第十二話 「そびえる山に」
愛用の茶帯をギュッと締める。
今日は特別な日だ。いつにも増して気合いが入る。
硬くはなってないな?…うん、大丈夫だ。心地良い程度の軽い緊張感はあるけど、動きが悪くなる類のものじゃない。
「先に出てるぞ?」
更衣室から出る前にと声をかけたけど…。壁の方を向いて着替えている黒毛和牛は無反応で、いやにぎこちない動きでもた
もたとズボンを穿いてる。
「…あの、ゲン…?」
「は、はいっ!?」
歩み寄って声をかけたら、ゲンはビックリしたように、凄い勢いで振り向いた。
あまりにも勢い良く振り返られたものだから、ちょっとビビッて仰け反った。…なんか…、がっちがちになってんだけど…?
「緊張してるのか?」
「え?う、うん…」
ゲンは大きな体を縮めて、胸の前で組んだ手を握ったり開いたり、落ち着き無く動かしている。…ちょっとかわいい…。
かなりの上がり性なんだよな、こいつ。練習試合なんかでもすぐガチガチになる。まぁ、試合が始まればもう必死で、上がっ
てもいられないみたいだけど。
「そんなに硬くなるなよ?対外試合じゃないんだし」
「で、でもぉ…」
「相手は先輩方なんだぜ?これまでに何回も組み合ってるじゃないか?」
ゲンは俯き、チラッと不安そうにおれを見る。
「先輩達と、真剣に試合するなんて…初めてでしょ…?乱取りとは、やっぱり違うよ…」
ん〜、言われてみればそうだけど…、知らない相手じゃないし、そもそも勝ち負けにあんまり拘らなくても良いんだから、
もっと気楽に、胸を借りるつもりでぶつかってって良いと思うけどなぁ…?
そんな風に考えていたおれは、続くゲンの言葉でハッとした。
「だって…。だって…。ぼくらが不甲斐なく、あっさり負けちゃったら…。先輩達、不安になるんじゃないのかな…?自分達
が頑張って引っ張り上げてきた柔道部を、ぼくらに任せてて大丈夫だろうか?って…」
…おれは、少し自分が恥ずかしくなった…。
ゲンは先輩達の心情を考えていたっていうのに、おれはそこまで深く考えてなかった…。
今日の試合は、先輩方におれ達の稽古の成果を見せなきゃいけないんだ。ここまで力を付けましたってアピールして、安心
させてあげなきゃいけないんだ。そうすることが、先輩方への恩返しになる…。
「ゲン…。有り難う」
「え?」
礼を言ったら、ゲンは不思議そうに目を丸くした。おれは恥ずかし紛れの苦笑いでゲンに応じる。
「大事な事に気付かないまま試合するとこだった…。気合い入れ直すよ。先輩方のどぎも抜いて、安心させてあげなくちゃな!」
「う、うん!」
話をしている内に少し緊張が和らいだ様子のゲンは、自分に言い聞かせる意味もあるおれの言葉に、笑顔で頷いた。
さてと、忙しくなる前に恒例の自己紹介!
おれは上原犬彦。東護中一年、柔道部所属の犬獣人。今日は引退した三年生の先輩方との、団体戦形式の試合だ。
…が、この後どぎもを抜かれるのが自分の方だとは、この時のおれは想像してもいなかった…。
先に着替えて道場に出ていた先輩方は、既に簡単なアップを済ませて、体をほぐし終えていた。
試合に出る五人に選ばれたおれとゲンも、一緒に試合に臨む二年の先輩達と、道場の壁際で柔軟などの簡単なアップをする。
道場の奥にあるホワイトボードには、すでにおれ達現役部員チームの五人の名前が書き込まれているけど、先輩方のオーダ
ーはまだ書かれていない。
ちなみにこっちの大将はタヌキ主将で、ゲンが中堅、おれは切り込み隊長、先鋒だ。
公式戦の獣人の部には団体戦が無いから、実はおれも団体の経験はほとんど無い。ちょっと新鮮だ。
体格の良い猪獣人、前主将のイイノ先輩が、さらに大柄なアブクマ先輩と何やら話し込んで、ホワイトボードに名前を書き
込み始めた。
まぁ、バケモノ同然のあの二人は大将と副将だろうな。タヌキ主将と副主将は大変だ…。
イイノ先輩が横に一歩ずれて、大将と副将の名前が確認できた。
大将はもちろんイイノ先輩で、副将は…、…あれ…?
「なぁゲン」
「ん?なに?」
おれは目を細くして、じっとホワイトボードを見ながらゲンに尋ねた。…離れ過ぎててはっきり見えないけど、あれって…?
「副将、何て書いてある?」
「んんと…。…あれ?」
ゲンもそれに気付き、目を細めてじっと見つめる。
「…中村先輩…?」
「…って書いてある?やっぱり?」
どうやらおれの見間違いじゃあないらしい。
中村先輩は人間で、今年の中体連の団体戦でも大将を務めた。それで副将なのかもしれない。
人間とはいえ、柔道家らしいがっちり体型で結構大柄な中村先輩は、獣人のおれよりずっと強い。
イイノ先輩やアブクマ先輩、タヌキ主将が抜けてるせいで部内じゃインパクトは薄いけれど、この辺りじゃ敵無しだ。
…って、じゃあ…、アブクマ先輩は…?
ふと横を見ると、ゲンもそれに思い至ったらしく、ゴクリと唾を飲み込んだ。…なんか、プルプル震えてるんだけど…。
固唾を呑んで見守る中、イイノ先輩がさらに横にずれる。
「…ほっ…」
ゲンは安心したように胸をなで下ろした。中堅はアブクマ先輩じゃないぞ、良かったなぁゲン!
おれもほっとして表情を緩める。…ん?中堅でもないって、じゃあ先輩はどこに…?
イイノ先輩は、名前を書き終えて横に大きくずれた。
「これはまた、なかなか面白いオーダーで来たな…」
キダ先生はホワイトボードを見つめ、口の端をちょっと吊り上げて笑った。
「い…、イヌヒコ…」
ゲンの不安そうな声が、凄く遠くで聞こえた。
先鋒に書かれた上原という名前の上…、少しの空白を空けた上に…、阿武隈って、書いてあった…。
呆然としながらぎぎぎっと首を巡らせると、おれの視線に気付いたのか、こっちに視線を向けた茶色い大熊は、丈夫そうな
歯を見せて、ニッと笑った…。
「あ、あのさ…。上手く言えないけれど…、大丈夫だよ、うん…」
ゲンは、自分を納得させるように何度も頷きながら、おれにそう言った。
「うん。ウエハラなら大丈夫だよ。間違っても壊される事は無い。…と思う…」
タヌキ主将は、おれの肩をポンと叩いてそう言った。…壊されるって…。
…タヌキ主将の言っていた事が、頭の中に思い浮かんだ。
年明けの入試を控えて、大嫌いな勉強でストレスを溜め込んでるはずのアブクマ先輩とは、誰だって当たりたくない。って…。
他の二名の先輩方は、おれを気の毒そうな目で見ていた。
…いや、気の毒そうって言うか、露骨に「かわいそぉに…」って感じの…、そんな目だ…。
「ま、やれるだけやって来ますよ!滅多にない機会なんだし!」
おれは自分を奮い立たせるようにそう言って、くるっと試合場に向き直る。
同時に、バシィン!と、大きな音が響き渡り、道場内が水を打ったように静まりかえった。
先輩お馴染みの気合い入れだ。両手で頬を挟み込むように叩いたアブクマ先輩は、
「うし!んじゃ行ってくらぁ!」
と、三年生チームに片手を上げた。
…呑まれてたまるか!おれは両手を顔の高さに上げ、バシッ!と、両頬を思いっきり叩く。
………いっ…てぇ〜…!
頬を押さえて一度屈み込み、涙を堪える。もうちょっと…ソフトに叩けばよかった…!
涙目になりながら顔を上げて前を向くと、アブクマ先輩が目を細めてニィッと笑っていた。…なんか嬉しそう…?
「行ってきます!」
痛かったけど気合いは入った!おれは声を張り上げて皆に言い、試合場へと足を運ぶ。
先輩も大股にゆっくりと歩き出し、試合場の中央へと進む。
皆が見守る道場の中央で、おれと先輩は同時に足を止めた。
…乱取りは何度もしてる。でも、先輩と試合形式で向き合うのは今日が初めてになる。
間近で、対戦相手として向き合った先輩は、おそろしく大きかった…。
…まるで、そびえたつ山のような大熊…。対戦相手にここまで圧倒される事なんて、初めての経験だ…。
ごっつくて大きく、ぶっとい手足。
太い首がいやに短く見えるほど盛り上がった肩。
道着の襟元から覗く、三日月の浮かんだ分厚い胸。
引退してから少し太ったかな?締めた帯の上に、道着に押し込まれたでっかい腹が乗っかってる。
ちなみに先輩は白帯。と言っても実力を示すステータスにはなっていない。先輩の場合は単に昇級試験を受けるのが面倒で、
無段無級だから白帯のままなだけだ。
緊張が高まって喉が渇く。ゴクリと唾を飲み込み、手を握り、開き、動けることを確認する。
…大丈夫。呑まれてないぞ…!
「はじめ!」
審判のキダ先生の合図と共に、先輩はガバッと両腕を上げた。
「おおおおおぉぉっ!!!」
大きく開いた先輩の口から吐き出される、とんでもなく大音量の、ビリビリと肌を震わす気合いの声。
眉が吊り上がり、眼光が鋭くなり、先輩の体は一回り大きく見える。
…かっこいい…。
恐いとか、敵わないとか、そんな感じよりも、単純な憧憬の念がおれの胸の内を占めた。
「おおおおおおおっ!!!」
先輩にやや遅れて、おれも腹の底から声を出す。精一杯に腕を広げ、真っ直ぐに先輩の顔を見据えて。
ドキドキした。そしてワクワクした。試合前までは、心の何処かに「ついてない」という気持ちもあった。
でも、今はそうじゃない。もしかしたらおれは、先輩とこうして対戦できる日を待っていたんじゃないだろうか?
尊敬する先輩がどんなに強いか自分で確かめたくて、おれの力がどこまで通じるか知りたくて、胸が高鳴ってる…!
先に仕掛けたのはおれの方。どっしり構え、じりっと間合いを狭める先輩に向かって、真っ向から大きく踏み込む。
即座に、上から振り下ろされるように、先輩の左手が降りて来た。
狙いは右襟?いや違う、肩だ!踏み出した右足を止め、スウェーするように上体を後ろに残す。
下半身が先走る格好になったおれの胸元を、先輩の太い指先が掠めた。
タイミングはバッチリ!体勢は不安定だけど、足腰には自信がある。小柄で筋肉質なおれの体は、多少不安定な体勢になっ
ても即座に立て直しが利く。そういう風に主将に鍛え込まれてるからな。
先輩の左手の袖を外側から素早く掴み、足を止めた反動を利用して、後ろに残した左足に体重を戻す。
おれの持ち味はこの機敏さと豊富な連携だ。引き崩して一気にペースを掴む!背中側に倒れ込むように全体重をかけたおれ
の体は、しかし予定よりも早くガクンと止まった。
伸びきったおれの右腕と、袖を掴んだままの太い左腕の先に、微かに口の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべている熊の顔
があった。…読まれてた!?
先輩は、一瞬の内に腰を落として踏ん張っていた。おれの体重移動が終わる前に…!
体重のかけかたが不十分でおかしい。先輩を崩すに至らなかった状態のまま、おれの体はガクンと引き戻された。
袖を掴まれた腕一本で、おれの体を易々と引き寄せつつ、先輩は右手をおれの胸元に伸ばす。おれと先輩の体重差は約二倍
半。おまけにあの馬鹿力…、力比べなんて挑めない!
咄嗟に袖を放したが、外側にぐるっと翻った先輩の左手が、おれの右手首を掴みに来る。…やばいっ!
鋭く手首を捻りながら引き、先輩の指を弾くようにして難を逃れつつ、体を返して半身になりつつ左手を上げ、襟を取りに
来た先輩の右腕をなんとかいなす。
当たらなければどうという事はない。あの有名な赤い人もそう言っていた。おれは大佐の言葉を思い出し、心の中で頷く。
当たったら最期、一度捕まろうものならあっさり沈められる。でも、当たらなければ無いのと同じだ。
それにしても、先輩の両手は一度に全く別の動きをするんだな?普通はフェイントだったり、片方に意識が寄ったりするも
のなんだけど、先輩の場合はどっちも本命だから対処に困る!
本当に底が知れない…。全国って、こういうレベルなのか…!
少し間を離したところで、おれは緊張から一瞬で乱れた呼吸を素早く整える。
対して全く乱れがない先輩は、「ふぅっ」と一つ大きく息を吐くと、のっそりと踏み出して間合いを詰めてくる。
「足だ!足を使ってウエハラ!」
「イヌヒコぉっ!ファイトだよぉっ!」
タヌキ主将やゲンの必死な声援が、跳ね回る自分の心音が響く耳に入ってきた。
「アブクマ!後がつかえてんだぞ?ちゃちゃっと決めろぉ!」
「なんだなんだ?すっかり肉がついて体が鈍ってんじゃねーの!?」
三年生側からも先輩に声援(ヤジ?)が飛んでいる。
さぁて…、次にしくじったら、もう一回仕切り直せるとは限らない。今の内に攻め方と腹を決めないと…。
今のは我ながら上手く凌げたと思うけど、何度もできる事じゃないし…。
…足を使って、か…。
攻めているのはおれ、ペースを握ってるのはこっちだ…。
タヌキ主将の声援で、おれは自分の持ち味で勝負する事を決めた。
おれの長所は自分でも気に入ってない低い身長と、秋田犬らしいがっしりした骨組みだ。
重心が低めで脚力があるおれは、どんな不安定な体勢からでもすぐに体勢を立て直せる。
普通ならバランスを崩してたたらを踏むような姿勢からでも、自慢の脚力で勢い任せに無理矢理に体勢を維持し、あるいは
反転させ、移動を続行できる。
水の入ったバケツをぐるぐる振り回しても、中身が零れてこない…。あんな感じを想像して貰いたい。
対して先輩は、大きな体が仇になり、反応は速くても小回りは利かないはず…。同階級内ならいざ知らず、小兵のおれとは
組み辛くてやり難いに違いない。
強引に隙を作って速攻!それしかない!
ウェイトで有利な先輩は、俺の出かたを見た後から動いても大して不利じゃない。
おれの動きを見てから対応できる以上、奇襲は何度も使えない。不用意に繰り返すのは「タイミングを計って捕まえて下さ
い」って言ってるようなものだ。
挑むのは、一回こっきりの大勝負…!おれは自分でも驚くほどにワクワクしながら、ぐっと足を踏ん張った。
腕を大きく広げ、再び大きく踏み出す。正面から組みかかるのは意外だったらしく、先輩はピクッと眉を動かした。
先輩の手が降りて、おれを捕まえに来る。…でも、正面から組みに行くのは見せかけだ。
さぁ勝負だ!最短距離を見極めろイヌヒコ!
踏み出した膝をぐっと折り、腰めがけてタックルにでも行くような中腰の前傾姿勢で、おれは先輩の腕をかいくぐった。
頭のてっぺんが先輩の左肘に当たり、歯がガチンと鳴る。痛がるのはお預け!後からだ!
瞬発力を活かして一気にトップスピードに乗ったおれは、太い腕を潜り、脇をすり抜けるようにして左手で先輩の襟を、鳩
尾の辺りで掴む。
「ぬっ?」
しっかり握った左手に加速と全体重を乗せると、さしもの先輩の巨体も後ろに揺らいだ。よし!これは読まれてなかった!
先輩に体重と勢いを丸々預けたおれは、急旋回するような格好で右手を伸ばし、先輩の帯を背中側で掴む。
やや後ろに崩れ気味の先輩の左足に、膝裏を合わせるようにして足をかけた。
先輩の腰に横から抱きつくような、そんな格好。おれが仕掛けたのは、ようするに変則大内刈り。
稽古後のシャワー空き待ちの間、ゲンとじゃれあってた時に思いついた、奇襲の崩し連携だ。世の中、何が役に立つか判ら
ない。
勝機!先輩の体を左斜め後ろへと一気に押すべく、おれは右足で畳を蹴る。
が、蹴った瞬間、おれの足は妙な感じに畳の表面を滑った。
違う。滑ったんじゃない。離れて擦れたんだ。おれの腰が、なんでか浮いて…る…!?
おれの腰は、真上にぐんと引っぱられていた。いつのまにか、背中側で帯を掴んだ、先輩の左手によって。
先輩の胴に横からしがみつく形で、おれは攻め切る前に捕まってしまった。…振り切れてなかったのか!?
凶悪な腕力がおれの体をぐんと正面側へ引き戻す。先輩の腰の後ろで帯を握った右手が外れ、かけていた左足が逆にからま
れる。速い、そして強い!
左手は先輩の道着の鳩尾辺りを掴んだままだけど、そのまま道着の胸元が大きくはだけ、支えにならなくなる。
ぐっと踏み出しつつ、先輩はのし掛かるようにおれに体重を預けた。こんな巨体なのに、体重移動がとんでもなく速い!
圧死。そんな単語が脳裏に浮かび、おれは全身に鳥肌をたてながら必死に身を捻る。幸いにも指が二本かかっただけの先輩
の手は、思いの外あっさりと帯から外れた。
…いや違う!外れたんじゃない、先輩が放したんだ!
思ったときにはもう遅い。背中側から抜かれた先輩の手は、ほんの一瞬でおれの奥襟を掴み直していた。
同時に右手は、おれの左肩で道着をぎちっと握り込む。
やけに高い位置で組んで来ているけど、大柄な先輩からすれば、本来の掴み位置ってこの高さなんだろう。
妙なことに納得している間に、おれは正真正銘の大内刈りに捉えられている。
おれは両手で先輩の両袖を掴み、頼みの綱、残る右足で畳を蹴った。
掴まれたまま後ろに跳び、体を逃がす。堪えきれる勢いじゃないけど、一本だけはなんとか避けたい。
まだ終わりたくなかった。もう少し、もう少しで良いから、先輩の強さを自分の肌で確かめたかった。
「んぐふっ!」
身を捻り、体の右側から落ちる事に成功したおれの脇に先輩がどすっと倒れ込む、依然として襟は掴まれたままだ。
「技あり!」
キダ先生の手が上がる。…な、なんとか凌いだ!
肺の空気が押し出されたけど、痛いも苦しいも後回しだ!
おれは体を捻りつつ先輩の腕の内側に手を入れ、ぐっと力を込める。…が、しっかりと道着に食い込んだ太い指はビクとも
しない!
慌てて膝を立て、下半身を起こした時には、先輩はすでに中腰になっていた。
…あれ?この体勢って…?
先輩の目と、おれの目が、間近で見つめ合う。
微かに細められた熊の目が、楽しそうに笑っていた。
…そうだ。これって、おれ達一年が入部したばかりの頃、模擬戦と称してやらされた、レスリングもどきの組み手の体勢に
似てる…。
先輩は、仕掛けて来ない。
出方を窺うようにおれを見つめる目が、何かを待って光を灯している。
「さぁ、もういっちょ行こうぜ?」
先輩の目がそう言っていた。
今初めて、おれは自分の勘違いに気付いた。動き回って、仕掛けて、自分がペースを握っている気になっていたけれど、違
っていた。
先輩は、後手を取る受身の姿勢で、動き回るおれのペースを握っていたんだ…。
露骨に手加減をされているのとも違う。接触したその瞬間は、先輩も全力で来てくれている。ただ、おれに先手と、息を付
く間を与えてくれていた。
…おれの気持ちを察してくれたのかな…?先輩はわざと、すぐには終わらせないでくれたんだ…。
膝立ちの状態から、おれは素早く横に動いた。先輩の手首は外側に反ったけど、放れない。
リストだけで強引に引き戻されそうになる体を、今度は腰を後ろに引いて前傾姿勢にする。これも肩口を掴んだ手を放させ
るには至らなかった。
楽しくなってきた。そして嬉しくなってきた。
おれが尊敬していた先輩は、おれが思っていたよりも、ずっと、ずっと強かった!
ふと綻びそうになる口元を、唇を捲り上げて不敵な笑みに変え、おれは先輩に揺さぶりをかけ続ける。
先輩は難なくおれの動きを制しながら、微妙に立ち位置を変え続ける。
中腰と膝立ちを繰り返すおれ達の攻防を、部の皆が声もなく見つめている。
目まぐるしく動く視界の隅に、胸の前で祈るように手を組み、食い入るようにこっちを見ているゲンの姿が見えた。
十分に揺さぶりをかけた後、おれは体を預けるようにして、初めて前に出た。
膝を上げかけていた先輩は、僅かによろめいたが、それだけだった。
奥襟を掴んだ手で御され、おれの体はあっけないほど簡単にひっくり返される。
掴まれた襟を支点に、足を使ってシャカシャカと体を逃がしたおれだったが、そこへ、先輩の巨体がぼふっと覆い被さった。
太い両腕がおれの胴をがっちりと固定し、乗せられた体重が圧迫してくる。
四方固め。それも上四方…。先輩が最も得意とする寝技だ。
先輩のこの技に完全に捕まった状態から逃れた者は皆無…!あのイイノ先輩ですら、この状態に持ち込まれたら詰みだ!
「むぐふぅ〜!」
はだけた道着からむっちりはみ出た先輩の下っ腹に、おれは鼻面を埋没させている。
ブニッと押し付けられた先輩の腹は、柔らかくて汗が匂う。…結構良い手触り…、じゃない鼻触り…。
…いやちょっと待て。この体勢って、なんかまずくない?
先輩の腹の肉におれの鼻先と口は完全に埋もれていて、…つまり息ができない。
「む、むがふっ!?んむごぉ〜!?」
事態に気付き、必死にもがくが、先輩はビクともしない。ちょっ!死ぬ!死ぬってば本気で!窒息死するっ!
もがいた事で息が上がり、なおさら苦しくなる。
あぁっ!おれは先輩の腹の下で死ぬのか!?どうせ死ぬならゲンの胸の中で死にたい!ってかこんな事考えてる辺り、まだ
余裕あるよなおれ?
おれは先輩の体をのけようと必死にもがいていた手を、先輩の腹の下、おれの顔の左右に突っ込む。そして、先輩の腹を押
し上げ、僅かな隙間を確保した。
「ぷはっ!ふぅ!ふぅ〜!」
ようやく口周りに隙間ができて、おれは貪るように空気を吸い込む。犬の習性で舌を出して。その拍子に、舌先が先輩の腹
の窪んでいる部位に丁度入った。
あ、ここ先輩の臍?ちょっとしょっぱい。
「んぁっ…!」
舌先が臍を舐めたと同時に、それまでビクともしなかった先輩の体がぴくんと震え、どこからかちょっと可愛い声が聞こえた。
…もしかして今の、先輩の声…?試しにもう一度舌を入れて舐めてみると、
「んぅっ!?」
先輩は弾かれたようにガバッと身を起こし、おれはようやく解放された。
「う、ウエハラ!お前そりゃ反則だぞ!?」
先輩は道着からはみ出た腹を押さえ、何故かおれから少し距離を取り、焦ったような顔で言った。
「あ、す、済みません…!苦しかったもんでついっ…!」
思わずやっちゃったけど、…今のちょっとエロいよな…。同じ事したら、ゲンもあんな声出すんだろうか?
「どうした?まだ時間は経っていないぞ?」
キダ先生が訝しげに尋ねて来たけど、本当の事を言うのはちょっと恥ずかしい…。
「済みません。もがいた拍子に先輩をくすぐっちゃいました」
頭を掻きながら誤魔化すと、キダ先生は一瞬きょとんとした後、眼鏡の奥の目を細めて苦笑した。
「ははは。仕方ないなぁお前は。だが本番ではやるなよ?」
「はい…」
道場内に皆の笑いが響く。
「残り時間内にあそこから抜けられたとも思えんし…、今回はアブクマの勝ちだな」
先輩とおれは中央に戻り、キダ先生の前で向かい合い、一礼した。
引き返し際に、先輩が頭をガリガリ掻きながら、「キイチ以外に…、あんな声上げさせられるとは…」とかなんとかブツブ
ツ言っていた。
ごめんなさい先輩、妙な真似しちゃって…。…でも、意外にも可愛い声出すんだなぁ。
その後も試合は順調に進み、次鋒戦は現役チームが、中堅戦もゲンが見事に勝利を収めた。ゲン、やるぅ!
が、副将戦を三年チームに取られ、二対二の五分。勝敗は、大将戦に委ねられた。そして…。
キダ先生の手からバッと白旗が上がると、息を乱したタヌキ主将は、呆然とそれを見つめた。
「判定負けか…。鈍ったなぁオレも…。いや、それ以上にタヌキが強くなったのか」
息を弾ませながら、イイノ先輩は嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「オレの…勝ち…ですか…?」
困惑しているように、何度も瞬きしているタヌキ主将に、イイノ先輩とキダ先生は大きく頷く。
「いやったぁあああああ!」
両腕を上に突き上げ、タヌキ主将はガッツポーズを取った。
妙な感じだった。なんていうか、タヌキ主将、階級が上の相手と戦い慣れてる感じがするっていうか…、とにかく、自分よ
り大きなイイノ先輩相手に、組み辛そうな様子は全く無かった。
今、部内じゃイイノ先輩の階級の部員はゲンしか居ない。でも二人はそれほど組み合ってない。どこかで練習してるのかな?
「さて、勝敗はこのようになったが…。どうだ?」
神棚を背にしたキダ先生は、姿勢を正して向き合っているおれ達に向かって、そう口を開いた。
いや、おれ達にじゃないな。三年の先輩達に訊いているんだ。今のおれ達に、不満は感じないかって…。
「文句のつけようもありませんよ。見事にしてやられました」
イイノ先輩は軽く肩を竦め、でも嬉しそうにそう応じた。
他の先輩方も笑い混じりに口を開いた。
「サボったり気が抜けてたりしてたらどうしようかと冷や冷やしてましたが…」
「まったくです。心配するだけ損でしたね」
「ははは!偉そうに先輩面できないっすねこれじゃあ」
キダ先生は満足そうに皆を見回した後、
「お前はどうだ?アブクマ」
と、先輩に声をかけた。
軽く緊張しながら耳を傾けたおれの鼓膜を、先輩の声が震わせる。
「どうもこうもねぇよ。どぎも抜かれちまった」
先輩は低い笑い声を混じらせた声で、楽しげに言う。
「頼りなかった一年まで、すっかり立派んなった。もう、俺達が心配するような事は何一つねぇよ」
安心したような、そして少し寂しそうな、それら以上に嬉しそうな声に、おれ達は皆で聞き入った。
後になって、おれ達はこの日の事を何度も、何度も思い返した。先輩方が認めてくれたこの日の試合の事を…!
「あ、アブクマ先輩」
「おう、お疲れウエハラ!」
シャワーを浴び終え、靴を履いて帰る間際の先輩に、おれは頭を下げた。
「その…、済みませんでした…。ヘンな事しちゃって」
「ん?あぁ、…き、気にすんな!」
先輩はなんだか恥ずかしそうに苦笑いした。
「それより、随分腕上げたなぁウエハラ。すっかり頼もしくなったぜ」
靴を履き終えて立ち上がった先輩は、たたきと床の位置関係で高さが近くなったおれの肩に、ポンと大きな手を置いた。
「試験も近いから、俺ももう追い込みに入らなきゃなんねぇ。しばらくは顔を出せなくなるが…、入試が終わったら、また邪
魔しに来るからよ」
そう言うと、先輩はニカッと歯を見せて笑った。
「お前が嫌じゃなけりゃ、また試合形式で一戦してみるか?」
「は、はいっ!ぜひ!」
おれはブンブンと尻尾を振りながら頷く。当然だろ?だっておれのせいで消化不良な試合にしちゃったんだから。
先輩は少し嬉しそうに頷いたあと、声を潜めておれに耳打ちした。
「…でも、臍に舌入れんのはもうカンベンな?」
「は、はい…!済みませんでした…!」
どういうわけか、先輩の体の感触と匂い、そして味を思い出したら、股間が硬くなった…。
シャワーが空くのを更衣室で、戸締まり担当のゲンと二人っきりで待ちながら、おれはゲンの健闘を手放しに褒めた。
「そ、そんな…。ぼくのはまぐれだよ…。イヌヒコの方こそ、本当に凄かった!あんなにおっきなアブクマ先輩と、凄い試合
をして…!」
ゲンは自分の事は謙遜しながら、目をキラキラさせておれを見つめ、褒めてくれた。
…負けたけれど、ゲンの言葉は慰めとは違う。
前は気を遣ってフォローされてるように感じて、負けて褒められるのは嫌だったけれど、こういう褒められ方も、今は悪い
気はしないかな…。
「ところでさ、ゲン」
「うん?」
おれは手触りの良かった先輩の腹の感触を思い出しながら、入ってるヤツらがまだ浴室から出てこない事を確認しつつ、小
声で言ってみた。
「シャワー空いたらさ、ちょっと腹触らせて?」
「…へ?」
ゲンはきょとんとした顔で、首を傾げた。
たぶんだけど、ゲンの腹もああいう感触のはずだ。体中ぷにっと柔らかいもん。
「良いけど…、何で?」
「ん〜…、何となく…、かな…?」
少し恥ずかしそうに聞き返したゲンに、おれは適当に誤魔化した。
アブクマ先輩の腹が手触り良くて、ちょっと興奮したから。…なんて、まさか言える訳ないだろ!?