第二十六話 「約束は守れない」
湯煙が立ち込める浴場で、広い湯船に手足を伸ばしてゆったり浸かる。
僕が今居るのは、開店前の銭湯の大浴場だ。
実は、こういう大きな湯船に入るのは初体験だったりする。
「どうだ?」
僕の隣で湯に浸かっている、頭にタオルを乗せた大柄な熊獣人が、口元を吊り上げながら興味深そうに尋ねて来た。
「うん。気持ちいいかも!」
「そか。そりゃ良かった」
僕の答えを聞いたサツキ君は、満足げに笑った。
この銭湯はサツキ君の柔道部の後輩。田貫純平君のご両親が経営している銭湯だ。
「湯加減どうですか〜?」
更衣室の磨りガラス越しに、ジュンペー君が尋ねてきた。
「良いあんばいだぜ!悪ぃな、毎度一番風呂貰っちまって!」
サツキ君が声を張り上げて応じる。
「気にしないで下さいよ〜。こっちも掃除手伝って貰ってるんですから!ネコムラ先輩、どうですか〜?」
「最高だよ!なんだかすごい贅沢してる気分!」
もちろん本音だ。同時にちょっとだけ彼に申し訳ない気分になる。
「それは良かった!初体験で銭湯嫌いになられたら、ウチの責任ですからねっ!」
ジュンペー君は笑いながら言う。まさか!嫌いになんてなる訳ないよ。銭湯は実に素晴らしい文化だ!
…まぁ、やっぱり人目が気になるから、普通に利用するのはちょっと躊躇われるけど…。
僕はお湯の中の自分の身体を見下ろす。貧相な胸や腹に5ヵ所、醜い傷痕が残っている。
サツキ君に見られるのは平気になったけれど、やっぱり他の人には見られたくない。
罪の証であるこの傷痕…、これを見てもサツキ君は嫌な顔をしない。それどころか、僕を愛撫してくれる時は、この傷痕に
舌を這わせ、愛おしげに舐めてくれる。まるで、傷を癒そうとしてくれているように…。
「そろそろ上がろうぜ」
サツキ君はそう言って立ち上がった。お湯を吸った長い被毛から、大量に湯が滴った。
湯上がりの彼は毛がぺたっと寝て、少しスリムになったように見える。…とはいえ…、
「なんだよ?」
指でお腹をつついた僕を、サツキ君は苦笑いして見下ろした。
「え?うん…、ちょっと気になって…」
答えながらもちょっと摘んでみると、手触りの良い脂肪がむにっと掴めた。
…おかしい…、規則正しい入院生活を送っていたはずなのに、なんだかまた太ったように感じる…。
とまぁ、それは置いといて…。
指で濡れた被毛をかきわけ、おヘソの上を探ってみる。
傷痕は、伸びて来た被毛に覆われて、探さないと見えないくらいになっていた。うっすらと残っている縫合痕も、じきに完
全に消えるだろう。
良かった…。元通りになって…。
「き、キイチ…」
「ん?」
顔を上げると、サツキ君は困ったような顔で僕を見つめていた。
「裸で…そ、そんな風にされると、俺…」
視線を落とすと、盛り上がったお腹の下で、ピンと自己主張している可愛い息子さんの姿…。
お腹を揉まれて感じてしまったのか、勃起しても皮を被ったままのおチンチンは、完全に臨戦態勢に入っていた。
…さすがにここじゃまずい…。酷なようだけれど、この場は我慢して貰わないと…。
「…後でね…?」
「お、おう…」
僕のお預け宣言に、サツキ君は泣きそうな顔で頷いた。
体を乾かし終え、涼んでいると、ジュンペー君が飲み物を持って来てくれた。
「なんだよ?気ぃ遣うなって」
「いいからいいから!バイト料、風呂だけじゃ割に合いませんもん」
ジュンペー君はそう言ってサツキ君にコーヒー牛乳とフルーツ牛乳を押しつける。
「なら、遠慮無く貰っとこうかな」
サツキ君は笑みを浮かべ、僕に「どっちが良い?」と差し出した。
「ありがとうジュンペー君。頂きます」
コーヒー牛乳を選び、ジュンペー君にお礼を言って蓋を開ける。そのまま飲もうとしたら、ジュンペー君に止められた。
「違いますよ。ここでの飲み方はですね…」
「ああ、そうだな。せっかくなんだから正しい作法で飲まねぇと」
正しい作法…?ジュンペー君の言葉に頷くと、サツキ君は僕の手を掴み、腰に当てさせる。…ああ、なるほど!
僕達は三人並んで、腰に手を当てて牛乳を一気飲みした。う〜ん、お風呂上がりにはまた格別!
っと、そうそう自己紹介!僕は根枯村樹市。クリーム色がかった白い被毛の猫の獣人。本日、銭湯デビューしました!
「ただいま戻りました」
午後7時。学校が休みの土曜である今日も、丸一日サツキ君の家で勉強(と、アレ)をして過ごした。
いつものように帰宅の挨拶だけ済ませ、部屋に戻ろうとした僕に、叔母さんが無言で封筒を差し出した。
茶色の薄い封筒に書いてある差出人は…、
「有り難う御座います…」
封筒を受け取り、僕は足早に自室に向かった。
封筒に記された差出人は、県の教育委員会。開封するのももどかしく、口を千切って中身を取り出す。
その中には、一通の文書が入っていた。
僕は震える手で文書を掴み、内容を読み始めた…。
『はい、阿武隈ですー』
受話器の向こうから、サツキ君のおばさんの声が聞こえた。
「こんばんは。根枯村です」
『あらネコムラ君?今日も勉強有り難うねぇ。サツキ勉強嫌いだから大変でしょう?』
「いえ、そんな事無いですよ?」
おじさんもおばさんも、僕がサツキ君の勉強を見てあげている事は知っている。…同じ学校を…目指していた事も…。
「あの…、サツキ君、居ますか?」
『ああ、ちょっと待っててね。今呼んで来るから』
受話器を置く音、それからサツキ君を呼ぶ声が、受話器の向こうで遠く聞こえた。
やがてドスドスと階段を駆け下りて、足音が近付いて来る。
『悪ぃ、待たした!何だ?何か忘れもんでもしたのか?』
…いつものサツキ君の声…。聞いていると安心するあの声だ…。
「…ねぇ。今から会えないかな?」
『ん?今から?』
聞き返したサツキ君は、一瞬黙り込んでから、口調を改めて口を開いた。
『…どうかしたのか?』
僕の声から何か感じ取ったのか、サツキ君の声が緊張を孕んだ。
「話したい、事が…」
それ以上は、言葉が続かなくなった。
察してくれたのか、サツキ君はそれ以上何も聞かず、近所の公園で待ち合わせようと言った。
受話器を置いた僕は、のろのろと玄関に向かい、靴を履いて外に出た。
どうしようもない喪失感と、悲しさに押し潰されそうになりながら…。
「おう。…どうした?」
僕が公園に着いた時には、サツキ君はすでに到着していた。
彼の家からでは結構距離があるのに…、走って来てくれたんだろう…。
「…やっぱり、何かあったんだな?」
サツキ君は僕の顔をみるなり、すぐにそう言った。
「言ってみろよ。俺にできる事なら…」
サツキ君の言葉を遮り、僕は彼に抱き付いていた。柔らかくて温かいサツキ君の抱き心地を感じても、心は軽くならなかった…。
「き、キイチ?なんだよ?どうしたんだ?」
サツキ君はオロオロしながら僕の体を抱き締め返す。
「…ごめん…」
「え?」
「ごめん…!…約束は守れない…!」
僕は、彼の胸に顔を埋めたまま、震える声で告げた…。
「…僕…、僕…!高校に…、行けなくなっちゃった…!」
「ほれ」
ベンチに腰掛け項垂れていた僕に、サツキ君が緑茶の缶を差し出した。
お礼を言って受け取ると、サツキ君は僕の隣に腰を下ろし、ため息混じりに呟いた。
「…学費かぁ…」
僕はサツキ君に、高校へ進学出来ない事情を話した。
両親も亡く、遺産等も遺されていない僕が進学するには、奨学金制度を当てにするしかなかったんだ。
でも…、申請の結果は、不可だった…。
恐らく、僕の家庭環境を調べられたんだと思う。…確かに、却下されるのも無理はない家庭環境だね…。
「なぁ。叔母さんには話したのか?」
「…話してない…。…話したところで…」
僕は今、叔母さんの家に居候している。他に親類も居ない僕には、それしか生きて行く手段が無いから。
叔母さんにとっての僕は疫病神でしかない。
殺人犯になった姉の息子であり、祖父母…、叔母さんの両親の死の原因でもある…。あてにする事自体間違ってる。
「…お前が言えねぇなら、俺がお前の叔母さんにお願いしてみる」
サツキ君はそう呟くと、コーヒーを飲み干して立ち上がった。
「お願いって…、無理だよそんなの…」
「やってみなくちゃ分かんねぇだろうが!来い!」
サツキ君は僕の腕を掴んで強引に立たせると、腕を掴んだまま歩き出した。
気持ちは嬉しいよ…。でも…。
「…無理なんだ…」
サツキ君は、僕の呟きを無視して歩き続けた。
叔母さんは、もちろんサツキ君の事は覚えていた。
「キイチの事で、お願いしたい事があります」
サツキ君の言葉と表情に、重要な話である事を感じ取ったのか、叔母さんは子供達を自室に戻らせると、居間で僕達と向か
い合った。
「アブクマ君だったわね。それで、お願いって何かしら?」
叔母さんの問いかけに、サツキ君は姿勢を正し、
「キイチを、進学させてやってくれませんか?」
叔母さんの目を真っ直ぐに見つめてそう言った。
「…何を言い出すかと思ったら…」
「私立高校の学費が高ぇ事も、相当な負担になる事も分かってるつもりです」
呆れたように呟いた叔母さんに、サツキ君はさらに言い募った。
「金なら、キイチが大人になって、稼げるようになってから返せば…」
「話にならないわね」
サツキ君の言葉を遮り、叔母さんは冷たく言い放った。
「君はぜんぜん分かってないわ。家にはね、子供が二人居るの。旦那の稼ぎもそれほど多い訳じゃないわ。自分の子供にお金
をかけるだけで手一杯よ」
「でも、キイチには今しかないんすよ!?」
食い下がるサツキ君に、叔母さんは表情を変えずに応じる。
「それは家の子も同じ、今という時間は、それぞれ今しかないのよ?」
そう、叔母さんの子供達にとっても、今という時間は今だけなんだ。
少しでも良くしてあげたい。可愛がってあげたい。そんな時に、預かっているだけの親類の子の為にお金なんてかけるだろ
うか?親なら何を置いても自分の子を可愛がるだろう。…僕の父さんのような例外を除いて…。
黙り込んだサツキ君から視線を外し、叔母さんは冷たい目で僕を眺めた。
「…卑怯ね、自分で言うことができないから、友達に頼み込んだわけ?…数少ない友達も、そうやって利用するのね?」
「違う!こいつは俺が勝手にやってる事で…」
「良いんだ。何も違わない…」
僕は声を上げたサツキ君を制した。叔母さんの言うことももっともだったから。
僕はサツキ君を止めなかった。
サツキ君に頼んで貰って、それで認められたらついている。…きっと、心の何処かでそんな風に考えていたから止めなかっ
たんだ。
サツキ君に電話したのだってそうだ。
一緒に高校に行けなくなったのを謝りたかった?そんなのは建前だ。…本当は慰めて欲しかったんだ。…そして、あわよく
ば彼になんとかして貰えないかと考えていたに違いない…。
我ながら反吐が出そうな身勝手さと浅ましさだ。…僕はまた…、サツキ君の優しさに甘えようとしていた…。
サツキ君はしばらく黙ったあと、いきなりガバッと頭を下げた。
「お願いします!キイチを、高校に行かせてやって下さい!」
「さ、サツキ君!?」
サツキ君は机の上に額を付けて、叔母さんに懇願した。
「金銭的に厳しいのは分かりました。でも、せめて高校だけは出させてやっちゃくれませんか?」
「…頭を下げれば、何でも丸く収まるなんて勘違いしてないでしょうね?」
叔母さんは冷ややかな目でサツキ君を見据えた。
「そもそも下げられる頭に価値がないのよ。それなりの立場と関係があってこそ、頭を下げる事に意味がある。いくら下げて
もただだから…、そんなので下げてるんじゃ話にならないわ」
「…サツキ君は、そんな軽いプライドの持ち主じゃありません!」
僕は叔母さんを睨んだ。心証を悪くしないように黙ってたけど、もう我慢できない…!
「叔母さんは…、サツキ君の事を何も知らないくせに…!サツキ君の頭は安っぽくなんかない!頭を下げなければならない所
で、躊躇いなく下げられる心構えができてるんだ!体面ばかり気にして、下げる頭も取引道具にしかできない人達とは違う!」
「…キイチ…!」
サツキ君は顔を上げ、驚いたように僕を見つめた。…僕だって驚いてる…。叔母さんに食って掛かるなんて、覚えてる限り
初めてだった…。
「立派なものね」
叔母さんは冷ややかな目で僕を見つめ、笑みを浮かべた。…冷たい微笑だ。
「そんな立派な友達を、利用しようとしたのね?」
…そう、結局そうだ…。叔母さんに腹を立てたけれど、もとを辿れば僕がサツキ君に頭を下げさせたんだ…。
「サツキ君。もう良いよ…。ごめんね?そして、ありがとう…」
「良くねぇよ!お前…、こんなんで諦めちまうのか!?」
微笑みかけた僕に、サツキ君は歯を剥き出しにして声を上げた。
「諦めたくないよ…。でも、仕方ない事って、やっぱりあるんだ」
僕は立ち上がり、サツキ君を促した。
これ以上話しても無駄だ。叔母さんを説得するなんて、元々望みなんか無かったんだし…。
でも、サツキ君は腰を上げようとはしなかった。
「もっかいお願いします。キイチを…」
「くどいわ。そのつもりは無いの。そもそも、どうして他人の為に、家の子の為のお金を使わなくちゃいけないのかしら?」
「…他人…?」
サツキ君はぽかんと口を開けた。
「待ってくれよ。キイチはあんたの姉さんの子供だろ?他人って…」
「例えば君は、殺人者を兄弟と認められる?」
なんでもない事のようにさらっと言った叔母さんに、サツキ君はショックを受けたように目を見開いた。
「そ、そいつは…、キイチのお袋さんの事か…?」
少し掠れた声で言ったサツキ君に、叔母さんはちょっと驚いたように眉を上げた。
「あら、そこまでは聞いていたの…?そこそこ信用してるのかしらね?」
サツキ君は拳を握り込み、声を震わせた。
「そんな…、その事は、キイチは悪くねぇ!」
「確かに、その子は悪くないかもしれないわね」
「だったら…」
「でも、結果的に私の両親は、そこに居る殺人者の子供のせいで死んだのよ」
静かな、でも、深い憎悪を湛えた声で、叔母さんは呟いた。
「違う!そりゃマスコミのヤツらや、近所の連中がじいさんとばあさんを追い詰めたせいで、キイチ自身にゃ責任はねぇだろ!?」
「責任はあるわ。その子が火種を持ち込んだ…。その子はね、私にとって疫病神以外の何でもないのよ」
ドガンッ!と、激しい音がした。
分厚い、頑丈なテーブルが、真ん中からひしゃげて真っ二つになっていた。
「さ、サツキ君…」
拳を思い切り叩き付けてテーブルをへし折ったサツキ君は、肩を震わせ、歯を食い縛り、鼻から荒い息を漏らしながら叔母
さんを睨み付ける。
鼻面に皺が寄り、鋭い犬歯が剥き出しになり、全身の被毛が逆立って、体全体が膨れ上がったように見える。
「…疫病神だと…?」
サツキ君は、本気で怒っていた。
彼は元々我慢強い。心底怒る事なんて滅多にない。彼が怒った所なんて数えるくらいしか見たことはないけれど、ここまで
本気で怒っているのを見たのは初めてだった…。
その凄まじい剣幕を目の当たりにし、蒼白になって固まっている叔母さんに向けて、サツキ君は震える声で呟くように言った。
「キイチ自身だって被害者じゃねぇか…。こいつにゃ、残った血縁なんてあんたしか居ねぇんだろ?頼れる親戚なんてあんた
しか居ねぇんだろ!?なのになんで…、なんでもっと優しくしてやれねぇんだっ!?」
放っておけば叔母さんに掴み掛かり兼ねない剣幕のサツキ君に、僕は慌てて取り縋った。
「止めてサツキ君!良いんだ!僕はもう良いから!」
まだ興奮しているサツキ君は、僕に顔を向けようともしない。
「君が怒る事なんてないんだ!叔母さんの言うとおり、僕が悪いんだから!だからもう…」
涙が零れた。
哀しかった。分かりきっていた事なのに、面と向かって疫病神と言われた事が。
嬉しかった。サツキ君が僕の為に頭まで下げて、真剣に頼み込んでくれた事が。
申し訳なかった。サツキ君を本気で怒らせてしまった事が…。
サツキ君は僕に音が聞こえるほど歯を食い縛り、叔母さんに向けていた視線を無理矢理剥がした。
「…行くぞキイチ。我慢してまでこんな家に居る事はねぇ」
サツキ君は立ち上がると、僕の腕を掴み、強引に引っ張って歩き出した。そして、居間を出る時に一度だけ振り返り、静か
に呟く。
「…テーブル壊して、済んませんでした。…あとで詫びに来ます…」
まだショックが抜けず、固まったままの叔母さんに向けられたその声と顔からは、赫怒の色は消えている。
ただ、哀れむような目で、叔母さんを一瞥しただけだった。
なんとなく分かった。サツキ君は、叔母さんもまた被害者である事を理解しているんだ。
「…誰を憎めばいいのよ…、私は…!」
玄関に向かう僕達の背に、叔母さんの呟きと、啜り泣きが追い縋って来た…。
「…悪ぃ…」
家を出てしばらく歩いた後、サツキ君はポツリとそう言った。
「いまさらだけど…、俺、まずい事しちまったな…」
落ち着きを取り戻したサツキ君は、すっかりしょげかえっていた。
たぶん、叔母さんを怒鳴りつけた事で、僕の立場を悪くしてしまったと思ってるんだろう。
「つい、カーッと血が昇っちまって…。済まねぇ…」
「良いんだ。僕だって、サツキ君を馬鹿にする家族なんて要らない」
僕は気楽な口調でそう言ってから、冗談めかして付け加える。
「もともと、家族なんて思われてなかった僕が言うのもなんだけどね」
「…ほんとに悪ぃ…」
サツキ君はまた謝り、ため息をついてから続けた。
「とりあえず俺ん家に来いよ。親父とお袋には俺が説明するからさ」
「え?い、いいよ。もう遅いし…」
「いいから来い。…あんな家にお前を置いとくのは、…嫌だよ…」
お邪魔するのは気が引けたけれど、本音ではもちろん帰りたくなんてなかった。それを見透かしたように、サツキ君は強引
に手を引いて、僕を家まで連れて行った。
「…っとまぁそういう訳だ…」
サツキ君は、僕達とテーブルを挟んで向かい合ったおじさんとおばさんに、叔母さんの家での出来事を話して聞かせた。
僕の家の詳しい事情は抜きにして、両親が居ないという事と、叔母さんの家に居候しているという事を説明し、僕は叔母さ
んの家では厄介者として扱われているのだと、サツキ君は両親に訴えた。
「俺のせいでなおさら居辛くしちまったんだ…。だからよ…」
サツキ君は困ったように眉根を寄せて項垂れた。
「しばらくの間、キイチをウチに置いてやれねぇかな?」
…え…?
意表を突かれて、僕は傍らの大熊の横顔を見た。
…今…、何て…?
頭を下げ、サツキ君はおじさんとおばさんに頼み込んだ。
「俺の飯の量減らしてくれて構わねぇし、飯の仕度も今までより手伝うからよ…」
サツキ君の言葉を聞いたおじさんは、
ゴスンっ!
「いぃってぇええええええええっ!!!」
何も言わずに身を乗り出し、サツキ君の頭にでっかい拳骨を落とした。
「この馬鹿野郎が!」
おじさんは鼻息も荒く、頭を抱えたサツキ君を睨んだ。
「す、済みません!悪いのは僕なんです!サツキ君は僕のために…」
「ネコムラ君は気にしないでいいのよ。うちのドラ息子が話をややこしくしちゃったんだから」
慌てて謝った僕に、呆れ顔でサツキ君を見つめていたおばさんが笑いかけた。
「まったく!人様の家のテーブルをぶっ壊すとはどういう了見だ!?どんな理由があったにしても、一家団欒の中心を叩き壊
すなんぞ、許されねぇ暴挙だ!」
おじさんは眉間に皺を寄せて怒っ…、え?怒るとこってそこなんですか?
「お前が壊したテーブル弁償する金が有りゃ、ネコムラ君の新しいベッド買えんだぞ!?」
………え?
「親父…?それじゃあ…!」
「人様ん家で暴れたのは褒められたもんじゃねぇが、ダチの為にキレたんなら大目に見てやる」
驚き半分、喜び半分で顔を窺うサツキ君に、おじさんは表情を緩めてニカッと笑った。
「随分世話になってるし、飯と寝床だけじゃ恩返しにゃ足りねぇぐれぇだ。ただし、サツキと相部屋になるのはカンベンして
貰わなきゃいけねぇけどな」
「そうね。今日の所は我慢して貰うとして、ベッドと机は明日にでも用意しなきゃいけないわね」
サツキ君は嬉しそうに耳を伏せた。
「親父…!お袋…!ありがとう!」
嬉しくて、申し訳なくて、僕はおじさんとおばさんに深々と頭を下げた。
「…有り難う…、御座いますっ…!」
僕は、不覚にも泣いてしまった。
…そしてもう、これ以上おじさん達に黙っているのは、止める事にした。
「おじさん、おばさん…。実は今まで、隠していた事があります…」
サツキ君は僕が言おうとしている事が何なのか勘付いたらしく、驚いたように僕を見た。
「実は、僕…」
この夜僕は、自分が森野辺樹市である事を、おじさんとおばさんに打ち明けた。
「悪ぃけど、今日のとこは俺のベッドで我慢してくれ」
床の上に布団を敷きながらサツキ君が言った。
「え?良いよ。僕が布団で寝るから…」
「駄目だ。この布団薄いから体が痛くなるぜ?」
サツキ君は遠慮する僕をひょいっと持ち上げ、ベッドの上に乗せる。
…まるで子供扱い…。まぁそれに近い体格差はあるけど…。
「さぁて、嫌な事は寝て忘れちまえ!」
笑顔で言うと、彼は灯りを落とし、部屋を暗くした。
「おやすみ、キイチ」
「うん。おやすみ、サツキ君」
僕は大きなベッドに潜り込み、天井を見上げる。
…夢みたいだ。サツキ君と同じ部屋で眠るなんて…。
布団からサツキ君の匂いがする…。なんだか、サツキ君に抱き締められて寝てるような錯覚に陥る…。
……………。
「…ねぇ、サツキ君…」
「…ん?」
「色んな事が一杯あって…、一つ言い忘れてた…」
「なんだ?」
「…僕の為に怒ってくれて、ありがとう。そしてごめんね…。君は優しいから、本当は誰かに怒ったりとか、したくないんだ
よね…」
「……………」
暗がりの中で、サツキ君は鼻の頭を掻いているようだった。
「ありがとう…。大好きだよ、さっちゃん…」
「…俺も…、…うん…」
恥ずかしいのか、サツキ君は口の中でごもごもと呟いた。
「ねぇ。…その…、一緒に、ベッドで寝てくれない?」
「え?い、いやそりゃあ…」
…不安なんだ…。僕、これからどうなるのか、どうすればいいのか分からない…。
だから、僕が何処にも行ってしまわないように、しっかり抱き締めていて欲しいんだ…。
「…お願い…」
僕の懇願に、サツキ君は沈黙した。それからしばらくして、身を起こす音が聞こえた。
「…俺、あんまり寝相良くねぇぞ…?」
「うん。わがまま言ってごめん…」
「…気にすんな…」
僕が脇に詰めると、サツキ君は遠慮がちに布団に入ってきた。
そして、僕の気持ちが分かったかのように、優しく、でもしっかりと抱き締めてくれた。
「ありがとう。おやすみ、さっちゃん…」
「ああ。おやすみ、きっちゃん」
僕はサツキ君の匂いに包まれたまま、不安を忘れて眠りに落ちた。
翌日の日曜。僕はおじさんに付き添われ、叔母さんの家に荷物を取りに行った。
サツキ君も同行したがったけれど、話をややこしくするからと留守番を命じられ、現在は自室を片付け中。もともと片付い
てる部屋だから、それほどの作業じゃないらしいけど。
僕達と向かい合った叔母さんは硬い表情を浮かべ、目が赤くなっていた。
…きっと、サツキ君の真っ直ぐな言葉をぶつけられて、昨夜はずっと泣いていたんだろう…。
肉親を喪って、誰かを恨みたくなる気持ちは分かる。僕だって随分色んなものを恨んだし呪った。そのうち疲れて、飽きち
ゃったけれどね…。
叔母さんにとって恨める相手は僕しか居なかったんだ。そう分かっていたからこれまで我慢できたのかもしれないな…。
叔母さんはおじさんの謝罪を黙って受け入れたし、僕が家を出ることにも反対しなかった。引き止められたらどうしような
んて、少しだけ考えていたんだけれど、やっぱり要らない心配だったみたい。
テーブルの代金は結構したけれど、おじさんは嫌な顔一つしないでお金を出してくれた。
僕が使っていた家具はみんな叔母さん夫婦の物だから、衣類と本、他には学校用品や日用品ぐらいしか持って行く物はない。
改めて確認してみたら、僕の荷物は自分でも驚くほど少なかった。
けれど、そんなのは全然気にならない。
だって僕には、何物にも代えられない、サツキ君という大きな存在が居るから…。