第二話 「借りがあるんだ」
「おはよう。今日も早いねアブクマ君」
冷房の効き始めた図書室に入ると、彼は今日も、いつもの席に座っていた。
「おう。涼しいうちに移動しとかねぇと、ここに来るだけで汗だくになっちまうからな」
大人顔負けの立派な体格をした熊の獣人が、口元を吊り上げ、丈夫そうな歯を覗かせて笑った。彼はスタミナ作りのため、
毎朝ジョギングを欠かさない。今朝もきっと、早起きしてジョギングしてきたのだろう。
柔道以外のスポーツも万能な彼だけれど、苦手な物がたった一つある。それは長距離走。実は朝のジョギングも、弱点克服
の為に始めた事らしい。
そういえば、昨日はお腹の調子が悪かったみたいだけれど…。
「お腹の調子はどう?」
「た…、たぶん大丈夫だ…」
彼は少し顔を引き攣らせて笑った。本当かな?無理してないよね?気のせいか、丸い耳が焦ったようにピクンと動いていた
ような…。
彼の名前は阿武隈沙月。
大柄な体は濃い茶色の被毛に覆われ、首元と口回りが白い。服を着ていると分からないけれど、胸元には見事な三日月マー
クが白く浮かんでいる。
彼は僕のクラスメートで、柔道部のエース。先日の県大会、個人戦獣人の部、無差別級では、昨年を上回る快進撃を見せて
見事優勝し、地区ブロック大会への進出を決めた。
…が、それに出場できるかどうかは、数日後の追試にかかっている。なんでも、追試で再び赤点を取ったら、強制的に補習
授業を受けさせられ、大会には出して貰えなくなるらしい。
…この話はどうにも奇妙だった。
学生は勉強が本分、とはいっても、地区ブロックまで進出を決めた生徒に、大会出場を取りやめてまで、無理矢理補習をさ
せるものなのだろうか?それに、五科目以上で赤点を取った生徒は追試を受ける事になった、とアブクマ君は言っていたけれど…。
「どしたネコムラ?」
「え?あ、うん。なんでもない」
僕は考え事を中断してアブクマ君の向かいに座る。
彼が試合に出れるかどうかは、勉強を手伝っている僕にとっても他人事ではない。調べるのはあとでもできる。今は勉強に
集中しよう。
そうそう、自己紹介しておくね?
僕の名前は根枯村樹市。東護中三年。図書委員会所属。全身がクリーム色がかった白い被毛の、猫の獣人さ。
アブクマ君は、自分の事を頭が悪いと言っているけど、実際にはそんな事はない。ここ数日の集中した勉強で、素晴らしい
進歩を見せていた。
彼は単に勉強に興味を持てないだけなんだよね。なんというか、物事のコツを飲み込むのがとても早い。きっと柔道も、体
力などの身体的な要素だけではなく、コツを掴むといった要素が重要なんだろう。両方を兼ね備えているからこそ、彼は柔道
を始めてからたったの1年ちょっとで、全国レベルの強豪と肩を並べる程になれたのだと思う。
え?ずいぶん詳しいなって?…まあね…。
アブクマ君と同じクラスになるのは、三年になってからが初めてだった。
最初に図書室に自習をしに来た時、彼は僕がクラスメートだと気付かなかったようだった。まあ、僕も他人とはあまり関わ
らないし、目立たないようにしているし、友人も作らないようにしているから、無理も無いけれど…。
それより、彼が僕の事を全く覚えていなかったのは、安心すると同時に、本当はちょっとだけ残念だった。当然だろうな、
とも思ったけれどね…。
まあ、詳しい話は省くけれど、僕はアブクマ君の試験勉強を手伝うことになった。結果的には恩返しができる訳で、これは
僕としても願っても無いことだ。
「母音の前はaじゃねぇ、anだな…。ややこしいなぁここんとこ…」
アブクマ君は頭をガリガリと掻きながら、英文を作っていた。
「なんだってわざわざ、こんな風に使い分けんだ?」
「日本語だって、例えば、手は普通「て」って読むけど、後ろ手っていう時は「で」でしょ?言葉の流れから発音が変るのは、
そう珍しい事じゃないよ」
「おお、そういやそうだな。納得納得…」
僕はアブクマ君の邪魔にならないよう、静かに出来上がりを待ちながら、何気なく視線を廊下に向けた。すると、丁度ドア
の曇りガラスの向こうに、待ちかねていた人影が現れた。
「ごめん、ちょっと外すね」
唸り声を洩らしながら問題集を睨みつけるアブクマ君に告げ、僕は廊下に出た。
「ごめんなさい。遅くなってしまって」
黒髪の清楚な雰囲気の女子生徒が、ぺこりとお辞儀した。
「謝らないで。無理を言って相談を持ちかけたのは僕なんだから」
彼女の名前は榊原明美(さかきばらあけみ)。
国内屈指の大財閥、榊原財閥の一人娘だ。容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。まさに真のお嬢様だ。なのに少しも気取っ
たところは無く、礼儀正しくて物腰も柔らかい。僕が校内で言葉を交わす、数少ない生徒の一人だ。
「勉強の具合は、どうですか?」
「何より本人が熱心だからね。順調だよ。…それで、どうだったかな?」
「ええ、友人達にも確かめてみましたが…」
サカキバラさんは不思議そうな表情を浮かべて言った。
「五科目以上で基準点を下回った生徒を対象にした追試、でしたよね?」
「うん。そして、その追試でまた赤点を取ったら…」
「補習、と…。…不思議ですね…」
彼女のその言葉が、調べ物の結果を物語っていた。
「私の友人達には、アブクマさんのように、追試を言い渡された生徒は居ませんでした」
やっぱりな…。僕の胸の奥で、何かがジリッと焼けたような感覚があった。
「どういう…、事でしょうね…」
彼女は胡乱げに眉根を寄せた。
「追試は、エコジマ先生からキダ先生を通してアブクマ君に告げられた」
「その伝達途中で情報が誤った、というのはありませんか?伝言ゲームのように…」
やはり、彼女も僕と同じ事を考えたようだ。
「キダ先生には僕が確認してみたよ。アブクマ君の言っていたとおりの話だった」
「それなら…、なおさら不思議ですね…」
不思議、と言いながらも、彼女も僕と同じ事を考えているのだろう。表情が少し硬くなっている。
「あの先生、成績が良い生徒は好きだけど、成績が思わしくない生徒は嫌いだからね」
「…でも、教育者ですよ?好き嫌いだけで、まさか…」
「まさか、と思いたいね。でも、エコジマ先生がどう考えているのかは、僕には判らない。…判りたいとも思わないけれど…」
サカキバラさんはため息をついた。
「…とにかく、私ももう少し聞き込んでみます。」
「有難う。助かるよ」
僕はサカキバラさんに礼を言い、図書室に戻った。
「今日はそろそろ終わりかな?」
ボクは窓の外を眺める。もう太陽がだいぶ傾いていた。
「っと…。悪ぃな。今日もこんな時間までつき合わせちまって…」
アブクマ君は頭を掻きながら時計に目をやる。時計の針は5時半を示していた。
「構わないよ。どうせ予定も無いしね」
「そういやネコムラ。お前、休みの日とか、いつもはどうしてんだ?」
教科書などを鞄に詰め込みながら、アブクマ君は僕に尋ねた。
「うん?ここか図書館で本を読んでるかな?」
荷物を纏めていたアブクマ君は、顔を上げ、感心した様子で僕を見つめた。
「真面目だなぁ。休みの日も勉強してんのか。だから頭も良くなるんだろうな」
「勉強とは違うよ。ジャンルを選ばず、読書が趣味なんだ」
少し照れながら僕は答える。キラキラと目を輝かせて僕を見つめる彼は、小さかった頃とちっとも変わっていないように見えた。
「なあ。もし暇なら…、帰りにちょっと付き合わねぇか?」
アブクマ君が言う。少し照れているような様子で、なんだかそわそわしている。
「え?いいけど…」
「そうか!んじゃさっそく行こうぜ!」
何処へ行くかも告げぬまま、アブクマ君は嬉しそうな顔で立ち上がった。
僕はアブクマ君に連れられ、学校からそう遠くない商店街にやってきた。
「おし!まだ残ってるな」
アブクマ君は額の上に手を翳し、たこ焼き屋の屋台を眺めて言った。
「おばちゃん。たこ焼き2つ!」
「はいよ。まいどあり」
猪のおばさんからたこ焼きを2パック、短い尻尾を嬉しそうに振りながら受け取ると、アブクマ君は歩道に設置されている
ベンチを指し示した。
「あそこで食おうぜ。ここのたこ焼き美味いから、結構売り切れも多いんだよな」
僕は大人しく従い、アブクマ君からたこ焼きを1パック受け取る。
「いくらだったの?」
「いいって。勉強教えて貰ってんだ。こんぐらい奢らせてくれよ」
僕は礼を言い、素直に彼の好意に甘えることにした。
アブクマ君の言うとおり、ここのたこ焼きは本当に美味しかった。もしかしたら、隣に彼が居る事も、美味しく感じる理由
の一つかもしれない。
僕らはたこ焼きを食べながら、他愛のない会話を交わす。
クラスの早弁王であり早食い王でもある彼にしては意外だけど、たこ焼きを食べるペースはかなりゆっくりだった。つられ
て僕もゆっくりとたこ焼きを味わう。
「…で、そいつがさ…」
「本当に?意外だねえ…」
「だろ?みんなビックリしてたぜ」
クラスメートの話や、とある先生の意外な秘密。アブクマ君と話していると、懐かしい感覚が蘇る。
以前は、僕だってこうやって友達と話をしていた。…でも、あの事件以降、家のことを知られるのがイヤで、親しい友人も
作らなくなったし、クラスメートとも話をしないようになった。
…アブクマ君は特別だ。借りがあったし、何より昔の馴染みでもある。それでも、今回の事が片付いたら、また距離を置こ
う。一緒に過ごせば過ごすほど、彼は僕の事を知っていく。…家のことを知られるのは、耐えられない…。
「…ムラ?…ネコムラ?」
僕の顔を、アブクマ君が間近で覗き込んでいた。
「ん?ごめん。何?」
「何?じゃねぇよ。どした?ぼーっとして…」
彼は心配そうな顔で言った。どうやら僕は、考え事に気を取られていたらしい。
「ごめん。何でもないんだ」
笑顔を作ってそう応じると、アブクマ君は顔を顰めた。
「お前さ。よく「何でもない」って言うけど、そういう時、何でもねぇ顔してねぇぞ?」
…え?そうなのかな…?…作り笑いはだいぶ練習して得意になったはずだけど…、良く見てるなあ…。これからは気をつけ
よう…。
「本当に何でもないんだ。僕、あまり人付き合いないからさ、さっきの話に出てきたヤマギシ君が誰だったか、ちょっと思い
出せなくて考え込んでたんだ。ごめんね」
「そっか、そんなら良いんだけどよ」
アブクマ君はほっとしたように笑い、それから鼻の頭を掻いた。
「変に勘ぐって悪かったな?てっきり、俺と話しててもつまんねぇのかと思って…」
「そんな事ないよ。アブクマ君と話をしてるのは本当に楽しい…」
言ってから気付く。本音が、うっかり出ていた。…いけない…、距離を置け…、仮面を被れ…。
「そろそろ、暗くなってきたね」
僕は最後のたこ焼きを口に放り込む。
「だな。帰るか」
アブクマ君もたこ焼きを口に入れ、立ち上がった。
「家、どっちの方なんだ?」
僕はアブクマ君の家の方角とは反対側を指さした。
「僕はあっち。ここでお別れだね」
「おう。今日もありがとな。んじゃ」
「うん。たこ焼きご馳走様。また明日ね」
手を振ったアブクマ君の姿が、通りの向こうに消えていった。
それからしばらく待ったあと、僕は彼と同じ方向へと歩き出した。
ここからだと、彼の家に行く途中に、僕が寝泊まりしている家がある。住んでいる家を知られたくはなかったから、僕は彼
に嘘をついた。彼に嘘をついた小さな罪悪感は、喉に刺さった魚の小骨のように、僕の心にいつまでも引っかかっていた。
勉強会は続き、そして数日が過ぎた。
いよいよ、明日がアブクマ君の追試だった。
「心境はどう?」
「まな板の鯉ってやつかな?まぁここまで来たら「なんでも鯉」だ」
僕の問いに、アブクマ君は苦笑いしながら答えた。
追試では、この間のテストと同じ範囲から出題される。僕の見立てでは、各教科の平均で60点前後は見込めるはずだった。
どの教科もボーダーを超えてまだ余裕がある。
「なあ、ネコムラ…」
「うん?何?」
アブクマ君は照れくさそうに耳をペタッと伏せ、鼻の頭を擦った。
「お前には、ほんとに感謝してる。できの悪ぃ俺に付き合って、貴重な休みまで使って勉強教えてくれて…。俺、誰かに勉強
を教えて貰うのが、こんな嬉しい事だなんて、知らなかった…」
アブクマ君の言葉に、僕の胸がドキンと鳴った。顔に血が昇り、かーっと熱くなる。
大きな体を縮こめて、もじもじと照れたように話すその姿に、幼かったあの日の彼がダブって見えた。不意に、本当の事を
打ち明けたい衝動に駆られる。
「アブクマ君…」
「おう?」
「感謝してるなら、必ず追試をパスする事。でないと付き合った甲斐がないよ?」
僕はかろうじて、打ち明けるのを自制した。
「分かってるさ。絶対に合格点取ってやる!」
僕達は笑い合った。でも、気付かれてはいないよね?僕の笑顔は仮面で、本当は泣き出したいような気持ちでいっぱいだっ
た事には…。
追試の日の朝、アブクマ君は校門に寄りかかって待っていた僕に気付き、目を丸くした。
「なんだよ?今日も来てくれたのか?」
「一応、戦場へ赴く見送りはしておこうかと思ってね」
冗談めかして敬礼すると、アブクマ君は笑いながら敬礼を返す。
「では、阿武隈三等兵、これより追試に赴きます!」
「うむ!見事散ってきたまえ!」
僕の冗談に、アブクマ君はガクッとずっこけながら苦笑する。
「…ひでぇなあ、散るのかよ俺?」
「最悪でも刺し違えてきてよね?」
声を上げて笑いながら、僕達は並んで歩道を歩き、正門に向かった。
…君と、ずっとこうしていられればいいのにと思う…。終わったらまた距離を離すのだから、これ以上親しくしても辛くな
るだけなのにね…。
…でも、僕の予想が間違っていなければ、やらなければいけないことはまだ残っている。
アブクマ君には悪いけど、この追試はおそらく…。
「んじゃ、サクッと終わらせて来るわ」
アブクマ君の言葉に、思考を中断した僕は、素早く笑顔の仮面をつけて頷く。
「今日も一日、図書室に居んのか?」
「うん。そのつもりだけど」
「夕方には採点も終わるはずだからよ。一緒に帰ろうぜ?また、あそこのたこ焼き食ってこう」
「…うん。楽しみにしてるよ」
アブクマ君を見送った僕は、協力者と会うために、図書室へ向かった。
図書室で本を開き、静かに待つ。
午後2時半。アブクマ君は、最終科目のテストをしている頃だろう。
本を眺めてはいるものの、内容が全然頭に入ってこない。大丈夫だとは思うけれど…、
図書室のドアが静かに開き、僕は安堵の気持ちを覚えて立ち上がる。
「お待たせしました」
サカキバラさんが優雅に微笑んだ。
「有り難う。助かるよ」
本心からの礼を込め、頭を下げる。
彼女という協力者がいなければ、この計画は成り立たなかった。不正を許せない彼女の心根と人徳、そして真剣に協力して
くれた真心に感謝する。
サカキバラさんは悪戯っぽく微笑んだ。
「いいえ、皆さん乗り気でしたから。本当に、アブクマさんは人気者です。…それと、エコジマ先生も…」
「あの先生の人気は、確かに僕も認める所だね。…あまりいい意味じゃないけど」
肩を竦めて見せると、サカキバラさんはクスクスと笑う。
「ところで、何故アブクマさんの事に、ここまで一生懸命になるんですか?誰も近付けず、近付こうとしなかった貴方が…」
「アブクマ君は我が校の柔道部、期待のエースだからね。彼が試合に出られなかったら、顧問であり、僕らの担任でもあるキ
ダ先生の機嫌も悪くなる」
僕の返答に、彼女は疑わしげな視線を向けた。…まあ、簡単に誤魔化せる相手じゃないのは解っていたけれどね…。
「…彼には借りがあるんだ。それを返したいだけさ」
「借り…、ですか?」
僕は他言しないという約束をさせた上で、サカキバラさんに、一年前の僕に降りかかった災難の事を話し始めた。
それは、中学二年の春休みに起こった。アブクマ君と一緒にたこ焼きを食べた、あの商店街での出来事だ。
夕暮れ時、薄暗くなった路地裏で、僕は他校の男子生徒4人に囲まれていた。
きっかけは実にありふれたものだった。笑い声を上げて歩いていたその四人とすれ違った時、僕の肩と相手の一人の肩がぶ
つかったと因縁をつけられた。
これは明らかな言いがかりだ。なぜなら、僕の肩は彼らの二の腕あたりにある。肩を押さえる彼は、一体何にぶつかったと
いうんだろうか?
まあ、きっかけは何でも良かったんだろう。小柄で華奢な僕は、格好のカモに見えた訳だ。彼らは僕を路地裏に連れ込み、
ありきたりにお金を要求した。が、双方にとってついてない事に、僕は一銭も持ってはいなかった。
制服をはぎ取られ、シャツを引きちぎられ、殴られ、蹴られ、僕はぼろ雑巾のように路地裏に転がされた。
途中からは、彼らはお金などどうでも良くなったようだ。おもちゃでも見つけた気分だったんだろう。
殴られてぼこぼこになった僕の襟首を掴むと、その男子生徒は力任せに吊るし上げた。
「なあ?本当に金持ってないのかよ?少しでも出せば勘弁してやるんだぜ?」
僕は喉を圧迫されながら、僕はささやかな抵抗を試みた。
「さっきから何度も言ってるじゃないか…。その空っぽの頭に入ってないなら、もう一度だけ言ってあげるよ。お金は持って
いない。仮に持っていたとしても、君らに渡すなんて、勿体ないことはしないね…!」
彼の顔色が変わった。見下すような余裕の笑みは消え、その顔は怒りで赤く染まっていく。
…ああ、これはかなり痛い目に遭わされるな…。諦め半分の覚悟を決めた時、僕の目が、路地の入り口に現れた大きな影を
捉えた。
「なんでぇ?騒がしいと思えば…」
大きな熊は僕と同じ制服を着ていた。一目で、彼が誰だか分かる。
「あ…、アブクマ…!?」
生徒達の顔色が変わった。
アブクマ君は不良な訳じゃない。訳じゃないけれど、中学に入学したての頃、体が大きくて目立っていた彼は、上級生の不
良グループに因縁をつけられた。その結果、アブクマ君とその友人。計二名の手によって全員が返り討ちに遭い、数名は病院
送りになった。
正当防衛とはいえ、入学一週目にして停学を言い渡された彼らは、しばらく校内でも恐れられる存在になった。もっとも…、
数ヶ月のうちに誤解は氷解したけれど。
しかしそれでも、彼らの武勇伝は尾鰭が付いて他校に広まり、他の学校の生徒の多くは、未だに彼らを危険な生徒として見
ている。
アブクマ君は四人の生徒をゆっくりと見回し、最後に僕の顔を見つめた。それから僕を吊り上げている生徒の顔を見つめ、
低い声で言った。
「そいつはウチの生徒だな。手ぇ放せよ」
生徒の手がぱっと開かれ、僕はお尻から地面に落ちた。
「消えろ。今なら目ぇつぶってやる」
アブクマ君の言葉に、僕を掴んでいた生徒が声を上げた。
「てめえ、調子こいてんじゃねぇぞ?四人相手にして勝てると…」
「思ってるぜ。…なんなら試してみるか?」
そいつの言葉を遮り、アブクマ君は凄みのきいた声音で言った。
プライドを傷つけられたのだろう。声を上げて殴りかかった相手に対し、アブクマ君は無造作に一歩踏み出した。
顔面を狙ったパンチを紙一重でかわし、アブクマ君は相手の顔面に頭突きをお見舞いした。鐘でもついたような鈍い音が路
地裏に響き、相手の男子生徒は鼻血を吹き出させて背中から…、というよりも、頭突きの勢いに押されたように後頭部から地
面に倒れ込んだ。…とんでもない石頭だ。
アブクマ君はフンと鼻を鳴らすと、面倒臭そうに残る三人を見回した。
「まだやるか?」
残った三人は怯えた表情で首をぶんぶんと横に振ると、顔を押さえて転げ回る男子生徒を助け起こして、そそくさと路地か
ら出て行った。
アブクマ君は足早に僕に歩み寄ると、傍らに屈み込んで制服を拾い、僕に差し出した。
「ほれ。気をつけろよ?この辺、隣町からは学区外だけど、柄の悪ぃ連中は結構頻繁に来てんだからさ」
先ほどとは打って変わって、アブクマ君の声は穏やかで優しかった。
「小せぇナリして根性あるじゃねぇか。表まで響いてたさっきの啖呵、かっこよかったぜ?おかげで連れをほったらかして見
物に来ちまった」
アブクマ君がそう言って笑うと、路地の入り口に人影が現れた。
「いきなり居なくなったと思えば、なにしてんだ?そんなトコで?」
「おう、悪ぃケント、今行く」
アブクマ君は人影にそう答えると、僕の手に制服を押しつけた。
「歩けるか?」
「…大丈夫…」
僕が頷くと、アブクマ君は笑みを浮かべて頷き、立ち上がった。
「何してたんだよサツキ?」
「ガッツがあるヤツが居たんで、ちょっと顔を見にな」
二人の人影は、路地の入り口から遠ざかり、そして消えた。
僕は全身の痛みより、驚きと、嬉しさで、しばらく動けなかった。
体中が熱くなり、心臓が、どくん、どくん、と、激しく脈打っていた…。
「…あの時は、お礼の一言も言えなかったんだ。これぐらいの恩返しはしないとね」
サカキバラさんは少し驚いたような顔をしていた。
「アブクマさん、優しいところがあるんですね」
それは誤解だよサカキバラさん。彼は優しいところがあるんじゃなく、もともと優しいんだ。
時計を見ると、もう三時を回っている。つい話し込んでしまった…。アブクマ君といい、彼女といい、僕にこれだけ喋らせ
る人も珍しいな。
「もう採点している頃だ。準備はどうかな?」
「皆さんすでに待機中ですよ」
僕は頷くと、ドアに向かう。
…いよいよ出陣。今度は、僕が君を助ける番だ。