第六話 「大切な友達」
おれは上原犬彦。東護中一年生で、柔道部所属の秋田犬の獣人だ。
おれとゲンは地面に座り込んだまま、先輩達が何故ここにやって来たのか、ここまでの話を聞いていた。
アブクマ副主将とタヌキ先輩は、部活帰りにおれが連中とぶつかったあの商店街に、たこ焼きを買いに立ち寄ったそうだ。
そうしたら、アブクマ副主将とは顔なじみであるたこ焼き屋のおばさんが、「杖をついた東護の生徒が、とっぽい兄ちゃん
達と一緒に裏手の方へ歩いていった」と話してくれたらしい。…とっぽい兄ちゃん…?
何となく嫌な予感がした先輩達は、手分けしておれを探しに来てくれたのだ。
もしも二人が来てくれなかったら…。俯いて、小さく震えているゲンの横顔をちらりと見ながら、おれは背中に氷でも突っ
込まれたような気分になった…。
副主将が話し終えると、今度はゲンが口を開いた。
部活後、この近くにある自宅へ真っ直ぐに帰宅しようとしたゲンは、言い争うような声を耳にして、この空き地を覗き込んだ。
そうしたら俺が「恐そうな人達」に「虐められそうになっていた」のが見えた。その後はとにかく夢中で、気が付いたら飛
び込んでいたらしい。
気弱でおっとりしたこいつが見せた、飛びっきりの勇気に、おれは嬉しくも、申し訳ない気分になった…。
最後におれが、連中の一人とぶつかった事の発端から全て二人に話した。
少し長くなった話を聞き終えた副主将は、
「なんだ、原因はこっちだったのか…。ならもうちっと手加減してやりゃ良かったなぁ」
と、決まり悪そうに頭を掻いた。
「とにかく、今後は連中と会っても無視しろ。あっちももう、お前らにゃ関わろうとしねぇはずだからよ」
安心させるようにそう言った副主将に、ゲンはおずおずと声をかけた。
「あ、あの…、副主将…」
「ん?」
「…さっきは…その…、怖がったりなんかして…、済みませんでした…」
「気にすんな。お前らこそ、嫌なトコ見せちまって悪かったな。…軽蔑したろ?こんな乱暴者が副主将だったなんてよ…」
副主将は微苦笑しながら目を伏せた。…その顔は、あまりにも哀しげだった…。
今ならはっきり分かる。副主将は、本当は乱暴な事なんて好きじゃないんだ。
喧嘩が強くとも、その事をちっとも自慢になんか思ってない。むしろ、おれ達を助ける為とはいえ、暴力を振るってしまっ
た事を悲しんでいる様子だった…。
いたたまれない気持ちになる…。おれのせいで、副主将に哀しい想いをさせてしまった…。おれ、副主将に迷惑をかけてばっ
かりだ…。
「い、いえ!そんな事ないです!その…、少しは恐かったですけど、でも、やっぱり副主将の事を尊敬してますし…」
慌てて言ったゲンに、副主将は微かに笑みを浮かべた。
「ありがとよ。そう言って貰えたら、少しは気が楽になった」
それから副主将は、おれに視線を向けた。
「仲直り、できそうか?」
「…はい。おれ、こんな事になって、やっと分かりました…」
おれは副主将に頷き、それからゲンをちらっと見る。
「おれ、ゲンに嫉妬して、大切な事が見えなくなってたんです…。おれが怪我をした事で、ゲンがどれだけ傷ついたか…、ど
れだけ責任に思い込んでたか…、ゲンは、本当は何も悪くないのに…。なのにおれは…、ゲンを、自分の辛さのはけ口にして
…、おれは…」
「ストップ」
副主将はおれの言葉を遮ると、くるっと背を向けた。
「ちっと立ちションしてくる」
えぇぇぇぇぇぇ!?このタイミングでぇぇぇぇ!?
思わず口をあんぐりと開けたおれを肩越しに振り返り、副主将はニヤリと笑った。
「そいつは俺に言う事じゃねぇだろ?せっかく相手が目の前に居るんだ。直接言ってやれ」
副主将はそのまま、のっしのっしと広場を出て行った。
…そうだ。おれはまた気付かない内に、副主将に打ち明ける形で、ゲンへの謝罪をうやむやの内に済ませようとしていた…。
…副主将、気を遣ってくれたんだな…。とはいえ…、
二人だけ取り残されたおれとゲンは、隣り合って地面に座ったまま、黙り込んだ。
…い、言い出し辛い…。
「…その…。ゲン…」
「う、うん…」
何て言う?何て切り出そう?何て言って謝れば、赦して貰えるだろう?
「…ごめん…」
おれは俯き、ごもごもと呟く。
…悩んだあげくに出た言葉は、結局その一言だった…。後の言葉が、続かない…。
「ぼくこそ、ごめんね…。助けに入っても、結局何の役にも立たなくて…、情けないね、あはは…」
ゲンが項垂れながら、力なく笑った。
「そんな事無い!ゲンは立派だった!」
おれは顔を上げ、ゲンを見た。
「ゲンは、あんな酷い事を言ったおれを、体を張って助けてくれた…!なのに、おれは…」
言いながら、おれの目から涙が溢れてきた。
「ごっ、ごめん…!ごめんよゲン…!お前はこんなに優しいのにっ…!こんなに良いヤツなのにっ…!おれ、お前に嫉妬して、
八つ当たりしてたんだっ!本当は全部…、全部おれが悪かったのにっ…!」
溢れ出た言葉と涙は、止まらなくなった。
「ごめんよ…!ごめんよゲン!本当に、本当にごめんよぉ!」
「そ、そんな、泣かないでよウエハラ君!泣かれたら、ぼ、ぼくまで…」
ゲンはおろおろとしながらおれを見つめ、やがて泣き出してしまった。
「うぅっ…!ごめんよ、ごめんよゲン…!ぐうぅぅっ…!」
「ぐすっ…、ぼくこそごめんね?うっ…、ごめんねウエハラ君…!う、うあぁぁぁん!」
おれ達はいつしか抱き合って、小さな子供のように、声を上げて泣きじゃくっていた。
泣きやんだ後もしっかり抱き合ったまま、おれ達はお互いの肩に顎を乗せ、ぴったりとくっついていた。
「ごめんな、ゲン…。痛かったろ?」
おれは、やつらにしこたま蹴られていたゲンの脇腹に触れ、そっとさする。
「ううん。あんまり…。きっとあの人達、ぼくがあんまり怖がっていたから、可愛そうになって手加減してくれたんだよ…」
もちろん嘘だ。ゲンはおれを気遣って、痛くないように振る舞おうとしているんだ。その証拠に、少し強めに触れただけで、
ゲンの体は硬くなる…。
少し肉がついた柔らかい脇腹の奥には、みっしりと筋肉が詰め込まれているのが制服越しでも分かった。
入部したての頃は、もっとプニプニしていたっけな…。ここ数ヶ月の厳しい稽古でついた筋肉は、ゲンの弛まぬ努力の証だ…。
ゲンは、おれの代わりにと、無様な試合をしないようにと、ずっと頑張ってくれていたんだ…。
「なぁ、ゲン…」
「…うん…?」
ゲンの肩に顎を乗せながら、おれはゲンに尋ねた。
「お前、あいつらが恐くなかったのか?」
「恐かったよ…。今でもほら、思い出すとまだ震えが来るもん…」
ゲンの肩が小さく震えた。…当たり前だよな…。
「おれも…、恐かった…」
口にするなら死んだ方がマシだ。少し前のおれならそう思っていただろうセリフを、おれはゲンに囁いた。
「おまえに何かあったらどうしようって、そう考えたら、恐くて、恐くて、仕方なかった」
ゲンは、俺を抱き締める腕に、少し力を入れた。
「…ごめん…、こんな時になんだけど、ちょっと、嬉しい…」
ゲンの声が、また泣き出しそうに震えていた。
「ウエハラ君…」
「ん?」
「赦して…くれる?」
おれは少し黙った後、
「それは無理」
と言ってやった。
ビクンと身を震わせたゲンを、おれはぎゅっと抱き締める。
「だって、お前はおれに赦して貰わなきゃならないような事、何一つしてないじゃないか」
温かいゲンの体を抱き締めたまま、おれは言葉を次いだ。
「ゲン…。おれの方こそ、赦して貰えるかな?ゲンが赦してくれるなら、おれ…」
「じゃあ、仲直りだね?」
ゲンはおれに全部まで言わせず、少し嬉しそうにそう言ってくれた。
「…ごめん…。有り難う。ゲン…!」
ゲンと抱き合ったまま、おれは安心するような感覚と、それでいて不安になるような胸の高鳴りを感じて、初めて味わう妙
な気分になっていた。
おれがゲンに赦して貰え、仲直りできた後、まるで機会を窺っていたように先輩達が戻って来た。…というより、たぶんお
れ達の話が終わるのを待っていてくれたんだろう…。
「コゴタ、立てるか?」
「あ、はい、大丈夫です」
手を貸そうとしたアブクマ副主将にそう応じ、立ち上がろうとしたゲンは、「うっ」と呻いて口元を押さえた。
「脇腹、こっぴどく蹴られたんだろ?胃にキてるかもしれねぇが、動いてから吐き気がすんならまず大丈夫だ」
「そういう物なんですか?」
「本当に内臓に何かあったら、じっとしてたって我慢できるもんじゃねぇ。悪寒と、はらわたを絞られるみてぇな鈍痛があっ
て、滝みてぇに油汗をダラダラかくからな」
アブクマ副主将の話に、感心したように頷くタヌキ先輩。
…副主将、なんでそういう事に詳しいんですか?…なんだかちょっとだけ恐くなる…。
「泣き声上げて抱き合ってられるぐれぇなら、あばらの方も何ともねぇだろ。…っと…!」
副主将は言葉を切り、少し慌てた様子で咳払いした。…やっぱり、おれ達の様子は何処かから見られてたんだ…!
「話してぇ事はまだまだあるかもしれねぇが、今日のトコは真っ直ぐ帰れ。コゴタん家はこの近くだったな?」
アブクマ先輩が視線を向けると、タヌキ先輩が頷いた。
「はい。念のため、ボクが送って行きます」
「頼む。じゃあ俺はウエハラを送ってく。一応言っとくが、今夜の事は誰にも内緒だぜ?」
「内緒は良いですが…」
タヌキ先輩がアブクマ副主将の顔を見上げた。
「目のとこ、腫れてますよ?」
「バイクに撥ねられたって事にするさ。目撃者はお前な?」
「うわぁ貧乏くじ!でもまぁ、それで口裏を合わせますか…」
…そんなアバウトな事で誤魔化せるんだろうか?不安になって顔を見合わせたおれとゲンを、先輩達は笑いながら見つめた。
「心配すんな。大丈夫だからよ」
「そうそう。こうみえてもボク達、キダ先生からも信頼されてるんだから。嘘の一回ぐらい、信じて貰えるよ」
見ていると安心する笑顔で言ったアブクマ副主将の横で、タヌキ先輩は確信犯の笑顔で付け加えた。
「済みません…」
「気にすんな」
アブクマ副主将におぶさって、家まで送ってもらいながら、おれは謝った。
歩けるからと断ろうとしたが、家からだいぶ離れたあそこからでは、帰宅が遅くなるからと、副主将はおれをおぶってくれ
たのだ。
「良かったな。仲直りできてよ」
「はい…。飛んだご迷惑をおかけしました…」
「雨降って地固まる。ってヤツだな。なんにしても、お前らはもう大丈夫だろ」
そう言った副主将の声は、何故かとても嬉しそうに弾んでいた。
「…副主将…、一つ、お聞きして良いですか?」
「ん?」
副主将の広い背中に揺られながら、副主将に抱き締めて貰った時と、ゲンと抱き合った時とは、感覚が少し違うなぁ、など
とどうでも良いことを考えつつ、おれは聞いてみた。
「副主将は、なんでおれなんかに、ここまで世話を焼いてくれるんですか?」
「お前が俺の後輩だからだ」
副主将はそう即答した。が、少ししてから小さく笑う。
「…と言いてぇトコだが、実はちっとだけ違う…」
先を促していいものかどうか迷い、おれが黙っていると、副主将はしばらく黙った後に、「誰にも言うなよ?」と前置きを
して話し出した。
「俺な、昔はコゴタみてぇに、大人しい子供だったんだ。まぁ、あいつみてぇに頭が良い訳じゃなかったけどな」
…え…?えぇっ!?副主将が!?
「そして、犬獣人の幼馴染みが居たんだ。…お前と少し似てるヤツがな」
この時、副主将の声が、少し寂しそうに感じられた。
「気弱だった俺を無理矢理引っ張り回して、今みてぇな性格にしたのはそいつなんだ。気が強くて、負けず嫌いで、いつも自
信満々でなぁ…。犬種も違うし、スラッと背の高ぇ細身のヤツだったんだが、性格はお前とちょっと似てた」
そう言って、副主将は含み笑いを漏らした。
「お前らを見てたら、昔の俺達を見てるような気分になってな。何となく放っとけなくなったんだよ」
「そう…だったんですか…」
「でも安心しろ。余計なお節介はこれっきりだ。もう、仲良くやってけるだろ?」
「…お節介だなんてそんな…!…でも、…はい。きっと、大丈夫です…」
答えたおれに、副主将は前を向いたまま満足げに頷いた。
話を聞いていたら、なんとなく理解できた。
副主将が「居た」と過去形で言った幼馴染み…。たぶん、その人はもう居ないんだ…。
茶髪達が、副主将と一緒に名前を挙げたもう一人の人物。事故で亡くなった「イヌイ」という人が、その幼馴染みだったん
じゃないだろうか?
聞いてみようかとも思ったけれど、やっぱり止めた。彼の事を言うときに、少し寂しげになった副主将の声が、まだ耳から
離れていなかったから…。
「副主将」
「ん?」
「有り難うございました…」
「…おう」
巨漢の大熊は小さく頷くと、おれをおぶったまま、照れ臭そうに足を速めた。
結局、この夜の出来事は、おれ達以外の部員には秘密のまま守り通す事ができた。
アブクマ副主将の脅しが効いたんだろう。あの他校の生徒達も、事を公にはしないでくれた。
翌日。イイノ主将は、目の所が腫れ上がってしまったアブクマ副主将を問い詰めていたが、副主将が困ったように苦笑いし
ながら「言えねぇんだ。察してくれ」と言ったら、諦めたようにため息をついて追求するのを止めた。
お互いに信頼している、付き合いの長い主将だからこそ、副主将のその言葉だけで引き下がってくれたんだろう。
なお、キダ先生は何となく事情を察したのか、それから数日間機嫌が悪く、アブクマ副主将とタヌキ先輩に冷たく当たっていた。
…本当に済みませんでした。先輩方…。
「一本!」
畳を打った音と、審判の声で、場内が歓声に沸き返る。
イイノ主将は相手選手から見事に一本勝ちをもぎ取り、きびきびと礼をした。
「いい試合だったぜ、イイノ!」
「お見事です!この分ならサクッと優勝できるんじゃないですか?」
アブクマ副主将とタヌキ先輩に迎えられた主将は、ニコリともせずに首を横に振った。
「まだまだ油断はできないさ。恐らく決勝は南華のエース、クマミヤ君が相手だからな」
県大会行きの切符は手に入れたのに、主将は全く気を緩めていない。
…確かに、クマミヤ選手は強い。地区内の二年生の中では恐らくトップだ。階級は違うが、一度練習試合で勝っているとは
いえ、タヌキ先輩と五分か、下手をすればそれ以上だ。
おれは、傍らのゲンの顔を見上げる。
おれの代わりにと一生懸命頑張り、公式戦デビューとなったこの中体連予選で三回戦まで勝ち抜き、クマミヤ選手に敗れた
ゲンを…。
「新人戦では、きっと、お前はもっと上に行ける」
「…うん…」
俺が声をかけると、ゲンは力なく頷いた。
「もちろん、おれも必ず上位に食い込んでやる。…いや…」
おれはしょげているゲンの顔を見ながら言葉を切り、いつもの、ふてぶてしい笑みを浮かべてやった。
「優勝してやる!」
負けず嫌いで、プライドが高くて、いつも自信満々、そんなおれだからゲンと気が合うのだと、副主将は言った。
今更変えられる性格じゃないし、変えるつもりもない。おれはこの性格で、ゲンを引っ張って行ってやるんだ。
「新人戦ではおれとお前、二階級でアベック優勝だ!」
握った拳で胸をドンと叩いてやると、ゲンは一瞬驚いたように目を丸くした後、微かな笑みを浮かべて頷いた。
「…うん…。できたら、良いな…」
「あのなぁ、できたら良い、じゃなく、するんだよ!」
おれは相変わらず控えめなゲンの鼻に、指を突きつけてやった。
「言っとくけど、三回戦まで進んだからって満足するなよ?おれから見れば、お前はまだまだなんだからな!?覚悟しとけよ、
膝が治ったらビシバシ指導してやるから!」
「…う、うん…!…楽しみにしてる…!」
ゲンは嬉しそうな、そして少し恥ずかしそうな笑みを浮かべ、頷いた。
見ていると安心する、心が和むゲンの笑顔…。
ありったけの勇気を振り絞って、おれを守ってくれたゲン…。
あんな酷い事をしたおれを、笑って赦してくれたゲン…。
おれは二度と、ゲンを傷付けたりしない。これからはおれが、ゲンを守って、引っ張って行ってやるんだ。
ゲンはおれの、この世で一番大切な友達だから…。