最終話 「僕らのスタート」

その日、体育館で、僕達の卒業式が行われた。

卒業生一人一人が、一組から順に出席番号順に名前を呼ばれ、校長先生の待つ壇上へ昇り、証書を受け取って降りる。

すでに一クラス分は授与が終わり、僕達のクラスの番がやって来た所だ。

僕達のクラスの一番手は…、

『阿武隈沙月』

「うす!」

スピーカーから声が響くと、舞台脇に控えていた大柄な熊獣人は、壇上をのっしのっしと歩き、校長先生の前に立つ。

きびきびとした動作で礼をして、卒業証書を授与されたサツキ君は、再び頭を下げ、校長先生と握手を交わして、その前か

ら退いた。

そのなんとも凛々しい、堂々とした立ち振る舞いに、胸が熱くなる。

さっちゃんは、幼い頃の彼からは想像も付かないほど、本当に立派になった。

立派に、真っ直ぐに、逞しく成長した。

幼馴染みとして、親友として、そして恋人として…、本当に、誇らしく思う…。

涙もろいサツキ君の事だから、もしかしたら泣き出してしまったりするんじゃないかと、少し不安に思っていたけれど、実

に晴れ晴れとした表情をしていた。

…惚れ惚れするほど男前だよ、サツキ君…!

『根枯村樹市』

「は、はいっ!」

感極まって、自分の方が泣きそうな気分になっていると、いつのまにか僕の番になっていた。

順番を守って無意識に昇っていた壇上で、僕は慌てて返事をし、校長先生の前まで歩く。

お辞儀をしてから卒業証書を受け取り、再び頭を下げ、先生と握手を交わした。

「ご両親の元を離れても、元気で」

「ありがとうございます」

励ましの言葉に笑みで応じ、僕は校長先生の前から退いた。

僕の名前は根枯村樹市。クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。東護中三年生…。

本日、この式をもって、中学卒業となります…。



卒業証書の授与は滞りなく進んで、やがて最後のクラスの最後の一人が壇上から降りる。

…なのに、横に立って証書を渡していた教頭先生は、さらに一枚の証書を校長先生に手渡した。

気付いた何人かが訝しげに顔を見合わせる中、放送が最後の証書を受け取る生徒の名前を読み上げた。

『乾健人』

僕はサツキ君に視線を向け、最前列に座っていたサツキ君も同時に僕を振り返った。

驚きの表情を浮かべて顔を見合わせる僕らの周囲で、ざわりと、ざわめきが広まる。

呼ばれた名前が誰のものか、何を意味するのか、事情を悟った下級生の間にもざわめきが広がっていく。

僕とサツキ君は、揃ってキダ先生へ視線を向けた。

先生は、微笑みながら大きく一度頷いた。

眼鏡の奥、目尻で何かが光って見えたのは、僕の目の錯覚だろうか?

サツキ君は再び僕を見る。その視線に、僕は首を横に振って答えた。

…君が、受け取ってあげてよ…。

僅かな間躊躇った後、サツキ君は席を立った。

それに気付いた生徒達のざわめきがおさまり、体育館はしんと静まりかえる。

壇上へ上がる階段が、サツキ君の体重を受けてキシリと鳴った。

その小さな軋みが、誰の耳にもはっきりと聞こえる程に、体育館は静かだった。

全員が身じろぎ一つせず、息を殺し、壇上に登るサツキ君の一挙手一投足を注視する。

サツキ君の背中を見つめたまま、僕は振り返る事もできず、父兄席に来てくれている両親の事を思った。

…お父さんとお母さんは、今、どんな顔をしているだろう…?

校長先生は、再び前に立ったサツキ君の顔を見上げ、卒業証書を差し出した。

「届けてくれるかね?」

校長先生の声は普通の大きさだったのに、体育館の静謐な空気に染み渡って、全員の耳にはっきりと聞こえた。

サツキ君は首をすくめるようにして、「へっ…」と、小さく笑った。

「堅物ばっかだと思ってたけど…、先生方も、こんな粋な真似してくれるんすね…」

証書を受け取り、

「しっかり、預かりました!」

大きな声と共に深々と一礼したサツキ君に、

「頼んだよ」

校長先生は頷き、笑みを浮かべた。

サツキ君はのしのしと壇上から降りると、何故か自分の椅子の前を通り過ぎた。

そして、クラスの座席を回り込み、最後列の僕の横に立つ。

その顔を見上げた僕に、サツキ君は無言のまま、丸めた証書をずいっと突き出した。

戸惑う僕の顔をじっと見つめるサツキ君の目は、真剣そのものだった。

こんな真似をすれば、僕とケントの繋がりについて、そして僕の素性について皆に詮索されかねない。

その事はサツキ君も重々承知しているはずだ。

それでも彼は…、こうするべきだと判断したんだ。

…いつも優しかったサツキ君が、僕に初めて向ける、厳しくも凛々しい顔が、そこにあった。

ずっと、ずっと僕の秘密を他言しないで、庇い続けて、守り続けてきてくれた彼が…、その真っ直ぐな瞳が…、僕に告げる…。

「親御さんとケントに、お前が渡してやれ」

卒業を期に、自分の気持ちの全てを精算しろ。…サツキ君はそう言っているんだ…。

見つめ合ったまま過ぎてゆく、長い、長い数秒の後、僕は意を決して席を立った。

先生達も、生徒達も、父兄も…、皆が固唾を呑んで見守る中、突き出されたままのケントの卒業証書を受け取り、僕は改め

てサツキ君の顔を見上げた。

サツキ君は、泣いていた。

耳を横に倒し、嬉しそうな笑みを浮かべて、大粒の涙をボロボロと零しながら…。

僕が深く頷くと、サツキ君は半歩退き、父兄席へと視線を向けた。

声は無い。きっと、口を開けば嗚咽が漏れてしまうんだろう…。

道を空けたサツキ君に頷き、僕は父兄席へと歩みを進める。

そして、皆の視線を浴びながら、僕は両親の前に立った。

僕の前で、お父さんとお母さんが立ち上がる。

僕は、サツキ君から受け取ったケントの卒業証書を広げ、お父さんに手渡した。

「…ありがとう…」

お父さんは目を潤ませて、少し掠れた声で言った…。

お母さんは堪えきれずに、両手で顔を覆って泣き出した…。

そして二人は、壇上の校長先生に顔を向け、深々と、頭を垂れた。

三年生の中には、声を殺して啜り泣く生徒も何人か居た。

…ケント…。皆、君の事を忘れてはいないよ…。

一緒に席に並ぶ事こそ叶わなかったけれど、僕達、一緒に卒業できたんだよ…。

振り返れば、サツキ君は泣き笑いの表情のまま、僕達を見つめていた。

黙って頷いたサツキ君に、僕も泣きそうになりながら頷き返す。

…ありがとう…さっちゃん…。

いつも優しかった君が、初めて向けてくれた厳しさが…、この背中に、最後の一押しをくれたんだ…。



「しばらく、会えなくなりますね…」

「うん。…ちょっと寂しいかな」

たくさんの時間を過ごした、今は人気のない図書室で、サカキバラさんと僕は通い慣れた部屋に別れを告げた。

…思えば、ここでサツキ君に声をかけた時から、僕の運命は大きく変わり始めたんだ…。

「夢は、叶いそうですか?」

「君らしくもない質問だね?」

僕はサカキバラさんに、片方の眉を上げ、シニカルな笑みを浮かべて見せた。

「勝手に叶うんじゃなく、自分で叶えるもの…。でしょ?夢っていうのは」

「そうでした。叶えられそうですか?と、質問するべきでしたね?」

サカキバラさんは口元に手を当てて微笑む。

頭の回転が速い彼女との会話は、テンポが良くて心地良い。

「もちろん、叶えるよ」

笑みを浮かべながら答えた僕に、サカキバラさんはニッコリと笑顔を返してくれた。

「実現する日を、楽しみにしています」

「有り難う。きっと期待に応えてみせるよ」

思えば、サツキ君と親しくなるまで、この校内で最も多く言葉を交わしたのは彼女だった。

クラスメートはもちろん、両親にも、サツキ君にすらも、誰にも打ち明けていない夢を話した、ただ一人の友人…。

サカキバラさんは、東護高校へ進学する。

事業で忙しく、なかなか家に帰って来られないお父さんと、少しでも多くの時間を一緒に過ごしたいから、自宅から通える

高校を選んだらしい。

彼女ならもっともっと上の学校を目指せるのに、少し勿体ないとは思うけれど…。

大切な人と少しでも一緒に過ごしたいというサカキバラさんの気持ちは、サツキ君という大切な人を得た今の僕には、良く

理解できた。

「それでは、また」

「うん。またいつか」

通い慣れた図書室の前で、僕達は短く別れの挨拶を交わして、お互いに背中を向けて歩き出す。

いつかまた会えるその時まで…、さようなら、サカキバラさん…。



そろそろだろうと目星を付けて、僕は柔道場に足を運んだ。

サツキ君は今、柔道部の皆との最後のお別れの最中。

僕にとっての図書室のように、サツキ君にとっては道場が、多くの想い出を刻んだ場所の一つになっている。

空いたままの道場の入り口から少し離れた所で、僕はサツキ君を待った。

道場の中で交わされている会話が、内容は聞き取れないけれども、遠く聞こえて来る。

その中ではっきりと聞こえるのはサツキ君の声だけ。

見送る部員の中には、泣いている子もいるみたい…。

…ジュンペー君…、サツキ君の事をあんなに慕っているんだ…。寂しいなんてものじゃないだろうな…。

やがて、「したっ!」という部員達の声に送られ、三年生がぞろぞろと道場から出てきた。

その最後尾には、サツキ君とイイノ君の姿がある。

「先輩!」

聞き慣れた声が中から響いて、歩み寄ろうとしていた僕は足を止め、道場前のサツキ君は振り向く。

「オレ、きっと先輩を追いかけますから!来年はきっと…!だから…!…だからまた一緒に…!」

僕から姿は見えないけれど、道場の中から叫ぶジュンペー君の、思いの丈を振り絞るような声が聞こえた…。

それっきり言葉が続かなくなったのか、ジュンペー君の声は、途切れる…。

きっと、辛いんだろう…。苦しいんだろう…。

重ねて来た想い出が、多過ぎて、大き過ぎて、胸が一杯で…。

僕に横顔を向け、道場の中のジュンペー君に向き直っていたサツキ君は、しばらく黙った後に、ニッと笑った。

「おう!また一緒に、柔道やろうなっ!」

「…はいっ!」

ジュンペー君の返事が大きく響き渡ったその時、イイノ君がサツキ君の隣に歩み寄った。

そして、道場の中を覗き込んで肩を竦める。

「何だ?オレの事は追いかけてくれないのか?」

「え?い、いや…、それは…その…」

先の勢いはどこへやら、しどろもどろになって聞き取り辛くなったジュンペー君の声に、僕は思わず吹き出しそうになる。

「はははははっ!冗談だよタヌキ!それじゃあ元気でなっ、皆!」

「夏にでも帰ってきたら、必ず顔出しに来るからよ!」

『おすっ!』

イイノ君とサツキ君の言葉に、道場内から部員達の返事が響いた。

二人は踵を返し、そして僕に気付いたイイノ君が、サツキ君にこちらを指さして見せる。

サツキ君は僕に視線を向け、それからイイノ君に向き直り、肩の高さに手を上げた。

パンっと、小気味の良い音を響かせて上げた手を叩き合わせると、二人は笑みを交わす。

イイノ君は僕に向かって軽く上げた手を振り、そして背を向けて歩き出した。

彼の行く学校は、入寮期限が早いから、僕らより早くにこっちを発つ事になる。

遠距離恋愛の先輩と、やっと一緒に過ごせるんだね…。

…皆、それぞれの道へ巣立って行く…。

イイノ君に挨拶を返した手をゆっくり降ろすと、僕の傍に歩み寄ったサツキ君が口を開いた。

「悪ぃな。待たせたか?」

「ううん。ちゃんと泣かないでお別れできた?」

サツキ君は決まり悪そうに鼻の頭を擦った。

「…結構ねちっこいなぁお前…。ちゃんと済ませたよ」

「頑張れの一言ぐらい、言ってあげれば良かったのに」

僕の言葉に、サツキ君は目を丸くした。

「なんだ?聞こえてたのかよ?」

「君の声だけはね。大きいから」

サツキ君は肩を竦めて歩き出しながら、その背中を追いかけた僕に言った。

「「頑張れ」だなんて、言えねぇよ」

「ん?」

首を傾げた僕に、サツキ君は続ける。

「ジュンペーは十分頑張ってる。頑張ってねぇなら別だが、あいつにゃ「頑張れ」だなんて言えねぇよ」

「…へぇ…」

正しいような気がする。思わず感心してしまった。

…そういえば、僕はサツキ君に何度も励まされてここまで来たけれど、「頑張れ」って言われた事はなかった…。

サツキ君自身は、自分では「頑張る」って、よく口にしていたのに…。

…僕、何回も「頑張って」って言っちゃったけれど…、サツキ君は何も言わなかったな…。

「どした?」

気が付けば、足を止めていた僕を、サツキ君が立ち止まって振り返っていた。

「…俺、また何か変な事言ったのか?」

彼の言葉を耳にして僕が考え込む度に、何度も繰り返した受け答え。

そして僕は、やっぱり何度も繰り返したように、今日も笑顔を彼に返す。

「ううん。一つ勉強になった!」

「へ?何がだよ?」

いつものように、サツキ君は小首を傾げた。

「まぁ良いや。んじゃ最後の一ヵ所、寄ってくか」

「うんっ」

僕とサツキ君は、卒業生の姿もまばらになった校庭を、校舎に向かって歩き出した。



「あら奇遇ね?お二人さんも、ここの眺めに最後のお別れ?」

扉を開けた僕達の正面には、青空をバックにシンジョウさんが立っていた。

「まぁ、そんなとこだ」

「ここで結構良く会うよね?シンジョウさんと」

「そういやそうだよな?」

「言われてみれば…そうね?」

案外、僕らとは来る時間がずれていて気付かなかっただけで、彼女も屋上の常連だったのかもしれない。

通い慣れた屋上の床を踏みしめ、サツキ君は手すりに歩み寄ると、東護の街並みと、その先に広がる太平洋を眺め、目を細

めた。

僕は少し遅れて手すりに近付き、同じように景色を眺める。

「…案外、遠くへ行く事にならなければ、ここまで離れ難い気持ちにもならないのかもしれないわね…」

「かもな…」

サツキ君は言葉少なくそう応じると、頭上を見上げた。

僕とシンジョウさんも、つられて上を見る。

…のんびりと流れていく雲が浮かぶ、澄み渡った、春の青い空…。

青春。

なぜ青なんだろう?そんな事を思った事が何度かある。

どうして情熱の赤でも、輝く黄色でもなく、どちらかと言えば明るくない青という色なのか…。

上手く言葉にできないけれど、今、分かったような気がする。

成熟する前の果実の青を指すんじゃない。

植物の若々しい葉の緑を指す青でもない。

青春という言葉の青は、空や、水面のような、澄み渡った光の青。

きっと、色であって色じゃない、そんな色…。

何の根拠も無く、今は、そんな気がした…。

「さて、私はそろそろ行くわね?お二人さんは気兼ねなくごゆっくり」

「そういう言い方されると、ここで僕らが何かしようとしているみたいじゃない?」

「あはは!そういう意味じゃないのよ!…でも、少しはそう言う意味もあるかしら?」

「どっちだよ?」

「ま、気にしないでちょうだい」

仏頂面でつっこんだサツキ君に、シンジョウさんは笑いながら応じた。

「じゃあ…、これからはお互い準備で忙しくなるでしょうから…」

「ああ。また、あっちでな」

「うん。あっちでも、よろしくね」

「ええ。それじゃあね」

僕達は軽く手を上げ、校舎内へ戻ってゆくシンジョウさんを見送った。

「…僕達も、出発の準備で忙しくなるね…」

「ああ。…俺あんまり進んでねぇや…」

呟いた僕に頷くと、サツキ君は再び空を見上げた。

「…ケントもよぉ…、ここが、好きだった…」

ぼそっと呟いたサツキ君の横顔を、僕はそっと見遣る。

懐かしむような表情を浮かべて、今日も空を見上げているサツキ君の顔を…。

ゆっくりと吹き過ぎて行く風が、マフラーを巻いているみたいにモサモサした首周りの毛を、ふさふさした頬や頭の毛を、

優しく撫でて揺らして行く…。

「一年の頃はさ、いつも昼飯は二人で、ここで食ってたんだ」

「…そう…だったんだ…?」

初耳だった。ずっとここでお昼を過ごして来たけれど、サツキ君はこれまで一言も、そんな事は言わなかった。

「引き摺ってるみてぇでかっこ悪ぃだろ?だから、言おうかどうか、ずっと迷ってた…」

サツキ君は苦笑しながらそう言うと、大きく伸びをした。

「怒ってるか?」

「え?」

「式。俺が、あんな真似した事をだよ」

聞き返した僕に、サツキ君は空を見上げたまま言った。

…ケントの卒業証書を、僕に渡した事か…。

「怒ってなんかないよ。…さすがに、びっくりはしたけれどね」

これは本心だ。きっと、あれで良かったんだと、僕も思う。

「…そか…」

僕の返事に、サツキ君は短くそう応じた。

本人はそっけなく返事をしたつもりだったのかもしれないけれど、その横顔は少し嬉しそうで、お尻では丸尻尾がピコピコ

動いていた。

「…ところで…よ…」

サツキ君はそう呟いて鼻の頭を掻くと、僕を見下ろした。

「準備や何やらでしばらく忙しくなるし…、キス…しとかねぇか?」

照れながらそう言った彼の顔を、僕は少し驚いて見上げる。

「え?ここで?」

「良いだろ?ここなら、空とお天道様しか見てねぇよ」

僕は苦笑しながら、サツキ君の前に立って精一杯背伸びする。

サツキ君は僕の背中に手を回し、膝を曲げてなるべく背を屈める。

青く、青く、どこまでも青い、澄み渡った空の下…。

僕達は中学生活の最後を、いつにも増して長い口付けで締めくくった…。



…そして、一週間が経った。

「キイチー。ダイスケ君よー」

「あ、はぁい!上がって貰ってぇーっ!今ちょっと、手が…!」

重ねた本をぎゅうっとベルトで締め付けながら、僕はお母さんに返事をする。

玄関先で少しやりとりの声が聞こえた後、ノックに続いてドアを開け、大きな黒熊がのっそりと部屋に入って来た。

「お邪魔し…」

「丁度良い所に!これ、手伝ってくれない!?」

挨拶を遮って必死にお願いした僕の手元を見ると、ダイスケ君はコクッと頷いて歩み寄った。

「助かるよ。僕握力ないから、縛っても縛っても締め付けが弛んじゃって…」

「だってこれ、いくらなんでも重ね過ぎなんじゃ…」

ダイスケ君は眉根を寄せながら、ベルトを引っ張ってギチッと止めてくれた。

「こんなに本持ってくの?」

「これでも必要最小限なんだけどね…」

僕が床に座り直すと、ダイスケ君は背負っていたナップザックを床に降ろして、向かい合わせに座る。

すると、待っていたようなタイミングで、開いたままだったドアから、薄茶色の犬女性が顔を出した。

「減らしなさいって言っても聞かないのよ。どうしても、持って行くんだって…」

お母さんは微笑みながら言い、僕らの間にお盆に載せたお菓子とホットココアを置く。

「ゆっくりしていってね?ダイスケ君」

「ありがとです…」

はにかんだような笑みを浮かべて頭を下げるダイスケ君。

お母さんがドアを閉めて部屋を出て行くと、僕らは温かいココアの入ったマグカップを手に取った。

「今日は部活お休み?」

「ん。ジュンペーの方は部活」

「で、お泊りの日なんだ?」

「ん、んん…。えへへ…!」

ナップザックを見ながら尋ねると、ダイスケ君は恥かしそうに頭を掻きながら頷いた。

「その、勉強見て貰うのも、兼ねて…」

「お。感心感心…。もう来年に備えてるんだ?」

「うん。ジュンペーは結構成績良いから楽勝だろうけど、オイラはもうちょっと頑張んないと星陵行き厳しいし」

答えながら、ダイスケ君は腰を上げて、僕の隣に移動してくる。

並んでベッドに背中を預けると、ダイスケ君は僕にぴたっと寄り添い、軽く体重をかけてきた。

「…やっぱり、ちょっと不安?」

「勉強はまぁ…、少しは…」

「本当の不安は、勉強とはまた別。…かな?」

「え?」

ダイスケ君は少し驚いたように僕の顔を見下ろす。

「引退していたから、実質は二年生が主体だったって言っても、これからは何かあっても、先輩を頼れなくなる…。主将とし

ての重責、感じ始めてるのかな?」

「…鋭いなぁキイチ兄ぃは…」

苦笑いしたダイスケ君は、こくっと頷いた。

「これまでも、別に頼ってはなかったんだ…。でも、頼れなくなるって考えたら…、ああ、オイラ達、本当に引っ張ってく側

になったんだなぁ、って…。情けないよな、今更…」

ダイスケ君はずぞぞっとココアを啜り、ため息をつく。

「僕は部活してなかったから、そういうのは良く判らないけれど…。でも、きっと大丈夫」

ココアを飲み干し、カップをお盆に戻したダイスケ君に、僕は微笑んだ。

「僕が保障するよ」

「…えへへ…!キイチ兄ぃが言うと、ホントに大丈夫な気がしてくる…!」

ダイスケ君はごろっと横になり、足を伸ばしていた僕の太ももに頭を乗せた。

そして甘えるように頬を擦りつけ、収まりの良いポジションに頭を落ち着ける。

僕の倍はある大きな黒熊が、子供のように甘えてくる仕草は、どこか微笑ましい。

ダイスケ君にとって僕は、秘密を隠さず、気兼ねなく何でも話せる、数少ない相手。

僕にとっては、初めてできる弟というか、後輩というか、そんな相手。

だからなのか、初めて会ってからそう時間も経っていないのに、僕らはこんなにも仲が良くなった。

…まぁ、僕がクマさんに弱いというのもあるかもしれないけど…。

頭に手を当てて、艶やかな黒い毛をなでてあげると、ダイスケ君は気持ち良さそうに目を閉じた。

「キイチ兄ぃ…。ありがと…ね…。オイラ、こんな風に甘えさせて貰える人…、今まで居なかった…。誰かを頼れる事…、こ

んなに安心できるなんて…、知らなかった…」

「ダイスケ君…」

ダイスケ君は目を閉じたまま、少し寂しそうに続けた。

「オイラ、大丈夫だよ?キイチ兄ぃが遠くに行っちゃっても、オイラ、頑張って行けるよ…。短い間だったけど、オイラ…、

いっぱい、いっぱい甘えさせて貰えて…、本当の兄ちゃんができたみたいで…、凄く嬉しかった…」

「何だかそう言うと、これで縁が切れちゃうみたいじゃない?」

薄く目を開けたダイスケ君の顔を見下ろして、僕は微笑んだ。

「遠くへ行っても、僕も君も、今までどおりだよ…」

「…ん…」

ダイスケ君は少し恥かしそうに耳を寝かせて微笑むと、また目を閉じた。

しばらく無言のまま、顎の下に手を入れて、フサフサした首回りを撫でてあげていたら、やがて、ダイスケ君はすーすーと

寝息を洩らし始めた。

安心しきったその寝顔を見下ろしながら、考える。

こんな風に慕ってくれる後輩が出来るなんて…、去年は考えた事もなかったなぁ…。

少し重い、でも決して不快じゃない、ダイスケ君の重みを感じながら、僕は彼の首を撫で続けた。



それからも僕達は、旅立ちに向けた準備に追われて、慌ただしい日々を過ごした。

ちょくちょく尋ねてきてくれるダイスケ君の話では、ジュンペー君は至って元気らしい。

サツキ君が居なくなるのが寂しくて、落ち込むんじゃないかと少し心配していたんだけれど…。

うん、ジュンペー君は強いね。サツキ君の後輩だもん、当り前か…。

それに、頼り甲斐のあるダイスケ君が居る。

…ふふ…、僕が心配する事でもなかったかもね?

僕とサツキ君も、なかなか顔を合わせる時間もとれずに、夜に電話で話すだけの日々を過ごした。

『受験前を思い出すような忙しさだぜ…』

買ったばかりの携帯でぼやいたサツキ君の言葉に、僕は笑いながら同意した。

学校から指定された教科書や辞書を買い集め、寮生活に必要な物…、衣類や生活用品を買い込み、宅配で送った。

念のために通信販売で地元の情報誌を取り寄せて、きっちり目を通した。

あとは直接持って行く荷物だけど…。

お気に入りの本と、両親から進学祝いにって買って貰ったノートパソコンも外せない。

あらかた宅配で送って、持って行く物は最低限に絞ったつもりだったんだけれど、結果的には手荷物も結構な量になった。

「…これも宅配にしようかな…」

サツキ君のお腹みたいに大きく、まん丸くなったザックを眺め、僕は腕組みしながら呟いた。

…これを背負って歩くのは、僕の体力じゃ厳しい…。もうちょっと分けよう…。



そして、ついにその日がやって来た。

明朝の、少し湿った冷たい空気の中、僕とサツキ君はお墓の前に居る。

あげたばかりのお線香の煙が漂う向こうには、乾家先祖代々と掘られた墓石が立っている。

今日は、僕らの旅立ちの日。

そして、ケントの三回忌だ…。

入寮期限ギリギリになっちゃうから、本当はもっと早くに発つべきだったんだけれど、僕とサツキ君のワガママで、出発を

今日まで延ばして貰ったんだ。

僕の隣で、サツキ君が缶コーヒーのプルタブを開けた。

そして一口啜り、それを僕に差し出す。

ケントは少し甘目の缶コーヒーが好きだったらしい。これもサツキ君から聞いた事だ。

僕もその甘いコーヒーを一口啜り、それから墓前に供える。

…僕らはまた…、昔みたいに三人で回し飲みできる間柄に戻れたんだね…。

一緒に墓前で屈み込んで、僕らは手を合わせた。

「慌しくなっちまって、済まねぇなケント…」

「夏にはきっと、土産話を一杯持ってくるからね…」

僕らは目を閉じて手を合わせながら、同時に呟く。

「んじゃあな…!」

「行って来るね、ケント」

ふと、誰かが右肩をポンと叩いた。

「ああ。気ぃつけてな…!」

…この、声…?

僕はハッとして目を開け、横を見る。

驚いたような顔をしているサツキ君が、こっちを見ていた。

僕らの間には、誰も居ない。でも…。

僕は右肩を、サツキ君は左肩を、それぞれ手で触れてみる。

感触は、不確かなものだった。

声だって、はっきり聞こえたかと訊かれれば、良く判らない…。でも…。

僕とサツキ君は、それぞれ手を当てた肩をじっと見た後、お墓に視線を戻した。

僕らの顔には、笑みが浮かんだ。

ちゃんと、見送りの一言を言ってくれた幼なじみの事を想って…。

遠くでクラクションが短く、二回鳴った。

「やべ…!時間だ!」

「あぁホント!列車に間に合わなくなっちゃう!」

僕らは慌てて立ち上がり、お墓に向かって、揃って右手を上げた。

「行ってくんぜケント!」

「行って来るよ!ケント!」

僕らは口々にそう言って、お墓に背を向けた。

見送りありがとう、ケント…。行って来ます!



「気を付けてなキイチ。…まぁ、さっちゃんが一緒だから大丈夫だろうとは思うけれど…」

お父さんがちらりと向けた視線の先では、

「馬鹿な真似とかするんじゃねぇぞサツキ?まぁ、きっちゃんが居るから安心だろうが…」

サツキ君のおじさんもちらっとこっちを見ていた。

日曜の早朝。新幹線のホームは客でごった返していた。

喧噪に負けないように言葉を交わす僕達は、自然と大声になっている。

僕らの両親は、当初は星陵までついて来ると言っていた。

けれど、明日は月曜で皆忙しくなるし、それに、僕らはもう高校生なんだ。

二人だけで大丈夫だって説得して、ここまでの見送りにして貰った。

「何かあったらすぐに連絡をちょうだいね?」

「はい。お母さん達も、お元気で…」

心配そうなお母さんを安心させるよう、僕は笑顔で答えた。

「居ない事が多いと思うけど、何かあったら連絡ちょうだい」

「なら、何処に連絡すりゃ良いのか、あらかじめ教えといてくれ…」

隣ではサツキ君が呆れたように、おばさんにそう応じていた。

「おいサツキ、忘れ物は無ぇか?」

「あったとしても、もう手遅れだよ。なぁに、無人島に行く訳じゃねぇんだ。足んなきゃ向こうで何とかするさ」

サツキ君はおじさんの言葉にそう応じ、僕達は声を上げて笑う。あはは!違いないや!

「んじゃ、行ってくんぜ」

「おう。気ぃつけてな」

「行ってらっしゃい」

サツキ君は軽く手を上げ、おじさんとおばさんに別れを告げ、さっさと新幹線に乗り込んだ。

しばらく会えなくなるっていうのに、さばさばしていて湿った所のない、実にサツキ君とおじさん達らしいお別れだ。

「それじゃあ、僕も…」

僕はお父さんとお母さんの顔を、交互に見上げる。

僕を養子に迎えてくれて、生活も、進学も、全部面倒を見てくれた新しい両親…。

なのに、ほんの二ヶ月足らずを一緒に過ごしただけで、僕はまた二人から離れて行く…。

本当に恩知らずだな、僕は…。

「キイチ」

お父さんは、僕の目を覗き込むようにして口を開いた。

「お前は、私達に何も気兼ねすることは無いんだよ?今は自分のやりたい事を、精一杯追いかけなさい」

「お父さん…」

その隣で、お母さんが優しく微笑んだ。

「そうよ?私達に気を遣う事は何も無いの。やりたい事…、追いかけたい事…、あなたの青春は、あなただけのものなのよ?

気を遣って台無しになんかされたら、私達が辛いんだから」

「お母さん…」

二人の言葉で胸が一杯になり、僕は両親に抱き付いた。

「ごめんなさい…!ありがとう…!」

三人で肩に腕を回しあい、固く抱き合った後、僕はそっと二人から離れた。

そして、泣きたいのを堪えて、元気に見えるように精一杯の笑顔で、お別れの言葉を口にする。

「お父さん、お母さん、行って来ます!」

「ああ、張り切って行って来なさい!」

「行ってらっしゃい、キイチ!」

僕達を眺めていたおじさんが「グシッ!」と鼻を啜った。

サツキ君が涙もろいのは、月輪と一緒でおじさん譲りだろうね、きっと…。

両親とおじさんおばさんに手を振ってドアを潜った僕を、サツキ君は通路の壁に寄り掛かって待っていた。

ブザーが鳴り、ドアが閉まる。

僕は窓にくっついて、サツキ君はその後ろに立って、見送る親達に手を振った。

動き出した列車の窓から、四人の姿が、ホームが、駅が消えて、水平に滑って行く景色だけが残って…、そして僕は窓から

離れた。

「言い残した事はねぇか?」

サツキ君の問い掛けに、僕は首を横に振る。

「無いわけないじゃない?それはもうたっくさん!」

手を広げて言った僕に、サツキ君は声を上げて笑った。

「ぬはは!それで良いさ!」

そう言うと、彼はさっさと客車の中に入って行った。

僕は荷物を担ぎ直して、少し慌てて大きな背中を追いかける。

「あ、待ってよ!「それで良い」って、どういうこと?」

「言い残しがありゃ、電話をかける口実になんだろ?お前ん家はできたてホヤホヤの家族なんだ。たくさん話をしとくに越し

た事はねぇよ」

…時々、サツキ君はこうして、凄く大人びた事を言う。

体も心も、日々ずんずん成長している…。

…僕はどうだろう?自覚は無いけれど、僕も変わっているだろうか?ちゃんと、成長しているだろうか?

…サツキ君に相応しい恋人として、僕は、成長できているんだろうか…?

「えぇと…、15のAとB…。15のAとB…。…っと、ここだな?」

サツキ君は席を見つけ、自分の荷物を棚に押し込むと、僕に手を差し出した。

「貸せよ。入れとくから」

「え?良いよ。結構重いし、自分のくらい…」

「こんな時ぐれぇ頼ってくれよ。でねぇと、俺が一方的に頼ってばっかになっちまうじゃねぇか?」

笑いながら言い、僕の手から荷物を取り上げると、サツキ君は棚に押し込んでくれた。

頼ってばっかりだなんて、そんな事無いのに…。ねぇ?

「窓側のが良いんだよな?」

「うん。ありがとう」

お礼を言って窓際の席に座ると、窮屈そうに隣に座ったサツキ君が小さく笑った。

「乗り換えも結構有るし、向こうに着くまでの間だけどよ、久々に少しのんびりできるな?」

「そうだね。しばらくあまり会えなかったから、話したいことが山ほどあったんだ!」

「ぬははっ!俺もだっ!」

僕達は笑いながら顔を見合わせ、久しぶりにたくさん話をした。

新生活への微かな不安も、サツキ君が傍に居てくれれば忘れられた。

甘えてばかりじゃいられないけれど、今の僕には、やっぱりサツキ君が必要なんだ…。



…ねぇ、さっちゃん?

今更だけど、君には伝えきれないくらいに感謝してるんだよ?

君がくれた温かい気持ちに、向けてくれた愛情に、とても言葉では言い尽くせないくらいに感謝してる…。

君がいてくれたから、いくつもの困難も、辛い事も、乗り越えて変わる事ができたんだ。

勉強を見てあげながらも、本当はいつも僕が教えられる側だった。

ふふ…、覚えてる?僕が森野辺樹市だったって知ったあの日、雷に怯える僕を抱き締めた君が、空に向かって「うるせぇ!」

って怒鳴った事。

あんなにも誰かが頼もしく見えたのは、生まれて初めてだったよ。

晴れた日も、雨の日も、曇りの日も、雪の日も、雷でも…、君はいつだって僕の傍に居て、見守って、支えてくれた。

これまで、本当にありがとう。

そして、これからもずっと、ありがとう!

いつまでも、一緒に居ようねっ!



列車を乗り継ぎ、北陸に入ってローカル線に乗り換えた頃、準備に忙しかった疲れが出たのか、僕はいつしか、サツキ君に

よりかかってうとうとと眠り込んでしまった。

『星陵ヶ丘〜、星陵ヶ丘〜』

ふかふかで温かくて、気持ちよく眠った僕は、流れたアナウンスと同時に、サツキ君に揺り起こされた。

「着いたぜ。降りんぞ?」

二人分の荷物を軽々と担いだサツキ君に手を引かれ、僕は目を擦りながらホームに降り立った。

繋いだ大きな手は力強くて、頼もしくて、温かくて、いつだって僕を真っ直ぐに、迷う事無く引っ張って行ってくれる。

駅を出ると、嗅ぎ慣れない町の風が香り、僕は遠くへやってきた事を改めて実感した。

…これから三年間、僕達はこの町で暮らしてゆくんだ…。

サツキ君は足下に荷物を置き、大きく伸びをして、春風を胸一杯に吸い込んだ。

揃って頭上を見上げれば、東護とは少し違う色の空。

いつものように空を見上げる凛々しいその横顔に視線を向けると、サツキ君は僕を見下ろして笑みを浮かべ、そして両手を

顔の高さに上げる。

…ああ、なるほど!

僕も両手を顔の高さに上げ、笑みを返した。

バチン!

周囲の人達が足を止めて振り向く程の音を響かせ、僕達は両頬を手で叩いた。

…く〜っ…!真似するのは二回目だけど、効くぅ〜!頬っぺたがジンジンするっ!

「さぁて、行くかぁ!」

「うんっ!」

故郷とはまた違う色の、それでもやっぱり青い空の下、僕達は並んで歩き出す。

さぁ!ここからがまた、僕らのスタートだ!



「…もしかして、君達、新入生かい?」

まず手始めに、休日の校内を見て回る事から始めた僕達に、たまたま出会った一人の先輩はそう尋ねて来た。

「はい。今年から星陵の生徒になります」

「俺は阿武隈沙月。で、こっちは…」

サツキ君の視線に促され、僕はその先輩に名乗る。

「僕は…」

僕は、乾樹市(いぬいきいち)。クリーム色の被毛をした猫の獣人。

大好きなサツキ君と一緒に、高校生になれました!