第四話 「貸し借りなし」

僕の名前は根枯村樹市。東護中三年。図書委員会所属。クリーム色がかった白い被毛の、猫の獣人。

学校から少し離れた場所にある公園で、だいぶ傾いた日の光を浴びながら、僕は一人、ベンチに腰掛けていた。

昔、まだ僕達が幼かった頃、ここには広い林があった。

あれから行われた開発によって、今では一部が公園として残っているだけで、周囲にはマンションや分譲住宅が立ち並んでいる。

時間は全てを変えてゆく。あるいは壊してゆく。

大好きだった遊び場は姿を変え、幼い頃の想い出は風化し、全てを信じて疑わなかった心は猜疑心と拒絶に彩られる。

…それでも、君は良い方に変ったね。

君は本当に立派になった。泣き虫だったあの頃からは想像もつかないほど…。それなのに、胸の中には素直さと純粋さが、

あの頃と全く変わらずに残っている。

傷だらけになって、汚れて、濁ってしまった僕とは正反対だ…。

今の僕には君が眩しい。…眩しすぎるんだ…。一緒に居たら僕はきっと…。

だから、これからはまた以前のようになろう。君は僕と関わらず、僕は時折遠くから君を見つめるだけの関係。…それで良

い…。…それで、良いんだ…。

…それで…、良い…、はずなのに…。

どうして、こんなに辛いんだろう?

どうして、こんなに悲しいんだろう?

どうして、こんなに胸が苦しいんだろう?

どうして、こんなに君に会いたいんだろう?

…君の顔が見たい。声が聞きたい。胸が締め付けられているように苦しくて、心がざわざわして落ち着かない…。

僕の葛藤が、迷いが、幻聴を聞かせる…。

君の声が聞こえるよ…、遠くから、僕を呼ぶ声が…。

「……ムラー…!」

僕ははっとして顔を上げた。

「ネコムラぁーっ!!!」

僕はベンチを立つ。公園の入り口に、息を切らせて立っているアブクマ君の姿があった。

「さっちゃん…」

うっかり出た言葉に、僕は口を押さえた。まだ距離もあり、呟くような声だった事もあって、彼には聞かれていないようだった。

「ひでぇなあ…。一緒に帰るって、たこ焼き食うって、言ったじゃねぇか…」

アブクマ君は全身汗ビッショリで、肩で息をしていた。足取りは重く、靴底を引きずるようにして歩いてくる。

…僕を探して…、あちこち駆け回ったんだ…。

「悪ぃっ!」

アブクマ君は僕に歩み寄ると、いきなり頭を下げた。

「…え…?」

あっけにとられた僕に、アブクマ君は頭を下げたまま続けた。

「サカキバラから無理矢理聞き出した。俺が、去年お前と会ってた事…。あの時路地裏で会ったのがお前だって、気付いて無

かった…」

…ああ、そのことか…。

「なのに俺…、俺…、お前が行きがかりで助けてくれたんだとばかり思って…、お前のこと、全然気付けなくて…」

そんな事、気にしなくて良いよ。そう言いたかった。でも、これっきりにしなきゃいけないんだ…。

「行きがかりだよ。それに、これで貸し借りなしだからね?僕は一人が好きなんだ。これからは前みたいに、お互い干渉なし

でいこう。正直、図書室でくらいは静かに過ごしたかったんだ。これで僕もお役御免だからね、やっと平穏な日常に戻れるよ」

僕は極力冷たい口調で言った。…アブクマ君は、ショックを受けたような顔をしていた。

「まだ、返し足りねぇよ…。俺がお前から受けた恩は、あの程度じゃ…」

「恩?結局、エコジマ先生の不正な追試だったじゃないか?結果的には君が勉強する必要も、僕が勉強を見る必要も無かった。

お互い、無駄な時間を過ごしたね」

言いながら、僕は自分を絞め殺したくなる。

アブクマ君は眉を八の字にして、今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめていた。…こんな表情は昔からちっとも変っていない…。

「…僕はもう行くよ。それじゃあね」

僕はアブクマ君に背を向け、歩き出した。

「ま…、待って…」

背中に投げかけられた言葉は、途中で途切れた。続いてドサッという音が後ろで聞こえ、僕は振り向く。

アブクマ君が、地面にうつ伏せに倒れていた。

…思い出した…。彼は昔から暑いのが苦手だった。今日一日、この炎天下の中、冷房の入っていないあの教室で追試を受け

ていたんだ。

それに、長距離走は昔から一番の苦手なのに…、連日、深夜に及ぶ必死な勉強で疲れ切った体で、僕を探して町中走り回っ

たりなんてしたから…!

「アブクマ君?アブクマ君っ?!」

僕は駆け寄って、アブクマ君の体を揺さぶった。彼は苦しげに目を硬く閉じ、ふぅふぅと荒い息をしている。たぶん熱中症

だ…。彼は、こんなになるまで僕を探してくれていたんだ…。

「ごめん…、ごめんね、さっちゃん…」

僕は泣き出したいような気持ちでアブクマ君の腕を掴み、渾身の力を振り絞って仰向けにひっくり返した。

彼を仰向けに寝かせると、僕は近くの水飲み場でハンカチを湿らせて額に当てた。それから自販機が近くにあった事を思い

出し、慌てて飲み物を買いに行く。

スポーツドリンクを買って急いで戻ると、アブクマ君が苦しげに何か呟いていた。

「どうしたの!?大丈夫!?」

「…で…。…ちゃん…」

アブクマ君の口元に耳を寄せ、その言葉を聞き取った時、僕の中で何かが弾けた。

「…置いてかないで…、きっちゃん…」

アブクマ君はそう繰り返していた。彼の閉じられた目に涙が滲み、頬を伝い落ちて行く。

昔と同じ、泣き虫だった頃と同じ表情を浮かべるアブクマ君を前に、僕の胸は激しく痛んだ…。



「…んあ…?」

薄く目を開けたアブクマ君の顔を、僕は覗き込んだ。

「大丈夫?」

アブクマ君は不思議そうな顔で僕の顔を見上げ、呟く。

「ネコムラ…、俺…?…って!?」

僕の膝枕に驚いたのか、彼はいきなりガバッと起き上がった。そして起き上がったとたんに頭を押さえて、顔を顰める。

「いっ、つつつ…!」

「急に動かないほうが良いよ。熱中症…、あと脱水症状だと思う。…これ飲んで。水分を補給しなきゃ…」

ボクが差し出したスポーツドリンクを、アブクマ君は礼を言って受け取る。

ゴクゴクと喉を鳴らしてドリンクをガブ飲みすると、アブクマ君はため息をついた。

「済まねぇ…。楽になった…」

何を言えばいいのか分からず、僕は黙り込む。

彼も同じなのだろうか、視線を落とし、半分に減ったドリンクのボトルを見つめていた。

「…俺さ…」

アブクマ君はポツリと言った。

「ちいせぇころは、無茶苦茶どんくさくて、すげぇ泣き虫だったんだ…」

…うん。良く知ってる。

「このあたり、俺が幼稚園に居た頃は広い林だったんだよ。で、その頃はいつも、仲の良い二人と遊んでた…」

そうだったね…。君も、まだ覚えていたんだ…。

「臆病で、のろまで、なかなか友達が出来なかった俺と、その二人は嫌な顔もしねぇで遊んでくれたんだ…」

…だって、全然、嫌なんかじゃなかっもん…。

「その内一人は同じ学校に居た…。…たぶん、お前も知ってる…」

………。

「もう一人は、小学校に上がる前に急に引っ越して行っちまって、それっきり会えてねぇ」

アブクマ君は、顔を上げて僕を見た。

「今朝、久しぶりにその頃の夢を見たんだ。そんで気付いた」

 …え…?

「お前さ、その引っ越してった友達に、なんとなく似てるんだよ。毛の色も違うし、苗字も違うけど。そいつもキイチってい

う猫だったんだ…」

どうやら、僕の正体に気付いた訳ではないらしい。ほっとして内心胸をなでおろす。

「今日、教室で俺の事助けてくれたろ?あの時、お前とそいつがダブって見えた。そいつ、優しくて、いつも笑ってて、かっ

こよくてさ…。俺がからかわれたりして泣いてると、すぐにすっ飛んで来て助けてくれたんだ…」

…そうだったね。あの頃は、サツキって名前が女の子みたいだって、よくからかわれて泣いてたっけ…。

「憧れてたんだ。こんなヤツみたいになれたらいいなって」

アブクマ君は照れたように鼻の頭を掻き、視線を落とした。

「突然引っ越しちまってさ。いきなりのことだったから、さよならも言えなかったし、何も恩返しできなかった。今でも、あ

の時の事を思い出すと苦しくなるんだ…」

…僕も…、辛かったよ…。

「もう、イヤなんだよ。借りも返せねぇうちに、居なくなられるのは…」

アブクマ君は、今にも泣きだしそうに顔を歪めた。その様子がたまらなく愛おしく、僕の胸は激しく脈打っていた。

「アブクマ君…」

自然に、言葉が出た。

「貸し借りとかは、もう無しだよ」

「でも…」

顔を上げた彼の鼻に、僕は指を突きつける。驚いたような顔をしている彼に、僕は言ってやった。

「そういうのイヤなんだ。貸しとか借りとか、気を遣ったり遣われたりとか、堅苦しくてめんどくさいのは」

僕は彼の鼻をグリッと指で押し、笑いかけた。

「もう、貸し借り無しでチャラ。対等のクラスメートの関係で、いいじゃない?」

僕が指を引っ込めると、アブクマ君はきょとんとした表情を浮かべる。その目が丸く、大きく見開かれた。

「そ、それじゃあ…」

「まあ、あまり付き合いは良い方じゃないし、テレビなんかもほとんど見ないから、話しててもつまらないと思うけどね?」

彼は驚きながらも、嬉しそうな顔をした。

まったく、自分がここまで意思の弱いヤツだとは思わなかった。…幸い、まだ悟られてはいないようだけど…。でも…、あ

と8ヶ月、せめて卒業して別れるまでは、一緒に居ても…、いいよね?

「じゃあ、さっそくたこ焼き食いに行こう!借りって訳じゃなく、ジュース奢ってもらったお返しって事ならいいだろ?」

アブクマ君はいきなり立ち上がり、

「あ、あれ…?」

立ちくらみでもしたのか、数歩ふらふらっと、前のめりに歩く。って…、

「あぶないっ!」

僕は咄嗟に立ち上がって彼の体を支え…、支…え…!…む、むりっ…!

「むぎゅうっ!」

僕達は重なり合って、芝生の上で派手に転んだ。支えようとした僕は、仰向けに押し倒されたような格好になり、彼の下じ

きになって、無様にも身動きが取れなくなっていた。

「ちょ…!おも…いっ…よっ…!」

呻いた僕の上で、まだふらつくのか、アブクマ君は片手で頭を押さえながら上体を浮かせる。鼻がくっつきそうな間近に、

情けなさそうに顰められたアブクマ君の顔があった。

「わ、悪ぃ…。大丈夫か?」

「ふぅ…。なんとか平気みたい…。内蔵が口からはみ出るかと思ったけどね」

僕が笑いながら言うと、アブクマ君は決まり悪そうに、ますます顔を顰めた。

…ん?僕は奇妙な感触を覚え、脚を動かす。アブクマ君の腰の下辺り、僕の太ももに、何かが当たってピクンと動いたよう

な気がした。

何だろう?と思った瞬間、アブクマ君は仰け反るようにいきなり身を起こし、そのまま背中から地面に倒れこむ。

「ほら!だからまだ急に動いちゃダメだって…」

アブクマ君は身を起こすと、芝生の上にあぐらをかき、体を縮めて鼻の頭を掻いた。

「…悪ぃ…」

丸い耳をペタンと伏せ、なんだかずいぶん申し訳なさそうに呟く。そんなにしょげること無いのに。

「もう少しゆっくりしていこうよ。たこ焼きは次でいいからさ」

僕が微笑むと、アブクマ君はやっと顔を上げ、苦笑だったけど笑みを返してくれた。



「…ところでよ。エコジマの野郎、なんだってあんな真似したんだろうな?俺を騙して大会に出れなくしたからって、あいつ

になんか得があるってのか?」

アブクマ君は腕組みをして首を傾げた。

今、僕達はベンチに並んで腰掛けている。夕暮れのオレンジの光が、だんだん濃い赤に変わってきていた。

「今回の件で、キダ先生に貸しを作りたかったんだよ」

「…なんでだ?」

僕の言葉に、アブクマ君はさらに首を捻る。ほとんど真横になってるけれど…、首、大丈夫?

「気付いてないの?エコジマ先生、キダ先生によくちょっかいかけてるけど、あれって気があるからだよ」

アブクマ君はきょとんとした顔で僕を見つめた。

「君が追試で赤点を取って、補習を受ける事になって、キダ先生が自分に頭を下げに来る。そうしたら補習を免除するか、先

送りにするって約束して、キダ先生に貸しを作る。それが今回のエコジマ先生の計画だったんだと思う」

僕の説明に、アブクマ君は顔を顰めた。

「冗談で言ったのになぁ。まさか、本当にエコジマの野郎がキダ先生に惚れてたとは…」

彼は頭をがりがりと掻きながらそう言った後、ぴたりと動きを止めた。

「…まてよ?…そうすると、つまりあれか?俺はエコジマの野郎がキダ先生に貸しを作るための…、ダシ?」

「まあ、そうなるね」

僕が頷くと、アブクマ君の瞳に剣呑な光が灯った。

「あの野郎…、卒業したら見てやがれ…」

お礼参りでもするつもりなのか、拳を握りしめるアブクマ君。やれやれ物騒な…。

空を見ると。日は町並みの向こうに隠れ、急に暗さを増してきていた。アブクマ君も、濃い赤から紫に変わりつつある空を

見上げて呟いた。

「暗くなってきちまったな…。ごめんな?俺のせいで…」

「言いっこなしだよ。結局、僕が引っ張り回したようなものだし」

そう言ったけど、アブクマ君はそれでも済まなそうに頭を掻き、立ち上がった。

「もう平気?」

「おう!」

「また倒れ込まないでよ?」

僕がそう笑いかけると、アブクマ君は苦笑いした。

「じゃあ、また明日学校で…」

そ言いかけた言葉を切り、彼は何かに気付いたように「あ」と声を上げた。

「…そういや、夏休みなんだよな、今…」

毎日図書室に通って勉強していたせいか、彼はまだ一学期が続いているように錯覚していたらしい。

「実感、無かったんだね?」

「おう…。まあ、俺は明日から部活復帰だし、やっぱり学校には行くんだけどな」

「そうだったね。大会も近いし…。大変だね、中学最後の夏休み、ほとんど返上だ」

「まあな。でも、休みなんてどうでも良い。…全国に行って、勝ちてぇヤツが居るんだ」

アブクマ君は、うっすらと輝きだした星を見上げて力強く頷き、そして言った。

「うん。俺は、あいつに勝ちてぇ…」

「誰に?」

「去年、全国大会の二回戦で当たった相手だ」

ああ、そういえば、去年の全国大会は、アブクマ君は二回戦で負けたんだっけ。二年生、しかも柔道を始めて四ヶ月足らず

でその成績は、はっきりいってデタラメだと思うけど…。

結局去年の全国大会は、アブクマ君を負かしたその相手が優勝したはず。確か僕達と同学年だったと思う。

彼は気合いを入れるように、自分の両頬を平手で叩いた。

「勉強に時間を割いて、ずいぶん遅れを取ったからな。明日から巻き返してかねぇと…」

「熱中症にはくれぐれも気をつけてね?」

僕が釘を刺すと、アブクマ君は決まり悪そうに苦笑し、残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。

「それじゃあ、またな。暗くなってるから気をつけろよ?」

「うん。アブクマ君も気をつけてね」

そう応じた僕に、彼は何故か顔を顰めた。

「なあ。タメなんだし、アブクマクンってのやめてくれねえかな?なんか堅苦しいっつうか他人行儀っつうか…」

…まあ、距離を置くためにそう心がけてたんだけどね…。

アブクマ君は耳を寝せて頭を掻く。なんだか照れているみたい。

「…サツキで、いいよ。ダチなんだしさ…」

ぼそっとそう言うと、恥ずかしそうに僕から視線を逸らした。

「分かった。じゃあ、サツキ君」

「なんだよ?まだ君付けかよ?」

僕の呼び方にはまだ少々不満そうだったけれど、それでも彼は笑みを浮かべた。

「んじゃ、またな。キイチ」

「うん。またね、サツキ君」

彼は手を振ると、くるりと背を向けて歩き出す。

「ねぇ」

その背に、僕は声をかけていた。

振り返ったサツキ君に、僕はちょっと照れ臭くなりながら続ける。

「僕、休みの日は、図書室に居る事が多いから…」

サツキ君は笑みを浮べて頷いた。

「んじゃ、稽古終わったら覗いてみる事にする」

再び手を振り、サツキ君は歩き出した。

僕はその姿が見えなくなるまで見送ってから、ベンチを離れて公園の出口に向かう。

…また少しだけ、僕達の距離が縮まった。嬉しさと同時に、不安を覚える。

彼には…、彼だけには…、僕の身に起こった事を知られたくはない…。

それでも、もう少しだけ一緒に居たかった。

耐え難いジレンマと、ほんの少しの暖かさを感じながら、僕は、今住んでいる家へと向かった。