第四十話 「また、会いに来てくれる?」
「おっと…、もうこんな時間か」
コーヒーを飲みながら新聞を読んでいたお父さんは、腕時計を覗き込んで呟いた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃい。あなた」
「行ってらっしゃいお父さん。気を付けて」
僕とお母さんに軽く手を上げて笑顔で応じ、お父さんは席を立つと、キッチンを出て行った。
サツキ君の家と違って、乾家ではカウンター付きのキッチンで食事を取るスタイルだ。
喫茶店みたいなおしゃれな雰囲気に、最初はちょっと戸惑ったけれど、今ではすっかり慣れてお気に入り。
キッチンに入ると真正面に、ご飯の支度をしてくれているお母さんの背中がカウンター越しに見える。
頂きますのその前に、カウンターを回りこんで食器出しなんかを手伝える。
普通なら何でもない事なんだろうけれど、手伝いが出来る事は、僕にとってはちょっと嬉しかったりする…。
「貴方もそろそろじゃない?」
お母さんに言われた僕は、宝物の腕時計を覗き込む。…急がなきゃ!
食べかけのフレンチトーストを口に詰め込んでいると、玄関を開けたお父さんの声が聞こえてきた。
「おや、おはよう」
「おはようございます!」
それに応じる、聞き馴染んだ元気な声…。…もう来ちゃった!
「おーい!迎えが来たぞキイチ!」
「いふぁいふぃまふ!(今行きます!)」
フレンチトーストを頬張ったまま立ち上がり、大急ぎで制服の上着を羽織り、鞄を掴んでキッチンを飛び出す。
無理矢理口の中の物を飲み込み、僕は振り返りざまにお母さんに声をかけた。
「行ってきます、お母さん!」
「はい、気をつけて行ってらっしゃい、キイチ」
慌てている僕とは対照的に、お母さんは微笑みながらゆったりと食器を片付け始めた。
急いで靴を履き、玄関から駆け出た僕を、お父さんと何か話していた大きな茶色い熊が、笑みを浮かべて出迎える。
「お待たせサツキ君!」
「おう!おはようキイチ!」
僕の幼馴染みであり、親友であり、恋人でもあるサツキ君は、新しい両親の元で暮らし始めた僕を、毎朝迎えに来てくれる。
僕は根枯村樹市。クリーム色がかった白い被毛の猫獣人で、もうじき卒業の東護中三年生。
両親と一緒に生活するようになってから一週間が経ち、もう二月も半ばになろうとしている。
この新しい生活にも、僕はまずまず馴染みつつあった。
「なかなか暖かくならないねぇ」
「ま、もうちょいだろうなぁ」
頭上には青空が広がっている。身を切るような寒さはないけれど、それでも昼休みの屋上はだいぶ寒かった。
僕はサツキ君の風下に立ち、風避けになってもらいながら、缶のコーンポタージュスープを啜る。
サツキ君は寒いのを全然苦にしない。真冬でもパンツ一丁で寝てるくらいだ。…まぁ、時には裸で寝てたりもするけど…。
無自覚だったろうけれど、たま〜に、夜中に目覚めた僕を、その無防備な寝姿で誘惑してたんだよ?なんて言ったら、サツ
キ君、どんな顔をするかな?
「で、家族スキーはどうだったんだ?」
彼はヤキソバパンを囓りながら、昨日家族で行ってきたスキーについて尋ねて来た。
「予想通りにボロボロ…。お父さんとお母さんも苦笑いしているしか無かったよ。…実は今も筋肉痛が酷いしね…」
「ぬはは!今度は一緒に行こうぜ。教えてやるからよ」
「…お手柔らかにお願いします…。あ、お土産あるから、帰りは家に寄って行ってね」
「なんか悪ぃな、気ぃ遣わなくていいのによ…」
「気にしないで受け取ってよ。…まぁお菓子なんだけどね。カロリー低いの選んできたから安心して」
「…おう…、ありがとよ…」
サツキ君は微妙な顔で頷くと、不意に首を巡らせ、屋上の入り口の方を見た。…ドアが開く音?
一瞬遅れて僕も振り返ると、ドアを開けて出てきた、新聞部のシンジョウさんの姿が目に入った。
防寒対策なのか、制服の上に暖かそうなジャンバーを着ている。
「あら、先客が居たわね」
僕達を目にして呟いたシンジョウさんに、サツキ君が声をかけた。
「飯食いに来てただけだ。もう食い終わってるし、使うんなら場所変えるぞ?」
「あ、良いわよ。ちょっと風景の写真を撮りに来ただけだから」
シンジョウさんはそう応じると、僕達の傍に来て、大きなカメラを構えて屋上からの風景を撮り始めた。
初売りで一目惚れして買ったらしいそのカメラは、今では彼女の大事なパートナーだそうだ。
真剣な顔つきでファインダーを覗き込み、光の角度や景色の見栄えを気にしながら、一枚一枚、時間をかけて、シンジョウ
さんはシャッターを切っていく。
やがて、写真を撮り終えたシンジョウさんは、邪魔にならないように静かにしていた僕達に、満足気な表情で向き直った。
「済んだわよ。お邪魔したわね」
「今度の記事に使うの?」
「一枚はね。残りは私的な物よ」
「私的なもの?」
僕が首を傾げると、シンジョウさんはさっきまでレンズを向けていた、屋上からの景色に目を馳せた。
「この景色、私達にはもうじき見納めでしょう?記念に少し…ね」
「そっか。…そう、だったよな…」
サツキ君は青く澄んだ空を見上げた。僕とシンジョウさんも、つられて空を仰ぎ見る。
「こっから見上げる空、気に入ってたんだよな…」
少し寂しそうに、サツキ君は呟いた。
「この辺じゃここより高ぇ建物もねぇから、屋上から上見りゃ空以外に何も見えなくなる。時々、まるで自分が空に浮かんで
るような気がしてなぁ…」
「あら意外。結構ロマンチスト?」
「からかうなって…」
微笑みながら言ったシンジョウさんに、顔を顰めて応じるサツキ君。
「ま、空なんて何処でも拝めるさ。星陵でもな」
「うん。そうだね。でも、僕がここから空を見ても、必ず空以外のモノが視界に入るんだけど」
「え?何だそれ?」
不思議そうに辺りを見回すサツキ君を眺め、シンジョウさんが納得したように手をポンと叩いた。
「君だよ」
「貴方よ」
「へ?」
同時に言った僕とシンジョウさんの顔を、サツキ君は訝しげに眉を寄せながら交互に見る。
「空を見上げると、隣の君が必ず一緒に見えるもん」
笑いながら言うと、サツキ君は困ったように頭を掻いた。
「あ〜…、そいつぁ悪かったな…。屈んどけば目に入らねぇかな?」
「あはは!良いんだよ見えていて」
笑いながら応じた僕に、シンジョウさんが真面目腐った顔で呟いた。
「逆に、横にその図体が見えないと、落ち着かないものなのかもしれないわね?」
…う〜ん、そうかもしれない…。
「まぁとにかく、よろしくね」
「おう。こっちこそ、よろしくな」
「ん?何がよろしくなの?」
僕が尋ねると、二人はきょとんとした顔で見つめてきた。
…え?…僕、何か変な事聞いた…?
「何がって、…キイチ…?」
「いえ、だから星陵に行ってもよろしくね、って…」
「え?星陵に行っても?」
ん?んん?どういう事?
「あぅ…」
何かに気付いたように、サツキ君が変な声を出した。
「あ、うん。悪ぃ…、もしかすっと、言ってなかった…かな…?」
サツキ君は頭をガリガリと掻いて、「だはは…」と、何かを誤魔化すように笑った。
「シンジョウも星陵行きなんだ…」
………。
「…それは…聞いて…なかったね…?」
「…だ、だよなぁ…?え、えぇと、そのぉ…、入試ん時、会場で一緒になって初めて知ったんだけどよ…。ほら俺、入試直後、
ダメだと思って落ち込んでたろ?で、そのまますっかり忘れてて…」
……………。
「ああもうっ!」
僕が声を上げたら、サツキ君は耳を伏せて顔を引き攣らせた。
「どうして君はそう、いつもいつもうっかりさんなのっ!?」
「うっ!わ、悪ぃっ!」
「何でそういう風にコロっと忘れちゃうの!?それも大事なことに限って選ぶように!」
「ご、ごご、ごめんっ…!」
僕の剣幕に押されたのか、サツキ君は怖気づいたようにタジタジと後ずさる。
「良いのよネコムラ君。本当なら私が直接言うべきだったんだから。私もすっかり教えた気になっちゃってて…」
「ほ、ほらキイチ。シンジョウもこう言って…」
「フシャーッ!」
「ひっ!ごごご、ごめんっ!」
取り繕うように引き攣った笑顔を浮かべたサツキ君は、僕が思わず発してしまった威嚇の声に反応して、耳をぺったり寝せ
て、首をすくめて目を瞑る。
まだちっちゃかった頃の、怒られた時のリアクションだ…。
「ごめんねシンジョウさん!知らなかったんだ!今更だけれど、合格おめでとう」
「ふふっ、ありがと。貴方もおめでとうっ!」
シンジョウさんは可笑しそうに笑う。
まったく…、知らなかったとはいえ、「よろしくね」に「何が?」なんて、失礼な受け答えしちゃったよ…。
「星陵に進学するのは、この学校じゃ私達三人だけよ。知った顔が全然居ない所での生活になるんだから、貴方達みたいな知っ
てる相手が一緒で良かったわ」
「そうなんだ…。まぁ、わざわざあんなに遠くの学校に進む必要、普通は無いもんね」
「…と、ところでよぉ…。二人とも、なんで星陵なんだ?」
サツキ君は僕の顔色をちらちらと伺いながら言った。
まだ僕が怒っていると思っているらしい。…まぁちょっとは怒ってるけど…。
「私は夢の実現の為よ。記者として尊敬する人物の母校なの。少しでも、あの人と同じ視点で物事を見てみたいの」
「へぇ、僕も同じ。尊敬している人の母校なんだ」
「あらそうなの?偶然ねぇ…。ところで、アブクマ君は?」
「そりゃあキイチと一緒に居るためだよ」
なんでもないように即答するサツキ君。
「羨ましいわねぇラブラブで」
「そ、そっか?そう見えるか?ぬははっ」
一緒に居るためとか即答しちゃってるくせに、何を今更照れてるの?…まぁ、僕もまんざらでもないけれど…。
「さて、私はそろそろ…」
シンジョウさんの言葉が終わる前に、屋上を冷たい突風が吹き過ぎて行った。
身を切るような寒さに、シンジョウさんは身震いしてジャンバーの襟元を狭め、僕は小さく唸って身を縮めた。う〜、寒い!
やっぱり何か羽織ってくれば良かった…。
ただ一人平然としていたサツキ君は、縮こまった僕の手を取ると、口元に持っていって「はぁ〜っ」と、暖かい息を吐きか
けてくれた。
「やっぱりちっと寒いよな?俺達もそろそろ戻るか」
自分は平気なんだろうけど、サツキ君はそう言ってくれた。それから思い出したように、
「…あ…、きっちゃん…、ま、まだ怒ってる…?」
と、耳を伏せて、眉尻を下げて、小声で呟く。
大きなサツキ君が体を縮めて、心底済まなそうに上目遣いで見つめてくる…。
こんな顔を見せられて怒りを継続させるのは…、ふふ、僕にはちょっと無理だね…!
「もう良いよ…!」
笑みを浮かべてそう応じたら、サツキ君はほっとしたように顔を弛ませた。そして、僕の手を掴んだまま歩き出す。
繋いだ手は温かくて、サツキ君の体温がじわりと手から染みて来た。
そんな僕達を見ながら、並んで歩くシンジョウさんは、口元を綻ばせて呟いた。
「あ〜あ、私も彼氏探そうかしら…?」
「あんまし変わんねぇな」
学校の帰り、お土産を渡すために寄って貰ったら、サツキ君は僕の部屋を見回して呟いた。
「うん。部屋のモノはそのまま使わせて貰ってるんだ」
部屋のレイアウトは、小さい本棚を一つ増やしただけでほとんどそのままだ。元々僕の持ち物って少なかったからね。
「…結局、机もベッドもそのまんまか」
「うん。このまま使っていくつもり」
サツキ君は、彼の物と比べれば小さく、それでも僕には十分な大きさのベッドを眺めた。
毎晩眠るこのベッドも、元はケントの物だ。
両親は僕の為に家具を新しくしようと言ってくれたけれど、とある理由があり、そのまま使わせて貰っている。
…それは、この家に越してきた日の晩の出来事が理由だ。
「それじゃあ、お休みなさい。お部屋、お借りします」
「キイチ。お借りする訳じゃないだろう?ここはもうキイチの家なんだ」
思わず余計な一言を付け足してしまっていた僕に、お父さんは苦笑いした。
「そ、そうでした…。お休みなさい。お父さん、お母さん」
決まりが悪くて、気が付いたら僕は鼻の頭を掻いていた。…サツキ君の癖がうつったのかな?
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい、キイチ」
引っ越したその日、遅くなるまで両親と語らって過ごし、僕は最初の夜を迎えた。
少しは緊張していたかもしれない。
ベッドに入ってもなかなか寝付けなくて、僕は時計の針が午前を指す頃に起き出した。
水でも飲んですっきりしよう。そう思ったんだ。
頭はぼーっとしているのに、眠くはなかった。どうにも奇妙な感覚…。
歩き慣れない廊下を通り、台所で冷たい水を飲み、そして部屋に戻る。
ドアに手をかけようとして、僕はそれに気付いた。
…あれ…?灯り、つけたっけ?
薄く隙間を空けたドアの脇から、細い光が漏れて、床に線を作っていた。
特に深く考えずドアを開けた僕は、部屋に踏み込んだ瞬間に、思わず口を開いていた。
「あ、お邪魔してます」
「おいおい、ここはもうお前の部屋なんだぜ?お邪魔してますはねぇだろうが」
ベッドに腰掛けた彼は、肩を竦め、口元を吊り上げて笑った。
「…そうだったね。まだ慣れないなぁ…」
「早いトコ慣れとけよ?自宅に帰る度に緊張してたんじゃ、体も心も休まらねぇぞ?」
そして彼はニィーッと笑って、自分の隣をポンポンと叩いた。
その「座れよ」のジェスチャーに笑顔で頷き、僕は彼の隣に腰掛ける。
「あんまし、ぐっすりとは眠れねぇか?」
「…うん。もしかして、ずっとさっちゃんと一緒だったから?一人で寝るのが心細くなっちゃったのかな?…あー…、だった
らどうしよう?子供じゃあるまいし…」
彼は可笑しそうに笑うと、僕の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だよ。お前、昔から度胸あったじゃねぇか。単に慣れねぇ環境に戸惑ってるだけだって」
「だと良いけど…。それにしても驚いたよ」
僕は肩に乗せられた、茶色い被毛に包まれた手にそっと触れた。
「まさかこんなに普通に来るなんて」
「普通には来てねぇよ。こんな真夜中にコソコソ来てるじゃねぇか」
「ぷっ。それもそうか。まるでこそ泥みたいだね?」
「ま、似たようなもんだな」
彼は苦笑いすると、部屋を見回した。
僕が新たに持ち込んだのは、三つのミカン箱に全部収まるだけの荷物…。これが僕の持ち物全部だ。
「お前の荷物、少ねぇなぁ…」
「まぁね。でも、重さは結構有るんだよ?殆どが本だから」
「本かぁ…。本棚は足りねぇな。そればっかりは新しく入れなきゃならねぇ」
「う〜ん。買って貰うのは気は引けるけど、いつまでも段ボールって言うのも見栄え悪いしね。ところで」
僕は首を巡らせ、彼を見つめた。
「けんちゃんは、あまり本は読まないみたいだね?」
茶色い被毛の犬獣人は、僕の言葉に肩を竦める。
「音楽雑誌と少年漫画がほとんどだ。あとはまぁ、ちびっと櫻和居成(おうにぎいなり)のアクション物ぐれぇ?」
「へぇ意外!君もオウニギ先生の小説読んでたんだ?他にはどんな本を読んでたの?」
「他のジャンルのは読んでねぇよ」
「え〜?勿体無い…、どれも面白いのに…。人狼探偵とかも読まなかったの?」
「読んでねぇ。俺達からすりゃ、小難しい推理小説なんぞ読んでるお前は結構異質だぜ?」
「異質まで言う!?」
「うん異質。特に最近、勉強の為と称して、官能小説とか読んでるあたりがかなり異質」
「う…!?な、何で知ってるの!?」
「あっち方面の雑誌見て、勉強してるって事も知ってるぜ?」
「…やっぱり、おかしいのかな?僕…」
俯き、呟くように問い掛けた僕に、けんちゃんはそっけなく言った。
「知るかよそんなの」
そして、僕の背中をバンと叩いた。
「こんなんなっちまった俺に、分かるわけがねぇだろ?」
「……………」
「俺にはもう先はねぇ。でもお前らにはまだある。一回選んだ道だろ?先に進みながら、焦らず、じっくり考えてけ。…俺み
てぇな後悔は、しねぇようにな」
何と応えるべきか分からず、黙り込んだ僕の横で、けんちゃんはすっくと立ち上がった。
「…あ…。もう…、行っちゃうの?」
「あんまし長居するのも良くねぇしな。お前を寝不足にする為に来た訳じゃねぇんだ。…そうそう、サツキにゃしっかりクギ
刺しとけよな?あいつ、お前恋しさに本気で夜這いに来かねねぇからよ」
「だね。入念に言っておかないと」
僕達は大声を上げないよう、笑い声を噛み殺した。
「部屋の中のもんは好きに処分してくれ。俺に気を遣う事なんてねぇから、お前好みの部屋にしてくれよ」
「…あのさ、けんちゃん」
僕は立ち上がり、彼に問い掛けた。
「このまま使わせて貰っちゃ、ダメかな?」
「ん?別に構わねぇけど…。何でだ?新しいモンの方が良いだろう?」
「ううん。君のだから使いたいんだ。…もうじき寮生活になっちゃうけど、この家に居る間だけでも、君が使っていた物を使
わせて貰えると、嬉しいかな…」
「…酔狂だな、キイチは」
けんちゃんはそう言って苦笑いすると、くるりと背を向け、ドアに向かいながら言った。
「好きにしろよ。この部屋も、家具も、全部お前のモンだ」
「有り難う!大事にするよ、けんちゃん!」
けんちゃんは足を止め、向こうを向いたまま腕で鼻を擦った。
「へっ!せっかく兄弟になれたんだぜ?俺の事ぐれぇ、呼び捨てにしろ」
「…あ、うん…!有り難う、ケント!」
「ああ!んじゃな、キイチ!」
「…あの…、また、会いに来てくれる?」
自分でも情けないほどか細い声で問い掛けると、ケントはしばらく沈黙した後、振り返らないまま、肩越しに手を振った。
「気が向いたらな」
気が付いたら朝になっていて、僕はベッドの中で寝ていた。
寝る前に消したはずの灯りは、何故かついていた。
水を飲みに行った時につけて、寝ぼけて消し忘れたのか。
それとも、本当にやってきたケントが、うっかりつけたままで行ってしまったのか。
…それは分からなかった…。
例えあれが夢でも、現実でも、どっちでも構わない。
あの時、ケントは確かに、僕を兄弟と言ってくれた。
だから僕は、この家の子供でいても良いんだと確信できたんだ。
あの事については、まだサツキ君にも話していないし、これからもたぶん、誰にも話す事はないと思う。
ベッドを眺めながらあの晩の事を思い返していたら、サツキ君も僕の視線が気になったのか、じっとベッドを見つめて、目
を細めていた。
「ねぇ、ところでさ?今更だけれど、サツキ君の喋り方って、ケントと似てるよね?」
僕がそう尋ねると、サツキ君は鼻の頭を擦って、少し困ったように顔を顰めた。
「あぁ〜…。親父の口調に似てきたってのもあるかも知れねぇけど、あいつの影響は間違いなくでけぇな。こいつもあの、前
に話した性格矯正の一環でな、ケント曰く「男らしいしゃべり方」…、今じゃすっかり染みついちまったなぁ…。それがどう
かしたのか?」
「ううん。急に気付いたんだ。そうしたら気になってさ」
「そっか。…俺もたった今気になったんだが、お前、ケントの事はちゃんと呼び捨てにするようになったんだな?」
「まぁね。だって僕達、兄弟だもん!」
得意になって胸を張った僕に、サツキ君は、
「んお?」
と、口と目を丸くして、一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、耳を伏せて、嬉しそうな笑みを浮かべた。