第三十四話 「温泉デビュー」

僕、東護中三年の根枯村樹市。クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。

「何ですか?この匂い…」

旅館の前でバスを降りた僕は、周囲に立ち込める嗅ぎ慣れない匂いに驚いた。

「これは硫黄の匂いだ。温泉街ならではだね」

おじさんは犬族特有の鼻をヒクヒクさせながらそう説明してくれると、独特な香りを深く吸い込んだ。

「この匂いを嗅ぐと、温泉に来たという感じがするよ」

「そうなんですか…」

温泉に来るのが初めての僕にとっては、この匂いももちろん初の経験だ。

招待された旅館は、複嶋の海岸沿いにある創業160年の伝統を誇る立派な旅館で、僕もコマーシャルなどでその名前は知っ

ている。

高台に建てられたその巨大な旅館は15階建てで、全客室から太平洋を一望できるらしい。

「この旅館には成分が違う12種類ものお風呂があるらしいわ。お風呂だけ巡っていたら、二日なんてあっというまね」

旅館の大きな正面玄関を潜りながらおばさんがそう言った。

その説明によれば、なんと泊まる部屋にも専用の小さな露天風呂が併設しているらしい。

贅沢の極みだ!正直、大浴場に行くのはまだちょっと躊躇いがあったけれど、それなら気兼ねなく利用できそう!

「…やっぱり、大浴場はちっと厳しいよな?」

僕の隣を歩いている、幼なじみの大柄な熊獣人が、小声でそう尋ねてきた。

「慣れなきゃ、とは思っているんだけれどね…」

僕も小声で彼に答える。僕の体に刻まれた醜い傷痕は、どうしても周囲の目を引き付けてしまう。

気にしないでいられればいいんだろうけれど、僕はどうにもその視線が苦手だ…。

「まぁ、部屋に併設した露天風呂も、広さはそれなりの物らしい。気が向かないならそちらを使えばいいさ」

僕達の話が聞こえていたらしく、おじさんは前を歩きながらそう言ってくれた。

「…努力はしてみます。せっかく来られたんですし…」

う〜ん…、大浴場かぁ…。行ってみたいのはやまやまなんだけれどね…。



『おぉ〜…』

部屋の窓から外を覗き、僕とサツキ君は思わず感嘆の声を上げた。

最上階にあるその部屋の前は、せり出したテラスが庭になっていた。

一面に玉石が敷かれた庭は、石灯籠に鹿威しまである立派な作りだ。

敷き詰められた玉石の上に点々と続く飛び石の先には、竹の衝立で区切られた露天風呂スペース。

そして正面の手すりの向こうには、地上50メートルの高さから見下ろす大海原!絶景っ!

「これは…、きっちゃんとさっちゃんに感謝だな…」

「ええ、本当に…。こんな部屋に泊まれるなんて、生まれて初めてだわ」

おじさんとおばさんは目を細めて景色を眺め、微笑んだ。

「感謝ならサツキ君にですよ。元はと言えば彼のくじ券だったんですから」

それにしても本当に気前良いなぁ。こんな豪華な宿の招待券、あっさり譲ってくれるんだもん。

「いや、礼ならキイチにっすよ。特賞当てたのはこいつの手柄だし。俺じゃせいぜいポケットティッシュが関の山だ」

サツキ君が肩を竦めながら言う。

「ははは。やっぱり二人に感謝だね」

手柄を押し付け合う僕らを見ながら、おじさんとおばさんは愉快そうに笑った。



「…どうやら、ここはあまり混んでいないようだ…」

「おし…、じゃあここにしますか?」

露天風呂内の様子を確かめ、おじさんとサツキ君が僕を振り返る。

ちなみに、僕とおじさんは浴衣姿。サツキ君は僕がプレゼントしたグリーンのセーターにジーンズという普段着だ。という

のも、体が大きすぎて、部屋に置いてあった浴衣ではサイズが合わなかったんだよね…。

おじさんがフロントに掛け合おうとしたら、遠慮してなのか、それとも浴衣が好きじゃないのか、このままで良いと断っていた。

「…無理しなくて良いんだよきっちゃん?」

「そうだぞ?夜中にこっそり来ても良いんだし…」

「…いえ、僕…、往きます!」

いよいよ…、いよいよ温泉デビューだ…。

この旅館には大浴場が4つもある。二人は今回が温泉デビューとなる僕に気を遣い、あまり混んでいない浴場を探してくれ

た。…本当に申し訳ない…。

幸いにも脱衣場には誰も居なかった。けど、磨りガラスの向こうからは湯をかぶる音が聞こえて来る…。うわ、ドキドキし

てきた…。

「準備は良いかね…」

浴場への引き戸の脇、壁に背を預ける格好で、腰にタオル一枚を巻いたおじさんが言った。鋭い視線に真面目な顔つき、背

中側では尻尾がきりっと巻き上がってる…。

「入ったら引き返せねぇぞキイチ…」

おじさんとは反対側の壁際で片膝を着き、磨りガラスの向こうの様子を覗いながら、こちらも腰にタオルを巻いただけのサ

ツキ君が言った。何故か拳をぱきぱき鳴らしている…。

…犯行現場に突入するんじゃないんだからね…?二人とも…。

おじさんのすらりとした細身の長身は、筋肉質で、無駄な肉が全然ついていない。

体質によるものなのか、それとも刑事だから鍛えているんだろうか?けんちゃんもこういう体付きだったと思う。

おじさんとは対照的に、サツキ君はかなり肉付きが良い。股間の一点を除き、どこもかしこも大きな造りの体は、搭載した

大量の筋肉の上に柔らかい脂肪がついている。

「俺が先に行きます。多少の目隠しにはなるっすから」

「分かった。なら私は後ろから援護しよう」

二人は素早く目配せし、頷き合う。…何の会話だろうこれ?っていうか援護って何?

「おし、行くぞキイチ!」

サツキ君はおもむろに立ち上がると、引き戸を開けて素早く中に入り、鋭く左右を見回した。僕はその後ろにもたもたと従

い、僕の後ろにぴたりと寄り添ったおじさんが、素早く引き戸を閉めた。

…二人とも、なんだかノリノリだ…。

晴れ渡った青空の下、岩に囲まれたお湯から立ち昇る湯煙の中、僕は三人の人影を確認する。…あ。

「大丈夫かも」

僕が呟くと、おじさんとサツキ君も頷いた。

先客の三人は、いずれもかなり年配の方だった。好奇心に駆られてじろじろ見てくる事もないだろう。たぶん。

「…今気付いたんだけどよ」

サツキ君が小声で言った。

「お前白いから、湯煙に紛れると痕が分かりづれぇな?」

僕の体を見て目を細め、おじさんも大きく頷く。

「…言われてみればそうだね。少し離れればもう殆ど見えないな」

お、意外な発見!

そうか、露天風呂だと湯煙が凄いから、僕の体色だと目立ちづらいんだ!…まぁ、リハビリにはならないけれど…。

「それじゃ、さっそく温泉を堪能しようぜ?」

「うん!」

「っとその前に…」

サツキ君は僕の肩を掴み、ぐるっと向きを変えた。

「親父さんの背中、流してやれよな?」

「あ、そうだった!…あの、良いですか?」

僕が尋ねると、

「それじゃあ、お願いしようか?」

おじさんは照れ臭そうに頷いた。



「凄い…」

「だな…」

「これは豪勢な…」

「本当に…」

部屋に用意された夕食を前に、僕達は圧倒されていた。

海の幸と山の幸を使った料理の数々は、なんとも豪勢なものだった。

「お刺身の盛り合わせに、牛肉と山菜の鍋…、それに天ぷらに…、食べきれるかしら?」

おばさんは料理の品数を確認しながら困ったように笑った。

「それは問題ないです。サツキ君がペロッと食べますから」

「おう!任しといて下さい!」

僕が言うと、サツキ君は笑いながら分厚い胸をドンと叩いた。実に頼もしい。無駄に頼もしい。

「それでは、冷めてしまう前に頂こうか」

「そうね」

僕達はグラスを合わせて乾杯し、豪勢な夕食に取りかかった。

本当に、特賞だけあって、なんとも豪華な温泉旅行だなぁ…。普通に泊まったら、一体いくらするんだろう?



「キイチ、もっかい風呂行っとくか?」

美味しい食事を終えて一息つくと、タオル片手にサツキ君が声をかけてきた。

「うん。ならおじさんも…」

僕が視線を向けると、おばさんにお茶を淹れて貰いながら、おじさんは首を横に振った。

「楽しい食事で少々酒が過ぎたようだ。少し醒ましてから入るから、二人で入ってくると良い」

そういえば、おじさんはだいぶ日本酒を飲んでいたような気がする。

「キイチ。ちょっと気になってんだけどよ…」

「うん?」

振り向くと、サツキ君は何故か渋い顔をしていた。

「お前、いつまで「おじさん、おばさん」って呼ぶつもりだ?」

…え?

「…それは…」

僕が口ごもると、おじさんとおばさんが口を開いた。

「まあ、私達も、無理に呼び方を変える必要は感じていないよ」

「そうね、まだ戸籍上も別だし…」

サツキ君は不機嫌そうに眉を吊り上げる。

「籍がどうこう、手続きがどうこうって難しい話は俺にゃ判んねぇっすけど、この先親子になるんだから、早くから呼び慣れ

とくに越した事はねぇでしょう?」

サツキ君はおじさんとおばさんにそう言うと、僕に向き直った。

「四月なんてすぐだ。変に遠慮なんかしてたら、新しい家族に慣れる前に、お前は寮に入っちまうんだぞ?」

「…うん…。解ってる…つもり…」

サツキ君はしばらく僕を見つめていたけれど、やがて頭をボリボリと掻いて付け加えた。

「まぁ、あくまで俺個人がそう思ったってだけだ。しきたりとかそういうのは判んねぇからな。親父さん達にも考えがあって

の事でしょうから、聞き流してください。生意気言ってすんませんでした」

軽く頭を下げたサツキ君に、

「…いや、ありがとう。さっちゃん」

「ええ。心配してくれているのね…」

おじさんとおばさんは、嬉しそうに微笑んだ。

「…まぁ、心配っつぅか…、その…なんすかね?」

礼を言われたサツキ君は、居心地悪そうに顔を顰め、

「…んじゃ、庭の露天風呂、使わせて貰います…」

そそくさと部屋を出て行った。

「…気を遣わせてしまったな…」

「…そうね…」

おじさんとおばさんは顔を見合わせ、苦笑した。

「さっちゃんの言うことも、もっともだ…」

……………。

「済みません。僕も、お風呂に入って来ます」

僕が言うと、おじさん達は微笑んで頷いた。



竹の衝立を回り込み、露天風呂を覗き込むと、サツキ君はこちらに背を向け、湯船に浸かって夜の海を眺めていた。

「…悪かったな、部外者が生意気言っちまってよ…」

サツキ君は振り返らないまま、ボソッと言った。

「ううん。こっちこそ、心配させちゃってごめんね」

「上手く行ってねぇとは思ってねぇんだ。…ただよ、たった二ヶ月一緒に過ごしたら、また離れちまう…。遠慮してる時間が

勿体ねぇと思うんだ…。今の内に、少しでも距離縮めとけよな…」

「…うん」

僕が立ったまま頷くと、サツキ君はいきなり立ち上がった。大きな体から滝のようにお湯がこぼれ落ち、周囲に湯気が立ち

込める。

「ケントに遠慮してんだろ?」

僕はハッとしてサツキ君の背を見つめた。

彼は夜の海を眺めたまま、振り返らずに続ける。

「お前も、親父さん達も…、ケントの事を考えて遠慮してんだろ?」

…そう…。口にした事こそ無かったけれど、おじさんもおばさんも、そして僕も、イヌイ君の事をいつも考えている。

おじさんとおばさんは、新しい息子を受け入れる事が、亡くしたイヌイ君に対して申し訳ないという気持ちを持っているはずだ。

そして僕も。彼が亡くなった後のイヌイ家に入り込む事を、申し訳なく感じている…。

「ケントはよ。5月生まれだったよな」

サツキ君は唐突にそう言った。

「…うん…。5月5日、こどもの日生まれだね」

急に何の話だろう?僕はサツキ君の背を見つめながら疑問に思った。

「だったらよ、誕生日が後なんだから、お前はケントの弟って事だな」

………!?

「いつまでも「イヌイ君」なんて呼んでんじゃねぇよ。「おじさん、おばさん」なんて呼んでんじゃねぇよ。ケントの野郎は

よ、遠慮なんかしたって喜ばねぇよ。…あいつ、気ぃ遣われんのが大嫌いだったじゃねぇか…」

…そうだった…確かに…。

「…お父さん、お母さんって呼んだら、迷惑じゃないかな…?」

「迷惑なら、はなっから養子になれなんて言い出さねぇよ」

「…けんちゃん。許してくれるかな…?」

「当たり前だろ」

「…僕なんかが、弟になっても良いのかな…?」

「きっと喜ぶさ」

サツキ君は首を巡らせ、ニッと笑った。

「あいつ、兄弟欲しがってたじゃねぇか」

「…確か妹を欲しがってたけどね」

「…そう…だったっけか…?」

「うん、そう」

サツキ君は苦笑いして頭を掻いた。

「まぁとにかくだ…」

サツキ君は咳払いすると、再び夜の海に視線を向けた。

「色々言ったけど、決めんのはお前だ。後悔しねぇようにだけしてくれりゃあ、後は何も言う事はねぇ。…くそっ。俺の頭が

良けりゃ、もうちっと気の利いた言葉で言えるんだろうに…!」

「ううん。十分に伝わってるよ…」

僕はサツキ君の背に寄り添い、太い体にそっと両手を回す。

お湯で温まって湿った体が、ピクンと小さく震えて固まった。

「ありがとう。さっちゃん…!」

「…おう…」

僕がお礼を言うと、サツキ君は振り向かないまま、照れたように応じた。



翌朝、僕は微かな物音で目を覚ました。

「…サツキ君…?」

目を擦りながら身を起こし、小さく声をかけると、

「お?起こしちまったか?悪ぃな…」

バッグの前で屈み込んでいたサツキ君は、眉尻を下げて済まなそうに言った。

「ううん。それよりどうしたの?こんなに早く…」

見れば、おじさんとおばさんはまだ寝ていた。僕は小声で彼に尋ねる。

「いや、飯の前にひとっ風呂浴びてこようかと思って…」

どうやらお風呂狙いで起き出したらしい。…僕も行って来ようかな…。

「僕も一緒に行く。ちょっと待ってて」

起き上がった僕は、しかし体が覚醒していなかった。

「みゃんっ!」

めくれた布団に足を取られ、僕は悲鳴を上げて転びかけた。

咄嗟に伸ばされたサツキ君の腕が受け止めてくれなければ、無様に転倒していただろう。

「ご、ごめん!ありがとう」

「どうしたんだい?」

おじさんとおばさんが目を擦りながら身を起こした。あっちゃ〜…、起こしちゃった…。

「起こしちゃって済みません!お風呂に行こうと思って…」

「ああ、なるほど。…もう6時半か…」

「7時半には朝食が来るそうだから、遅れないようにね」

結局目が覚めちゃったみたい。申し訳ないなぁ…。

「んじゃ、行ってきます」

起き出したおじさんとおばさんに、サツキ君が言った。

「あ、僕も行ってきます。おじ…」

言いかけた僕は、言葉を切った。

「…行ってきます。お父さん、お母さん」

二人は一瞬驚いたように目を丸くし、それから…、

「ああ。気をつけてな、キイチ」

「行ってらっしゃい、キイチ」

僕にそう、微笑んでくれた。

照れ臭くなって視線を逸らした僕を見て、耳をぺたっと寝かせたサツキ君は、本当に、本当に嬉しそうに笑っていた。



「…ねぇ。あまり温泉に入りすぎるのは体に悪いって書いてあるよ?」

朝食後、部屋に備え付けられていた温泉の効能案内を読んでいた僕がそう言うと、お父さんとサツキ君は意外そうに顔を見

合わせた。

「本当かい?」

「はい。ここに…、「入浴は予想以上に体力を消耗します。十分に休養し、間を開けてからお入り下さい」って」

「まじか?全然知らなかったぜ…。すぐ次の風呂行こうと思ってたのによ」

「あらさっちゃん。食後すぐの入浴も血圧が上がるから、あまり体に良くないのよ?」

「へぇ、それも知らなかったっすね」

お母さんが言うと、サツキ君は目を丸くした。

「いっつも飯食ってすぐ入ってたけど、これからはちっと気をつけるか…。にしても予定が狂ったな…」

よほど入浴したかったんだろう。なんだか少し残念そうだ。…まあ、僕も行きたかったけれど…。

「それなら二人で温泉街でも見てきたらどうだい?」

お父さんの提案に、サツキ君は「おお?」と声を上げた。

「それも良いっすね。…って二人は行かねぇんすか?」

「私達は食休みしてから入浴するから、このまま待つよ」

…そうだ。お父さんとお母さんも、二人でのんびりさせてあげなくちゃ…。

「そういう事なら…、サツキ君、行ってみる?」

「だな。行こうぜ」

僕の期待に応えるように即答すると、サツキ君はジーンズのお尻に財布を突っ込み、ジャンバーを羽織る。

「ちょっと待って、僕も着替えるから…」

さすがに浴衣で外に出るのは寒そう…。僕は大急ぎで着替えて、部屋の入り口で待っているサツキ君に駆け寄った。それか

らお父さんとお母さんを振り返り、

「それじゃあ、行ってきます!」

「ああ。いってらっしゃい」

「気をつけてね二人とも」

二人の笑みを受けて部屋を出た。…今、ちょっと幸せな気分かも…。



ゆったりと散歩していた僕達は、軒を連ねる土産物屋の一軒で足を止めた。

「見ろよ、温泉の元だって!家への土産にゃ良いかもなぁ」

サツキ君は温泉の元となっている入浴剤を手に取って珍しそうに見つめた。説明書きを見ると、なんでも温泉の成分が凝固

したものらしい。実に興味深い。

「へぇ…。結構種類があるね。あ、僕はおじさん達に温泉饅頭買っていこう。皆へのお土産、ダブらないように気をつけないとね」

「だな。あ、ジュンペーとダイスケ、あとダチと後輩連中には何が良いかな…」

「温泉玉子とか?」

「ぬはは!ベタだけど外せねぇし、それも良いか!」

「ペナントとかもあるけど?」

「う〜ん…、そいつぁ喜ぶかどうか微妙だな…」

実際に買うのは帰りで良いけど、こうやって下見をするのも結構楽しい。

あれこれとお土産をチェックしながら、僕達は楽しい一時を過ごす。…なんだか、久し振りにデートしてる感じがするね?

さっちゃん!

「お?クレープだってよ」

サツキ君は温泉クレープと書かれた旗が出ているお店を指さした。

「…おんせんくれぇぷぅ…?」

なんだかいかがわしい名前に、僕は眉を潜めた。

「あるんだよ、こういうとこにゃこういうもんが。鍾乳洞うどんとか、間欠泉アイスとか」

「ぷっ!なにそれ?」

サツキ君が口にしたユニークな情報に、僕は思わず吹き出した。

「本当にあるんだぜ?のぼりなんかも面白ぇんだ。「美味!鍾乳洞うどん!」とか、「吹き出す美味さ・間欠泉アイス」とかさ」

「おいしいの?」

「ま、物によるけどな。物は試しだ。買って来るからこの辺で待ってろよ」

サツキ君はそう言うと、お店の中に入って行った。

覗いて見れば、それなりに売れているらしくて、お店のカウンターの前には数人のお客さんが居た。

少しかかるかな?ちょうど良く自販機があるし、暖かい飲み物でも買っておこうか。

お店の前の自販機で二人分の缶コーヒーを買い、僕は何となしに、行き交う人々の波に視線を動かした。

…え…?

行き交う人混みの中で立ち止まっている、一人の獣人と目があった。

周りから音が消えて、人の波がスローモーションになる。

ドクンと、心臓が跳ねるように脈打った。

「…あ…」

声が掠れた。手から缶が滑り落ち、足下に転がった。

茶色の被毛。大柄な体。黒い瞳。少し離れた所で立っている熊の獣人は、訝しげに目を細め、僕をじっと見つめていた。

「…キイチ…?」

彼が口を開いた瞬間、僕は無意識に一歩後ずさっていた。

「キイチなんだな?」

彼の目が、驚きに丸く見開かれた。

「…隈井…君…」

僕はやっと、掠れた声を出した。

耳元で、心臓が早鐘のように鳴る音が聞こえた。体が、細かく震えて押さえが利かない。

「久しぶり…」

彼の口が開いた瞬間、僕は踵を返して走り出した。

「おい!?キイチ!待てよ!」

歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。体の芯から来る怯えが体を突き動かした。

人混みの中を、何人かとぶつかりながら駆け抜ける。

すぐ後を、彼は僕の名を呼びながら追ってきていた。

僕は林の奥へと続く散歩道らしい小道に駆け込んだ。

ほとんど何も考えられなくなっていた。ただ、頭の中では三年前の出来事が、あの時の光景が、何度も、何度も蘇る。

机に彫られた蔑みの言葉。周囲から向けられる拒絶の視線。ロープの下で揺れる祖父母。

「あうっ!」

やがて、走り慣れていない足がもつれ、僕は石畳の上で無様に転んだ。

「キイチ!待てって!」

クマイ君が追い縋って来た。慌てて立ち上がった僕の腕を、彼の手がガッシリと掴む。

「は…放して!」

振りほどこうとした腕は、しっかりと掴まれたまま自由にならない。

「キイチ!」

「嫌!放してよっ!放してぇっ!」

僕は半狂乱になって声を上げた。

放して!来ないで!僕に関わらないで!もうこれ以上、昔の事を思い出させないで!

助けて!さっちゃん!

僕の喉から悲鳴が上がりかけたその時だった。どんなに力を込めても振りほどけない彼の腕を、横合いから伸びた手が掴ん

だのは。

僕の、クマイ君の視線が横に動く。

いつ現れたのか、クマイ君の手首を掴んだサツキ君は、物凄い形相で彼を睨み付けていた。

自分よりもさらに大柄なサツキ君の顔を見上げ、クマイ君は驚いたように硬直した。

「な、なんだよお前…?いっつ!」

どんな力を加えられているのか、手首を掴まれたクマイ君の顔が苦痛に歪み、僕の腕を放す。

「…てめぇ…!俺のキイチに何してやがる!」

片手でクマイ君の腕を掴んだまま、サツキ君は彼の顔面を殴り飛ばした。

肉と肉、骨と骨が叩き付けられるグシャッという鈍い音と共に、大柄なクマイ君が信じられないほど軽々と吹っ飛んだ。

「キイチ!何ともねぇか!?」

サツキ君は僕をちらりと振り返ると、驚いたような顔をした。

口をあけ、パクパクと何か言いかけて動かし、それからまた口を閉じる。

唇が捲れ上がって牙がむき出しになり、鼻面に皺がよって、目の奥で剣呑な光がちらつく。全身の毛はぶわっと逆立って、

体が一回り膨れ上がったように見えた。

サツキ君の顔は、いつもの顔からは想像もつかないほど、獰猛な、凶暴そうな顔つきになっていた…。

「…おい…。てめぇキイチに何しやがった…?」

鼻血を流したまま石畳の上に尻餅をついているクマイ君を見下ろし、サツキ君は恐ろしく低い声で言った。そして彼に歩み

寄ると、その胸ぐらを掴んで無理矢理引き起こす。

とんでもない腕力だった。普通の大人よりもよっぽど立派な体格をしたクマイ君が、腕一本で軽々と吊り上げられ、つま先

が僅かに地面に触れているだけになる。

体が竦んでいなかったとしても逃げようのない状態の彼の顔を睨み付け、サツキ君は拳をギリリと握り込み、後ろに引いた。

クマイ君の口から、「ひっ!」と、怯えたような声が漏れた瞬間、呆然と立ち竦んでいた僕は、やっと我に返った。

「待って!待ってさっちゃん!僕は大丈夫!良いんだ!何でもないんだから!」

僕はサツキ君に後ろからしがみついた。サツキ君は本気で怒ってる…!止めなくちゃ!

「…なんでもなくて、なんで泣いてんだよ?」

サツキ君は振り返らずにボソッと言った。

…泣いてる…?僕が…?

言われて初めて、僕は頬を濡らす涙に、潤んで歪んだ視界に気付いた。

「ち、違うんだ!大丈夫だから!もう何ともないから!だからもう止めて!止めてよぉ…」

大丈夫だと言いながらも、最後の方はもう涙声になっていた。

「…………」

サツキ君はしばらくの間、黙ってクマイ君の顔を睨んでいたけれど、やがて舌打ちをすると、彼の体を乱暴に放り出した。

「…キイチに感謝しろ。こいつが止めなきゃバラバラにしてやるトコだ…!」

サツキ君は、怯えた様子でへたり込んでいるクマイ君を低い声で恫喝すると、しがみついたままの僕の頭にポンと手を置いた。

「大丈夫だから…、もう泣くなよ…。な…?」

僕はサツキ君にしがみついたまま、震えながら泣き続けていた。

「ごめん…。ごめんねさっちゃん…。彼は…、クマイ君は…、昔の友達だったんだ…」