第二十話 「僕は逃げ出した」

「なんだか嫌な天気だな…」

空を見上げ、僕は呟いた。

最近は秋晴れが続いていたけれど、今日は鉛色の雲が空を覆っている。

サツキ君は何処かへ出かけていたらしく、昨日は丸一日留守だった。そういえば数日前、土曜日には用事があるって言って

たっけ?

最近はいつも一緒に過ごすせいか、サツキ君が居ないと時間を持て余しているような気がする。落ち着いて本を読むにはい

い機会のはずなのにね。

今日は日曜日で学校は休み。とりあえず、朝のうちに借りていた本を図書館に返して、サツキ君の都合を聞いてみようかな…。



朝早くで、まだ開いたばかりの図書館はガラガラにすいていた。

本の返却手続きを終えた僕は、ちょっと新刊コーナーを確かめておこうと、図書館の一角、机の置いてある広いスペースに

向かった。

すると、机の所にはもう人が居た。…って…、あの後ろ姿は…。

「サツキ君?」

僕が呼びかけると、大柄な熊の獣人が、ハッとしたように振り返った。

やっぱりサツキ君だ!珍しいな。図書館で見かける事なんて、これまで一回も無かったのに。

「後ろ姿ですぐ分かったよ。珍しいね?サツキ君が図書館に居るなんて。しかもこんなに朝早く。勉強?」

彼は、どこか呆然としたような表情で僕を見つめ返した。

…え…?

サツキ君は、目に涙を溜めて僕を見ていた。目から溢れた涙が、頬を伝って服を濡らす。

「ど、どうしたの?泣いたりなんかして!?」

サツキ君は口を開いた。でも、言葉は出てこない。

「何かあったの!?僕で良ければ相談に…」

慌てて歩み寄った僕は、机の上に広げられた新聞に気付いた。これは、サツキ君が読んでいた新聞だろうか?

記事を確認しようとした瞬間、その写真と見出しが、僕の目に、いや、脳に直接飛び込んできた。

五年前まで僕とお母さんが住んでいた、雄流和のマンションの写真…。そして、あの見出し…。


―町営マンションで男女死亡、子供は意識不明の重体。無理心中か?―


僕は、考えを纏める事ができないまま、サツキ君の顔を見上げた。これまでに感じたことも無い、雷への怯えよりも強い恐

怖が、僕の体を貫いた。

知られてしまったんだ。サツキ君に、僕の事が…!

サツキ君の手が、僕に伸びる。

声が出ない。僕は首を左右に振って、彼の手を逃れるように後ずさった。

「…キイチ…、俺…」

サツキ君が掠れた声を発した瞬間、僕は弾かれたように彼に背を向け、走り出した。

「キイチっ!待ってくれ!キイチぃー!!!」

静まり返った図書館で、サツキ君の悲痛な叫び声が背を追いかけて来る。

脚立にでもぶつかったのか、肩に衝撃を受けたけれど、僕は立ち止まらずに走る。後ろで何かがひっくり返り、本がばさば

さと落ちる派手な音がした。

…あんなにも好きだったサツキ君から…、僕は逃げ出した…。



…あれから、何処をどういう風に走ったのか分からない。

図書館を飛び出した僕は、何も考えられないまま必死に走った。そして、気が付いたら、サツキ君とよく寄り道した、あの

公園に辿り着いていた。

泣き出しそうな空の下、僕は座りなれたベンチにふらふらと歩み寄り、腰を降ろす。

…足が、自然にここに向いたのかな…。でも、ここにも長くは居られない…、きっとサツキ君が探しに来る…。…いや、そ

れは無いか…。きっと、サツキ君はボクが犯した大罪についても知ってしまったはずだ。二度と、僕とは係わり合いになりた

くないだろう…。

逃げ出したのは、サツキ君の顔を見るのが…、何かを言われるのが怖かったから…。

…僕は…、また、独りになった…。

喪失感。胸にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。おかしいよね?ずっと独りだった昔に…、元の境遇に戻ったって

いうだけなのに…。

…ははっ…。きっと、人並みに幸せなんか望んだから、バチが当たったんだ…。僕には、幸せになる資格なんか無いのに…。

座り馴染んだベンチにかけ、僕はやけに見晴らしのいい右側に視線を向ける。

…このベンチ…、こんなに広かったっけ…?いつもは君が隣に座っていて、丁度良い広さだったのにね…。

ベンチの上で体を丸めて膝を抱え、胸と足をくっつける。普段からあまり体を動かしていないからだね、走り疲れて、喉が

痛くて、足が棒のようだ。…それとは別に、胸の奥がズキズキと傷んだ。…僕は、サツキ君を欺き、騙し、傷つけたんだ…。

「…キイチ…。また、ここに居たんだな…」

俯いていた僕は、聞き慣れた声を耳にして、ハッと顔を上げた。

サツキ君が、少し離れた所に立って、僕を見つめていた。

ずっと走り回っていたんだろう、呼吸が乱れて荒くなり、広い肩が激しく上下していた。

「…結局、俺の追試の時と同じ、またここに…」

慌てて立ち上がった僕は、足が言う事を聞かなくてふら付いた。

「キイチ!待てって!」

僕はサツキ君に背を向け、ベンチの後ろに広がる木立に駆け込んだ。次の瞬間、

「あっ!…ぐ…!」

僕は木の根に躓いて転んだ。足首を捻り、したたかに膝を打ち、激痛が脳天に突き抜ける。見れば、ズボンが破れ、擦り剥

いた膝に血が滲んでいた。

「キイチっ!」

サツキ君は足を抱えて動けなくなった僕に駆け寄ると、傍らに跪いた。

サツキ君が手を伸ばす。尻餅をついたまま後ろに逃げようとした僕の手を、彼の大きな手ががっしりと掴んだ。

「放して!僕は、僕はっ…!」

言いたい事が言葉にならない。怖くて、辛くて、そして、サツキ君の手は暖かくて…。

サツキ君はもがく僕の手を掴んだままにじり寄ると、ズボンの裾を捲り上げた。

膝上まで捲られたズボンの下から、血の滲んだ膝小僧が顔を出す。

「あっ…!」

サツキ君は僕の膝に顔を寄せ、傷口を口で塞いだ。…痛みと、じんわりとした暖かさが、膝の傷から沁みてくる…。

口付けをする時のように、僕の傷を入念に舐めた後、サツキ君は傷から口を離し、小さく呟いた。

「いたいの、いたいの、とんでけ…」

サツキ君は顔を上げ、言葉が出てこない僕を、泣き出しそうな顔で見つめた。

「…ごめん…。俺、気付いてやれなかった…。あの時言ってくれた通り、ずっと一緒に居てくれたってのに…、お前が抱え込

んでた辛さにも…、お前が誰だったのかにも…、俺は、気付いてやれなかった…!」

…あの時…言った…?

痛み止めのおまじない、膝の傷、木の根っこに躓いて転んで…、

…僕は、ずっと昔、僕らがまだ幼かった、あの時の事を思い出した…。



それは、まだ僕に両親が居て、三人でこの町に住んでいた頃。僕達がまだ幼稚園に通っていた頃。この公園がまだ広い林だっ

た頃。

いつものように、イヌイ君とサツキ君と僕は、ここにあった林で遊んでいた。

でもその日、かくれんぼの鬼になったサツキ君は、僕達を見つけられなくて、林の奥深くまで入り込んでしまった。

いくら呼んでも見付からなくて、林の奥へ探しに入った僕とイヌイ君は、サツキ君の泣き声を聞きつけて、彼の元に向かっ

て走ったんだ。

当時はとても泣き虫だったサツキ君は、木の根に躓いて、膝を擦り剥いて、座り込んで泣いていた。

「あー。さっちゃんが、またないてるー!」

僕は泣いているサツキ君の隣に屈み込んだ。

「かくれんぼのオニが、さがされるほうになるなよー」

イヌイ君が呆れたように、そしてほっとしたように言った。

「だって、だって、ふたりともみつかんなかったんだもん…」

サツキ君がしゃくりあげながら言うと、イヌイ君は肩を竦めた。

「だからって、こんなおくのほうまでくるなよ。なきむしなくせに、たいりょくだけはすげえんだから」

そう。泣き虫で、運動は嫌いだったけれど、サツキ君はあの頃から大きくて、体力があったっけ…。

僕はサツキ君の血の滲んだ膝小僧に唾を付けて、おまじないをした。

「いたいの、いたいの、とんでけー!」

僕はサツキ君の顔を覗き込んで尋ねる。

「まだいたい?」

すごく痛そうだった。でも、サツキ君は我慢して首を横に振った。

「あるけるか?」

イヌイ君はサツキ君の右側を支え、反対側で僕が左側を支える。

「うん。…ありがと、きっちゃん…。けんちゃん…」

安心したのか、嬉しかったのか、再びぐずり始めたサツキ君に、イヌイ君は呆れたような、そして仕方がないな、というよ

うな苦笑を浮かべた。

「ほんと、さっちゃんはなきむしだな」

…そうだ!そして僕は、サツキ君を元気付けるために、笑いかけてこう言ったんだ…。

「なかないで。ぼくたち、ずっといっしょだから」



…そう…。すっかり忘れていたけれど、そんな事があった…。

サツキ君…、覚えていたんだ…?あんな、幼かった僕が深く考えずに言った言葉を…。

思い出してみれば、今の僕達は、あの時とは全く逆のパターンになっている。

「…俺…、お前が辛そうだったから、何かしてやれる事はねぇかと思って、勝手にお前の事を調べたんだ…。サカキバラには、

お前が話すまで待てねぇのかって言われたけど…、どうしても我慢できなくて…」

サツキ君は項垂れ、肩を震わせた。

「嫌われてもしょうがねぇと思ってる。でも、嫌わねぇでくれ…。…虫のいい事言ってるのは百も承知だ。でも俺…、お前の

事を全部知って、全部好きになりてぇから…」

サツキ君の目から、涙が零れた。

「…ごめん…」

「…謝らないでよ…」

やっと、僕は声を出せた。

「…ごめんな…」

「…謝ら、ないで…よ…」

大きな体を縮こめて、サツキ君は繰り返した。

「…ごめ…ん…」

「…だか、ら…もう…」

僕の目からも涙が零れた。謝らなきゃいけないのは僕の方なのに…。君の信頼に偽りと誤魔化しで応え、欺き続け、傷つけ

たのは僕の方なのに…。

「…ごめん…。ごめんなぁ…。きっちゃん…!」

サツキ君は、涙をボロボロ零しながらしゃくりあげ始めた。

「悪くないよ…。君は、何も悪い事なんてしてないよ…」

僕は、サツキ君の首に手を回し、抱き締めた。

サツキ君の腕が僕の背に回り、震えながら、でもしっかりと僕を抱き締め返す。

走り回って僕を探してくれた、サツキ君の汗の匂いがした…。

「悪いのは僕の方なんだ…。だから、だからもう…謝らないでよ…!」

…君は、全てを知って、それでもこんな僕を赦してくれるんだね…?

「ごめん、ごめんね…、ごめんねぇ…さっちゃん…」

とっくの昔に枯れたと思っていた涙は、僕の頬を暖かく濡らしていた…。



「…今日、お袋出かけてるからさ…」

今にも振り出しそうな曇天の下、足を挫いた僕をおぶり、ゆっくりと歩きながらサツキ君が言った。

「落ち着くまで、ゆっくりしてけよ…」

僕はサツキ君の背中でコクリと頷く。僕は今、サツキ君におぶられながら、彼の家に向かっていた。

「それとも、今は一人になりてぇか?」

「ううん…。僕も、話しておきたい事があるから…」

そう答えると、サツキ君は黙って頷いた。

日曜の昼前、人通りは結構多いけれど、不思議に僕達に向けられる視線は少なかった。

もしかしたら、小柄な僕と大きなサツキ君は、兄弟みたいに見えているのかもしれない。

でも、本当は違う。僕達は幼馴染みで、親友で、そして…。

サツキ君は、僕には勿体無いぐらいにすてきな恋人だ…。



家に着くと、サツキ君は捻った足首には湿布を張り、膝の傷は綺麗に洗い流して、消毒液と薬を塗って包帯で固定してくれた。

手際の良さに感心していると、なんでも柔道部で覚えた事だという。怪我人が出た時の為に、キダ先生が一通りの手当てや

応急処置を部員達に教えていると説明してくれた。

手当てが終わると、サツキ君は、まだ足が痛む僕を軽々と抱き上げた。

これは…、あの有名なオヒメサマ抱っこ!?

「ちょ、ちょっとサツキ君!?」

「気にすんな。だ〜れも見てねぇよ。…さっきは兄弟なんかに見られたかもしれねぇが、こうしてればちゃんと恋人同士に見

えるかな?」

サツキ君は恥ずかしがっている僕に笑いかけると、そのまま階段を上り、二階の自室へと向かった。

…さっき背負われていた時は、兄弟っていうか、親子に見えていたりして…。なんて言ったらサツキ君怒るかな?



僕をベッドに腰掛けさせると、サツキ君は僕の正面、絨毯の上に直接腰を降ろした。そして、彼は僕に頷きかける。聞く準

備はできている。表情がそう言っていた。

事件のあらましは、新聞記事を読んで分かったらしい。でも、僕自身の口からも、詳しく、はっきりと伝えておきたかった。

僕は、ずっと隠してきた事…、小学校に上がる前に引っ越した経緯から、これまでの事について、サツキ君に話し始めた…。



お父さんが浮気している事が発覚したのは、幼稚園の卒園式を翌月に控えた、2月の事だった。

お父さんは会社の同僚と、5年近くも不倫関係にあった。つまり、僕が生まれて一年かそこらで、他の女の人に目移りした

らしい。

同僚の女の人は妊娠していた。そして、はっきりしないお父さんの態度に業を煮やし、家にまで押しかけてきた。小さい僕

には、その女の人が何故怒っているのか分からなかったし、怒鳴っている言葉の内容も理解できなかった。お母さんはショッ

クで呆然となっていた。

そして、お母さんは僕を連れ、逃げるように雄流和町へ移り住んだ。



「本当に急だったんだ。相手のひとが怒鳴り込んできた二日後には、僕はお母さんに連れられてオナガワに行ったから。…そ

の時は、旅行みたいなものだと思ったんだ。だから、すぐに帰れるんだと思ってて…。オナガワは魚が美味しかったって、帰っ

たらサツキ君とイヌイ君に教えてあげようって、そんな呑気な事を考えてた…」

「そうだったのか…。それで、前の日までなんでもなく一緒に遊んでたのに、急に居なくなったんだな…」

「おばさんやおじさんは、僕の家について何も?」

サツキ君は首を横に振って、ため息をついた。

「考えてみりゃ、事情は察してたんだろう…。でも、俺が何を聞いても知らないの一点張りだった。…たぶん、ガキに言うべ

き話じゃねぇって、黙ってたんだろな…。ったく、とっとと教えてくれりゃ、ややこしい事にはならなかったのによ…」

「きっと、僕達に気を遣ってくれたんだよ。再会した時に、昔どおりの仲で居られるようにって…。まあ、僕があれこれ策を

練ったせいで、こんな再会になっちゃったけどね…」



もう前の家には帰らない事、お父さんとはもう一緒に暮らせない事を教えられたのは、3月の末、小学校に上がる直前の事だった。

それからすぐに両親の離婚が決まった。お父さんは不倫相手の人と再婚するつもりだと言い、お母さんが僕の親権を持った。

でも、話がどう纏まったのかは、当時の僕には誰も教えてくれなかった。

それから僕はオナガワで小学校に入学した。新しい友達もできたけれど、サツキ君やイヌイ君の事を思い出して寂しくなっ

たり、東護の皆が恋しくなったりした。それでも、普通の小学生として、平凡に、幸せに暮らしていた。

お母さんのパートの収入だけで、二人だけなら不自由なく生活できた。説明された事は無かったけれど、後から知った事に

は、お父さんが僕の養育費を負担する事になっていたらしい。

母子二人の生活だったけど、幸せだったと言って良いと思う。でも、僕は気付いていなかった。お母さんが精神的にどんな

に追い詰められていたか、全然気付けなかったんだ…。

お父さんはたまに訪ねてきた。お父さんが来るたび、僕は自分の部屋に行っているように言われ、お母さんとお父さんは二

人だけで話をした。

お父さんはお母さんとよりを戻したがっているようだった。これも後になって知った事だけれど、お父さんが再婚相手と過

ごしたのは半年だけで、一年も経たずに別居、離婚したらしい。

話し合いは時に深夜まで続き、時々大声が聞こえてきて、そのたび僕は布団を頭から被り、何も聞こえないようにして、丸

くなって震えていた。

お父さんが僕と話をする事は無かった。僕が部屋に行くまでの短時間顔を合わせても、すぐに目を逸らした。たぶん、お父

さんはお母さんの事は好きだったかも知れないけど、僕の事はどうでも良かったんだと思う。



「…なんだよ…、それ…」

サツキ君は低い声で呟いた。なんだか怒っているみたいだ。

「そういう人だったんだよ。昔から遊んで貰った覚えも殆ど無いし、なんだか他人行儀な父子だったしね。女の人には夢中に

なるけれど、子供の事はどうでも良かったんだと思う」

「勝手じゃねぇかそんなの!親だったら親らしく…」

「うん。サツキ君のおじさんみたいに、しっかりしたお父さんだったら、あんな事にはならなかったと思う」

「いや、ウチの親父もたいがい女好きだし、美人に弱ぇけどよ…。それでも、ちゃんと家族の事には責任もってくれてる。大

人って、親ってそういうもんだろ!?」

「きっと、僕のお父さんは、親にはなっても大人じゃなかったんだよ…。いや…、親にもなれていなかったんだろうね…、だ

から、子供なんて本当は欲しくなかったのかもしれない…」

サツキ君はギリッと歯を噛み締めて黙りこくった。まっすぐで裏表の無いサツキ君みたいな人達には、僕のお父さんのよう

な人は、理解できない存在なんだろう。

そして僕は、5年前のあの夜に起こった事件について話し始めた。

…僕が犯した、決して許されない大罪について…。



その日は、異常に発達した低気圧のせいで、すごい天候だった。

学校は休校になり、外出もできなかった僕は、ずっとマンションの窓を叩く大粒の雨を眺めて過ごしていた。

お父さんがやって来たのは、そんな嵐の日の夜遅くだった。

その頃には、お母さんはお父さんが来るたびに酷く元気が無くなった。これもまた後で知った事だけれど、お父さんは毎日

のようにお母さんの職場に電話をかけ、再婚について考えるよう、しつこく言い募っていたらしい。

…僕は、そのことにも気付いてあげられなかったんだ…。

いつものように自室に篭り、ベッドで寝ていた僕は、言い争う声を掻き消してくれる嵐の音と、雷の音に感謝した。

そして夜も更け、うとうとしていた僕は、叫び声を聞いたような気がして目を開けた。

ぼんやりと天井を見上げてしばらく待ったけれど、お父さんはいつの間にか帰ったのか、言い争う声なども全く聞こえない。

おそらく、雷鳴を聞き違えたんだろうと、その時は考え、再びまどろみ始めた。

それからしばらく経ったのか、それともほとんど間をおかずだったのかは良く分からない。ドアが静かに開いて、灯りが差

し込んだ事で、僕は目を覚ました。

夢うつつの状態で顔を動かすと、入り口にほっそりとした、人間の女性のシルエットが見えた。

…お母さん…、最近なんだかすごく痩せたな…。僕はぼんやりとした頭で、少し心配に思った。

そして意識が少し覚醒する。逆光で顔は見えなかったけれど、お母さんは肩を震わせていて、嗚咽を押し殺しているようだった。

ベッドに歩み寄ったお母さんから、なんだか鉄のような、生臭いような、嗅ぎなれない臭いがした。

「…お母さん?…どうしたの?」

ぼんやりとした頭で、ベッドの上で仰向けになったまま僕が尋ねると、お母さんは震える声で言った。

「…ごめんね…キイチ…」

次の瞬間、右の脇腹に叩かれたような衝撃を感じた。

一瞬息が詰まり、それから脇腹が熱くなった。少し間を置いて、全身を貫くような激痛が走った。

声も出ず、呼吸もできず、なんとか首を巡らすと、お母さんが出刃包丁を逆手に握り、僕の脇腹に突き立てている事が分かった。

お母さんの身体は、全身血まみれだった。両手は肘まで真っ赤で、包丁は柄まで血でぬめっていた。

「…おかあ…さん…?」

なんとか声を絞り出した瞬間、お母さんは根本まで刺さった包丁を抜いた。激痛で全身が痙攣し、息が止まる。

外で雷が鳴り、お母さんの顔を一瞬照らした。

暗い、ぽっかりと空いた穴のような、光の無い暗い瞳が、表情の抜け落ちた顔の中から僕を見つめていた。

いや、僕なんか見ていなかったかもしれない。その視線は、僕を付き抜けてずっと遠くを見ていたようにも思えた。

お母さんじゃない!僕は幽鬼のような目の前の女性が、自分の母親である事が信じられなかった。激しい恐怖が、動けない

ように体を縛り付けた。

「ごめんねキイチ!ごめんね!ごめん!キイチごめんね!ごめんねぇっ!!!」

お母さんはそう叫びながら、僕にのしかかるようにして、臍の上を、右脇腹を、鳩尾を、次々と刺した。

包丁で刺され、それが引き抜かれる度に、僕の身体は跳ね上がるように大きく痙攣した。次々送られてくる痛みの情報を脳

が処理できなくなったのか、痛みより、腹部に潜り込み、そして出て行く金属の冷たさが、耐え難いほど不快に、はっきりと

感じられた。

お母さんは大きく包丁を振り被り、僕の左胸に突き刺した。

「ごめんね!ごめんねぇキイチ!一緒に、お母さんと一緒に死んでちょうだい!」

僕の左胸に深く埋まった包丁を引き抜いた際に、血でぬめって、お母さんは包丁を取り落とした。包丁は柄からボクの胸に

落ち、転がった。

何も考えられなかった。ただ、死にたくないと思った。僕は、胸の上に落ちた包丁を震える右手で掴み、そして残った力を

振り絞って突き出した。

今もこの手に残る、二度と忘れる事のない嫌な手ごたえがあった。

お母さんは身を起こして僕から離れ、よろよろと後退すると、驚いたように自分の胸を見つめた。二つの乳房の間に、包丁

の刃が半分ほど潜り込んでいた。

お母さんはハッとしたように僕を見た。ついさっきまでの狂乱した様子は消えていて、そこにあったのは、いつものお母さ

んの顔だった。

それから、お母さんは悲しそうに顔を歪ませ、胸の包丁を引き抜いた。

「ごめんね…、キイチ…。私、酷いお母さんね…」

お母さんはそう言って、両手でしっかりと握った包丁を首に当てた。

お母さんが何をしようとしているのか分かった。

「…お、かあ…さ、ん…」

おかしな事に、たった今自分が刺し殺そうとしたくせに、今度は死んで欲しく無かった。起き上がる事もできないまま、僕

は震える右手をお母さんの方へと伸ばした。

掠れた声で呼びかけた僕に、哀しそうな微笑みを返すと、お母さんは、自分の首に当てた包丁を、思い切り横に動かした。

ぱっくりと切れた、大きくあいた首の傷から、勢い良く血が吹き出し、僕の体に鮮血がバタバタと落ちた。

血の勢いに押されるように、お母さんは後ろに倒れて行く。ボクが伸ばした手の先で…。

最後に見えたお母さんの顔、その目は、何かに耐えるように、きつく閉じられていた…。

伸ばしていた手から力が抜け、お母さんの血を全身に浴びながら、僕は意識を失った。



目覚めた時、僕は病院の集中治療室に居た。

意識が戻らないまま二週間も生死の境を彷徨ったって、お医者さんに聞かされた。

目が覚めた時には、黄色かった被毛は真っ白になっていた。そして、この頃から僕の背は伸びなくなった。

…お母さんは、即死だった…。たぶん苦しまなかったろうって聞いた。それだけが、ささやかな救いだった…。

お母さんに滅多刺しにされたお父さんは、通報を受けた警察が駆けつける直前に死んだらしい。つまり、僕に意識があった

あの時は、まだ生きていたはずだ。僕の元の毛色と同じ、黄色い被毛は真っ赤に染まっていて、周囲の床にはかきむしったよ

うな傷が残っていたから、きっと、凄く苦しんだんだろうって…。獣人の強い生命力が仇になったというべきなのかな…。そ

の事を聞いたら、なんだか少しだけ可愛そうになった…。



話し終えた僕は、サツキ君の顔を見る。

「…もう…泣かないでよ…」

「…ご、ごめっ…!」

サツキ君はボロボロと涙を流しながら、鼻をすすり上げる。

「…これが、僕の家で起こった事件と、僕が犯した罪…」

僕は自分の手に視線を落とす。ほとんど反射的な行動だったけれど、あの時の感触は、今も右手に生々しく残っている…。

「僕は、お母さんが苦しんでいた事に気付いてあげられなかった挙句、一緒に死んであげる事もできず、お母さんを殺そうと

した…。生き延びたくて、死にたくない一心で、生みの親を殺そうとした…。…それが、僕が犯した罪…」

サツキ君は、手の甲でぐいっと涙を拭い、僕を真っ直ぐに見つめた。

「赦される事のない大罪…。罪に問われなかったからと言って、誰が許せる?こんな親殺しの僕を…」

「赦す、赦さねぇじゃねぇよ。キイチはなんも悪くねぇ」

僕の言葉を遮り、サツキ君は言った。

「誰が認めなくたって俺が保障する。キイチは悪くねぇ!」

はっきりと言い切ったサツキ君に、僕は思わず尋ねていた。

「それは…、何が根拠で…」

「根拠なんてねぇよ。悪くねぇったら悪くねぇ!」

理屈になっていないけれど、サツキ君は強い口調でそう言い切った。

「サツキ君…」

胸が熱くなって、僕は言葉が続かなくなる。でも、じわりと嬉しさを感じたその時、

「ひっ!」

外で、稲光が走った。獣が唸るようなゴロゴロという音が、鋭い光が、罪を忘れるなと、僕を弾劾する…。

サツキ君は立ち上がり、耳を押さえた僕を抱き締めると、窓の外を睨んで空に怒鳴った。

「うるせぇ!黙ってろっ!!!」

サツキ君は空を睨み上げながら、窓ガラスがビリビリ震える程の大声で叫ぶ。

「今大事な話してんだ。邪魔するってんならそっから引き摺り下ろすぞ!!!」

空は不満げに小さくゴロゴロと唸り、そして、それっきり静かになった。…まるで、サツキ君の一喝で、雷が怖気づいたみ

たいに…。

サツキ君は窓の外から視線を外し、僕との間に少しだけ隙間を作り、顔を見つめてきた。

「…俺、馬鹿だから難しい事は分かんねぇ…。でも、キイチが悪くねぇ事だけははっきり分かる。お前を責めるヤツには片っ

端から拳骨お見舞いしてやる。雷さんだって俺が追っ払ってやる。だから…」

サツキ君は、目に涙を一杯に溜めながら、僕をガバッと抱き締めた。

「だから、もう自分を汚く言うなよ!もう自分を責めんなよ!もう…独りで抱え込むなよ…!」

僕は、サツキ君の背に震える両手を回した。サツキ君はとても大きくて、温かくて、優しくて、…触れ合っていたら安心で

きた…。

少し力を込め、僕をしっかりと抱き締めてくれたサツキ君の温もりが、鼓動が、息遣いが、僕の体と心に、じわりと沁み込

んで来る…。

絆を失わなくて済んだ事に、彼が赦してくれた事に、安堵して、不意に涙が溢れてきた…。

僕はまだ…、君の傍に居られるんだね…?傍に居ても良いんだね…?

「…さっ…ちゃん…。…ぼ、僕…、まだ君と…、一緒に、居ても、良いんだね…?」

「…あの時、お前が言ってくれたろ?…ずっと一緒だ…。これまでも、これからも、ずっと…!」

僕の掠れた声に、サツキ君は優しく頷いた。

「…あり…、ありが…、と…!」

たくさんの「ありがとう」は、言葉にし切れなかった。

まるで、言い尽くせない「ありがとう」の代わりのように、涙が、次々溢れてきて、止まらなくなった…。

僕の名前は根枯村樹市。東護中学三年。薄いクリーム色の被毛をした猫の獣人。

いろいろあったけれど、僕はきっと幸せ者です。

僕の事を全部知って、それでも優しく抱き締めてくれる、サツキ君が居るから…。