FILE14

「僕も行きますからね」

奇襲作戦から外れ、残るように告げた俺に、ユウはそう答えた。

「僕だって戦えます。それにあの力だってあります。仲間を助ける役には立つはずです」

その言葉からは、怯えも強がりも伺えない。少年は俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、はっきりと言う。

「だが、君はまだ…」

確かにユウの能力は貴重な戦力ではある。しかし、彼はまだ14歳の子供なのだ…。

「僕、明後日が誕生日なんです」

少年はそう言うと、口元を吊り上げて見せた。

「15歳。元服の歳ですよ?」

「しかし…」

「連れて行ってあげて下さい。ヤチさん」

承服しかねる俺の言葉を遮り、それまで黙って話を聞いていたヨウコが口を開いた。

「例えば11年前…、ヤチさんの知らない内にお兄さんがネクタールに挑み、知らない内に姿を消してしまっていたら、どう

でした?」

俺は一瞬考え、首を横に振った。

「どうって…、それは…嫌だな…」

「同じ気持ちなんですよ。ユウ君も…。私だって、本当なら一緒に…」

ヨウコは目を伏せて呟く。戦う力を持たない彼女は、もちろん留守番になる。

「…ユウ、俺には今回、君を守ってやれる自信は無い。それでも来るのか?」

ユウはコクリと頷いた。恐れのない、強い決意を湛えた真っ直ぐな目だ。

…本当に変わったな、ユウ…。もう、最初に会った時のような、おどおどとした気弱な様子は微塵も見せない。いつの間に

か、すっかり一人前の雄の顔をするようになった…。

「分かった。覚悟があるのなら、俺からは何も言う事はない」

「はい!」

諦め半分、そして嬉しさ半分に頷くと、

ユウは笑みを浮かべて返事をした。



それから三日。俺達はなるべく多くの時間を共に過ごした。

ヨウコは休暇を取り、俺も事務所を休業にした。

さすがに学生であるユウはズル休みする訳にも行かないが、学校が終われば真っ直ぐ帰宅した。

かと言って、揃って特に何かをしていたという事もない。ただ他愛のない会話で盛り上がったり、近くの店に食事に行った

り、目的も無く外出してはのんびりと遠回りしながら帰る…。そんな毎日だ。

…だが、俺は満たされていた。安らぎ。遠い昔に置き去りにしてきた懐かしい感覚…。

同志を守る事こそ己の使命と信じ、狩人として駆け抜けた夜。

ビャクヤの情報を求め、さすらった裏の社会。

人間社会に交じり、探偵として糊口を凌いだ日々。

今になって思えば、心休まる暇もなかったと言える。それでも辛いと思った事は無かった。安らぎを求める気持ちは無かった。

…いや、心をすり減らし、神経を感覚を麻痺させ、安らぎという感覚自体を忘れていたのだろう。今になって思えば、自分

の事とはいえ少々哀れだ…。

ビャクヤが姿を消したあの日から、俺は駆り立てられるように毎日を駆け抜けた。求めるべき何かも、辿り着くべき場所も、

見定める事ができないまま…。

だが、今は違う。今の俺には、支えてくれるヨウコが居る。慕ってくれるユウが居る。

二人に応える事、それが今の俺が為すべき事だ。

ネクタールとの戦いに決着をつけ、必ずまた、ユウと二人で帰ってこよう。



決戦前夜。

俺はリビングで深夜のニュースを見ながら、缶ビールをあおっていた。

薄暗い部屋の中で、銀の被毛がブラウン管の光を反射し、画像に合わせて色を微かに変え続ける。

いつものように本来の姿で、いつものように缶ビールをあおり、いつものように寛いでいる。

…予定通りに事が進めば、明日の今頃は決戦の最中だ。

「あまり飲み過ぎないで下さいね?変身したヤチさんが二日酔いで走り回ったら、飲酒運転と同じくらいに悲惨な事故になり

かねませんから」

付き合ってくれていたヨウコが冗談めかして言う。

「分かっている。ほどほどにしておくよ」

苦笑いで応じ、俺は自身の心境の変化を自覚する。そしてちらりとヨウコの様子を窺ってみる。

彼女は、出会ったときからほとんど変わらない。

俺達の社会を知り、一般常識という名の甘さを少し削ぎ落とした以外は。少々おっちょこちょいなのも、結構無茶をするの

も、あまり後先を考えないのも、出会った時から変わっていない。

そんな彼女を、最初とは違う印象で捉えている俺こそが変わったのだ。…いや、より正確に言うならば、変えられたのだろ

うな…。

しんみりとそんな事を考えている事自体、本当に変わったと言える。思わず洩れた微苦笑を噛み殺し、俺はヨウコに尋ねた。

「ユウは?」

「さっき見てきたら、もうぐっすり眠っていました。大した子ですよね。決戦を前に、緊張で眠れないという事も無いようで

すから」

まったくだ。正直、場慣れしているはずの俺でも緊張を抑えきれないというのにな。

…これも俺の心境の変化なのだろうか?それとも、ネクタールの本質を知っているからこその緊張なのか…?…いや、皆を

焚きつけた責任を感じての事かもな…。

「タマモさんが言っていましたよ。ヤチさんは変わったって」

ヨウコが突然そう言ったので、俺は缶ビールを口元に運んでいた右手を止めた。

「ヤチさんは、守るモノが出来たら変わったって」

「変わった…。俺が?」

そう聞き返しつつも、俺自身も自覚はある。護るべきモノができたから変わったのだと言われれば、確かにそうかもしれない。

「お兄さんが居なくなって、一匹狼になったヤチさんは、守る相手ができたら、群れを率いる雄の顔になったって言っていました」

「…それはタマモさんの買いかぶりだ。群れを率いるような度量は俺には無いよ」

俺は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

ヨウコやユウ、手の届く範囲をカバーするだけで精一杯だ。…だが、他者に気を配るようになったという意味では、確かに

変わっただろうな…。

「私とユウ君のお手柄だって言っていました」

「違いない。誇って良い大手柄だ。人間嫌いの俺を、ここまで馴らしたのだからな」

笑いながら言ったヨウコに、俺も笑みを返した。

「会ったばかりの事はハードボイルドな感じで、ちょっと近寄りがたい雰囲気すらありましたけど、今はそんな事無いですもんね」

「さしずめ今の俺は生焼けだな。至る所が半端だ」

「今はハーフボイルド、って言ったところですかね?でも、そのほうが接しやすいです」

…ハーフボイルドか。なるほど、まったく上手い事を言う…。



深夜ニュースも終わり、俺はテレビのスイッチを切る。

…明後日の夜も、こうしてこの部屋でビールをあおりたいものだ。

「…全部終わったら、旅行にでも行きませんか?」

唐突に言ったヨウコに、俺は目で問い返した。

「お祝いも兼ねて、ぱーっと美味しいものを食べて、ゆっくり温泉にでも浸って疲れを取って、景色の良いところを回ったり

して…。そうだ!もう紅葉も終わりですけど、蔵王とか行ってみましょうよ!温泉もたくさんありますし、山の幸も美味しい

って聞きます。私、あっちの方へはあまり行った事ないから興味ありますし」

ヨウコはいつにも増して饒舌だった。その理由は、今の俺には良く分かる。

不安なのだ、彼女も…。もしも俺達が敗れたら、もしも俺達が帰って来なかったら、そう考えてしまうのだろう。

いくら頭から追い出そうとしても、失う事を恐れる気持ちは、霧のように付き纏う。それが大切な物であればあるほど…。

「ね?良いでしょうヤチさん?約束!一緒に旅行しましょう!?」

俺の沈黙に耐えかねたのか、ヨウコはそう尋ねてきた。

「ヨウコ…」

俺は、初めて彼女の名を呼び捨てにした。その意味に気付いたのだろうか、ヨウコは少し驚いたような顔をした。

「俺はビャクヤではない。俺はビャクヤにはなれないし、なろうとするのももう止めだ。だから…」

あいつの別れ方だけは、真似したくはない。誰にも、あの時の俺と同じような…、置いて行かれたような喪失感を味あわせ

たくはない…。

俺は精一杯優しく、ヨウコに微笑んだ。狼の俺の顔が、どのように彼女の目に映るかは分からないが…。

「だから俺は、必ずここへ帰ってくる」

少し前の俺ならば、女…、しかも人間に想いを寄せるなど、堕落以外の何物でもないと断じていただろう。

俺はソファーの端に詰め、隣を開ける。

ヨウコは俺の意図を汲み取ったのか、空いたスペースを見つめ、少し驚いたように目を大きくした。

互いに動かず、言葉も発さず、しばしの沈黙が部屋を支配する。

…やがて、しばしの間戸惑っていたヨウコは、恥らうように少し俯いて、ゆっくりとテーブルを回り込み、遠慮がちに俺の

隣に腰を下ろした。

その肩に、俺はそっと腕を回す。

獲物を狩り続け、血に塗れ続けたこの腕が、相手を仕留める為ではなく、慈しむために触れる…。自分でも不思議な気分だった。

銀の被毛に覆われ、筋張った俺の腕にそっと触れ、ヨウコは俺によりかかる。

「怖くないか?人間の視点で言えば、俺は殺し屋…、いや、化け物だろう?」

「怖くなんてありませんよ。最初に会った時から一度も、そう思った事はありません…」

俺は微笑を浮かべ、耳元で囁くように言った。

「良く言う。最初に会った時は、眼鏡を落として俺の姿は見えていなかったはずだろう?」

ヨウコは、俺が何を言っているのか分からない様子だった。

「やはり気付いていなかったな?君がこの事務所を初めて訪ねた日の前夜の事だ。俺達は路地裏ではちあわせし、ぶつかった

君は転んで眼鏡を落としてしまった」

ヨウコは驚いたように俺の顔を見つめた。

「じゃ、じゃあ…、あの時、眼鏡を拾ってくれたのは…!?」

「あの時はこの姿だったからな、君が近眼で本当に助かった」

俺が笑って頷くと、ヨウコは恥ずかしそうに身じろぎした。

「どうして、もっと早くに言ってくれなかったんです…?」

「機会を逃してしまってな…。いつか話して、驚く顔を見たいと思っていたが…、良いタイミングで話がそちらに向いた。やっ

と念願が叶ったよ」

口の端を吊り上げると、ヨウコは頬を膨らまし、それから小さく吹き出した。

「なんだ?」

「いえ、意外で…。ヤチさん、そんな子供っぽい所もあったんですね?」

「…そうか?今のは子供っぽいのか?」

戸惑ってそう尋ねると、ヨウコは肩を震わせ、やがて堪え切れずに笑い出す。

彼女の様子を見ていたら、俺も釣られて笑いが込み上げた。

ユウを起こしてしまうので、大きな声を上げて笑う事もできず、俺達は声を噛み殺して笑いあった。

笑いが収まると、俺達はしばし言葉も交わさずにじっと寄り添った。

言葉も無く、互いの吐息と心臓の音に耳を傾ける。

「…ヨウコ…」

「はい…。ヤチ…」

ヨウコもまた、俺の名を呼び捨てにした。身動き一つしていないにも関わらず、互いの距離が急に縮まったような錯覚を覚える。

「他者にこんな感情を抱くのは初めてだ。だから、こんな時にどう告げるべきなのか、俺にはよく分からない…」

ヨウコは黙ったまま俺の顔を見つめ、言葉の続きを待った。

「…俺は君を愛おしく想っている。他の誰に感じるのとも違う好意を、君に抱いている」

俺は、思わず苦笑を浮かべた。

「締まらないな…、こんな言葉でしか、想いを告げられないとは…」

「…それでも、私には十分過ぎます…」

微笑を浮かべてそう言うと、ヨウコはもたれ掛かるようにして俺の胸に体を預け、笑みを深くした。

「だって、ず〜っと前から、ヤチの気持ちには気付いていましたから」

「…本当か?」

「ええ。なのにヤチの方こそ、私の気持ちに気付いてくれていなかったんですよ?」

…確かに、俺はヨウコの匂いだけは上手く嗅ぎ取れない。他人の嘘や感情を嗅ぎ分ける自慢の鼻も、恋の前には盲目になる。

という事か…。

心地よい重さ…。心臓の音…。ヨウコの匂い…。手放したくない。心底そう思う。

想いを告げることではっきりと再確認できた。俺は…、ヨウコに恋をしてしまったのだという事を…。

しばらく見つめ合った後、ヨウコは目を閉じた。

俺は、顔を少し傾けてヨウコの肩を引き寄せた。

リビングの壁に映った狼と女のシルエットが、口付けを交わした。

きつく抱き締めあった俺達は、貪るように互いの唇を求め、舌を絡ませ、長い口付けを交わした。

唇を離し、互いの熱い吐息を浴び、間近で見つめ合いながら、俺達は笑みを交わした。

…だが…。

ヨウコは不意に笑みを消し、泣き出しそうに表情を曇らせて俺に抱きつく。

「…ったい…、…絶対…、絶対に…、帰ってきて下さいね…」

俺の胸に顔を埋め、細い肩を震わせ、彼女は、声を押し殺して泣いていた。

俺はヨウコの髪を撫でながら頷く。

「約束する。俺も、ユウも、必ず帰って来る。だから君は、笑顔で見送り、笑顔で出迎えてくれ」

「…はい…」

ヨウコは顔を上げ、俺の目を見つめた。

俺もまた、ヨウコの瞳を見つめ返す。

「ヨウコ…。愛している…」

「私も…、愛しています。ヤチ…」

俺達は再び唇を重ね、抱き合ったままソファーの上に倒れ込んだ。

そして俺達は、一つになった。