第一話 「先輩との出会い」(前編)
ボク、田貫純平(たぬきじゅんぺい)は、東護中学の新入生。苗字そのままの狸の獣人だ。身長は平均そこそこ、幅は平均
より少しばかりあるかもしれない。
ちなみに家は銭湯やってます。お近くまで足を伸ばされた時は、狸湯をぜひよろしく!(あ、ちゃっかり宣伝しちゃった…)
小学校の時から、ボクは柔道の道場に通っていた。
いや、通わされていた、って言った方が正確かな?うん。体を鍛えろとか言われて、両親に無理矢理通わされていたんだ。
6年間でかなり体力はついた。先生もスジがいいと言ってくれたけれど、ボクには柔道は向いていないと思う。
実はボク、極度の上がり性で、練習ならともかく試合となると体が思うように動かなくなる。だから柔道暦はそこそこだけ
ど、戦績の方はからっきし…。
実は最初、柔道部には全然興味が無かった。でも、昼休みに各部が勧誘コーナーを設けている体育館を覗いた時、両親も運
動部に入れって煩いし、他にやれる事もないしで、ほとんど何も考えずに入部する事にした。
「本当かい!?いやぁ助かる!新入生に全然見向きされないで困ってたんだ!」
入部希望です。と声をかけると、折りたたみの椅子と机の簡易受付に座っていた猪の獣人の先輩は、喜んでボクを迎えてくれた。
いかつい顔にがっしりした体付き。目測でだけど、170センチ100キロ前後ってところだろうか?ごつい外見とは裏腹
に、人の良さそうな笑顔と、優しげなバリトンボイスが印象的だ。…結構好みのタイプ…。
「オレ、二年の飯野正行(いいのまさゆき)。よろしくね」
ニコニコしながら名乗ったイイノ先輩が隣に視線を向ける。そこでは大柄な熊の獣人がパイプ椅子に座り、何やら仏頂面で
本と睨めっこしていた。
「おいアブクマ!一人入ってくれるってさ!」
「おう。そりゃ良かったな」
その先輩は本から視線を上げず、上の空で返事をした。
…ん?…アブクマ…?
「おい、顔ぐらい上げろよ。本なら後で読め」
「練習までにルール覚えときてぇんだよ」
「午後の授業中に読めばいいだろ?」
イイノ先輩がさらっと酷いことを言うと、熊先輩が顔を上げ、「なるほど!」というような顔をした。
「それもそうだな。午後は丁度よく英語だし」
何が丁度よかったのかは分からなかったが、熊先輩は本を机に置いて立ち上がると、ボクの顔を見下ろした。
「俺、アブクマってんだ。よろしくな」
こっちの先輩は恐ろしくデカい…!155センチのボクより、30センチは背が高いだろう。樽のような胴体に、丸太みた
いな太い手足。極めて大柄な体躯は見ているだけで圧倒される…!
そしてなにより恐怖で足が竦んだ。アブクマって名前…。熊の獣人…。いっこ上…。間違いない。この人が噂の阿武隈沙月
(あぶくまさつき)だ…!
入学してすぐに不良グループを病院送りにし、以来この東護中に君臨する恐怖の番長…。周囲の学校の不良達も、この先輩
が恐ろしくて東護中の学区内には滅多に入ってこないって噂だ…。柔道部だったなんて初耳だよっ!?
怯えている僕を見つめ、アブクマ先輩は目を細めた。…やばいっ機嫌損ねちゃった!?
「あ〜…、なんか俺の噂、聞いてんだな?」
アブクマ先輩は困ったような顔で頭をガリガリ掻くと、イイノ先輩に視線を向けた。
「やっぱ俺、頭数合わせだけでも、勧誘活動にゃ向いてねぇみてぇだ。後頼むわイイノ」
「え?あ、ちょっと?待てよアブクマ!」
イイノ先輩が呼び止めるのも聞かず、アブクマ先輩は手を振りながら行ってしまった。
「あ、あの…、その…。す、済みません。ボクのせい…、ですよね?」
ボクが体を縮めて言うと、イイノ先輩が肩を竦めた。
「気にしないで良いよ。単に退屈で仕方なかっただけだろうから」
イイノ先輩の話によると、アブクマ先輩は噂に聞くような不良でもなければ、番長でもないらしかった。不良グループを病
院送りにしたのは正当防衛で、他の武勇伝も、この噂を聞いた他の学校の不良に一方的に因縁をつけられ、それを返り討ちに
した結果らしい。
「確かに見た目は怖いし、言葉遣いもがさつだけれど、噂みたいな悪いヤツじゃないから安心して」
イイノ先輩の言葉に頷きはしたものの、正直半信半疑だった。
「あ?あいつ忘れてったな…」
イイノ先輩は机の上の本に気付き、ため息をついた。その本は…、
「…柔道入門?」
「ああ、あいつね、昨日入部したばかりなんだ。つまり超初心者。で、今ルールと基礎の勉強中なわけさ」
昨日入部?しかも全くの初心者?なんだって急に柔道を始める事にしたんだろう?
「あ、悪いけどタヌキ君。あいつにこれ届けて貰えない?オレまだ受付しなきゃいけないからさ。頼むよ」
はっきり言って丁重にお断りしたかった。が、先輩はボクの態度が原因で行ってしまったらしいのに、まさか「怖いから嫌
です」とも言えない…。しぶしぶながら引き受ける事にした…。
ボクは二年の教室が並ぶ階を、落ち着かない気分で歩いていた。
教室の入り口から中を覗き、あの巨体が見えないか確かめて回る。…ひょっとしなくても、はたから見れば挙動不審だろうね…。
結局、4クラス全部覗いてみたけれどアブクマ先輩の姿は無かった。…どうしよう?見付からない事なんて考えてなかった
よ…。…仕方ない。情けないけど、これ以上上級生に囲まれているのは耐え難いし…、見付かりませんでしたって謝って、イ
イノ先輩に本を返してこよう…。
途方にくれたボクがそんな事を考えていると、廊下の先から大柄な熊獣人がのっしのっしと歩いてきた。
…アブクマ先輩だ…!今さっきまで探し回っていたというのに、いざとなると怖いものです。手の震えが止まりません…!
大きな紙袋を胸に抱えたアブクマ先輩は、僕を見て眉を上げた。やばい!気付かれた!?ってそもそも話しかけなきゃなら
なかったんだけど…。
「お前、さっきの?」
「あっ!…う、え、お…」
ボクはガチガチに固まったまま、なんとか先輩に本を差し出した。
それを見たアブクマ先輩は、「おや?」といった様子で目を丸くし、それから頭を掻いて苦笑いした。
「あぁ〜!忘れて来ちまったのか!悪ぃなぁ、わざわざ届けに来てくれたのか?」
目を細くして、丈夫そうな白い歯を見せて笑うその顔は、意外な事に全然怖くなかった。むしろ愛嬌を感じさせる笑顔で、
ボクはちょっと戸惑った。
「昼飯、食ったのか?」
「え?あ、いえっ」
「なら丁度良い。ちょっと付き合えよ」
そう言うと、先輩はボクの返事を待たずに歩き出す。
ボクは訳が分からないまま、おっかなびっくり先輩の背中を追いかけた。
先輩に連れられて行った先は、学校の屋上だった。人気はなく、居るのは先輩とボクだけだ。
…ん?…屋上…?人気が無い…?二人きり…?…え?…えぇぇええええ!?もしかしてボク、また機嫌損ねるような事しで
かした!?これからぼこぼこにされちゃう!?
恐怖に硬直するボクを残し、先輩は手すりまで歩いていくと、振り返って手招きした。
おそるおそる歩み寄ると、先輩は手すりの向こうに視線を向ける。
「どうだ?良い眺めだろ?」
「え?眺め?」
言われた僕は先輩と同じように、手すりの向こうに広がる風景に視線を向ける。…あ、すごい…。初めて上ったけれど、高
台に建てられたこの学校の屋上からは、東護の町並みが一望できた。
学校の傍の商店街や、街の中心のショッピングモール。その向こうには倉庫の並ぶ港地区。さらに向こうには、爽やかな日
差しを受けて青く輝く太平洋…。
心地良い風が吹いている中、眩しそうに目を細め、先輩は遠くに視線を走らせる。
「俺、ここが気にいってんだ。馬鹿と煙は高いトコが好きってのは本当らしいな」
そう言って口元を吊り上げる先輩からは、噂に聞いていたような怖いイメージとは裏腹に、ほっとするような穏やかさが感
じられ、僕はドキッとした。
ボクが景色と先輩に見とれていると、先輩は紙袋から何かを取り出し、ボクにずいっと突き出した。それは学食で売ってい
るヤキソバパンだった。
「え?あの、先輩?これって…?」
「食えよ。昼飯まだなんだろ?本を届けに来てくれた礼だ。まだまだあるから遠慮すんな」
そう言いながらボクの手にパンを押し付け、先輩は玉子とツナのサンドイッチを取り出してかぶりついた。
ボクはお礼を言ってヤキソバパンを齧る。すごく美味しく感じられた。
昼休みいっぱい、ボクと先輩は色々な事を話した。
意外にも、先輩はけっこう気さくで、ボクが通っていた小学校の事や、家の仕事の事、柔道の事など、退屈そうな顔一つ見
せないで聞いてくれた。
言葉を交わす内に実感できたけれど、先輩は、本当に不良なんかじゃないようだった。
授業が終わった後、ボクは足早に柔道場に向かった。
中学の柔道部に興味があったのも確かだけれど、早く先輩達に会いたかったのが本音かもしれない。
まだ誰も来ていない道場に一礼して踏み入る。そして更衣室に入った途端、僕はその光景に驚いて硬直した。
ロッカーとベンチが並ぶ更衣室の中で、道着を着たイイノ先輩と、パンツ一丁のアブクマ先輩が立っていた。
「せ、先輩…?」
「お!?タヌキ君、良い所に来てくれた!」
イイノ先輩は嬉しそうに目を細めた。お昼休みに入部受付をしていた、顔はいかつくて怖そうなんだけれど、声の調子も笑
顔もとても優しそうなあの先輩だ。
「実はこいつさ、まだ道着の着かたも分からないんだ。ちょっと教えてやってくれない?」
「え?」
ボクの視線を受け、アブクマ先輩は決まり悪そうに頭を掻く。
「稽古に来んの、今日が初めてなんだよ…」
恥ずかしそうに少し俯いた顔がちょっと可愛い…。
「じゃあ頼むね?俺、先輩方が来る前に準備しとかなきゃなんないから!」
イイノ先輩はそう言うと、更衣室を出て行ってしまった。で、ボクとアブクマ先輩だけが残される。どうやらボクが勘違い
していたらしい。…てっきり二人がああでこうで…、いやいやいや!
「その…、悪ぃな…」
「い、いえ!誰でも最初は分からないものですから!」
恥ずかしそうに呟いた先輩にそう答え、ベンチの上に畳んであった真新しい道着を手に取る。当然だけどかなりでかい…。
「えっと、ズボンは普通に穿いてください」
「おう」
「で、上はですね…」
道着を広げて持ったボクは、先輩の体を改めて眺める。
固太りした大柄な体躯、筋肉で盛り上った胸とお腹周りには脂肪がつき、丸みを帯びている。濃い茶色の被毛に覆われた肩
も腕も、がっしりと太くて逞しい。胸には鮮やかに白い三日月マーク。先輩、月の輪熊だったんだ…。毛は茶色いからハーフ
なのかな?
先輩のナイスバディを前に、ボクは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「どうした?」
「は!?い、いえなんでも!」
我に返ったボクは、先輩に道着を渡し、着かたを教える。
「左前じゃないですよ?」
「おっと、左前は死に装束だったっけか…?ぬははっ…」
照れたように笑う先輩。…あ、照れた顔やっぱり可愛い…。
「で、最後に帯をこう…」
帯を巻いてあげながらも、むっちりしたお腹に抱きつきたい衝動に駆られた。必死に理性を保ち、ボクは先輩の帯を締めて
あげる。
「お〜、こういう風になんのか…」
先輩は壁の鏡の前で回りながら、自分の姿を確認した。道着の裾を持ち上げ、ズボンがずれないか確認したりしている。お
尻から出てる短い尻尾がセクシー…。
「良く似合ってますよ」
ボクがそう言うと、先輩は照れたように鼻を擦る。ああ…、可愛い…!
えぇと…、この辺で白状しときます…。たぶんもうお気付きでしょうけど、ボク…、ホモです…。
ちなみに好きなタイプは大柄で太めな人。性格的には男らしくて、でも優しくリードしてくれる、できれば年上の方が…。
…つまり、最初は怖かったけれど、この先輩はモロに好みのタイプな訳で…。
僕達が道場に出ると、練習の準備を終えたイイノ先輩が、僕達を見て顔を綻ばせた。
「おぉ〜!似合ってるじゃないかアブクマ。結構かっこいいぞ?」
「からかうなよ」
アブクマ先輩は苦笑して応じると、隣のボクを見下ろし、ぼそっと呟いた。
「サンキューな。タヌキ」
「いえなんでもないですあれくらいっ!」
ちょっとドキドキして早口になってしまった。最初はどうなる事かと思ったけれど、結構楽しい部活になるかも…。
ボクがそんな事を考えていると、道場の扉がバシンッ!と、勢い良く開いた。
黄色い被毛に黒い縞模様。太くて長い尻尾。相当鍛えこまれていそうな逆三角形の体…。入ってきたのは筋骨隆々たる虎の
獣人だった。
「ち〜っす!」
イイノ先輩が姿勢を正して礼をする。虎先輩はそちらには目もくれず、ボクとアブクマ先輩に鋭い視線を向けた。
「なんだ?まだこれしか来ていないのか?」
低く野太い声で不機嫌そうに言うと、虎先輩はのしのしと畳の上を横切り、こちらへ向かって来た。ボクは慌ててお辞儀し、
それを見たアブクマ先輩がぎこちなくお辞儀する。両手を体の脇につけて、角度まで真似たようだった。…いえ、普通にお辞
儀して良いんですよ先輩?柔道の作法とかじゃないんですからね?
虎先輩はボクの顔を見下ろし、
「…新入りか」
と、ぼそっと呟いた。
「は、はいっ!1年4組、田貫純平ですっ!今日からお世話になりますっ!」
虎先輩は小さく頷くと、ボクから視線を外し、アブクマ先輩の顔を睨むように見つめた。虎先輩もかなり大柄だけど、上背
は少しだけアブクマ先輩のほうが高い。
「本当に来たのか」
「うす。キダ先生にも今日から混じれって言われたっすから」
アブクマ先輩がそう答えると、虎先輩はフン、と鼻を鳴らし、更衣室に向かった。
「迷惑なんだがな、問題を起こすようなヤツに来られるのは…」
去り際に、虎先輩がそう呟いた。
勢い良くドアが閉められ、ボクは身を竦ませた。なんだかすごい不機嫌そうだったけれど…。…あ、不機嫌と言えば…!?
ボクは恐る恐る、アブクマ先輩の顔を見上げた。
あんな風に言われて怒り心頭に達してるんじゃ…?と思ったボクの予想に反し、先輩は苦笑いしていた。そして、ボクの心
配そうな視線に気付いたのか、肩を竦めて見せる。
「まぁ、先輩にすりゃあ迷惑だよな。俺、確かに問題児だし」
ああいう事を言われてもサラッと流せるんだ…。先輩は思ったよりも大人だ。
イイノ先輩は僕らに歩み寄り、
「今の人が主将。三年の尾嶋勇哉(おじまゆうや)先輩だ」
と、説明してくれた。
「なんだか、すごく機嫌が悪いみたいでしたけれど…」
「ああ、あまり気にしない方がいいよ。いつもあんな感じだから」
そう言って笑う。…いつも不機嫌って…、ちょっと接し辛いんですけど…?
それから間もなく、部員達は三々五々集まってきた。
三年生が5人。二年生が6人。一年生はボクを含めて3人。(一年生はまだ勧誘中だから、もう少し増えるかもしれない)
その内、オジマ主将とイイノ先輩、アブクマ先輩、そしてボクの四人が獣人だ。
全人口の1割程度が獣人という事を考えれば、この部はケモ密度が結構高めかも。
先輩方が集まった中、僕達一年生は前に整列させられ、自己紹介させられた。
させられたんだけど…、三番手として自己紹介を終えたボクは、ちらりと隣を見る。
大柄な熊獣人が、その隣に並んでいた。…なんで?
「2年2組、出席番号2番、阿武隈沙月っす。身長187、体重165。柔道経験は無し。よろしくお願いします」
納得した。今日が初の稽古参加って言ってたっけ…。っていうか、187センチの165キロ、大きいわけだなぁ。…後で
メモしとこ…。できればスリーサイズも知りたいな…。
一応フォローしておくと、ボク達獣人は筋肉と骨の密度が人間とはかなり違う。例えば同じ背格好の人間と獣人を比べると、
必然的に獣人の方が重くなる。だいたい3割増しくらいかな?つまり、先輩は人間でいうと、187センチの109キロくら
いで、それほど…、あれ…?やっぱり重めかな?
柔道部顧問のキダ先生は、三日間出張で戻らないらしい。
先輩達の指導の下、僕達は緊張しながら稽古を始めた。稽古といっても、僕達一年は初日と言うこともあり、本格的なもの
ではなかった。今日が初稽古の子はジャージで参加してたりもする。
そして、稽古が一区切り付いた時、三年生の先輩の一人が、ボクの所にやって来た。
「タヌキっていったっけ?悪いけど、アブクマの事、少し見ててくれるか?」
先輩の話によれば、アブクマ先輩は完全な素人で、基本から覚える必要があるらしい。そこで、一年の中で最も経験の長い
ボクが指導してくれないかとの事だった。
もちろんボクは一も二も無く頷いた。でも、これは後から冷静に考えると、かなり奇妙だった。いくら初心者とは言っても、
先輩方が居るのに、わざわざ後輩に指導させる?
この理由は稽古の後で分かったけれど、この時のボクはそんな事までは気が回らず、アブクマ先輩と仲良くなれるチャンス
に心を躍らせていた。
…この時のボクは、この後に取った軽率な行動が、あんな事件を引き起こすなんて、想像もしていなかった…。