「飯野正行の想い」

窓の外で、すっかり春めいた景色が後ろへ流れて行く。

今は三月半ば。しつこく居座っていた寒気もやっと諦めたのか、空気も暦もやっと春になった。

風は暖かくなり、草木は活気付き、常緑樹の緑すらも冬のそれとは違って見える。

…もっとも、オレに限って言えば、これからもっと寒いところへ行くわけだけれど…。

オレは今、新幹線のシートに一人で座り、流れて行く春景色を眺めている。

窓の外を吹き抜けているはずの温かい風に想いを馳せ、オレは頬を弛ませた。

強い風でも吹いたんだろうか?こんもりと木が茂った小さな山から、ぶわっと、霧のような、粉っぽいような、一陣の花粉

が飛び立つ。

自分にとっては大変危険な風に想いを馳せ、花粉症のオレは頬を引き攣らせた。

が、またすぐに頬が弛み始める。

…もうすぐ…、もうすぐだ…。

「…もうすぐ会えるよ。ユウヤ…」

窓に映り込む自分の顔を見ながら、しばらく会えていない恋人の名を、そっと呟く…。

オレは飯野正行(いいのまさゆき)。つい先日中学を卒業し、この春から高校生になる猪獣人。

その恋人と初めて言葉をかわしたのは、三年前の春。

中学の入学式の後、オレが初めて柔道場に足を踏み入れた日の事だった。



その日オレは、一人で柔道場へと向かった。

少しばかり心細かったので、小学校からの付き合いの熊を誘ってはみたものの、「悪ぃけど興味ねぇなぁ」と断られてしま

った。

…良いガタイしてるのに勿体無いと、心底思った…。

「失礼します」

道場の入り口で一礼したオレは、顔を上げると同時に目を丸くした。

稽古に打ち込んでいた先輩達が、全員揃って動きを止め、オレを注視していたから。

「あ。…え〜と…。す、済みません…!もしかして、悪い時に来てしまいましたか…?」

どぎまぎしながら言ったオレに、一番近くに居た先輩が笑みを浮かべ、首を横に振った。

「ははは!悪くなんかねーよ!もしかして、入部希望?」

「は、はい!」

背筋を伸ばして返事をすると、先輩方が揃って笑い声を上げた。

「ずいぶんやる気あるねぇ?」

「気が早いなぁ!仮入部は明後日からなのに」

口々に言いながらオレを囲み、歓迎してくれる先輩達。

だが、その時オレは、先輩方の向こうに一人残り、黙々とスクワットを続けている虎獣人に注意が行っていた。

二年前、通っている道場で見学に行った少年柔道東北大会で、オレは、あのひとの試合に魅了されてしまった。

以来密かな憧れを抱いて、常に彼の試合をチェックしている…。

「おいオジマー!新入部員一号だぞ!」

「…ああ」

返事はしたものの、素早いスクワットは止まらない。

が、さらに六回おこなった後、丁度良い回数になったのか、虎は動きを止めて、こっちにちらりと視線を向けた。

一瞬、オレと虎の目が合い、ドクンと心臓が高鳴った。

あの時、雲の上の存在のように感じたあのひとが、ゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる…。

「…飯野正行…。去年の地区内少年柔道大会、獣人の部の優勝者だったな…」

…え?…オレの事を知っている…?

先輩方は「おお?」と声を上げると。

「まじで?」

「あ、そういえば見覚えあるな」

と、口々に言い、オレをしげしげと眺め始める。

普段ならドギマギするところだが、その時のオレには、先輩方の視線を気にする余裕は無かった。

何故なら、オレはその時、虎獣人から目を離せなくなっていたから…。

見られたものが萎縮するような、覇気に満ちたその視線を、目を逸らさないよう苦労しながら、真っ直ぐに受け止める。

鋭い眼光を放つ瞳。精悍な顔には虎独特の縞模様。

背は高く大柄で、鍛え抜かれた無駄の無い体付き。

胸の前で組んだ腕は、浅黄色の毛皮の上からでもはっきり筋肉のラインが見え、道着の襟元から覗く胸は大きく盛り上がっ

ている。

太く長い、縞模様に彩られた尻尾が、後ろでゆらゆらと、ゆっくり揺れていた。

まるで筋肉の塊のような、鍛えに鍛えた見事な身体…。

尾嶋勇哉(おじまゆうや)先輩。

ずっと憧れ続けてきた最高の選手は、オレの目と鼻の先に、悠然と立っていた…。



新幹線の外を流れ行く景色を横目に、入寮案内に目を通す。

オレが進学する醒山学園の寮は全て一人部屋だ。

そして、オレが入るのはユウヤと同じ寮…。

この一年間、ほとんど会えなかったけれど、これからはいつでも会える…。

…ただ、ほんの少しだけ不安がある。

それは、休みに帰郷した時のユウヤの態度だ。

夏休みに会った時も、正月に帰ってきた時も、何となく、ほんの微かにだけれど、よそよそしさを感じた。

元々口下手な彼は、確かに、いつも携帯で話していても、積極的に話題を振ってこない(柔道関係の事だけは、頼まれなく

とも熱心に喋る)んだけど…。

高校総体の直後辺りからだろうか?以前にも増して彼の口数は減ったような気がする…。

…もしかして、オレの事はもう、好きではなくなってしまったんだろうか?

…それとも…、…あっちで、新しい恋人でもできてしまったんだろうか…?



中体連に向けて、厳しい稽古が続く中、顧問のキダ先生から話があった。

自分の耳を疑った。オレは一年生ながら、個人戦の枠に加えて貰える事になったんだ。

階級は、オジマ先輩と同じだ。

先輩の方がずっと背が高いし、筋肉の量もあるけれど、太めのオレのウェイトは先輩に近い。

もしかして、目障りに感じているんだろうか?

元々無口な先輩だけれど、オレにレギュラー抜擢の話が出て以来、なおさら距離を置いているように感じた。

そんな居心地の悪さを感じ始めた、五月半ばの事だった。

自主トレでランニングしている最中に、突然の土砂降りにずぶ濡れにされたのは…。

「へ…、へっ…、へぶっちぃ!」

両手で体を抱き、駆け込んだバス停の待合室で雨を凌ぎながら、オレはガタガタと震えていた。

待合室にはオレ一人だけ…。田んぼの真ん中を走る農道線だ。バスを待つ人はそうそう居ない。

雨が降り始めると同時にぐっと気温が落ち込み、濡れた体から体温が奪われていく。

ティーシャツもジャージのズボンも絞れるほどに水を吸い、パンツまでグッショリだ。

体を拭おうにもタオルも重傷。歩けば靴がギュポギュポと気持ちの悪い感触を伝えてくる。

オレの体を覆う、猪特有のこわい毛も、たっぷり水を吸って完全に寝ている。

ティーシャツはペッタリ体に張り付き、少し贅肉が乗って丸みを帯びた体のラインがはっきりと判る。

大会の地区予選まで、残すところ二週間。

高まっていた気合を嘲笑うように、雨はバシャバシャと降り続ける。

天気予報をチェックしていなかった自分を責めつつ、オレは震えながら雨が止むのを待っていた。

道路に溜った水を蹴立てて、遠くからバスが走って来る。

…乗って行ければ良いんだけれど、財布、持って来ていないんだよね…。

待合室で震えているオレの前で、水で覆われたアスファルトでしぶきを上げつつ、バスは停まった。

もしかして、乗るって勘違いされたんだろうか?

そんな事を考えていたら、バスの前のドアが開き、客が降りて来た。

「…あ…」

オレは見知った顔を目にして、思わず声を漏らした。

バスを降りて傘をさした客と、オレの目が合う。

「ど、どうも…」

本屋の袋を抱えたオジマ先輩は、会釈したオレの姿を、片方の眉を上げて眺め回した。

先輩は黒いトレーナーに色の薄いジーパン、スニーカーという、初めて見る私服姿だ。

肘まで捲り上げた袖からは、惚れ惚れするほどに太い、筋肉の塊のような腕が覗いている。

しばし無言でオレを見つめた後、オジマ先輩は低い声で、

「ついて来い」

と、一言だけ言った。

「え…?」

「良いから来い。風邪引くぞ」

先輩は待合室の入り口で、さしている傘をくいっと上げて見せた。

「あ、あの…。おじゃまします…」

オレが遠慮がちに傘に入れてもらうと、先輩は「こっちだ」と言って歩き出す。

「先輩?あ、あの…、ありがとうございます…。それで、何処へ…?」

「俺の家だ」

短く応じたきり、先輩は押し黙った。

なるべく傘からはみ出ないように歩きながら、オレはちらりと先輩の横顔を盗み見た。

前を向いたままの、いつものように不機嫌そうな先輩の顔からは、何を思っているのか読み取る事はできなかった…。

歩くこと十分強。住宅街の中にあるごく普通の家の前で、先輩は足を止めた。

「ここだ」

…ここが…、オジマ先輩の家…。

門を開け、玄関の前で傘を畳むと、オジマ先輩は鍵を取り出してドアを開ける。

…家の人は留守なのかな…。

「お邪魔します…」

玄関の中に入ったオレに、先輩は一言「待ってろ」と言い残すと、玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の奥へ姿を消した。

程無く戻ってきた先輩の手には、大きなバスタオル。先輩はオレにグイッとバスタオルを押し付けた。

「あ、ありがとうございます。お借りします…」

オレは借りたタオルで肩や手、首など、まだ水を吸っていた部分を拭う。

先輩はその様子を、仁王立ちしたままじっと眺めていた。

…なんか…、そうやって見られてると、ちょっと居心地が悪いんですけど…。

「上がれ」

オレが体を拭き終えたのを見計らい、先輩は顎をしゃくった。

「シャワーを浴びて体を乾かせ。着替えは貸してやる」

「え?さ、さすがにそこまでは!」

遠慮しかけたオレに、オジマ先輩は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らした。

「風邪引きたいのか?体冷やしたまま出て行ったら、拭ったところで意味がない」

先輩は俺の腕を掴むと、強引に引っ張った。

「あ、わわ!せ、先輩!ちょっと待って…!」

「まだ遠慮するつもりか?」

「い、いえ!そこまで言われるなら有り難く!でも…」

オレは自分の足元に視線を向けた。

「靴、脱ぎますから…」

それに気付いたオジマ先輩は、決まり悪そうに耳を伏せ、オレの手を離した。

初めて見る、意外な表情が、そこにあった…。

結局、シャワーを借りる事になったオレは、脱衣場兼洗面所で濡れそぼった服を脱ぎ、洗い物用の籠に入れた。

そしてふと、洗面台の鏡に映った自分の姿に目を止め、軽くため息をつく。

猪特有の、長い剛毛に覆われた体…。

部活での内容の濃い稽古のおかげで、筋肉の付き具合はまずまず。

中体連を控えた今、一ヶ月ちょっとでの仕上がりの成果としては、まぁ良い方だろう。

だが、走り込みも、自主的なジョギングも欠かしていないのに、皮下脂肪がなかなか落ちない…!

肥満…までは行かないよな?きっと…。

ぽっちゃり、そう、ぽっちゃり体型ってやつだオレは。うん。まだデブじゃない。

だが、この指で摘める腹の肉と、前にせり出している胸は何だろうか!?

これまで、道場だけで稽古していた頃はあまり気にしていなかったが、部活の先輩方の締った体付きを見ていると、少しば

かり自分の体型が気になってくる。

まだまだ絞り方が足りない…。どうやったら、オジマ先輩のような無駄の無い体に仕上がるんだろうか…?

悶々とそんな事を考えつつシャワーを浴び、被毛から軽く水を切って風呂場のドアを開けると、

「わっ!?」

畳んだ服を持ったオジマ先輩が丁度脱衣場に入ってきて、オレは思わず声を上げて股間を隠していた。

慌てる俺とは対照的に、先輩はいつものように無表情、いや、むしろ不機嫌そうな表情で、

「着替え、ここに置いていくぞ」

と、やはり不機嫌そうに言った。

「あ!す、済みません!お借りします!」

慌てて礼を言った俺に、先輩は無言のまま一瞥をくれて出て行く。

じろっと、俺の体を見下ろして行った先輩の視線に、なんだか責められているような気分を味わった。

それはまぁ、あの体と比べれば、オレは…。

…不摂生なヤツだ。とか…、思われてるんだろうな…。

先輩が用意してくれた着替えは、タンクトップのシャツにパーカーと綿パンだ。

だが…、パーカーの首や肩周りは余裕があるのに、ウェストがピッチリだ。

ズボンの丈も少し余るくらいなのに、尻がきつい…。

…体型の差が嫌と言うほど実感できるな、これ…。

着替えを身に着け、廊下を引き返すと、ドアを開け放ったリビングで、オジマ先輩が雑誌を読みながら待っていた。

オレも愛読してる柔道の月刊誌から目を上げた先輩に、オレはビシッと気をつけした。

「ありがとうございます。シャワーだけでなく、服までお借りしてしまって…」

オレは深々と頭を下げ、

ビリッ

…ビリ…?

不意に、尻の圧迫が弛んだ。体を捻っておそるおそる背中側を覗き込むと…、

「あ、ああっ!?」

お借りしたズボンは、尻尾穴の下から股の間まで、縫い目のところで裂けている!

「あああああ!す、済みません!」

慌てて謝ったオレを見て、

「…ぷっ…」

オジマ先輩は、口元を手で覆い、

「っく…、ふっ!くっくくくくっ!」

押し殺した笑い声を漏らした。

「くくっ…!済まん…!…少しきつかったか」

目を細め、口の端を吊り上げて、可笑しそうに笑っている先輩の顔が、意外で仕方なかった。

普通の笑顔と比べても、それほど大きく変わる、大げさな笑みじゃない。少し表情が変わる程度の笑みだ。

なのに、いつもの厳しい表情を見慣れているせいか、なんだか凄く柔らかい表情に見えて…、何故かドキッとした…。

初めて見た…。先輩、笑うとこういう顔になるのか…。

「ジャージの方が良かったな。その辺に座って、少し待っていろ」

そう言って立ち上がると、先輩はリビングを出て行った。

「…嫌われてた訳でも…無いのかな…?」

そうぽつりと呟いたら、自然に笑みが浮かんできた。

案外、オレが変に勘ぐっていただけで、先輩自身はオレの事なんて眼中に無いのかも?

…そうだな。同じ階級で個人戦に出場するからって、先輩には、オレなんかを警戒する必要なんて無い。

だって、オレじゃあ全く相手にならないんだし…。

…嫌われてるんじゃないのは良いとしても、全く眼中に無いのは、少し寂しいかな…。

戻ってきた先輩は、彼がいつも使っているのと同じ、黒いジャージを手に持っていた。

確かに、ジャージなら少々きつくても、さっきみたいに裂ける事はない。

オレは恐縮しながらジャージを受け取り、いそいそと履き替える。

憧れていた先輩の家にお邪魔して、風呂まで借りて、あまつさえ服まで借りている…。なんだか妙な心地だ…。

おまけに、先輩はコップに注いだ牛乳まで出してきてくれた。

「雨足はまだ強い。小降りになるまで休んでいけ」

「え?で、でも…」

「せっかくの公式デビュー戦、風邪引いてフイになんぞしたくないだろう?」

先輩はそう言って、グビッと麦茶を煽った。

そして、いつもと全く変わらない調子で尋ねて来る。

「何故、俺がお前を嫌っていると思った?」

…!?

唐突に言った先輩の顔を、オレは驚いて見つめた。

先輩は、面白そうな、そして興味深そうな目つきでオレを見つめ返している。

…さっき漏らした独り言…、聞こえていたのか…。

「そ、それは…、その…」

オレはしどろもどろに、これまで思っていた事を、正直に打ち明けた。

一年生でレギュラー入りしたから、生意気に思われているんじゃないかと思っていた事。

階級も同じだし、目障りに感じているんじゃないかと考えていた事。

オレのレギュラー入りの話が出て以来、避けられているように感じていた事。

今までなら言わなかっただろうけれど、先輩に嫌われているというのが勘違いだと判った今となっては、オレはつっかえな

がらも打ち明ける事ができた。

先輩は黙ってオレの話を聞いていたが、

「済まなかったな」

オレが話し終えると、突然そう言った。

「え?何がです?」

「余計な気を回させた事が、だ」

先輩は不機嫌そうに口元をへの字にした。これもまた、初めて見る顔…。

「避けていたのは事実だ。ただ、お前が嫌いだからとか、そういう理由からじゃない。お前が俺と同じ階級だという事を気に

していたようだから、俺が離れていた方が気楽だろうと…」

ガリガリと頭を掻くと、先輩は決まり悪そうに「ふぅ…」と息を吐いた。

「まったく…。らしくもなく、妙な気の遣い方なんぞするものじゃないな…。おかげで変な誤解をさせた」

「そ、そんな事!先輩のせいじゃありません!オレが勝手に勘違いしただけで…」

オレはすっかり恐縮してしまった…。

先輩はオレを嫌うどころか、勝手に勘違いして居辛そうにしているオレに気付いて、気を遣ってくれていたんだ…。

「…その…。済みませんでした先輩…。後輩のオレが、逆に気を遣わせてしまって…」

「気にするな」

いつものぶっきらぼうな口調で、先輩はそう言った。

…そうだ。もうお互いに気にする事も無いんだし、ここは、思い切ってお願いしてみようか?

「あの、先輩…」

「何だ?」

オレはなるべく控えめに、先輩に尋ねてみた。

「次の部活からは…、その…、オレにも稽古つけて貰えませんか?」

先輩は微かに眉を上げ、目を大きくした。

「オレ、実は…、前に先輩の試合を見て、それからずっと憧れてたんです!先輩みたいな柔道がしてみたいって、ずっと思っ

てて…。だから、先輩の柔道を教えて欲しいんです!」

「無理だな」

先輩は即座にそう言った。

…解ってた。オレの実力はまだ、先輩の足元にも及んでいない。オレなんかと稽古しても、先輩のペースを崩すだけ…。

だが、あっさり断られたのがあまりにも残念で、オレは俯いてしまった。

「俺と同じ柔道をしたら、お前の良さが殺される」

先輩が続けた言葉に、オレは顔を上げる。

「そんな真似は、俺もキダ先生もしない。お前は、お前の持ち味を活かせる柔道をしろ。俺の真似事なんかじゃなく、な」

言われている意味が、いまひとつピンと来なかった。

…オレの、柔道…?オレの…持ち味…?

戸惑っているオレに、先輩は口を笑みの形に開き、ニッと笑って見せた。

先輩の、こんなあけっぴろげな笑顔…、これまで一度も見た事が無かった…。

いつもむっつりと不機嫌そうな顔をしているこの先輩が、そんな風に笑うなんて、想像した事すら無かった…。

「俺の柔道を教えてやるのは無理だが、お前にその気があるなら、俺のメニューに付き合ってみるか?」

先輩の、少し面白がっているようなその問いに、もちろんオレは頷いた。

…凄く、嬉しかった…!

翌日の稽古から、先輩はオレとも乱取りしてくれるようになった。

言葉を交わす回数も増えてくると、本当は、先輩がそれまでも、オレの事を色々と見ていてくれた事が解った。

無口で無愛想な先輩は、そんな事は決して言わなかったし、顔にも出さなかったけれど。

先輩と同じメニューの稽古はきつかったけれど、アレのおかげで、オレは全国まで行けたんだよな…。



昼近くになったので、車内販売で弁当を買った。

押し寿司と、駅のホームで買っておいた牛タン蒸篭を広げ、温められたペットボトルのお茶を開ける。

流れて行く景色は、少しずつ色を変えてゆく。

北に向かうにつれ、まだ春の空気が行き渡っていない山々の姿がちらほらと見え始めた。

ユウヤ…、そっちはまだ寒いのかい?

寒がりな君には、北の冬は辛かったろうね…。



「…っ!」

無人の控え室で、握り締めた拳骨を壁に叩き付ける。

手がジンジンと痛んだが、それよりも胸の奥の苦しさの方が耐え難かった…。

五月後半におこなわれた春季県大会。中体連の前哨戦でもある、その大事な初戦で、オレは敗れた。

到底納得の行く試合内容じゃ無かった。

自惚れじゃなく、勝てるはずの相手だった。

…なのに…。なのにオレは…!

込み上げる悔しさと涙。そして鼻水。

あろう事か、オレは大会が近付いてくると、緊張から眠れなくなり、数日前から体調を崩してしまっていた。

悔しかった。不甲斐なかった。情けなかった。

嗚咽を漏らし、何度も拳を壁に叩き付けていたオレの腕を、背後から延びた手がガシッと掴んだ。

驚いて振り向くと、自分の試合を終えたのか、オジマ先輩がそこに立っていた。

…オレは…、先輩の応援をするのも忘れていたんだ…。

先輩は腕を引いて強引にオレを向き直らせると、不機嫌そうな目でオレの顔を睨んだ。

「悔しいか?」

しゃくり上げ、黙って頷いたオレの腕から手を離し、先輩は手を上げた。

叩かれると思って目を閉じたオレの額に、先輩はそっと手を当てた。

「…思った通りだ…、かなり熱がある…」

それからすっと、オレの顔をなぞるように手を滑らせ、頬を撫でた。

「体調不良を押して、無理しても勝てなかった…。…悔しいだろうな…」

「ちがっ…うん…です…」

言葉を絞り出したオレの顔を、オジマ先輩は少し不思議そうに、目を細くして見つめた。

「オレ…、何度も勝って、ここまでっ…来れました…」

「…ああ」

「…オレは…、負かした相手の為にも、無様な試合しちゃ…いけなかった…のにっ…」

先輩は、なんだかずいぶん驚いたように目を見開き、オレの顔をじっと見つめた。

「体調なんかっ…崩して…!あんな、無様な試合して…!…ここまでに…試合してきた相手に、顔向け…できませんっ…!」

しゃくり上げるオレをじっと見つめ、しばらく黙った後、先輩はぼそりと言った。

「…馬鹿だな、お前は…」

怒ってはいない。呆れているわけでもない。先輩の顔と口調は優しかった。

「ここまで勝ち上り、そして負けた内の何人が、これまでに試合した相手に申し訳ないと、悔し泣きできるだろうな…。まっ

たく、大馬鹿だお前は…」

そう言って、先輩はぐしゃぐしゃっと、乱暴にオレの頭を撫でた。

「…前だけを見過ぎて、忘れていたな。後輩に思い出させられるとは、俺もまだまだだ…」

先輩は口元に笑みを浮かべると、親指でオレの目の下から涙を拭ってくれた。

なんだかポーッとしてしまったオレの頭を、先輩はポンと、軽く叩いた。

「次の試合は応援に来い。胸がすくような試合をしてやる。お前を元気付ける言葉は、俺には見付けられん。俺にできるのは、

試合で魅せてやる事だけだ」

そう言って踵を返し、数歩進んでから、先輩は首だけ巡らせてオレを振り返った。

「今日の試合が全部終わったら、話しておきたい事がある」

「話して、おきたい事…?…オレにですか?」

「ああ。…厚着して、冷えないようにしておけよ?体に障るぞ」

先輩はオレを残し、前を向き、控え室を出て行った。

オレは、何故かさっきよりも顔が火照っているのと、動悸が激しくなっているのとを感じながら、しばらくボーっと、その

場に突っ立っていた。



…そう、あの夜の事だったな…。

列車は海峡を潜るトンネルに突入し、窓から見える美しい景色とはしばしお別れだ。

窓の外にはトンネルの闇。ときおり壁に設置された何かのライトが高速で通り過ぎる。

まばらな街灯が寂しげに瞬いていた、あの夜の窓の外の景色が思い出された。

箸を置き、空になった弁当の容器を片付け、オレは手元のスポーツドリンクに視線を固定する。

昔は嫌いだったキッツい味のスポーツドリンクの缶は、列車が走行する振動で微かに震えていた。

黄色い地に黒いストライプ。誰かさんを思い出させずにはおかないそのデザインに、思わず顔が綻ぶ。

指先で缶をつつき、ニヤニヤしながら、オレはあの夜のユウヤを思い出す。

ユウヤが言ってくれた言葉を…。



あの大会が終わった夜、部で貸切りになった宿の部屋で二人きりになってから、

「改めまして、優勝おめでとうございます!」

備え付けの冷蔵庫に歩み寄る先輩を見ながら、オレは畳に敷かれた布団の上に座り、優勝のお祝いを言った。

まだ興奮が冷めず、オレの尻尾は意思とは無関係に、ペシペシとせわしなく掛け布団を叩いている。

「ああ。…元気、出たか?」

窓際に立った先輩は、少し、ほんの少しだけ照れ臭そうな顔で、窓の外に視線を向けた。

「もちろんですっ!」

先輩は言った通り、素晴らしい試合を見せてくれた。

オレが憧れて止まなかった、先輩独特の流れるような足捌きから繰り出される連携の数々を存分に披露し、見事優勝して見

せてくれたのだ。

この大会は全部の学校が参加しているわけじゃないけれど、それでも来たる中体連の県大会で当たる相手の実力を測る重要

な大会でもある。

結果から見れば、先輩の地区ブロック進出はほぼ確実だろう。その事を言ったら、

「だろうな」

と、あっさり、当然のように頷いた。

「だが、大会までまだ半月近くある。今から化けるヤツも居るだろう」

「でも、そんな短期間で…」

「短期間で強くなるヤツも居る。実際、俺の足元をすくいそうなヤツも身近に居るしな」

 え?誰だろう?…先輩、今大会で苦戦した相手なんて居ないような…。

首を傾げたオレに、先輩はちらりと横目を向け、口の端を微かに吊り上げて笑みを見せた。

「もちろん、俺も立ち止まっているつもりは無い。中総体に向けてさらに稽古を積み、可能なだけ鍛え込む」

自信を持ち、しかし慢心せず、猛るでもなく静かに意気込みを語る先輩の横顔に、オレはすっかり見とれていた。

そんなオレに視線を向け、先輩は微かな笑みを浮かべ、口を開いた。

「食いついて来られるか?稽古にも、地区ブロックにも」

普段どおりの何気ない口調。でも、そこに込められた先輩の気持ちが、じわりと胸に染み入って来た。

…先輩は、オレに期待してくれている…。

敗退以来、ずっと胸にわだかまっていた暗雲が晴れる思いだった。

言外に「一緒に来い」と秘められた先輩の言葉が染み入り、オレの体は体調不良の熱とは別のもので火照った。

オレは大きく、三回も頷いた。

そんなオレを見て、先輩は珍しく、丈夫そうな歯を見せてニッと笑った。

やっぱり、オレは柔道が好きなんだ。先輩の柔道が大好きなんだ。

落ち込んでいた気持ちは、先輩の試合を見たらすっかり軽くなっていた…。

あれ?そういえば…。

「あの、先輩?」

「ん?」

先輩は冷蔵庫から、黄色に黒のストライプが入った缶を取り出している。

缶は色も模様も先輩そっくりで、手に持った様がやけに似合っていた。

その派手な缶の、愛飲しているスポーツドリンク(味がキツい)のプルタブを起こしながら、先輩は振り返った。

「話しておきたいことって、何だったんですか?」

そう尋ねたら、先輩は缶のプルタブを起こした状態で硬直した。

…あれ?オレ、変な事聞いた?

…いやでも、先輩が話しておきたいって言っていたんだけれど…。

「…ああ…。話したい事…な…」

先輩は口も付けずに缶を冷蔵庫の上に置くと、オレの前まで歩いて来て、布団の上に腰を降ろした。

向かい合ってあぐらをかいた先輩は、俺の目をじっと見つめた。

なんとなくだが、真面目な話だと察しがついて、オレは姿勢を正して正座する。

「イイノ。先に聞いておくが…」

先輩は真面目な顔と声でそう切り出した。

「お前、付き合ってる相手は居るか?」

「…はへ…?」

顎がカクンと落ち、間抜けな声を漏らし、オレは目を丸くして先輩を見つめた。

からかわれている風でもない。先輩は至って真面目な様子だ。

…見栄を張って誤魔化したって無意味だよな…。

「…い、居ませんけど…」

オレが正直に答えると、先輩は「ふむ」と小さく頷く。

なんとなくだけれど、少し安心していたようにも見えた。

「お前は、誰かを好きになった事はあるか?」

「え…っと…、恋愛対象としてなら、まだ…」

「そうか」

先輩は頷き、そして視線を自分の足に落とし、黙り込んだ。

身じろぎ一つしない先輩とは対照的に、布団の上に投げ出された尻尾の先は、落ち着かなげにピクピクと、微かに動いていた。

しばし黙り込んだ後、先輩は顔を上げ、なんとなく居心地の悪い沈黙を破った。

「正直に言う」

先輩の目が、俺の目を真っ直ぐに、じっと見つめる。

「俺はホモだ」

「………」

しばらくの沈黙の後、

「……………?」

オレは、首を傾げていた。

「お前に惚れた。良かったら付き合ってくれ」

先輩の言っている事が冗談ではなく、そして、オレをからかおうとしているわけでもなく、オレが熱のせいで妙な幻覚や幻

聴を体験しているわけでもないらしい事に気付いたのは、たっぷり一分以上固まった後だった。

「…え…?」

オレは、何と言えば、どう反応すれば良いか分からずに、言葉の内容は理解しているのに、無意味に先輩に聞き返してしま

った。

「男同士で…、と受け入れ難いだろうが、俺はお前に惚れている」

先輩は少し照れているのか、僅かに目を伏せた。

「この事に関しては、先輩後輩の間柄も、部活、学校での間柄も無関係だ。俺個人が、お前個人に告白しているだけに過ぎん」

先輩は一度言葉を切ると、耳をやや後ろ向きに伏せ、口の端を吊り上げ、本当に困っているような苦笑いを浮かべた。

「だから、何の気兼ねも無く、迷惑ならはっきり断ってくれ。俺もこの気持ちは忘れ、二度とその事には触れない」

口を馬鹿みたいにポカンと開けたまま、オレは呆然と考えた。

何と答えるべきだろう?そんな風に、どんなに考えたところで判るはずもなかった。

告白した経験もなく、された経験もこれまで無かった。

もちろん恋愛経験そのものも無く、誰かを好きになる事も、誰かに好きになって貰う事も、考えていなかった。

そんなオレが、突然の告白…、しかも男、さらに憧れ続けていたオジマ先輩から告白なんてされて、まともに考えを纏めら

れる訳が無い。

さんざん迷った末。

「…少し…、考えさせてください…」

オレの口をついて出たのは、そんなどうしようもない、逃げの一言だった…。

「ああ」

先輩は頷くと、話は終わったと言うように、立ち上がり、冷蔵庫に歩み寄って、スポーツドリンクを飲み始めた。

オレはその後姿を横目で盗み見ながら、耳元でドクドク言っているような、自分の騒々しい鼓動を聞いていた。



…何もあのタイミングで告白しなくてもなぁ…。

当時の事を思い返していたら、苦笑が込み上げた。

結局、あの夜は何となく居心地が悪くて、あれっきり殆ど会話もしなかった。

布団に入っても悶々と眠れないオレの隣で、話すことを話してスッキリしたのか、ユウヤはぐっすり眠っていたっけ。

明け方近くになってようやく眠れたら、すぐに朝食の時間になって…。

ははは!あの時ばかりは少しユウヤを恨んだよ。

トンネルが終わり、窓の外に光が満ちて、オレは眩しさに目を細める。

列車が海峡を潜り抜けたんだ…。

オレは今、やっと君と同じ陸の上に着いたよ…。



「考えてきました」

大会後の休み明け、最初の稽古の日、二人きりの更衣室で、オレは先輩と向き合った。

先輩はいつも一番早く来ている。

だからオレはホームルームが終わった直後に教室を飛び出し、ダッシュで道場にやってきて、二人だけになる時間を作った。

道着に着替える途中だった先輩は、手を止めて、真っ直ぐにオレを見つめ、頷いた。

呼吸を整え、オレは口を開いた。

「返事をする前に一つ、聞いても良いですか?」

「何だ?」

先輩の目を見つめ、オレはあの夜から丸二日間、ずっと考えていた事を尋ねた。

「オレの、どこが気に入ったんですか?」

しばしの沈黙。

普通は、誰だって気になる事だろう。

なのに先輩は、オレの質問が意外だったのか、少し驚いているような、困っているような顔をしていた。

「…お前だけだ」

三十秒近い沈黙の後、先輩はポツリとそう言った。

意味が判らずに困惑していると、

「ずっと前だけ見て走ってきた俺に、お前だけが、後ろを振り向かせた」

そう、静かに続けた。

「お前だけが、俺に自分が辿ってきた道を思い出させてくれた。お前だけが、後ろをついてくる後輩の存在を教えてくれた。

そして、お前だけが…、度を越した柔道馬鹿で、部でも浮いている俺に、親しくつるんでくれた…。…感謝…している…」

先輩はすっと目を逸らし、ガリガリと頭を掻いた。

「…あの日…家にお前が来て、それから話をするようになって…、あの頃からか…、お前の事が、他のヤツらとは違って見え

始めた…。自分でも、最初は驚いた。…男に惚れるなんて、考えてもみなかったからな…」

それっきり、先輩は黙り込んでしまった。

複雑だった。オレは、先輩の為を思ってとかじゃなく、ただ自分が勝手に憧れて、先輩にくっついて回るようになっただけ

なのに…。

なのに先輩が、オレに感謝していただなんて…。

「先輩」

口を開くと、先輩はオレの顔に視線を戻した。

「オレ、まだ好きとか、恋愛とか、ましてや男同士でのそういうの、良く判りません」

「…だろうな」

先輩は頷き、微笑んだ。

少し寂しそうでもあるし、どこかすっきりしたようにも見える表情を浮かべる先輩に、オレは…、

「…だから、そっちの方もきっちり教えてくださいよね?」

笑みを浮かべて、そう返事をした。

目を丸くして、食い入るようにオレの顔を見つめた後、

「…ああ…!」

先輩は、とびっきり素敵な笑顔で頷いてくれた。



…あれから、もう二年半以上も経っているのか…。

車内放送を確認して、棚から下ろした鞄を担ぎ、オレは席を離れて乗降口へ向かった。

元々柔道以外には無関心で、何処かへ出かける事も少なかったユウヤは、オレを喜ばせてくれようと、暇さえあれば情報誌

を確認するようになった。

町を離れ、二人きりで何処かへ出かけた回数は数え切れない。

服装にも(ある程度)気を遣うようになったし、オレが勧める音楽も聴くようになった。

学校や部活、仲間と一緒に居る時は、ユウヤとオレは「オジマ先輩」と「イイノ」だけれど、二人きりの時だけは名前で呼

び合うようになった。

自分にも他人にも厳しいくせに、オレにだけは優しい面、…というかいやに甘い面を見せてくれるのが、なんだかくすぐっ

たくて、そして少し嬉しかった。

…ユウヤが進学してから丸一年、あまり会える機会はなかったけれど、今日からは同じ寮で過ごせるんだ…。

…でも…。

休みに帰って来る度感じた、何処となくよそよそしいユウヤの態度…。

喉につかえた魚の骨のように、オレの心には小さな不安が残っていた。



ローカル線に乗り換え、ドアの脇に立ち、景色を眺める。

なだらかな山々のラインの向こうに、夕陽を浴びる建物の上辺だけが微かに覗いている。

夕陽に染まり赤味を帯びた、本来はクリーム色の校舎に、電車はゆるやかにカーブをきりながら近付いてゆく。

何度もパンフレットで見たし、入試の時に一度訪れている。

あれが、オレがこれから三年間を過ごす高校。私立醒山(せいざん)学園だ。



電車を降り、駅を出ると、真っ直ぐ正面に伸びているメインストリートが目に飛び込んできた。

様々な店が並ぶ通りの向こうには、五階建ての巨大な校舎と、それを囲む六つの寮が見える。

あの中の男子寮三号棟が、オレの入る寮だ。

入学式は少し先だから、入寮手続きを済ませればしばらくはやる事がなくなる。

今日はゆっくり休めるし、明日は丸一日準備に費やせるな。

もう春だっていうのに、この町の風は結構冷たいな…。

店先を覗き込みながら賑わう通りを歩き、母校となる学園の校舎を眺めて裏手に回り、三号棟の敷地に足を踏み入れる。

左右に常緑樹が植えられた花壇が続く歩道を歩き、正面に立ったオレは、改めて三階建ての寮を見上げた。

校舎と同じクリーム色の、地味な建物だった。

木目調の塗装が施されたドアを押し開け、中に足を踏み入れると、暖房で暖められた空気がオレを歓迎してくれた。

玄関ロビーはがらんと広く、壁際にはソファーが並び、観葉植物の鉢がいくつも置いてある。

調度品やレイアウトのセンスは良いが、装飾はあまり華美でもなく、居心地良く感じられる空間だった。

玄関ロビーに人は居ない。壁際に並んだソファーの一つに座っている一人を除いて。

ソファーに腰を下ろし、手にしたプリントを覗き込んでいるのは、薄茶色のムクムクした巨大な生き物だった。

それは、モサモサの薄茶色の被毛を纏う、熊獣人だった。

たぶん蝦夷羆種…、アブクマと近い血統だろう。体のでかさはあいつと良い勝負だ。

オレに気付いたのか、彼は視線を上げると、ソファーから立ち上がって歩み寄ってきた。

上背もさることながらえらく恰幅が良い…。

普通なら気圧されそうな巨体だけれど、アブクマを見慣れているせいか、なんとなく親近感を覚えた。

…そういえば、顔立ちも少し似ているかもしれない。

オレの前に立つと、彼は目を細めて笑みを浮かべ、

「おうっ。らっしゃい!新入生かい?」

張りのある声でそう尋ねて来た。…なんだか魚屋みたいな挨拶だ…。

「はい。今年度からお世話になる飯野正行です」

オレが軽く頭を下げると、羆は手にしていたプリントを見つめ、それから胸ポケットに挿していたボールペンで何かを書き

込んだ。

「ん、間違いないな」

どうやら入寮者の面簿らしいプリントから顔を上げると、羆は拳を口の前に持って行って「ゴホン!」と咳払いする。

「ようこそ醒山へ!でもってこのむさ苦しい男子寮三号棟へ!歓迎するよ。俺は三年の大和直毅(やまとなおき)。一応この

寮の寮監だ。よろしくイイノ君」

ヤマト先輩は人懐っこい笑みを浮かべ、手を差し出してきた。

大きな手をおずおずと握り返して握手をかわしたら、彼はオレの手をブンブンと上下に振ってから放す。

緊張していたオレは、内心でほっと胸をなでおろしていた。

…良かった。この先輩は良い人そうだ…。

「さて、早速入寮手続きというか、案内をするんだけど…」

ヤマト先輩は言葉を切ると、ロビーを見回し、

「ついさっきまでそこらをウロウロしてたんだけどな…。まったく…。どこ行ったんだアイツ…?」

と、困ったように眉根を寄せて呟いた。

「どうかしたんですか?」

尋ねたオレに、ヤマト先輩は困り顔で頬を掻いた。

「いやな…、君が来たら案内を引き受けるって言ってたヤツが居るんだけど…」

キョロキョロと周囲を見回していた先輩は、階段に視線を向け、笑みを浮かべて手を上げた。

「おう!オジマ、来たぞぉ!」

その声に弾かれるように首を巡らせると、ゆるいカーブを描く階段を、ゆっくりと歩いて来る人影が目に入った。

引き締まった大柄な身体が、滑らかな動作で階段を降りてくる。

不機嫌そうな鋭い目つきの虎の顔が、オレに向けられた。

「二年の尾嶋勇哉。同郷の知り合いなんだってな?君についてはアイツが案内を買って出てくれたんだ」

ヤマト先輩の言葉に頷くのも忘れ、オレは二ヶ月半ぶりに会うユウヤに視線を注いでいた。

「お久しぶりです」

「ああ」

頭を下げたオレに軽く頷くと、ユウヤはヤマト先輩に視線を向けた。

「寮監。後は俺が引き受けます」

「おう。悪いけどよろしく頼むな?今日はあと八人も残ってるからなぁ。正直助かるぅ〜!」

ヤマト先輩はボールペンの尻で頬を掻きながら苦笑いした。

表情がコロコロと判り易く変わり、いかにも隠し事や嘘が下手そうで、好感が持てた。

「…っとぉ!俺が引き止めてちゃあマズいよな!それじゃあイイノ君、また後で!オジマ、後頼むなぁ!」

ヤマト先輩は野球グローブみたいな手でユウヤの肩をポンと(というかバンと?)叩き、オレにニカッと笑みを見せてソフ

ァーに戻って行った。

会釈して見送ったオレに、

「まず部屋から案内する。こっちだ」

ユウヤはそう声をかけ、さっさと階段に向かって歩き出した。

慌てて追いかけようとしたオレは、足元に置いていたバッグが無くなっている事に気付く。

ふと見れば、いつの間にかユウヤがあの重い鞄を、なんでもないように持っている。

オレは小走りにユウヤの後を追い、一緒に階段を登った。



「ここだ」

二階の廊下に並ぶドアの一つを開けたユウヤは、中に入るようにオレを促した。

「おじゃまします…」

思わずそう呟いて中に入ると、後ろでユウヤがドアを閉めた。

小さな下駄箱があるたたきに靴を脱ぎ、部屋に上がる。

テーブルと勉強机、他にはベッドと本棚、クローゼットがあるだけの小ぢんまりとした部屋。

床暖房が入っているのか、全面フローリングの床は暖かい。

オレが思っていたよりも、ずっと立派な部屋だ…。

感心して立ち尽くしていたら、不意にオレの両肩に逞しい腕が回り、ギュッと抱き締められた。

「お、オジマ先輩?」

後ろから抱き締められたオレは、急なことで、それも珍しいことで、言葉を続けられずに驚いていると、

「今は…、ユウヤ、だろう?」

ユウヤの低い声が耳元で聞こえた。

「…うん…。ユウヤ、久し振り…」

胸に回された、鍛え上げられた逞しい腕に、そっと手を這わせる。

「…済まなかった、マサ…」

ぼそりと呟き、ユウヤは強くオレを抱き締めた。

「こんな所まで、追いかけさせる事になったな…」

「ははっ…!何を今更!だいたい…」

笑いが込み上げ、皮肉の一つでも言ってやろうかと思った瞬間、オレは気付いた。

これまで、夏休みに会った時も、冬休みに会った時も、ユウヤがそんな風に謝った事はない。

「…ユウヤ…、もしかして…?」

オレはユウヤの腕をほどき、振り返る。

ユウヤは、済まなそうな顔で、辛そうな顔で、オレを見つめていた。

「…何度も言おうと思ったんだが…、言えなかった…。済まん…。俺は勝手だな…」

ユウヤは耳を伏せ、オレから目を逸らした。

「…夏に帰った時も、冬に戻った時も、言おうと思った…。俺の事は忘れても良いんだと…」

目を伏せたまま、ユウヤは続ける。

「お前にも負担をかける事になる。地元で高校に通った方が、友人も多くて楽しいだろう。そう解っていた…。…それでも、

俺は…」

「オレに、ここへ来て欲しかったんだよね?」

言葉を先取りしてそう言ってやると、ユウヤは恥かしそうに尻尾を揺らしながら頷いた。

やっと解った。帰郷して来たユウヤが、何故よそよそしかったのか…。

ユウヤはきっと、

「俺の所に来ないで、お前の好きな学校に行け」

…そう言いたくて、でも言えなかったんだ…。

自分のせいでオレに負担をかける事になる。

きっとそう思い込んで、負い目のように感じて、距離を取るような接し方になっていたんだろう。

「名門校で柔道をしたい…。それは俺のわがままだ。それにお前までつき合わせるのは、正しい事なのか…?間違っているん

じゃないか…?そう、ずっと悩んでいた…」

「ユウヤは何も気に病まなくて良い。それに…」

オレは少し前屈みになって、俯き加減のユウヤの顔を、下から覗き込んだ。

「来るなって言われても、追いかけて来るつもりだったんだから」

視線のやり場に困って、首を引いて仰け反ったユウヤに、オレは笑いかけた。

「せっかくはるばる追いかけて来たのに、そんな顔で迎えられたら悲しいよ?」

「そ、そうか…。済まん…」

ユウヤは困ったように頭を掻きながら、照れ臭そうに目尻を下げて苦笑した。

他の誰にも見せない、オレにだけ見せてくれるユウヤの顔…。

「ねぇユウヤ。オレはユウヤに言われたから来た訳じゃない。オレ自身がユウヤと一緒に居たいから、自分の意思でここに来

たんだ」

オレは、ユウヤに微笑みかけ、そう、はっきりと言ってやった。

ユウヤが、これ以上自分を責めたりなんかしないように…。

「はぁ〜…、安心した…」

思わず呟いたオレに、ユウヤは不思議そうな顔をした。

「いや、その…。帰って来てた時に、なんとなく態度がおかしかったから、ひょっとしてこっちで恋人でもできちゃったのか

と思って…。ホント心臓に悪い…」

苦笑いしながらそう言ったら、ユウヤは目を丸くし、それから小さく吹き出した。

「俺が?お前以外に恋人を?ふっ…!ふははっ!それは有り得ないな!」

まったく、ユウヤに申し訳ない勘違いをした。

これじゃあ「俺を信用できないのか?」って怒られても仕方ないよなぁ…。

「例えばさっき会ったヤマト先輩。いい人みたいじゃない?」

冗談めかして言ったオレに、

「ああ。寮監は良い人だ。だがお互いに好みが違う」

ユウヤは苦笑いしながらそう答えた。

「俺には、お前以上に好きなヤツなどできそうも無い」

不器用で、飾り気の無い、ユウヤらしい無骨な言葉…。

「…ど、どうした?マサ?」

ユウヤは慌てた様子で口を開き、おろおろしながらオレの顔を見つめた。

嬉しいはずなのに、安心したはずなのに、涙が、後から後から込み上げて来て、止まらなかった…。

一年間待てば、またユウヤと一緒に過ごせるようになる。

そう自分に言い聞かせて、気を張って来たけれど、本当はオレ、ずっと寂しかったんだよ…。ユウヤ…。

「…ユウヤ…。やっと…、やっとまた一緒に過ごせるね…」

「…ああ…」

「じゃ、再会のキスして」

「…ぇぅっ…!?」

意表を突かれたのか、妙な声を上げて仰け反ったユウヤに、

「嫌?」

オレは首を傾げて、じっとその目を見つめる。

「い、嫌なはず…。無いだろう…」

ユウヤはゴクッと喉を鳴らすと、オレの両肩に手を置き、顔を近付けた。

そして、オレのでかっ鼻に自分の鼻をくっつけ、

「これからは、また一緒に居られるね…」

そう呟いたオレに、唇を重ねてくれた。

これまでの離れ離れだった時間を埋めようとするように、激しく、長い口付けを交わした。

堪え続けた寂しさが溶けていく。

抱き締め続けた想いが膨れ上がる。

ユウヤ…!会いたかった…!

長いキスの後、ユウヤはオレをギュウッと、苦しくなるくらいきつく抱き締めた。

「…要らん心配をさせたな…。少し、痩せたんじゃないか?」

「勝手に要らない心配をしただけだよ。少しでもユウヤを疑った自分が恥かしい…。それに、体重はそれほど落ちてないんだ。

残念ながらね」

「お前はそれで良い。むしろその方が良い」

身を離して間近で顔を見つめあい、オレ達は押し殺した笑い声を漏らす。

「案内がてら、俺の部屋も教える。夜の点呼が終わったら部屋に来い。話したい事が、それこそ山ほどある」

「うん。オレも、話したい事がたくさんある…!」

これまでの事、そしてこれからの事…。

ユウヤと過ごすこれからの高校生活について、色んな事を語り合いたい。

「さて、寮の案内をする前に…」

ユウヤはオレの頬を撫で、親指で涙をぬぐってニヤリと笑った。

「顔を拭いて来い。その顔のまま連れ歩いたら、俺が苛めたと勘違いされて、寮監に叱られそうだ」

今更ながらに恥かしくなり、オレは慌てて腕で顔を拭った。

新年度、色々なスタートがあるだろうけれど、少なくともオレは最良のスタートを切れそうだ。

そっちはどうだい?アブクマ…。