第二十一話 「幸せの天秤」
しばらく抱き締めた後、少しだけ身を離し、俺はキイチの顔を覗きこんだ。
涙に濡れた顔には、それでも微かな笑みが浮かんでいた。
…良かった…。ちっとは元気が出たみてぇだな…。
「ありがとう。サツキ君…」
「ん?」
「全部知っても、僕を受け入れてくれて…」
「当り前だろ?昔に何があろうが、お前はお前、俺が惚れたキイチで、幼なじみのきっちゃんだ。今更なんも変わりゃしねぇよ」
なんとなく分かった。キイチは、自分がきっちゃんだって言い出せなかった事や、過去を隠していた事を、俺を騙してたっ
て考えてるんだろう。
俺がキイチの立場だったら、一体どうしてたろう?やっぱり、話したくなかったんじゃねぇかな…。それが当り前に思える。
「なぁキイチ…。これまで黙ってた事も、昔の事件の事も、何も気にする事はねぇんだ。この際だからはっきり言っとくぞ?
俺は全部知った。それでもお前の事が好きだ。この気持ちは、何があっても変わらねぇ」
「…サツキ君…」
「だからもう気にすんな。お前はなんも負い目に感じる事はねぇ。俺…、馬鹿だから上手く言えねぇけど…」
えぇい!言葉で綺麗に伝えらんねぇのがもどかしい!
「大丈夫だ。俺、何があっても、ずっと傍に居るからさ…」
言ってから、急に恥ずかしくなった。今更だけど、なんかコクってるみてぇだ…。
キイチは俺の顔を見つめ、
「あ…。そういう…事だったんだ…」
と、少し目を大きくして呟いた。
「この間からずっと、君が「大丈夫」って言ってるのが、何についてか分からなかった…。そういう意味だったんだね…」
そう言って、キイチは泣き出しそうな顔をした。
「おい、泣くなよ?お前の笑い顔が見たくて励ましてんだからよ」
そう言って笑いかけると、
「…うん!ありがとう。さっちゃん…!」
キイチは、泣き笑いの顔でそう言った。
雷が苦手になったのは、事件のあった夜を思い出すから。
黄色かった毛の色は、病院で意識が戻った時には真っ白になってたそうだ。おそらく心理的なショックが原因だろうって、
医者が言ってたらしい。
生死の境を彷徨うほどの重傷の影響なのか、それとも全身の毛から色が抜けたように、心理的なもんも影響してるのか、キ
イチの身長は、その事件をきっかけに伸びなくなった。キイチがえらく小柄なのは、その時からほとんど身長が変わってねぇ
かららしい…。
その話だけでも、キイチがどんなにショックを受けたのかが分かる…。
それからキイチは、お袋さんの実家に引き取られてからの事を話し始めた。
半年以上入院した後、キイチは複嶋の祖父母の家に引き取られ、小学五年の春からあっちの小学校に通い始めたらしい。
…だが、そこでも平穏な生活は送れなかったんだ…。
「祖父母の家は田舎にあってね。しばらくは穏やかに過ごせた。でも…、三年前、六年生の冬休みの時…。正月早々から、ど
こから聞きつけたのか、報道陣が祖父母の家に押し掛けたんだ。殺人者の母親の実家として…、そして、その事件の生き残り
であり、母親を殺そうとした子供の住む家としてね」
「なんだよそれ…、その時はもう、事件から二年近くも経ってるだろ?」
「まあね…。凄惨な事件だったからかもしれない。当時大きな事件も無くて、話題に餓えていたんだろうね。報道陣は連日押
しかけたよ。…狭い田舎町だから、噂が広まるのも早かった。周囲の住民は僕や祖父母を避けるようになったし、僕も学校に
行かなくなった。報道陣が押し掛けた原因は、なんとなく分かる。…気を許した友人に、僕、事件の事を少し話してしまった
んだ…。それが、クラスで広まって…」
「…ひでぇなそいつ…!…でもお前、良くそいつに話したな?あんまり他人とつるむタイプでもねぇのに…」
「…うん…」
キイチは言い難そうに口ごもったが、俺が首を傾げると、口を開いた。
「その子、当事の僕の一番の友達で…、活発で、クラスでも目立つ子だった…」
キイチは一度口を閉じ、何故か俺の顔色を窺うように上目遣いにちらっと見ると、意を決したように続けた。
「…熊の獣人だったんだ…。茶色くて…、大柄で…、首元に白い輪があって…、見ていると、さっちゃんを思い出させる子だっ
た…。…それで…その…」
…そうか、それでお前…気を許しちまったのか…。
無性に腹が立った。同じ熊族として恥ずかしい…。
「…悪ぃ…」
「やだなぁ、なんでサツキ君が謝るの?」
キイチは苦笑いした。が、それも一瞬で、不意に表情を曇らせた。
「…祖父母は…、連日押し掛ける報道陣と、何度も掛かってくる非難の電話で、精神的に参ってしまったんだ」
「…非難の電話?…なんでだ?」
キイチは俯いて肩を震わせた。
「人殺しの娘を育てた責任を取れ…、概ねそんな電話だったみたい…」
「…な…!?」
一瞬、言葉が出なくなった。そんな事を考えるヤツが居るなんて、俺の出来の悪い脳みそじゃ考えもつかなかった。
「なんだよそれ!?キイチのじいさんもばあさんも全然関係ねぇじゃねぇか!?キイチのお袋さんは確かに間違った事しちまっ
たかもしれねぇけど、それは精神的に参ってたせいで、やりたくてやった訳じゃあ…!だいたい、そいつらの親族が殺された
訳じゃねぇだろ!?完全な部外者がなんだってそんな事…!それに、一番の被害者のキイチは、その電話の先に住んでたじゃ
ねぇか!」
「僕も、同罪と見なされたみたい。母親を殺そうとした子供、いつか親と同じ事をするだろうって、そんな手紙が投げ込まれ
た事もあったしね」
「…なんで…、キイチのは、正当防衛だろ…?…なんで…?…自分達が同じ立場なら、生きたいって、死にたくねぇって、そ
うは思わねぇってのかよそいつら!」
「どうなんだろうね?僕にも良く分からない。でも、その手紙を見た時に思ったんだ。やっぱり僕は、あの時にお母さんと…」
「これからは、二度とそんな事考えんなよ?」
俺が睨むと、キイチはふっと笑みを零した。
「大丈夫。今じゃそんな事考えてないから。そんなに怒らないでよ」
…今のは、ちっとキツい調子になっちまったかな…。俺は少し反省する…。
「三学期の中頃…、あれは二月の、随分寒い日だったな…」
キイチは目を細め、視線を落とした。
「僕は昼近くになってから目が覚めた。おばあさんが毎朝起こしに来てくれるのに、おかしいなと思って布団から這い出した…」
キイチの声が、震え始めた。何かに耐えるようにして、キイチは話を続ける…。
「居間に入った瞬間、僕は自分の目を疑って、その場で立ち尽くした。…あの時の光景は…、今でもまだ夢に見る…」
キイチは呼吸を整えるように少し間を置き、それから口を開いた。
「祖父母は…、居間で首を吊っていた…」
……………え……………?
「机の上には遺書が…、それと、世間様に詫びる手紙と、僕宛の手紙があった。手紙には、逃げ出す自分達を許してくれって、
そういった事が書いてあった。…僕は、自分の事を考えるのに精一杯で、祖父母がそんなにも追い詰められていた事に気付け
なかったんだ…。お母さんの時と同じように…」
…そんな…?…そんなのって…。
「それから僕は、今の家、叔母さん夫婦の家に厄介になる事になった。疎まれるのも、憎まれるのも当然だよ。叔母さんにとっ
て、僕は疫病神であり、両親を自殺に追いやった元凶なんだからね…」
キイチは言葉を切り、俺に視線を向けた。
「幻滅させちゃったでしょ?ずっと思い描いていたキイチが、こんな疫病神の、人嫌いになってて…」
そう言って目を伏せた、寂しげなキイチの顔に、俺の胸は張り裂けそうに痛んだ。
…なんで、なんでもっと早くに気付いてやれなかったのかなぁ…?俺はなんでもっと早く、キイチが一人ぼっちだって事に、
気付いてやれなかったのかなぁ…。
「幻滅なんぞ、するはずがねぇだろ…。お前は昔と同じに俺を助けてくれた。励ましてくれた。あの頃の、俺がかっこいいと
思ってたきっちゃんのままだ…」
キイチは顔を上げ、それから驚いたように目を丸くした。
「…哀しい事、言うなよ…。お前が自分を汚く言うたび、俺も哀しく、泣きたくなるんだよ…」
「サツキ君…?」
俺は涙をごしごしと拭い、鼻をすすり上げた。もう涙腺はすっかり緩みっぱなしだ。
「なんで…、なんでなのかなぁ…?キイチばっか、なんでそんな辛い目に遭わなきゃならねぇのかなぁ…?なんで…、なんで
そんなに不幸ばっか続くんだよ…?」
世の中ってのは、つくづく理不尽だ。
人を騙して金を巻き上げて、それでも捕まらねぇ詐欺師が居る。
悪い事ばっかやってても、なんの罪にも問われてねぇ政治家が居る。
計画的に学校に押し入って子供を何人も殺しときながら、精神がうんぬんで罪を免れる奴が居る。
なのに、なんで何もしてねぇキイチが、辛い目にばっか遭わなきゃいけねぇんだ?キイチの幸せの天秤って、なんでこんな
にも不幸な方に傾いてんだよ…?
「もう…。さっちゃんの涙もろいところ、なかなか治らないねぇ…」
キイチはそう言って微笑んだ。
「…確かに辛かったけど…、今はそんなに不幸じゃないよ?」
俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、微笑むキイチを見つめる。
「君が傍に居てくれる。だから、今の僕は幸せだよ」
「…俺が傍に居るだけで…、不幸と吊り合うのか?」
「うん。持ち切れないほどのお釣りが来るぐらいに、今は幸せ」
俺は鼻をすすり上げ、涙を拭った。
「…足んねぇよ…」
「え?」
キイチは訝しげに聞き返した。
「まだまだ足んねぇ…。キイチはもっともっと幸せになって良いはずだ」
俺は立ち上がり、キイチの隣、ベッドの上に勢い良く座った。反動でベッドが揺れ、キイチがバランスを崩す。
よろめいたキイチの体を左腕でしっかり抱え、抱き寄せた。
「わっぷ!さ、サツキ君?」
勢い良く抱き寄せたもんだから、キイチは俺の胸に顔を埋めるような感じになり、そこから顔を上げて俺の目を見つめた。
「俺が傍に居て、幸せの天秤、思いっきり傾かせてやる!」
「幸せの…、天秤?」
呟くように聞き返したキイチに、俺は頷く。
「おう!反対側にどんな不幸が乗っても平気なぐらいに、ずっと傾かせっぱなしにしてやる!」
俺はドンと胸を叩き、キイチに笑って見せた。
「任しとけ!俺のめかたなら、大概の重しじゃビクともしねぇからよ!」
キイチはしばらく呆然と俺を見つめた後、小さく吹き出した。
「それ、ここ最近の体重増加を正当化しようとしてない?」
「んなことは…、…まぁちっとはあるかな…」
照れ隠しに指先で鼻を掻いていると、キイチが俺の体に腕を回した。そして目を閉じ、今度は自分から俺の胸に顔を埋め、
頬ずりする。
「…うん。幸せの感触…。大きな幸せ…」
俺はキイチの背に右腕も回し、両腕でしっかりと抱き締める。
感触を確かめるように俺の胸に顔をすり寄せていたキイチは、笑みを浮べて俺の顔を見上げた。
「そういう事なら、少しくらいは太っても許しましょう!」
「そいつぁどうも…!」
俺達は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
俺は阿武隈沙月。東護中学三年。胸に三日月マークがある熊の獣人だ。
キイチは、幼なじみのきっちゃんだった。話すのは辛かったろうけど、キイチは全部俺に打ち明けてくれた。
俺は、やっと本当のキイチと出会う事ができた…。
「そういやあさ」
俺はパスタを茹でながら、台所のテーブルに座ってるキイチに声をかけた。
お袋は帰りが遅くなるらしい。自分の分だけ夕飯作るのもアレなんで、キイチにも食って行って貰う事にした。
「オナガワのマンションで、コマイって家の人に、お前の事教えてもらったんだ」
「コマイのおばさん?」
キイチは懐かしそうな顔で笑みを浮かべた。
「おう。偶然マンションの下で、お前の事知ってる子供と会ってな。それで運良く知り合えたんだ。その子、お前の名前が入っ
たボール、今でも大切に使ってたぜ」
「シュウ君だ!元気そうだった?」
「おう!元気だし良い子だった!また遊びに行くって約束してきた」
「…意外…。サツキ君、子供好きなんだ?」
「子供好きってか…、子供に好かれるみてぇなんだよな。なんでか知らねぇけど」
「あ〜、なんとなくだけど分かる気がする」
俺はキイチを振り返り、ずっと疑問だったその事を尋ねた。
「一体なんでなんだ?」
「たぶん、巨大ぬいぐるみ感覚?」
「…そう…か…」
…激しく微妙…。
「んで、シュウ君ともう一つ約束してきた」
「へぇ。何かお土産持って行くって?」
楽しげに聞き返したキイチに、俺はニヤッと笑ってやった。
「さっすが、勘が良いなぁ」
「そうなんだ?何を持っていくの?」
「お前だよ」
「へ?」
キイチは目を丸くする。
「お前を連れてくって約束した。シュウ君、会いたがってたぞ?」
「…勝手に約束して…」
キイチは呆れたように呟いた。
「嫌か?」
そう問い返すと、キイチは首を横に振り、微笑みながら言った。
「…ううん。一緒に行くよ。僕も大きくなったシュウ君に会ってみたいし、おばさんにも挨拶したい…。ずっとお世話になっ
てたのに、お別れの挨拶もきちんとできなかったからね…」
「そうか…。じゃあ今度、一緒に行こうぜ!」
「うん!」
「あぁ、それとさ…」
俺は小学校で会った先生の話をした。キイチは随分驚いた様子だった。
「たぶん、その年配の方の先生って柿沼先生だ!僕が四年生の時に担任だった先生だよ!…まだあの学校に居たんだ…」
キイチは懐かしそうに目を細める。
「オナガワ行ったら、先生にも挨拶しに行こうな?俺も、ちゃんときっちゃんに会えたって、お礼言いてぇし」
「会えたって、会ってたじゃない?ずっと」
「キイチにはな。きっちゃんと再会できたのは、なんだかんだ言って今日だろ?」
キイチは一瞬きょとんとし、
「…あ…、そうか…。うん。きっとそうだね!」
それから、納得したように一つ大きく頷き、顔を綻ばせた。
キイチの前に、俺は大盛りのボンゴレスパゲッティを置く。そして冷蔵庫の中からコーラのペットボトルを取り出し、コッ
プに注いだ。
「簡単で悪ぃが、再会祝いって事で、乾杯といこうぜ!」
「…うん!」
再会を祝し、俺達はコーラで乾杯した。
簡単なもんだったけど、夕飯は、いつもよりずっと美味かった。
キイチが捻った足は、幸いにも大した事はなかった。夕方まで休んだら、痛みはだいぶ引き、歩けるようになってた。
念の為に病院に行くようには勧めた。ついでに、念には念を入れて家までおぶってやろうかと言ったら、恥ずかしげに断られた。
「それじゃあ、また学校でね」
「おう、また明日!」
キイチの叔母さんの家が見える位置で、俺達はそっと唇を重ねてから別れた。
帰り際、俺はぶらぶら歩きながら考えた。
世の中には、辛いことや理不尽な事がたくさんある。
ウチはまぁ、ミヅキの事をさっぴけば平凡な家庭だ。それってきっと幸せな事なんだよな。
俺はつくづく恵まれてると思う。平凡なのって、そうとは気付き難いけど、この上なく幸せな事なんだって、腹の底から思
えた…。
これからは、キイチにはたくさんの幸せが寄って来てくれる事を願う。
もちろん俺だって、キイチが幸せで居られるように、なんだってしてやるさ!
…さぁて…、修学旅行も間近。心配事も消えたし、すっきりした気分で望めるってもんだ!
今から楽しみで仕方ねぇや。なんたって、愛しの恋人であり、やっと帰ってきてくれた幼なじみのきっちゃんと一緒に、中
学最後の大イベントに行けるんだからよ!