第一話 「ちょっとした縁」

「一本!」

畳を打った音と、審判の声で、場内が歓声に沸き返る。

道着の乱れを直し、対戦相手に一礼したのは茶色い被毛の熊獣人。部内最強の男、我等が柔道部副主将の阿武隈沙月(あぶ

くまさつき)先輩だ。

中体連予選準決勝、強豪、三河中の主将を相手に、豪快な背負い投げで見事一本勝ち!

昨年は全国大会にまで進出したアブクマ先輩の強さは、はっきり言って地区内では桁外れ、あっさり決めた今の試合で、県

大会行きの切符をもぎ取った。

「お見事でした先輩っ!」

「ありがとよ、ジュンペー!」

二年生の田貫純平(たぬきじゅんぺい)先輩が、戻ってきた先輩を迎え、ハイタッチする。

タヌキ先輩は名字の通りの狸獣人。柔道も強く、明るくてきさく、おまけに面倒見も良く、一年生に一番懐かれている先輩だ。

「かっこいいよなぁ。先輩達…」

思わずおれが漏らした呟きに、傍らに立っていた牛獣人が頷く。

おれはちらりと、緊張した視線を試合場に向けているそいつの横顔を盗み見る。

大柄な体に柔道着が良く似合うこの一年は、おれと同じクラスの小牛田元(こごたげん)。黒い毛色の牛獣人で、図体に反

して気が小さい。今年の春から柔道を始めたばかりだが、恵まれた体に努力家な性格も手伝って、今じゃ期待の新人だ。

元々スポーツに興味が有った訳でもなく、柔道の経験も無かったこいつを柔道部に引っ張り込んだのは他でもないおれだ。

同じクラスだからっていうのもあったし、ちょっとした縁もあって仲良くなり、誘ってみたんだけど…。…才能…有ったんだ

ろうな…。

おれはゲンから視線を剥がし、颯爽と試合場に進み出る猪獣人、飯野正行(いいのまさゆき)主将の後姿を見送った。



おれは上原犬彦(うえはらいぬひこ)。東護中一年生で、成績は中の上、スポーツはたいがい得意。柔道部所属だ。

 柔道歴は4年。自分で言うのもなんだが、一年生の中じゃ実力はトップ。…そんなおれにも悩みがある。それは…、

「…ね、ね!ウエハラ君ってさ、可愛いよねぇ!」

昼休み、学食から帰ってきたおれの耳に、クラスの女子の会話が飛び込んできた。

半開きになった教室の扉から、本人がここに居るとも知らずに続けられる会話の内容が流れ出てくる。

「小さくてさ!」

「うんうん!顔立ちも子供っぽいしぃ」

「なんか弟みたい!」

「ウチの弟なんか、最近身長伸びて可愛くなくなってさ!高校生かってのお前は!あー!あの子みたいな弟欲しいなぁ!」

…おれはあんたの弟さんの身長が欲しいよ…。

教室の扉の脇で壁に手を付き、俺は項垂れてため息をついた。

…そう。この身長の低さが俺の悩み…。

ウチは五人全員が秋田犬の犬ファミリーだ。秋田犬って言えば、あんたはどんなのを想像する?

赤茶っぽいふかふかな毛?うんうん。

骨太な体?ふんふん。

ガタイが良い?そうだろそうだろ。

え?でかい?…うん、まぁ、普通はそう…だな…。

…でもおれは…、…ちっこい…。

確かに赤茶色の被毛だし、そこそこ骨太の筋肉質な体をしてる。両親から受け継いだ特徴だ。実際父親も二人の兄も背が高

く、がっちりしてる。

…なのにおれは…、縦横の比率をそのままに縮小コピーしたようにちっこい…。

「ど、どうしたのウエハラ君?具合でも悪いの?」

顔を上げると、同じく学食帰りのゲンが俺を見下ろし、おろおろしていた。

「……………」

おれは口を開かずににゲンから離れ、松葉杖を突きながら教室に入った。俺に気付いた女子が話を中断し、別の話題に移る。

ゲンはしばらく俺を見つめていたようだが、おれは気付かないふりをした。

あいつはやがて、肩を落としてしょんぼりと自分の席に向かった。前の方の席についたゲンが、大きな体を小さくして、た

め息をついたのが見えた。

おれはゲンが大嫌いだ。

…でも…最初から嫌いだった訳じゃない。そう、最初は…。



「やっべ!遅刻するぅー!」

おれは入学祝いに買ってもらったばかりの腕時計に目をやり、ラストスパートをかけた。

入学式からまだ二日だっていうのに、遅刻はまずい!まだ馴れてない先生達に悪いイメージを植えつける!

残り約500メーター!次のT字路を曲がれば、校門まで一直線だ!間に合うか!?

買ったばかりで真新しい靴の底を、アスファルトでザリザリ磨り減らしつつ減速して、おれはT字路に侵入し…、

「うおっ!?」

「わぁっ!?」

横から勢い良く飛び出して来た誰かと激突し、ひっくり返った。同時に手から離れた鞄が、中身を盛大に吐き出す。

急ぐあまりに、鞄の蓋をしっかり閉めてなかったのが災いした…。

路上に散らばった教科書やノートを慌てて拾い集めると、おれの前で誰かが屈み込んだ。

おれはそこで初めて、激突した相手を確認する。大柄な黒い牛獣人が、幼さの残る顔に済まなそうな表情を浮かべていた。

…こいつ、同じクラスの…、確かコゴタっていったな。

「ごっ、ごめんね?急いでいたから、良く確認しないで飛び出しちゃって…」

「良いって、お互い様だよ。ってか、手伝わなくて良いから早く行け!遅れるぞ!」

「でも…」

コゴタは顔を上げ、視線を校門に向ける。鐘が鳴る中、僅か直線400メートル先で、遅れそうになった生徒を呑み込みな

がら、校門が閉じて行く…。

校門の所に居るのは、ジャージを着た気の強そうな眼鏡美人、数学の木田先生だった。先輩方の誰一人として歯向えない、

凄く厳しい先生だと聞いている。

一瞬、こちらを見たキダ先生と、おれ達の目が合った。

キダ先生は表情を険しくした後、一度校舎を振り返り、それからまたおれ達の方を見て、チョイチョイと小さく手招きした。

校門は、人が横向きになって通れる隙間だけ開けられている!

「急げ!先生見逃してくれるみたいだ!」

「う、うん!」

コゴタは頷きながらも、おれの荷物を拾い集める手を止めはしなかった。義理堅いっていうか、良いヤツだけど、そんなん

じゃ損するぞお前?

拾い集めた荷物を鞄にしまう間も惜しんで、それぞれの腕に抱えたまま、俺達は校門へとダッシュした。

「どうも、助かります…」

「あ、ありがとうございます先生…」

門の隙間を通り抜けたおれ達が会釈すると、キダ先生はおれ達に視線を向けぬまま門を閉めつつ、

「見逃すのは今回限りだ。次は無いからそう思えよ?一年坊」

口元に微かな笑みを浮かべてそう言った。

うわぁ…、かっこいい…!



「さっきは助かったぜ」

ホームルーム後。コゴタの席に行き、そう言って軽く頭を下げたら、あいつは困ったような照れているような半笑いを浮かべた。

「う、ううん。どこか痛めたりしなかった?ぼく、どんくさいから避けそこなっちゃって…、ごめんね?」

「ゴメンはお互い様だって。でもまぁ、ぶつかった瞬間は車にでもはねられたかと思った」

そう言いながら、俺はコゴタを改めて見る。

黒い毛に覆われた骨太の体。少し太り気味だが、上背もかなりある。おれから見れば羨ましいほど良いガタイをしてるな…。

「コゴタってさ、何かスポーツやってるのか?」

「え?何もやってないけど…」

「何かやった経験は?」

「うーん…。かなづち克服のために、スイミングスクールに少し通ったくらいかな…」

コゴタは少し考えた後にそう答え、何でそんな事を聞くのかとでも言いたげに、俺の顔を見た。

「俺は四年前から柔道やってる」

「へぇ。ウエハラ君、柔道家なんだ?」

おいおい、おれ達中学に入ったばかりの子供だぞ?柔道家とか言われるようなそんな大したもんじゃないって。…でもまぁ、

感心したようにキラキラした目で見つめられると、まんざらでもない気分かも。

「部活も柔道部に入るつもりなんだ。コゴタは入る部活決まってるのか?」

「ううん。ぼくは特に運動部に入るつもりも無いから…」

…勿体ないな…。体付きは良いし、おれを簡単に跳ね飛ばしたんだから足腰もそうとう強いし、柔道とか向いてるんじゃな

いか?…あ!

「そうだ!一緒に柔道部入らないか?うん、我ながら名案だ!」

「え?」

俺の提案にコゴタは目を丸くする。

「どうだろ?一緒に柔道やってみないか?無理にとは言わないけど、仮入部期間は見学だけでもオーケーみたいだし…」

「…ぼく、あんまり運動神経良くないんだ…」

「だからまず見学だけでも良いって。正直な事言うと、おれも一人で見学に行くの、少し不安だったんだ。付き合ってくれる

だけでも良いからさ。な?」

コゴタはしばらく「うーん…」と唸って考えた後、

「そういう事なら、見学だけ…」

と、しぶしぶ頷いた。

…少しは期待していたが、コゴタは見学したその日の内に入部を決めた。

あんなにもすんなり入部を決めるなんて思ってもみなかったから、少し驚いたっけ…。



「お?似合ってるぞゲン、強そうだ!」

「そ、そうかな?」

真新しい道着を着たゲンは、更衣室の鏡の前で自分の姿を確認し、照れたような顔で笑った。ガタイは良いがまだまだ子供、

笑うと随分幼く見える。って、おれとタメだった。

ゲンは入部を決めた日のうちに両親を説得し、三日後には柔道着を用意して来た。中学に入ってから柔道を始めた一年は多

い。未経験者の中では、ゲンの稽古参加スタートは一番早かった。

最初はあまり乗り気じゃない様子だったのに、なんだってここまでやる気を出したのか、この時のおれには全く分からなかっ

たし、深く考えもしなかった。

「はいはーい!ちゅうもーっく!」

おれ達一年生が二人で組みになってストレッチと筋トレをしていると、乱取りをしている先輩達の中から抜け出し、二年の

タヌキ先輩が手を叩きながら言った。

「ストレッチと筋トレだけじゃ飽きるよねぇ。…って訳で、いきなりだけど、一年生同士の模擬戦行きまーす!」

ちょちょちょ、無理ですよ無理!未経験者はまだ受け身の練習もしてないのに!

さすがに不安げにおれを見るゲン。他のジャージを着た未経験者も、一様に不安を隠せないでいる。

「こらこらタヌキ。ちゃんと説明しないと駄目じゃないか。皆不安がっているぞ?」

緊張を和らげる穏やかなバリトンボイス。

皆が向けた視線の先、こちらに歩み寄って来たのは、いかつい顔に柔らかい笑みを浮かべた猪獣人。主将のイイノ先輩だ。

「あ〜、初心者ならそうですよね?済みません」

優しくたしなめられたタヌキ先輩は、苦笑いしながらおれ達に向き直った。

「模擬戦って言っても、本格的なものじゃないんだ。グラウンドで組み合う…、つまりは寝技オンリーの組み手だよ。相手と

組み合うっていう、柔道独特の雰囲気から覚えて貰おうって訳」

ああなるほど。それならあまり危なくもないし、受け身が出来ていなくても大丈夫だ。

納得した全員の顔から硬さが抜ける。やっぱり皆、投げ飛ばされたり、倒されたりといった、痛い目に遭うイメージを抱い

たらしい。

「ルールは簡単。制限時間は一試合一分。舞台は畳二枚分。経験者と未経験者で組んで、経験者は押さえ込む、未経験者はそ

れから逃げる、押さえ込めば経験者の勝ちで、逃げ切れれば未経験者の勝ち。こういうルールでやる。ただし、経験者は膝立

ちのままで、畳から両膝を同時に上げては駄目。未経験者は中腰までオーケー。つまりこれがハンデだ。あまり気張らずゲー

ム感覚でやってみてほしい。楽しんで打ち込む事も、上達への近道の一つだからね」

イイノ主将は丁寧にそう説明してくれた。確かに、中腰と膝立ちでは力の入れ方に大きく差が出る。逃げるだけなら未経験

者でもできるし、経験者も常に膝立ちのままでは押さえ込みに入るのは難しい。妥当なハンデだ。

「審判はタヌキが務めるから、順番に一組ずつやってみて欲しい。タヌキ、怪我にだけは十分に気を付けてやってね」

「了解ですっ!」

イイノ主将が乱取りに戻ってゆくと、タヌキ先輩は何故か敬礼して見送る。

「さて、それじゃあ早速…」

タヌキ先輩は一年を見回し、やがておれ達に視線を止めた。

「じゃあウエハラとコゴタ。軽〜くやってみようか!」

「え!?」

ゲンが驚いてタヌキ先輩を見て、それからおれを見る。タヌキ先輩は軽い調子で手をパタパタと振った。

「そんなに構えなくて良いから。主将も言っていたように、まずはゲーム感覚で」

うーん…。ゲンは未経験者とはいえガタイも良いし、膝立ちで押さえ込むのは難しいな…。でも、どう攻められるか経験の

無いゲンにとっても、逃げ切るのは難しく思えているだろう。そう考えればこの組み合わせ、結構良いバランスになってるかも…。

そんな訳で、一番手に使命されたおれとゲンは、畳の上で向き合った。膝立ちのままスタートだが、ゲンは中腰になっても

良い。…こうやって向かい合うと、体格差が良く分かる。俺は63キロと、獣人としてはかなり軽い。対するゲンは100キ

ロを軽く越える。

「始めっ!」

先手必勝!ハンデもあるんだし、初心者だからって手加減はしない!タヌキ先輩の合図と同時に、おれはゲンに突っかかった。

襟を掴まれたゲンは驚いたように目を丸くする。掴みかかられる経験自体が無いんだろう。膝を上げることもすっかり頭の

中から抜けているようだ。…ああもう!世話の焼ける!

「ゲン!膝を上げて足を立てる!」

「え!…う、うんっ!」

襟を取ったおれに言われ、ゲンはようやっと右足を立てた片膝立ちになる。

「そのままじゃほら、こうして引かれれば体勢を崩されるだろ!?上げた足を前に出す!」

「こ、こう?」

「そう!でもそれじゃ横への振りに弱い」

襟を右手側に引いて揺さぶると、ゲンは腰を引いた状態で前のめりになる。

「あ、わわわっ!」

「それじゃ駄目だ!相手の引き手を良く見て、向きとタイミングを計りながら腰の重心を変える!腰を引き過ぎると踏ん張れ

ないぞ!」

「は、はいぃっ!」

ゲンはやっぱり足腰が強い。しっかり腰を入れると、少々揺さぶった程度では殆ど体勢を崩せなくなった。

おれは引く角度を微妙に変え、ゲンの耐久力を試しながら、少しずつ揺さぶりを激しくする。どうやらゲンは適応力もある

らしい、すぐに良い感じに体重移動させ、堪えられるようになった。

「うん!良い感じだぞゲン!」

「うん、良い感じだけど、そこまでね」

乗ってきたその時、タヌキ先輩がそう言った。

おれとゲンは動きを止め、揃って先輩を見る。

「一分逃げ切り。よってコゴタの勝ち〜」

…あぁっ!?

「ちょ!?せ、先輩、今のは…」

「うんうん。良い指導だった!でもまぁコゴタの勝ち〜」

「そ、そんなぁ…」

がっくりきた俺に、ゲンが済まなそうな顔を向ける。

「ははは!まぁ勝ち負けを決めるものじゃないから気にしない気にしない!それよりも良い見本になった。勝ち負けそのもの

より、そうやって教えながらやって貰えればなお良いんだ」

タヌキ先輩はそう言って褒めてくれた。まぁ、結果オーライかな?

「でも、不完全燃焼だろうから、もう一本行こうか?今のでコゴタも雰囲気は掴めただろうしね」

お?名誉挽回のチャンスっ!

おれとゲンは開始位置で再び向かい合う。悪いけど、今度は本気で行くぞ?

「始めっ!」

再びかけられた号令に、おれとゲンが同時に動く、あっさりと襟を取られながらも足を立てたゲンに対し、おれは襟を掴ん

だまま…、押すっ!

「わっ?わわわわっ!?」

引かれる事にばかり気を取られ、しっかりと腰を前に出し、後ろに体を引く体勢になっていたゲンは、ころっと簡単にひっ

くり返った。

悪く思うな!わざと教えなかった訳じゃない、さっきはまず引き合いから教え始めていただけだ!

そのまま素早くゲンの体を跨ぎ越し、起き上がる前に縦四方固めに持ち込む。体格差はあるが、押さえ込みに入った経験者

を素人が除けるのは困難だ。精一杯もがきはしているが、対処できる程度の抵抗だ、抜け出されそうにはない。

「ふっ!っく!んんっ!」

…あれ?

嫌がるような声を上げ、一生懸命もがくゲンを押さえ込みながら、おれはそれに気付いた。

…ゲンの股ぐらで、ズボンが少し盛り上がり、テントを張っている。…なんで勃起してるんだこいつ?

「そこまでー!今度はウエハラの勝ちー!」

タヌキ先輩の号令で、おれは押さえ込みを解いた。

ゲンは慌てて起き上がると、その場できちんと正座し、上目遣いにおれを見た。

もちろん柔道の作法じゃない。何してるんだこいつ?勘違いしてるのか?

「それじゃあ、こんな感じでさくさく行ってみようっ!あ、終わった順に休憩してて良いからね。ただしだらけない程度に。

あんまりだらだらしてると、大魔神みたいな怖〜い先輩がヘッドロックをかけに来るから…」

「こんな風にな」

低い声と同時に、丸太のような物凄く太い腕がタヌキ先輩の首に回され、先輩は「ぐぇっ!」と、潰れたカエルみたいな声

を漏らした。

「真面目に指導してるみてぇだから褒めに来てみりゃ、陰口叩いてやがるとはな…。お前何だ?俺と一年の間に溝でも作りに

来てんのか?」

「そ、そんな滅相もないっ!」

音もなく背後に歩み寄り、タヌキ先輩に要望通りの(?)ヘッドロックをかけた副主将、アブクマ先輩がおれ達を見回した。

「ああ、心配すんな。こんな真似すんのはこいつにだけだからよ」

丈夫そうな歯を見せてニカッと笑うと、小山のような熊獣人はタヌキ先輩の首に回した腕にギリッと力を込める。

「げぅっ!?ぎ、ギブ!ギブギブ先輩っ!もげる!首もげちゃいますって!」

腕を叩いてタップしたタヌキ先輩を解放すると、首をさする先輩を見下ろし、アブクマ先輩は腕組みをした。

「しっかし思い出すなぁ…。俺も去年の今頃は、お前とのレスリングから始めたもんな」

「レスリングって…。まぁ似てますけどね」

この先輩方は仲が良い。凄く大柄で一見恐そうなアブクマ先輩と、部のムードメーカーである快活なタヌキ先輩。タイプは

全然違うんだけどな。

「邪魔したな、続けてくれ」

「え?褒めに来てくれたんじゃないんですか?」

「ふざけろ。誰が褒めるか」

「え〜!?さっきのは冗談ですってばぁ!ちょっとサツキ先輩!?」

「知るか」

憐れっぽい声を出すタヌキ先輩にそっけなく応じ、アブクマ先輩は稽古に戻って行く。

全国出場の期待もされて、イイノ主将と二人でハードな特別メニューをこなしているのに、忙しい合間を縫って様子を見に

来てくれたようだ。

「とほほ〜…」

タヌキ先輩は大袈裟に肩を落とした後、次に組ませる二人を選びにかかった。

邪魔にならないように壁際に寄ったおれの横で、ゲンは時々おれの事をちらちらと気にしていたが、無視した。

別にズルした訳じゃないんだから怒るなよ。良いじゃないか一勝一敗なんだから。

…こんな事を考えていたおれは、ゲンがこの時本当は何を考えていたのか、ちっとも気付いちゃいなかった。