第十六話 「ダイスケの涙」
オレの名前は田貫純平。東護中二年生で、柔道部の…、え〜と、一応主将…。名字のとおりの狸獣人。
引退した先輩方に代わって柔道部を率いる事になったんだけど、これがまたしばらくは大変だった…。
中体連が終わって先輩方が居なくなったとたん、皆気が抜けちゃったのか、集合も遅くなってたし、掃除も心なしかだらけ
始めてた。
そんな時だった、様子が気になったのか、久しぶりにサツキ先輩が来てくれたのは!
先輩が顔を出したその日、皆は久しぶりに緊張を取り戻してくれた。
先輩は久しぶりに稽古に参加して汗を流すと、これからもちょくちょく顔を出しに来ると約束してくれた。
久しぶりに一緒に帰ることができたけど…、何故か他の部員達もワラワラとついて来た。う〜ん、二人っきりで帰りたかっ
たんだけどなぁ…。
…それにしても、ちょっと見なかった間に、先輩、ぱっと見にも分かるくらい太った。ますますナイスバディになったなぁ…。
「…あれ?」
灯りの消えている道場の前で、オレは足を止めた。
ここはオレがいつも稽古後にやって来る、お寺の敷地内にあるカワグチ先生の道場だ。…今日、休みだったっけ?
首を捻っていると、後ろの方で砂利を踏む足音がした。
振り返ると、暗がりの中に大きな黒い影が見える。
「ジュンペー?」
電柱に備え付けられた灯りの下に姿を現したのは、黒い熊の獣人。強豪、南華中の主将にしてオレの友人、球磨宮大輔だ。
口周り以外の全身が黒い事と、南華の制服が黒い事もあり、暗がりに立っていると本当に影にしか見えない。
「ダイスケ?今日は道場休みだったのかい?」
「いや、オイラも何も聞いてないぞ?」
ダイスケも灯りのついていない道場を前に、首を傾げた。
「住職さんに聞いてみる」
ダイスケはそう言うと、オレを残してお寺の本堂の方へと回って行った。
しばらくして戻ってきたダイスケは、残念そうに口を開いた。
「今日、先生体調悪くて、休みにしたって」
「そうなんだ…。そういえば、ずっと咳が収まらないもんな…」
「…うん…」
ダイスケは心配そうに頷いた。
それにしても、先生の咳は本当にしつこい。梅雨明け頃に風邪を引いてからというもの、時折咳き込む日がずっと続いてい
る。それも、治まるどころか日に日に酷くなっているような…。
「どうする?今日、真っ直ぐ帰るか?それとも、飯でも食ってく?」
ダイスケがそう聞いてきたので、少し考えた後、夕飯を一緒に食べて行く事にした。
「主将になって、初めてダイスケの気持ちが分かったよ」
ファーストフード店に入った後、オレはサツキ先輩が久しぶりに稽古に来てくれた事を話して、苦笑いした。
「だろ?先輩方が居たときは、気楽で良かった」
ダイスケは口元を綻ばせて頷く。オレが主将に任命された当初は、散々他人事としてからかってきた事もあって、「そらみ
ろ!」って言われたよ…。
ダイスケは素朴で真面目、稽古熱心で柔道も強い。主将向きだと思うけれど、口下手で喋ること自体が苦手だから結構大変
らしい。
一緒に稽古してるから分かるけど、春までの無理な減量をしてた頃と違い、今のダイスケはだいぶ幅が出て、先輩のような
どっしりとした体付きになって来ている。
今でもオレとは結構体格差があるけど…、その内、組み合って試合形式の稽古をするのも厳しくなってくるだろうなぁ…。
「どうしたジュンペー?考え事?」
「うん。ダイスケ、最近太ったよね?」
「…そうか?」
遠慮なく言ったオレに、ダイスケは自分の体を見下ろし、制服の上から脇腹を摘んだ。
「先輩ほどじゃないけど、近い体形になってきたと思う」
「う〜ん、オイラ、アブクマ先輩ほど上背無いからな。少し絞った方がいいかな?」
手元のダブルバーガーを見つめて真剣な顔で考えるダイスケに、オレは思わず吹き出した。
「リミットさえ越えなきゃ良いんじゃない?今のほうがかわいいよ」
「…か、かわいい?」
驚いたような顔をしているダイスケ。…しまった!つい本音が…。
「あ、そのっ…!コロコロしてた方がヌイグルミみたいでかわいいんじゃないかな!?」
「そ、そうかな…?」
慌てて誤魔化すと、ダイスケは恥ずかしそうに顔を下げ、俯き加減で頬をポリポリと掻いた。くぅっ!かわいいなぁ!
ふと時計を見ると、話に夢中になっている内にだいぶ時間が経っていた。ちょっと名残惜しいけど、オレはバス停でダイス
ケと別れ、家に帰った。
…ダイスケは確かに可愛い。先輩とはだいぶ性格が違うけど、あれはあれで好みのタイプだったりする。…ああもうっ!オ
レの浮気者!
うっかり言ってしまった「かわいい」発言に照れていたけど、…あの言葉の本当の意味に気付いたら…、オレがホモだって
事がバレたら…、ダイスケは友達じゃいてくれないだろうな…。
「あれぇ…?」
翌日の夜。またしても灯りのついていない道場の前で、オレは首を傾げた。
「あ、ジュンペー…」
声に振り向くと、ダイスケが本堂の方から歩いてくる所だった。
「先生、今日も体調悪いの?」
「うん…。今日も休みだって…」
黒熊は心配そうだ。暗がりでも、元気の無い声でそれが分かる。
「なんとも無ければいいけど…」
「…うん…」
ダイスケは元気が無い。
気持ちは解る。学校の違うオレ達が一緒に稽古できる場所は唯一ここだけだし、それにオレ達はカワグチ先生の事が大好き
なんだ。ずっと体調がすぐれなかったようだから、心配だな…。
「ジュンペー、明日は部活終わったら家に帰れ。オイラ、先生が来てるか確かめてから、家のほうに電話するから」
「う〜ん…。…じゃあ、悪いけどお願いしようかな…」
本当は、空振りだったとしてもダイスケと会えればそれで満足だったんだけど…、せっかく気を利かせてくれたんだしな…。
オレは彼の申し出に、素直に頷いた。
翌日。部活が終わって家に戻ると、ほとんど間をおかずにダイスケから電話が入った。
今日も道場は休みだったと彼は寂しそうに告げた。
「そっか、今日も駄目か…」
『…うん…。ごめん…』
「なんでダイスケが謝るんだよ?それより、電話ありがとう」
『…うん…』
受話器を置いたオレは、ふぅっとため息を吐き出す。
ダイスケの声は、やっぱり今日も元気が無かった。
…それも当り前か…、元気が無いのは、稽古ができないとかそれだけの理由じゃない。彼は小さい頃から先生に柔道を習っ
てきた。オレなんかよりもずっと先生との付き合いが長い。心配で心配で仕方ないんだろう…。
「本当に、なんでもなければ良いんだけれど…」
オレは受話器を戻した電話を見つめながら、一人、そう呟いていた。
道場は再開しないまま、五日が過ぎた。
ベッドの上に寝転がったオレは、天井を見上げながらぼ〜っとしていた。
ゲームでもして気を紛らわせれば良いんだろうけど、どうもそんな気が起きない。
今日はまだダイスケからの電話は無い。でも、もうじき8時になるから、今日も休みだったんだろう…。
大丈夫かなぁ…、先生…。
いつのまにかうつらうつらしていたオレは、自分を呼ぶお母さんの声で身を起こした。
「ジュンペー!クマミヤ君から電話よー!」
「…!今行くっ!」
オレは部屋を飛び出し、お母さんの手から子機を受け取る。
「ダイスケ?遅かったね。今日も休みだった?」
オレの問いに、しかし答えは無かった。
「もしもし?ダイスケ?」
不思議に思ってもう一度声をかけると、受話器の向こうから、しゃくり上げる声が聞こえてきた。
「ダイスケ…?何があったの!?」
『…うっ…、じゅ、ジュンペぇ…。先生が…、先生が…、う…、お、オイラ、どうすれば…!』
「ダイスケ?落ち着いて!先生がどうしたの!?」
聞き返しながら、オレの胸の中で嫌な予感が膨れ上がった。
『…せ、先生…!先生、危ないんだって…、住職さんがっ…!』
…先生が、危ない…!?
『お、オイラ…、全然、し、知らなかっ、た…!そんなのっ…、そんなの知らなかったんだよぉっ…!』
ダイスケは涙声でしゃくりあげ続けている。
「ダイスケ!今どこ!?」
『…せ、先生がいる、病院っ…』
「場所を教えて!オレも今すぐそっちに行くから!」
オレはダイスケから病院の場所を聞き出すと、財布だけ掴んで家を飛び出した。
「…先生…」
病室のベッドには、呼吸器を取り付けられたカワグチ先生が横たわっていた。
「…やあ…、タヌキ君…。夜も遅いのに…わざわざ、来てくれたのかい…?」
先生はやつれた顔に笑みを浮かべて、途切れ途切れにそう言った。
「無理に話さないで下さい。救急車で運ばれたなんて…、ダイスケから聞いてびっくりしましたよ…」
「ははは…、済まないねぇ…」
先生は目だけを動かし、ボクの隣に立っているダイスケに視線を向けた。
「ダイスケ…、ワシは大丈夫だから、もう泣かないでおくれ…」
涙でぐしょぐしょにした顔を上げ、ダイスケは先生を見る。
「…ワシの一番弟子が…そんなに泣き虫では困るぞ…?」
「…はい…」
ダイスケは鼻を啜り上げ、頷いた。
「…来てくれて有り難う…。でも、今日はもう遅い…、二人とも、帰りなさい…」
『でもっ』
声を揃えて言いかけたオレ達に、先生は微笑んだ。
「道場、開けてやれなくて済まないね…。元気になったら、また、二人の立会いを見てやらなきゃね…」
「…はい。約束ですよ?」
「うん。先生、約束だぞ…?」
口々に言ったオレ達に、先生は笑いかけた。
「さて、少し、疲れたかな…。歳はとりたくないもんだね…。そろそろ、寝るとしようか…」
静かに目を閉じた先生を残し、オレ達は病室を出た。
外で待っていた先生の友人の住職さんが、出てきたオレ達に頷き、入れ替わりに病室に入って行った。
…先生は奥さんとお子さんを事故で亡くし、家族は居ないらしい。住職さんと檀家の方々が交代で様子を見守るそうだ。
…先生は、末期の肺ガンだったらしい…。オレが道場に通い始めた頃に判ったらしいけれど、その時にはもう手の施しよう
が無かったそうだ…。
一人病院で過ごすよりも、門下生と少しでも多くの時間を共に過ごしたい。
説得しようとした住職さんにそう言って、先生は入院を拒み、道場を開け続けてくれていた…。
…オレは…、あんなにお世話になったのに…、何も知らなかった…。
…先生は…夜明けを待たずに亡くなった…。
眠るように穏やかな最期で、その顔にはいつも絶やさなかった笑みが浮かんでいた。
…命を奪った病魔ですらも、先生が常に絶やさなかった微笑みを奪う事は、ついにできなかったんだ…。
そして初七日。先生が亡くなってから、慌しく一週間が過ぎた。
お墓の前で手を合わせていたオレは、立ち上がって振り返る。
ダイスケが、そこに立っていた。
彼が来た事は、砂利を踏みしだく音で気付いていた。
オレが場所を空けると、ダイスケは無言のまま軽く頭を下げ、オレと入れ替わりにお墓の前で屈みこんだ。
線香をあげ、手を合わせる。
先生に何かを祈っているのか、それとも何かを語りかけているのか、長く、長く手を合わせた後、ダイスケは立ち上がった。
…やつれたな…、ダイスケ…。あまり眠れていないんじゃないだろうか…。閉じた目が少し落ち窪んでる…。
ダイスケはしばらくお墓を見つめた後、ぽつりと洩らす。
「オイラ…。約束守れなかった…」
オレは言葉を挟まず、無言でダイスケの背中を見つめた。
「全国大会行って活躍するから…、必ず準決勝より上まで行くから…、そしたら、他の門下生と一緒に、皆で、道場で、テレ
ビで、応援して…くれっ…て…。そう、約束した…」
ダイスケは小さく肩を震わせながら、震える声で言った。
「オイラが…、オイラが今年、全国にっ、行けてれば…、先生に、テレビで、見てもらえたのにっ…」
「…ダイスケ…」
「オイ、ラっ…な、何もっ!何、もっ!恩返し、で、できな、かっ…、う、うぐぅっ…!」
ダイスケはお墓の前でがっくりと座り込み、涙をボロボロと零し始めた。
オレは、かける言葉が見付からず、ただただ、泣き崩れたダイスケを見下ろしていた。
「ダイスケ」
結局、かけるべき言葉が見付からなかったオレは、ダイスケの傍らに屈み、今は何故かとても小さく見える、大きな体を抱
き締めた。
「…じゅ、ジュンペー…、オイラ…、オイラっ…!」
「何も言わなくて良いよダイスケ…。我慢する事なんか無い。泣きたいだけ泣けば良いさ。そして、泣くだけ泣いたら、いつ
ものダイスケに戻ってよ…。ね…?」
「じゅ、じゅんぺっ…、じゅんぺぇ…、う、うぐっ…、うあぁぁぁぁぁああん!」
ダイスケはオレに縋りつき、声を張り上げて、子供のように泣き出した。
「うあああぁぁぁぁん!ひぐっ!うっ、ううっ!うぁあああああっ!うわぁぁあああああん!!!」
きつく抱きしめながら、オレの頬も涙でぐしょぐしょに濡れていた。
…先生…。聞こえてますか?ダイスケは、貴方の一番弟子は、こんなにも貴方の事を慕っていたんですよ…。
ダイスケの泣き声が昇って行く、秋晴れの空を見上げながら、オレは心の中で、あの優しかった先生に語りかけていた…。
泣き止んだダイスケを促し、オレは道場の玄関前、コンクリートのたたきの上に腰を降ろした。
買ってきた缶コーヒーを差し出すと、ダイスケはぼそっと、「ありがと…」と呟いた。彼はまだ時々鼻を啜り上げ、目を擦っ
ている。
オレは缶のタブを開け、苦いコーヒーを口に含む。そして秋晴れの空をぼ〜っと見あげた。
…これから、どうすれば良いんだろう?もう、この道場で子供達の稽古を見てあげたり、カワグチ先生に見てもらいながら、
ダイスケと稽古をしたりする事はできないんだ…。
…柔道を続ける最大の目標を失って、ダイスケは、立ち直れるだろうか…?
「…ごめん…」
ダイスケがぼそっと呟き、オレは視線を空から彼に移す。
「情けないとこ…、見せたな…」
「気にしない気にしない!」
ダイスケはしょぼくれた様子で言った。オレは笑みを浮かべて応じる。
「ねぇダイスケ。これからどうするんだい?道場、閉まっちゃうんだろ?」
「…道場は、しばらくこのままにしとくって住職さんが言ってた。だから、基礎トレだけでも、やりに来ようかと思ってる…」
その言葉に、オレは心の底から安堵した。道場が使わせて貰える。ダイスケはまだ、柔道を止める気はないらしい。
大きな物を失った傷が癒えるまでは、しばらくかかるかもしれない。いや、もしかしたらずっと傷痕は残るのかもしれない。
でもきっと、ダイスケはここに来る。一人でだって来続ける。それなら、オレだって…。
「そっか。なら、オレも使わせてもらえる内は通おう」
「え?でも、見てくれる先生は、もう…」
少し驚いたような顔で言ったダイスケに、オレは笑いかけた。
こんなオレでも、一緒に居れば少しは気が紛れるだろう。ダイスケを独りっきりで放っておけるはずなんてないよ…。だっ
てダイスケは、オレの大切な…、
「ダイスケと稽古できるなら、それで良いよ。それに、ここでなら先生も見守っててくれそうだしね。それとも、オレと二人っきりは嫌かい?」
「…!…う、ううんっ!そんな事ないっ…!」
慌てたように言ったダイスケの顔に、オレは手を伸ばした。そして、両方のほっぺたを掴む。
「い、いひゃいお!ひゅんへー!」
「ほらほら笑顔!やる事決まったんだし、いつまでもくよくよしてたら先生も安心できないぞ?」
「…ん、んん…」
「笑わないならこうだ!無理矢理笑わせるから!」
オレがほっぺたを左右にグニッと引っ張ると、ダイスケは、
「いひゃい、いひゃい、いひゃいっ!わふぁっは!わふぁっはふぁら!」
と、痛いと分かったを繰り返した。
手を放すと、ダイスケは頬を押さえ、恨みがましい目でオレを見つめた。
「まだ笑わないなら、もっかいやるよ?」
「わ、笑うって…」
ダイスケはそう言うと、無理矢理に笑顔を作って見せた。口元は笑みの形だけど、目はぎっと瞑られ、目尻に涙が光ってい
る。完全に泣き笑いの顔だ。
…今はそれでも良い。その内に、本当に笑えるようになってくれれば…。
勝手だけど、ずっと笑顔を見れなかったここ一週間、オレはダイスケまでがどこかに行っちゃってたように感じてたんだ…。
「さあ、そろそろ帰ろう!練習再開する時はまた連絡ちょうだい?すぐに飛んでくるからさ!」
「う、うん…」
オレが立ち上がってそう告げると、頷いてからダイスケも立ち上がった。そして、もじもじしながら俯く。
「きょ、今日は…ごめん…。…それと…、その…」
ダイスケは視線を足元に向けたまま、すごく小さな声で呟いた。
「…優しく、してくれて…、ありがと…」
もじもじと、恥ずかしそうにそう言ったダイスケの姿に、…胸がキュンとした…。
「う、ううん!大した事、してないし…!」
ドギマギしながらそう答えた後、オレはダイスケに背を向けた。
「じゃあ、連絡、待ってるから。またね!」
「う、うん…!また…!」
ダイスケの声は、少しだけ元気を取り戻していたようだった。
オレは背中にダイスケの視線を感じながら、足早に砂利の上を歩き、立ち去った。
ドキドキと高鳴っている胸に、手を当てたまま…。