか?それなら他人の

目も気にしねぇでゆっくりできるし…。お前さえ良けりゃ、ジュンペーと親父さんに頼んでみるけど…」

…あ…。サツキ君、今の話で銭湯に興味あるって言ったから…?傷のせいで他人の前で裸になれない事を察して、気を遣っ

てくれたんだ…。

「…うん。もし行けるなら、嬉しいな…」

「そ、そっか!」

僕が嫌がると思ってたのか、不安そうだったサツキ君が笑顔になった。

「んじゃ早速今度の土曜日にでも…」

そう言いかけてから、サツキ君は頭を掻いた。

「あ〜…、今度の土曜は用事があるんだった…」

「僕ならいつでもいいから気にしないで。サツキ君が行く時に言ってくれれば良いよ」

「おう。必ず連れてくから!いつかは温泉にもよ!」

そうだね、いつか一緒に温泉とかへ旅行できたら、楽しいだろうな…。



しばらく勉強していたら、おばさんが僕達を呼びに来た。気が付けば時刻は6時を回ったところ、夕食の時間だ。

「なんだよお袋?今日はずいぶん豪勢じゃねぇ?」

ハンバーグにエビフライ、ポテトサラダにクリームシチュー。質も量も素晴らしい夕食を前に、サツキ君が感嘆の声を洩らした。

もしかしておばさん、僕が来ているから夕食を豪華にしてくれたんじゃ…。

「ネコムラ君の口にも合うと良いんだけど。さぁさ、遠慮しないで食べてちょうだい」

「済みません。ご馳走になります…。あ、そういえばおじさんは?」

「親父はいつも夜遅いからな。たいがい夕飯は別なんだ」

「そうなのよ。ウチの宿六の事は気にしないでいいからね」

…宿六って…。

夕食はとても美味しかった。たまにサツキ君が作ってくれる料理と味付けが似ている。その事を尋ねてみたら、サツキ君に

料理の指導をしたのは、やっぱりおばさんだった。

「あたしは旅行好きだからねぇ。留守の間にも旦那と息子が飢え死にしなくて済むようにと思って、小さい頃から料理を仕込

んでおいたのよ」

「亭主と倅を飢え死にさす恐れがあるくらいなら旅行に行くなっての…」

サツキ君が顔を顰めてつっこんだ。彼もかなり料理がうまい。甲乙付け難いけれど、それでもおばさんの方が若干上かもし

れない。さすがは専業主婦。

おばさんはサツキ君と僕が知り合ったきっかけや、仲良くなった経緯について話を聞きたがった。

僕達はエコジマ先生の不正な追試や、僕達が男同士の恋人である事などは伏せ、サツキ君が図書室で勉強している時に知り

合った事、それから図書室で顔を合わせているうちに親しくなっていった事、球技大会や文化祭で一緒に組んで活動していた

事を話した。

おばさんは興味深そうに話を聞いていたけれど、時々僕の顔をじっと見つめ、何かを思い出そうとするように目を細めてい

たのが気になった。

まだ気付かれてはいないようだけれど、僕と森野辺樹市の面影を重ね合わせているのかもしれない。…まさかバレる事は無

いと思うけど…。

「ご馳走さん!」

「ご馳走様でした!」

「はい、お粗末様」

僕が7、8人居ても食べきれないほどの量があった夕食は、綺麗に平らげられた。

結局、残りそうな分はサツキ君が全部食べた。いつもながら惚れ惚れするような健啖ぶり。少食な僕にすれば羨ましい限り

だ。サツキ君は良く食べて良く働く。将来はやっぱりおじさんみたいな働き者になると思う。

食器を片付け終えると、洗い物は一人でするからと、おばさんは僕達にお茶と菓子を持たせてくれた。

再びサツキ君の部屋に入った僕達は、広げたままの教科書と壁の時計を見る。時刻は7時丁度だった。

「こんな時間か…。今日はもう終わりにするか」

サツキ君がそう言った。

「もう少しで切りの良い所なんだけどな…」

僕がそう応じると、サツキ君は少し考え込む。

「でも、だいぶ遅くなっちまったぞ?家族が心配すんだろ?」

「心配する家族なんて居ないよっ!」

…しまった!

ちらりと様子を窺うと、サツキ君は少し悲しそうな顔をしていた。…口が滑った…、思いの外、強い口調で言っちゃったな…。

「…ゴメン…」

「いや…、俺が無神経だった」

僕が謝ると、サツキ君はそう応じ、ベッドに座った。

「ね…、もう少しだけ、お邪魔してていい?もうちょっとだけ…」

「おう。お前が良いなら遠慮すんな」

僕はサツキ君の隣に腰を降ろした。

「…ゴメンね…」

「いいって、気にすんなよ」

「ゴメン…」

「だから謝るなってば」

「…ゴメン…」

サツキ君は苦笑して、僕の頭をワシワシと撫でた。

…謝ってるのは、無理を言って部屋に留まっている事についてでも、声を荒げてしまった事についてでもないんだ…。

本当に詫びたいのは、僕が何も話せない事…。君は何も聞かないでいてくれる。きっと気になっているだろうに…。

…僕は、サツキ君の優しさに甘えてる…。

重々分かっているけれど、やっぱり話す事はできない。まだ君と一緒に居たいから、話す訳にはいかないんだ…。

 …勝手だよね?本当に…。

僕はサツキ君によりかかった。サツキ君は僕の肩に腕を回し、そしてそっと抱き寄せる。僕は目を閉じ、彼の胸に頬を寄せ

た。トクン、トクン、と鼓動と温もりが感じられる。

「…大丈夫だ…」

サツキ君は、僕の頭を撫でながら呟いた。何に対して大丈夫だと言ったのかは分からなかった。でも、サツキ君の言葉は、

いつでも僕を安心させてくれる。

ずっと、こうしていられたら良いのに…。本当は…あんな家になんか帰りたくないよ…。

僕が体を摺り寄せると、サツキ君はしっかりと抱き締めてくれた。

「こうやって考えると、お袋が居ねぇ間は気楽だったよなぁ」

サツキ君が苦笑いする。それはそうだ。キスシーンでも目撃されようものなら、一体どうなる事か…。

「しばらく、ご褒美はお預けだね」

「むぅ…。残念」

ボクが冗談めかして言うと、サツキ君は心底残念そうに応じた。



あまり長居しても迷惑になるから、僕は8時前にはサツキ君の家を出た。

暗くて危ないからと、サツキ君は僕を送ってくれた。

…送るって…、大事にしてくれるのは嬉しいけど、僕達、同い年なんだけどなぁ…。僕、そんなに頼りない?

住んでいる場所がサツキ君にバレた以上、もう隠す必要も無い。そういう意味では少しだけ気楽になったかもしれない。

「もう、ここで良いよ」

家が見えてきたので、僕はサツキ君に告げた。

「そか。んじゃ、また明日な」

「うん。また明日…」

踵を返しかけたサツキ君は、何かを思い出したように振り返った。

「あのさ。辛ぇ事、無理に我慢する事なんてねぇんだからな?」

サツキ君はそう言うと、力強く頷いて見せた。

「頼りねぇかもしれねぇけど。俺、お前の為なら何でもできる」

そこまで言うと、照れ臭そうに鼻の頭を擦った。

「俺は、大丈夫だからよ」

大丈夫の意味が、また分からなかった。でも…。

「うん。覚えとく」

僕は笑顔で頷いた。

「んじゃ、おやすみ!」

サツキ君はそういうと、踵を返して足早に歩いていった。

その背を、僕は見えなくなるまで見送った。

…辛い事を、我慢する事はない、か…。

真実を告げる事はできないけれど、彼の気遣いは、本当に嬉しかった…。