第四話 「分かるという事」

おれは上原犬彦。東護中一年生で、柔道部所属の秋田犬の獣人。現在、右膝を痛めて療養中。でも、本当にいかれてるのは、

足だけじゃないかもしれない…。

おれの心の中とは正反対に、今日も青々と晴れた空の下、おれはアブクマ副主将と並んで、屋上の手すりに背を預けた。

屋上にはおれと先輩の二人しか居ない。

「昼休みももう半分だ、手短に済ますが…」

副主将は首を巡らせておれを見下ろし、そう切り出した。

「ウエハラ。柔道が嫌いになったか?」

隣の大熊の口から出た、予想とは大いに異なる質問に、おれは一瞬黙り込んだ。

「…え?…い、いえ、そんな事は…」

むっつりと難しい顔をしていた副主将は、

「そうか。なら良いんだ。時間取らせちまって悪かったな」

と、いきなり笑顔になった。

…は?

「え?そ、それだけですか?」

「ああ。それだけだ。それとも、何か他にあんのか?」

それだけだ。って…、そんな事を聞くなら、別に廊下でも良かったんじゃ…?

「…い、いや、その…、部活に顔を出していなかったから、てっきりその事を叱られるものかと…」

おれの言葉に、副主将は肩を竦めた。

「そいつは別に良い。自分は体動かせねぇで見学だけなのに、仲間が体動かしてる。んな状況じゃあどうにも落ち着かねぇも

んだ。体育の授業の見学だってそうだしな」

「はぁ…」

「それに、コゴタと何かあって、来づらくなってんだろ?」

!!!

一瞬言葉に詰まったおれの胸で、また黒いドロドロがうねった。

…あの時、イイノ主将と更衣室で話していた時、副主将は、ゲンを推していた…。

「副主将には関係無い事です!」

あろう事か、おれは部内でも一番尊敬していた先輩に、そんな言葉を言い捨てた。

「ああ。関係ねぇな」

怒るかと思ったが、副主将は何でもないようにそう言った。

怒られればあるいは、黒いドロドロは鎮まったかもしれない。だが、副主将がそう答えた事で調子付いた。

「副主将も、おれよりゲンの方がレギュラーに相応しいと思っているんじゃないですか?」

副主将は片方の眉を上げ、問い返して来た。

「お前程の実力者が、どっちが目ぇかけられてたか、分からねぇとは思えねぇけどな?」

分かってる。良く分かってる。そんな事、言われなくたって分かってる!でも、おれが欲しいのは、そんな言葉じゃない!

「副主将に…!おれの何が分かるんですか!」

気付いた時にはもう遅い。おれは、副主将を睨み付けてそんな言葉を叩き付けていた。

言ってしまった…、殴られる!そう思った。ところが…、

「じゃあ、お前は俺の事が分かるか?」

副主将は、穏やかな口調でそう問い返して来た。怒ってはいない。それどころか、少し面白そうにおれの顔を見つめていた。

「…いいえ…、それほど、良くは…」

胸の中のドロドロは、いつの間にか、ピタリと蠢くのを止めていた。

「だろうな。それが普通だ」

副主将はそう言うと、腕組みをして空を見上げ、難しい顔をした。

「正直、俺もお前の事をそれほど良く知ってる訳じゃねぇ。コゴタの事だってそうだ。イイノはまぁ付き合いが長ぇから、そ

れなりに良く分かってるつもりだし、ジュンペーも結構付き合わせるからな、ある程度は分かってやれてるつもりだ。それで

も、俺がそのつもりだってだけだ。たぶんあいつらの事だって、何から何まで分かってやれてる訳じゃねぇ」

そして副主将はおれの顔を見る。その顔には、今までに見せた事のない、とても優しい笑みを浮かべていた。

「お前とコゴタだってそうだろ?全部分かってる訳じゃねぇ。言葉や態度なんかの行き違いや、考えが伝え切れねぇ事で話が

こじれたりもすんだろう。今お前らがどうなってんのかは分からねぇし、それについて俺からどうしろって言うつもりもねぇ。

結局のとこ、当人同士の問題だからな。先輩っつっても外野は外野だ。俺がうだうだ言っても仕方ねぇ」

副主将は咳払いし、照れたように鼻の頭を擦った。

「…まぁ、ガラにも無く長々とくっちゃべったが、分かって貰いたきゃ話せ。黙っていてぇならもちろんそれでも良い。だが

忘れんなよ?これでも一応副主将だ。俺でよけりゃあ文句でも愚痴でも、いくらでも聞いてやるからよ」

いかつい顔つきの大熊が穏やかにそう話している間に、おれの胸の中の黒いドロドロは、どこかへ行ってしまっていた。

「…おれ…」

おれは、副主将の顔を見つめながら、口を開いた。

感情にまかせて、尊敬している副主将にまで食ってかかった自分が情けなくなった…。

「副主将、ごめんなさい…。おれ…、副主将に何て口をきいたんだろう…」

「気にしてねぇから謝んな。俺も誰かにどうこう言える程、言葉遣いはなってねぇからな」

苦笑いした副主将に、おれはとにかく申し訳なくて、深く頭を下げて謝った…。



おれと副主将は、手すりに背を預けたまま、並んで座り込んだ。

そしておれは、この二週間ずっと溜め込んでいた事を、何もかも打ち明けた。

自分のせいなのに、怪我の原因をゲンのせいだと思い込もうとしていた事。

おれが入れるはずだった枠に選ばれたゲンに、嫉妬していた事。

おれの代わりに頑張ると言ってくれたのに、酷い言葉を投げつけてしまった事。

ゲンが済まなそうにしている様子も、練習に打ち込む姿も、おれに話しかけようとして来るのも、何もかも鬱陶しくて、気

に食わなかった事。

副主将に打ち明けている内に気が付いた。おれ、本当はゲンの事が嫌いなんじゃない。

ゲンを見る度、ゲンの事を考える度、自分が嫉妬に狂った嫌なヤツになっている事に気付かされていた…。おれは、それが

嫌でゲンに八つ当たりして遠ざけようとして、そしてまた自分の嫌な所を知って、どうしようもない堂々巡りになっていたんだ…。

溜め込んでいた事を話し出したら、堰を切ったように口から言葉が溢れ出して、止まらなくなった。

話している最中に鐘が鳴り、昼休みの終わりを告げたが、副主将は教室に戻るとも、おれに戻れとも言わず、じっと話を聞

いていてくれた。

「おれ、ゲンに酷い事を言っちゃいました…。本当は…、あいつは何も悪くないのに…、おれは全部ゲンのせいにして、辛さ

から…逃げようとしていたんです…」

告白しながら、おれは泣いていた。情けないけど、ベソをかきながら副主将に話を聞いて貰った。副主将は、そんなおれを

笑う事もなく、最後まで話を聞いてくれた。

「自分がこんな嫌なヤツだったなんて、知りませんでした…。そりゃあ、プライドが高くて、少しばかり柔道が強いのを鼻に

かけているところは自覚してたけど…、まさかこんな…、友達にあんな事を言えるようなヤツだったなんて…、知りませんで

した…」

項垂れて鼻をすすった俺に、黙って話を聞いていた副主将がポツリと言った。

「お前の事が、一つ分かった気がする」

顔を上げた俺は、少し驚いた。副主将は何故か、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「分かったってより、確認できたってトコだな。俺が思ってたとおり、お前は強ぇ男だ」

訳が分からず瞬きを繰り返したおれの頭を、副主将は大きな手でポンと叩いた。

「自分の汚ぇトコや、弱ぇトコってのは、誰だって認めたくねぇもんだ。お前はそいつを自覚して、こうして誰かに話せる。

お前は、俺やイイノが見込んだ通りの強ぇ男だよ」

軽蔑されるかもしれないとすら思っていたのに、副主将は、どこか誇らしそうに微笑んで、おれの顔を見つめていた。

何よりも、尊敬している副主将に「強い男」と言って貰えた事が、恥ずかしくも嬉しかった。

「う…、ううぅっ…!」

また泣き出してしまったおれを、副主将は何も言わずに、逞しい腕で優しく抱き締めてくれた。なんだか、こんな事をして

貰うのは、小さい頃に親にして貰った以来で…、恥ずかしくて、嬉しくて、そして少しドキドキした。

「…おれ、ゲンに謝らなくちゃ…。赦して、貰えますかね…?」

「コゴタも、お前に赦して貰いたがってる。きっと大丈夫だ」

おれの頭を撫でてそう言ってくれた副主将は、突然「あ」と呟くと、腕にはめているごつい時計に視線を落とした。

「済まねぇな…。もう授業が半分終わってる。もっと早くに上がってくりゃ良かった…」

そういえば、鐘が鳴ってからだいぶ経つ。副主将は困ったように顔を顰めた。

「い、いいえ!おれの方こそ、長々と話してしまって済みません…」

「そりゃ良いんだよ。問題はだな、授業サボらせちまったから、お前が先生に怒られちまうだろ?」

「え?う、う〜ん…。でも、副主将だって…」

「気にすんな。そっちはどうでも良い」

副主将は何でもないようにそう言った。…自分も怒られるだろうに…。

副主将は少し考えた後、頭をガリガリと掻いた。

「…仕方ねぇ、あんまし迷惑かけたくねぇんだけど、頼んでみるか…」



「…ってな訳で、かくまって貰えねぇっすかね?」

副主将は顔の前で拝むように手を合わせ、苦笑いしながら頭を下げた。

連れて来られたのは保健室。副主将が手を合わせている相手はビーグル犬の獣人、保健の美倉先生だ。この先生にはおれが

膝を怪我した時にも応急処置をして貰い、お世話になっている。

「良いよ。ここで休憩していた事にしよう」

微笑みながらあっさりと頷いた先生に、副主将は深々と頭を下げた。

「すんません、助かるっす。無理矢理連れ出した上に、授業サボらせて叱られるような目にまで遭わせちゃ、先輩面できなく

なっちまうとこだ」

困ったような顔で頭を掻くと、副主将は軽く手を上げた。

「んじゃ、悪ぃっすけどよろしく、ビクラ先生。じゃあなウエハラ」

「え?副主将は何処に?」

「教室に行く。今の授業数学で、キダ先生が受け持ちなんだよ…。黙ってサボったら何されるか…」

顔を顰めて出て行こうとした副主将を、ビクラ先生が呼び止めた。

「ならこうしようか。昼休みの終わり際、具合が悪くなったウエハラ君をここに連れてきたは良いが、ボクは温室のハーブを

見に行っていて留守だった。それでアブクマ君は仕方なくウエハラ君に付き添っていた。キダ先生にはそう言うと良い。口裏

は合わせるから」

副主将は目を丸くした後、苦笑いした。

「んじゃ、有り難くそうさせて貰います。恩に着るっすよ、先生」

ドアに手をかけた副主将に、おれは声をかけた。

「副主将!」

「ん?」

「あの…、おれ…、今更ですけど、今日からまた部活に行っても、良いですか?」

「おう。待ってるぜ」

副主将は口元に太い笑みを浮かべて頷くと、先生に一礼して部屋を出て行った。

「さぁて、授業が終わるまでもう少しかかるから、お茶でも一杯付き合わないかな?」

ビクラ先生はのんびりとした口調でそう言うと、白い陶器のポットを片手に優しく微笑んだ。



「ウエハラ君?」

放課後、道場の入り口を潜ったおれを、先に来ていたゲンは驚いたように見つめた。

「なんだよ。おれが来ちゃ悪いか?」

そっけなく言ったおれに、それでもゲンは少し嬉しそうな表情で、首を横に振った。

…考えてみれば、内容はともかく、ゲンと言葉を交わすなんて何日ぶりだろう?

でも…、謝らなくちゃ、…とは思っているのに、口を開けば出てくるのは憎まれ口…。

馬鹿馬鹿!おれの馬鹿!なんで素直に謝れないんだよ!

「お?ウエハラ!今日はリハビリは無いんだね?」

更衣室から出てきたタヌキ先輩が、おれを見て笑顔を浮かべた。

「え?あ、はい…」

「そっか。大変だなぁ。ここのとこ毎日リハビリだったんだって?きついんだろうから、休みの日くらい真っ直ぐ家に帰って

休めばいいのに」

「は、はぁ…、…?」

…なんだかおかしいぞ?リハビリは火、木、土の週に三日だ。毎日なんかじゃない。そもそも、そんな事を話した覚えは…。

「コゴタから逐一聞いてたよ。熱心にリハビリしてるから、すぐに復帰できるはずだって」

…!!!

おれは思わずゲンの方を見た。ゲンは三年の先輩に何か尋ねているようで、おれの視線には気付かずに、先輩の話に熱心に

頷いている。

…あいつ…、おれを庇ってくれてたのか?でも、アブクマ副主将はおれの欠席がただのサボりだって知ってたようだ。…何

がどうなってるんだ?



やがて稽古が始まり、おれは邪魔にならないよう、壁際で部員達の練習を眺めていた。

中体連も間近だ。皆の練習にも熱が入っている。

特に三年生の先輩方の熱気は凄い。先輩方にとっては、負ければそこで終わりの、最後の大会になるんだ…。

…今更だけど、中体連出場枠なんてどうでも良い…。おれも、この中に混じって、三年の先輩達と練習したかったな…。

ゲンは、おれが来なかった二十日程度の間に、見違えるように上達していた。

今はタヌキ先輩と乱取りの最中だが、先輩の機敏かつ柔軟な動きに振り回されながらも、なんとか組み付いて行っている。

ゲン自身の動きよりも、タヌキ先輩の動きで、あいつがどれだけレベルアップしたかが良く分かる。

タヌキ先輩の相手をなんとかでも務められるのは、二年生の中でも数人だけだ。なのに今ゲンは、かろうじてでもそれに食

らいついている。四月に始めたばかりとは思えない程の上達ぶりだった。

アブクマ副主将と屋上で話して以来、ずっと気分が落ち着いている。黒いドロドロまで消えてしまったようで、ゲンを見て

も嫌な感情を覚えなくなっていた。

「邪魔すんぞ?」

不意に頭の上で声がしたと思ったら、熊獣人がおれの隣にどすんと腰を降ろした。

汗を吸って重くなった道着の前を開き、バタバタやって胸元に風を入れながら、アブクマ副主将は口を開いた。

「コゴタのヤツ、強くなったろう?」

「…はい。驚きました。そして、正直ちょっと悔しいです」

素直に内心を吐露したおれに、副主将は笑みを浮かべた。

「お前が見学に来なくなった翌日だったか…、あいつ、戸締まりに残った俺が道場を出るのを、外でずっと待ってたんだ」

なんでだろう?疑問に思って副主将の顔を見つめたら、可笑しそうに笑った。

「ビックリしたぜ?「ぼくをウエハラ君みたいにしてください!」と来たもんだ」

「はぁ!?」

「お前ぐらいに強くしてくれって、そういう意味だったらしい」

…無茶苦茶だ。強くなりたいというのは分かるけど、他にももっと言いようが…。

「まぁ、教えんのが苦手な俺が鍛えたトコでたかが知れてる。それで俺の師匠でもあるタヌキに預けたんだけどな。どうやら

正解だったみてぇだ」

「そうだったんですか…」

…ん?

「タヌキ先輩が、副主将の師匠?」

「おう。…なんだよその顔?あいつに聞いてみろよ、本当だぜ?」

驚いて聞き返したおれに、副主将はそう応じた。冗談を言っている様子はない。

「コゴタのヤツな…」

副主将は声のトーンを落として言った。

「皆には、お前が毎日のリハビリで忙しくて、部活に出れねぇって話してた」

「そう…だったんですか…」

「が、どうにもあいつの様子がおかしかったんでな。ちっと問い詰めてみて、それで俺だけは事情のいくらかを知った。だか

ら他の部員達、イイノもタヌキもだし、キダ先生だって、お前はリハビリで来れなかったって思ってる。別にわざわざ言う事

はねぇから、お前も黙ってろ」

「…済みません…」

「もう気にすんな。それより、コゴタと仲直り、してやれよな?」

項垂れたおれの隣で、副主将は立ち上がった。

「さぁて、もう一踏ん張りしてくるか…!」

肩越しに軽く手を上げて見せ、歩き出した副主将の広い背中に、おれは、深々と頭を下げた…。



部活が終わり、部員達が解散し始めた頃、改めてアブクマ副主将にお礼を言って、おれは道場を出た。

靴を突っかけて外に出ると、ゲンが慌てた様子で追ってきた。

「う、ウエハラ君っ…!」

おれは足を止め、首だけ振り返る。

「あ、あの…一緒に帰っても良い?」

…仲直りのチャンスだ…!

「その…、暗いし、その足じゃ危ないし…」

もじもじと言った牛獣人に、おれは…、

「大きなお世話だ。一人で帰れる」

ああああああぁぁぁ!おれの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!

せっかくゲンの方から声をかけてきてくれたっていうのに、反射的にまた憎まれ口を!

「…じゃあ…明日な…、ゲン…」

おれは項垂れたゲンから視線を外し、背中越しに言ってそそくさと歩き出した。

「う、うん…!また、明日ね!」

ゲンの声が、歩き出した俺の背を追いかけてきた。

別れの挨拶を言えたのだけが、精一杯の救いだった。…かな…。