第三十八話 「次はもっと」
僕は根枯村樹市。東護中三年の、クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。
「これと、これと…。あ、これはサツキ君から借りてたヤツだ。あとは…」
「ただいま~。…って何してんだ?」
柔道部に顔を出して、遅れて帰ってきた茶色い大熊は、荷物を整理している僕を見ると、訝しげに首を傾げた。
「おかえり。何って、引っ越しの準備だけど…」
僕の答えに、サツキ君は驚いた様子で「あっ!」と声を上げ、目を丸くした。
「…も、もう行っちまう…のか…?」
サツキ君は僕の顔と手元を交互に見つめて、少し掠れた声で言った。
…普段の声からは想像もできないほど、弱々しい声…。
「この家にご厄介になるのは、受験が終わるまでっていう約束だったし…」
「…そっか…。そうだったよな…」
サツキ君は床の上にどすんと腰を降ろすと、大きな体を縮めてしょぼんと項垂れた。
…そんな、寂しそうな顔しないでよ…。…僕だって…、寂しいんだから…。
「…まだ、すぐには行かないよ?週末に越す予定だから、準備だけしておこうと思って」
「そ、そうなのか…?」
少しだけほっとしたように表情を緩め、サツキ君は顔を上げる。
いざとなると、やっぱり離れるのは辛いね…。お互い、納得して受け入れていたはずなんだけれどね…。
「…ダメだなぁ俺ぁ…。親御さん達と暮らすのは当たり前の事だし、その方がお前も幸せなんだって、分かってんのに…」
「今だって十分以上に幸せだよ。できれば、僕だって離れたくはないよ…。でも、今までが特別な状況だったんだよね…。お
互い、離れる事に慣れなくちゃ…」
僕の言葉に、サツキ君はこくりと頷き、
「…そうだよな…。おっし!」
笑みを浮かべて元気に立ち上がった。
「手伝うぜ!とっとと済ませて、今の内に目一杯楽しもう!」
「うん!ありがとう!」
僕はサツキ君に手伝って貰って、荷物の整理を再開した。
元々、僕の私物が少なかった事もあって、引っ越し準備はその日の内にあらかた終わった。
「そうですか…。新しいご両親の家に…」
学校の帰り道、立ち寄ったハンバーガーショップで僕達の話を聞くと、ジュンペー君は耳を少し寝せて、難しい顔をした。
「オレ達、幸せなんですよね…。両親も元気で…、家もあって…、ネコムラ先輩の状況を見てたら、家の手伝いが面倒とか、
小言がうるさいとか、細かい事で不満を感じる自分が恥ずかしくなります…」
「だな…、俺も同じだ。自分が恵まれてるのにも気付かねぇで、なんつぅ贅沢言ってたんだろう…。ってな…」
ジュンペー君には、この間、僕の過去を全て話した。
ダイスケ君は僕に気を遣ってくれたらしい。僕が自分から話すまでの間、ジュンペー君が尋ねても、何も話さなかったそうだ。
…本当に義理堅いなぁダイスケ君も…。僕の知ってる熊さんは、みんな優しくて義理堅い…。
ジュンペー君は、僕の過去を知っても、変に距離を置こうとはしなかった。
あえてその話題に触れる事もまずないからだけれど、以前と全く変わらずに接してくれる。本当に有り難い事にね…。
…まぁ、それはそうと…。
「ちょっと二人とも…」
僕はしかめっ面を作って二人の顔を交互に見た。
「いかにも僕が極めて不幸だ。みたいな言い方止めてくれない?改めて言われると落ち込みそうになるんだけど」
「っとぉ…!そうですね、失礼しましたっ」
「ぬはは!悪ぃ悪ぃ!」
大仰に、芝居がかったため息をついて見せると、二人は苦笑いを浮かべた。
まぁ、本当はあまり気にしてないんだけどね。
ずっとウジウジ考え込んで過ごして来たせいか、すっかり慣れちゃってるっぽい。
ジュンペー君は、今日はたまたま部活が休みで僕達に同行している。
ダイスケ君と稽古をする夕方まで、少し時間を潰したいらしい。
「それじゃあ、夜の営みもあと少しの間だけですか。盛り上がるんじゃないですか毎晩?」
「だなぁ…。悔いの残らねぇよう、今夜もたっぷり愛し合おうぜ?キイチ!」
…やだこのスケベども…。
「そりゃそうと、そっちはどうなってんだ?ちゃんと上手く行ってんのか?」
「え?あ、いやぁ…その…。まぁ順調です。あははははっ!」
サツキ君の問いに、ジュンペー君はもじもじと指先を絡め、幸せそうな顔で照れ笑い。
まぁ、ジュンペー君もダイスケ君も本当に気があってるし、二人の事は心配要らなそうかな?
「…っと!もうじき六時ですね。オレはこの辺でおいとまします。そろそろダイスケの方も部活終わる頃だし」
「おう。気を付けて行けよ?ダイスケによろしくな」
「その内、また皆で出かけようね?」
「はい、ありがとうございます!じゃ、先輩方もお気を付けて!」
ジュンペー君は空になった自分のトレイを手に、僕達に一礼して出口へ向かった。
「キイチ、食わねぇのか?」
彼を見送ると、サツキ君は僕の前のトレイに乗った、手つかずのホットドッグとフライドチキンを見ながらそう言った。
「だって、もうじき夕飯だし…」
サツキ君は入店した際に、僕の分も問答無用でオーダーしていた。
夕食間際になって、ハンバーガーとホットドッグとポテトとチキンを食べるのはどうかと思うよ?
これから道場に行って、ダイスケ君と一緒に柔道の稽古をするジュンペー君と、体も動かさないで帰宅して夕飯を食べる僕
らとは違うんだからさ…。
「んじゃ俺が貰うぞ?」
言うが早いか、自分の分をペロリと平らげていたサツキ君は、僕のトレイを自分の前に引き寄せた。
…さっちゃんの胃袋は、一体いくつあるんだろう…?
「一個だよ。牛じゃあるまいし…」
サツキ君は顔を顰める。…あれ?思ったことが口に出てたみたい…。
「育ち盛りなんだからよ。ちゃんと食わなきゃでかくなれねぇぞ?」
そんな体してて、まだ大きくなるつもりなの?
「ちゃんと高さに伸びるなら良いけれど…。横にだけ伸びても困るし…」
「ん~?…コロッと太ったキイチもまた、それはそれで可愛いかもなぁ…」
サツキ君は僕のどんな姿を想像しているのか、ニヤニヤと笑う。
「御免被ります…!サツキ君こそ、痩せてスリムになれば、今よりもっと格好良くなるのにねぇ」
からかい半分でそう言ったら、ホットドッグにかぶりつこうと、口をあんぐり開けていたサツキ君は、目を丸くして二、三
度瞬きした。
「…ほんとに、そう思うか?」
う?本気にしちゃった?なんか表情が真剣だよ?
「思う事は思うけど…」
少し考えた後、僕は思わず笑ってしまった。
だって、サツキ君ったら、凄く真剣な顔でホットドッグを睨んでるんだもん!
「あはは!やっぱり今のままの君がいいや!」
「…そか!」
サツキ君はほっとしたような表情で頷くと、ホットドッグを咥え込んで、半分を一気に囓り取った。
なんとも豪快な食べ方…、小食な僕としては、見ていて感嘆するね。
…あ、そうだ…。
いつも作って貰ってばかりだし、家にご厄介になっている内に、一回ぐらいは僕も何か、サツキ君の好きな料理を作ってあ
げたいな…。
狙っていたチャンスは、僕がサツキ君の家に居られるリミットの二日前にやってきた。
台所をお借りして、家庭科の授業で使うエプロンを身に付け、図書室で調べてきた事を書き綴ったメモを片手に、僕は今、
サツキ君の好物の豚汁を作っている。
今夜は、おばさんは婦人会の集まりでお出かけで、おじさんは仕事で遅くなるそうだ。
普段ならサツキ君が夕食の支度をする所だけれど、普段のお返しの意味も込めて、夕食当番を買って出たんだ!
「なぁ、気ぃ遣わなくても良いんだぜ?俺が作るから…」
「良いの良いの。たまにはやらせてよ」
遠慮しようとするサツキ君を、僕は半ば無理矢理部屋に押し込めた。
「呼ぶまで出てきちゃダメだよ?美味しいの作ってビックリさせるんだから!」
「ぬはは!分かったよ。邪魔しねぇで大人しくしとく」
素直に従ってくれたサツキ君は、少し嬉しそうだった。
よし!期待に応える為にも頑張るぞぉっ!
さて、野菜も切ったし、器具の準備も済んだ。いよいよ調理開始!
えっと。まずは鍋の底に油をひく。そして、中火で豚肉を炒めて…。
…中火ってどれくらいだったっけ?…とりあえずこれくらいかな?あ、あっ、あっ、あああっ、焦げちゃった!消火消火!
…う~ん…。のっけから躓いちゃったなぁ…。
でもまぁ、多少の焦げ目くらいは初心者の愛嬌として大目に見て貰おう…。
えぇと次は…。大根、ニンジンなど、切った野菜類を加えて軽く炒める、か…。
…軽くってどの程度だろう?もうちょっと具体的に書いてある本を参考にすれば良かったかな…?
それじゃあ、軽く、軽くと…。ああっ!?お肉がさらに焦げて大変な事にっ!消火消火!
…なんだかだんだん不安になって来たぞ…。でもここまで来て投げ出すのも嫌だし…。
気を取り直して次は…、水と適量のダシ、みりんを少量加え…。
…適量とか少量とか言っても分からないってば…。
これで行けると踏んだんだから、調べてた時の僕もどうかしてるな…。まぁやってみよう。加熱開始!
なになに?あとは野菜の火の通り具合を見て…?
…どうなれば火が通った事になるんだろう?さっき一回炒めたし、ある程度暖まればそれでいいのかな?
家庭科の授業でお味噌汁を作った時はもっと簡単だったのに…。
で、次は煮汁で味噌を溶く、ふむふむ、これは大丈夫そうだ。おたまで煮汁をすくい、味噌をとかし、お鍋に戻す…。よし
できた!
…なんだかちょっと楽しくなってきたっ!
あ、サツキ君は味が濃いのが好みだし、汗っかきだから塩分多めの方がいいよね?よし、お味噌は少し多めにしよう。
うーん、でも、味噌だけ増えても味のバランスが崩れるかな?
ここはミリンとか他のも少し加えて…、あ!蓋が取れっ…落ちっ…!ああっ!?ミリン大量投入しちゃった!
…ダシとお味噌をもう少し加えておこう…。これで挽回だ…。
しばらく火にかけていたら、何だかお味噌汁っぽい良い匂いがしてきた。もしかして、結構上手く行ってる?
えっと、あとは…、煮えてきたらアクを取り、ジャガイモを入れる。
ふむふむ。そろそろ頃合いかな…?丁寧にアクを取って、と…。で、ジャガイモを投入。
で、次は…。芋が煮くずれしないように気を付けつつ、火が通ったらネギを散らして完成か。
ふふ、もう出来たも同然だね!一時はどうなる事かと思ったけれど、これはきっと上手く行ってる!
「お待たせ~!」
「お、出来たのか?」
間食もせずに待っていてくれたサツキ君は、階段を降りてくると、鼻をひくつかせて口元を綻ばせた。
「お、良い匂い!やるじゃねぇかキイチ!」
「えへへ…、ありがとう!」
誉められたのが、ちょっと嬉しい…。僕はさっそくご飯と豚汁をよそい、居間に運んだ。
おかずまで作るのは無理だったから、他の品は漬け物とゆで卵だけになっちゃったけど、そこは勘弁して貰おう…。
うん。お肉の焦げ目と不揃いに切られた野菜がちょっと気になるけれど、見栄えはともかく匂いは普通の豚汁だ。
お腹が減っているのもあってか、とても良い匂いに思える。
「んじゃさっそく…」
サツキ君は舌なめずりすると、胸の前で手を合わせた。
『頂きます!』
僕達は声を揃えて手を合わせ、さっそく豚汁に箸をつけた。
…ブビュウっ!
汁を口に含んだ途端、僕は思わず盛大に吹いてしまった。
「げほっ!ごほっ!…な、何これ!?こっ…こんなはずじゃ!?」
想像を絶する凄い味。むせ返りながらちらりと目をやると、…あ…。
豚汁を口に含んだまま、サツキ君は僕が吹き出した豚汁を顔面に浴び、硬直していた。
「ごっ、ごご、ごめんっ!大丈夫!?」
サツキ君は口の中の豚汁もどきをゴクンと飲み込み、微笑んだ。ぎこちなく。
「ん…。けっ…こう、いける…ぜ…!」
途切れ途切れに言ったサツキ君の笑みは、はっきり分かる程に引き攣っていた。
「…ごめん…。まさかここまで失敗するなんて予想もしてなかった…。本当にごめん…!」
僕はテーブル越しに身を乗り出して、サツキ君の顔を布巾で拭いながら平謝りした…。
豚汁は、物凄い味だった。なんていうか、濃い。特濃。
大量に入ってしまったミリンと、それに張り合って入れたお味噌とダシ。加えて煮込み過ぎてしまったのが原因なのか、物
凄くしょっぱい…。
おまけに肉は火が通り過ぎて硬くなっていて、大根のいくらかはどろりと溶けている…。
さらに投入タイミングを間違えたのか、ジャガイモは芯まで火が通っていない…。
「まぁ、初めてにしちゃぁ上出来だぜ。ちゃんと形になってるしよ」
サツキ君はそう言って、豚汁をガツガツと掻き込み始める。
「あ、無理しないで!お腹壊しちゃうよ!?」
「平気平気、味が濃いから飯も進むってもんだ」
笑いながらそう言ったサツキ君を前に、僕はただただ申し訳なく、項垂れた。
「…ごめんね…」
「だから謝んなって」
「…でも…、こんな失敗したの、誰にも食べさせられないよ…」
うう…、落ち込む…。まさかここまで酷い味のが出来上がるなんて…。
「…後片付けぐれぇは俺がやるからよ。しまい場所分かんねぇだろ?それより、慣れねぇ事して疲れたろうから、食ったらゆっ
くりしようぜ、な?」
サツキ君は僕に向かって笑いかけた。
「ほらほらどうした!んな落ち込んだ顔すんなって!」
「だって…」
僕…、君にお返ししたかったのに、こんな失敗作を…。
項垂れている僕に、サツキ君は箸を止めて微笑みかけた。
「…俺、お袋以外に飯作って貰ったのなんて、お前が初めてなんだ…。しかも、俺を喜ばそうと思って豚汁にしてくれたんだろ?」
僕が頷くと、サツキ君は一層深い笑みを浮かべた。
「だからよ!俺は今、物凄ぇ嬉しい!なんてったって、他の誰でもねぇ世界一好きなヤツに、初めて飯を作って貰ったんだか
らな!」
「…さっちゃん…」
僕は胸が一杯になり、言葉に詰まった。
申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちが、心の中で混じり合う…。
「ごめんね…。ありがとうさっちゃん…。僕、次はきっと失敗しないで、美味しく作るからね…」
「おう!また作ってくれんだな?」
サツキ君は、心の底から嬉しそうに笑った。
「今日は二人だけなんだしよ、片付けてゆっくりしたら、一緒に風呂に入ろうぜ?」
「う、うん!」
僕は漬け物とゆで卵をおかずに、早々と食事を終えた。
お風呂の前に、エプロンを洗濯機に入れて、着替えを用意しておかなくちゃ…。
一言断って部屋に向かう後ろで、サツキ君が何かをボソッと呟いた。
この時は何を言ったかあまり良く聞こえなかったけれど、後から思い返すに、あの時彼はこう言っていた。
「大鍋に一つか…。食い切れるかな…?」
十分後、着替えを終えてエプロンを洗濯機に入れ、居間に戻ると、サツキ君の姿が無かった。
食べ終わって片付けを始めたのかな?そう思って台所に行った僕は、おかわりをよそっているサツキ君を目撃する。
「さ、サツキ君!?無理して食べないで、捨てた方が…!」
「無理なんかしてねぇよ」
サツキ君は鍋の底をおたまで擦りながら応じた。
…ん…?鍋の底…?
歩み寄って覗き込むと、お鍋は空っぽになっていた。
「それに、これが最後の一杯だからな」
サツキ君はそう言ってお椀に箸を突っ込んだ。
「ちょっと待って!まさか…、全部食べたの!?」
驚いて尋ねると、サツキ君は苦笑いした。
…ちょっと!?なんだか苦しそうだけど大丈夫!?
「無理に食べる事なんてなかったのに…!捨ててくれて良かったのに!」
「お前がせっかく作ってくれたもんを、捨てるなんて勿体ねぇ真似できる訳ねぇだろ?」
「あ、ちょっと、待っ…」
僕の制止を無視し、ガツガツと最後の一杯を掻き込み始めたかと思えば、サツキ君はあっというまに平らげ、盛大にげっぷ
をした。
「…っぷふぅ…。…ごっそさん…」
サツキ君はお椀を流しに置くと、お腹を見下ろして苦しげにさすった。
セーターの上からでも、お腹がぱんぱんに膨れているのが分かる。
「うぅっぷ…!さすがにもう食えねぇや…」
「サツキ君…。嬉しいけど、でも大丈夫?だって、あんな酷い味だったし…、お腹壊しちゃうんじゃ…」
「暴飲暴食で鍛えた俺の胃袋を舐めんなよ?」
心配になってきた僕に、サツキ君はニッと笑って見せた。
「…でもまぁ、大鍋一つはさすがにちっと堪えた…。すぐ風呂に入んのは厳しいや、落ち着くまでちょい休憩…」
サツキ君は突き出たお腹を抱えて、よたよたと居間に戻ると、床にごろんと横になった。
「うぉっぷ…、苦し…」
そう言って、サツキ君は目を閉じてお腹を撫でた。
「食べてすぐに横になると牛に…」
彼の顔を見下ろして言いかけた僕は、思い直して言葉を切った。
…今回ばかりは、小言はいいや…。
そしてサツキ君の傍に腰を降ろし、丸く膨れたお腹をさすってあげた。
「さっちゃん。ありがとう…。皆で食べられるように、次はもっと上手く作るね…」
「…おう。でもな、礼を言うのはこっちの方だぜ?」
サツキ君はお腹を撫でられて気持ちいいのか、細く目を開けて微笑んだ。
「ありがとよキイチ。凄ぇ嬉しかった」
「…ありがとう…、僕も、嬉しい…!」
思わず身を乗り出したら、サツキ君が「うぶっ!」と呻いた。
「き…キイチ…!悪ぃけど、腹に体重かけねぇでくれ…!」
「あ!ご、ごめん!」
ついついいつもの調子で、サツキ君のお腹の上に手をついて身を乗り出していた僕は、慌てて手を引っ込めた…。
今回は失敗したけれど、それでもサツキ君は喜んでくれた。
次回はきっと、もっと上手に、美味しく作ろう。
サツキ君の料理を僕がいつもそう食べるように、「美味しい」って、笑って食べて貰えるように…。
「寂しくなっちまうなぁ…」
「そうねぇ…」
その週の金曜日。つまり僕が乾家に越す前日。揃って夕食を摂りながら、おじさんとおばさんが呟いた。
送別会という訳じゃないけど、おばさんが用意してくれた夕食はかなり豪勢なものだった。
僕の好きな物ばかりが用意された食卓で、僕はおじさんに、おばさんに、そしてサツキ君に、言葉ではとても言い尽くせな
いほどの感謝の気持ちを、出来る限り訴えた。
「ま、別に遠くに引っ越してく訳じゃねぇんだ。いつでも遊びに来いやな、きっちゃん」
「はい、ありがとうございます」
「サツキも、随分寂しいんじゃないの?」
からかうような笑みを浮かべたおばさんの問いに、サツキ君は黙々とご飯を食べながら、
「寂しくねぇわけ、ねぇだろ」
と、ボソッと応じた。
他の誰かの前で、素直にそんな事を認めるなんて思ってなかったから、少しばかり驚いた…。
「四人で飯食ったりするなんて、まだミヅキが…、…なんでもねぇ…」
続けて言いかけたサツキ君は、決まり悪そうに言葉を切った。
おじさんは黙り込み、おばさんは目を伏せて小さくため息をつく。
…ミヅキさんの話題がうっかり出ると、いつもこんな雰囲気になる…。
「…来週からはさ」
重苦しい雰囲気を破り、サツキ君は努めて明るい声で言った。
「毎朝、迎えに寄ってくからよ。今まで通り、一緒に学校行こうぜ」
そうだ。サツキ君にしてみれば少し回り道になるけれど、これからも一緒に登下校できるんだ。
残り少ない中学生活だけど、サツキ君とは、クラスの誰よりも長く一緒に居られる。
毎朝一番早くに顔を合わせて、毎夕最後に別れる事ができる!
「…うん!ありがとう!」
僕が心からの笑顔でお礼を言うと、サツキ君は照れ臭そうに鼻の頭を擦り、おじさんとおばさんが微笑んだ。
重苦しくなりかけた雰囲気は、いつのまにか元に戻っていた…。