FILE11

「よし、12秒。だんだん早くなってきたな」

俺はユウの顔を見上げ、笑いかけた。

だが、ユウは不満げな様子で俺の顔を見つめ返す。

「でも…、ヤチさんはもっと早いですよね…」

今、ユウは変身のトレーニング中だ。変身の必要に迫られた時、肉体を変化させる速度は、早ければ速いほど大きなアドバ

ンテージをもたらす。

「それはそうだ。俺もこうやって反復練習したからな。今では6秒強だが、最初は15秒以上かかっていた。そう考えれば、

ユウはかなり良いペースだと思うぞ」

まだ幼さの抜けきらない白熊の顔が、少しほっとしたように緩んだ。

ユウ自身は穏やかで優しい性格だ。だが今現在、俺達の同志の中には狩人向きの者は少ない。その点で熊のライカンスロー

プであるユウは皆から期待されているのだ。

…正直な事を言えば、ユウに訓練を施すのは気が進まない。

本人も望んでいる事なのだが、できればユウには狩人になって欲しくない。

優しいユウは、きっとビャクヤのように、辛い思いをする事になる事が目に見えている。護身の為にと、傷の修復や爪や牙

の硬質化、筋力操作など、一通りの技術は教えてはいるが…、できれば使わないに越した事はない。…これでは、身内贔屓だ

と思われても仕方がないな…。

だが、今回ばかりは事情が事情だ。気は進まないが、俺が教えられるだけの事は、全て教えておく必要があった…。



フータイとの邂逅から一週間。ネクタールの手がかりは途絶えたままだ。

だが、タマモさんは一つの策を考えついた。

それは…、やつらに正体を知られている、ユウを囮にする事だった。



ススキの間に呼び出された俺とユウは、タマモさんから聞かされた計画に、唖然とした。

「反対だ!ユウはまだ変身のコントロールも上手くいかない。それに、双角の件で、ユウはこちら側に付いたのがバレている!」

「おそらく、バレていないわ。フータイが報告しているとは思えないもの」

タマモさんは、辛そうな顔で言った。

…分かっている。彼女にとっても苦渋の決断なのだ。だが…。

「どのみち、ヤツらに正体を知られているユウ君を護るには、ネクタールを潰さなければいけないわ」

「それは分かっている…!それでも、俺は反対だ!」

「長引けば、また双角のような者が産み出されるかもしれないのよ。時間が経てば経つほど、私達は不利な状況に追い込まれ

てゆく事になる…」

頭では理解できる。だが…、

「やります」

ずっと沈黙を守っていたユウが、ポツリと言った。

「ユウ!?」

「やらせて下さいヤチさん。僕だって、やっとできた仲間が酷い目に遭うのは嫌です」

俺はなんとか思い直すように説得を試みたが、ユウの決心は硬かった。

荒事は嫌いなくせに、義理堅いユウは、やっと出会えた仲間達の役に立ちたかったのだろう。

説得できない以上、俺はユウに対し、できうる限りの危険回避策を授ける事しかできなかった。



「囮!?」

ヨウコの驚きはかなりのものだった。

「どうしてそんな事…!止められなかったんですか、ヤチさん!?」

あんなに怒っているヨウコを見るのは初めてだった。放っておけばタマモさんの所に怒鳴り込んでいただろう。

「落ち着いて下さいヨウコさん!僕からもお願いした事なんです!」

もちろん、ヨウコもユウを説得しようとした。だが、少年の決意は硬く、やはり受け入れてはくれなかった。

ユウが自室に籠もって勉強を始めた後、俺とヨウコは深夜まで話し合った。

「俺が付きっきりで護衛する。確実では無いが…、ユウには傷一つ付けさせはしない」

「ヤチさんの言葉は信じます…。でも、どうしてこんなことに…」

ヨウコは目に涙を溜め、項垂れて肩を震わせた。

俺がついていながら…、まったくもって情けない…。



「ユウ君とは、私が一緒に行動します」

事務所を訪ねてきたショウコちゃんは、俺とヨウコにそう告げた。

「急に一人で行動させるのも、罠ですよ〜ってアピールしているみたいじゃないですか?」

「それはそうだが、何も君でなくとも…」

「私なら傍にいても警戒されないですし、ほら、デートっぽく見えるんじゃないですか?」

…言われて見れば確かにそうだが…

「しかし…、タマモさんは…」

ショウコちゃんはタマモさんの秘蔵っ子だ。幼い頃からタマモさんの元で育ち、ライカンスロープの知識も豊富。

 しかし、それは机上で得た知識に過ぎず、もちろん実戦経験などは無い。やはり危険すぎる…。

「ママの許可は得ました。それに、危険は承知のうえです。私もユウ君と同じ気持ちなんです」

ショウコちゃんは真っ直ぐに俺を見つめた。

「私だって、役に立ちたいです…」

まだ14歳のユウが自分の身を危険にさらして囮になるのだ。若いとは言え、ユウより年上のショウコちゃんも、黙って見

てはいられなくなったのだろう…。

…気持ちは分かる。ビャクヤの背を追いかけていた頃の俺も、同志達の役に立ちたくて背伸びしたものだからな…。

「分かった」

「ヤチさん!?」

俺の返答に、ヨウコが抗議するように声を上げた。

「ヨウコさんが心配するのは理解できる。俺も同じ気持ちだからな。だが、ここは認めてやろう」

なおも心配そうなヨウコを安心させるために、俺は力強く頷いて言った。

「約束する。俺の誇りにかけて、必ず二人を守って見せると」



…と、かっこつけては見たものの…。

俺は物陰から物陰へと移動しながら、ユウとショウコちゃんの後をつける。

歩きながら会話し、時折笑顔さえ見せる二人をこそこそと尾行する男…。分かっている。これは仕事なのだ。しかもかなり

緊迫した囮捜査中なのだ。

…なのになんだ、この後ろめたさは?まるでストーカーにでもなったような気分だ…。

日曜日のショッピングモールは、人混みでごった返している。これでは例え二人に何者かが接触して来たとしても、離れて

いる俺からは、ライカンスロープかどうかを判断するのは難しい。だが、二人はあえてこの場所を選択した。

理由は二つある。一つめは、元々ユウが出歩いていた範囲であり、ネクタールが目を付けやすいだろうという事。二つめは、

人混みの中ならば、接触からいきなり拉致されはしないだろうという事だ。

例えこの場での接触が無かったにしろ、尾行に気付いた時点でショッピングモールを抜け、なるべく人気のない所へ誘導し、

接触者を捕縛する。

ちなみに、肉眼で視認できる範囲内での監視は俺だけだ。監視が多ければ、囮捜査だと気付かれる可能性が高まるからである。

他にも十数名の同志が、双眼鏡等を用いて離れた場所から監視し、リアルタイムで情報を送りあっているが、事が起きたと

きに即座に動けるのは俺だけという事だ。

今のところは二人からのサインは無く、俺からも尾行者は確認できていない。

二人は映画のポスターを前にして立ち止まり、何やら話している。

ショウコちゃんは19歳、大学一年生だ。ユウはもうじき15になり、来年からは高校に進学する。

ショウコちゃんの方が少し背が高いが、ユウは育ち盛りだ。今は姉弟のように見える二人も、2、3年もすればお似合いの

カップルのように見えるようになるだろう。…こんな時に何を考えているのだ俺は…?

だが、二人は演技しているようには見えない。追跡を警戒しているとはいえ、本当に楽しいのだろう。

そうそう、タマモさんがユウについて、興味深い事を言っていたな…。



「彼、どうやら皆白のようね」

ススキの間に料理を用意し、調査報告に訪れた俺を労いながら、タマモさんはそう言った。

「ミナシロ?」

聞き慣れない言葉に、首を傾げると、タマモさんはミナシロなるモノについて説明してくれた。

「月輪熊の変異個体の事よ。彼らには、時折胸元に月が無い個体が生まれる事があるの」

「胸元の月が無い…。真っ黒ということか?」

タマモさんは俺の問いに頷く。

「全身黒色で月の輪がない個体は、皆黒と呼ばれるわ」

「ミナクロ?シロではなく?」

ミナシロにミナクロ、どちらも初めて聞く言葉だった。

「逆に、全身が白色で月が確認できない個体がミナシロ」

ああ、なるほど。全身が白いから「みんな白」つまりミナシロか。

「マタギ達にとって、ミナクロは山の神の使いとされていたの。もしも獲ってしまったら、そのマタギはタテを収めるしきた

りなの。例え知らずに獲ったとしてもね」

「タテを収める?」

いちいち質問せねば理解できない。そもそも聞き慣れない単語ばかりなのだ。

「タテ、マタギ達が使っていた熊槍の事よ。タテを収めるというのは、つまりマタギを止めるという事。山の神の使いを殺し

た責任をとるという事らしいわ」

なるほど。少々迷信深いとは思うが、古き世のマタギ達の姿勢には共感を覚える。厳しいしきたりの中で己を律する。自然

に生かされている者は、やはり自然に敬意を払わねばならないのだろう。

「それで、ミナクロが神の使いならば、ミナシロは何なのだ?」

「ミナシロはね、山の神そのものよ」

タマモさんはそう言って、悪戯っぽく笑った。

山の神…。狩人としての肉体に、他者に力を与える能力…。なるほど、ユウの力を表現するにはピッタリだ。

「ホッキョクグマでは無かったのだな…」

「あら、ホッキョクグマだったら、もっと顔立ちがスリムなのよ?」

言われてみれば、水族館で見た白熊は、羆やらグリズリーやらと比べると、流線型でスリムだったか…?



……………!?

俺は微かな匂いに気付き、回想を断ち切る。

近くに同族が居る…。だが、どこだ!?

それとなく視線を動かし、人混みを観察するが、特定できない。

ユウも気付いたらしい。ポスターの前で談笑しながらも、それとなく周囲を観察している。…よし、良い感じだぞユウ。気

付いても慌てず、何でもない振りをしている。本当に賢い良い子だ。

ユウとショウコちゃんは移動を始めた。足を速めたくなる心境だろうが、二人とも誘い出す作戦をよく理解している。遅す

ぎず、早すぎず、先程までと変わらない歩調で歩いている。

「成功、ですか?」

「ああ。このまま上手く行く事を願…」

俺は言葉を切り、弾かれたように背後を振り返った。

「ヨウコさん!?いつのまに!?」

ヨウコはきょとんとした表情で首を傾げた。

「え?二人がポスターの前で立ち止まった辺りから居ましたが?」

…不覚…!どうにも最近、ヨウコの気配を察知し辛くなってきている。恐らくヨウコと同棲する事で、俺の感覚は彼女の匂

いや気配に慣れ、異質に感じなくなってきているのだろう。慣れというのは怖いものだ…。

「何故ここに?」

「取材帰りです。声をかけようと思ったんですが、集中しているようだったので、静かにしていました」

こう見えて、結構プライドを傷つけられている俺に、ヨウコは朗らかに笑いながら言う。

「あ、ほら。二人が行っちゃいますよ?」

ヨウコに言われ、俺は慌てて視線を戻す。ええいっ!何をしているのだ俺は!



二人は事前の打ち合わせ通り、同志達が監視できるルートを通ってショッピングモールから離れた。その後でショッピング

モールから出た者は三名。

スーツ姿で、いかにもサラリーマンといった様子の男に、革のジャケットを着た顔色の悪い若者。それからボディラインに

ぴったりとフィットしたスーツを着たグラマーな女。いずれも二人と同じ方向へ歩いている。

どいつだ?さっきの匂いの主は、この中に居るのか?

俺は三人とかなり距離を開けている。風上という事もあり俺の位置からではどいつが尾行者なのか判別できない。

 かといって、あまり接近し過ぎるのはまずい。一応香水でごまかしてはいるものの、相手が鼻の利くライカンスロープだった

場合、人間の姿のままでも俺の匂いに気付く恐れがあるからだ。

「ヤチさん。私が行ってみます」

カモフラージュとして俺に同行してくれていたヨウコが小声で呟いた。

「私なら、気付かれずに特定できるはずです」

ヨウコには俺達ライカンスロープの正体を看破する力がある。それは俺達のように匂いに頼ったものではなく、相手の気配

で判別しているらしい。

はっきり言うと、俺のように社会に溶け込んでいる同族達にとっては脅威の能力だ。

 匂いならば、完璧ではないにしろ誤魔化す手段は結構多く存在する。だがヨウコの場合、相手と接近すれば、五感以外の何か

の作用で正体を見分けてしまうのだ。

 この感覚を誤魔化す手段は、俺の知り得る限り存在しない。確実に正体を見破れるだろう。

加えてヨウコは生粋の人間だ。接近しても警戒されまい。だが…。

「危険だからダメ。っていうのは無しですよ?あんな若い子達だって、体を張ってるんですから」

俺が口を開きかけた瞬間、ヨウコは釘を刺すようにそう言った。…返す言葉もない。ユウやショウコちゃんが、危険を承知

で臨んでいるのだ。俺達もまた体を張らねばならないだろう。

「距離に注意しろ。俺の変身所要時間は6秒強、走って間合いを詰めながら変身しても、割って入れるのは約7秒後、フォロ

ーできる射程距離はせいぜい100メートルだ」

「分かりました。相手に気付かれたら、7秒間逃げる。ですね?」

「必ず俺に向かって逃げること、いいな?」

「はい。黒の相手とすれ違ったらバッグを持ち替えて合図します。よろしく」

俺がその提案に頷くと、彼女は、

「あ!いけないこんな時間!済みません、また今度ゆっくり!」

「ああ、気をつけて」

わざとらしく見えないように俺に別れの挨拶をし、駆け足でユウとショウコちゃんの背を追う。

俺は少し足を速め、最後尾に居るスーツ姿の男との距離を縮め、射程に収める。

ヨウコと男の距離が縮む。あと40メートル、30、20、10…。

何事も無く男を追い越したヨウコは、バッグを…持ち替えた!…よし、気付かれてはいない!

俺は足を速め、男との距離をさらに詰めた。男が行動を起こしても、ユウとショウコちゃんに接触する前に取り押さえられ

る距離だ。

お手柄だヨウコ!俺が見つめるヨウコの背が、小走りに遠ざかってゆく。

何も起こらず、安堵した俺の視線の先で、ジャケットの若者を追い抜いた後、ヨウコはぎこちない動きでバッグを抱え直し、

再度持ち替えた。

…なんだと!?

ヨウコの走り方がぎこちなくなった。…間違いない、今のはただ持ち替えた訳ではない、あれもヨウコからのサインだ!

事態は俺の予想を超えていた。どうする!?正体もまだ判らない同族を二体相手にして、三人を守り切れるか?

とりあえず一体と交戦したとして、もう一体が二人を追った場合、割って入るのは難しい。かといって、二人を追い越して

ユウとショウコちゃんとの間に割ってはいるのは無理だ。そこまで接近すればさすがに気付かれる。

考えを巡らす俺の視線の先で、ヨウコは、三度バッグを持ち替えた。

…!?…まさか、3人ともか…!?まずい!例え3人とも雑魚だったとしても、俺一人で対処するのは難しい…!どうにか

して相手を分断しなければ…。

「あら!」

突然聞こえた声に、俺は目を見張った。

三人を追い抜いたヨウコは、立ち止まって振り返り、スーツ姿の女と向き合った。

「びっくりした〜!」

ヨウコはニコニコと笑いながら女に話しかける。…何をする気だ?

「久しぶり!覚えてる?佐藤よ私!ほら!高校で一緒だった…!」

ヨウコは親しげに女に話しかける。「偶然会った同級生」を装った芝居か!なるほど佐藤か、確かに居そうな名前だ…。

同級生の佐藤に心当たりがあったのか、女は戸惑ったように足を止めていた。ヨウコはなおも鈴木先生がどうとか話し続け

ている。…驚くほど機転が利くな…。

やはりグルだったのか、予想外のアクシデントを前に、後ろを行く二人の歩調が僅かに乱れた。その間にユウとショウコちゃ

んは歩くペースを僅かに速めた。

やるな二人とも…、この状況で離されかければ、追う方としては焦らざるをえない!

「申し訳ないけれど、人違いじゃないかしら?覚えが無いわ」

ヨウコに捕まっていた女が話を切り上げにかかった。

男達は足早にユウとショウコちゃんを追い始めている。

このまま行けば三人とも俺の射程におさまる。そうなれば、俺が三人の前に回り込み、食い止める事も可能になる。あと少

し、あと少しで良いから女を足止めして貰えれば…!

「あら?そうでしたか、失礼しました…」

ヨウコは恥ずかしそうにそう言うと、こう付け加えた。

「ライカンスロープだし、間違いないと思ったんですけれどねぇ」

その言葉に、三人がそろって硬直した。…ヨウコ!なんて無茶を!?

俺は地を蹴り、全力疾走に移る。

ヨウコはすでに身を翻し、ユウとショウコちゃんの後を追っている。

ヨウコの不意打ちで一瞬対応に遅れた三人は、慌ててその背を追う。

先頭をショウコちゃん、手を引かれてユウ、その後をスーツの女、ジャケットの若者、スーツの男、そして俺と続く。

少々焦ったが、結果的には良い構図だ。ユウに逃げられるだけなら退却もあり得るだろうが、あいつらはヨウコによって、

面と向かって正体を暴かれた。正体を知った人間を見過ごすことなどできまい。多少強引に引っ張り回されても、ついて行か

ざるを得ないのだ。

俺は頭の中で地図を描く。誘い込むポイントの一つに指定していた廃工場は、それほど遠くない位置にあった。