インターミッション 「雪融け」
「ちゃんと続けててよね?」
「判ってるっての。ちっとは信用しろって」
冗談交じりに注意を促すと、濃い茶色の熊は指先でシャープペンを回しながら苦笑した。
「それじゃあ、行ってきます」
「おう。気ぃつけてな」
鞄を肩にかけた僕に、軽く手を上げて見せると、サツキ君はちゃぶ台の上に広げたプリントを見つめ…、いや、物凄い形相
で睨み始めた。
まぁ、敵意剥き出しのその表情はともかく、真面目に冬休みの宿題に取り組むつもりではあるらしいから、何も言わないで
おこう。
…冬休みも残すところ今日明日の二日だけ。余裕も無いから無理もないしね…。
僕は静かにドアを閉め、階段を降りておばさんに「行って来ます」を言う。
靴をつっかけて玄関から出ると、灰色の空からは雪がちらついていた。
あ、そうそう自己紹介…。
僕、根枯村樹市(ねこむらきいち)、東護中三年の、クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。
温泉旅行から帰って来た翌日の今日、僕はサツキ君に「本屋に行く」と言って外出した。
本当は、叔母さんの家にお土産を持って行くんだけれど…、そう正直に言うと、サツキ君が心配して付いて来るって言いだ
すだろうから…。
叔母さん夫妻も望んでないだろうけど、僕には一応、この間まで養って貰っていたっていう恩がある。
サツキ君は叔母さんを嫌っているし、僕自身もそんなに好きな訳じゃないけど…。うん…、嫌いでも…、無いんだよね…。
「ねぇダイスケ?」
玄関で屈んで靴紐を結んでたオイラは、後ろからかけられた声に首を巡らせた。
長い髪を後ろで束ねてポニーテールにした人間の女子高生が、眉を寄せた訝しげな顔でオイラを見てる。
これから部活に行く姉ちゃんは、東護高校のジャージ姿だ。
「無理しなくても、嫌なら私が行くわよ?どうせ学校に行くんだし」
「ん。いい。遠回りになるだろ」
姉ちゃんはオイラの顔を見ながら、不思議そうに首を傾げてる。
「どういう風の吹き回し?あんた、叔父さんの事嫌いだったじゃない?」
嫌い?…どうなんだろ?確かにちょっと苦手だけど…。
まぁ、あっちがオイラや父ちゃんを嫌ってるのは確かだ。叔父さんは獣人が好きじゃないから。
「行ってきます」
不思議そうな顔をしてる姉ちゃんを残して、オイラは玄関を出た。
空は灰色に曇ってるけど、さっきまでチラチラ降ってた雪は、いつの間にか止んでる。
体の色と同じ、真っ黒なダウンジャケットの前を閉めて、オイラは溶けた雪で湿ってる道を歩き出した。
オイラは球磨宮大輔(くまみやだいすけ)。南華中二年、柔道部の主将をやってる黒熊。
旅行に行ってた叔父さんの家に、お年始を持って挨拶に行くとこ。
いつもなら母ちゃんか姉ちゃんが持ってくんだけど、今日はオイラが頼んで母ちゃんから預かった。
正直に言えば、できればあの家には行きたくないけど、…どうしても、確かめたい事がある…。
僕は、少し戸惑っていた。
姿勢を正して座っている僕の前、テーブルを挟んだ向こうには叔母さんがいる。
おじさんと子供達は買い物にでかけているらしい。冬休みも残り少ないからね。
思ったとおりのよそよそしい態度で、それでも叔母さんは僕にお茶を出してくれた。
でも、僕が戸惑っているのは、何もお茶が出てきたからじゃない。
以前サツキ君が真っ二つに叩き割って、おじさんが弁償した、新しい立派なテーブルの上には、三つの箱が置いてある。
一つは僕が買って来た温泉土産のお饅頭。そして、残る二つは…、
「一昨日まで、温海(あたみ)に行っていたのよ」
硬い口調で、叔母さんは呟くようにそう言った。
「阿武隈さんと、乾さんへのお土産よ」
意外過ぎるその言葉に、僕は思わず叔母さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「一応…、その…、甥っ子…、面倒…見て…貰って…」
ぼそぼそと、小声で呟いた叔母さんの言葉は、僕には良く聞き取れなかったけれど、それでも断片的に聞こえた分で理解できた。
…初めてじゃないかな…?僕が、叔母さんから「甥っ子」って呼ばれたのは…。
「有難うございます。必ず、届けますから!」
ちょっと嬉しくて、僕は深々と頭を下げた。
「…その…どう?勉強の方は…」
「そこそこ順調です」
「そう…。推薦の試験は、今月末だったかしら?」
「はい。頑張ってきます!」
途切れ途切れで、つっこんだ事は聞かない、当たり障りの無い事ばかりの会話だったけれど、僕と叔母さんは、お茶を飲み
ながら話をした。
たぶん、これまでに今ほど、穏やかに言葉を交わした事は無かったと思う。
距離を置いた事で、僕と叔母さんの間にあったわだかまりは、少しずつ、溶けて来ているのかもしれない…。
表札を確認して、オイラは深呼吸した。
考えてみれば滅多に来る事も無かったし、一人で来るなんて初めてだ。たぶん、オイラがこの家に来るのは三年ぶりくらい。
鉄格子の門を押し開けて、庭に入る。
横を見れば、コンクリートで舗装された駐車スペースには車が無い。出かけてるのか?
玄関前まで進んだオイラは、もう一度深呼吸して、チャイムに手を伸ばした。
ぎぃっ
「お邪魔しました」
突然目の前で玄関が開いて、ビックリしたオイラは二歩後ろに下がる。
玄関を開けて出てきた相手と、間近で視線がぶつかる。
「あれ?」
「あ…」
白い小柄な猫が、ビックリしたようにオイラの顔を見上げた。
オイラもビックリして、咄嗟に言葉が出て来なかった。
『ダイスケ君?』
白猫…、ネコムラ先輩の声と、玄関の中に居る人間の女の人の声が、綺麗にハモった。
「あ…、あ…」
予想外の出来事に、オイラは完全にテンパって…、
「あけましておめでとうございます!」
深々と頭を下げて、新年のご挨拶をした…。
「ええ、あけましておめでとう」
「今年もよろしくね」
二人はそう応じてから、不思議そうに顔を見合わせた。
「ダイスケ君を知ってるんですか?」
「義姉さんの家の息子さんよ。それより、面識あったかしら?」
「いえ、ここでは…」
奇妙そうに首を傾げている二人を前に、オイラはテンパってフリーズしそうになる頭を必死に働かせて、まずは建前の用件
を済ませる事に決めた。
いろいろ予定外だけど、ネコムラ先輩と二人だけで話ができるチャンスだ。
叔父さん達の家にお邪魔して、「預かっている子供」の事をそれとなく確かめる必要は無くなった訳だし…。
「これ、お年始です。母ちゃんから預かってきました」
オイラは玄関に踏み入って、押し付けるようにしてハムの詰め合わせをおばさんに渡した。
「あら、有難う。主人は居ないけれど、せっかくだから上がって…」
「いえ、用事があるからオイラはこれで。済みません」
手早く届け物を終えたオイラは、玄関の外に出て、ちょっと呆然としてるネコムラ先輩の横に並んだ。
「失礼します」
「あ!叔母さん、僕もこれで。お茶ご馳走様でした。お土産も有難う。お邪魔しました」
オイラがお辞儀すると、ネコムラ先輩もペコッと頭を下げた。
何か言いたそうなおばさんの前でオイラが玄関を閉めると、ネコムラ先輩が驚いた顔のまま口を開いた。
「ビックリした…。ダイスケ君、叔父さんの甥っ子だったんだ?」
「はい…。もしかしたら、って…、思ってたんすけど…」
…オイラの予感は、当たっていた…。
やっぱり、ネコムラ先輩は叔父さんの家で預かってるって聞いてた、「ワケアリの子供」だったんだ…。
「はい」
叔母さん夫婦の家から歩いて五分くらいの公園で、僕は自販機で買った暖かいコーヒーをダイスケ君に差し出した。
「あ。済んません!…あっ…っと…」
慌ててポケットに手を突っ込み、財布をまさぐるダイスケ君。僕は苦笑しながら首を横に振った。
「良いよ。今回は奢らせて?僕、部活もしてなかったし、仲の良い後輩もジュンペー君しか居なかったから、先輩面できる機
会がなかなかないんだ」
そう言いながら目の前にそっと缶を差し伸べると、黒熊は大きな体を縮め、恐縮したように両手で受け取ってくれた。
「済んません…。頂きます…」
ダイスケ君は礼儀正しくお辞儀すると、僕が自分の分のお茶に口を付けるのを待ってから、コーヒーのプルタブを起こした。
初めて会ってから間もないし、それほど詳しくダイスケ君の事を知っている訳じゃないけれど、彼には口数が少なくて、礼
儀正しいという印象がある。
…同じ熊だけれど、サツキ君とはだいぶ印象が違うなぁ…。
僕はダイスケ君を誘って、公園のベンチに腰を下ろした。
「それで、話したい事って?」
なんとなく察しはついていたけれど、僕はダイスケ君にそう声をかけ、話を促した。
「…あの…。もう、判っちゃったと思うんですけど…」
ダイスケ君は少し顔を俯けて、ぼそぼそっと話し出す。
「オイラの母ちゃんの旧姓…、鈴木で…。その…、あの家の旦那さん…、オイラの母ちゃんの弟なんで…。つまり…、オイラ
の叔父さんで…」
さっき叔母さんから聞いた話で、大体は察せられたけれど、どうやらそういう事だったらしい。
「ついさっきまで全然知らなかったよ。…前から気付いてたの?」
ダイスケ君は少し間を開けてから、コクッと頷いた。
「…クリスマスに、先輩の体の傷を見て…。前に、母ちゃんが父ちゃんと話してた事を、思い出して…。それで、もしかして、
って…」
ダイスケ君の話によると、彼の両親が、叔父さんの家が、叔母さんの実家から子供を預かったと話していた事があったらしい。
それは深夜、ダイスケ君とお姉さん、子供達が寝たのを見計らっての話だったようで、ちょうどトイレに起きたダイスケ君
は、声を潜めて話し合う両親の会話を偶然にも聞いてしまったそうだ。
三年前、まだ小学生だった彼は、その子の事を知って…、
「…哀しくなりました…。それと同じくらい、恐くなりました…。オナガワで起きた事件のニュース、親が深刻な顔で話しあっ
てたの、覚えてたし…。その頃のオイラはまだ子供で…、あ、今もまだガキだけど…、そんな事が、家族の中で起こるなんて、
想像もできなかったから…」
ダイスケ君はまた少し黙り込み、それからぼそぼそと話し始める。
「もしかして、ネコムラ先輩の事だったんじゃないかって、あのお泊まりの日に思って…。考えてみたら、歳も一緒だし、猫っ
て話だったし…。オイラ…、気になって気になって、預かった用事を口実にして、その事を確かめに…」
ダイスケ君は、僕の周りで起こった事件の全貌まで、全部知っていた。
僕は叔母さんの家に居る間、お客さんが来ている時でも部屋から出なかったし、なるべく外出して図書館で過ごしていた。
ダイスケ君は、獣人を好かない叔父さんに気を遣って、なるべく家に寄らないようにしていたらしい。
だから、僕らはすれ違いあって、つい先日、お互いにそうと知らずに顔を合わせたその時まで、全く面識が無かったんだ。
ダイスケ君は、僕の叔母さんの旦那さんのお姉さんの息子…。つまり、僕と彼は顔を知らない親類だったわけだ…。
まぁお互いに気付けなかったのも頷ける。親類としても微妙な距離だし、僕のお母さんは結婚を反対されて家を出たような
形になってたから、僕自身も自分の親類関係に詳しく無いし…。
話すのはあまり得意な方じゃないんだろう。ダイスケ君はつっかえつっかえ、それでも一生懸命に事情を説明してくれた。
話し終えた彼は項垂れて、しばらく黙り込み、それから、
「…ネコムラ先輩…」
ポツリと、消え入りそうな声で僕の名を呼んだ。
「うん?何?」
言葉が続かなかったから、僕は極力優しく、ダイスケ君に声をかけた。
ダイスケ君は顔を上げ、
「…ごめんなさい…。…先輩…」
今にも泣き出してしまいそうな表情で、僕の顔を見つめてきた…。
オイラは、悔しくて、哀しくて、申し訳なくて、ネコムラ先輩に謝った。
「…え?」
ネコムラ先輩は綺麗な目を丸くして、きょとんとした顔でオイラを見つめる。
「オイラが…、オイラが、もしももっと早く、先輩の事に…、預かられてるって子供の事に、気持ちを回せてれば…。先輩と
話をしたり、一緒に遊んだり、できてたのに…!」
オイラは、叔父さんの家で預かってるって子供に同情はしても、力になってやろうとか、友達になってやろうとか、思えな
かったんだ…。
恐かったんだ。そんな辛い目に遭った人と会うのが。話をするのが。向き合うのが。接するのが…。
どんな風に接すれば良いか判るはずもない。普通の家庭で育ったオイラとは違うんだって、そういう風に言い訳して…。
もしもネコムラ先輩だって気付いてれば、オイラは…、きっと勇気を出せてたのに…。
…判ってる。それが、知った仲の人だからそう思えるんだって事は…。
先輩だって知ったから、今になってそう思えるようになったんだって事は…。
…オイラは、臆病な卑怯者だ…。
親類でもないアブクマ先輩は、ネコムラ先輩の事を受け入れてあげたのに…、オイラは、叔父さんの家に居る、傷ついてい
るはずのその子と会うのが恐かったんだ…。
「やだなぁ。何で君が謝るの?」
ネコムラ先輩は、困ったような顔で笑った。
「君が謝らなきゃいけない事は、何もないよ。…それに、たぶん君が声をかけてきてくれたとしても、僕には人と距離を置く
クセがあったから…、きっと、その気遣いに素直には応じられなかったろうしね…」
ふっと、優しい笑みを浮かべて、ネコムラ先輩は続けた。
「今では、だいぶマシになってきたと思うけれどね」
先輩の、その、何て言っていいのか判らない、眩しい微笑みに目を奪われながら…、
「…先輩…。なんで、怒らないんですか?」
オイラは、思わずそう訊いていた。
「オイラは、知らなかったとは言っても、ずっと、先輩の事に目を向けないようにして、耳を塞いで…」
「その事で僕が君に怒るのは筋違いだよ。お互いに知らなかったんだもん。今悔やんでも仕方がないよ。そんな事より…」
ネコムラ先輩は微笑みながら続けた。
「僕ね、嬉しいんだよ?繋がりがあったんだって気付いたせいかな。君とは、これからもっともっと、仲良くなっていける気
がする」
「…ネコムラ先輩…」
元々話すのは得意じゃないけど、喉に何かつっかえたようになって…、言葉が、上手く出せなくなった。
ネコムラ先輩の笑顔は、澄んで、透明で、とっても綺麗で…。
なんでこの人は、辛い目に遭ったのなんかウソみたいに、こんな風に笑えるんだろうって…。
「ごめんなさい…!」
オイラは、泣きそうになるのをなんとか堪えて、先輩にもう一回謝った…。
目をウルウルさせながら、ダイスケ君はまた謝った。
下手に声をかけたら泣き出してしまいそうな雰囲気…。彼が気にする事も、謝る必要も、これっぽっちも無いのに…。
本当に、僕の周りの熊さんは、みんなお人好しだな…。
「もう謝らないでよ。そんなに哀しそうに謝られたら、なんだか僕が苛めてるような気分になっちゃうよ?」
「う…?ご、ごめんなさい…」
「だから謝らないでってば」
「あ!?は、はい!済んません!」
「…いやあの、だからね…」
また「謝らないで」と言いかけて口を開いた僕と、また謝った事に気付いて「う…」と言葉を詰まらせたダイスケ君は、顔
を見合わせて…、
「ふふっ…!」
「ぷっ…」
「ふふふふふっ!」
「ははははは…!」
なんだか可笑しくなって、同時に笑い出した。
「ね?もう、気にしないでよ。これから仲良くなって行くのに、前の事であれこれ悩むのは邪魔になっちゃう」
「はい…」
笑いながら言った僕を、ダイスケ君は恥かしそうに微笑みながら、少し俯き加減になって、上目遣いに見つめてきた。
ダイスケ君には、サツキ君とはまた違った可愛いさがあるなぁ。…こう感じる辺り、案外僕、クマさんに弱いのかもしれない。
「ねぇ、ダイスケ君。あのさ…」
僕が口を開くと、ダイスケ君は耳をピクッと動かして…、あ、まずい…。
「は…、はっくしゅん!」
我慢できず、口元を押さえて大きなクシャミをしたら、ダイスケ君は相当ビックリしたのか、ビクッと仰け反った。
「ご、ゴメン突然…!」
僕は謝りつつ鼻をすすった。話に夢中になってて気付かなかったけど、だいぶ体が冷えてきた…!
ダイスケ君は少しの間何やら考え込んで、それから自分が着ていたダウンジャケットを脱いだ。
「あの、これ、着てて下さい」
「え?良いよ。それじゃ君が寒いじゃない」
慌てて断った僕に、ダイスケ君は首を横に振って、グイッとジャケットを突き出す。
「オイラが誘ったんですから。何よりも、先輩は受験を控えた大事な体です」
ダイスケ君はそう言って、少し強引に、僕の手にジャケットを押し付けた。
「それに、オイラ最近だいぶデブってきたから、このぐらいの気温、平気です」
冗談めかしてニッと笑った彼の顔は、どことなくサツキ君と似ていた。
自分の事より他人の事を気遣う辺りなんか、本当に良く似てる…。
お礼を言ってジャケットを肩から羽織る。ダウンジャケットにはダイスケ君の体温が沁みていて、ホカホカと温かかった。
「あ、ネコムラ先輩?さっき何を言おうと?」
ダイスケ君に言われて、僕はクシャミで飛んでしまった話題の事を思い出した。
「あのさ。「ネコムラ先輩」って呼ぶの、止めてくれないかな?僕らは親類って事になるんだし、ここだけの話、僕もうじき
苗字変わっちゃうし…」
「え?そうなんですか?」
「うん。幼なじみのお家にね、養子縁組して貰える事になったから。卒業したらイヌイになるの」
「じゃあ、イヌイ先輩ですね?」
「いやだから、そういう他人行儀なのじゃなくて…」
…なんか、こういう話をするのって、ちょっと照れ臭いなぁ…。
「親類なんだから…、あ、僕は親類じゃない戸籍に移っちゃうけど…。と、とにかく!先輩なんて呼ばないでさ…」
「ん〜…」
ダイスケ君は腕組みをしてしばらく考えた後、
「じゃあ、イヌイさんですかね?」
「何で!?なんか先輩付けよりもなお他人行儀だよ!?」
思わず声を大きくすると、ダイスケ君は困ったように眉根を寄せた。
「え?じゃ、じゃあ…、キイチさん?」
「いや、「さん」から離れてよ…。なんだか凄く年上みたいじゃない…」
黒熊は「う〜ん…」と、唸りながら考え込み、やがて何か良い事を思いついたように、満面の笑みを浮かべてポンと手を打った。
「キイチ兄ぃ!」
「へ?」
「うん!これが良い!キイチ兄ぃで!」
「え?ちょっと?何!?きいちにぃって!?」
「え…?イヤ…ですか…?」
耳を伏せたダイスケ君は、心底残念そうに大きな体を縮め、上目遣いで僕を見る。
…反則だよ…、その表情と仕草…。
「イヤじゃ…、ない…かな…?…うん…」
ちょっと、恥かしいけど…。
ぼそぼそ呟いた僕の返答を聞いて、ダイスケ君はパッと顔を輝かせた。
「えへへ!んじゃあ、これからはキイチ兄ぃって呼んで良いですか!?」
なんだかくすぐったいけど、不快じゃあない…かな…?
うん。慣れてないけど、悪い気はしないな、こういう親しげな呼ばれ方も…。
「ふふふ!ちょっと照れ臭いな」
「じゃ、じゃあ!オイラの事もダイスケって、呼び捨てにして下さい!」
「それはダメ」
嬉しそうに言ったダイスケ君は、僕の即答でキョトンとした。
「ダイスケ君だけ呼び捨てにしたら、サツキ君がやきもち妬くから」
「う〜…!」
ダイスケ君は少し不満げだった。頬を膨らませたその幼さの残る顔を見て、思わず小さく吹き出してしまう。
「それに、君を付けて呼ぶ方が、僕は気楽なんだ」
「…そういう事なら…」
少し残念そうだったけれど、ダイスケ君はしぶしぶ頷いた。
「さてと。そろそろ帰らなくちゃ」
「あ。長く引き止めちゃって、済んませんでした!」
僕が立ち上がると、ダイスケ君は慌てた様子で立ち上がり、ペコッとお辞儀した。
「そういう他人行儀な事、しなくていいのに。もっと、砕けた感じで接してよ。その方が僕も嬉しいから」
「そう…、かい?」
そのかしこまった仕草に思わず苦笑すると、ダイスケ君も苦笑いする。
「あ、ジャケット有難う」
羽織っていたダウンジャケットを脱ごうとしたら、ダイスケ君が手を上げて制した。
「いや、このまま着てって。寒空の下で引き止めたのはオイラの用事だ。風邪とか引かれたら申し訳ないし…。ジュンペーに
預けてくれれば良いから」
「そう?でも悪いよ…」
「オイラが、そうして欲しいんだ」
照れ臭そうに頬を掻いて、ダイスケ君は上目遣いに僕を見つめる。
「それなら、お言葉に甘えて…」
嬉しくて、くすぐったくて、自然に顔が綻んだ。
「それじゃあ、また、キイチ兄ぃ!」
「うん。またね、ダイスケ君」
照れ隠しなのか、ダイスケ君は笑みを浮かべて、最後に軽く片手を上げると、くるりと回れ右して、駆け足で公園を出て行った。
「キイチ兄ぃ、か…」
口に出したら急に照れ臭くなって、顔がかーっと、熱くなった…。
「ただいまー」
「おかえり姉ちゃん」
ベッドに突っ伏していたオイラは、枕から顔を上げて、ドアを開けて顔を覗かせた姉ちゃんに返事をした。
姉ちゃんはノックも無く部屋に入って来るから、油断してるとエラい目に遭いかねない。実際にこれまで何回か危機に陥った。
姉ちゃんは不思議そうな顔をして、オイラの顔をマジマジと見つめる。
「…どうしたの?ニヤケちゃって?」
「んん?」
ニヤケてたのかオイラ?
「叔父さんの家で、良い事でもあったの?」
「ん〜…まぁ…。えへへ…」
適当に相槌を打ったオイラに、
「お年始だけ置いて、さっさと帰って来たって聞いたけど?」
と、姉ちゃんは首を傾げる。…なんで知ってんの…?
オイラの疑問は顔に出たのか、姉ちゃんは肩を竦めて言った。
「今しがた叔母様から電話があったのよ。旅行のお土産を渡そうとしたけれど、なんだか急いでいる様子で帰って行ったって…」
そう言われて、オイラはふと、玄関を閉める時に叔母さんが何か言いたそうにしてた事を思い出した。
…あれ、旅行のお土産持ってけって言いたかったのか…。
「ただいま〜」
「おう!おかえり!…って、どうしたんだそのジャケット?」
「ふふっ!借り物!」
微笑んだ僕に、真面目に宿題を片付けていたサツキ君は首を捻った。
「何か嬉しそうだな?」
「まあねっ!」
暖かい春はまだ遠く、雪がちらつく日も続くけれど、僕の周りでは雪融けが始まっていた。
クマイ君の事や、叔母さんの事…、そして今日の嬉しい発見…。
長年、ずっと消えなかった残雪が、ようやく融け始めたんだ…。
「キイチ?何だそれ?」
「え?」
サツキ君の視線を追って、僕は脇に抱えていた箱に目を向ける。
…叔母さんから貰った、旅行のお土産…。
「ねぇ。手を止めさせちゃって悪いけど、少し話を聞いてくれる?さっちゃん」
僕はちゃぶ台を挟んで、サツキ君の向かいに座った。
「良いけど、何だよ?」
今日の出来事を思い出すと、自然に顔が綻んでしまう僕を、サツキ君は不思議そうに、でも楽しげに見つめてきた。
「ダイスケ。これ、ネコムラ先輩から預かって来たんだけど…」
始業式の後、いつもみたいにカワグチ先生の道場で顔をあわせると、ジュンペーは不思議そうな顔で黒いダウンジャケット
と、温泉饅頭の箱を差し出した。
「温泉のお土産と、借りてたジャケットだって。「有難う」って伝えておいてって頼まれたよ。…クリスマスの後、先輩と会っ
たの?」
「ん。一昨日会った」
頷いたオイラに、ジュンペーは首を傾げる。
「どうかしたのダイスケ?やけに嬉しそう…」
「え?う、うん…。オイラ、饅頭好きなんだ」
適当に誤魔化して、ゴメンなジュンペー…?全部説明したいけど、今はちょっとできない。
キイチ兄ぃは怒らないと思うけど、オイラの口から言うのは良く無いはずだ。
きっと、キイチ兄ぃはいつかジュンペーにも話すんだろう。オイラはその時まで、キイチ兄ぃの事を黙っておく。
本当は気になってるだろうに、聞かないでくれて有難うジュンペー…。
ジュンペーにキイチ兄ぃが話をしたら、その時、オイラはジュンペーに謝ろう。
キイチ兄ぃがジュンペーに全部打ち明けて、「今まで黙っててゴメン」って謝れるようになる日を、オイラはじっと、楽し
みに待つよ…。