第三十六話 「僕のどこが好き?」
僕、根枯村樹市、東護中三年の、クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。
教室の窓から眺める空は濃い鉛色で、朝からちらついていた雪は少しずつ舞い落ちる量を増やしている。
今シーズンは近年でも珍しいほどの暖冬だ。ここまで雪が降らないのは、この辺りではとても珍しい。
けれど、今日は昨日までの快晴が嘘のように雲が厚く、随分冷え込む。
これ、帰るまでにはかなり積もるんじゃないかな?寒いのが苦手な僕には、雪道はひたすらに辛い…。
一昨日でイベント盛りだくさんだった冬休みも終わり、今日からは普通の授業が始まっている。
…と言っても、高校入試までもう間が無いから、主要五科目以外は受験勉強用に自習にしてくれる先生が殆どで、教室はと
にかく騒がしい。
あっちこっちで会話の輪が出来上がってて、それぞれ冬休みの話題や、年末年始の特番の話で持ちきりだ。…皆余裕だなぁ…。
その騒がしい教室の中、サツキ君は僕の向かいに座り、ウンウン唸りながら英文を作っている。
「おっし!こんでどうだ?」
「惜しい。ここはbじゃなくvね」
「ああ!?今度こそ当たりだと思ったのによ…」
悔しげに呻いて、サツキ君はスペルを訂正する。
そんな僕達に、クラスメートのナギハラさんが声をかけてきた。
「精が出るわねぇ二人とも。ネコムラ君はともかく、アブクマ君まで真面目に自習だなんて、どういう風の吹き回し?」
美しい桃色の毛並みの兎獣人の顔を見上げ、サツキ君は顰めっ面で応じた。
「入試、あんまし余裕ねぇんだよ」
「へぇ…。でも、二学期の期末でかなり良い点取ってたじゃない?」
「まぐれ当たりだよ。キイチの山かけが当たっただけだ。入試は全体から出題だろ?期末みてぇに上手くは行かねぇよ」
ナギハラさんは感心したように頷く。
「真面目ねぇ…。タカツキ君達にも見習って欲しいものだわ」
彼女が視線を向けた先では、教壇の上で隠し芸大会のタレントの物真似をしているムードメーカー約二名の姿。
…まぁ、あの二人が真面目に自習していたなら、恐らくナギハラさんは保健室に強制連行する事だろう。
「邪魔しちゃ悪いから、静かにさせようかしら?」
「い、いや大丈夫!気にならないから!」
彼女の「静かにさせる」に不穏な物を感じ、僕は慌ててそう言った。
陸上部に所属し、走り込みで鍛えられた兎獣人の彼女の脚力は、殺人的なキック力を生む。
実際、タカツキ君とイシモリ君は、これまでにも何度か度を超した騒ぎを起こした際に、彼女に向こう脛を蹴られて声も出
せずに悶絶するハメになった。
…確かに静かにはなるだろうけれど…、あまりにも不憫…。
僕達が向けた視線に気付いたのか、話題に上がった二人は教壇から降り、こちらにやってきた。
「おいおいどうした?せっかくの自習なんだから盛り上がろうぜ!」
「せっかくの自習だから自習してるんだろうが」
声をかけてきたタカツキ君に対し、不機嫌そうにサツキ君が応じる。うん!その通りだよサツキ君!偉いっ!
「…アブクマ…、何か悪いもんでも食ったんじゃないか?」
イシモリ君が心底心配そうにサツキ君の顔を覗き込む。…失礼だよイシモリ君?…気持ちは分かるけれど…。
「あれほど拾い食いは止めろって言っただろう?」
タカツキ君も彼に追従して、うんうんと頷いている。
「言われてねぇし、拾い食いなんてするかよ人聞きの悪ぃ…。勉強の邪魔だからあっち行ってろ」
サツキ君がシッシッと手を振ったけれど、二人は諦めずにサツキ君の両側に回って、太い両腕をガシッと掴んだ。
「一人だけ良い子面すんなよぉ。ほれ、冬休みの想い出とか、皆で語り合おうぜ!」
「皆誰かの話を聞きたがってるんだからさ、前に来い、前に!ほら!ネコムラも!」
「おい、止めろっての!」
腕をぐいぐい引っ張られながらも、サツキ君は椅子から腰を上げない。うん、偉いぞさっちゃん!
170キロを越す立派な体格をしたサツキ君は、二人がかりでもビクともしない。けど、さすがに少々困り顔だった。
どう言って二人を諦めさせようかと、僕が迷っていると…、すっと、僕らの横で桃色の足が一歩踏み出した。
唐突だった。…桃色の彗星が動いたのは…。だから、僕らに止めようは無かった…。
ベギッ!
「ぎゃぁあああああああああっ!!!」
タカツキ君の悲鳴が教室に響き渡る。
ナギハラさんに臑を蹴られた彼は、足を押さえて床をのたうち回った。
兎獣人、加えて陸上部のエースである彼女のキック力は推して知るべし…。
ナギハラさんは、もはや声も出せずに悶絶するタカツキ君を冷たい視線で見下ろして、般若の形相でボソッと呟く。
「あんまりウザいと…、へし折るわよ?」
…こ…怖いっ…!
「そっちも欲しいのかしら?」
ナギハラさんにじろりと睨まれたイシモリ君は、慌ててサツキ君から離れると、真っ青な顔でブンブンと首を横に振った。
「もう邪魔しないから、自習を続けちゃって」
「…お、おぅ…」
ナギハラさんは般若の形相を消し、ニッコリと微笑んだ。さすがのサツキ君も鼻白んでいる…。
「…そ、それじゃあ…、気を取り直して続けようか」
僕が例題を出すと、サツキ君は頭を切り換え、真面目に問題に取り組み始めた。
サツキ君の勉強嫌いは相変わらずだけれど、入試まで一ヶ月を切った事もあってか、ここ最近は必死に勉強に取り組んでく
れている。
…油断して貰ったら困るから言っていないけれど、実は、今の彼なら星陵の合格ラインはクリアできるはずなんだよね。ま、
念には念をってヤツ。
…それに、もうじき僕も両親の家に越す事になるから、それまでの間に出来るだけの恩返しをしておきたいし…。
「…今度はどうだ?」
「うん。バッチリだね!」
少し難しめの例題を見事に解いて見せたサツキ君を褒めると、彼は嬉しそうにペタンと耳を伏せた。
…星陵の推薦入試まであと十日…。通常入試まではプラス一週間…。
僕達に残された時間は、どんどん少なくなって行く…。
「最近では珍しいですね?図書室で勉強なんて」
図書室で本を開いていた僕に、歩み寄ったサカキバラさんが小声でそう話しかけてきた。
「うん。そういえばそうかも。最近はいつも、サツキ君と一緒に勉強していたからね」
「それで、今日はアブクマさんは?」
「キダ先生と面接の練習中。少しかかりそうだから、自分の方の勉強でも、と思って」
サカキバラさんは納得したように頷くと、向かいに腰掛けた。
「お二人とも、第一志望は星陵ヶ丘高校でしたよね?」
「うん。第一にして最終志望。他の所は考えてないよ」
「良いんですか?…こう言ってはなんですけれど…、貴方はともかく、アブクマさんはせめてどこか、滑り止めとか用意して
おかなくても…」
「例え星陵に落ちて滑り止めに受かっても、そっちには行かないから無意味だよ。それに、他の学校の入試に一日潰すくらい
なら、一日分勉強した方が良いし」
サカキバラさんは一瞬ポカンと口を開けて、それから呆れたような感心したような、微妙な顔で笑った。
「本当に、ネコムラさんは強いですよね…」
「強い?僕が?」
疑問に思って問い掛けると、サカキバラさんはニッコリと笑う。
「ええ。なんというか、肝がすわっています」
「肝がすわってる…?僕が???」
「アブクマさんと貴方と、一見正反対に見えるのに、どうしてあんなにも親しくなったのか、最初はとても不思議でしたけど。
きっと、ネコムラさんのそんな所…、自分に似た所に惹かれたからなんでしょうね」
サカキバラさんの顔から視線を外し、僕は手元を見つめた。
…そういえば、サツキ君は僕の何処を好きになってくれたんだろう…?
帰り道は、足をズボズボ言わせながら、雪を踏んで帰った。
雪はふくらはぎの辺りまで積もっていて、ブーツに沁みて来るし、もう靴下はグショグショ、足はジンジンする。
顔を顰めながら一歩一歩進む僕とは対照的に、雪が大好きなサツキ君はすこぶるご機嫌だ。鼻歌交じりに雪をザクザク踏み
締めていく。
「最近雪が少ねぇからイマイチ冬って感じがしなかったんだよなぁ。明日の朝までガンガン降ってもっと積もらねぇかなぁ!」
「僕個人としては、それは賛同しかねるよ…」
サツキ君も靴がグショグショのはずだけれど、冷たそうな様子も、寒そうな様子も、全く見られない。
…もしかして、サツキ君と僕とは基本的な体の構造がまるっきり違うんじゃないだろうか…?
「…足、冷てぇか?なんならおぶって帰るけど…」
「いい!せっかくだけど遠慮しとくよ!」
サツキ君が真顔でとんでもない事を言い出したので、僕は慌てて首を横に振った。
心配してくれるのはうれしいけど、さすがにおんぶはちょっと…。
聞いてみたい事はあったけれど、今はただひたすらに辛い…!帰ってから聞こう…。
「おお〜!こりゃかき甲斐があんなぁ!」
僕達が帰ってくる間にも雪は激しさを増し、サツキ君の家の広い庭と、前を通る道路は、すっかり真っ白になっていた。
「お袋居ねぇんだな?結構積もってやがる」
20センチくらい積もった雪を眺め、サツキ君は何故か嬉しそうに指をぽきぽき鳴らす。
「まだしばらく降りそうだから、今の内に一回雪かきしとくか!お前は中に入ってあったまってろよ」
とは言ってくれたものの、僕は居候の身だ。サツキ君が雪かきするのに、暖かい所で待ってるなんて居心地が悪いよ。
「ううん。僕も手伝うよ」
「ん〜?でもお前、寒ぃの苦手だろ?」
「厚着すれば大丈夫。それに、僕も手伝った方が、少しは早く終わるでしょ?」
サツキ君は少し考えた後、
「無理はしなくて良いんだからな?辛くなったら中入れよ?風邪なんか引かれたら困んだ。受験控えた大事な体なんだからよ」
と、念を押して来た。…受験を控えてるのはさっちゃんだって同じじゃないか…。
厚めのジャンバーの上からカッパを着込んだ僕は、小さめのスコップを使って、綿毛みたいに大粒の雪がふわふわ降る中、
雪かき作業を始めた。
湿気を含んだ雪は重くて、僕は少し動いただけで体温が上がり、息が切れてしまった。…本当に体力無いなぁ僕…。
片や、体力の塊、働き者のサツキ君は、まるで多機能ラッセル車だ。
ママさんダンプを巧みに操り、地面から雪を根こそぎさらう。
スノープッシャーでこぼれた雪をガリガリ集める。
そしてスコップを使って手馴れた動作で壁際に積み上げていく。
…あ。他の地方だとあまりメジャーじゃ無いみたいだから一応説明すると、ママさんダンプっていうのは雪掻き用具の一つ
で、ブルドーザーの前の方みたいなお皿に持ち手がついている道具。スノーダンプとか、単にダンプとも呼ばれてる。
ママさんでもダンプのように雪を運べるって事でこういう名前がつけられたらしいけれど、サツキ君が使うと比喩じゃなく
ダンプのように雪を運んでいく。いうなればクマさんダンプだ。
スノープッシャーっていうのは筒を縦に割ったような、独特なお皿を持つ変形シャベルで、雪を平らな地面から剥がして押
すのに使う道具。デコボコの地面では使い難いのと、雪が重過ぎると負荷がかかって壊れやすいのが難点。
雪が好きだからなのか、それとも作業自体が楽しいのか、雪かきに熱中しているサツキ君はとにかくご機嫌だ。
かく言う僕も、あまり役にはたっていないけれど、体が火照ってちょっと気分が良い。
体が慣れたのか、それとも体が温まったせいか、寒いのもあまり気にならなくなって来たしね。
ふと見上げれば、鉛色の夕暮れ空から舞い降りる、結晶がからまりあった大粒の雪…。
僕達が雪掻きしている間にも、雪は音もなくしんしんと降り積もってる。サツキ君が通った後に覗いていた地面も、少しす
れば雪を被って白くなる。
小さな頃は、雪が降れば雪合戦もしたし、かまくらも作った。雪景色なんて冬には珍しくなかったはずだ。
でも、寒さや雪を避けて部屋に篭るのが常になっていたせいかな?刻々と変化していく雪景色は、今の僕の目には、なんだ
かとても不思議な光景に見えた。
「おっし!こんなもんかな?そろそろ中入ろうぜキイチ」
サツキ君は肩や頭に積もった雪をパッパッと叩いて払うと、僕の方を向いてそう言った。
「ねぇサツキ君、ちょっと良い?」
「何だ?」
除雪用具を掴んで玄関に向かって歩き出したサツキ君は、足を止めて振り返る。
「何で雪が好きなの?」
「ん?ん〜…」
サツキ君は少し考えてから、首を横に振った。
「分かんねぇ。何でだろうな?」
「分からないけど、好きなの?」
「そうなるかな?良いじゃねぇか、好きなもんは好きで」
サツキ君は、いつもながら大雑把にそう纏めてしまった。
「さぁて、もう風呂も沸いてるだろ、さっさと入ろうぜ。体冷やしたまんまだと風邪引いちまうぞ?」
釈然としないものを感じながらも、僕はサツキ君に頷き、暖かい家の中に入った。
「はぁ?」
上着とトレーナーを脱ぎ、タンクトップ一枚になったサツキ君は、素っ頓狂な声を上げ、目を丸くした。…寒くないの…?
お風呂に入る前に、着替えを取りに部屋に戻った際に、僕はサツキ君にまた尋ねてみた。
今度は、「僕のどんな所を好きになったの?」って…。
「なんだよ急に?」
「うん。考え始めたら気になっちゃって…」
これまではあまり深く考えて無かったけれど、今はどうにも気になって仕方ない。
「僕のどこが好き?どんなところが、どんな風に好き?」
「…お前なぁ…。普通真顔で聞くか?そんな事…」
サツキ君は照れ臭そうに顔を顰めた。
「…いや、まぁ…、冷静に考えれば、こう訊くのは凄く恥ずかしいね…。と、とにかく教えてよ!気になって仕方ないんだから」
「良いじゃねぇかよ…、好きなもんは好きで…」
サツキ君は困ったような顔でさっきと同じ事を呟くと、頭をガリガリと掻きながら僕の顔を見下ろし、
「一回しか言わねぇぞ?」
と念を押す。僕が頷くと、サツキ君は咳払いした。
「お前がお前だから好きなんだよ。お前の全部が、これ以上ねぇくれぇ好きなんだ」
「………はい?」
「二度は言わねぇよ…!」
聞き返したら、サツキ君は仏頂面でそっぽを向いた。
「え?え?何かこう、もう少し明確な好きな理由とかは?」
「良いじゃねぇか別に。何かを好きになるのに、いちいち理由なんか必要ねぇだろ?」
「…そういう物なの?」
「…そういうもんだろ」
好きになるのに、理由なんて必要ない、か…。
「大体、お前はどうなんだ?」
「え?僕は…」
…そう言われてみると…。僕は改めてサツキ君を見る。
頼り甲斐のある、そしていつも僕を優しく受け止めてくれる大きな体。
隠し事や嘘が下手で、考え事がすぐ表情に出る顔。
義理堅くて、一途で、大雑把で、細かいことは気にしないその性格。
鈍感な所もあるけれど、他人を思いやれる情の深さ。
僕には時々見せてくれる、意外に可愛い一面。
…数えて行ったら切りがなかった。ここは欠点かな?と思える所まで、実際には好きな所だったりもした。
「…多過ぎて、どこが好きって特定できないや…」
「だははは…、改まってそんな事言われると、照れんなぁ…」
サツキ君は苦笑いしながら鼻の頭を掻いた。
「難しいね。理由を考えるのって…」
「だろ?好きになるってこと自体にゃ、きっと理由なんて必要ねぇんだよ。逆に、理由がねぇと好きになれねぇなんて、なん
か寂しいじゃねぇか?」
…そうかも…。サツキ君の言う事ももっともだ。
「そうだね、理由なんてどうでも良いか」
気にする事も無かったんだ。好きなら好き、サツキ君の言うとおり、それで良いんだきっと!
「さぁ!すっきりした所でお風呂入ろう!」
「おう!」
疑問が解決し、さっぱりした気持ちで僕が言うと、サツキ君は笑みを浮かべて頷いた。
「雪かきで時間取っちゃったし、上がったら早速勉強始めようか!」
「…おう…」
晴れ晴れとした気持ちで言った僕とは対照的に、サツキ君は、今度は顔を曇らせて頷いた。
それから、瞬く間に日は過ぎた。
「それじゃあ、行ってきます!」
「おう!良い結果、期待してるぜ!」
「気をつけてな、きっちゃん!」
「いつも通り、軽〜く捻ってらっしゃい!」
僕とお母さんを駅まで見送りに来てくれた、サツキ君とおじさん、おばさんが激励してくれた。
いよいよ明日の日曜日は星陵の推薦入試。僕はお母さんに付き添われ、試験前日である今日の内にあっちに移動する。
一泊二日の旅行のような行程になるけれど、もちろん浮ついた気持ちは少しも無い。
サツキ君の為にも問題を丸暗記して、出題傾向を絞り込んであげなくちゃ!
「おーい!キイチー!」
改札の向こうから僕を呼ぶ声が聞こえ、僕達は振り返った。
「お父さん!」
すらっと背の高い茶色い犬獣人は、駅員さんに入場券を手渡して改札口を抜け、僕達に駆け寄った。
「あなた?今日は朝礼だったんじゃ…、一体どうしたんです?」
「顔だけ出して抜けてきたよ。何とか間に合って良かった…。息子の出陣を見送れないとあっては、新米の父親としては非常
に大きな痛手だからな…!」
あの真面目なお父さんが、朝礼そっちのけで見送りに来てくれるなんて…。
きっと、大急ぎで走って来たんだろう。お父さんは弾んだ息を整えながら微笑んだ。
「キイチの事だ。実を言うと、それほど心配はしていないんだけれどね」
「…はい。気を抜かずに頑張ります!」
僕はお父さんに笑みを返して、それから…、
「…それよりも、見送りに来てくれてありがとう、お父さん…。凄く…嬉しいです…!」
ちょっと恥かしかったけれど、お父さんにそう言った。
照れたようにパタッと尻尾を振って笑ったお父さんは、僕の肩をポンと、優しく叩く。
「では、気をつけて行って来なさい」
「はい、行ってきます!」
僕とお母さんは、電車に乗り込み、中から皆に手を振った。皆が笑みを浮かべて、僕とお母さんに手を振り返してくれる。
…まったく、何様のつもりだったんだろう僕は?
サツキ君には受験生だ、受験生だって繰り返して来たくせに、自分も同じ立場の受験生だっていう意識が欠けそうになっていた。
皆に応援して貰っているんだ。僕自身も必死になって頑張らなくちゃ!
「ネコムラ。この後私と一緒に職員室に来い」
推薦入試から帰った翌日の月曜、帰りのホームルームの後、キダ先生がそう言った。
今日中に合否の連絡が来ると聞いてはいたけれど…。
ふと見れば、前の方の席でサツキ君が僕を振り返っていた。
その少し不安そうな顔に、僕は苦笑する。
大丈夫だよさっちゃん。昨日も言ったじゃない?自分でも良い出来だったって!
「失礼します」
キダ先生に続いて扉を潜った僕は、突然鳴り響いた拍手の音に立ち竦んだ。
先生方は全員立ち上がり、僕を見つめて笑顔を浮かべている。
学年主任のエコジマ先生が、見たこともないような笑顔で僕に歩み寄った。
「おめでとうネコムラ君!ついさっき君の合格の連絡が入った所だよ!それについて、校長先生から直々にお話がある」
校長先生が?一体何だろう?
某有名ファーストフード店のあの創始者にも似た、白髪交じりの恰幅の良い校長先生は、僕の前に立つと両手で手を握った。
「ネコムラ君。私達職員一同、君を誇りに思うよ!」
「え?えぇと…。はい?」
僕は戸惑いを隠せなかった。
…だって、これはどう考えてもおかしいよ…?
たかだか一人の生徒が推薦入試に通ったくらいで、何で先生方全員がこんな…。
それに、校長先生が直々に労いの言葉をかけてくれるだなんて…、一体何があったんだろう?
「星陵の海原校長先生も大変驚いていたよ。君は、ここ十数年来でたった一人の、全科目満点での推薦合格者だそうだ!」
「…満点?」
正直、自分でも驚いた。
入試問題には結構、いや、かなり難しい問題もいくつかあった。まさか満点を取れるなんて思ってもいなかったから…。
「嬉しくないのかね?」
ぼーっとしていた僕の顔を、校長先生が覗き込んだ。
「い、いえ!もちろん嬉しいです!でも…、実感が沸かないというか、なんと言うか…」
こんな風に注目を集めた経験なんて無い…。
この時の僕はどんな顔をしていたんだろう?先生方は可笑しそうに、嬉しそうに、声を上げて笑っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいきっちゃん!」
夜8時を回って帰宅した僕を、サツキくんのおばさんは玄関口で出迎え、抱き締めてくれた。
女性とはいえ熊族だ。僕はおばさんにひょいっと、軽々抱き上げられてしまう。
「サツキから聞いたわ!満点での合格ですって!?本当に大したものよ!」
おばさんは僕にグリグリと頬ずりした。まるでこのままキスでもされちゃいそうな勢い…。
こういう時の体一杯に感情を表す喜び方、サツキ君とホント似てるなぁ…。
「い、いやぁ…、運が…良かっただけですよ…!」
うわぁ…、こんな風に皆から褒められるなんて、今日が初めてだ…。恥ずかしさと誇らしさで、顔がカーッと熱くなる…!
「あれ?そういえばサツキ君は?」
おばさんは僕を抱き上げたまま、可笑しそうに笑った。
「きっちゃんの満点合格でハッパをかけられたみたい。帰ってくるなり部屋に閉じこもって勉強しているわ。「俺も無様なと
こは見せられねぇ!」ってね!」
「そうですか…。ふふっ、頑張った甲斐があったかも!」
僕とおばさんは、顔を見合わせて笑った。
「ただいま」
「おう、おかえり!」
サツキ君は教科書から顔を上げ、笑みを浮かべて僕を見つめた。
「結構かかったな?親御さん達、喜んでたか?」
「うん。たくさん褒められちゃった。なんだかくすぐったいね」
「ぬはは!遅くなる訳だよなぁ。話も弾んだろ?」
「まぁね。でも、遅くなったのは、叔母さんの家にも報告に行ってたからなんだ」
サツキ君は面食らったように一瞬黙り込み、それから頷いた。
「…そうだな。叔母さんにも、報告しとかなきゃならねぇもんな…」
少し硬い顔でそう呟いた後、サツキ君は表情を和らげた。
「しかし本当に凄ぇなぁ、満点なんてよ!自分の事じゃねぇってのに誇らしいぜ!回りに自慢できねぇのがちと残念だけど、
お前は本当に自慢の恋人だ!」
「あはは!ありがとう!君に褒めて貰えるのが一番嬉しいよ!」
「ぬははっ!俺も負けてらんねぇや。満点はちと無理だが、見てろよ?確実に合格決めてやるからよ!」
「うん。期待してるね!」
僕はサツキ君に抱き付き、その頬にキスをした。
「励ましのキス。続きは入試が終わってからね?」
「おう、それまで我慢しとく…」
僕が笑いながら言うと、サツキ君は頭を掻きながら照れたように笑った。
サツキ君の入試は来週の日曜。残り一週間を切っている。
君を信じてる。
大丈夫、きっと一緒に星陵に行けるよ、さっちゃん!