第二十三話 「おやすみ、きっちゃん」

「なぁ。今度の週末、雄流和に行かねぇか?」

修学旅行から帰ってきた翌日、俺達三年は休みの日、俺はキイチにそう声をかけた。

「前に言ったろ?シュウ君とおばさんや、先生に会いに行こうって」

「そう言えば…、一緒に行くって約束してたね…」

キイチは少し戸惑ってる様子で呟いた。

無理もねぇ。こいつにとって、オナガワは前に住んでた懐かしい町ってだけじゃなく、両親を喪った町でもあるんだからな…。

「気が進まねぇなら、無理にとは言わねぇけどよ」

俺はそう言ったが、キイチは微笑みながら応じた。

「ううん。予定も無いし、行こうか?」

「おっし!決まりだな!」

俺は心の中でガッツポーズを取る。一緒に下校したりダベったりはしてるが、二人っきりでどっか出かける機会ってあんま

し無かったからな。これって、もしかして初デートってやつじゃねぇか?…いまさらだけど…!

…っと、浮かれて忘れるとこだった…。俺は阿武隈沙月。東護中学三年。胸元の白い三日月がトレードマークの、熊の獣人。

だが、この初デートが俺達の運命を大きく変える事になるとは、浮かれ気分だったこの時の俺には、知る由も無かった。



「ありゃ?留守かぁ…」

「そうみたいだねぇ…」

俺達はコマイさんの部屋の前で顔を見合わせた。

午前10時着の電車でオナガワにやって来た俺達は、真っ直ぐにキイチとお袋さんが暮らしていたあのマンションを訪ねた。

そして、シュウ君とおばさんに挨拶しようと思ったんだが…、留守らしい。何度かチャイムを鳴らしてみたが、返事はねぇ。

…むぅ、先に連絡してから来るべきだったな…。

「どうしよう?先に学校に行ってみる?」

「そうだな。そうする…」

ぐぎゅうぅぅぅっ!

突然、言葉を遮るように腹の虫が大声で鳴き、俺は頭を掻いた。キイチは目を丸くし、俺の顔と出っ張った腹を交互に見つ

め、それから「ぷっ!」と吹き出した。

「少し早いけど、先にお昼ご飯かな?」

「…悪ぃ…」

くぅっ!バツ悪ぃっ!

だがしかし!実は今日、俺はお手製弁当を用意してきた!

デートっていや手作り弁当だろ?いやぁ、もう早起きして張り切った!これで汚名挽回!…あれ?名誉返上…?どっちだっ

たっけ…?



「正しくは、名誉挽回、汚名返上、だね。どうしたの急に?」

「…いや、ちょっと気になっただけだ…」

マンションの下、前に来たときにシュウ君と出会った公園で、ランチボックスを広げながら尋ねると、キイチは木の枝で地

面に書いて見せてくれた。

…どっちもはずれだったのかよ…。…ま、まぁ良い…、名誉挽回な、うん!

俺が広げた弁当を見て、キイチは「おぉー…」と感心したような声を漏らした。

ふふん!言っちゃなんだが自信作だ!

玉子サンドにツナサンド。明太子パスタとマッシュポテト。レタスを敷いた上には鶏の唐揚げと色鮮やかなプチトマト。グ

リーンピースとコーン、細かく切ったニンジンの炒めものも加え、色彩もばっちり!キイチの好きな物を中心にしたチョイス

だ!

ちなみにキイチは豚肉、特に脂身が苦手だったりする。

「凄い…!本格的だね!これ作るの、結構手間がかかったんじゃないの?」

「ぬはは!こんくれぇどうって事ねぇよ!」

なんて答えたが、実は結構張り切ってたりする。

「さすがだねぇ、どれもすごく美味しそう!」

改めて品揃えを見回すと、キイチは嬉しそうな笑顔を浮かべた。でへへ!かなり嬉しい!

「好みに合うように気ぃつけたつもりだ。遠慮しねぇで食ってくれよ?」

「うん!ありがとう!いただきますっ!」

キイチは唐揚げを摘んで口に運び、美味そうに頬張った。

「美味しぃ〜!」

ああ…、愛する人に料理を褒めて貰える幸せ…!こんなんなら毎日学校に弁当作ってこうかな!?



俺達が楽しい楽しい昼食を終えても、シュウ君もおばさんも帰って来なかった。

「やっぱり先に先生に会いに行っとくか?昼過ぎになれば帰ってくるかも知れねぇし」

「う〜ん…。いつ帰って来るかも分からないし…、そうしようか」

この間、俺が状況を少し偽って説明した事はキイチには説明してある。詳しく説明して俺達の関係を変に勘ぐられるのもア

レなんで、ちっと悪ぃとは思うが、先生には再会できたお礼だけ言うつもりだ。

昔、毎日通ってた小学校までの道のりを、キイチは懐かしそうに周囲を見回しながら歩いた。その気持ちはなんとなく分かっ

たから、俺はキイチの後を追うように、ゆっくり、ゆっくりと歩く。

途中に居た年寄りの犬を懐かしそうに眺めたり、色褪せた看板に指を這わせたり、売りに出されている鉄条網で囲まれた空

き地を少し寂しそうに眺めたりしながら、キイチは俺に色々な想い出を話してくれた。

あの事件が起こるまでの、ありきたりの小学校生活。

キイチが懐かしそうに話すそれらが、俺の知らないキイチの生活が、なんだかすげぇ新鮮に感じられた。

「平凡な事って、きっと幸せな事なんだろうね。あの頃は全然気にしてなかったよ」

「だな…。俺も、お前の話を聞くまでは、そんな風に考えた事も無かった」

「もったいない事しちゃったかなぁ。もっと楽しんでおけば良かった」

笑い混じりに言うキイチには、辛そうな様子は見られねぇ。

キイチは強い。どんな辛い事だって、こうやって少しずつ乗り越えていくんだろうな…。

「今からだって遅くねぇさ。これからを目一杯楽しもうぜ!」

「…うん!」

キイチが笑顔で頷いた。そう、これからの生活を目一杯楽しもう。もちろん俺だって、キイチのためなら何だってしてやるさ!



小学校の校舎が見えてくると、キイチは足を止め、懐かしそうに目を細め、笑みを浮かべた。

気が逸るのか、それまでゆっくりだった歩調が少し早くなった。

「懐かしいな…。全然変わってない…!」

呟く声が、感動してるように震えてた。

俺には想像もつかねぇような、複雑な、そして強ぇ感情の波が、キイチの声を震わせてるんだろう…。

校門を抜けると同時に、「あっ!」という声が聞こえ、俺達は同時にそっちを振り向いた。

子供達が遊んでいる遊具の所で、犬の獣人の男の子がボールを抱えて立ち、こっちを見つめている。…ん?あれって…。

「サツキお兄ちゃん!」

シュウ君は嬉しそうに笑顔を浮かべ、俺達の所に駆けて来た。

「よう!元気だったか?約束通り遊びに来たぜ!」

俺は駆け寄ったシュウ君の両脇に手を差し入れ、高い高いしてやった。よっぽど嬉しいのか、尻尾が左右にブンブンと振ら

れてる。くぅ〜!可愛いなぁおい!

「そうだ!もう一つの約束もちゃんと守ったぞ?」

俺はシュウ君をキイチの前に下ろす。キイチは優しく微笑みながら、

「久しぶりだね…、シュウ君…」

そう言ってシュウ君の頭を撫でた。

シュウ君はきょとんとした顔でしばらくキイチを見上げた後、やがて気付いたのか、顔を輝かせた。

「キイチお兄ちゃん!?」

一目で気付かねぇのも無理はねぇ。キイチがこの町に居た5年前は、シュウ君は小さな子供だった。それに、あの事件以後、

キイチの毛並みは色が抜けちまって白く変わってる。

「大きくなったね、シュウ君。ボール、まだ持っててくれたんだ?」

キイチが優しく頭を撫でると、シュウ君は何度も頷きながら、千切れんばかりの勢いで尻尾を振った。

良かったなぁ、キイチ、シュウ君…。どんなに嬉しいんだろうなぁ…。今日はキイチを連れて来てホント良かった…。…あ、

やべぇ…。なんか俺泣きそう…。

「どうかしたの?サツキ君?」

「どうしたの?サツキお兄ちゃん?」

二人が俺の顔を見上げて同時に聞いた。

「な、なんでもないよぅ…」

「嘘だ。言葉遣い可愛くなってるし」

「ホントになんでもないん…ねぇんだよぅ…」

あんま弄んねぇでくれ、涙腺緩んでギリギリなんだから!

…まったく、歳を取ると涙もろくなってしかたねぇや…。…って俺まだ中三!



もうすぐ昼なんで、シュウ君は丁度帰るとこだったらしい。

聞けば、おばさんも昼には家に戻ってるって話だった。どうやら空振りはしねぇで済みそうだ。一安心だな。

俺達はキイチの担任だった柿沼先生に挨拶するため、職員室に向かった。

後でお邪魔するから先に家に帰ってるように。ってキイチが言ったんだが、シュウ君は一緒に行くから待ってると言い張り、

他の子供達に混じって遊具の所で遊んでる。

「お久しぶりです。カキヌマ先生」

「久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」

硬い握手を交わしたキイチは、先生の顔を見上げ、恥ずかしがっているように微笑んだ。

「彼…、サツキ君から話を聞いて、まだ先生が残っていると知ったら、どうしても一言、挨拶をしたくて…」

先生は涙目になってしきりに頷いている。

「うん…。うん…。本当に良かったね。友達と再会できて…」

…あ、やべぇ…。俺また泣きそう…。

「困るなぁ。歳を取ると涙腺が緩くなってねぇ…」

先生はハンカチで目尻を拭いながら言った。…くうっ!気持ちは解るぜ先生…!…解れるトコが複雑…。



しばらく歓談した後、俺達は先生に礼を言って、職員室を後にした。

「また遊びに来なさい」

先生はそう言って、笑顔で俺達を送り出した。

「良い先生だな?」

「うん。昔から優しくて、涙もろい先生だったんだ」

そう言いながら…、キイチ、お前も目が潤んでるぜ?

「さて、次はコマイのおばさんとこだな!」

「うん。結構長話しちゃったから、シュウ君も待ちくたびれ…」

キイチが笑いかけたその時だった。言葉尻をかき消し、校庭から悲鳴が響いてきたのは…。



玄関を飛び出した俺とキイチは、予想だにしない光景を目にして硬直した。

続けて飛び出してきた先生方も、同じように固まって動かなくなる。

全員が強ばった表情で凝視する先、ジャングルジムの傍で、一人の男が子供を羽交い締めにしていた。その手には出刃包丁

が握られ、子供の首に押し当てられてる…!

「シュウ君っ!?」

キイチの口から悲鳴のような叫びが上がる。そう、男に羽交い締めにされている子供は、シュウ君だ!

「近…、近付くな!だ、誰も来るな!来たらこ、殺すぞ!みんな殺してやるぞっ!」

男は血走った目で落ちつきなく周りを見回し、甲高い声で叫んだ。声が震え、裏返ってる。前後の事情はさっぱりだが、ど

う見てもまともな状態じゃねぇ…!

男の周りには、恐怖で凍り付いたり、泣き声を上げたりしてる数人の子供が、逃げる事もできねぇで取り残されてる。

ようするにアレか?ニュースでたまに流れる、学校に異常者が押し入ったって、あんなひでぇ事件と同じ事が、今、俺達の

目の前で起こってんのか?

頬がそげ落ち、よれよれのワイシャツを着た青白い顔の若い男は、かなり痩せ形で、取り押さえるのはそう難しくなさそう

だ。だが…、あいつの手の中にシュウ君が居る以上、下手な動きはできねぇ!

「職員ども!中には、は、入れ!み、みんな下がれ!誰も近付くなっ!」

先生方は悔しげな表情を浮かべたが、シュウ君に包丁が突きつけられている以上、下手に刺激するのは危険過ぎる。しぶし

ぶながらも男の言葉に従い、玄関の中に入る。

「お、お、お前もだデカブツ!ささ、さっさと中に入れぇっ!」

俺は舌打ちすると、固まっているキイチを捕まえ、玄関の中に入った…。



「くそっ!」

思いっきり下駄箱を蹴り飛ばし、俺は玄関のガラス越しに男を睨む。なんてこった…!なんだってよりによってここで、こ

んな日に、こんな事が起こるんだよ!

せっかくキイチが皆と再会できて、幸せな時間を噛みしめてたってのに…!こいつが幸せにしてるのがそんなに気にくわねぇ

ってのかよ?神様って野郎は!?

周囲では先生方が警察とかに連絡してる。

開いたままのドア越しに職員室のテレビが、ある若い無職の男が、家族に重傷を負わせ、なおも逃走中である。と、注意を

呼びかける放送を流していた。えぇい!情報が古ぃ!

俺は深呼吸し、心を落ち着ける。

冷静になれサツキ…!今自分がやれる事を考えろ…。警察は、じきに来るだろう。任せるのが一番だ。…だが…。

俺は男の様子を覗う。

包丁を握る手はがたがたと震え、今にもシュウ君を傷つけちまいそうだ。パトカーなんぞ見たら、動転した拍子に喉を切っ

ちまうかも知れねぇ…。

男と子供達が居る遊具がある辺りと、この玄関との間にはだだっ広い校庭が広がってる、隠れて近づいて行けそうな障害物

もねぇ。

男の後ろ側に視線を向けると、体育館が見えた。

校舎から体育館までは渡り廊下で繋がってる。途中で一ヵ所、通り抜けできるように切れてるが、左右に子供の肩ぐれぇま

での高さの手すりがある。

見つからねぇように四つん這いで移動してって、上手くあそこを越えて体育館側に行ければ、男のすぐ後ろ側に回り込める…。

飛びかかって押さえ込むのは難しいにしても、こっそり子供達を呼び寄せるくらいはできるかも知れねぇな…。

俺が密かに覚悟を決めた瞬間、玄関内で、バチン!という音が響いた。

驚いて固まった先生方と俺が見つめる中、キイチは両頬を押さえて屈み込んだ…。

「何してんだキイチ?」

「サツキ君の真似…。気合い入るって言ってたでしょ?…けっこう痛いんだね、これ…」

キイチは両頬をさすりながら立ち上がると、オレの顔を真っ直ぐに見つめて言った。

「僕が彼の注意を引いてみる」

『な!?』

全員が驚きの声を上げ、注目する中、キイチは胸を張った。

「自慢じゃないですけど、僕は時々小学生に間違われます。この中で、彼に余計な警戒を抱かせずに近付けるのは、僕しか居

ません」

「き、危険過ぎる!警察が来るまで待った方が…」

カキヌマ先生の言葉に、キイチは首を横に振った。

「彼は今、まともな精神状態にはありません。とても危険な状態です。指を咥えて見ていたら…」

…シュウ君や他の子供達が危ねぇ目に遭う…。言葉にこそ出さなかったが、キイチの言いてぇ事は、その場の全員が理解した。

「大丈夫です。危ない真似はしません。少しでも落ち着くように話しかけるだけですよ」

キイチは強ばった表情の先生方を見回し、自信ありげに笑って見せた。

「俺は反対だ…!」

仏頂面で言った俺に、キイチが顔を向ける。

「危な過ぎる!大人しくしとけ!」

そう言った俺に、キイチは小声で言い返した。

「大人しくなんてしてられないよ。…それに、キミがやろうとしてる事は、危険じゃないとでも言うつもり?」

勘付いてたのか!?言葉に詰まった俺に、キイチは微かに笑って見せた。

「僕が注意を引いてる間に、一人でも多く逃がしてあげて。きっと上手く行くから」

「それでも…」

「ダメって言っても僕は行くよ?」

真っ直ぐに俺を見つめるキイチの目には、硬い決意の色が見て取れた。

…昔、泣き虫だった俺をいつも助けてくれた、きっちゃんの目だ…。

俺は何も言えなくなり、小さなキイチをギュッと抱き締めた。

「さ、サツキ君…!人が見てる…」

…誰に見られても構うもんかよ…。焦ったようなキイチの声にも、俺は腕を緩めず、キイチを抱き締め続けた。

「危ねぇと思ったら、すぐに逃げろよ?約束できねぇなら放さねぇぞ」

「…うん。約束するよ…」

「絶対だぞ?」

念を押してから放すと、キイチは俺の顔を見上げ、微笑みながら頷いた。

笑うことは、できなかった。無言で頷き返し、俺は裏口に向かう。

「先生方、もしも上手く説得できたら、お願いしますね?」

キイチが先生方に、男を取り押さえる協力をお願いしている声が、後ろから聞こえてきた。

…神様よ…、もしもキイチに何かあったら、あんたを絶対に許さねぇからな…!キイチが無事で済むなら、その代わりに、

俺はなんだってしてやるからよ…。



身を屈めて進みながら、渡り廊下の手すりが途切れた所まで来ると、キイチがゆっくりと男に歩み寄っていくのが見えた。

男の注意がキイチに向いた瞬間、俺は素早く、静かに手すりの途切れてる部分を駆け抜けた。

「来るな!ここここっちに来るな!」

男の震えた声が校庭に響く。

「ねぇおにいさん。何でこんな事してるの?」

キイチは少しも緊張してねぇような声で、男に声をかけた。

小せぇナリしてるくせに、大した肝っ玉してやがる…。刃物を子供の首に押しつけた男と向き合ってんだ。大人だってブルっ

ちまうような状況で、それでもあいつは怖がってる素振りなんぞ全然見せねぇ…。

「ねぇ?なんで子供なんか狙うの?お金持ってるわけでもないのに」

キイチは大げさに身振り手振りを交え、男に話しかける。

哀しい事に、ケントのお陰ですっかり荒事慣れしちまった俺には、キイチの行動がこの状況でかなり効果的なのが分かる。

あまり刺激するのもまずいが、ああやって適度に大げさに動けば、それだけ注意を引きつけられる。キイチはその事をわきま

えてるらしい。

俺が体育館の近くまで移動し終える間に、キイチは男と距離を置いたまま話し続け、巧みに移動しながら、男の背が完全に

俺の方を向くように、上手く誘導した。

よし…、あとは俺が上手くやらなきゃな…。

男が振り向かないよう祈りながら、こっちに顔を向けている子供にそっと手を振る。

気付いた様子を見せた子供に、俺は人差し指を立てて口に当て、静かにするように合図を送った。そのまま他の子供達を次

々と指さし、もう一度口に指を当て、それから手招きする。

これだけで伝わるか不安だったが、その子は賢かった、おずおずと周囲を見回すと、傍にいた子供の袖を小さく引っ張り、

口元に指を当てて見せ、手すりの陰から顔を覗かせた俺を指さす。その子の顔にも微かな安堵と理解したような表情が浮かん

だ。よし!良い具合だ!

子供達はそろそろと移動しながら、無言の伝言ゲームを繰り返す。キイチに注意を払っている男は、巧みに後退していくあ

いつに誘われ、少しずつ、じりじりとキイチの方へ移動して、子供達からは注意が離れてた。

なおもキイチはなるべく大きな声で話し、子供達の動きを悟らせないようにしてる。…まったく、大したヤツだよお前は…。

こんな状況で、こんなにも冷静に、完璧に自分の役割を果たして見せるんだもんな…!

子供達は静かに俺の方へと寄ってきた。幸い、男はキイチの動きに集中し、全く気付いてねぇ。

問題は…、男に捕まってるシュウ君だ…。シュウ君はキイチを信じているんだろう。身体を震わせながらも、気丈にも泣く

のを堪えてる。

待っててくれよシュウ君、すぐにキイチ兄ちゃんとサツキ兄ちゃんが助けてやるからな…。

俺は静かにしているように子供達に告げ、キイチと男の間の距離と、ここから男までの距離を測る。だいたい15メーター…、

なんとかなる距離だ。

子供達が無事に避難した事を確認すると、キイチは両手を左右に大きく広げた。

威嚇したようにでも見えたのか、男は驚いたようにシュウ君の首から包丁を離し、脇に抱え込むと、包丁の切っ先をキイチ

に向けた。あの馬鹿…!危ねぇ真似しやがって…!いきなり突っかかってったらどうすんだよ!?

だが、これはチャンスだ。今なら後ろから飛びかかってもシュウ君が傷つかねぇ。

俺は腰を浮かせ、地面の感触を確かめる。

「おにいさん!もう諦めたら?すぐに警察来ちゃうよ?」

大声で発せられるキイチの言葉が、俺の足音を消してくれる。素早く、静かに駆け出した俺は、男の背後に迫る。

「あー、でも警察が来るより先に…」

俺は後ろからシュウ君のベルトを掴み、男の手から強引に引ったくった。

「もぉ〜っと怖いのが来ちゃったかもね!」

キイチの言葉と同時に、驚いた男が首を巡らす。俺はその鼻っ柱に、遠慮なく拳骨をぶち込んでやった。



転がるように倒れた男を見下ろし、それから抱きかかえたシュウ君の様子を確かめた。

緊張が緩んだんだろう。シュウ君は俺にしがみ付き、声を上げて泣きじゃくってる。怪我は…してねぇみてぇだな…。

俺はほっと胸をなで下ろした…。よく頑張ったなぁ。偉かったぞシュウ君!

「お手柄だね、サツキ君!刑事さんみたいだったよ!」

「冗談…。二度と御免だぜ…!」

キイチのとびっきりの笑顔に苦笑いで応じた瞬間、俺の身体を衝撃が駆け抜けた。

視界が白くなったり黒くなったりして、目の前で星が散り、身体が勝手に仰け反り、手足が突っ張り、シュウ君の身体が地

面に落ちる。

何が起こったか分からねぇ内に、俺は地面に跪いてた。

なんとか視線を巡らすと、倒れたままの男の手が伸び、手に掴んだ黒い棒のような物を、俺のふくらはぎに押し当てていた。

スタンガン!?状況を理解すると同時に、自分のうかつさを呪う。包丁の他に凶器を隠し持ってる可能性を、完全に考えて

なかった!

「こ、こここ、殺す、殺して、殺してやる…!」

血走った目が、怯えて動けねぇシュウ君をひたりと見据えた。

…まずい!身体が言うことを聞かねぇ!筋肉が痙攣するばかりで、足に力が…!

キイチも男の視線に気付いた。さっとシュウ君に手を伸ばすと、背中から抱き締め、引っ張った。

くそっ!動けっ!動けよっ!でけぇばかりで肝心な時に役に立たねぇ図体め!動けってんだ畜生!

足が強ばってるのか、俺が気になったのか、キイチの膝がかくんと折れ、シュウ君と絡み合うようにして地面に膝を着く。

キイチっ!!!

男は包丁を腰溜めにし、体重をかけるようにして前に踏み出す。

ブヅッ

そんな音がした。

シュウ君を抱えたまま地面に転がったキイチが、大きく開けた口から「はぁっ…!」と、大きく息を漏らし、動きを止めた。

「さ…、さ…つき…く…」

…あぶねぇあぶねぇ…、ぎりぎりだったぜ…。

キイチは目を大きく見開き、口元を震わせながら呟く。

キイチ達を突き飛ばした俺は、膝立ちの状態で、男の身体を抱きかかえるように受け止めていた。

これが、たぶん一番確実に二人を守れる方法だと思ったんだ。

お前、ホントにすげぇよキイチ…。こんな無茶苦茶痛ぇの、5回も我慢したんだもんなぁ…。

「ひっ!」

男が怯えたような表情で俺から離れた。血で真っ赤になった手には、もう包丁はねぇ。

見下ろすと、包丁は俺の腹に刺さったままだ。刃は完全に埋まって、柄だけが見えた。

咄嗟に右腕で鳩尾辺りを庇ったが、包丁は俺の腕の下を切って、そのまま刺さって来た。

…痛ぇなぁ…。傷の周りは熱いのに、腹ん中に潜り込んだ包丁の刃が冷てぇ…。

男は怯えた様子で、ポケットをまさぐり、果物ナイフを取り出す。

…やべぇな…、痛みと電気ショックで、今度こそもう本当に身体が動かねぇ…。

「キイチ…、逃げろ…」

絞り出した声は、自分でも驚くくらいに静かで、落ち着いてた。取り乱した情けねぇ声を上げなかった事にほっとする。

「た、助けて!助けてくれ!殺さなきゃ!来るな!来るな!来るな!」

男は半狂乱になり、涙すら流しながら、そう叫んだ。その足が、一歩、また一歩と俺に近付いてくる。出血と痛みで目の前

がチカチカする。身体は…、やっぱりもう動かねぇ…。

…悔しいな…。そうぼんやりと考えた俺の前に、あいつが飛び出した。

「馬鹿野郎…、さっさと逃げねぇか…!」

俺の言葉に耳を貸さず、キイチは俺を庇うように仁王立ちになった。

全身の毛が逆立って、尻尾がピンと天を突き、その小さな背中は、とんでもなくデカく見えた。

「…赦さない…」

ぼそりと、キイチが呟いた。

「僕は、貴方を、赦さない…!」

静かな、消え入りそうな声が、怒りに震えてた。

キイチがどんな顔をしているのか俺からは見えねぇが、男は射竦められたように動きを止めた。

「僕は…、一番大事な人を傷つけた貴方を…、絶対に赦さない!」

キイチは叫ぶような声を男に叩き付けた。男はビクリと身体を竦ませると、ナイフを取り落とした。

「う、ううう、うううううううっ!」

男は怯えたように頭を抱え、地面に突っ伏して亀のように丸くなった。

その姿を見下ろしていたキイチは、ハッとしたように俺を振り返った。

「サツキ君!?」

…良かった…、キイチが刺されるような事になんなくて…。

緊張の糸が切れちまったな…。身体を支えんのもおっくうになって来た。キイチの言うとおり、ちっとはダイエットした方

がいいよな…。

足から力が抜け、横に倒れ込みながら、俺はぼ〜っとそんな事を考えた。

「サツキ君!?サツキ君っ!?」

服が血でぬめって気持ち悪ぃ…。おまけに校庭の砂がひっついちまうな…。さっさとシャワー浴びねぇと毛が固まっちまう。

残念だけど、シュウ君家にはお邪魔できねぇなこりゃ…。

あ〜…、それにしても瞼が重い…。キイチの喜ぶ顔が見たくて、張り切って早起きしたもんな…。

「ねぇ!しっかりしてよ!」

キイチの声が、頭の中でワンワン反響する。

キイチ、泣かねぇでくれよ…。怪我しなくてほっとしてるってのに、そんな風に泣かれたら、落ち着かねぇよ…。

…にしても…、うるせぇなぁこのサイレン…。パトカーか?救急車か?どっちでもいいから静かにしてくれ…。今すげぇ眠ぃ

んだ…。

「サツキ君!いやだよ!サツキ君!」

…さっきのキイチ、すごかったなぁ…。…やっぱ、きっちゃんは、かっこいい…、なぁ…。

「返事してよさっちゃん!目を開けてよぉっ!」

…ごめん…、もう、限界…。おやすみ、きっちゃん…。

「さっちゃぁぁぁぁぁん!!!」

………………。