第二十八話 「大きな幸せ」

僕は東護中三年の根枯村樹市。クリーム色がかった白い被毛の猫の獣人。

「どしたキイチ?」

シャツとパンツだけで体重計に乗り、目盛りを見て目を擦っていた僕に、サツキ君が声をかけてきた。

ここはサツキ君の柔道部の後輩、ジュンペー君の家でやっている銭湯。

とある事情により他人に裸を見られたくない僕は、時折サツキ君に連れられてこの銭湯にやってきて、開店前の掃除を手伝っ

て、その報酬みたいな感じでお客さんが来ないうちに使わせて貰ってるんだ。

「どうしたんです?深刻な顔で体重計なんか見つめて…、サツキ先輩じゃあるまいし」

ジュンペー君も不思議の思ったのか、首を傾げながら僕の所にやってきた。

「…2キロ増えた…」

僕がポツリと漏らしたら、サツキ君が声を上げて笑った。

「なんでぇ2キロぐれぇ。誤差だろそんなの?」

それはまあ、170キロを超える君からすればそうだろうけれど、2キロって僕からすれば5%にもなるんだよ?

「サツキ君の家に行く前日と比べてだよ?」

「って事は…、10日でですか?一体何をどれだけ食べさせられてるんです?」

「料理は色々バランス良く…、ただ、量が半端じゃないけれど…」

「え?ウチのせいなのか?」

サツキ君が困ったように頭を掻く。

「そんな顔しないでよ、嬉しいんだから」

僕は笑いながら彼を振り返った。

身長も体重も、小学校の四年生からほとんど増えなくなっていた。こんなに急に増えるなんて想像もしてなかったから、ちょ

っと驚いたけれど、嬉しかった…!

「そういえばキイチ…」

お風呂上がりで、腰にタオルを巻いただけのサツキ君は、首を傾げながら傍に来て顔を覗き込み、僕の頭の上に手を置いた。

「お前、背ぇ伸びたんじゃねぇか?」

「え?」

「いや、なんとなくだけどよ、改めて見たら夏休みの頃に比べて、少し伸びたような気がすんだけど…」

全く自覚が無かった僕は、傍にあった身長計を使ってみた。

「141センチですね」

「なんですって!?」

ジュンペー君の口にした数字に、僕は思わず丁寧に聞き直していた。

「俺とつるみ始めた頃、133って言ってなかったか?」

「…うん。7月末に保健室で計ってみた時はそう…」

つまり、五ヶ月足らずで8センチも伸びた事になる。全然気付かなかった…。

「すごいですね!もしかして、今まさに身長が伸びるピークなんじゃ!?」

ジュンペー君が驚いたように言った。

…身長が伸びるピーク…。本当にそうだろうか?

成長が遅れだしたのは、あの事件からだ…。

成長の遅れには、たぶん心理的なものも影響していると思う。

そして、身長が急に伸び始めたのは、少なくともサツキ君と一緒に過ごすようになった後…。もしかして…?

僕はニコニコしているサツキ君の顔をちらりと見て考える。

サツキ君と一緒に過ごす事で、心の傷が癒されていた。それで体も成長を再開した…?

「なんだよじっと見て?俺の顔になんかついてんのか?」

サツキ君は僕の顔を不思議そうに見つめ、顔を拭った。

「ううん。なんでもないっ!」

僕がとびっきりの笑顔で応じると、サツキ君とジュンペー君は顔を見合わせ、首を捻った。

本当に、何から何までありがとうだね、さっちゃん!



きりの良い所まで進んだので、僕は顔を上げ、時計を見た。時刻は夜の10時半だ。

「そろそろ遅いし、今日はこのくらいにしておこうか」

「だぁ〜…疲れたぁ〜!」

サツキ君は大きく伸びをすると、そのまま仰向けに体を投げ出した。

明日からはいよいよ期末テスト。僕達は出題範囲におおよその目星をつけ、おそらくここ、という範囲に絞って追い込みを

かけていたところ。

「頼むから休憩抜きで2時間ぶっ続けとか勘弁してくれよぉ〜…」

「集中力の持続トレーニングでもあるんだから、我慢我慢」

情けない声を上げたサツキ君にそう応じ、僕は二人分の勉強道具を片付け始めた。

8時半にお風呂から上がってきて、それから休憩抜きでみっちり英語の勉強をしたんだけど、少々堪えたらしい。でもまぁ、

明日からなんだから我慢して貰わなくちゃ。

折りたたみ式のテーブルを片付けた僕達は、パジャマに着替え始めた。

先に着替え終えた僕は、ズボンだけ穿き、体を捻って柔軟運動をしているサツキ君に視線を向ける。

ゴムで締まったズボンの上に、ポコッと出てるお腹が乗っかる感じになっていた。

体重増加を気にしているような口ぶりながら、彼が痩せようとしている気配は全くない。

 …まぁ、僕も少し太めのままの方が良いとは思うんだけれどね…。

「なんだよ?じっと見たりして?」

動きを止めたサツキ君が、訝しげに僕を見返す。僕は笑みを浮かべ、サツキ君に抱き付いた。

「おいおい。なんだよ?」

サツキ君は苦笑しながら僕の背中を手で叩いた。

「ふふ…。さっちゃん、大好きっ!」

「あ?なんだよ急に?」

戸惑っているような、驚いているような、そして照れているような顔で、サツキ君は僕の顔を見下ろす。

「ありがとう、さっちゃん!」

「…?だから何がだよ?」

お礼だけ言ったら、サツキ君は顔中に疑問符をくっつけて首を傾げた。



三日間の試験を終え、テストの答案を返されたその日、家に帰るなり、サツキ君は答案用紙を広げ、微妙な表情で眺め始めた。

「…俺、どうかしちまったんじゃねぇのか?」

「あはは!どうしたのさ急に?」

サツキ君は顔を顰めながら、平均70点を取った答案用紙を睨む。

「…信じらんねぇ…。エコジマじゃねぇけど、自分でも知らねぇ内にカンニングとかしてたんじゃねぇだろうな俺?」

「もう…、素直に喜ぶの!努力の成果なんだから。ほら胸張って!」

僕の言葉にも、サツキ君は微妙に半笑い。

「俺、夢でも見てんじゃねぇ?」

「大丈夫。現実だから」

…まったく。点数上がったんだから、もうちょっと素直に喜べばいいのに…。

僕は思わず苦笑しながらそう思った。



その夜。おじさんとおばさんは大騒ぎだった。

おじさんの口からはカンニング説まで飛び出した。…息子さんの努力の賜ですよ…?信じてあげて下さい…。

「きっちゃんは満点が7つもあるのねぇ。本当に凄いわぁ」

「おお〜、サツキの勉強見てくれてた上にこれとは、やっぱ違うなぁ!偉いなぁきっちゃんは!」

おじさんとおばさんは僕を褒めてくれた。

テストの点数で褒められるなんて何年ぶりだろう?いや、それ以前に、誰かに褒めて貰うのなんて随分久しぶりだ…。おじ

いさんやおばあさんが生きていた時以来かな…。

「ど、どうしたきっちゃん?」

おじさんはおろおろとして僕を見つめた。

「え?あ…、や、やだなぁ!褒めて貰うのなんて久しぶりだから、何だか嬉しくて…。す、済みません…」

僕は笑いながら、目尻から零れた涙を拭った。



「そっか。褒められる嬉しさかぁ…」

寝支度を整え、ベッドの上で仰向けになったサツキ君が納得顔で頷いた。

「改めて言われてみねぇと分かんねぇもんだよなぁ…。俺達にゃ、そういう小さな幸せが当たり前になり過ぎてんだろうな。

キイチにはいろんな事を気付かされてばっかだ」

「僕もすっかり忘れてたよ。褒められる事が、こんなに嬉しい事だったなんて」

彼に背を向けてベッドに腰掛けた僕はそう応じた。

「ま、俺もテストの点数で褒められた事なんて、キイチに勉強教えて貰うようになるまで無かったんだけどな」

サツキ君はそう言って笑うと、僕の肩を掴んで引っ張った。僕は無抵抗にサツキ君の胸に倒れかかる。

「そういや、お礼がまだだったよな」

「お礼?」

「おう。自己最高点を取らせて貰った礼」

そう言うと、サツキ君はニカッと笑い、体をずらした。

ベッドの上に仰向けになった僕に、サツキ君は覆い被さるようにして唇を重ねてきた。

「俺なりのお礼ってヤツ、気持ちよくしてやるよ。最近、俺も結構上手くなったろ?」

「気にしなくて良いのに…」

苦笑した僕のパジャマのボタンを外すと、サツキ君は僕の胸に顔を寄せ、傷痕に舌を這わせた。

…いつもそう。僕を愛撫してくれる時は、サツキ君は僕の醜い傷痕を、愛しそうに舐め、撫で、さする。まるで、傷を消そ

うとするように、そして、傷痕すらも愛していると言うように…。

彼の舌が立てる湿った音を聞きながら、僕はぼんやりと考えた。

もしもこの傷痕が消えたとしたら、僕はサツキ君と一緒に何処にでも行けるようになる。

今だって以前とは比べ物にならないほど幸せなのに、まだ僕は高望みしているのか…。

人はどんな事にも慣れてゆく生き物だと言うけれど、幸せにも慣れれば、またすぐそれ以上の物が欲しくなるんだね…。本

当に、人の欲望っていうのは限りが無いな…。

「なんだよ?難しい顔して?」

サツキ君は僕の顔を見つめ、首を傾げた。

「もしかして…、あんまり気持ちよくねぇか?」

「そんな事ないよ。ただちょっと、幸せを噛み締めてただけ」

「幸せ?」

僕はサツキ君の顔を見つめ、頷いた。自然に口元が綻ぶ。

「うん。君が一緒に居てくれる幸せ」

そう、大きな幸せがここに居る。これ以上望めない幸せが僕の傍に居てくれる。この事にだけは、慣れはしても、決して飽

きる事なんてない。

サツキ君は一瞬目を丸くした後、ぎこちなく顔を下げて再び僕の胸を舐め始めた。

おやおや照れちゃって…、かわいいなぁ。



その翌日。一人で学校から帰った僕は、サツキ君の部屋から窓の外を眺め、ため息をついた。

ん?サツキ君?今日は寄るところがあるからって言って、教室前で別れたんだ。

最近はずっと一緒に居るから、僕達が別々に帰るのは珍しい。傍らにあの大きな体がないだけで、見晴らしが良過ぎてなん

だか落ち着かないな。

二学期も残すところ数日。

もうじき今年も終わり、あと一ヶ月と少しで星陵の推薦入試だ。

…しかし…、奨学金の申請が通らなかった今、僕には進学して、高校生活を送るだけのお金は無い…。

実は、サツキ君のおじさんとおばさんから、学費を出してくれると話があった。

蓄えがあるから、二人分の学費ぐらいなんとでもなる。とおじさんは言っていたけれど、それはたぶんサツキ君の進学と、

その後の事に備えて貯金しておいた分だろう。

居候させて貰っている上に、そんな事までお願いするのはあまりにも心苦しい…。でも、こんな状況では何も打てる手がな

い…。自分が何の後ろ盾も無い中学生に過ぎないって事を、今更ながら自覚する。…つくづく無力だな、僕は…。

再びため息をつくと、玄関から「ただいま〜!」と元気な声がした。次いでドシドシと階段を上って来る足音。

「ただいま!」

「おかえり」

ドアを開けたサツキ君は、なんだか凄く嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「何かあったの?」

「喜べキイチ!何も心配いらなかったんだよ!」

はい?彼が何を言っているのかさっぱり分からない。

「お前、叔母さんの許可なんか無くたって、養子になれんだよ!」

サツキ君はそう言うと、鞄を開けて紙を取り出した。

それは細かい文字が印字されたコピー用紙や、何かが書き込まれたルーズリーフ。

「養子縁組の方法とか、なんとか抜け穴ねぇもんかと思ってよ。俺なりに図書館で調べてみようと思ったんだ。そしたら偶然

シンジョウと会ってな、なにやら昔の事件について調べに来てたらしいんだが…っと…それは置いとくか…」

興奮した様子で話していたサツキ君は、一度言葉を切ると、机の上に紙を広げた。

「あいつ、壁新聞なんかやってるせいか、法律なんかにも詳しいみてぇでな、調べるの手伝ってくれたんだ。もちろん、お前

の事だってのは伏せといたんだが…」

サツキ君は微妙な表情を浮かべた。

「彼女、勘がいいからね…。気付いてたりして…」

「一応、他言しねぇように言っといたが、ちっと迂闊だったか?」

「いや、良いよ。明日改めて黙っててくれるように僕からも頼んでみる。…それで?」

「おう。で、シンジョウの身近に似たようなケースがあったんだと、それであいつが気付いてくれたんだが、普通のヤツ、契

約型とかいう養子縁組は…、これ見てくれ」

僕は促されるまま、サツキ君が示した条文のコピーを読む。そこには…、

「…本人が15歳未満である場合は…法定代理人が本人に代わって縁組の承諾をする…」

「おう。つまりお前の場合はもう15になってるから、叔母さんの許可なんぞ必要ねぇんだ。でもって、後はここんとこ…」

サツキ君はさらに別のコピーを示した。

「養子が未成年者である場合…」

僕はそこに記してある養子縁組の成立条件をじっくりと読む。

「未成年の場合は、家庭裁判所の許可が必要…。…そうか…、そうだったんだ…」

自分が勘違いして覚えていた事に気付いた。未成年の場合という部分のくだりと、誰の許可が必要かというところについて、

僕はごちゃまぜに覚えてしまっていたんだ。

だからてっきり「未成年だから、後見人である叔母さんの許可が必要」って思い込んでた…。ほんと、自分の事となると冷

静さを失うものだね…。

「な?これなら養子縁組の手続きできるんだろ?」

「…うん。できる…!」

サツキ君は僕のわきの下に手を入れて、ヒョイッと抱き上げた。子供が高い高いされてるような、あんな感じ。

「やった!良かったなぁキイチ!これなら叔母さんなんかに頼まねぇで済む!」

嬉しそうにそう言うと、サツキ君は僕をギュッと抱きしめてくれた。

本当に嬉しそうだったから、思わず僕も笑い出してしまった。

…サツキ君は気付いていないようだし、あえて伝えるべき事でもないけれど、養子縁組をするという事はつまり、僕は根枯

村の家とは縁を切るという事になる。

…僕には、根枯村の名に未練なんてない。もう僕が居るべき家ではないんだから。

…ただ、こんな僕を受け入れてくれるイヌイ君のご両親に、ご迷惑をかける事になるのが心苦しいけれど…。

「なんだよ黙り込んで?」

サツキ君にそう言われて、僕は慌てて言い繕った。

「いやほら、養子縁組が上手くいったら、サツキ君と一緒の部屋で過ごせなくなるなぁ、なんて、あははっ」

…あ…。

言ってからでなんだけれど、たった今気が付いた。

僕達は抱き合ったまま顔を見合わせ、しばらく黙り込む。

「…ま、まぁ…、ちっと残念だけど、しょうがねぇやな」

「…うん…」

「今の状況が特別なんだしよ…」

「そうだね…」

「そ、そんな顔すんなって!住む家が別々だなんて当り前の事だしよ!それに、家だって今までよりは近くなるし!」

「そ…、そうだよね!うん。今までよりも近所になるんだ!」

僕達はちょっと乾いた、おかしな笑い声を上げた。

う〜ん…。残念だけど、仕方ないんだよね…。サツキ君の言うとおり、この状況の方が特殊なんだし…。

…でも、サツキ君との同棲生活、もう少し続けたかったかな…。

いや、まだチャンスはある。ちゃんと高校に進学さえできれば…。

「…だって、星陵に進んで寮に入れば…」

「寮?」

思わず洩らした呟きに、サツキ君は驚いたような顔をした。

「寮って何だ?」

「え?寮だよ?学生寮…」

サツキ君はしばらくぽかんとした顔で僕を見つめた後、「だはははは…」と、恥ずかしそうに笑った。

「そうだよな、通えるような距離じゃねぇし、そりゃあ寮や下宿になんだよな…。いやぁ、その辺の事は全然考えてもみなかった」

「しっかりしてよねぇ」

僕達は顔を見合わせ、今度こそ本当に笑い声を上げた。

「そっかそっか。同じ寮で暮らせば、部屋の行き来なんて簡単だもんなぁ」

「そういう事。もちろん、しっかり勉強して合格しなきゃないけれどね?」

「…ん…。努力する…」

ボクの言葉に、サツキ君は苦笑しながら耳をペタッと伏せた。

まぁ、このまま行けば試験は問題ないと思う。だってサツキ君、今回の期末テストは学年で上の方だったもん!

ちゃんと勉強すればこうして結果が出るんだから、教え甲斐あるなぁほんと。

…後は勉強嫌いさえ治れば、僕も御役御免なんだけどねぇ…。



その日の夜、僕はおじさんとおばさんに、イヌイ君のご両親から養子にならないかともちかけられていた事を話した。

昔から親しくつきあっている事もあって、おじさんもおばさんも賛成してくれた。

そして、僕は皆が見ている前で、イヌイ君の家に電話をかけたんだ。



「こうして一同に会するのは、あの事件の時以来ですね」

サツキ君の家の居間に集まった顔ぶれを見て、イヌイのおじさんが微苦笑した。

「まぁ、何かねぇと集まる機会なんぞねぇですからね」

サツキ君のおじさんも苦笑いした。

イヌイ君のご両親は、僕からの電話を受けてすぐにやってきた。

養子にして貰いたいという事を僕の口から伝えたら、二人ともとても喜んでくれた。

でも僕は、これから迷惑をかける事になるのを考えると、素直に喜んでいいものかどうか、複雑な気分だ…。

大人達は、僕が養子になるまでに必要な手続きや、それまでの僕の生活と、今後の僕の進路について話し合った。

その中で僕は、星陵への推薦を受けられた事、でも奨学金の申請が通らなかったので、進学を諦めかけていた事なども全て

話した。

「進学の事は心配いらないのよ?きっちゃんの好きなようにしていいんだから」

「ああ。養子になったからと言って、君を家に縛り付けるつもりは無い。元々、私達はケントに対しても放任主義だったからね」

イヌイ君のご両親は、そう言って理解を示してくれた。

「正直、あの事件で再会しなければ…、いや、君が犯人の前に立ち塞がって、身を挺してさっちゃんを守ったという話を聞か

なければ、私達も養子の事なんて考えなかっただろう」

「ええ、さっちゃんには悪いけれど、きっちゃんの取った行動というのが、どうにも昔のケントを思い出させて仕方なかったのよ」

サツキ君は居心地悪そうに身じろぎした。

二人はサツキ君がまだ泣き虫だった頃、いつも傍で守ってあげていた、幼い頃のイヌイ君の事を思い出したのだという。

「二人とも大変な目にあったけれど、あの事件が私達全員を、また一同に集める事になったんだね…」

感慨深そうに言ったイヌイ君のおじさんに、全員が頷いた。

「まぁ、何にせよめでてぇ事だ。ウチとしても、きっちゃんはサツキの兄弟みてぇなもんだと思ってる。もちろん幸せになっ

て貰いてぇ」

「その点についてはお任せ下さい。正直なところあまり自覚はしていなかったのですが、ケントを喪った穴は想像以上に大き

かったようで…、きっちゃんに話をもちかけて以降、夫婦そろってあれこれと空想して過ごしていました」

イヌイ君のおじさんはふと寂しげな笑みを浮かべた。

「お恥ずかしい事ですが、きっちゃんと再会し、三人が幼かった頃の話をして笑いあうようになってから気付きました。ケン

トが居なくなって以来、二人で笑いながら話をする事など、ほとんど無くなっていた事に…。無意識の内に、ケントの事を話

すのを避けていたのです。自分達が辛いからといって思い出してやらないなどと…、親として、あまりにも未熟でしたね…」

イヌイ君のおじさんはそう言って、寂しそうに笑った。

すると、それまでずっと黙っていたサツキ君のおばさんが、優しい口調で言った。

「私達だって、親であると同時に、また一人の人です。辛いことがあれば目を背けたくもなりますよ。それでも、それに気付

かれたイヌイさんは、ご立派だと思います」

「…そう言って貰えると、いくらか救われます」

イヌイ君のご両親は、顔を見合わせて小さく笑った。



その夜の長い話し合いで、いくつかの事が決まった。

まず、法的には許可を求める必要はないけれど、叔母さんには一応承諾して貰おうという話になり、イヌイ君のご両親とサ

ツキ君のおじさんが、僕と一緒に挨拶に行く事になった。

それから、養子縁組の手続き後、戸籍の修正を届け出るのは、僕の中学卒業を待ってからという話になった。

在学途中で名字が変わり、周囲の目を引くのも嫌だろうとの、おじさん達の配慮によるものだ。

そんな所にまで気を遣ってくれたのが、本当に申し訳なくて、嬉しかった…。

「それで、いつから家に住めるかということだけれど…」

「あの、その事についてですが、一つお願いしたい事が…」

イヌイ君のおじさんの言葉を遮り、僕は養子縁組ができると知ってから、ずっと考えていた事を伝えた。

「サツキ君のおじさんとおばさんにも、ご迷惑をかけてしまう事になるんですけれど…」

「おう、なんだい改まって?」

口ごもった僕を、サツキ君のおじさんが促した。

「受験の結果が出る二月の初めまで、このままで居させて貰えないでしょうか?」

「そりゃあ、ウチは構わんが…、イヌイさんトコはどうです?」

「私達も構いませんよ。手続きにかかる時間もあるし、少し部屋の準備もあるし…」

「でも、どうしてなのきっちゃん?イヌイさんちも、少しでも早く貴方と暮らしたいでしょうに…」

サツキ君のおばさんに問われ、僕はここに留まりたかった理由を口にする。

「身勝手なお願いになりますけど、サツキ君の受験の結果が出るまで、一緒に居たいんです。サツキ君が星陵を目指すのは、

僕のお願いでもあるし、少し自惚れますけど、ここまで勉強を見させて貰った責任もあります。だから結果が出るまで…、最

悪、受験に失敗したとしても、二次募集の勉強が済むまで、一緒に居たいんです」

「…うわぁ…、本人前にしてはっきり言うなぁおい…」

サツキ君が顔を顰めて呟いた。二次募集まで行くとはあまり思ってないよ?念には念をってだけ。

「話は分かった。ウチとしても断る理由なんぞねぇ。むしろ大歓迎だよ!」

「ええ、大助かりだわ!」

「それで良いと思いますわ。今大事なのは、きっちゃんとさっちゃんの進学ですものね」

「ええ、私達もそれで構いません」

サツキ君のご両親と、イヌイ君のご両親はそう言って賛成してくれた。

「ありがとう御座います」

かしこまってお礼を言った僕に、イヌイ君のおじさんが微笑みながら言った。

「一応断っておこう。私達は君をケントの代わりだなんて思っていない。もちろん、親子の関係になりたいとは願っているけ

れど、それは時間をかけて、ゆっくりでいい。まず当面は君の生活を後押ししてあげる所から始めたいと、そう思っている」

「…親子の関係…」

呟いた僕を、サツキ君が肘でつついた。

「なんだよ?もうちっと素直に喜べって!」

「でも…、僕なんかが、本当に家族を持って良いのかな?」

皆が口を閉ざし、僕の言葉に耳を傾けた。

「だって…、僕はお母さんを死なせてしまった…。おじいさんとおばあさんも僕のせいで死んだ…。僕なんかが…、新しい家

族と一緒に暮らしていいのかな?僕なんかが…、幸せになっていいのかな?」

しばらくの沈黙の後、サツキ君が口を開いた。

「…バカじゃねぇのかお前?今更何言ってやがる!」

呆れたような、そして少し怒っているような顔で、彼はそう言った。

「でも…、僕は人殺しで…」

「君は人殺しなんかじゃないよ」

イヌイ君のおじさんが優しく微笑みながら言った。

「僕は、疫病神で…」

「ウチにとっちゃ福の神だけどなぁ」

サツキ君のおじさんがニィっと笑った。

「でも…、僕…、僕は…」

サツキ君が僕の首に腕を回して、言葉を遮った。

「い、痛!痛いよさっちゃん!

ヘッドロックをかけて、僕の頭を乱暴にぐりぐりしながら、彼は言う。

「俺達は生きてんだ。幸せ願って何が悪ぃんだよ?あんましグジグジ言ってたら、終いにゃ怒るぞ?」

それから耳元で、僕にだけ聞こえるように、小さく囁いた。

「言ったろ?お前の幸せの天秤、傾かせてやる。って」

「…うん…。…うん…!」

僕はサツキ君の腕の中で、思わず泣き出してしまった。

皆が、僕の事を暖かい目で見つめていた。

…僕も、幸せになって、良いんだね…?