第六話 「サツキ君のせいですか?」
僕の名前は根枯村樹市。東護中三年で図書委員会所属。クリーム色がかった白い被毛の猫獣人。
夏休みも終わりが迫ったその日、僕は本屋を巡っていた。
読書が何より好きな僕だけれど、実は本屋に来ることはあまり無い。あまりお小遣いに余裕が無いからだ。だから普通は図
書館か、学校の図書室で本を借りている。
でも、今日の僕は、夏休み中にすっかり減ってしまった残り少ない貯金を手に、目当ての本を求めて本屋を訪ね歩いている。
探しているのは、発刊されたばかりの本で、昔から好きだった作家の作品。
多くの人気作品を生み出したその作家の作品の中でも、特に人気を博した全10巻に及んだ長編の新シリーズだ。前作の完
結から7年ぶりに出された最新刊で、こればかりは多少無理してでも手に入れたい一冊なのだ。
午前中一杯探し歩いた僕は、この近くでは残すところ最後の一軒に入る。
本が並べてあったはずの台には、宣伝用の札が立てられていたけれど、本自体はない。う〜ん…、出遅れたかな…。もっと
早く起きれば良かった…。
諦め混じりにその作家の作品が並んでいる棚まで行き、見上げると…、あ!一冊だけ、古い作品に混じって棚に並んでいる!
かなり高い位置にあるそのハードカバーに、僕は精一杯背伸びして手を伸ばす。かろうじて指先が届いたけれど、かなりぎ
っちり詰められた棚からはなかなか出てこない。
「こっち、に、おいで!…恥ずかしがりや、だな…!」
指先で背表紙を挟み、少しずつずらして引き出す。指先がしびれて腕がつりそうになる。でも…もう…少…し…!
ようやく2センチほど背表紙が引き出されたその時、僕の頭の上を越して、誰かの手が伸ばされ、本を掴んだ。
「…あ…」
背を反らすようにして腕の主を見た僕は、思わず声を洩らしていた。
「何してんだキイチ?」
珍しいものでも見るように僕を見下ろしていたのは大きな熊。サツキ君だった。
「ほれ」
彼は取ってくれた本を僕に差し出す。
「あ!有り難う!僕、背が低いから、高い棚から本を取るのは大変なんだ」
サツキ君は不思議そうな顔で店の奥を指さした。
「あそこに踏み台あるじゃねぇか」
見れば、二段ほどの階段になっているキャスター付きの踏み台が、奥の突き当りに置いてあった。…全然気付かなかった…。
本を探すのに夢中になってたから…。
僕は顔がかーっと赤くなるのを感じた。
本屋から出た僕達は、並んで歩きながら言葉を交わす。
「腕の調子はどう?」
柔道の試合で痛めた右腕を、サツキ君は肩でぐるぐると回して見せた。
「もうバッチリだ。丈夫なのが取り柄だからな。…にしても…」
サツキ君は僕が抱えている本屋の袋を見た。
「そんな大事そうに抱えて、よほど珍しい本なのか?」
僕は、このシリーズの素晴らしさと、前作を読んでからずっと続きを空想していた事、続編の登場を待ち望んでいた事を話
して聞かせ、そしてこの作家の経歴について簡単にサツキ君に説明する。
「…そ、そうか…」
雑誌のインタビューや、他の作家との対談内容についての話が終わると、サツキ君は呆然としたような表情でそう言った。
どうやら、僕のほんの短い説明でも、この作家の偉大さが少しは伝わったらしい。
「…そろそろ、腹減んねぇか?」
サツキ君は腕時計を覗き込んで言った。実に彼に良く似合っている、ごついアウトドア仕様の時計の針が、午後2時を示し
ていた。…あれ?そんなに長くこの本屋に居たっけ…?
「俺ん家この近くなんだ。簡単なのでよけりゃ昼飯ぐれぇ出すからさ、寄ってけよ」
僕は少し考える。できれば彼の家族とは顔を合わせたくないけれど、今、どういう風に過ごしているのかには少し興味はある。
結局、「家にゃ誰も居ねぇけど」というサツキ君の言葉で、好意に甘えることにした。
群青色の瓦屋根に茶色い外壁。サツキ君の家は、昔と全然変わっていなかった。
あれから9年…、彼の後ろについて、見覚えのある庭を抜け、玄関を潜る。
「あれ?」
サツキ君は玄関に並んだ靴を見て首を傾げた。
「親父!帰ってるのか!?」
彼が大声を上げると、家の奥、廊下の曲がり角から、黒い巨体がのっそりと姿を現した。
「おう、早かったなサツキ。ちょいと忘れもんしてな」
サツキ君を少し大きくしたような熊獣人が、彼の後ろに立った僕を見て目を細めた。
…おじさん。全然変わってないな…。確か、サツキ君の家は工務店をやってるんだっけ。
「友達か?」
微かに笑ったおじさんに、僕は頭を下げる。
「初めまして。根枯村樹市といいます。サツキ君のクラスメートで、彼にはいつもお世話になっています」
おじさんは少し驚いたように目を丸くし、それから豪快に笑った。
「いやいや、こいつの友達にこんな礼儀正しい子が居るとは驚いた!何も無いが、ゆっくりしてってくれ。サツキぃ、冷蔵庫
に西瓜入ってるから、出してやるといい」
おじさんはそう言いながら玄関へやって来ると、サツキ君と入れ替わって靴を履く。
僕はサツキ君に呼ばれるまま、廊下の左側にある居間にお邪魔する。
「そうだサツキ、手紙は出してきたか?」
おじさんの声に、サツキ君ははっとしてズボンの尻ポケットに手を伸ばした。
ゆっくり持ちあげられたその手には、封筒がつままれている。
「…忘れてた…」
「なにぃいいいいいい!?」
靴を履いたまま、おじさんは廊下をドスドスとやってきて、
「おまっ!あれほど忘れんなって言ったじゃねぇかっ!」
「わ、悪ぃ…」
「悪いで済んだら母ちゃん帰ってくんだよ!」
「だ、だから悪かったって…」
…え?…おばさん、どうかしたのかな?
おじさんはサツキ君から封筒をひったくると、不機嫌そうに出て行った。
僕の疑問の視線に気付いたのか、サツキ君は苦笑いする。
「お袋、親父とケンカして、先々週から河祖下にある実家に帰ってんだよ。で、あれは詫びの手紙」
「そうなんだ…」
カソシモって、確か奥羽の山奥の方だったっけ?うろ覚えだけど、確かすごい田舎だと思う。
「そんな深刻なもんじゃねぇんだ。だいたい年に4、5回ぐれぇ、ケンカを理由にして旅行に行ったり、実家に羽を伸ばしに
行ったりしてるだけなんだよ。それに俺にはまめに電話よこすしな」
サツキ君は笑いながら気楽に言う。…そういうものなの…?
「ちょっと座って待っててくれ。ああ、さっき買った本、読んでろよ。冷やし中華でも作るからさ」
そう言い残すと、彼は台所へ向かった。
おじさんにバレなかった事に安堵を覚えながら、僕はテーブルの前に正座し、周りを見回した。間取りは昔と同じだけれど、
家具や置物は少し位置を変えている。
…懐かしいな…。
壁にはサツキ君が大会でとった賞状が飾られ、棚にはどこかの土産らしいコケシやダルマ、人形が置いてある。…なるほど、
土産物っぽいのが多いのは、おばさんが旅行に行く回数が多いからか。…つまり、それだけ頻繁におじさんとケンカしてるっ
て事…?
置物には新しい物もあるけれど、懐かしい顔ぶれも多かった。僕はその一つ一つを眺めながら、しばらく想い出に浸っていた。
「悪ぃ、待たせたな〜。…って、なんだ?本読んでりゃ良かったのに」
冷やし中華を盛った皿を両手に持ち、居間の入り口に立ったサツキ君が僕を見た。
「いや、懐かしいなと思って、つい…」
「懐かしい?」
…しまった…。
「こ、これだよ。僕が小さい頃、家に同じ置物があったんだ」
僕はロシア人形、マトリョーシカ(中に同じような人形がいくつも収納されているアレ)を指して、そう誤魔化した。
納得したのか、サツキ君は頷いただけでそれ以上何も問わずに、テーブルに冷やし中華を置いた。
サツキ君が作ってくれた、ハムがかなり多めの冷やし中華は、とても美味しかった。
「ここが俺の部屋」
サツキ君は、二階の一室に僕を案内した。
フローリングの床の中央に絨毯が敷かれた部屋は、中学生の一人部屋としては結構広い。25畳くらいはあるだろうか?
奥の窓際にはかなり大き目のベッド、その脇には鉄アレイやエキスパンダー、他にも様々なトレーニング器具が固めて置い
てある。入って右手側の壁には勉強机があり、その隣にはラジカセが乗ったあまり大きくない本棚。中には漫画本がギッシリ
詰め込まれている。
壁際にはハンガーに吊るした柔道着がかけてあった。僕が二人並んで羽織れそうな大きな道着は、間違いなくサツキ君のも
のだ。全国大会が終って引退したとはいっても、仕舞い込んでしまうのは気が引けるんだろう。
部屋自体が広いことと、比較的物が少ないことで、実際の面積よりもさらに広々とした印象を受ける部屋だ。
サツキ君は僕をベッドに座らせると、
「西瓜食うだろ?切ってくるから、ちょっと待っててくれ」
そう言って一階に降りていった。少し遅めのお昼を食べたばかりなのに、まだ物足りないのかな…。
一人残された僕は、キョロキョロと部屋を見回す。
柱の傷、天井の木目、襖の小さな穴、自分でも驚いたけど、それらを目にしたら記憶の中の部屋の特徴と重なった。確かに
こんな傷があった、こういう天井だった、と次々思い出し、また懐かしさが込み上げる。
僕は机の上の写真立てに視線を向けた。伏せられた二枚の写真が気になり、そっと立ち上がって片方の写真立てを手に取る。
一枚目の写真は、二人の学生が東護中の校門の前で並んでいる所を写したもの。たぶん一昨年の入学式のものだ。写真に写
った二人の制服には、一年生の襟章がついている。
写真の中ではサツキ君と並んで、…彼が、写っていた…。
満面の笑みを浮かべて肩を組む二人の姿…。不意に、胸が締め付けられるような感覚を覚える。
僕は一つ目の写真立てを机に戻し、もう片方の写真立てを手に取る。
…二枚目の写真は…、かなり前のものだった。
これは幼稚園の頃だ。確か、町内夏祭りの時の写真。…サツキ君と、彼と、黄色い毛並みの猫。…三人の子供が楽しそうに
笑いながら、こちらを見ていた…。
「良い具合に冷えてるぞ。生ぬるくならねぇ内に…」
いきなりドアが開き、僕はビクリとしてサツキ君を振り返った。
三角に切った西瓜を並べた皿を手に、サツキ君はこっちを見つめ、驚いたような表情を浮かべて硬直した。その顔は、少し
引き攣っているようにも見えた。
「ご、ごめん…。勝手に見ちゃって…」
僕は慌てて写真を戻し、サツキ君に謝った。
てっきり怒るとばかり思ったけれど、彼はちょっと寂しそうに微笑みながら、首を横に振る。
「いや、良いんだ。伏せられてたらかえって気になるもんな…」
ベッドの下から足が折りたたみ式になっている小さな机を出すと、サツキ君は西瓜をその上に置いた。
「…その小せぇ頃の写真な、前に話したろ?お前と同じ、キイチって名前の猫が、その右側の黄色いヤツだ」
僕は頷き、写真の中の笑顔を見る。
「真ん中の丸っこいのが俺。…って、説明しねぇでも一目で分かるよな」
サツキ君は苦笑してそう言うと、少し寂しそうな表情を浮かべながら左側の子を指した。
「そっちの茶色い犬が、幼なじみだった乾健人(いぬいけんと)…。もう一枚の写真は、中学に入った時ので、ケントと俺だ…。
…知ってるだろ?去年の事故…」
僕は頷き、サツキ君は言葉を切り、小さくため息をつく。
去年の春休みのことだ。イヌイ君は道路を横断しようとした際に、車にはねられて、…亡くなった…。
幼なじみで、いつも一緒にいたサツキ君の落ち込みようは、見ていられない程だった。
ふさぎ込む事の多くなったサツキ君に声をかける事もできず、僕はただ、遠くから見ているだけだった。
そんな彼を見かねたのか、当時から担任だったキダ先生が、強引に(というか無理矢理に)柔道部に引っ張り込んだ。柔道
に打ち込むようになった彼は、それから少しずつ明るさを取り戻し、今ではすっかり元通りになった。…少なくとも、外見上
はそう見えている。
余談だけれど、その時、「入部させたいなら力ずくでやってみろ」と言ったサツキ君を、キダ先生は大腰で投げ飛ばし、柔
道部の部室まで引き摺って行った。これは今でも三年生の間では語り種になっていて、以来、彼女に逆らう生徒は一人として
居ない。
サツキ君は哀しそうな顔で写真を見つめ、ポツリと呟いた。
「…俺のせいだ…、ケントが死んだの…」
ほとんど口の中で呟かれた言葉は、聞かせるつもりのない、独り言だったのだろう。でも、僕には聞こえてしまった。
「…悪ぃな!なんか暗い話になっちまって!西瓜、ぬるくなっちまうから先に食おうぜ」
サツキ君は笑みを作り、努めて明るい口調で言った。
…下手くそな作り笑いが、痛々しかった…。
それから、僕達は夕方まで話をして過ごした。
ろくにテレビも見ない僕に合わせてくれたのだろう。話の中身はもっぱら、学校の誰かの失敗談とか、誰が誰に告白したと
か、どこのラーメン屋が美味しいとか、そういった他愛のない話題ばかりだった。けれど、僕にとってはとても楽しい時間だった。
「そういえば、夏休みの課題、終わった?」
「あ〜、うん。まあ、ぼちぼちな…」
僕の問いに、サツキ君は視線を逸らしながら答えた。…きっとやってないな、これは…。
「あと4日で始業式だよ?」
「分かってるって…、ちゃんと終わらせとくよ…」
サツキ君は先生に叱られた子供のような表情で、頭を掻きながら言った。
もしかして、勉強見てあげたから?僕のこと先生みたいに思ってる?
「送ってくか?」
玄関で靴を履いている僕に、サツキ君はそう言ってくれた。でも、住んでいる家を知られる訳にはいかないから、その気持
ちだけ貰って遠慮しておいた。
「いろいろご馳走様。おじさんにもよろしく伝えておいて。それじゃあ、またね」
「おう。またな」
玄関先でサツキ君と別れてから、僕は考える。
イヌイ君の事は、事故だったはずだ。それは間違いない。サツキ君のあの呟きは、どういう意味だったんだろう?間接的に
関わっていた…、そういう事?
サツキ君、自分にあまり関係ないことでも背負い込むからな…。少し調べてみようか…。
夏休みの残り少ない日々を、僕はほとんどサツキ君と一緒に過ごした。
もちろん、彼にイヌイ君の事を尋ねるのは避けた。
イヌイ君の事を思うと、僕も辛くなる。ずっと一緒に居たサツキ君にすれば、ボクの何倍も辛いはずだから…。
最後の三日間を楽しく過ごしている内に、僕はサツキ君の様子が少しずつ変わって来ている事に気付いた。
なんて言えば良いんだろう?たまに僕を見つめているかと思えば、僕がそれに気付いて見返し、目が合ったりしたら慌てた
ように逸らす。かといって僕を避けようとしてる訳じゃない。用事も無いはずなのに学校の図書室まで僕に会いに来てくれる
くらいだから。
その微妙な変化をそれとなく指摘してみたら、「気のせいじゃねぇのか?」と言われた。
確かに、注意していないと気付かないような微妙な変化なんだけど…。…だめだな、人付き合いを避けてきたせいか、こう
いう変化が何なのか、よく分からないや…。
二学期最初のその日、始業式が終わると、僕はさっさと教室を抜け出した。
幸いにも、クラスメートに囲まれ、全国大会での活躍を根掘り葉掘り聞かれていたサツキ君は、僕が抜け出した事に気付く
様子は無かった。
僕は職員室に向かい、「進路の事で相談したい」と、キダ先生に訴えた。
「で、進路で相談?お前が?」
相談室に入り、向かい合って座ったキダ先生の問いに、僕は首を横に振った。
「実は、イヌイ君の事で、聞きたいことがあるんです」
先生は目を細め、僕を見つめた。
この先生に隠し事は逆効果だ。他言しないという条件をつけ、僕は先日サツキ君が呟いていた内容を正直に話した。
「教えてください。本当にサツキ君のせいですか?」
「自分のせいだ。と、アブクマが言ったのか…?」
「はい。何か…、例えば彼が自分の責任と思うような事があったのか、先生はご存じですか?」
「いや…。あの二人の関係については、幼なじみだという事、親友だったという事ぐらいしか知らん。だが、イヌイの事は事
故だった。それは間違いない」
「例えば、事故現場にサツキ君が居合わせたとか、そういう事は?」
「それもないな。アブクマはその時、弁当を届けに親父さんの職場に行っていて、イヌイの事故を知ったのも、そっちでのこ
とだったらしい」
ますます分からなくなってきた。だとすると、前日に何かあったという事なのかな…?
「…お時間を取らせてしまって済みませんでした」
席を立った僕に、先生は首を傾げる。
「なんだ?もう良いのか?てっきり事故の様子まで聞かれるのかと思ったが…」
…そういえば、イヌイ君の事故については、道路を横断中にトラックにはねられたとしか知らなかったな…。その事を伝え、
詳しい状況を聞くと、先生の口から新しい情報を聞くことができた。
「去年の春休みのある日…、早朝の事だ。イヌイは近くのコンビニで買い物をして、家に帰る途中だったらしい。少し歩いた
ところに信号と横断歩道がある道路だったが、イヌイはそこまで行かず、コンビニの前からガードレールを越えて、道路を横
断しようとしたようだ。丁度街路樹の間から飛び出す形になり、トラックの運転手は慌ててブレーキを踏んだが、間に合わな
かったそうだ」
確かに、彼の家の近くには信号が離れたところにあるコンビニがあった。通行量が多い道ではないが、長く、ゆるい下りの
直線なので、走ってくる車は結構スピードを出してくる。街路樹の間からイヌイ君が姿を見せた時には、車は止まれない位置
まで来ていたのだろう。
街路樹の間を抜け、ガードレールをひらりと飛び越えた次の瞬間、けたたましいブレーキ音が鳴り響き、イヌイ君は驚いて
トラックを見る。その時にはトラックのバンパーが目の前まで迫っていて、そして…。
「ネコムラ?」
キダ先生の声に、僕はハッとして顔を上げた。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ?」
「…いえ、平気です…」
彼に訪れた死の瞬間を想像してしまい、僕の心臓はドクドクと脈打っていた。
「…イヌイ君は、何を買って帰るところだったんでしょう?」
自分を落ち着かせるために、特に何も考えずにした質問だった。だが、キダ先生から返ってきた答えに、僕の脳は興味を示す。
「封筒だったそうだ。手紙を入れるような」
朝早くに買わなければならなかった手紙用の封筒。
遠回りになる歩道を避けて帰る急ぎの用事。
何かが引っかかる。もう少し、考えなきゃいけないかな…。
「先生、この事は…」
「ああ、アブクマには黙っておけば良いんだな?」
「助かります。…それと、僕の家の事、サツキ君には…」
「もちろん言っていない。他のヤツにも言わないさ。…だが、そう気にする事はないんじゃないのか?」
キダ先生は気遣うような視線で僕を見た。
「知った所で、態度を変えるようなヤツじゃないだろう。アブクマはお前の事を知っても何も変わらん」
「だと、良いですね」
僕の言葉は、どうしようもなく感情を欠いたものになっていた。
結局、僕は決定的な所で他人を信用していないんだ。過度に信じなければ、傷つく事も失望する事もない。それが、僕がこ
れまでの生活で学んだ事だった。
「失礼しました」
哀しそうな目をしている先生を残し、僕は生徒指導室を後にした。