FILE1

雨上がりの湿気た大気越しに、滲んだ満月が浮かんでいる。

輪郭のぼやけたオレンジ色の月が、俺の居る暗い路地裏をうっすらと照らしていた。

路地の壁に反響し、遠くから盛り場の喧噪が微かに聞こえてくる。時刻は夜の10時を過ぎたばかり、この街はまだまだ眠

らない。

指から滴る血を長い舌で嘗め取り、俺は仕留めたばかりの獲物を見下ろす。

月光に照らされ、横たわったそいつはすでに息が無い。

派手に動きすぎた。それがこいつのミス。

俺達のような存在が、社会に混じって生きていくならば、やりすぎた同類を手にかけるのもやむを得ない事だ。こいつはや

りすぎ、俺には狩りの依頼が回ってきた。

残っているのが血痕だけなら、誰も大して気にとめはしない。ここはそういう街だ。だが死体を残すのはさすがにまずい。

正体丸出しのモノは特にだ。

俺は獲物の骸を担ぎ上げ、暗く狭い路地を選びながら住み家へと引き上げる。

そして俺は、帰路の途中で重大なミスを犯した。

狩りの心地よい疲労が、俺の注意力を鈍らせていたのか。

口の中に残った新鮮な血が、俺の嗅覚を鈍らせていたのか。

銀の体に注ぐ心地よい満月の光が、俺の心を惑わしていたのか。

狭い路地の曲がり角で、そいつと俺はばったり出くわした。

赤いティーシャツにジーンズの上下。動きやすそうな格好をしていた。まだ幼さの残る顔には厚ぼったい眼鏡、二十歳かそ

こらの若い女だ。驚いたように開かれた目が、俺の目とあった。

出会い頭の一瞬でそこまでは確認したが、足早に歩いていた俺は、あろう事か、ぶつかってそいつを転倒させてしまった。

尻餅をついた女は「キャッ!」と小さく悲鳴を上げた。転んだ拍子に眼鏡が落ち、アスファルトの上に転がる。

…見られた!

俺は素早く思考を巡らせる。この姿を見られたからには放ってはおけない。俺達が生き延びようとするならそれが鉄則だ。

殺すか?女一人仕留めるのは簡単な事だ。しかし俺はすでに獲物を担いでいる。一人ならなんとでもなるが、二人分の死体

を抱え、人目につかないよう住み家に戻るのは難しい。

僅かな間俺が逡巡していると、女がガバッと身を起こした。

「ご、ごめんなさい!暗くてよく見えなかったから、気が付いたら目の前に…」

俺は思わず眉根を寄せていた。どうも様子がおかしい。

「ほんとうにごめんなさい。怪我とか、してないですか?」

「あ、ああ。こっちは大丈夫だ…」

ペコペコと頭を下げる女にそう答える。この姿での発声は声帯が変化している上に、口の端から空気が漏れて聞き取りづら

くなる。なるべく正確に発音するよう気を配った。

女はほっとしたように胸に手を当てると、「あっ!」と声を上げ、いきなり地面に屈み込んだ。

「…眼鏡、眼鏡…!」

俺は努めて冷静に状況を分析する。

俺達の目は、人間の目と違い夜目が利く。微かな光でもはっきりと物が見える。事実、俺からは女の姿がはっきりと見えていた。

だが、眼鏡が飛ぶまでの一瞬では、女には俺の姿がはっきりと認識できなかったようだ。明るい所から暗い路地に入ってき

たばかりで、目が慣れていなかったのかもしれない。その証拠に、女は俺に対して普通の人間に対処するように接している。

姿をはっきりと見ていたなら、普通はパニックになっているところだ。

つくづく幸運だったな、…お互いに…。

「眼鏡、これだな?」

俺は眼鏡を拾い上げると、女の眼前に突き出す。

「あ、ありがとうございます!」

女はペコペコとお辞儀すると、眼鏡をかけた。

「…あれ…?」

路地に一人ポツンと立ちつくし、女はキョロキョロと周囲を見回した。

しばらく不思議そうに周囲を見回したあと、女は首を傾げながら去っていった。

女の姿が消えてから、俺はほっと息を吐く。どうやら気付かれずに済んだようだ。

女が眼鏡をかけるまでの一瞬で、俺は獲物を抱えたまま5メートル程垂直に跳び、ビルの壁に鋭い爪を打ち込んで、壁面に

ぶら下がっていた。

今は右腕で壁にへばりつきながら、左腕で獲物を抱えている。人間を遙かに上回る筋力を持ってしても、はっきり言って長

時間はつらい体勢だ。

俺は周囲を入念に確認し、路地に降り立つ。

…どっと疲れた。さっさと獲物の処分を済ませ、今日は休むとしよう…。



俺の名は字伏夜血(あざふせやち)。

寂れた雑居ビルの四階に住居兼事務所を借り、この街で私立探偵をしている。

日々の糧を得る為の仕事は、別に何でも良かったのだが、生い立ちや経歴、素性が関係なくやれる仕事で、かつ俺ができそ

うな仕事を考えたら、探偵が適しているように思えた。それで、独り立ちに際して探偵を始めたのである。

事実、俺の鼻は捜し物に役立つし、夜の尾行などはお手の物だ。

それに、探偵という職業は、俺が生きていく上で実に役立つ。

情報収集の為に裏の社会…、つまり世間一般でいうところの「胡散臭い連中」や「その筋の人間」と関わり合いになる事が

多く、その筋からの情報が得やすいのである。例えば、妙な殺しがあった、変な生き物を見かけた、など、そういった情報である。

俺達のように、人間の社会に溶け込んで生きる者には、暗黙のルールがある。

一つ、生きるため以外に殺すべからず。

一つ、可能な限り人の法を破るべからず。

一つ、正体を知られるべからず。

生きるための殺しは黙認されるが、やりすぎれば同類が黙っていない。

普通の人間として振る舞う訳だから、人間社会のルールも守らなければならない。

正体が知られて騒ぎになれば、自分だけでなく、他の同類にも迷惑をかける。最後の一つは特に遵守しなければならない。

今日仕留めた獲物は、三つのルールの一つめに触れた。そして狩られる事になったのだ。

事務所のバスルームで、鱗だらけの死体を袋に詰めながら、俺は指についた血を嘗め取る。獲物は蜥蜴の頭部と鱗を持つ、

人間型の生き物だ。

ライカンスロープ。

それが俺達を指す言葉。普段は人の姿を装いながら、半人半獣の本性を持つモノ。それが俺達だ。

おとぎ話や伝承の中の存在に思われているが、実在する証拠がここにも居る。

殆どの者は人間との接触を避け、山深い場所や、人気のない場所で、同族同士で寄り添うように、ひっそりと暮らしている。

しかし、一部の者は正体を隠し、遙か昔から人間社会に溶け込んで生きている。俺もその中の一人だ。

死体を袋にしまい終え、俺は手を洗って携帯を手に取る。

最初は面食らったこの小さな機械にも、今ではすっかり慣れた。…が、この姿では鋭い爪が邪魔で、ボタンを押しづらいの

が欠点ではある。爪の先でつついてもボタンが傷つかない機種が出ることを切に願う。

登録してある番号を呼び出してコールする。耳が人間と比べて上の方についているため、この姿での通話はしっくりこない

が、鋭い聴覚で音は拾えるので、通話自体に支障はない。

数回の呼び出し音の後、相手の声が聞こえてきた。穏やかな女の声だが、通話の相手はこの辺りの同族の取り纏め役だ。

「ヤチだ。依頼のあった対象は始末した」

相手は労いの言葉を言い、報酬はいつ渡せば良いかと尋ねてくる。

「色々あって疲れたから、今日はもう休む。死体の引き渡しと礼金の受け取りは、明日の夜にしたい」

承知した旨の返答を受け、俺は通話を切った。

死体袋をバスルームに転がしたままシャワーを浴び、自慢の銀色の体毛を丹念に洗う。全身をブローするのでは大変だが、

簡単に水気を切ったら意図的に体温を高め、後は乾くに任せるだけだ。ドライヤーいらずなのは俺達の大きな特権だと思う。

ある程度毛が乾いた後、リビングに入り、冷蔵庫からビールを取り出した。タブを起こし、大きく口を開け、よく冷えたビ

ールを一気に喉に流し込む。

「あー!この一杯の為に生きてるって感じがするよなあ!」

生き返ったような心地に、大きく息を吐きながら、良く「じじむさい」と言われるセリフを吐く。…別にいいじゃないか。

この瞬間は本当にそう思うのだ。

缶ビールをチビチビ飲むのは性に合わない。というよりも、この口の形状では難しい。俺は天井を仰ぐようにしてビールを

あおり、テレビをつけた。寝室もベッドもあるにはあるが、ほとんど使っていない。深夜のニュースを見ながら、リビングの

ソファーで眠りにつく。それが俺の日常だ。

本来の姿でくつろげる、窓のないこのリビングが、俺の数少ない安らぎの空間だった。



翌日。突然事務所の呼び鈴が鳴ったのは、昼近くになってから起き出し、顔を洗っている時だった。

慌てることはない。俺は起きた後にはすでに人間の姿になっている。これは習慣である。いかに自分の部屋といえども、日

中は来客に備え、人間の姿を維持しなければならない。

地味なスーツを着込んでいた俺は、急いで応接室兼仕事場へ向かう。このスーツとネクタイというものは、どうにも好きに

なれないが、探偵としての仕事中は仕方なかった。毎日朝から晩までこの格好で過ごしているサラリーマン達には、正直頭が

下がる思いだ。

「どうぞ」

素早く部屋に入り、ドアの鍵を開けた俺は、そこに知った顔を見て唖然とした。

赤いシャツにジーンズの上下、幼さの残る顔には厚ぼったい眼鏡…。

昨夜の女だ!

気付かれていたのか?何故俺の居場所が?やはり殺すべきか?だがここではまずい…!

一瞬の内に俺の頭の中を様々な考えが巡った。

「あの…、アザフセさんですか?」

女は驚いている俺を見て、困惑したように言った。

「そうですが…?」

いつでも女を取り押さえられるように備えながら答える。

女は少し緊張したように俺を見つめ、いきなり頭を下げた。

「急な訪問、ごめんなさいっ!捜し物の達人だと聞いて、ぜひお願いしたい事が…!」

…気付いてやってきた訳ではないのか?

冷静に考えてみれば、昨夜あの姿を見られていたとしても、直接今の俺と結びつきはしないだろう。今の俺の姿は、やや痩

せ形の、ごく普通の人間の男だ。

奇妙な偶然に戸惑いながらも、俺は女を室内に通した。



女は白波洋子(しらなみようこ)と名乗った。

「はあ、雑誌記者…、ですか」

渡された名刺には、俺の知らない雑誌編集部の名前と、女の名前が書いてある。

「ええと私…、月刊ミステリーラインっていう、都市伝説やオカルトを題材にしている雑誌に記事を書いてるんですけど、や

っぱり知りません…よね?」

なるほど、その手の雑誌か。俺が知らない訳だ。

「それでシラナミさん…」

「あ、ヨウコと呼んでください」

「…では、ヨウコさん。捜し物とは?」

スクープのネタ。などと言われたら困るな。喜びそうなネタが目の前に居るわけだが、教えてやる訳にはいかない。

「その、実は…」

一度口ごもった後、ヨウコは俺の顔を真っ直ぐに見つめた。強い意志がその瞳から見て取れる。揺るぎない、硬い決意が。

「姉を殺した犯人を、探して欲しいんです!」



ヨウコには、四つ上の水穂(ミズホ)という姉が居たらしい。

性格は正反対で、引っ込み思案で物思いに耽りがちなヨウコに対し、ミズホは明るくさばさばしていて人気があったそうだ。

「姉さん、美人だったんですよ。私はそういうところは似てなくて…」

…とりあえず、眼鏡を外して服装をなんとかすれば、男も寄ってくるんじゃないのか?

ミズホは高校を卒業してすぐに、両親の反対を押し切り、この街で一人暮らしを始め、あるクラブのホステスとして働いて

いた。そこは俺も名前を知っている、有名な店だ。

昨年地元の大学を卒業し、記者になる事を夢見て田舎から出てきたヨウコは、ミズホのマンションに同居していたそうだ。

ミズホが死んだのは二ヶ月前。住んでいたマンションの屋上から飛び降りたらしい。

飛び降りた場所には揃えた靴が置いてあり、自室の机には「疲れた」と、それだけが書かれたメモが残してあったそうだ。

警察の見解は自殺。まあ、妥当な所だろう。都会に憧れ田舎から出てきたはいいが、ホステスとしての生活に疲れ、命を絶

った。ありふれた筋書きだ。…まるで手本のようにな。

「おかしいんです…。姉さん、来年の春になったら結婚する予定だったのに、死んだ日の翌日が婚約者の誕生日で、プレゼン

トを用意していたのに…」

「そのことについて、警察は何と?」

「…婚約者との交際も含めて、人間関係に疲れたのだろうって…」

ヨウコは泣き出しそうな顔で答えた。

気付かれていないとはいえ、この女と関わりあいになるのはなるべく避けたかったが…、これも仕事だ、調査を引き受けよ

う。…それに、肉親を失った悲しみは、俺にも解る…。

俺が調査を引き受ける旨を伝えると、ヨウコは顔を輝かせ、何度も何度もお辞儀した。



俺はヨウコの案内で、彼女のマンションの屋上に登った。

ミズホが飛び降りた場所を調べる為だ。手すり周りに少々気になる点があったが、ヨウコが一緒ではやりづらい、後でまた

来るとしよう。

続いて俺は部屋に案内して貰う。

ミズホの部屋と、彼女がよく過ごしていたリビングなどを調べる。最期の言葉が書かれていたというメモは、電話の横に備

え付けられていたメモの束の一枚だった。

ヨウコから、彼女はほとんど使わないというメモの束を借り、ある程度調査してから連絡を入れると約束し、部屋を後にする。

部屋を出る頃には日も暮れていたので、ヨウコに夕食を勧められたが、失礼にならないよう丁重に断った。鼻を使うなら、

嗅覚が鋭敏化する空腹時の方が良いからである。

俺は再び屋上へ登ると、手すりを見つめる。上着を脱ぎ、シャツのボタンを上から半分外し、拘束を緩める。本来の姿に戻

った際に服が破れてしまうからだ。本来の姿を取り戻せば、現場に残された痕跡を見つけ出せるかもしれない。

人が来ないことを入念に確認し、全身を縛る意志の束縛を解く。俺は短時間、本来の姿を取り戻し、飛び降り現場を探った。

そして、二ヶ月が過ぎてもまだ残る、手すりについたその臭いをしっかりと覚えた。忘れる心配はない。昔に馴染んだ、タバ

コの臭いだった。

それからミズホが務めていたというクラブを訪ねる。ずっと前に来たことがある事にし、その時に会ったと偽って、ミズホ

の事を聞いてみる。少々財布に無理をさせてドンペリを頼むと、面白い情報が手に入った。

俺は店を出たその足で、ある知り合いの助力を求め、歓楽街へと向かった。



夜にこそ真の姿を現す歓楽街。

その最奥に場違いに聳える巨大な高級ホテル、シルバーフォックス。中には高級料亭やカクテルバー、クラブがある無敵の

不夜城。そこが俺の目的地だった。

狐の耳と尻尾がついたタキシード型のユニフォーム、バニースーツならぬフォックススーツを着込んだホテルガール達に挨

拶をしながら、俺はフロントの女の子に声をかけた。

「こんばんは、ショウコちゃん」

「いらっしゃいませ、ヤチさん!」

笑顔で挨拶した耳付きヘアバンドの女の子に、俺も笑みを返す。

「タマモさんはいるかい?」

「はい。昨夜の仕事の件ですね?」

「それもあるが、頼みたい事もあってね、探偵としての仕事で」

「かしこまりました。奥へどうぞ。いつものようにススキの間でお待ち下さい」

俺は礼を言ってホテルの奥へと足を進める。

場にそぐわない安物のスーツを着込んだ俺に、周囲の何人かの客が視線を向けるが、これは慣れている。

何度も顔を合わせている常連であれば、それほど気にもとめないのだがな。



「お待たせしたわね、ヤチ君」

「いや、連絡を入れなかった俺が悪い。勝手に寛がせて貰っていたよ」

畳の上で座布団を枕に寝転がっていた俺は、襖を開けて入ってきた女性に、身を起こして挨拶した。

首周りの毛を軽く整え、ワイシャツの襟を直す。ボタンは上から三つがしめられないが、これはまあ仕方がない。

 せいぜい30分ほどだったが、持て成しに出された新鮮な肉料理に加え、束縛を解いての休息は実に心地よく、少し休むだけ

のつもりが、つい眠ってしまっていた。

このホテルの一部は、俺の部屋と同じように、人の姿を解いても問題ない空間になっている。事情を知る従業員と、俺達の

ような客、ママに鍵を与えられた者だけが出入りできる、一般客が決して入れない空間だ。

このススキの間もその中にある一部屋で、60畳の和室は冷暖房完備、上座にはセンスの良い、水墨画の掛け軸がかかって

いる。俺達の会合などに利用されるのも、もっぱらこの部屋だった。

着物を身に付けた女性は、卓を挟んだ向かいに正座した。少しつり上がった切れ長の目をした美人で、薄紫の着物がよく似

合っている。

芒野玉藻(すすきのたまも)それがこの女性の名前だ。このホテルのオーナーで、この街に住む同族の相談役であり、取り

纏め役でもある。

物静かで、優雅な物腰の美人だが、怒らせると無茶苦茶怖い。このあたりで彼女に逆らえる同族は、俺が知る限り一人も居

ない。…まあ、昔から色々と世話になっているので、実のところ俺も頭が上がらないのだが。

「昨夜はご苦労様。もう引き取りに行かせても良い?」

「ああ、バスルームに置いてある。持っていってくれ。ところであいつ、新参者だな?一体何をやった?」

「この一ヶ月で一般人を4人喰ったわ。その中の一人は警官よ」

「あ〜、もしかして、池神公園のホームレス2人、それと東道高架下のバラバラ死体事件、警官殺しは…、先週のか」

「あら、さすが探偵さんね。知っていたの?」

「知らずに狩ったさ。あの事件の犯人だとは今知った。どれも普通の人間の犯行とは思えなかったが、納得いった」

俺達は、完全な獣ではない。人としての部分も併せ持っている。それは肉体的な事だけでなく、精神的にも、本能的にもだ。

俺達の魂の深いところには、常に人間の血肉を求めて叫びを上げるケダモノがいる。「人間の体を手にしたい」「完全なる

人間の体になりたい」と。

歪んだ生命だからなのか、俺達の魂と肉体は人間の血肉を求める。まるで、人間を喰らい続ける事で自分の中の獣性が薄ま

り、いずれは人間になれると思いこんでいるように。

実際にはそんな事は無い。人間になったライカンスロープの話など、聞いたこともなかった。だが、人間の血肉が俺達の肉

体をひどく活性化させる事だけは確かだ。傷ついた肉体は、人間の血肉によってたちどころに癒え、普段の数倍の力をも引き出す。

だが、人の血肉を喰う事は危険だ。その効果を体感してしまうと、その魅力的な効果の虜にされかねない。その魅力に溺れ、

常習的に人間を喰らうようになる者も存在するのだ。

そうなればもちろん人間社会は騒がしくなり、俺達も暮らしにくくなる。だからこそ、やりすぎたヤツは同族によって狩

られるのだ。

「確かにやりすぎだ。だが、警告はしていたんだろう?」

「ええ、同族の一人が忠告に行ったわ。…二日後に見つかった時には、右手しか残っていなかったけれど」

俺は眉を潜める。そいつはつまり…。

「…同族をも喰ったのよ、彼は」

「なるほどな、狩りの依頼が来て当然か…」

街に住むライカンスロープは強い連帯感を持つ。互いに協力しなければ、人間社会に溶け込んで生きるのは難しいのだ。同

胞を殺され、タマモさんが黙っている訳はない。

「それにしても鮮やかなものね、頼んだ次の日には仕留めてくれるのだから。ヤチ君は素晴らしい狩人になったわ」

「褒めても何も出ないぞ?それに、捜し物は俺の十八番だからな…」

そう、探すのは得意だ。なのに、あいつはいまだに見つけられない…。

物思いに耽っていると、タマモさんは目を細くして俺を見つめた。

「どうしたの?疲れているようだけれど…」

「まあ、ちょっと色々あってな…」

「無理してはダメよ?それと好き嫌いもしちゃダメ。きちんと野菜も摂っている?」

今年で29歳になったというのに、彼女はいまだに俺を子供扱いする。俺がガキの頃から知っているのだから、それも仕方

ない事か…。

俺達は若い姿で過ごす時間が長く、平均寿命も120前後と人間より少し長めだ。せいぜい30代前半に見えるタマモさん

も、実はかなり歳がいっているらしい。…正確な年齢を聞く度胸はないが…。

「そんな事より調べて欲しい事がある。内容が内容だけに、こいつは俺が調べるより、そっち側から手を回して貰った方が良

いだろう」

俺は小言を無視し、本題を切り出した。ヨウコから依頼があった件について説明し、調べた事と、俺の推測について説明する。

「婚約者の居るホステスにしつこく言い寄っていた男…。どうにもきな臭い話ね…」

ミズホは、伊藤という男に付きまとわれていたらしい。金をばらまいていく上客だったそうだが、実はこの男、とある事務

所の幹部…、いわゆるヤクザだ。

「伊藤という名字しか分からなかった。毎日のように顔を出していたらしいが、ミズホが飛び降りた日から顔を出さなくなっ

たらしい。特徴は…」

伊藤についてはもう少し調べたかった。しかし、やつがもしタマモさんが懇意にしてもらっている所の人間だった場合、勝

手な真似をすれば、彼女のメンツを潰す事にもなりかねない。それで、こうして一応伺いを立てに来たのだ。

店のホステスの一人から聞いた特徴を伝え、籍を置いている事務所の名も伝えると、タマモさんは意味ありげに微笑んだ。

「分かったわ。そこは確か本城組の傘下ね…。丁度今、本城の親分さんが銀狐亭にいらしているから、お伺いしてみるわね。

もう少し待っていてくれる?」

渡りに船とはこの事だ。本城の親分は、昔気質の任侠だ。下の者の不義をなあなあで流すような人じゃない。思ったよりも

早く「許可」が降りるかもしれない。

俺はタマモさんを送り出すと、結果を待って再び横になった。…果報は寝て待て、だ。