第十話 「時は移ろう」
ボクの名前は田貫純平。東護中一年で、柔道部所属。名字が示すような狸の獣人で、現在、手強い片想いのまっただなか。
クリスマスでの告白失敗(自滅?)以後、憧れのサツキ先輩とは特に何もないまま、年は変わり、季節は春になっていた…。
何も無いとは言っても、一緒にスケートに行ったり、柔道部で鍋パーティーやったりはしたんだけれどね。…特別な関係に
なるだけの進展は無かった訳…。
先輩は相変わらずボクを可愛がってくれてる。でも、やっぱりボクの気持ちには気付いてない。…告白できるだけの勇気と、
その機会がなかなかないんだよね…。
そんなあいかわらずのボクを、イイノ主将は半分は呆れ、半分は励ましの視線で見守ってくれている。
「やっぱり、ここに来ましたね」
道場の入り口に立った三年生の先輩方を、イイノ主将が笑みを浮かべて迎えた。
「…なんだかんだ言って、ここが一番想い出に残っているからな…」
揃って待ち構えていた柔道部一同を見回し、オジマ先輩はいつもの不機嫌そうな声で言った。
今日は…、三年生の先輩達の卒業式だ。
先程式典が終わった後、僕達は三年生を迎えるために道場に集まった。
誰も来なかったらどうする?という二年の先輩の問いに、イイノ主将は「必ず来る」と、笑いながら言った。
…結局主将の言った通りになったな。三年生は全員揃って、道場へとやって来たんだから。
「苦しい事ばっかりだったけど…、悪くなかったよな」
「ほんと、引退してせいせいしたと思ってたのに、何も無いとついつい足が向いてさ…」
「今日で本当にお別れかぁ…」
先輩方は名残を惜しむように、道場を見回して思い思いに呟いていた。
辛い稽古、流した汗、悔し涙、皆で共有した笑顔…。先輩方は、いろんな想い出を胸に抱え、そしていろんなものをここに
残して行くんだろう…。
オジマ先輩はゆっくりと道場を見回した後、イイノ主将に歩み寄り、その肩をポンと叩いた。
「…後は、頼むぞ」
「…はい」
しばらく見つめ合った後、オジマ先輩はサツキ先輩を振り返る。
「イイノの事、支えてやってくれ」
「分かってますよ。…一応、副主将っすからね」
サツキ先輩は口の端を吊り上げて応じた。
オジマ先輩は部員達一人一人に声をかけて周り、最後にボクの前に立った。
「…お前は、磨けば光る。諦めるな、何事も」
そう呟くと、先輩はボクの胸を軽く叩き、そして笑みを浮かべた。
「はい!」
背筋を伸ばして姿勢を正し、しっかり返事をすると、先輩は少し身を屈め、ボクの耳元にそっと囁いた。
「…頑張れよ、柔道も、恋愛もな…」
思いがけない優しい口調と笑みに、胸が一杯になり、目頭が熱くなった…。
「さて、そろそろ行こう」
オジマ先輩の言葉に、他の先輩達も頷き、出口へと歩き出した。
最後に扉を潜ろうとしたオジマ先輩の背に…、
「オジマ先輩!」
イイノ主将が呼びかけ、先輩が振り向いた。
「オレ…、オレ…!来年はそっちに行きますから!…だから…、待ってて下さい…!」
イイノ主将は、胸元で右手を握り締め、何かに耐えるような表情でそう言った。
オジマ先輩は、少しの間黙ってイイノ主将を見つめた後、ニッと口元を歪めた。
「俺には、待っててやれるだけの余裕は無い。だからお前が追いついて来い。できるな?」
主将はぐっと口元を引き結び、頷いた。
「…はい…!必ず…、必ず追いつきます!」
「ああ、楽しみにしてる…」
先輩はやさしく、そして少し寂しげな笑みを浮かべ、くるりと背を向けると、肩越しに手を振った。
「じゃあ…、またな」
呟くようなその声が、オジマ先輩の別れの言葉になった。
『あしたぁっ!』
僕らの礼の唱和が、先輩達の背を追いかけて行く。
…オジマ先輩の制服、帰り際には第二ボタンが無くなっていた。来た時は、確かに全部揃っていたはずなのに…。
ふと視線を向けると、イイノ主将は胸の前で握り込んでいた右手を開き、金色のボタンを見つめていた。
…そうか…、オジマ先輩は、主将にボタンを残して行ったんだ…。
オジマ主将は道北にある柔道の名門校へ進学した。
寮の手続きなどがあるらしく、卒業式典の終了後、すぐにこっちを発ったらしい。
後になって、サツキ先輩からそう聞かされて、初めて気付いた…。あれが、主将とオジマ先輩の、しばしのお別れの挨拶だっ
たんだっていう事に…。
あの二人は遠く離れて、なかなか会えなくなってしまうんだ…。主将はオジマ先輩に「そっちに行くから」と言った…。あ
れは、来年にはオジマ先輩と同じ学校へ行くという宣言だったんだな…。
きっと、良く話し合って、お互いに納得済みの事なんだろう。…でも…、理解し合えた恋人同士、離れ離れになってしまう
のは、どんなに辛いだろう…?
オジマ先輩と離れた主将は、これからも今までのように頑張って行けるんだろうか?
そして一年後…、先輩達が卒業する時、ボクはどんな気持ちで送り出すのだろう…?
「ジュンペー!まだかー!?」
「もう終わるよー!」
磨りガラス越しにかけられた声に、タイルをデッキブラシで磨きながら応じる。…まったく、人使いが荒いなぁお父さん…
今日、ボクは早朝から浴場の掃除をやらされている。学校も部活も休みの日は、こうして朝に家の銭湯の開店準備を手伝わ
されてるって訳。
「まだかかるなら先に表に塩盛っとけ〜!」
「ああもうっ!分かったよ〜!」
ボクはブラシを放り出し、ブツブツと口の中で文句を言いながら表口へと回る。
あ、一応説明。表口に塩を盛るのって、魔除けとか思われてる事が多いけど、実はお客さんを呼び込む験担ぎなんだ。
なんで塩を盛るのが客寄せかって?その理由は、平安時代辺りまで遡るらしい。
当時の身分の高い人達は、牛車を移動手段に使っていた。で、牛って草食だから、普通に塩分を摂取する機会があまり無い。
だからミネラル不足になりやすいんだってさ。それで、店の前に塩を盛っておくと…、あ〜ら不思議!偉い人を乗せた牛車が
店の前で止まり、牛が塩を舐め始める。その間に偉い人は、「せっかくだからこの店に寄っていこう」ってな具合にお客様に
なるって寸法。
…まぁ、ボクのお父さんが言ってた話だから、半分しか信じてないけど…。
お皿に盛った塩を門の角に配置しようと通りに出たボクは、通りの向こうから走ってくる大柄な人影に気付いて手を止めた。
…あれって…?
「先輩!?」
ジョギング中なのか、汗だくになって苦しげに喘ぎながらドスドスと走って来るのは、ジャージ姿の大柄な熊獣人、サツキ
先輩だ。
「はぁ…ふぅ…ひぃ…、じゅ、ジュンペー…、丁度良いトコに…、み、水と塩くれ…」
先輩はボクの前で立ち止まると、膝に手を当てて前屈みになった。
オジマ先輩に言われてから約一年、ジョギングを続けているにもかかわらず、先輩はあいかわらず長距離走が苦手だ。
「はいお塩。水持ってきますから、ちょっと待ってて下さい」
よほど汗をかいたんだろう。普通「水くれ」はあっても「塩くれ」は無いよなぁ…。
…あ、塩が客寄せになった。来たのは牛じゃなくて熊だったけれど。
「悪ぃなぁ。ちょいと張り切り過ぎちまって、このざまだ…」
門に背を預けて座り込み、息を整えながら、先輩は口に含んだ塩を水で飲み下した。
「張り切ってって…、先輩の家からここまで、結構あるじゃないですか?」
「おう。長距離走苦手なのも、少しは克服しとかなきゃなんねぇからな、今日から少し距離伸ばしてみたんだ」
「なんでまた急に?」
先輩は気まずそうにため息をついた。
「なんでって…、もうじき新入部員が入るじゃねぇか?二年下の後輩含めてドンケツはさすがにかっこ悪ぃだろ…」
「あ〜…、なるほど…」
思わず納得…。現在の所、部内のランニングでは先輩が群を抜いてドベだ。このままじゃ新一年生にもぶっちぎられるだろう。
「…そろそろ開店なのか?」
「ええ、もうじき…。あ、そうだ!良かったら狸湯、利用していきませんか!?」
「いや、せっかくだが今回は遠慮しとく。金持ってきてねぇんだ」
「良いですってば!いつもお世話になってるお礼も兼ねて、今回は無料で!」
お父さんもお母さんもサツキ先輩の事は良く知ってる。両親も来たらサービスするって常々言ってるんだけど、先輩は遠慮
してなかなかうんと言ってくれない。
「そんな汗だくのままジョギングしたら風邪引いちゃいますよ!」
ボクが強く勧めると、先輩はしばらく迷った後、
「じゃあ、悪ぃけど借りとくかな…」
と言って、やっと頷いてくれた。
「もうちょっとだけ待ってて下さいね。すぐ準備できますから」
ボクはせっせと床を磨きながら先輩に告げる。
お父さんの了解も得て、先輩の入浴料はサービスという事にできた。ダメだったらボクがお金出すつもりだったんだけど…。
「休みはいつも家の手伝いしてんのか?」
「ええまあ…、部活も学校も無い日だけですけど」
先輩は手早く鏡を磨きながら、感心したように言う。
「偉いなぁ。俺なんてたまに飯を作るぐれぇで、家の事何も手伝ってねぇぞ?」
うひひ、先輩に褒められちゃった!
「ご飯作るだけで凄いじゃないですか!ボクなんていやいや手伝ってるだけですから」
褒められてちょっと照れていると、先輩はホースを引っ張り、ボクが磨いた後を洗い流しながら笑った。
「俺だって好きこのんでやってるわけじゃねぇよ。お袋が居ねぇ時にやるぐれぇだ」
「それでも凄いですよ。ボクなんて料理の一つも…」
…あれ?
「せ、先輩!?何してるんです!?」
先輩はホースを片手に首を傾げた。
「ん?出来そうなとこだけでも手伝っとこうかと思って…。邪魔だったか?」
「い、いや、邪魔だなんてそんなっ!そうじゃなくて、手伝わなくて良いんですから!休んでて下さいよ〜!」
「でも、見たとこそろそろ終わりなんだろ?最後までやらせてくれよ」
う…。先輩の言うとおり、もう終わりだけれど…。
ボクはすっかり恐縮してしまいながら、先輩に手伝って貰って掃除を終えた。
「済まねぇなぁ。良い風呂だった!」
湯上がりホコホコの先輩は、腰にタオルを巻いただけと言う悩殺ルックで満足げな笑みを浮かべた。追加サービスのフルー
ツ牛乳を、腰に手を当てて一気飲みする姿が実にさまになっている。
ちなみに、先輩がお風呂に入っている間に、汗を吸ったジャージは大急ぎで洗濯して乾燥機の中。もちろんこれもサービスっ!
先輩に手伝って貰った事を話したら、両親は大いに感心していた。
「この後暇なら、少し上がって行きませんか?ボクも家の手伝いは終わりですし」
「俺まだジョギング中なんだけどな…」
先輩はしばらく迷っていたけど、両親がぜひ昼食もと強く勧めたのもあって、終いには折れてくれた。
「あ〜、アブクマ先輩だ〜!いらっしゃ〜い!」
ボクの部屋の前でばったり顔を合わせると、弟の正平が先輩に笑顔でお辞儀した。
「よう!お邪魔してるぜショーへー!」
先輩は笑顔でショーへーを抱き上げ、高い高いした。ショーへーは嬉しそうに狸尻尾をパタパタと振る。…ちょっと羨まし
い…。
小学校三年生のショーへーと立派な体格の先輩は、一歩間違えなくてもぱっと見は親子に見える。先輩は子供好きらしく、
ショーへーを可愛がってくれるし、最初から先輩を怖がらなかったショーへーも、今ではよく懐いていた。
…あれ?こいつ今日は確か…。
「ショーへー、友達のお誕生会に呼ばれてるんじゃなかったっけ?」
思い出したボクが尋ねると、ショーへーは手足をバタバタさせて慌てた。
「あ!そうだった!」
ショーへーは先輩が床に降ろすと、ペコッとお辞儀した。
「行ってきますお兄ちゃん!アブクマ先輩、ごゆっくり!」
「おう。またな」
「気をつけて行くんだよー?」
手を振りながら駆けて行くショーへーを見送り、ボクも先輩もほんわか微笑む。う〜ん、我が弟ながら可愛いなぁほんと…。
「にしても…、いつもながらすげぇな…」
ボクの部屋に入るなり、テレビ周りに並んだゲーム機と、うずたかく重ねられたソフトのパッケージを見て、先輩は感心し
ているような、呆れているような調子で呟いた。
ボクの家には家庭用ゲーム機が全機種揃っている。ゲームをしない先輩から見れば、ボクの部屋のテレビ周りは得体の知れ
ない機械で埋め尽くされているように見えるらしい。
ちなみに、最初にボクの部屋に来たときは、ワイヤレスコントローラーや、音声入力用マイク、レースゲーム用コントロー
ラーの存在に度肝を抜かれていた。こんな物が有るとは想像もしていなかったそうだ。
「人っていうのは、快楽を追い求める生物ですから。少しでも快適にゲームをプレイする為に、こういった機器は日夜開発さ
れているものなんです」
そう説明したら、先輩は感心しながらも、あまり理解はできていないようだった。…まぁ興味無い人から見ればそういうも
のなのかも…。
「ゲーム機って高ぇんだろ?小遣いはみんなこういうのに注ぎ込んでんのか?」
「まぁ殆どは…。先輩はお小遣いって、主に何に使ってるんです?」
「買い食いとシェリルのCD」
…きっぱり即答…。そういえば先輩、シェリル・ウォーカーの大ファンだったよなぁ…。
「先輩がシェリルのファンなのってちょっと意外ですね?イメージ的に」
「ん?…まぁ、な…」
先輩は答え難そうに一瞬口ごもった。
「…ダチに、シェリルの熱狂的なファンだったヤツが居てな…。そいつの影響だ…」
…言いづらそうで、過去形だったからすぐに分かった。きっと、乾健人さんの事だ…。
先輩はそれっきり黙りこくってしまった。…辛い事思い出させちゃったな…。
「…せ、先輩?これからずっと、ジョギングの距離伸ばしたままで続けるんですか?」
「ん?あ、ああ…」
物思いに耽るようにぼーっとしていた先輩は、ボクの問いかけに、我に返ったように頷いた。
「さすがに平日の朝は厳しいけど、休日の分だけでも伸ばして続けようと思ってる」
「それなら、長めに走る時は、今日みたいに家に寄って行って下さいよ」
「ん〜、でもやっぱり悪ぃし…」
「今日、凄く助かりました!たまにで良いから、今日みたいに掃除手伝ってってくれれば、ほんと助かるんですけどね?もち
ろん、その分でお代は無しって事で…、先輩が良ければですけど」
本当は、ただ寄って行ってくれるだけで良かった。でも、先輩の事だから、こうでも言わないと首を縦に振らないと思ったんだ。
先輩はしばらく考えた後、
「まぁ、親父さん達がそれで良いって言うなら…、たまにお邪魔しても良いかなぁ?」
と、遠慮がちに言った。
「もちろんですともっ!」
先輩が顔を出せば両親だって喜ぶし、何よりボクが一番嬉しい!
その日から、先輩は休日のジョギングの度に家に寄り、浴場の掃除を手伝って行ってくれるようになった。
お礼にという事で振る舞う一番風呂とフルーツ牛乳が、どうやらよほどお気に召した様子らしく、ちょっと嬉しい。
先輩はクラスメートや部員達にも家の事を紹介してくれたらしく、少し離れているのに、学校の生徒も利用するようになった。
店の前に塩を盛るのは、本当に客寄せになるみたいだよ?