第十話 「恩に報いて」
「え?25日?」
おれが貸してやった柔道誌を捲る手を止めて、黒毛和牛は聞き返してきた。
今日の授業も半分終わって、今は昼休み。
俺は空いてたゲンの前の席を拝借して、椅子に後ろ向きに座って、ゲンの机に頬杖をついて、こいつの顔を眺めてる。
「うん。暇か?」
クラスメートに変な興味を持たれても厄介だ。普通の調子を装って尋ねたおれに、
「ん〜…。確か何も無いと思う…」
ゲンは視線を上向きにしてそう答えた。あっちは普通を装うっていうか、…まぁ、いつもどおりだな。おれの問いかけの意
味を理解してないのかもしれないけど。
「やった!じゃあさ…」
「ウエハラ君、コゴタ君、先輩が呼んでるわよ〜」
用件を言いかけたおれの声を遮って、クラスの女子がそう声を上げた。
先輩?揃って首を巡らせたおれ達の視線の先、教室の後ろの引き戸の向こうに、小太りの狸獣人が立っているのが見えた。
珍しいな?こっちからならともかく、主将が会いに来るなんて…。ひょっとして、今日の部活が急に休みになったとか?
なんか立て込みそうだから、今のうちに自己紹介しとく。
おれは上原犬彦。東護中一年生、柔道部所属の秋田犬の獣人だ。
「悪いねぇ。昼休み中に…」
「いいえ。主将こそ貴重なお昼を潰して、わざわざこんなところまで…」
頭を掻きながら言ったタヌキ主将に、ゲンは真っ直ぐに揃えた膝に手を当てて、深々とお辞儀する。
なんかこう「遠路はるばるよくぞお越し下さいました」とか、旅館の人なんかがやるあんな感じだ。
礼儀正しいのは結構だが、少しズレてるような気がするのはおれだけか?
「それで主将、どうしたんですか?」
先を促したおれに、主将は太い尻尾をぶらぶらと左右に揺らしつつ、僅かに顔を顰めた。…なんか困ってるっぽい?
「二人とも…、サツキ先輩が引退後、初めて稽古に顔を出した時の事、覚えてるかい?」
おれとゲンは顔を見合わせた。確か新人戦よりも前の事、今学期の初め頃だよな?何かあったっけ?
「何かありましたっけ?」
特に何も思いつかなかったおれが尋ねると、主将はふぅ〜っと、ため息をついた。
「現役と引退者で試合しよう。って言ってたの…、覚えてないかな?」
『…あ』
同時に思い出したおれとゲンは、声をハモらせた。
「てっきりその場の話だと思ってたんだけれど、キダ先生から急に言われてさ…。本当に急なんだけれど明後日の予定なんだ
…。年を越したら受験の追い込みでそれ所じゃなくなるし、サツキ先輩の怪我もほぼ完治したし、今年中にやっておこうって
いう話になったらしくて…。…別に今じゃなくても、入試が終わってからにすれば良いのに…」
何故か憂鬱そうな主将…。
「良い事じゃないですか?」
「だよな?」
主将が憂鬱そうな理由が判らなくて、おれもゲンも首を捻る。
「良い事…。うん…なんだけどね…」
主将は再びため息をついた。
「それぞれ五人選抜しての団体戦形式になるんだけれど…」
「はい」
「階級無視のね…」
「ええ」
「で、二人に出て貰えないかなと…」
『へ?』
おれとゲンはまた声をハモらせた。
「なんでおれ達なんですか?先輩方じゃなくて?」
五人の枠なら、二年生で全部埋まって不思議じゃない。そこに一年のおれとゲンが入る?
「声はかけたんだけどさ…」
主将は遠い目をした。
「勉強嫌いだし、受験勉強でストレス溜め込んでるはずの、若干一名の化け物と試合をしたくはないらしい…」
…凄く納得した…。
声も無く立ち尽くすおれとゲンに、主将は少し引き攣った笑顔を向けた。
「だ、大丈夫!イイノ先輩とサツキ先輩が入るはずの大将、副将はオレともう一人の二年で固めてあるから、二人にはそれ以
外のところに入って貰いたいんだ。…だめかな?」
う〜ん。主将も困ってるみたいだし、そう言う事なら…。
「おれは構いませんよ」
「ぼくも大丈夫です。お役に立てるかは自信無いですけど…」
おれとゲンが頷くと、主将はほっとしたように表情を緩めた。
「助かったよ。悪いけど、よろしく頼むね二人とも」
礼を言って立ち去った主将を見送り、教室に戻って昼休みの残りの時間を確認していたこの時のおれ達は、翌々日の対抗試
合で予想外の事態が発生する事なんて、知るよしも無かった…。
「あ、アブクマ先輩だ」
翌日の下校途中、いつも前を通る公園の前で、ゲンは急に立ち止まってそう呟いた。
視線を巡らせると、ベンチに座り、背もたれにもたれかかって空を見上げている大柄な熊獣人の姿が見える。
先輩、何してるんだろう?
忙しそうな様子でもないし、声をかけずに行くのも失礼かと思って、おれ達は公園に足を踏み入れた。
「先輩?」
おれが声をかけると、アブクマ先輩は顔を下ろし、初めておれ達に気付いたのか、少し目を大きくした。
「おう。今帰りか?ウエハラ、コゴタ」
先輩は口の端を上げて笑みを作った。一見近寄り難い雰囲気があるけど、笑うと親しみやすい笑顔になる。
部活が休みでもないと、引退した三年生の先輩と帰りに会うなんて事はまず無い。
「どうしたんですか?こんな所で…」
「ん〜、ちっと考え事をな…」
先輩は目を細めてそう応じた。ゲンは納得したように頷くと、
「それで、空に相談していたんですか?」
と、妙な事を尋ねる。
「ま、そういうこった」
先輩は微苦笑すると、ベンチから腰を上げた。
立ち上がると先輩の大きさを実感する。体格の良いゲンが、190センチを越える先輩の前じゃ普通に見えるし。
…って、あぁっ!
「もしかして、考え事の邪魔しちゃいました!?おれ達はすぐ行きますから…」
「いや、そろそろ帰らねぇといけねぇしな。期末も近付いて、カテキョーが厳しいからよ」
そう言った先輩に、おれは思わず聞き返した。
「家庭教師に、教えて貰ってるんですか?」
「ぬはは!頭の良いダチに教えて貰ってんだ」
先輩は耳を少し寝せて、何だか照れているような笑顔でそう言うと、何かに気付いたように目を細めた。
「…お前ら、養子縁組ってどういうもんか知ってるか?」
唐突な問いかけと、あまり馴染みのない単語に、おれとゲンは顔を見合わせる。
「言葉くらいは…。でも、内容までは良く解りません」
「おれもです」
「そか。そうだよなぁ…」
先輩は呟きながら小さく頷き、
「じゃあ、明日な」
と微かな笑みを浮かべて言った。
…そうだった!明日は先輩達との団体戦だ!
「あ、はい!明日はよろしくお願いします!」
「お、お手柔らかに…」
ぺこりとお辞儀したおれとゲンに軽く手を上げると、先輩はのっしのっしと公園を出て行った。
その大きな背中を見送り、おれとゲンは顔を見合わせる。
「養子縁組って、何でそんな事気にしてるんだろ?」
「さぁ…。でも、少し深刻そうにも…、見えたよね…?」
おれとゲンは揃って「う〜ん」と唸り、先輩が口にした質問の意図について考え込みながら、首を捻り捻り家路を歩いた。
先輩、何か悩んでるのかな?
養子とか、そういう事を考える辺り、ずいぶん深刻そうな悩みだけど…。
もしかして、先輩に養子の話とか出てるのかな?
お世話になった先輩が悩んでるんだし、力になってあげたいんだけど…。
ダメだ…。考えても考えても解るはずもない。頭の良いゲンですらそうなんだ、おれに解るはずも…。…あ。
おれは、やたらと事件や法律関係に詳しい知り合いの事を思い出した。
近所の幼なじみなんだけど、あの姉ちゃんなら養子縁組なんかについても詳しいかも…。
「そうだ。ミサト姉に聞いてみよう…!」
呟いたおれに、ゲンは何か問いたそうな視線を向ける。
「おれの幼なじみの、二つ上の先輩、そういうのに詳しいはずなんだ。養子縁組とか、そういうのの事を訊いてみる。たぶん
相談に乗ってくれると思う!」
散々迷惑かけたし、お世話になってるんだ。ちょっとは先輩の力になってあげなきゃバチがあたる。
「おれ、今日中に話をしてみる!じゃあなゲン!また明日!」
「あ、うん。バイバイ。気をつけてねイヌヒコ」
いつもの分かれ道。手を振ったゲンに背中を向けて、おれは家路を急いだ。
「家に来るなんて最近じゃ珍しいわね?どうかしたのイヌヒコ?」
おれの部屋の倍はある、作業机や本棚がたくさんある広い部屋。
勉強机の椅子に腰掛けた、分厚い眼鏡をかけた先輩は、おれを自分のベッドに座らせると、微かな笑みを浮かべて小首を傾
げた。
新庄美里(しんじょうみさと)姉ちゃん。おれの幼なじみで、同じ東護中に通う二つ上の先輩でもある。
善は急げって言うだろ?おれは家に寄らないで、まっすぐに姉ちゃんの家を訪ねたんだ。
「相談っていうか、聞きたい事があるっていうか…。姉ちゃんさ、養子の制度なんかの事って、詳しい?」
「養子?」
おれの質問に、ミサト姉ちゃんは訝しげに眉根を寄せた。
「大まかには知ってるけれど、それほど詳しい訳でもないわね。どうしたの?急にそんな事に興味持ったりなんかして?」
「うん…。実はさ、おれ、いろいろお世話になってる先輩が居るんだけど…」
おれは、今日の帰りに先輩と会った時の事を、かいつまんで説明した。
「…ふ〜ん…。養子縁組ねぇ。そういう話が出てるって事かしら、その生徒…」
「やっぱりそう思う?」
もしかして、先輩の家、何か大変なのかな…?
おれは姉ちゃんに頭を下げた。
「無茶苦茶世話になった、たくさん迷惑かけた、恩人の先輩が困ってるみたいなんだ。姉ちゃん、力になってくれないか?」
前は誰かに頼み事をする時でも、頭を下げるのが嫌だった。
けど、今は違う。恩人である先輩の為になら、抵抗なく頭を下げられた。
姉ちゃんはしばらく黙った後、苦笑するような響きが混じった声で言った。
「顔を上げなさいよイヌヒコ」
言われるままに顔を上げたおれに、
「あんたにそこまで言わせるなんて、どんな生徒なのかしらね?」
姉ちゃんは眼鏡の奥の目を細めて、微苦笑を見せた。
「解った。少し調べてみるわ。ところで、その生徒の名前は?」
どうやら力になってくれそうだ。おれはほっとしながら、ミサト姉ちゃんに先輩の事を詳しく説明する事にした。
「結構有名な人だから名前は知ってるだろうけど、柔道部で一緒だったアブクマ先輩っていう人」
「アブクマ君!?」
ミサト姉ちゃんは目を丸くして声を上げた。
「知ってるよね?」
「ええ、ちょっとした事で知り合ったから…」
姉ちゃんはそう言うと、腕組みをして黙り込んだ。つり上がり気味の目が細くなって、真剣な表情になってる。
どうしたんだろう?もしかして、アブクマ先輩と仲悪いとか…?
「…イヌヒコ…」
「うん?」
しばらく黙り込んだ後に口を開くと、姉ちゃんはおれの顔をじっと見つめた。
「アブクマ君がいつも一緒に居る、三年生の白猫、知ってる?」
「え?いや、知らないけど…。誰?」
「いえ、知らないなら良いわ」
姉ちゃんはまた少しの間黙り込み、それからおれの目を真っ直ぐに見る。
「イヌヒコ、アブクマ君の事、好き?」
唐突にそんな事を訊かれ、最近「好き」の探求で過敏になっていたおれはドキっとする。
「…そ、それは…、先輩だし、恩人だし、尊敬してるし…」
質問の意図が解らなくて、慎重に答えたおれに、姉ちゃんは一つ頷いた。
「それなら、この事は誰にも話さないで。たぶん、彼もあまり知られたくない事よ」
「う、うん…」
…どうやら、変に勘ぐられた訳じゃなさそうだな…。
おれに男の恋人が居るなんて知ったら、姉ちゃん、どんな反応するかな…?
それは、先輩の事は好きだけど、ゲンへの好きとはちょっと違う。
この気持ちはじっくり考えなくても解る。恋愛じゃなく敬愛の好きだ。
「なぁ、姉ちゃん?もしかして、アブクマ先輩って、結構複雑な事情とかあったりするの?」
おれの質問に、姉ちゃんはクスリと小さな笑いを漏らす。
「いいえ、彼自身は単純よ。彼の回りが複雑なだけ。…まぁ、アブクマ君にも複雑なトコが一つだけあるかしら…」
良く解らない言葉に首を捻っていると、姉ちゃんは表情を改め、真面目な顔をし、
「イヌヒコ。この件にはこれ以上首を突っ込まないで。あとは私に任せてちょうだい」
と、おれに釘を刺してきた。
いつもそうだが、姉ちゃんは探偵とか記者とか、そういったのをイメージさせるようなセリフを時々口にする。
「じゃあ姉ちゃん、先輩の味方になってくれるんだな?」
姉ちゃんは笑みを浮かべながら大きく頷いた。思わず、おれの顔も綻ぶ。
手帳を取り出した姉ちゃんは、ページをパラパラ捲って何か確認して、何かを書き込みながらぼそぼそと呟く。
「面と向かって協力を申し出ても断られるわね…。間違いなくネコムラ君の事だろうからなおさら…。そうね…、偶然を装っ
てアプローチ…、うん、これで行きましょう…」
呟きは小声だったから、内容はほとんど判らなかったけれど、どうやら真剣に手助けしてくれるつもりらしい。…本当に良
かった…!
算段がついたのか、やがて姉ちゃんは大きく頷いて手帳をパタンと閉じた。
そして、思い出したようにおれに視線を向けて、ポンと手を打つ。
「そうそう。イヌヒコ、一つ訊きたいんだけれど…」
「何?」
「同性愛って、どう思う?」
っ!?
「な、何でそんな…!?」
も、もしかして、おれがゲンと付き合い始めた事…、ば、ばばばばバレてる!?
焦りまくるおれをよそに、姉ちゃんは、
「まぁ、唐突に訊かれても判らないわよねぇ…」
と、肩を竦めた。…あれ…?バレたわけじゃ…ない…?
「どんな感じなのか、最近ちょっと興味を持ったんだけれどね。なかなかこういったものの資料は手に入りにくくて…」
「…資料?」
「うん。まぁ、簡単に言うとその手の書籍ね」
それってつまり…、同性同士のエロ本って事?
声が掠れそうになったから、ゴクリと唾を飲み込んで喉を湿らせ、姉ちゃんに慎重に尋ねてみる。
「あ、あるの?そういうのって…?」
「あるわよ?実際に何冊か手に入れたし…」
…まじで!?うそ!?まじでぇっ!?
「なんだか話が変な方向に逸れて来たわね…。妙な事訊いてごめん、忘れてちょうだい」
ミサト姉ちゃんは苦笑してそう言うと、
「久し振りに、家で夕飯食べて行きなさいよ?」
少し迷った後、おれは頷いた。…ある事を思いついて…。
「よし。じゃあお母さんに言って来るから、少し待っていてちょうだい」
姉ちゃんが部屋を出て行った後、
「…ごめん、姉ちゃん…!」
小声で謝ったおれは、静かに、だが素早く、部屋の物色を始めた。
昔から親に見られたくない資料なんかの隠し場所は変わってない。
おれの目当てのものは、本来の中身とは違うものが収められた百科事典のカバーの中から、程無く見付かった。
「こ、これが…!」
おれはゴクリと唾を飲み込んだ。後ろめたさが興奮を増幅して、意図せずに尻尾が左右に揺れてしまう…。
おれ達が読んでる少年誌と違って、思ったより小ぶりだ。でも結構厚い…。
隠してあった数冊の中からとりあえず目に付いた一冊を手に取る。
ドキドキしながら捲ろうとしたら、階段を登ってくる足音が聞こえた。
おれはその一冊を大慌てで自分の鞄に突っ込み、残りの雑誌をカバーの中に手早く戻し、元通りに本棚に納めた。
部屋に戻ってきた姉ちゃんは、
「すぐできるから、もう少しだけ待ってて」
と、何も知らずに言った。そして再び椅子に座ると、
「あ」
と、小さく声を上げる。その視線の先は、おれが物色した本棚…!?
ま、まさかバレた!?全部元通りにしたと思ったのに!?
「イヌヒコ」
「ははははいっ!?」
ガチッと硬直して返事をしたおれに、姉ちゃんは不思議そうな顔をした。
「何?どうかしたの?」
「え?い、いや、何でも…。で、な、何?」
「うん。夕飯、こっちで食べていくって、おばさんに電話しておきなさいよ?」
…ば、バレてない…!
「う、うん!そうだった!ちょっと、電話借りるね!?」
安堵しつつ、おれは姉ちゃんの部屋を出て、二階廊下に置いてある子機を借りた。
…ごめん、ミサト姉ちゃん…。なるべく早く返すから…!
心の中で何度も詫びながらも、おれは鞄の中の雑誌の事を考え、期待と、少しの不安に、胸を高鳴らせていた。
夕飯をごちそうになった後、おれは大事にカバンを抱え、姉ちゃんの家を出た。
そそくさと門に向かったおれを、新庄家の番犬の役目を長年務めている老シェパードは、いつになくしつこく、フンフンと
匂いを嗅ぎながら追いかけてきた。
勘が良いからなこいつ…。おれの不審な様子に気付いたのか?
「いいか?おれとお前の仲だろ?姉ちゃんにはナイショだからな?」
「オン!」
老犬は分かっているのかいないのか、良く通る声で吼え、返事をした。
…まぁ、姉ちゃんが犬の言葉を理解できない限り、告げ口は不可能なんだけどさ…。