第三話 「うねる感情」

おれの膝…、靱帯の損傷は、軽くはないが重傷という訳でもなく、幸いにも手術などは必要なかった。

医者の話によれば、しばらくは通院を続けなければならないし、落ち着いたらリハビリが必要になるし、当面はギプスと松

葉杖の世話にはなるものの、一週間もすれば学校へは行っても構わないとの事だった。

だが、もちろん運動は駄目。…もちろん、部活だって駄目だ…、大会までの復帰は絶望的…。

おれは上原犬彦。東護中一年生で、柔道部所属だ。秋田犬の獣人。…密かに狙っていた中体連出場枠は、諦めるしかなくな

った…。



怪我をした四日後の夕方近く、ようやく家族の目を盗んで家を抜け出した俺は、松葉杖をついて学校へ向かった。

この数日間、歩くのさえ制限されて若干欲求不満だったので、久々の外出は新鮮だった。

怪我をして初めて健康の有り難さが分かる。なんて話を聞いてはいたが、どうやら本当だったらしいな。空気が美味い!

…それはそうと、あれは自業自得の事故だったっていうのに、ゲンのやつは自分のせいだと気にして、部活後に毎日おれの

家を訪ねては、授業内容を纏めた自分のノートのコピーや、連絡プリントを置いて行く。

親だって事故の経緯は知ってる。毎日訪ねてくるゲンに「気にするな」って言ってやっていたが、あいつはその都度小さく

なって「ごめんなさい」「済みません」を繰り返すばかりだ…。

あいつだけじゃない。おれが無理を言って勝手な真似をして、あげく怪我したばかりに、キダ先生は監督不行届とか言われ、

エコジマって言うイヤ〜な先生に叩かれまくった。

戸締まり担当のアブクマ副主将とタヌキ先輩もそうだ。現場に居合わせた訳でもないのに、厳重に注意されたそうだ。

当初はおれをかばってくれて、二人は自分達の指導のもとで稽古をさせていたと言い張ったらしいが、もちろんそんな事で

先輩方まで巻き込む訳にはいかない。

おれは自分が無理を言って道場を使った事、先輩方には更衣室に行って貰っていた事、事故が起きたのは自分一人の不注意

で、ゲンはもちろん、先生にも先輩達にも落ち度は無く、おれ以外の誰にも責任が無い事を、両親を通して学校に伝えた。

中体連を目前にしたこの大事な時期に、おれが勝手な真似をしたせいで部を掻き回してしまった…。だから何を置いてもま

ず一言、先輩達に、そして部の仲間達に謝りたかった。

まだ慣れない松葉杖を右足代わりに、悪戦苦闘しつつ学校にたどり着いたおれは、真っ直ぐに道場に向かった。…移動にだ

いぶ時間をくったな…、そろそろ稽古が始まっている時間だ。

開け放たれた入り口に近付くと、道場の中からキダ先生の声が聞こえて来た。

…名前を読み上げてる。…これは、中体連の出場メンバーの発表か?

おれが聴き始めた時には、既に団体と、個人戦に出る三年の先輩方の発表は終わったのか、二年の先輩達の名前が呼ばれて

いる。当然だがタヌキ先輩も出場メンバー入りを果たした。

…怪我さえしなきゃ、おれだってこの中に入れていたのに…。

おれは入り口の脇で壁に寄り添い、道場の中で行われている発表に耳を澄ました。

「一年生からは、コゴタ。以上だ」

……………!?

自分が呼ばれるはずだった、最後に呼ばれたその枠に入った名前を耳にして、おれの息が止まった。

「え?あ、ぼ、ぼく…ですか?でも…」

戸惑うようなゲンの声が聞こえた。

「三年の意見を参考にして熟考した結果だ。出場してみないか?」

胸の奥で、ドロッと、黒く濁った感情がうねった。

…断れよ。そこはお前の枠じゃない。おれの為の枠だったんだぞ…!?先輩方やおれを差し置いて、初心者のお前なんかが

出て良い訳がない!

キダ先生の言葉に、ゲンの返事は無かった。だが、道場内で拍手が響き、発表が終わった事を告げる。…それでおれは、ゲ

ンが、首を縦に振った事を知った。

おれは、音を立てないようにそっと道場から離れた。

…ゲン…、お前…!

ドロドロとした何かが、胸の奥で蠢いていた。

おれは結局誰にも声をかけず、学校を出た。

来るまではあんなに気分が良かったのに、帰り道は、ずっとイライラしっ放しだった。



「こんばんは。ウエハラ君」

その日も、日が暮れてから、稽古を終えたゲンがおれを訪ねて来た。

母に案内されて部屋に上がったゲンは、ここ数日では珍しく笑顔だった。

見ていると和む、穏やかな笑顔。その笑顔に、今日はイライラした。

絨毯の上に座った俺の前に正座し、ゲンは鞄からプリントと、来る途中にコンビニで取ってきたのだろうノートのコピーを

取り出す。

「遅くなってごめんね?部活長引いちゃって」

「……………」

「これ、今日のプリントと、授業内容の写し」

「……………」

「来週から英語の授業でヒアリングを始めるんだって。ちょっと楽しみだね」

「……………」

一人で喋っていたゲンは、おれが無言なのに気付き、首を傾げた。

「どうしたのウエハラ君?…傷が痛む?」

「…別に…」

おれのそっけない返答に、ゲンは黙った。あいつは少し戸惑いながら、おれの顔色を窺っていた。

しばらくの間、部屋に沈黙が落ちる。

「…今日…」

沈黙を破って口を開いたのは、ゲンの方だった。

「中体連の、出場メンバーが発表されたんだ」

…知ってる…。

「…ぼくも、その…、メンバーに選ばれたんだ…」

俯きながらボソボソと言ったゲンは、顔を上げて言った。

「ぼく、ウエハラ君の代わりに頑張るから…」

ゲンの言葉を耳にしたとたん、カッと、頭に血が昇った。

「愉快だろうな?おれが狙ってた枠に入れて」

「…え…?」

ゲンは何を言われたのか分からない様子で、目を丸くしておれを見つめた。

その澄んだ黒い目に、あどけない表情に、いつもなら見ていると安心する顔に…、ゲンの全てにムカついた。

「怪我さえしなきゃ、そこにはおれが入るはずだったんだ!お前なんかが入っていい枠じゃないんだ!」

押さえ込んでいた胸の中のドロドロは、堰を切ったように溢れ出し、止まらなくなった。

「う、ウエハラ君…」

ショックを受け、呆然としているゲンの顔が、黒いドロドロにさらに熱を持たせた。

「なんで辞退しなかったんだよ!?二年の先輩の中には、お前よりずっと相応しい選手がまだまだ居る!一年の中にだって、

お前よりも場数を踏んでる経験者が居るのに!」

「…ぼ、ぼくは…」

何か言いかけたゲンの言葉を遮り、おれの口は勝手に言葉を吐き出し続けた。

「おれの代わり!?調子に乗るな!おれの代わりが、お前なんかに務まるもんか!」

激しい口調でまくし立てるおれを前に、ゲンは、泣き出した。

「ご、ごめん、ね…。ぼく、うっウエハラ君のっ、おかげで、選ばれ…たから…、だから、お礼を、言いたく…て…」

「おれのおかげ!?おれが怪我したおかげで出場できるって!?はっ!それは良かったね!おめでとうゲン!」

「ち、ちがっ…!そんな…意味じゃ…!」

ボロボロと涙を零すゲンの泣き顔を前に、黒いドロドロは勢いを得る。

「お前はいつもそうだ。おどおどして、いかにも害の無さそうな、人の良さそうな顔をしてっ!その顔の裏で、今はおれの事

を嘲ってるんだろ!?いい気味だって思ってるんだろ!?本当は可笑しくて可笑しくて仕方ないんだろ!?はん!そりゃ滑稽

だろうさ!お前に技を教えるって先輩面して、あげくこのざまだ!嗤えよ!嗤えばいいじゃないかっ!」

…止まらない。おれの口から流れ出る言葉は、止まらない…。

「…お前が、お前があんな事言い出さなきゃ…。おれに技を教えてくれなんて言わなきゃ…、こんな事になんかならなかった

んだ…!」

ゲンの体が、ビクリと震えた。

「まったく、ついてないぜ!…それとも本当は、お前もこうなる事を望んでたのか?」

「…え…!?」

「そうか…、そうだよな…、おれ達、一緒に主将達の話を聞いてたもんな。おおかた、おれが消えれば自分が出場できるとか

考えたんだろ!?」

「そ、そんな事、思ってもないよ!」

慌てた様子で首を横に振るゲン。

「すっかり騙されてたよ。大したもんだよお前。虫も殺せないような顔して、こんな事するんだもんな!」

「…う…ウエハラ君…」

本当は分かっている。ゲンはそんな事を考えてなんかいない。おれが口にしているのは根拠のない言いがかりだ。ただゲン

を傷付ける為にだけ、自分でも信じていない事をでっち上げているだけだ。

黒いドロドロは、俺の頭の芯を痺れさせるくせに、自分でも驚くほど脳と舌の回転を速めている。

「帰れよ!」

おれは目の前に広げられていたプリントとノートのコピーを、乱暴にグシャッと掴み、ゲンの顔に向かって投げ付けた。

ひらひら舞いながら、ゆっくり落ちる紙の向こうには、真っ青になっているゲンの泣き顔…。

「帰れ!二度と家に来るなっ!」

苦労して座る位置を変え、背を向けたおれの後ろで、ゲンはしばらく、小さくしゃくりあげていた。

やがて、ゲンはもそもそと動きだし、散ったコピーとプリントを纏めていた。

「…ここに、置いておくから…」

おれは、ゲンに返事もしなかった。

ゲンは静かに立ち上がると、ドアを開けて廊下に出る。

「…ごめんね…」

ドアが閉められる寸前、ゲンの小さな、掠れた声が聞こえた…。



その日から、おれはゲンと口をきかなくなった。

週明けに登校する時、通学路で顔を合わせた。あいつは何か話しかけようと、小さく手を上げて口を開きかけたが、おれは

あいつを一睨みして黙らせ、そのまま急いで校門に向かった。

おれは徹底的にゲンを無視した。登校中に会っても、教室で顔を合わせてもだ。

ゲンは時々話しかけてくるが、おれは一言も返さなかった。それでもあいつは、控えめに声をかけてくるのを止めようとは

しなかった。

…その事が、かえっておれを苛つかせた。

部活を見学に行ったおれの目には、ゲンは身を入れて稽古をしているように見えた。

主将やタヌキ先輩に褒められていた。おれから見れば取るに足りないことで褒められて、励まされて、あいつが笑顔を浮か

べる度に、嫉妬の暗い炎がブスブスと燻った。

…そしておれは、部活にも見学に行かなくなった。



こうして、おれはゲンが大嫌いになった。

あいつの何もかもが気に食わなくなった。

ゲンの顔を見る度に、ゲンの声を聞く度に、ゲンの事を考える度に、胸の黒いドロドロが暴れ出す。

膝のリハビリにも熱は入らず、あんなに好きだった柔道も、今は見学するのさえ嫌になっていた。

どんなに真剣にリハビリをしたって、もう今年の中体連には間に合わない。そう考えたら、キツいリハビリに打ち込むのも、

なんだか馬鹿馬鹿しくなっていた。



学校に出られるようになって一週間が過ぎた頃。やっと扱いに慣れてきた松葉杖を突いて校門を出たおれに、後ろから追い

縋ったゲンが声をかけてきた。

「ウエハラ君。今日、部活休みなんだ」

おれは、やはりゲンを無視する。

「その…一緒に帰っても良い?」

「…お前と?…冗談じゃない…!」

吐き捨てて歩き出すおれに、ゲンはなおも追い縋って来た。…と言ってもおれは松葉杖だ。本当は足早に立ち去りたい所だが、普通に歩くよりもよほど遅い。

「ね、ねぇ。仲直り、してくれないかな?…きみに凄く酷い事をしちゃったのは分かってるけれど…、赦して欲しいんだ…。…

部活にも…、一緒に行きたいし…」

「……………」

「ウエハラ君と話ができないと、ぼく、寂しいよ…」

「お前が寂しいのはお前の勝手だろ!?友達でも恋人でも、勝手に作ればいいじゃないか!」

まずい。と思った時にはもう遅い。ゲンに刺激された黒いドロドロは、またおれの中の暗いものを吐き出させ始めていた。

「おれは誰のせいでこうなったんだよ!?誰のせいで部活できなくなってるんだよ!?善人面して近付くな!鬱陶しいんだよ!」

硬直したゲンに、おれはさらに言葉を投げつける。

「いちいちおれに付き纏うな!はっきり言って迷惑だ!顔も見たくないし、声も聞きたくない!一緒の空気を吸ってるのだっ

て我慢できないんだ!」

本当は、走ってその場から去りたい所だが、そうも行かない。内心の苛立ちを舌打ちに変えて、おれは杖を突いて歩き出し

た。酷い言葉を投げつけられ、泣き出しそうな顔で立ち竦んだままのゲンを残して。

ゲンの視線が背中に注がれているのを感じながら、おれは振り返る事なく、出来る限り急いでその場を離れた。

これだけ傷つけてやれば、もうおれに構わないだろう。

…そう思っていたのに、ゲンは、その翌日からも、いちいちおれに声をかけるのを、止めようとはしなかった…。



部活に出なくなって二週間が過ぎ、6月も半ばになったその日の昼休み。

おれが女子の「ウエハラ君小さくてかわいい」発言に少々ヘコんでいた所へ、ゲンは懲りずにやはり声をかけてきた。

当然ゲンを無視して教室に戻ったおれは、耳障りなクラスメートの声にイライラしながら雑誌を取りだし、視線を落とす。

内容は、雑音が邪魔になってあまり頭に入って来ない。

…最近はいつもこうだ。些細な事にイライラする…。胸の中のドロドロが、いつだって暴れ出す時をじっと待っている…。

それでも顔は上げない。顔を上げれば、あいつと目を合わせ、これ幸いと、黒いドロドロが暴れ出してしまうから。

「ウエハラ君」

横手に立った女子に名を呼ばれ、おれは顔を上げた。

「先輩が呼んでるわよ」

「先輩?」

首を巡らせると、教室の後ろのドアの向こうに、大きな熊が立っていた。

…アブクマ副主将?

おれは立ち上がり、杖を取って廊下に出る。

「悪ぃな、歩かせちまって」

「…いいえ…。それより、どうしたんですか…?」

副主将が下級生の教室辺りまで来る事は、まず無い。学食に行く時にも、少し遠回りして避けてゆく。

尾ひれが付いた色々な噂を囁かれ、自分が不良だと思い込まれている事を知っているから、下級生を怖がらせないように気

を遣っているのだと、以前タヌキ先輩がこそっと教えてくれた。

「少し話がしてぇんだが、屋上まで良いか?」

副主将の顔にはこれといって表情が浮かんでおらず、口調からも何も読み取れなかった。

…話の内容はだいたいの察しが付く。おれが部活に顔を出さない理由を問い質しに来たんだろう。

「…この足ですから、ちょっと厳しいです」

そう言って断ろうとしたが、副主将は、

「心配すんな。おぶって登ってやる」

と応じた。副主将はずっと、おれの目を真っ直ぐに見ている。何を考えているのかまでは読み取れなかったが、断る事は許

されない、そんな雰囲気が感じられた。

「分かりました。でも、自分で歩きますから…」

おれは、仕方なく副主将の言葉に従った。

物珍しげなクラスメートの視線と、おろおろしているゲンには気付いたが、もちろん無視する。

おれのペースに合わせてか、ゆっくりと歩く巨漢の後ろを、おれは一歩進む毎に気が重くなるのを感じながらついていった。