第十九話 「俺は理解した」
港は、海から煙る薄い霧に包まれてた。
ボォー…フゥィッフゥィッフゥィッフゥィッ…。
船の汽笛の音が漁港に反響する。俺は船を係留する為の、コンクリートから突き出た柱に右足を乗せ、リュックを右手で背
中に吊るすように担ぎ、霧に煙った海を眺める。
…夜霧よ…、今夜もセンキュー…。いや、今は昼だけど。
え?なんかノリノリに見える?
うんまぁ、いまさっき活気のある市を見て、市場の食堂でサンマ定食を食って、ついでにこの潮風に当たってたらなんつぅ
かテンション上がってきて、一人で盛り上ってた。
おっと自己紹介!俺は阿武隈沙月。東護中学三年。胸に月の輪を持つ熊獣人だ。
今日は土曜で学校は休み。朝に家を出た俺は、電車を利用してキイチが前に暮らしていたらしい雄流和町にやって来た。
キイチにはたぶん、自分の過去を話すつもりはねぇ。でも、知っておけば、俺があいつの為にできる事が見付かるかもしれ
ねぇ。面と向かって聞けねぇからには、自分で調べるしかねぇだろ?
とりあえず、これまでに分かってる事は…。
キイチは昔、ここオナガワの何処かに住んでた。…はずだ…。
その時住んでた部屋からは、市場の競りの様子が良く見えた。…って話らしい…。
中学入学と同時に東護の叔母さん夫婦のトコに越して来たらしいから、少なくとも小学卒業時点ではここを離れた。…はず
だよな…。
この三つだけだ。う〜ん…「らしい」と「はず」だらけだなぁしかし…。改めて考えると手がかり少ねぇなぁ…。
でもまぁ当てはある。この漁港近辺が学区に入ってる小学校は一つしかねぇ。つまり、キイチはそこに通ってたはずなんだ。
上手く行けば住んでた家や、家族の事も分かるかも知れねぇ。
俺は薄い霧の中、海にしばしの別れを告げた。
…夜霧よ…、今夜もセンキュー…。…え?しつこい?
学校は土曜で休みでも、先生方ってのは何かとやる事が多いから、結構出勤してるもんだ。
校門から校舎を眺めると、案の定、玄関脇の職員室らしい部屋に先生が何人か居る。丁度良くキイチの事を知ってる先生が
居ると良いな…。
校門を抜け、校舎に向かって歩き出すと、遊具で遊んでいた子供達が俺に手を振って来た。無邪気で可愛いねぇ!俺にもあ
んな頃があったんだよなぁ…。って、ほんの数年前の話じゃねぇか。
手を振り返していると、玄関が開いて二人の先生が出てきた。…なんとなくだが、表情が硬いように見える。何かあったのか?
軽く会釈すると、二人の先生は俺の前で立ち止まった。
二人とも人間で、一人はワイシャツにスラックス、少し額が後退し始めた壮年の先生。もう一人はジャージ姿で、たぶん20
代後半ごろの若い先生だ。
「失礼ですが、父兄の方でしょうか?」
壮年の先生が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。
「は?へ?父兄って、俺?」
…ショック…!俺、小学の子供が居るような歳に見えたのか!?
「…俺、中学三年っす…」
俺が生徒手帳を差し出すと、受け取った壮年の先生は驚いたように俺を見つめ、横から覗き込んだ若い先生が、まったく同
じ表情で俺を見つめた。
「あ、ああ。ごめん…!…立派な体格をしていたから、つい…。最近の中学生は大きいねぇ。は、はははははっ…」
気まずそうに壮年の先生が言う。
「…いや、良いっすけど…」
若い先生が取り繕うような笑顔を浮べた。
「最近不審者が学校に入り込む事件とか、あるだろう?それで、父兄かどうか確かめに来たんだよ」
…あれか?父兄か不審者のどっちかだと思われたのか俺…?…重ね重ねショック…。
「ところで、君はここの卒業生かい?三年前なら私も居たけれど…、君のような生徒なら忘れそうにないんだけれどなぁ…」
あれか?そりゃおっさんづらだから印象に残るって事か!?…っと、我慢我慢…!三年前にも居たって事は、この先生なら
キイチの事も知ってるかもしれねぇな。
「俺、ここの生徒じゃなかったんです。でも、引っ越してった友達がここに通ってたんで、それで、ここで聞けばどこに越し
てったか分かるかと思って…」
俺が中学生だと知って警戒を解いたのか、先生方の顔から硬さが取れた。最近じゃ中学生だって凶悪な犯罪起こすんだから、
歳で判断してる訳じゃねぇのかも知れねぇけど、とりあえず俺は不審者じゃねぇと判ってくれたらしい。
「何て名前の子だい?私は6年前からこの学校に居るから、たぶん分かると思うよ」
壮年の先生は古株らしい。少しほっとしながら、俺は尋ねてみる事にした。
「名前はキイチ。根枯村樹市っていうんすけど…」
「ネコムラ…!?」
壮年の先生はハッとしたように俺の顔を見つめた。驚いているような様子で、また表情が硬くなってる。
「四年生の終わり際に越して行った、あのネコムラ君かね?」
四年の時?って事は、あいつこの学校から別の学校に移って、それから東護に越してきたのか?新事実発覚!だが、ここは
知ってるふりをしといた方がいいよな?
「そうっす。何も言わないで引っ越してったんで、どこで何してんのかも解んなくて」
不自然に見えねぇように言うことができたはずだ。が、壮年の先生は顔を曇らせていた。
「どうしたんです?その生徒…」
小声で尋ねた若い先生に、壮年の先生が声を潜めて応じた。
「ほら、五年前の……両親が………事件の……」
俺には断片的にしか聞こえなかったが、若い先生には何の話か分かったらしい。かなり驚いてるようだった。
「ネコムラ君はね、お母さんの実家、祖父母のところに越して行ったんだよ」
壮年の先生はそう言った。
「そこって何処なんすか?遠いとこ?」
「確か複嶋の方だったかな」
「親御さんも一緒に?」
「…あ、いや…」
壮年の先生は口ごもった。
やっぱりあいつ、両親と一緒に居られねぇ訳があったんだ…。で、じいさんとばあさんのとこに預けられて、それから叔母
夫婦の家に預けられたのか…。
「引っ越してったのは、親御さんの仕事の都合とかじゃ無かったんすか?」
「あ、ああ。うん…、少し違うかな…。ちょっと複雑な家庭の事情でね」
「それは…」
「済まないが、教えられないんだよ」
壮年の先生はそう言って首を横に振った。
「それじゃあ、あいつのじいさんとばあさんの家の電話、分かりませんかね?俺、どうしても連絡取りたいんすよ!」
「…う〜ん…」
壮年の先生は、困ったように腕組みをした。
話の半分は嘘だったが、あいつの事を想う気持ちは嘘じゃねぇ。俺の視線に耐え兼ねたのか、壮年の先生は若い先生を見遣った。
若い先生はそっぽを向き、遊具で遊ぶ子供達を眺め、口元を笑みの形にした。
「今僕は、遊具で遊んでいる子供達に危険が無いかどうか集中して見守っています。集中の余り他の事は目に入って来ません
し、声も聞こえて来ません。だから、先生が昔の生徒の個人情報を、その誠実そうな友人に教えたとしても、僕は気付きよう
がない訳です」
壮年の先生は苦笑すると、少し待っているように俺に告げて、校舎へと入っていった。
「恩に着ます!」
俺が頭を下げると、若い先生は視線を子供達に向けたまま、笑みを浮かべて呟いた。
「集中してるあまり聞こえないはずだけれど、誰かにお礼を言われたような気はするなぁ」
程無く戻ってきた先生は、俺に電話番号と名前を控えたメモをくれた。根枯村徳助(ねこむらとくすけ)ってのがあいつの
じいさんの名前らしい。
「いいかい?私らが生徒や過去の在学者の個人情報を教える事は、本来いけない事なんだ。くれぐれも、この学校で教えられ
たというのは秘密だからね?それと…」
「分かってます。誰にも言いません。もちろん悪ぃ事にも使わないっすよ」
俺が約束すると、二人の先生は満足げに頷いた。
助かったぜ!じゃあ早速、公衆電話からかけてみるか…。俺は先生方に礼を言い、小学校を後にした。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
「…は…!?」
俺は公衆電話の受話器を握ったまま、自動再生されるおねーちゃんの声を聞いていた。
なんだと!?使われてねぇ!?
番号を間違えたかと思ってかけ直してみたが、同じ事だった。
番号、変わっちまったのかな…?もっとも、考えてみりゃあ見ず知らずの俺がいきなり電話かけたからって、キイチの事や
家族の事を教えて貰える可能性はあんまりねぇけど…。
…それに、あの二人の先生が小声で言ってた事…。「五年前」「両親」「事件」…あの言葉がどうにも気になる…。
歩き回って頭も使ったら小腹が減ったんで、とりあえず俺はまた市場の食堂に入る。そしてサンマ定食を食いながら、小せぇ
脳みそを捻って考えた。
…そういえば、漁港近くのマンションに住んでたって言ってたよな?確かそんな建物が幾つかあった。それに、朝市が見え
るって条件がつけば、絞んのは難しくねぇだろう。
おし!とりあえず住んでたマンションから探してみるか!
なんか今日の俺、ちょっと探偵っぽくねぇ?…え?むしろストーカーっぽい!?
そのマンションの下に立ち、俺は市場の方を眺める。
他にも二つ漁港付近にマンションがあったが、窓の角度があわなかったり、離れ過ぎてたりしてダメだった。
角度から言うと、このマンションの上の方からなら朝市が見えるよな…。たぶんここで間違いねぇはずだ。…が…。
「…考えてみりゃ…、住んでたマンションだけ分かってもなぁ…」
俺は呟きながら頭をガリガリと掻いた。住んでる人に聞き込むってのも考えたが、それじゃまるっきり不審者だよな…。部
外者の俺はマンションに入れねぇし…。ここまで来たのに、調べんのも行き詰っちまった…。
マンションの下には公園があった。とりあえず自販機でコーラを買い、ベンチに座って考えを巡らす。こんなに頭を使う事
なんて滅多にねぇな…。俺がキイチの半分でも賢けりゃあ、もっと色んなアイディアが思い浮かぶのかも知れねぇけど…。
途方に暮れてため息をつき、肩を落とすと、俺の足元にサッカーボールが転がってきた。
サッカーボールと言っても、デザインがそうなだけで、バレーボールより小さくて中にスポンジが詰まってフニャフニャし
てるヤツだ。ボールはかなり使い込まれて、所々で白と黒の塗料が落ちて茶色い繊維が覗いてた。
ボールを拾い上げ、転がってきた方を見ると、犬獣人の男の子がこっちを見てる。
小学校低学年…、たぶん7つか8つってとこだろう。
「ほれっ」
ボールを放ってやると、男の子は胸の前で両手でしっかりとキャッチし、笑顔を見せてペコリとお辞儀した。
茶色の毛並みに黒いキラキラした目。なんとなくケントの事を思い出す。
小学校の頃、あいつとは他の子供と混じって、良くサッカーしたっけなぁ…。当時から図体がでかかった俺はいっつもキー
パー役で、あいつはフォワードだった。ケントは惚れ惚れするぐれぇカッコいいストライカーだったっけ…。
俯いてそんな事を考えてたら、男の子がいつの間にか俺に近付いて来てた。顔を上げると、男の子はなんとなく心配そうな
顔で俺を見てる。
「おじちゃん。悲しいの?」
…………………。
「いや、そんな事はねぇよ。…それと、「お兄ちゃん」こう見えても中学生なんだ…」
ケントの事思い出すと、いまだにどうも寂しくなんだよな…。キイチが言うに、忘れちゃいけねぇ事、なんだけどさ…。
…今だから解る。あいつはきっと、苦しい事や悲しい事、辛い事、全部忘れねぇでいるんだ。だからあの言葉はズッシリ重
く、中身がギッチリ詰まったもんで、説得力があったんだと思う…。
「お兄ちゃん、泣きそう?」
俺の顔を覗き込み、心配そうに男の子が言う。…優しい子だなぁ、お前…。
「平気だよ。今のお前より小さかった頃に、強くなるって決めたんだからな」
そう言って頭を撫でてやると、男の子はくすぐったそうに笑った。
その手の中のボールに、擦れて消えかけた名前が書いてあった。この子の名前だろうと思って、黒いマジックで書かれたそ
れに何気なく視線を向けた俺は…、
「…っ!?」
目を大きく見開き、その名前を見つめた。
「ね…こ…むら…?」
そう、ボールに書かれたマジックの文字は、ひらがなで「ねこむら」。消えかけてはいたが、見間違えようがなかった。
「お前、根枯村樹市って知ってるか!?」
俺が尋ねると、男の子はしばらく俺の顔を見つめたあと、
「キイチお兄ちゃんの事?」
と首を傾げた。
やっぱり!この子はキイチを知ってるんだ!もしかしたら、キイチの両親はまだここに住んでんのか?そういえば、さっき
会った先生方は、両親も一緒に越して行ったんじゃねぇような事を言ってた。キイチだけが家庭の事情とやらで引っ越したのか?
「キイチの家族って、まだここに住んでんのか!?」
「ううん。ずっと前に居なくなったよ」
「ずっと前?何処に行ったんだ?」
「分かんない。すごい遠くだってママが言ってた」
すごい遠く?やっぱり、おふくろさんの実家があるフクシマに行ったのか?
「ママに聞けば分かると思うよ?」
「お母さん、家に居るのか?」
「お買い物に行ってるの。すぐ帰って来ると思う」
なんて偶然だ!この子のお袋さんに聞けば、キイチの家族の事もきっと分かる!
「じゃあ、お母さんが帰って来る頃になったら、会わせてくれねぇかな?俺、キイチの友達なんだ。聞きてぇ事があるんだよ」
「うん。良いよっ」
男の子は笑顔で頷いた。くぅっ!天使の笑顔に見えるぜっ!
「それじゃあ、ママが帰って来るまで、ボクと遊んでくれる?」
「おう!遊んでやる!…っと…」
そういや名乗って無かったし、この子の名前も聞いてなかったな。
「俺は阿武隈沙月。お前の名前は?」
「狛井修(こまいしゅう)!」
「シュウ君か。よろしくな!」
「うん!よろしくねサツキお兄ちゃん!」
俺は公園でシュウ君のお袋さんの帰りを待ちながら、一緒に遊んだ。これが結構楽しかった。
お兄ちゃんかぁ。なんか良い響き…。俺、上は居たけど下は居ねぇから、昔は弟が欲しかったんだよなぁ…。
「あ、ママー!」
俺の頭の上で、シュウ君は声を張り上げた。
シュウ君を肩車したまま振り返ると、買い物帰りなのか、若い女の獣人女性が、荷物満載の自転車を押しながら立ち止まっ
たのが見えた。
地面に降ろしてやると、シュウ君は女性の所へ駆けて行った。
茶色の毛並みの犬の獣人。一目で分かる。シュウ君はお袋さん似だな。
「あらあらシュウ、遊んで貰ってたの?」
柔和な笑顔でシュウ君を見つめた女性が、俺の方を見た。
「うん!あのねー、サツキお兄ちゃんに遊んで貰ってたのー!」
「ども、阿武隈沙月っていいます」
会釈して挨拶すると、おばさんは頭を下げ返して来た。
「あらあら、有難うございます。ご迷惑じゃなかったかしら?」
「いやぁ、俺も楽しかったですから!」
これは本音だ。でもちょっと照れ臭くて、俺は鼻の頭を擦る。
「ママー!サツキお兄ちゃんはね、キイチお兄ちゃんの友達なの!」
シュウ君がそう言ったとたん、おばさんは驚いた様子で俺を見つめた。…なんとなく、顔色が悪くなったような…?
「…キイチ君の…?」
「はい。で、あいつの事で少し話が聞けないかと思って…」
おばさんは悲しげな顔で目を伏せる。俺もシュウ君も、訳が分かんねぇまま、元気の無くなったおばさんを見つめていた。
シュウ君の家族は、やっぱりマンションに住んでいた。
しかも、キイチと家族が住んでた部屋は、おばさん達の部屋の隣らしい。
部屋に通された俺は、台所のテーブルに案内された。大事な話だからと言われると、シュウ君は素直に隣のリビングに残り、
一人でテレビを見始めた。
お茶を出してくれたおばさんに、まず俺の事から話した。
小学校で話を聞いた時とは事情が違う。俺はキイチと初めて言葉を交わした図書室での事から今に至るまで、そして、あい
つが過去の出来事で心にも体にも深い傷を負ってるらしい事まで、全部話した。
「…そう。キイチ君、サツキ君には何も話そうとしないのね…」
「あいつ。滅多に弱みなんて見せねぇんです。悩みとか、辛ぇ事とか、全部一人で抱え込んで、それでもいっつも笑ってて…。
でも、最近はあいつの作り笑い、解るようになってきたんです…。本当はいつも辛ぇのを我慢してるんだって、やっと気付い
たんです…」
おばさんはため息をつくと、ドアを開けたままのリビングに視線を向けた。そしてシュウ君を見ながら呟く。
「シュウが四つの時まで、キイチ君とお母さんはこのマンションに住んでいたの。キイチ君はシュウの事を弟のように可愛がっ
てくれて、よく面倒を見て貰ったのよ。シュウもよく懐いていてね、キイチ君が残して行ったボールを、今でもずっと使って
いるわ…」
「そうだったんすか…」
納得しながら、俺にはちょっと引っかかる事があった。おばさんは今、キイチとお袋さんがマンションに居たって言ったよな?
「キイチの親父さんは…、一緒に住んでなかったんですか?」
「母子家庭だったの。ネコムラさん達、キイチ君が小学校に上がる数ヶ月前にここに越して来たんだけれど、その時にはもう
旦那さんは居なかったわ。それから程無く正式に離婚したそうよ」
おばさんは言い難そうにそう教えてくれた。
…そうなのか…。両親が離婚して、母子家庭になってたんだ…。それで家族の事を何も話そうとしねぇのか…。
「フクシマに引っ越したのは家庭の事情だって聞きました。詳しい事は知りませんか?」
おばさんは俺の顔をじっと見つめた。悲しそうで、言い難そうだった。
「…サツキ君。キイチ君が話そうとしないのは、君に知って欲しくないからなのよ」
「それでも、俺は知りてぇんです!」
俺は身を乗り出しておばさんに懇願した。
「あいつは俺の事を良く理解してくれてるってのに、いっつも相談にも乗って貰ってるのに…、俺、あいつの事を何も知らねぇ
んです!助けられてばかりで、なのに何もしてやれなくて…、せめて何か力になれねぇかって…、ねぇ知恵絞って色々考えま
した。そして、あいつの事情が分かれば、俺が力になれる事も見付けられるかも知れねぇと思ったんです!だから…、だから
お願いします!俺に、あいつの事を教えてください!」
机に頭を擦りつけ、俺はおばさんに頼み込んだ。
おばさんはしばらく無言だったが、小さくため息をついた。
「顔を上げてちょうだい。なんだか、私が苛めてるみたいに思えてくるわ」
顔を上げると、おばさんはちょっと困ったような微笑を浮べていた。
「キイチ君には、貴方みたいな良い友達ができたのね…。少し安心したわ」
「俺が良い友達かどうかは分かんねぇっすけど、俺にとってのキイチは最高のダチです」
少し照れ臭かったけど、俺はおばさんにそう言った。おばさんは少しの間黙り、そして静かに口を開いた。
「キイチ君に起こった事件は…とても辛くて、残酷なものだったわ…。きっと、貴方が想像しているどんな事よりも…。大人
である私達でも、できれば口にしたくない、思い出したくないほどのね…。この話を聞いたら、きっとキイチ君と接するのは
辛くなるわよ?」
おばさんは俺の目を真っ直ぐに、じっと見つめた。
「一つだけ約束して欲しいの。彼の辛い過去を知っても…、それでもずっとキイチ君の友達で居てくれるなら、教えてあげら
れるわ」
俺が想像してるどんな事よりも辛くて残酷…?大人でも思い出したくねぇ…?キイチと接するのが辛くなる…?…一体、こ
こに住んでた頃のキイチに何があったんだ?
…情けねぇ話だが、ここまで来ておきながら、俺は少しばかり怖気づいた。でも…。
「納得できました。あいつが俺に話そうとしなかった理由…」
俺は、なんでか笑ってた。変な話だけど、嬉しくて、顔が勝手に笑ってた。
「あいつ。話したら俺と友達で居られなくなるって思ったんすね?だから、黙ってようと思ってたのか…」
「悪く思わないであげて、キイチ君は…」
「分かってます。そりゃあ、そこまで信用されてねぇと思えば、少しは腹も立つし、残念だけど…。でも、あいつが俺と友達
で居てぇって思ってるから、関係を変えたくねぇから話さねぇでいるんすよね。そんなあいつの気持ちに気付いたら、ちょっ
と嬉しくなった…」
そう、あいつも俺と離れたくねぇって思ってるんだ。その事が嬉しい。だからこそ、あの手この手で素性を隠そうとしてき
たんだろう。
…でもよキイチ。本当の友達ってそんなんじゃねぇだろ?腹を割って何でも話せる相手が親友だろ?少なくとも、俺にとっ
てのお前はそうだ。だから、俺もお前にとって、何でも話せる親友でありてぇんだ…。
「約束します。俺、何があってもキイチから離れません」
おばさんは満足そうに微笑むと、手近にあったチラシを取り、何かをメモして俺に差し出した。メモには日付が書いてある。
五年前の冬だな…。
「こりゃあ、何の日付っすか?」
「それは、キイチ君の家庭で、ある事件が起こった日よ…。図書館でその日付近くの新聞を捜してみて。そこに、あの事件の
事が全部載っているわ。一面記事だから、すぐに判るはずよ」
新聞に載った?キイチに起こった事件って、もしかして俺が想像してるよりもずっと…。
「ごめんなさいね。キイチ君が伏せている事を、私の口から話すべきじゃないと思うの。それに…、正直な事を言うとね…、
五年近くも経つのに、思い出すとまだ少し辛いのよ…」
おばさんは壁に視線を向けた。隣の部屋を見透かすように、哀しげに目を細めてた。
「あれから五年経った今でも、隣の部屋は借り手がつかないわ…」
礼を言って玄関に立った俺を、シュウ君は残念そうな顔で見上げた。
「サツキお兄ちゃん…、もう帰っちゃうの?」
「うん。今日は楽しかったぜ。ありがとなシュウ君」
屈んで頭を撫でると、シュウ君は嬉しそうに笑った。
「また、遊びに来てくれる?」
「おう!今度はキイチのヤツも連れてくるからよ!」
顔を輝かせたシュウ君から視線を外し、俺はおばさんに深々と頭を下げた。
「お邪魔しました。そして、助かりました。腹の底から感謝してます」
精一杯の感謝を表した俺に、おばさんが微笑んだ。二人の笑顔に見送られ、俺はドアを閉め、マンションの廊下に出る。
覚悟は、もう決まってた。
翌日、日曜の朝、俺はさっそく東護町立図書館に足を運び、新聞を捜した。
五年前なんて古い新聞がちゃんととってあるのか不安だったが、ちゃんとあった。見直したぜ図書館!
俺は教えられた日付から一週間分の新聞を纏めて手に取り、机の上で広げた。
まだ朝早くで人が少ねぇ。これなら気が散らずに調べられるな。
とりあえず、事件当日の新聞を隅々まで見たが、特に何も載ってなかった。
翌日の新聞を広げようと手を伸ばした俺は、その一面に載っている写真に目を留めた。
見覚えのあるマンションの写真がでかでかと載ってた。その横には…、
―町営マンションで男女死亡、子供は意識不明の重体。無理心中か?―
俺は呼吸をするのも忘れて、食い入るように写真を見つめた。…間違いねぇ、昨日行ったあのマンションだ!
―29日深夜、隣室の住人より「悲鳴が聞こえた」との通報があり、警官がかけつけたところ、子供用の寝室でこの部屋の
住人であるパート従業員、根枯村美樹(ねこむらみき)さん(32)と、リビングではその元夫、製薬会社社員、森野辺純市
(もりのべじゅんいち)さん(35)が、が、それぞれ遺体で発見された。
純市さんは全身に十二箇所にも及ぶ刺し傷があり、美樹さんは胸に刺し傷と、首に深い切り傷を負っていた。同じ部屋に住
む美樹さんの長男(10)も、胸や腹に五箇所に及ぶ深い刺し傷を負っており、病院に搬送されたが、意識不明の重体。
四年前に協議離婚していた元夫は、美樹さんと復縁したいと以前から同僚に仄めかしていたらしく、警察では復縁話のもつ
れからトラブルになったものと見て捜査を進めている―
手が震え、新聞がかさかさと音を立てた。
…なんだよ…これ…。キイチ…、まさかお前…、…こんなっ…?
事件の凄惨さもそうだが、俺の目は、元夫の姓に釘付けになって動かなかった。
森野辺…、元夫の名前が…、モリノベ…、キイチは…、キイチの前の名前は…、
「…モリノベ…キイチ…」
自分の頭の鈍さに驚いた。考えてみれば、そう思えるフシはこれまでにいくらでもあったんだ。
やっと…、やっとの事で…、俺は理解した…。時折、キイチときっちゃんの姿がダブって見えるのは、当り前の事だった。
…本人だったんだから…。
…俺は…、俺は…!とんでもねぇ大馬鹿野郎だ…!
キイチは、自分が幼なじみな事も伏せて…、辛ぇ過去も全部一人で抱え込んで…!
どれだけ辛かったろう、そうやって俺の傍に居るのは…?
どれだけ苦しかったろう、この町で知ってる顔を目にするのは…?
乱暴に次の新聞を拡げ、俺は続く記事を次々読み漁った。
そこには、まだ十歳だったキイチの身に起こった、哀しくて、残酷で、辛ぇ事件の全貌が全て載ってた。
その事件のあまりの凄惨さを、キイチが独りで背負い続けてきた辛い過去を、全て知った俺は、完膚なきまでに打ちのめされた。
…俺は…、俺はっ…!…キイチの心境にも気付かねぇで…、何も知らねぇで…、一人で浮かれて…!…俺ってヤツはっ…!
「サツキ君?」
聞き馴染んだ声に、俺はハッと振り返った。
キイチが、俺の少し後ろに立って笑顔でこっちを見ていた。
「見覚えのある後姿だったからもしかしてと思ったけど。珍しいね?サツキ君が図書館に居るなんて。しかもこんなに朝早く。
勉強に来てたの?」
声が…、出て来なかった…。
呆然と見つめ返すだけの俺を見て、キイチは驚いたような、そして心配そうな顔をして、慌てた様子で歩み寄った。
「ど、どうしたの?泣いたりなんかして!?」
言われて初めて気付いた。頬を伝って落ちて行く雫に。
…俺は…、泣いていた…。
「何かあったの!?僕で良ければ相談に…」
キイチの視線が、机の上に広げたままの新聞に落ちた。
その瞳が大きく見開かれ、新聞から俺の顔へと移った。
キイチは、怯えたような表情で俺を見つめた。こんな目で俺を見た事は、幼稚園の頃から今まで、一回も無かった…。
声が出ない俺が、肩に触れようと手を伸ばすと、キイチはイヤイヤをするように首を振り、後ずさった。
「…キイチ…、俺…」
やっと声を絞り出した瞬間、キイチは背を向けて走り出した。
「キイチっ!待ってくれ!キイチぃーっ!!!」
静まり返った図書館内で、あいつの背を追いかける俺の声が、大きく反響した。