第五話 「楽しかったよな」

稽古が終わって図書室に顔を出すと、たいがいの場合、キイチは本を読みふけっていた。

本当に本が好きなんだよなこいつ…。俺は気付かれねえように本棚を迂回し、そっとキイチの背後に回り込む。

キイチはすぐ真後ろに立っても気付いてねぇ。俺はそーっと腕を伸ばし…、

「だーれだっ!」

「サツキ君」

キイチは驚いた様子も見せずに即答した。

「なんだよ?気付いてたのか?」

顔に回した手を放すと、キイチは首を巡らせ、肩を竦めて見せた。

「全然気付かなかったよ。でも、その声と大きな手ですぐ分かったから。それに、僕に話しかけてくる数少ない顔ぶれのなか

で、こんな子供っぽい真似をするのは君くらいしか居ないしね」

「…子供っぽいかなぁ…?」

キイチは口を笑みの形にして頷くと、眉を潜め、クンクンと鼻を鳴らす。ちなみに俺はまだ柔道着を着てる。

「それよりサツキ君、まだ着替えてないの?」

「おう、シャワー待ちだ。…臭うか?俺汗っかきだからな…」

俺達柔道部は、着替えてシャワーを浴びてから帰るのが日課だ。一応副主将の俺は戸締りの確認があるから、後輩連中を先

に入らせてる。で、浴室が空くまでまだ少しかかりそうだから、キイチがまだ残ってるか先に確認しに来たわけだ。

腕を顔の前に持ちあげ匂いを嗅いでみると、…確かに汗臭ぇなこりゃ…。ちょっと身を引いた俺を見て、キイチは可笑しそ

うに笑った。

「そんなに離れなくてもいいよ。あまり気にならないから」

キイチは隣の椅子を引いて座るように促すと、壁の時計を眺めた。時刻は午後3時。朝7時から練習してたから、休憩や昼

休みを省いても6時間は稽古してた事になる。

「もうこんな時間なんだ…。毎日精が出るね。やっぱり全国行きが決まると、なおさら気合いも入る?」

「まあな」

キイチの隣に座りながら頷く。追試のせいで稽古の時間は少なくなったが、それでもなんとか、地区大会では優勝する事が

できた。

ちなみに俺が出てるのは、個人戦獣人の部の無差別級だ。団体の連中は残念だったが、俺の他にも二人、体重別の個人戦で

全国進出を決めた。

周りは、俺や主将のイイノが特別みてぇな言い方をしてるが、実際は違う。素人同然だった俺が一年でここまでこれたのも、

ここ数年でこの学校が地区大会の常連になれたのも、全部キダ先生と先輩方の指導、そしてこんな俺を慕ってくれる、ある後

輩のおかげだ。

っと、恒例だから一応名乗っとこう。俺は阿武隈沙月。東護中三年。柔道部所属。胸にある白い三日月がトレードマークの

熊の獣人。全国大会は、あと4日後まで迫っていた。



俺はキイチが開いていた分厚い本を覗き込む。

「また難しい本読んでんのか?」

これにキイチはクスリと笑い、

「難しい本じゃないよ。小学生中学年向けのファンタジー」

そう言いながら照れたような笑みを浮かべた。

「僕が本を好きなのは、この作品のおかげ。小学校の図書館で、背表紙になんとなく興味を覚えたのがきっかけでね。手に取

ってみたら面白くて、夢中になって何度も読み返したんだ。さっきたまたま背表紙が目に付いたら、ついつい懐かしくなっち

ゃって…」

キイチは珍しく目をキラキラさせていた。いつもは、笑ってても目なんかが冴えてて、どっか張りつめてるような感じがす

るんだが、今は子供のように目を輝かせてる。
…そういえばこいつって、昔はどんな子供だったんだろう?

「もう帰る?」

キイチは俺にそう尋ねた。最近は部活を終えると、しばらく図書室でキイチとダベってから一緒に帰るのが日課になってる。

「そうだな。そろそろ空いた頃だろうし、シャワー浴びてくる」

道場のシャワールームは全員一度に入れるだけの広さはねぇから、順番に入る事になるわけだ。で、図体がでかくてスペー

スも時間も取る俺は、自主的に最後の組で入るようにしてる。…理由はもう一つあるんだが、そっちは秘密だ…。

後輩連中からすればそれが落ち着き悪ぃらしい。気にする事ねぇのになぁ。

「そう。じゃあ僕は終わるまでここで待ってるね」

キイチはそういうと、本に視線を戻す。

………むぅ………。

「い、一緒に行くか?お前も?もうシャワーもがらがらだろうし…」

やべ、ちょっと声が裏返った。自然に誘おうと思ったんだが…。

「え?い、いやっ、僕はいいよっ」

キイチは、何故か慌てた様子でそう言った。

…もしかしてキイチの裸とか見てみたいとかなんとか一瞬思った俺の考えを察して慌てたのかいやもしかしたら俺の態度に

不自然なとこがあったりしておかしく思ったのかそれとも声が変に上ずって妙な具合になってそれで勘付いたのかもしくはも

ともとバレて…

「僕部外者だし、ほら、ずっとここにいて涼しかったから汗もかいてないし、もう少し本を読みたいし…」

 …いややっぱり気付かれたんじゃねぇのかこの間も俺が倒れ掛かったときあいつの脚に俺の股間が当たっててそのとき俺は

少しクラクラしながらももしかしたら興奮してて…

「…サツキ君?どうしたの?」

気が付くと、キイチが俺の顔を間近で覗きこんでいた。

「もしかして、また熱中症とかじゃ…?」

「い、いや大丈夫だ!ちょっと今日の稽古を思い出してただけでっ!」

俺は慌てて立ち上がる。…キイチは、心配そうに俺の顔を見上げていた。キイチの裸を見てみてぇと思った自分が汚く思え

て、なんだか心が痛んだ…。

足早に図書室を出ると、俺はドアを後ろ手に閉め、ため息をついた。

最近は、気付くといつもキイチのことを考えてる。…俺、こんなざまで…、あいつに勝てるのか…?



部活をやって、キイチとダベって、一緒に帰る。いままでどおりに二日過ごし、いよいよ明後日は全国大会。明日には現地

に入るようになる。

「良いか?これまでお前達はやれるだけの事をやってきた。自分を信じて、全力を出し切れ!結果なんてどうでも良い。悔い

だけ残さず試合に臨め!」

今日の稽古後のキダ先生の激励も、俺の頭には半分も入っちゃいなかった。



「明日出発だね、調子はどう?」

いつもの公園でブランコを揺らしながら、キイチが尋ねた。

「バッチリだ。任せとけ!」

ブランコを囲う鉄の柵に腰掛けた俺は、胸をドンと叩いて笑みを浮かべて見せた。…実は、ほんの数日間キイチと会えない

と思うだけで、少々寂しかったりもする…。

「今年の全国大会の会場は首都だっけ…。僕、まだ行ったことないんだよね」

「ああ。俺も実は今回が初めてだ。でもよ、修学旅行は首都らしいぜ?」

そう言うと、キイチはニッと笑った。

「丁度良く下見になるね。帰ってきたら面白そうなところ教えてよ?」

「無理言うなって。あのキダ先生が居るんだぜ?そうそう好き勝手できるかよ」

暗くなってきた空の下で笑いあい、俺達は公園を後にした。



「一本!」

審判の上げた旗に、会場が沸き返った。

俺はたった今投げ倒した相手に手を貸して立ち上がらせ、道着の乱れを直しながら位置に戻り、向き合って相手と礼を交わ

した。

壁際に固まっていた部員達の方へと戻りながら、俺は二階席を見回す。

…やっぱり気のせいだ…。あいつが来てる訳がねぇし…。

「やるねアブクマ。3連続一本勝ち!」

「お見事っ!すごいですよ先輩!これでベスト4進出ですね!」

同じく個人戦で勝ち残り、大会に出ているメンバー、主将のイイノと、二年のジュンペーが笑顔で俺を迎えた。他の仲間達

も歓声を上げて俺を迎える。

今の試合で準決勝進出が決まった。キダ先生の、そして前主将の悲願だった全国優勝まで、残すはあと二つ…!

調子はすこぶる良い。体もキレてるし勘も冴えてる。不安要素はねぇ、全力を出し切れる体勢だ。…その…はずだったんだが…。

「アブクマ、ちょっといいか?」

盛り上がる部員達の後ろ、黙って俺を見つめていたキダ先生が手招きした。

ホールを抜け、人通りの多い廊下に出ると、キダ先生は俺を真っ直ぐに見つめて言った。

「お前、どうしたんだ?今の試合、途中から気が散っていたように見えたぞ?」

「…んな事はねぇよ」

とは言ったものの…、さすが先生、お見通しか…。

「何かに気を取られたように見えたが…」

「気のせいだって。調子も良いし、気合いもばっちり、もしかしたらちょいと緊張はしてるかもしれねぇけどな」

実はさっきの試合中、ふと見た二階席の観客の中に、キイチが混じってたような気がした。それに気を取られ、事もあろう

に襟を取り合った状態で視線を動かしちまった。

ほとんど無意識の反射的な動作だったが、危うく足を払われる所だった。視線を戻すのが一瞬でも遅れたら、気付かねぇま

ま綺麗に軸足を払われてたはずだ。

あんまりキイチの事ばかり考えていたせいで見間違えたんだろうが…、動揺はなかなか治まらなかった。

「…本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫だって!少しは信用して…」

俺の言葉は、会場内の大歓声でかき消された。

俺と先生は顔を見合わせると、ドアを開けてホール内に戻る。丁度、試合を終えた二人が礼を交わしているところだった。

俺は、踵を返し、こちらに歩いてくる相手を見つめる。大柄な、白い熊だ。

そいつはドアの前に居た俺とキダ先生に気付くと、軽く会釈をして通り過ぎ、廊下へ出て行った。

「やはり、勝ち残って来たな」

キダ先生の言葉に、俺は無言で頷く。

今大会の最有力優勝候補、アルビオン・オールグッド。…去年俺を負かした相手だ。



あれほど再戦を望んだ相手の顔も見ても、俺の闘志は高まらなかった。

自分でも訳の分からないモヤモヤを抱えたまま、俺は試合場に立ち、準決勝の相手と向き合った。

大柄な牛と取っ組み合いながらも、俺の心は試合に臨んでる心境じゃなかった。

心技体、とは良く言ったもんで、心がふらつくと体も技も同じようにふらつく。

「技あり!」

内股をしかけられた俺は、なんとか足を出し、投げ飛ばされるのだけは凌いだものの、体勢を崩されて畳の上に押し倒される。

やばい…。俺の対応が遅れ、相手はそのまま押さえ込んできた。

跳ね飛ばそうともがいたが、俺の体は仰向けに倒されたまま、上手い具合に極められていた。気が焦るばかりで、俺の手足

は空しく空回りし、バタバタと畳を叩く。

俺、こんな弱かったのか?一回キイチと誰かを見間違っただけで、こんなにも動揺しちまってデクノボウになんのか?いく

ら体を鍛えたって、心の弱さは変わんねぇのかよ…?

「さっちゃん!!!」

…え…?

会場に飛び交う多くの声援の中で、その声だけは何故か、俺の耳にはっきりと届いた。

まさかと思いつつも首を動かし、声のした方へ視線を向ける。二階席の一番前、手すりを掴んで身を乗り出してるのは…、

「…きっちゃん…?」

一瞬、幼なじみのきっちゃんがそこに居るように見えた。

いや違う!あれは…、真剣な顔つきで俺を真っ直ぐ見つめてるのは…?

…間違いねぇ、二階席から身を乗り出して俺を見つめてるのは、他でもねぇキイチだ!

キイチは大きく息を吸い込むと、

「負けるなぁぁぁあっ!!!」

他の声援をかき消すような大声で叫んだ。

…あいつが叫ぶのなんて初めて聞いた。そしてキイチの姿が、また一瞬きっちゃんとダブって見えた。

…こうしちゃ居らんねぇ…!

腕を伸ばし、足を引き付け、俺はゆっくりと、だが確実に体を動かす。

なんとか支点にできる踵と肘を使い、じりじりと場外へ体を引きずる俺に、焦った相手は体を極め直しにかかった。その一

瞬、本当に一瞬だけ肩を極めていた腕が弛み、俺の右腕がほんの少しだけ自由を取り戻す。俺は迷わず畳に這わせていた腕を

離し、相手と自分の体の間に捻じ込んだ。

こうなっちまえばこっちのもんだ!俺は捻じ込んだ腕を使って、相手の体を強引に引き剥がしにかかる。無理矢理に捻りこ

んだ腕は角度が不安定で力が入り辛く、相手からもかなり手強い抵抗を受けた。…だが、キイチが見てんだ、無様な試合はで

きねぇ!

腕から肩にかけてミシミシと音が鳴ったが、俺は力を振り絞って相手の体を引っぺがす。なんとか押さえ込みから逃れると

同時に、審判が俺と相手を分けた。

再び所定の位置に戻される短い時間に、俺はキイチに視線を向ける。あいつは硬い表情を浮かべたまま、じっと俺を見つめ

ていた。

大丈夫だ、キイチ!俺はあいつにはっきりと分かるように、力強く頷いて見せた。

見たかもしれねぇ、っていう心境じゃ落ち着けなかったのに、現物を目にしたら迷いなんぞふっ飛んで消えた。あいつが応

援しに来てくれてんだ。いいとこ見せてやらねぇとな!

はじめの合図に、俺は声を上げて構える。自分でも不思議だったが、心がやけに落ち着いていた。

先手を取って掴み掛かってきた相手の腕は、俺が予測したとおりのドンピシャのタイミングと角度だった。突き出された右

腕の内側を走り、俺の左手が相手の襟を掴む。しっかりと指が襟を捕えた感触があった。相手が俺の左肩の辺りを掴んだが、

その時にはすでに、俺の右手は相手の脇の下にそっと潜り込み、足はそれと同時に素早く踏み出してある。

体を捻って右回転させつつ密着し、右足と左足が位置を入れ替える。相手の体を腰の後ろに乗せるようにして、そのまま回

転運動に巻き込む。

キダ先生に初めてぶん投げられた時の技であり、先生から習ったいくつもの技の中で最も得意な技、大腰だ。

畳の上で、技が綺麗に決まった時特有の、高く澄んだ音が響いた。

「一本!」

場内に大きな歓声が上がった。

礼を交わして引き返すと、キダ先生はほっとしたような顔をし、部員達はやんややんやの喝采を送ってきた。

二階席を見上げると、キイチはさっきと同じ場所でほっとしたような顔をしている。そして、俺の視線に気付くと、気まず

そうに眉を八の字にした。

俺はキイチに、「今度は逃げんなよ?」と、目で告げながら引き返す。

…無茶をさせた右腕が、今になって痛み始めていた。



「さっきの試合の後、隠れたよな?」

「あ、やっぱりバレてた…?」

ベンチに腰掛けた俺は、困ったように苦笑いしたキイチを見上げる。

「気が散るかなと思って…」

「こそこそされた方が気になるっての…」

自販機に硬貨を入れるキイチにそう言ってやる。

さっき、俺の事さっちゃんって呼んだか?そう聞こうと思ったが、止めた。うっかりそんな事言って、これから先「さっち

ゃん」と呼ばれたんじゃかなわねぇ…。

「ところでよ、わざわざ首都まで来てくれたんだな?新幹線代も随分すんのに」

「ん?まあ、柔道の試合がどういうものか見たこと無かったし、興味あったからね」

キイチはそう応じてから視線を動かす。キダ先生が、俺達の方へ歩いてくる所だった。

「お?ネコムラ、こんな所まで応援に来てくれたのか?」

「え?ええ、まあ…」

キイチは何故か気まずそうにキダ先生を見つめた。

「地区大会といい、わざわざ済まんなあ。そんなに興味があるなら、お前も柔道部に…っと…、三年だから今年で終わりだっ

たなぁ…」

先生は残念そうに言うと、休憩時間の残りを告げて立ち去っていった。

「…地区大会にも来てたって?」

「…え…えぇと…」

「柔道の試合を見たことが無かったんじゃねぇのか?」

「…いやぁその…」

キイチは半笑いを浮かべて言葉を濁した。…なんだよ、応援に来てくれてたんなら、こそこそしねえで言ってくれりゃ良か

ったのに…。礼、言いそびれちまったな…。

「そ、それはそうと、次はいよいよ決勝だね」

「おう。あいつも勝ち残ってるし、次はついに念願の勝負だ」

次はいよいよアルビオンとの試合だ。去年は組み手争いの段階で遅れを取った。しかも、今年に入って腕はさらに磨きが掛

かってる。あいつもしかして、前は他の格闘技やってたんじゃねぇのか?空手とか、ボクシングとか…。でねぇとあの異様な

腕の速さが納得できねぇんだが…。

立ち上がり、気合を入れて顔をバシンと叩くと、キイチが口を開いた。

「はい、力水」

いつのまに差し出していたのか、俺の胸の前に、ドリンクを握ったキイチの手があった。

「そりゃ相撲だろ?」

そう言いながら、俺はヘンな違和感を覚えていた。

「キイチ、今のどうやった?」

「え?どうって…、何が?」

俺はキイチに頼んで状況を再現してもらった。…これは…、使えるかもしれねぇな…。



決勝の舞台、静まり返った会場の中で、俺は一年ぶりにアルビオン・オールグッドと向きあった。

体重は確か同じだが、俺よりも少しばかり上背がある。…分かってる!何も言うなっ!

薄い赤色の目が俺の姿を映し込む。気のせいか、なんとなく笑ってるようにも見える、微妙な表情をしていた。

「はじめっ!」

審判の声と同時に、俺達は両腕を上げ、気合いの声を吐く。

睨みあいなんぞねぇ。俺は積極的に間合いを詰め、自分から組み手争いを挑んだ。

伸ばし、払い、いなし、かいくぐり、目まぐるしく腕を突き出しあいながら、俺達は互いの襟を狙って腕を伸ばす。

やはり、というかなんというか、先に捕まったのは俺の左襟だった。

下向きに下げられながら引き付ける白い腕。去年は何度もこの状態に持ち込まれて、結局凌ぎ切れずに負けた。だが、下が

る腕は止まった。俺の左腕に当たって。アルビオンが一瞬驚いたのが分かった。…これが、さっきキイチがくれたヒントだ!

さっき、キイチが差し出した手が胸元に来るまで気付けなかった。それは、俺の腕の下を潜って、上手い具合に死角を通っ

て突き出されたからだ。今やったのは、相手が掴んだ腕の下を通し、相手の右襟を捕えるという行動。相手にしてみれば、自

分の腕の下から不意に伸びた手が、いきなり自分の襟を掴んだように見えただろう。

そして、左腕で襟を掴んだこの状態は、俺の得意な体勢だった。

驚いた一瞬を利用し、素早く体を密着させて捻り、足を入れ替え、そのまま大腰をしかける。が、アルビオンは腰をしっか

り落とし、回転運動に真っ向から耐えた。…やっぱりそんなに甘かねぇやな…。

俺はそのまま体を反転させ、相手の右足に左足を絡ませて押し倒しにかかる。が、これも左足でトントンと後ろに下がり、

耐え凌ぎやがった。

今度は相手が強引に襟を引き寄せに入る。俺は腕を突っ張らせて抵抗すると、身を捻って右襟を掴む腕を振りほどきにかかった。

お互いに一歩も譲らず主導権を争う。先手を取られがちだが、それでも対応できてるのは、直前にキイチに貰ったヒントの

おかげだった。

互いの襟を捕らえあったまま、俺とアルビオンは近距離で顔を見合わせた。

自然に、笑みが浮かんだ。あいつも笑っていた。その目が「楽しい」って言ってた。

…ああ、俺も同じ気分だよ。去年負けた時、悔しかったけど、やっぱり楽しかったんだ。

俺は、こいつに勝ちたかったんじゃなく、ただ単に、またこいつとの試合を楽しみたくてここまで来たのかもしれねぇ。こ

こまで辿り着いた今は、そう思えた。



「…惜しかったね…」

キイチはそう言った。

…惜しい、か。そういう見かたもできんのかもしれねぇけど、負けは負けだからな…。

「…痛い?」

俺は俯いたまま首を横に振り、首から白布で吊り下げた右腕を見つめた。

俺達が並んで座っているのは医務室前のベンチだ。俺の右腕は準決勝で筋を痛めていたらしい。そして、さっきの決勝戦で

勝負をかけ、最後の大腰に行った時に決定打が入った。

あの時、あいつの体を回転に巻き込むはずの腕に激痛が走り、絡み合って倒れた。

俺の異変に最初に気付いたのは、対戦相手のアルビオンだった。

息も止まるような激痛に思わず右肩を押さえると、…あいつは、ものすごく悲しそうな顔で俺を見つめた…。

…俺も同じ気分だった。あんな事で俺達の勝負が終わってしまうのが、とんでもなく悲しかった…。

ドクターストップだった。試合は中断され、優勢だったアルビオンが判定勝ち。…俺の夏も、これで終わりか…。

「あ…」

キイチが声をあげ、俺は顔を上げる。制服に着替えた白熊が、俺達の前に立っていた。

しばらく無言で見つめ合った後、アルビオンが口を開いた。

「…腕…、どうだったっスか?」

「筋を違えただけらしい。今、顧問が詳しい話を聞いてるとこだ」

「そうっスか…」

直に言葉を交わすのは、実はこれが初めてだった。だが初めて喋ったって気がしねぇ。だってよ、俺達は今さっき畳の上で、

自分達がこれまでにどんな練習を積んできたのか、体を使って雄弁に語り合ったんだもんな。

キイチはベンチから立ち上がると、「ジュース買ってくるね」と言い残し、席を外した。

アルビオンはしばらく迷った末、俺の隣に腰掛ける。

「…俺、最初は体を鍛えるためにって、ある人に勧められて柔道始めたんス」

白熊はそう言うと、視線を天井に向けた。

「いやいや仕方なくって感じでやってたんスけど、指導してくれた人が良かったのもあって、こうやって全国まで来ることが

出来たんス。…それでも、柔道が楽しいって思った事は、あまり無かったんスよ。…去年、君と試合するまでは…」

「…俺も、最初は先生に勧められて仕方なく始めたんだ。正直なとこ、去年の試合でお前に負けてなかったら、今年まで続け

てたかどうか分かんねぇ」

アルビオンは笑いながら呟く。

「楽しかったっスよね?」

「ああ、楽しかったよな」

俺も笑っていた。悔いがねぇって言ったら嘘になる。でも、こいつとの試合が、これまでの試合の中でも一番楽しかったの

は本当だ。

「俺、中学出たらやりたい事があるんス。だから、柔道とは今日でお別れになるんス」

「奇遇だな。俺も高校には行かねぇで、家の仕事を手伝うつもりだったんだ」

「もったいないっスね。こんなに強いのに」

「そのセリフ、そっくり返しとくぜ」

俺達がまた笑いあうと、医務室のドアが開き、キダ先生が顔を出した。

「アブクマ、全治1週間だそうだ。大事に至らず不幸中の幸いだった…」

先生は言葉を切り、俺とアルビオンの顔を交互に見比べた。

「…だとよ」

俺が言うと、アルビオンは頷き、立ち上がった。

「じゃあ、オレはこれで失礼するっス。…楽しかったっスよ。ありがとう」

「そのセリフもそのまま返しとく。あんがとよ、アルビオン」

軽く左手を上げた俺に、アルビオンは頷いて応じると、踵を返し、振り返らずに歩いていった。

「何を話していたんだ?」

訝しげに尋ねてきたキダ先生に、動かせる左肩だけ竦めて見せた。

「いやいや始めた柔道だったが、やってみりゃ結構面白かったって話さ」

「…アブクマ…」

キダ先生は少し驚いたように俺を見つめた。

「なんだよ、変な顔して」

「お前が、柔道が面白いなんて言うとは思わなかったぞ」

「まあ、柔道部にも先生に無理矢理引っ張り込まれたし、最初は確かにいやいややってたけどな、面白くなかったら、今まで

続けてねぇよ」

照れ臭くなって、俺は鼻の頭を擦る。

…先生、面と向かっては照れ臭くて言えねぇけど、心底感謝してるよ。こんな楽しい試合ができたのも、部の仲間に出会え

たのも、あいつが居なくなった事から立ち直れたのも、全部、あんたが無理矢理柔道部に引っ張り込んで、びしばし指導して

くれたおかげだ。

「…一応、三年のお前達は引退になるが、体を動かしたくなったら、いつでも稽古に来て良いんだぞ?」

「ああ、覚えとくよ」

俺はキダ先生に笑いかけた。先生は嬉しそうな、そして少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「あれ?オールグッド君はもう帰ったの?」

声に振り向くと、キイチが歩いてくるところだった。アルビオンと俺の分も買ってきてくれたんだろう。ジュースを三本抱

えていた。

俺とキダ先生にジュースを手渡すと、時計を持ってねぇキイチは俺の腕時計を覗き込む。

「もう時間だね…、僕は行かなくちゃ」

「もう?まだ三時だぜ?」

「着くのが遅くなっちゃうからね」

キイチがそう言うと、キダ先生がゴホンと咳払いをした。

「まあ、夏休みだし、応援に来てくれたからな。一人でこんな遠くまで来たことは不問にしよう。…が、次は誰か…、例えば

私にでも前もって相談しろ。そうでなくとも、お前にとっては旅費だって相当な負担だろうに…」

「はい。以後注意します」

キイチが苦笑すると、キダ先生はふっと表情を和らげた。

「では、気をつけて帰れよ?」

「応援、ありがとな」

「はい、有難うございます。じゃあサツキ君、またね」

キイチは俺達に手を振り、足早に廊下を歩いていった。

あいつの姿が見えなくなると、キダ先生が不思議そうに言った。

「しかし、お前とネコムラが親しいとは、意外な組み合わせだな」

…まあ、そうだな。俺もちょっとそう思う…。