「木田利恵の悩み」
私の名は木田利恵(きだとしえ)。職業は教師だ。現在は東護中学校三年二組の担任で、数学を受け持っている。
また、幼い頃から続けている柔道の経験を活かし、柔道部の顧問をしている。
自慢ではないが柔道の腕は並ではない。日本選手権で三位にまで食い込んだ経歴がある。
厳しい教師として生徒らに知られており、私自身もその自覚はある。
だが、それで良いのだ。教師とは生徒を導く者。先の見通せぬ海を彷徨い、人生という名の荒波に揉まれる小舟を導く、揺
るぎない灯台でなければならない。
そう。揺るぎない…、
「キダ先生?」
今日行った期末テストの採点中だった私は、突然かけられた声に、弾かれたように顔を上げた。
「び、びっ、び、く…」
やばい!不自然にどもった!
いつからそこに居たのだろうか?ビーグル犬の獣人男性が、私のすぐ脇に立っていた。
「あ、済みません。びっくりさせちゃいましたか?」
彼の名を口にしようとしてどもったのを、どうやら「びっくりした」と言おうとしたと解釈したらしい。困ったように目を
細めた彼に、私は少々慌てて首を横に振った。
彼…、校医の美倉春臣(びくらはるおみ)先生には、部活の教え子も、クラスの生徒も何度もお世話になっている。
「い、いいえ。大丈夫です。それより、何かご用でしょうかビクラ先生?」
あ、しまった!慌てるあまりに性急に用件を問うてしまった。これでは、いかにも邪魔に感じていると思われてしまいかね
ない!何か話題は…、そうだ。
「まさか、またウチのクラスの誰かが…」
笑みを作りつつ話を続けようと適当に繋いだ私だったが、自分の口から出た冗談半分の言葉に悪い予感を覚える。
「例えばタカツキかイシモリ辺りが何かしでかしましたか!?」
先生から何か話があるという事は…、私のクラスの生徒が何か問題を起こして迷惑をかけたとか、そういう事だろうか!?
「いやだなぁ。悪い報告を持ってきた訳じゃありませんよ」
笑いながら言ったビクラ先生に、私は安心して笑い返した。
「そうでしたか…。先生が私の所に来るのは、概ね悪い知らせを持って…」
しまったぁあああああああああ!!!
うっかり口にしてしまった、嫌味とも取れる発言内容に、自分の笑顔が引き攣るのが分かった。
「あはははは。なんだか疫病神みたいですねボク」
ビクラ先生はそう言って可笑しそうに笑う。
…幸いにも気分を害した様子は無いが、どうにも決まりが悪い…。
「実はアブクマ君が、帰りがけに保健室に忘れ物をしていきまして、明日の朝にでも渡して頂けませんか?」
「アブクマが?何故保健室に?」
「勉強のし過ぎで知恵熱が出たと訴え、熱冷ましを所望でした。微熱だったので大丈夫だとは思いますが、一応注意しておい
てあげて下さい」
…本当に熱を出したのか?勉強して?
常々冗談のような存在だと思っていたが、笑えないほどに冗談のようなヤツだな…。
「お手数をおかけしました…。それで、忘れ物とは…」
「これです」
ビクラ先生が差し出したのは、かなり大きな鞄…。
開けてみると、中には教科書やノートの勉強用具一式と、巨大な弁当箱が入っていた。
「…手ぶらで帰る事に疑問を感じなかったのかあいつは…」
私は思わず額を押さえる。
「まぁまぁ先生、期末も終わって気が緩んだんでしょう。熱もあった事ですし」
ビクラ先生は相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「重ね重ね、申し訳ありません…」
恥ずかしさを覚えながら、私はビクラ先生に頭を下げた。
「いいえ。これぐらい何でもありませんよ。来客が少なくて暇ですからね。っと、保健室に来客が多いのはまずいか…」
ビクラ先生は冗談めかして笑う。
「それじゃあ、そろそろ戻りますね」
「は、はい。わざわざ済みませんでした」
そしてビクラ先生は保健室に戻っていった。
職員室から出てゆく白衣の後ろ姿を見送り、私はそっとため息をつく。
私は彼に、密かに想いを寄せていた…。
ビクラ先生と初めて会ったのは、もう三年近くも前の事になる。
丁度、今私が受け持っている三年生達が入学した年、彼は隣町の中学から東護中へと赴任して来た。
いつも笑みを絶やさず、慈愛に満ちた穏やかな人柄で、彼はすぐに教師にも生徒にも馴染んだ。
そして、赴任から半月が経った頃に行われた歓迎会で起こった出来事で、私は、ビクラ先生に強く惹かれるようになった…。
グラスを煽り、ロックのウイスキーを喉に流し込む。
焼けるような強い刺激が、喉を滑り落ちて胃に収まる。
乱暴にカウンターにグラスを置き、マスターに追加を催促する。
他の客の居ない、マスター一人が切り盛りする、小さな、静かなバーのカウンターで、私は一人っきりで飲んでいた。
私には普段から酒を飲む習慣はない。どちらかと言えば酒に強い方でもないのだ。
だがしかし、この日の私は一次会でのある出来事が胸の奥に引っかかり、一人四次会を敢行していた。
引っかかっているのは、現三年生の学年主任であり、当時は二年の学年主任だったエコジマ先生の言葉だ。
「な〜にが…「キダ先生は気が強い所が頂けませんなぁ」だ…。「もう少し女性らしく振る舞った方がモテますよ」だ…。「
あまりぼやぼやしていると行き遅れてしまいますよ?」だ…!」
新たにウイスキーが注がれたばかりのグラスを握り締め、ブツブツ呟く私を、マスターは薄気味悪そうにちらちらと見る。
「な〜にが…「行き先がないなら私が貰ってあげましょうか?」だ…。調子に乗るな!お断りだハゲオヤジっ!私にだって選
ぶ権利はあるぞっ!?」
そう。あのハゲのネチネチとした言葉がボディブローとなって、いつまでもダメージが抜けないのである。抜けないどころ
か時が経てば経つほどじわじわと効いてきている。
…私は、それほどまでに男に困っているように見えるのだろうか…?
弁解ではないが、別に何も不自由などしていないぞ。
…いや、正直に言えば、不自由するどころか、恋人が居ない事に慣れ、諦め始めてもいるのだ…。
故郷の親には心配をかけている。事あるごとに見合いの話を持ち出す程にだ…。
男が嫌いな訳ではない。苦手な訳でもない。だが、私には男が寄りつかないのだ。
教師だった父の背を見て、柔道家だった今は亡き祖父の背を見て、幼い私は育った。
教師を志したのも、柔道に打ち込んだのも、全ては多くの人々に慕われている、敬愛する二人と同じ視点で物を見てみたい
という、そんな単純な憧れからだった。
尊敬する二人に恥じぬよう、真面目に勉強し、真面目に稽古し、そして教員免許を取った後に、私は気付いた。
男が、私を避けるという事に。
「なぁ〜にが悪かったんらろうなぁ〜…」
ろれつが怪しくなりながら、私はカウンターに頬杖をついて呟いた。
現在に至るまで分かっていない事なのだが、原因がさっぱりなのだ。
別に極めて顔が悪いとか、困った性癖があるとか、そういったマイナスは無いと思う。
ピーマンが嫌いだという事が影響しているのだとすれば、世の中の大多数が独り身のはずだ。
…認めるのは癪だが、やはりエコジマ先生の言うとおり、世間一般的な所でいう「女性らしさ」が欠落している事が原因な
のだろうか…?
中学生離れした巨体の教え子は、
「先生は完璧過ぎんだよ。男ってのは基本的に、自分が優位に立ってねぇと落ち着かねぇ生き物なんだ。だから先生みてぇに
完璧過ぎると、逆に近寄り難ぇもんなんじゃねぇか?…ま、キイチの受け売りなんだけどな」
と、私を評した。
私は完璧などではない。まぁ、世辞混じりの冗談だったのだろうが…。
酔っているせいか、とりとめもなく思考が巡る。
ままならない思考の流れを断ち切るように、ウイスキー一口を含んで飲み下したその時、軽やかな鐘の音が鳴り、バーのド
アが開いた。
「こんばんはマスター」
聞き覚えのある声に、私は首を巡らせた。
「あれ?キダ先生?」
この春赴任してきたばかりのビーグル犬の獣人が、意外そうに私を見つめていた。
ビクラ先生はマスターとは顔見知りらしい。「いつものお願いします」と注文すると、私の隣に腰掛けた。
先生は一人だった。この時間まで一人で飲んでいたのだろうか?
今回の歓迎会で主役の一人であるビクラ先生は、一次会でもずいぶん酒を飲まされていたが、酔っている印象は全く無い。
どうやらかなり酒に強いらしい。
「ビクラ先生もお一人ですか?」
「いやぁ、エコジマ先生がなかなか解放してくれなくて…、今しがたようやく一人になれたところです」
ビクラ先生は苦笑いすると、私に尋ねてきた。
「先生も、良くこのお店にいらっしゃるんですか?」
「いいえ、たまたま前を通りかかって、来るのは今日が初めてです」
舌の動きがおかしく、やや発音が危うかったが、聞き取れるように気を付けてそう告げる。
「普段から良く一人で飲みに歩かれるんですか?」
「いいえ、それも今日はたまたまです」
とりあえず、何故今日は飲んでいるのかという事や、一人四次会の理由やらについては、正直あまり触れて欲しくない。
質問されるのを少々鬱陶しく思っていると、ビクラ先生の前に大きめのグラスが置かれ、丁度良く会話が途切れた。
彼の前に置かれたグラスの中には、牛乳を思わせる乳白色に近い飲み物が注がれていた。
ビクラ先生は笑みを浮かべ、グラスを掲げる。
「それではせっかくですので。歓迎会、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、これからよろしくお願いします」
私もグラスを掲げ、先生のグラスと合わせた。
二つのグラスで奏でられた乾杯の音が、静かなバーに澄んだ音を残して消える。
ビクラ先生はグラスの半分近くを一気にあけ、口元に微かな笑みを浮かべ、「ふぅ…」と息をついた。
なんとも美味そうに飲むものだ。酒が大して好きでない私にも、彼のグラスの中のそれは、実に美味そうに見えた。
「カルーアミルクです。ボクこれに目がないんですよ」
私の視線に気付いたのか、ビクラ先生は飲み物の名を教えてくれた。
名前だけなら聞いたことはあるが、元々飲み歩かない私には、それがどういう物なのかは良く分からなかった。とりあえず
はミルク…、牛乳ベースなのだろうか?
「よければ味見してみますか?」
私はよほど物欲しそうにしていたのか、ビクラ先生はそっとグラスを押し、私に勧めてくれた。
「では、失礼して…」
後になって思い返し、何度も赤面したが、これは間接キスである。
かなり酔っていたのだろう。しらふであれば絶対にしなかったが、その時の私には、さして付き合いもない同僚と間接キス
をする事など些細な事に思えたのだ。
…甘い…。
甘かったが、不快ではなかった。甘いものが苦手な私にとっては珍しい事に…。
焼けるような濃いウイスキーを飲み続けていた私には、それは甘露のように思えた。
ふと気付けば、ビクラ先生が何故か少し意外そうな顔で私を見つめていた。
「どうかしましたか?」
私が首を傾げると、ビクラ先生は困ったような笑みを浮かべた。
「あ、失礼…。先生の笑顔、初めて見たもので…」
そう言われ、初めて気付いた。私は、普段は笑うことなど殆ど無いな…。
「美味しいものですね。初めて飲みました」
私はそう言って、困ったような顔をしているビクラ先生に微笑みかけた。
今でも少し気になっている。あの時私は、ビクラ先生に上手く笑いかけることができただろうか?
その後の事は、実はよく覚えていない。
一気に酔いが回ったのだろう、なんとなく覚えているのは、エコジマ先生に言われた内容や、男が寄りつかないのだという
事を、聞き上手なビクラ先生に延々と愚痴った事。
それから、足取りもおぼつかないという醜態をさらす私に、ビクラ先生が肩を貸して店を出た事。
それから確か…、タクシーで送って貰ったはずだ。
ビクラ先生が隣に乗っている事が、なんとなく気分良く思えたのを覚えている。
記憶が途切れ途切れだが、確かビクラ先生におぶられてアパートの私の部屋まで送られたはずだ。
いつも白衣でしか見ていなかったが、思っていたより広い、大きな背中は、とても温かかった…。
それから…、確か玄関口で、別れ際に私が何か尋ね、それにビクラ先生が驚いたような顔をし、それから穏やかに微笑んで
首を横に振った。
その後、ビクラ先生からも何か尋ねられたはずだ。私はその問いに驚き、そしてやはり首を横に振った。
確か…、あの時は少し嬉しかったような気がする…。
その後、いくらか言葉を交わしてから別れたと思うが、一体どんな会話を交わしたのか、今に至るも思い出せない…。
思い返せばあの夜から、私はビクラ先生に惹かれ始めたのだろう。
だが、ビクラ先生と私は随分性格が違う。歳も彼の方が四つも若い。
そんな事もあり、私はただ、付かず離れず彼を眺めている事しかできないでいるのだ…。
「どうかしたのキダ先生?ぼーっとしちゃって?」
同僚の女性教師に声をかけられ、私ははっと我に返った。
しまった…!だいぶ時間が過ぎたというのに、採点が全く進んでいない!
「い、いや何でも…」
話せるような内容の物思いではない。はぐらかそうとした私に、しかし同僚は興味深そうに話を続けようとした。
「さてはクリスマスのデートの事でも考えていたのかなぁ?」
「さぁな…」
既婚者の同僚はニヤニヤしている。彼女は私に恋人が居ると思い込んでいるが…、悪いが居ないぞ?クリスマスを一緒に過
ごす恋人など…。
「あ、クリスマスっていえば…」
同僚は辺りをはばかるようにして声を潜めた。
「週末にね、デパートでビクラ先生を見かけたの。声をかけようとしたんだけど、先生、何してたと思う?」
ビクラ先生が、デパートで?興味を覚えた私に、同僚は囁いた。
「ジュエリーショップでね、店員からリボンをかけた小さな箱を受け取っていたのよ!ついに声をかけられなかったんだけれ
ど、幸せそうに微笑んで、大事そうに箱を鞄にしまってね…。あれきっと恋人へのクリスマスプレゼントよ!」
…え…?
「きっとあれ指輪だわ。小さな箱だったもの。どんな人なのかしらね、相手は…」
宙に視線を彷徨わせ、同僚はビクラ先生の恋人の姿を思い浮かべている。
同僚はなおもあれこれと想像を語っていたが、私の耳には内容が全く入って来なかった。
…そうか…。ビクラ先生には、恋人が居たのか…。
ふと、笑いの発作が込み上げ、私は声を押し殺し、俯いて笑った。
「どうしたんです?キダ先生?」
同僚が訝しげに私に問うたが、答えることはできなかった。
…滑稽だな、木田利恵…。
「アブクマ。ちょっと来い」
中学生離れした巨体を職員室の窓越しに見つけた私は、窓をあけて教え子に声をかけた。
「なんだよ先生?朝っぱらから…」
クラスメートである白猫と一緒に登校してきた、濃い茶色の大熊は、足を止めて訝しげに首を傾げた。その手にはデパート
の紙バック。
「お前な…、紙バック片手に登校しておいて「なんだ?」は無かろう?」
茶色の大熊、阿武隈沙月は手元の紙バックに視線を向け、決まり悪そうな顔をする。
「ビクラ先生から鞄を預かっている。とっとと取りに来い」
私は窓を閉め、それから自分の机に戻り、引き出しにしまっていたアブクマの鞄を引っ張り出した。
実は、昨夜届けてやろうかと思っていたのだが、同僚から聞いたビクラ先生の話を聞いた後、この鞄の事は頭からスッポリ
と抜け落ちてしまっていたのだ。
阿武隈の鞄は、他の生徒が持ち歩く平均的なサイズよりも一回り大きいが、スペースの半分近くが巨大な早弁用弁当箱に占
領されている。
すぐにやってきたアブクマに鞄を渡すと、大熊は頭を掻いて苦笑いした。
「だはは、いやぁ夕べは大変だったぜ。鞄ごとまるまる教科書忘れたって言ったら、キイチにこっぴどく叱られちまった」
「当然だ!お前なぁ…、じきに入試だというのに、受験生の自覚が薄いんじゃないのか?」
キイチとは、アブクマと同じく私が受け持つクラスの生徒であり、先程もこいつと一緒に登校してきた白猫、根枯村樹市の
事である。校内で1、2を争う秀才で、実に真面目な生徒だ。
詳しい説明は避けるが、彼はある複雑な事情により両親を喪い、今はアブクマの家に居候している。
なお、二人は同じ高校を目指しており、ネコムラがアブクマの勉強を見てやっているらしい。成果の程はまぁ、期末テスト
の成績を見るに、どうやら上々なようだ。
「先生?」
「何だ?」
「具合悪ぃのか?」
アブクマは眉を潜めて私の顔を見つめていた。
こいつとは柔道部の顧問、そして担任として二年からの付き合いだ。他の生徒と比べ、私の事も良く知っている。自分でも
気付いていなかった、常の私とは微妙に異なる雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
「そんな事はない。クリスマスが近いせいで、少々浮かれている可能性はあるがな」
「……………」
はぐらかそうとした私を、アブクマは眉間に皺を寄せて見つめた。
「先生、相談してぇ事があるんだけど、ちょっと良いか?」
「後にしろ。ホームルームが始まるぞ」
「時間は取らせねぇよ」
「放課後にしろ」
「すぐが良いんだ」
「なら明日にしろ」
「先に延びてるじゃねぇか!それに明日は土曜で休みだ!」
断る私に、アブクマはなおも食い下がった。
こいつは一度何かを決めたら、そう簡単には引き下がらない。
担任として、顧問として、こいつの長所でもあり短所でもあるその辺りは、嫌と言うほど解っている。
「…少しだけだぞ?」
私はため息混じりに応じ、相談室の鍵を持ってアブクマを促し、廊下に出た。
「で、相談というのは何だ?」
「先生の相談を聞こうと思ったんだよ」
二人きりで向かい合った相談室で、アブクマは肩を竦めた。
「生徒に相談するべき事など何も無い」
「そうは思えねぇけどな」
会話を打ち切るつもりで言った私に、アブクマは苦笑した。そして不意に表情を改める。
「先生。俺、あんたには感謝してんだぜ?」
唐突に話が変わり、立ち上がりかけていた私は、虚を突かれた形で動きを止めた。
「愚痴でも文句でも聞くよ。誰にも言ったりしねぇ。「抱え込まずにぶちまけろ。それで楽になる事もある」…。ケントが逝っ
ちまって塞ぎ込んでた俺を、そんな立派な言葉で励ましてくれた人が居る」
「立派な、というよりも…、いささか乱暴な言葉だな…」
私はため息をつく。…昨年の春。私自身がこいつに言ったセリフだ…。
「俺達は、ここにあと三ヶ月しか居られねぇんだ。迷惑かけまくった恩返し、少しぐれぇさせてくれよ」
アブクマは真剣な顔で私を見つめる。私は諦め、椅子に深く座りなおした。
「…まったく…、心配するべきは自分の進路と新生活についてだろう。どうしてお前は他人事に首を突っ込みたがるのか…」
こういう男なのだ。自分の損得を考えず、困っている者を放っておけない…。実際、その性格で損な目に遭った事も一度や
二度ではなかろうに…。
「アブクマ…」
「ん?」
私は、自分の倍以上もある大きな教え子に尋ねてみた。
「お前は今、誰かと付き合っているか?」
一瞬の沈黙の後、アブクマは視線を微かに逸らした。
隠し事をするつもりではない。こいつは照れた時に鼻の頭を掻いたり、視線を逸らしたりする癖がある。
「ああ、付き合ってる。皆にゃ秘密にしてるけどな」
少々言いにくそうだったが、アブクマは誤魔化す事なくそう答えた。
「告白したのは、お前からか?」
「まぁな。玉砕覚悟だったが、その後も何とか上手く行ってるよ」
「…そうか…」
黙り込んだ私に、アブクマは逸らしていた視線を戻した。
「ビクラ先生か?」
…!?
思わず立ち上がると、アブクマはビックリしたように目を丸くした。
「おいおい落ち着けよ。まぁ座れって」
私は胸がドキドキと鳴るのを感じながら、大人しく座る。
…これではどちらが教師で生徒か分からない…。
「…知っていたのか…?」
「ウチのクラスじゃ結構有名だぜ?先生素直だから、すぐ顔や態度に出るもんな」
…それをお前が言うか?
「結構似合いの二人だって話になってんだけど…。何があったんだ?」
「…ビクラ先生には、恋人が居るらしい…」
観念し、私はそう言った。アブクマは少し驚いたようだが、不思議そうに首を捻る。
「告白は、しねぇのか?」
「私がしゃしゃり出るべきではないだろう…。そもそも私ではビクラ先生に釣り合わん…」
アブクマは難しい顔で腕組みした。
「…そろそろ時間だな…。話はここまでだ」
立ち上がった私に、アブクマは口を開いた。
「最後にいっこだけ。先生は、ビクラ先生の事が好きか?」
一瞬の間の後、私は黙って、小さく頷いた。
「…そか…」
アブクマは、何故か嬉しそうに笑っていた。
「いでででででっ!」
それは、帰りのホームルームが終わった直後の出来事だった。
「サツキ君!?どうしたの!?」
廊下に出た所で、誰かが床に屈み込んでいる。腹を押さえて呻いている大熊の隣で、白猫が心配そうにしゃがみ込んでいた。
「急に腹が…!」
超展性チタン合金のように頑丈な胃を持つアブクマが腹痛とは珍しい。どれほど悪いものを食ったのだろう。太古の肝油ド
ロップとかか?
そんな呑気な事を考えていた私は、
「…もしかして、刺された傷が…!?」
と続いたネコムラの言葉で青くなった。
今年の秋、ある小学校に不審者が侵入した。
その現場にたまたま居合わせたアブクマは、刃物を手にしていた不審者から、果敢にも丸腰で男子児童を救い出した。
アブクマはその際に腹部を刺されて重傷を負い、一時は生死の境を彷徨ったのだ。そしてつい二週間程前まで治療のために
入院していたのである。
「どうしたアブクマ!傷が痛むのか!?」
駆け寄った私は、硬く目を瞑り、歯を食い縛って腹を押さえているアブクマの脇に屈み込んだ。
「…痛くて死にそうだ…!」
普段からは想像も付かないような弱々しい声が、大熊の口から漏れた。
辺りでは帰り際だった生徒達が私達を取り囲み、固唾を呑んで見守っている。
「じっとしていろ。すぐにビクラ先生を呼んで来る!」
「あ、大丈夫だ。歩けるから…」
アブクマはそう言うと、意外にもすっくと立ち上がった。背筋を伸ばし、しゃっきりと。
ギュウッ!
「いでぇっ!?」
立ち上がった途端に、アブクマは声を上げた。
「どうした!?無理はするな!」
「い、いや、今のは違っ…!ももっ…つねっ…!」
アブクマは何故か太ももを手で押さえていた。その横でネコムラがコホンと咳払いしている。
「先生、保健室まで連れてってくれ…」
「いや、ここを動くな。誰かにビクラ先生を呼んで来て貰う」
「え?いや、できれば俺が行きてぇんだけど…」
「何故だ?」
首を傾げた私に、アブクマは思い出したように腹を押さえて呻き出す。
「うお〜!痛ぇ〜!じっとしてると何か出そうなんだ!早く保健室行こう!」
何が出そうなんだ!?い、いや、とにかく今は一刻も早く処置を!
「肩を貸す!ゆっくりで良い。静かに歩け!」
私は自分よりも遙かに大きな教え子を、肩を貸して支える。反対側にはネコムラがつき、肩を貸してやっていた。
「いいか?落ち着いて、ゆっくり歩け…」
「あ〜!いででででっ!出る!出ちまう!もうはみ出そう!」
何がはみ出るんだ!?もしや、傷がもう完全に開いているのか!?
「落ち着いてサツキ君!呼吸を整えてこういう風に息して?いい?ひっひっふー…、ひっひっふー…」
「ひっひっふぅ〜…、ひっひっふぅ〜…」
「止めろネコムラ!アブクマ!それは出す為の呼吸法だ!」
ラマーズ法の呼吸を教授するネコムラと、素直に真似ようとするアブクマに、私は慌てて叫んだ。
衆目を集めながら騒いでいる内に、私達は何とか保健室に辿り着いた。
その目の前で、保健室のドアがガラッと開く。
「ビクラ先生!」
開いた扉の向こうに立ったビーグル犬の優しい顔は、今の私には救い主の顔にも見えるほどに神々しかった。
「先生!アブクマが…」
状況を説明しようとした私とビクラ先生の横を、大熊がのそのそと歩き過ぎた。
「おぉ腹痛ぇ…。先生、胃薬ねぇっすか?」
……………。
ずかずかと保健室に入り込んだアブクマは、勝手に薬品棚を覗き込んでいる。
「…アブクマ…?」
「うん?」
掠れた声をかけた私に、アブクマはこちらを見もせずに返事をする。
「腹は…?」
「あ〜、胃が痛ぇんだわ」
……………。
「傷が開いたんじゃないのか!?」
「へ?いや、傷はもう何でもねぇけど?」
きょとんとしているビクラ先生と、呆気にとられている私の横を、ネコムラがトコトコと通り過ぎた。
「サツキ君、ここだよ」
「あ〜、そうだったそうだった」
ネコムラが示す棚に手を伸ばした大熊は、「おやぁ?」と、いささか芝居がかった声を上げる。
「みろよ。こんな所に小さな箱があるぞキイチ?」
「わぁ、本当だ。リボンがかかってるのを見るに、誰かへのプレゼントかなサツキ君?」
…え…?それはまさか…。同僚が言っていた、ビクラ先生が恋人のために用意したプレゼントだろうか…?
「ちょっと二人とも…」
ビクラ先生は困ったように顔を顰めた。
「どういうつもりだい?内緒にするっていう約束で話したのに、キダ先生まで連れて来て」
「ん〜…。まぁ、込み入った事情があってよ」
理解できない話をしている三人を前に、私はようやく冷静さを取り戻した。
「アブクマ…。仮病だったのか?」
「仮病じゃねぇよ」
大熊は目を細めて笑う。
「元気のねぇあんたの顔を一日見てりゃ、心配で胃が痛くなるってもんだ」
………!
アブクマは胃薬を手に、ビクラ先生に笑いかけた。
「先生、薬貰うっすよ。それと、キダ先生にも、さっさと処方してやってくれよな?」
またも意味の分からない言葉。だがビクラ先生は、
「分かったよ…。本当はもう少し後にしたかったのにな…」
そう、困り顔で呟いた。
「それじゃ」
「お邪魔しました」
アブクマとネコムラは一礼し、保健室から出て行く。
しばし閉じられたドアを呆然と見つめていた私は、我に返ってビクラ先生に頭を下げた。
「お、お騒がせしました…」
何を考えているんだあいつらは!私をからかいたかったのか!?
だんだん腹が立ってきた私に、ビクラ先生が微笑みかけた。
「キダ先生。丁度お茶を淹れた所だったんです。一杯いかがですか?」
何をしているのだろう?私は…。
ビクラ先生に淹れて貰った紅茶を飲みながら、私は自問する。
ビクラ先生も何を思っているのか、普段なら何か話題を振ってくれるのに、何かを考え込むように黙り込んでいた。
…居心地が悪い…。
いつもなら、彼の顔を見るだけで、傍に居るだけで胸が高鳴るのに…、今日の保健室は、二人きりの空間は、居心地が悪く
て仕方がなかった…。
…ビクラ先生に恋人が居た…。そう考えると、傍に居るのが辛かった…。
「キダ先生…」
「は、はいっ!?」
突然名を呼ばれ、私は裏返り気味の声で返事をした。
「一昨年の歓迎会の時の事、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。もちろん覚えています。…あの時は、とんだご迷惑を…」
恥ずかしさに、顔が赤くなった。
…しかし、ビクラ先生は何故今になってそんな話を…?
「あの時の、別れ際の約束も、覚えていらっしゃいますか?」
…別れ際の…、約束…?
「少しフライングしますが、明日は、ボクの30歳の誕生日です」
ビクラ先生は頭を掻きながら笑った。
…約束…。…30歳の誕生日…。…ん?…30?…………あ!
私は思わず声を上げる所だった。
…思い出した!一昨年のあの夜、私の部屋の前でビクラ先生と交わした会話の内容を!そして、その時に交わした約束も…!
かなり酔いが回り、ビクラ先生に部屋まで送られたあの夜、私は…、
「それでは、ボクはそろそろ…」
私をアパートの部屋まで送り届け、玄関から上がろうとせずに帰ろうとしたビクラ先生を、私は呼び止めた。そして尋ねた
のだ…。
「ビクラ先生も、私のような女は好みではないでしょう?」
かなり酔っていたのだろう。普段の私であれば絶対にしない質問だ。
ビクラ先生は驚いたように目を丸くし、やがて穏やかに微笑んで首を横に振った。
「いいえ。そんな事はありませんよ。…でなければ、こんなに遅くまで付き合わせたりなんかしません…」
いささか照れ臭そうにそう言った後、ビクラ先生は私に問うた。
「キダ先生こそ、美人ですし、かっこいいですし、…ボクみたいなのは好みじゃないでしょう…?」
酔って鈍くなった私の頭に、ビクラ先生の先程の言葉が、今の質問が、ゆっくりと浸透する。
…好みでなかったら、付き合わせたりはしなかった…。
私は、首を横に振った。…嬉しかった…。
「え?本当に?」
ビクラ先生は少し驚いたように聞き返し、それから微笑んだ。
「付き合っている人は、居ないんですか?」
「ええ。ビクラ先生こそ、いらっしゃらないんですか?」
「あまりモテるタイプではありませんので…」
ビクラ先生は苦笑いし、私も自嘲気味に笑う。
「…でも…、先生はまだお若いですから…。すぐに見つかりますよ。私はもう三十路も過ぎました。そろそろ、諦めかけてい
ます…」
ビクラ先生は少し考え、それから口を開いた。
「先生。会ったばかりでなんですが、もしよろしければボクと…」
「ビクラ先生」
私は彼の言葉を遮った。
「そう簡単に決めてはいけませんよ?先生はまだ二十代です。素敵な出会いがあるかもしれないのに、早々と決めてしまって
はいけません」
考えてみれば、随分先輩面をした物言いだった。それでも、ビクラ先生は納得したように頷いた。
「…そうですね、会ったばかりで性急過ぎますよね…、失礼な事を申し上げました…」
神妙な口調でそう言った彼は、項垂れてしまった。
「もしも、ビクラ先生が…」
私は、俯いた彼に話しかけた。
「数年して…、えぇとそうですね、30歳になって、それでも恋人が見つからなければ…」
私は彼に微笑みかけた。
「その時になっても私で良いとおっしゃるのであれば、喜んでお付き合い致しましょう」
今になって思い出しても、何故あんな事を言い出したのか分からない。
だがあの時、彼は指を折って少し考えた後に、
「…30歳…。約二年と八ヶ月か…」
と呟き、笑顔で頷いた。
「分かりました。30歳になったら、もう一度アタックしてみます」
…いや、あくまでも誰も居なかったらの話で、再アタックの時期の話ではないのだが…。
そう思いながらも、私は彼の真面目な返答が可笑しくて、嬉しくて、笑いを堪えるのに精一杯だった…。
「約束ですよ?楽しみに待っています」
「やっぱり、覚えてらっしゃいませんでしたね?」
ビクラ先生の声に、私は我に返った。
「あ!い、いえ、その!…済みません…。今思い出しました…」
何と勝手な…!自分からあんな話を振っておいて、今の今まで、当人から言われるまで思い出せなかったとは…!
羞恥と自分への憤りで顔を赤くし、俯いた私の前で、ビクラ先生が席を立った。
…呆れただろうな…。まぁ良いさ、自業自得だ。それに、嫌われてしまえばいっそ楽になれるかも…。
もんもんと考え込む私の前に、コトン、と、小さな箱が置かれた。
手の平に乗るサイズの、その小さな箱には、赤いリボンがかけられている。
顔を上げると、再び向かいに腰を降ろしたビクラ先生が、頬を指先で掻きながら、恥ずかしそうに口を開いた。
「一日早いですが…、改めて、交際を申し込ませて頂きます」
……………!?
…まさか…?そんな…?このプレゼントは…、最初から、私に…?
「ビクラ先生…」
私の声は、硬くなってしまった。
「あ…、やっぱりフライングはダメですかね?」
困ったように言ったビクラ先生を前に、私は…、
「…本当に…、私などで宜しいのですか…?」
視界の中で、小箱が滲んだ。
ビクラ先生は真面目な顔で頷いた。
「ボクは…、この二年と八ヶ月、キダ先生以外の女性との交際を考えた事は、一度もありません。そしてたぶん、これから先
もずっと」
俯いた私の目の前で、眼鏡の内側に水滴が落ちた。
「ボクと、お付き合いして頂けませんか?」
ビクラ先生の問いに、私は…、眼鏡を外しながら…、
「私などで宜しいのでしたら…、喜んで…!」
泣き笑いの顔で頷いていた。
「アブクマ、ネコムラ、ちょっと来い」
週明けの月曜日、中学生離れした巨体の生徒と、小学生にも間違えられそうに小柄な生徒を、職員室の窓越しに見つけた私
は、窓を開けて教え子に声をかけた。
「な…なんだよ…?」
濃い茶色の大熊は、一緒に登校してきた白猫と同時に、ビクリと身を竦ませて足を止めた。
「腹の調子はどうだ?」
意地悪く笑いながらそう問い掛けると、アブクマは顔を顰めて頬を掻いた。
「まぁ、その事はもう問わん。…だが、お前達に一言だけ言っておきたくてな」
私は二人に、左手を、手の甲を向けて突き出して見せた。
「…せ、先生…、それ…!」
「ぬははっ!上手く行ったんだな!?」
ネコムラとアブクマは、私に笑顔を向けた。
「コホン!…まぁ、そういう事だ…」
私は照れ隠しに咳払いし、二人に言った。
「…感謝しているぞ、二人とも」
二人は一度顔を見合わせ、それから私に笑い返した。…生徒に恵まれたな…、私は…。
朝の光を受けて左手の小指で輝く、少しゆるい銀の指輪に視線を落としながら、私はとても満たされた気分で微笑んだ。
昨夜遅くに彼の部屋でかわした、カルーアミルクの味がするキスの感触と、いつかこのリングを薬指に嵌め直す時の事に想
いを馳せながら…。