第十五話 「先輩達の引退」(後編)
いつもと比べてあまりに早く寝たせいか、ボクは深夜に目を覚ました。
枕元に置いておいた腕時計を見ると、午前一時を少し過ぎたところ…。
見慣れない天井をしばらくの間ぼ〜っと眺めた後、首を動かし隣のベッドを見る。
トランクス一丁の先輩が、ベッドの上で大の字になっていた。ちなみに布団は払い除けられ、ベッドの下に落ちている。
…そういえばなんだか蒸し暑い。寝る前に弄ったんだけど、エアコンの調節、間違ってたかな…?
ボクは先輩を起こさないように静かにベッドから降り、壁際のパネルを確認して、設定温度を少し下げる。これで涼しくな
るだろう…。
振り返ったボクは、先輩の無防備な格好を見て、ゴクリと喉を鳴らした。
ボクの耳元で二つの声が囁く。それはきっとボクの中の良心と邪心の声だ。
…まて!まてまてまて!ダメだぞ?何考えてる!?
…でも落ち着いて考えてみろ?先輩はもう引退しちゃう。こんな機会はそう無いぞ!?
…いやダメだってば!理性を保つんだ!
…でも、先輩よく寝てるみたいだし、大丈夫じゃないか?
…大丈夫じゃない!寝込みを襲うなんて、そんな卑怯な真似はダメだっ!
…でも、深夜の暗い部屋に先輩と二人きり…。ここだけの話、萌えるシチュエーションだと思わないか?
…確かに…、萌えるシチュエーションではある…。
…ほら、やっぱり萌えるんだろ?
…う…、そ、それは否定できないけどっ…!
…我慢は体に毒だ。こそ〜っと。ほんのちょっとだけ。な?
…う、う〜ん…、ちょっとだけなら…いいかな…?
ああんっ!ボクの良心、やけに弱っ!
良心が邪心にあっさりと言いくるめられ、気が付けばボクは先輩のベッドの横に立ち、その寝姿を見つめていた。
がっしりした固太りの身体…。
無防備にさらけ出された分厚い胸には白い三日月マーク…。
体の横に投げ出された、肘から固定されて動かない、痛々しい右腕…。
太くて逞しい、でもボクを優しく抱き締めてくれた左腕…。
巨体の割に軽快に動く、しかし長距離走は苦手などっしりと太い脚…。
呼吸で上下している、ぽこんと盛り上がったお腹…。
薄明かりでおへその窪みが薄いシルエットで見える。
その下には無地の紺色トランクス。
…その奥には、あのかわいいオチンチンが…。
思わず唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえ、先輩を起こしてしまうんじゃないかとドキッとした。
ボクはそっと、そ〜っと先輩の顔に自分の顔を近付けた。しばらく様子を窺ったけど、目を覚ます気配は無い…。
だ、だめだ…、我慢できないっ!
ボクは息を殺し、先輩の頬に口付けした。
顔を離して確認しても、先輩は全く目を覚ます様子が無い。起きている時とは全く違う、そのあどけない寝顔が、たまらな
く可愛い…。
ボクは先輩の頬にもう一度キスし、それからベッドの脇に屈み、先輩の胸に手を伸ばす。白い三日月マークにそっと触れ、
軽く撫でる。
慎重に様子を窺ったけれど、先輩はまだぐっすり眠っている。…鎮痛剤を飲んだせいで、眠りが深いのかもしれない…。
勢い付いたボクは、先輩の胸をそっと撫でまわす。胸とお腹周りは、他の場所と比べて毛が少し短い…。こんなにじっくり
触るのは初めてだったけど、胸の被毛を押し上げる二つの筋肉の盛り上がりは、脂肪が乗って手触りが良かった。
先輩の厚い胸を撫で回していた手が、小さな突起に当たる。…これ…、先輩の乳首だ…。
ちょっと摘んでみたら、先輩が「んっ…」と声を上げた。ビクッとして顔を見る。…セーフ…、起きてない…!
確認しながらも摘んだままだった乳首は、硬くなってツンッと立っていた。
軽い興奮を覚えながら、ボクは先輩の胸に顔を寄せ、乳首にキスする。再び先輩が小さく呻いた。けど、やっぱり起きない。
…先輩…、眠ってても感じてるのかな…?
両方の乳首を摘んで、舐めて、揉む。先輩が時折呻くたびに、ボクの興奮は高まって行った。
…先輩、気持ちいいですか?
ボク、ずっと前から先輩が好きでした…。ずっと、先輩に告白できて、恋人同士になれて、こういうことが出来たらいいなっ
て思ってたんです…。
心なしか、先輩の呼吸が早くなっているような気がする…。
胸に触れた手から伝わる心臓の鼓動が、さっきよりも高鳴っているような気がする…。
ボクは先輩の胸から少しずつ舌を這わせる位置を下げてゆく。
目を閉じて、呼吸で上下するお腹に頬ずりする。寝る前にたくさん水を飲んだせいか、頬を押し付けたら、お腹の中でトプ
ンッ…と、水が波打ったような微かな音がした。
柔らかい脂肪の奥にある筋肉の硬さが、そのさらに向こうにある内臓の存在が、勘違いかもしれないけれど、その時は確か
に感じられたような気がした。
しばらく瞑っていた目を開くと、盛り上ったお腹の真ん中にあるおへそが目に飛び込んできた。そっと指を入れてみると、
先輩の身体がピクンと小さく跳ねた。
驚いて顔を離し、また先輩の様子を窺う。…まだ大丈夫、寝てる…!
安堵しながら、ボクは再び先輩のお腹に頬ずりした。
存分に感触を味わい、目を開けたボクは、その視線の先にあるものに気付いて動きを止める。
トランクスが小さく、でも確かに盛り上っていた。
…これって…、先輩のオチンチンが…?
ボクが色んなところを弄ったから、意思とは無関係に勃起したのかもしれない。
…せ、先輩…。ボク…、ずっと、先輩のそこに、触ってみたいと思ってました…。
身を起こし、ゴクリと唾を飲み込み、トランクスへと手を伸ばす。
ボクの指先が盛り上がりの先端に触れた瞬間、
「ジュンペー」
先輩が呟いた。
ボクは身体を硬直させる。
…いつ、起きたんだろう?…いつから、気付いてたんだろう?
冷や汗が背中をダラダラと流れる。胸がバクバク言って、耳鳴りがした。
「情けねぇ…」
先輩の少し掠れた声が、ボクを打ちのめす。
何か喋らなくちゃ、誤魔化さなくちゃ、そう思うのに、口がパクパクと動くだけで言葉が出ない。
違うんです、違うんです先輩っ!ボク、ボク本当は、本当はこんなんじゃなく、ちゃんと先輩とっ…!
「情けねぇ先輩で…、ごめんなぁ…」
背中に当たった言葉は、意味不明だった。
ボクはおそるおそる、ゆっくりと首を巡らせ、先輩の顔を見る。
…先輩は、口を半開きにしたまま、くーくーと寝息を洩らしていた…。
ボクはほっとすると共に、全身から力が抜けてよろよろとベッドから離れ、がっくりと膝をついた。
…寝言…だったんだ…。
静かに深く呼吸して、落ち着きを取り戻す。ちらりと見ると、先輩の股間はまだ勃起しているらしく、トランクスが盛り上っ
ていた。
…あ、改めてもう一度…。ボクは先輩の股間にそっと手を伸ばし…、
…先輩、何の夢を見てるんだろう?
ボクは先輩の寝言を思い出し、内容が気になって手を止めた。
―――ジュンペー、情けねぇ先輩で…、ごめんなぁ…―――
……………。
ボクは手を引っ込め、先輩の寝顔を見る。
さっきまであどけない表情を浮かべていた寝顔は、今はなんだか…、寂しそうに見えた…。
…先輩…。…ボク…。………ごめんなさい…!
目尻に溜った涙を腕で拭い、しゃくりあげそうになるのを必死に堪え、ベッドの下に落ちていた先輩のかけ布団を拾い上げる。
布団をそっと先輩にかけてあげ、その寝顔を少し見つめた後、ボクは自分のベッドに戻って布団を被った。
…フェアじゃないよね…。先輩がボクの夢を見てくれてる間に、ボクが先輩の体を汚しちゃうのは…。
ボクは硬くなった股間を抱え込むようにして丸くなる。
…ごめんなさい…。そして、今度こそ本当に…、おやすみなさい先輩…。
「おっし、忘れ物はねぇな」
出発の準備を整えた先輩は、二日間宿泊した部屋を見回した。今日、大会を終えたボクらは東護町に帰る事になる。
「はい。たぶん大丈夫です」
「ま、忘れてる事にすら気付かねぇのが本当の忘れ物なんだろうけどな」
…一理ある…。
着替えなどを詰め込んだバッグを左肩にかけた先輩の前に立ち、ボクはドアを開けて先輩を出してあげる。
世話を焼ける事が少し嬉しかったボクに、「悪ぃ」と、先輩は照れ臭そうに笑いかけた。
「ぐっすり眠れたか?」
「え、えぇまぁ。割とぐっすり?」
「なんで疑問形なんだよ?」
ボク達は言葉を交わしながら廊下を歩いた。
「先輩こそ、ぐっすり眠れましたか?」
「おう。朝まで一回も目が覚めなかったぜ。10時間は寝たなぁ」
実は知ってます。それはもう熟睡してらっしゃいましたね…。
「…先輩、何か夢見てました?」
「ん?ん〜…、おう…」
先輩はちょっと口ごもった。それからボクの顔をちらりと見る。
「…何か様子がおかしかったのか?」
ボクの表情から何か読み取ったのか、先輩は眉を八の字にして、困ったような顔をした。
「何か寝言を言ってたみたいですよ?内容までは分からなかったですけど…、どんな夢だったんです?」
先輩は言い難そうに黙った後、
「大会の夢だ」
そう、ぼそっと呟いた。
「先輩として見せてやれる最後の試合だったのに、最後の最後で情けねぇとこ見せちまったなぁって…、そんな夢だ」
「情けないだなんてそんな…、そんな事ないですっ!全国で2位ですよ!?十分凄いじゃないですかっ!」
先輩は突然立ち止まり、ボクもつられて足を止める。
「…お前、試合の途中で、相手が怪我したらどんな気分になる?」
「え?そ、それは…」
先輩は真剣な顔つきだった。
「…嫌…ですね…」
「だろ?」
先輩はボクの目を真っ直ぐに見つめて続ける。
「柔道ってのは、相手に怪我させんのや、自分が怪我すんのを競う武道じゃねぇ。そりゃ柔道は格闘技だ。時にはちっと怪我
するぐれぇ仕方ねぇのは分かってる。でもな、俺は全国の決勝で…、お前らに見せてやれる最後の試合で…、そんな駄目な真
似をしちまったんだ。情けなくもなるぜ…」
「…先輩…」
「アルビオン…、決勝の相手な。俺が動けなくなった時、ものすげぇ哀しそうな顔してたんだよ…。俺もあいつも、あの再戦
を一年間待ち望んでたってのによ…。全国の決勝…、本当なら、どっちが勝ってどっちが負けても、肩の一つも叩きあって健
闘を称えあうとこだ。…なのに俺は、あんな幕切れにしちまったんだよ…」
「…でも…、怪我をしたのは先輩のせいじゃ…」
「じゃあ相手のせいか?」
思わずフォローを入れようとしたボクに、先輩は即座に聞き返した。
「え?そ、それは…」
「な?やっぱり俺の怪我は俺のせいなんだよ」
ボクはそれ以上何も言えず、黙り込んだ。
「…話が長くなったな…。遅れちまう。そろそろ行こうぜ」
先輩はボクを促し、再び歩き始める。
…先輩は単純なようで、物事をとても深く考えている…。離れる間際になって、ボクは改めて先輩の大きさを実感した。
…そんな大きな先輩達が抜けてできる、大きな穴…。残されたボクらにそれを埋める事は出来るんだろうか?
ボクは言葉も無く、先輩の大きな背中を見つめながら、その後ろをついて行った。
「ジュンペー、こっちだ」
先輩はエレベーターの前で立ち止まったボクを振り返る。
「え?降りないんですか?」
「その前に一箇所寄ってく。だから30分早めに準備したんだよ」
そうなんだ?先輩はいつも時間に余裕を持って行動するから、そのせいで早いのかと思ってた。
「ここだ。悪ぃけどノックしてくれるか?」
先輩はドアの前で足を止める。ボクらが泊まっていたのと同じ客室だ。
言われたとおりにノックすると、ドアが開き、イイノ主将が顔を出す。
「待ってたぞ。入ってくれ」
ここ、主将の部屋だったんだ…。でも出発間際の今になって、一体何の用事だろう?
「タヌキ。オレ達三年生は、今日をもって引退になる」
ベッドの上にあぐらをかいた主将は、そう切り出した。
ボクと先輩はもう一つのベッドの上に、主将とは向き合う形で並んで座っている。
先輩の座ったところが大きく沈み込むので、ボクはちょっと斜めに座らなければならなかった。
「明日からはお前達二年生が部を引っ張って行く事になる。そして、その二年生を纏めるのは、お前をおいて他にない。オレ
はそう思っているんだ」
「…はい…?」
完全に予想外の展開で、目を丸くした僕に、イイノ主将が微笑んだ。
「オレだけじゃない、他の三年も同じ意見だし、何よりアブクマが強くお前を推した」
横を向くと、先輩は笑みを浮かべてボクを見つめていた。
「お前に基礎を教えて貰った俺が言うのもなんだが…、お前は本当に逞しく、頼もしくなった。安心して部を任せられるって
もんだ」
「そ、そんな!ボクなんかじゃ…!」
「オレが見たところ、一年生もお前を一番慕っている。細やかな気配りができ、腕も立つ。これ以上の適任は居ないさ」
「むむむ無理ですよっ!ボクなんかに主将なんて大役、務まりっこないです!イイノ主将やオジマ先輩のようには行きませんっ!」
必死になって辞退しようとしているボクに、主将は優しく笑いかけた。
「それで良いんだよ。オレも、オジマ先輩のような、黙って背中で引っ張るような主将にはなれなかった。だからオレなりの
主将を、皆の背中を後押ししてやれる主将を目指した。…タヌキも、自分なりのやり方で主将をやってくれればそれで良い」
「そんな…、ボクなりのって、そんなのできっこないですよ…」
「ジュンペー…」
先輩はベッドの上でボクに向き直る。微かにきしみ、揺れたベッドの上で、先輩の顔は真剣そのものだった。
そして先輩は、左手をベッドの上に置き、背を丸めてボクに頭を下げた。
「…頼む。俺達の後を継いで、部を引っ張ってってくれ…」
…先輩が…、あの先輩が…、ボクに土下座を…。
「お前以上に安心して任せられるヤツは居ねぇ。何人もの後輩の中で、お前を一番信頼してる。俺達の最後のワガママだと思っ
て、聞き入れちゃくれねぇか?」
先輩は大きな体を折り曲げ、顔を伏せたまま、でもはっきりと聞こえる声でそう言った。
…先輩…。
「…分かりました。分かりましたよっ!だからもう顔を上げて下さい!なんだかもう、ボクが悪い事してるみたいじゃないで
すかっ!?」
ボクはそう言って、肩を掴んで無理矢理先輩の顔を上げさせた。
「引き受けてくれるか?」
「ずるいですよ…。そんな風にされたら、断れなくなっちゃうじゃないですか…」
期待を込めた先輩の眼差しに、ボクは苦笑で応じた。
「足りなかったらオレも土下座するつもりだったけど、やっぱりタヌキにはアブクマの土下座は効果覿面だったな」
主将は意味ありげな笑みを浮かべてそう言った。…無視無視…。
「長いようで、思い返せば短かったかもしれないな…」
主将はそう呟いて、少し寂しそうに笑みを零した。
一列に並んで正座した三年生と、ボク達…一、二年生が向かいあっている。
「本日をもって、オレ達三年生は引退となる。皆、長い間世話になった」
主将が礼をし、三年生がそれに倣う。ボク達もそれに応じて礼をした。
「では、オレの最後の仕事だ」
主将はそう言うと、ボクの顔を見つめた。
「田貫純平。本日をもって、柔道部主将に任命する」
「はい!」
ボクは胸を張り、返事をした。先輩に土下座までされたら、断れるわけがない…。
ボクはちょっと恨みを込めて先輩を見遣る。負傷した右腕を肩から吊った大柄な熊獣人は、ボクの視線に気付くと苦笑いを
浮かべた。
黙って見守っていたキダ先生が、笑みを浮かべて口を開く。
「さぁ、タヌキ新主将、挨拶しろ」
ボクは立ち上がって咳払いすると、背筋を伸ばして宣言した。
「え〜…、この度主将となりました…、タヌキです…。至らないところも多いかと思いますが…、先輩達の残したこの部の看
板を汚す事のないよう、誠心、誠意、尽くさせて頂きます!だから皆!協力をお願いしますっ!」
頭を下げたボクに、皆からの拍手が浴びせられた。
…結局、ダイスケの言うとおり、ボクが主将になっちゃった…。
恨みますよ先輩っ!
「こうやって一緒に帰んのも、今日で最後だな」
帰り道、並んで歩きながら、先輩は感慨深そうにそう呟いた。
追試の時以来、先輩は別で帰る事が多くなってたから、実は二人で帰るのは久しぶりだった。
「たまには、遊びに来て下さいね?ウチにも、道場にも…」
「ああ。ジョギングは続けてくつもりだし、しばらくは世話になるだろな」
先輩はそう言ってから、忌々しげに右腕を見つめた。
「…その前にこの腕をさっさと治さねぇとな。まったく、利き腕一本使えねぇだけで、飯から風呂、便所まで不自由するもん
だとは思わなかったぜ」
あまりにも深刻な顔で呟くものだから、ボクは思わず吹き出した。…そういえば、熊獣人は殆どが左利きって話だけど(実
際、ダイスケもアルビオン選手も左利きだった)先輩は珍しく右利きだ。
「チャック閉める時は気をつけて下さいね?…って、そうそう挟まないか…」
「なんか引っかかる言い方だなおい?」
先輩はボクを軽く睨む。失言失言…。
「…先輩、ボク…、いや」
ボクは言いかけ、そして言葉を飲み込んだ。
そして、力を込めて言い直す。部を去る先輩が、少しでも安心できるように。
「オレ、きっと来年も全国に行きます!」
オレは、決意を込めて先輩に宣言した。
先輩は、一瞬驚いたようにオレの顔を見つめた後、
「…おう!」
嬉しそうに、満面の笑みを浮かべてくれた…。