FILE16

「伏せろユウ!」

階段を登り切った瞬間、俺は素早く身を伏せつつ、後ろに従ったユウに警告を発した。

階段の先に伸びる直線の廊下に、ネクタールの私兵だろう、銃で武装した男達が待ち構えていた。

俺の背を掠め、慌てて階段にへばりつくようにして伏せたユウの頭上を越え、数発の銃弾が飛び過ぎる。

普通の銃弾、9ミリ程度のものならば、例え直撃しても俺達ライカンスロープにとっては大したダメージにはならない。体

に当たれば筋肉で止まるし、頭に当たっても頭蓋を貫通するにはまず至らない。目などの急所に当たらない限りは蚊に刺され

たようなものだ。

だがここ、ネクタール内部で使用される弾丸には注意が必要だった。

獣化因子抑制剤…。俺達をライカンスロープたらしめている因子を不活性化させ、一時的にとはいえ、無力な人間に変えて

しまう薬剤。以前ビャクヤに使用された、あの薬を内蔵した銃弾だけには警戒しなければならない。

俺は伏せているようユウに目で合図し、身を低く、四つんばいで駆け出した。

視界が利き、この四肢が動く状態ならば、俺にとって弾丸など怖い物ではない。弾よりも速く動ける訳では無いが、人間と

は構造が異なる俺の目は銃弾の動きをも捉える。

狙撃手の指の動き、銃口の向きから軌道を察し、銃弾を捉えたら最小限の動きで身を捌くだけだ。

待ち構えていた男達は、動き出した俺に銃口を向ける。男達が俺に集中したおかげで、ユウはひとまず安心だ。

重なり合う銃声、立て続けに撃ち込まれる弾丸、それらの全てをかわしつつ、銃撃が止む瞬間、反撃の機会を窺う。…と、

背後でベギンッ!と、重々しい金属音が聞こえた。…なんだ?

「ヤチさん、伏せてっ!」

突如響いた声に、反射的に身を伏せると、俺の頭上を何か巨大な物が風を切って飛んでいった。

飛んでゆくソレの向こうでも、男達があんぐりと口を開け、その物体を眺めていた。

…あれは…、防火扉?

ガガガッ!ガラガラゴゴゴン!ゴシャァン!ゴガガガガッ!

耳をつんざくような凄まじい音と共に、通路を塞ぐほどに巨大な、分厚い金属扉が突き進んで行った。

そしてそのまま男達を巻き込み、壁を抉り、床を破砕しながら廊下の向こうへと突き進んでゆき、突き当りの壁に当たって

止まる。男達が上げたであろう悲鳴すらも、その騒音にかき消され、俺の耳にも届かなかった。

伏せたまましばし呆然としていた俺は、立ち上がって後ろを振り返り、この何かの冗談のような光景を見せてくれた少年に

視線を向ける。

完全にフリーだったのを利用し、階段脇の防火扉を強引にひっぺがして投擲した白熊は、

「怪我は無いですか!?」

と、心配そうに言った。

「あ、ああ。無傷だ…」

ユウは戦闘に関しては素人だ。狩人にしたくはないので、俺も戦い方を教えていないし、教えたくないと思っている。が、

その馬鹿力と閃きには、場数を踏んでいる俺でも度肝を抜かれていた。…なんというかこう…、発想がどうかしている…。



男達を下敷きにした鉄扉を踏み越え、俺達は次の階段を目指した。

階毎にいちいち位置を変えて配置されている階段は、俺達の足止めには地味ながらも嫌らしく効果を発揮している。…仕事

をするには不向きなレイアウトだろうに、効率良く仕事が出来ているのだろうか?ここの社員は…。

俺はどうでもいい心配を、軽く頭を振って念頭から追い出した。

そして頭に叩き込んだフータイの見取り図を確認し、ビル内の大気の流れを被毛で感じつつ、封鎖されていない通路を選ん

で駆け抜ける。

敵と遭遇する頻度は少なくなっているが、油断はできない。あの薬は一発で俺達を無力化してしまうからな。

少々時間をロスしながら次の階段を探し当て、登り口に駆け込んだ所で、俺は急停止した。後ろを走っていたユウも慌てて

停止し、俺の視線の先を見る。

白熊は息を呑んだ。踊り場に立つ9頭のライカンスロープを目にして。

「止まれ侵入者!」

「ここから先は、我らネクタール総帥特別親衛部隊が通さん!」

…リアクションを取るのも面倒臭い…。四天王やら親衛隊やら、まったくもって仰々しいのが好きな連中だな…。

俺は嗅覚に意識を集中し、入念に確認する。…混じった匂いはしない。全員キメラブラッドではないし、立ち振る舞いから

それほどの使い手でない事も察せられる。実力の程は、階下で会った自称新四天王の連中と同程度か、あるいは少し下だな。

が、雑魚とはいえ数が多いのが少々厄介だ。時間が無いというのに…!

「ユウ。俺が蹴散らして強引に突破する。お前は相手に構わず、遅れないようついて来い」

小声でそう伝え、突進すべく足をたわませた俺は、親衛隊の背後に現れた虎人を目にして動きを止めた。

気付いた親衛隊達が振り返り、安堵の表情を浮かべる。

「フータイ様!」

「ふはは!貴様らもこれまでだな!」

「フータイ様にかかれば貴様らなど!」

「ささ!フータイ様、ヤツらを一捻りにしてやって下さい!」

親衛隊の面々が開けた道をゆったりと通り過ぎ、ヤツらの前で足を止めると、フータイは俺と視線を交わした。そしてくる

りと向き直り、

「悪いなネクタール。裏切るぞ」

フータイの宣言に、親衛隊は呆けたような顔をし、硬直した。…敵ながら憐れ…。



フータイの助力を得て、俺達は速やかに殺戮を終えた。

かつて爪牙を交え、ヤツの実力は身をもって知っている。敵に回せば脅威の一言に尽きるが、轡を並べればこれほど頼もし

い男もそうは居ない。

フータイは爪を振るって返り血を落とし、俺達に向き直った。

「遅かったな」

「済まない。思いの外障害が多くて手間取ってしまった。…まずい状況か?」

「いや、今のところ支障はない。周囲の停電が復旧するまでの残り時間と、一般人にこの騒ぎが悟られるかどうかだけが少々

気がかりだ。…もっとも、事をおおっぴらにしたくないのはネクタールにとっても同じだがな。とりあえず、総帥はまだ上に居る」

フータイは、口の端を笑みの形に吊り上げた。

「見事なものだな、お前達の襲撃は。脱出経路も外部との連絡手段も完全に絶たれている。総帥は脱出を諦め、籠城しての徹

底抗戦に出るつもりだ」

「ならば、勝負は騒ぎに気付いた警察などが介入して来るまで、か」

制限時間はそう多くは無いだろう。それまでに攻め切れなければ、今回は俺達の負けだ。

「駆けるぞ。獲物は二階上だ」

俺達が頷くと、フータイが先頭に立って走り出す。その後を俺が、その後ろをユウが走る。…標的まで、あと僅かだ。



「獣化因子抑制剤は無い?」

次々と現れる妨害を、肩を並べて蹴散らしつつ、俺はフータイにそう聞き返した。

「正確には再開発には至っていないという所だ。前本部が壊滅した際に、獣化因子抑制剤の研究データは完全に失われている。

回収された何発かの銃弾から組成についての研究が進められているが、精製方法は確立されていない。…もっとも、あの当時

に使用されたものすらも、ようやく効果が発揮されるようになった試作品だったのだがな」

なるほど、ならば銃弾も恐れるには足りないな。

「詳しいな?」

「俺がこの手の知識を持ち合わせていることが意外か?」

「正直に言うならそうだ」

「門前の小僧、というヤツだな。…ネクタールの元で過ごした時間は長い…」

フータイは皮肉な笑みを浮かべた。

…今ならば理解できる。この男が、ネクタールの元に留まる為に、どれだけ己を律して来たのかが…。誇りを捨て、主義も

曲げ、ただ復讐の為にネクタールに従い続け、機会を窺い続ける日々…。俺ならば、耐えられただろうか…?

「…あの上だ」

フータイが立ち止まり、その後ろから俺達は前方の階段を見すえた。

これまでとは明らかに違う、洋館に備えられているような、絨毯の敷かれた太い、豪奢な階段の上に、これまた洋式の木の

大扉があった。

「…警備は、無しか?」

「いや、扉の向こうだ。…見ろ」

俺の問いに、フータイは顎をしゃくった。

階段の両側の手すり、その一番下のヘリに備え付けられた子供の天使の像。その両目が光を反射している。

「…隠し…カメラ…か?」

隠している…、というか…、全体が白い石膏の天使像の中で、テラリと光るガラス製の両目は、遠目に見ても明らかに目立

っている…。

「隠してる…つもりなんですかね…?」

やや自信無く呟いた俺に、ユウも困惑顔で首を傾げた。

「どういう訳か、この会社には変わっているというか…、奇妙な美学を持っているというか…、とにかくそういうヤツらが多

い」

と、フータイは微妙な表情で頷く。

「それでアレか?四天王とかそういう役職が存在するのか?」

「…そういう事だ…」

不機嫌そうに頷くフータイ。…苦労したのだろうな、こいつも…。

「とにかく、既に俺達が辿り着いた事は知られている。辿り着く前から気を抜くな」

そう言うと、フータイは階段の下まで歩き、両腕をそれぞれ左右にゆっくりと振った。

 ゆるやかに伸ばされた手のその先で、天使像が首の所から斜めにずれ、床に落ちて粉々になる。

「爪より生じる真空の刃、これが俺の能力だ。射程は10メートル足らずだが、腕を振るわずとも、爪を向けるだけで発生さ

せる事ができる。…最も、腕を振り抜けば、それだけ破壊力も増すのだがな」

初めて見たが、これがこいつの力か…。発動までに予備動作も無い、攻撃に紛れて放たれれば、反応できるかどうか…、実

に厄介な能力だ。

俺との戦いでは一度も使わなかった所を見るに、俺は未だ、ヤツが全力で戦うだけの域に達してはいないという事か…。

「勘違いのないよう、一応言っておく。お前相手には使わなかったのではなく、使えなかったのだ」

俺の考えを見透かしたように、フータイはそう言った。

「どういう意味だ?」

「これは連射が利かん。撃ってしまった後の数秒間、体に力が入らなくなるという副作用がある。もしもかわされれば、お前

ほどの速度を誇る相手の攻撃を凌ぎ切るのは難しい」

「なるほど、覚えておこう。俺のは…、今更説明しなくとも知っているか」

「うむ。そちらの少年の力もな。だが、ヤツらはその少年について詳しくは知るまい」

「そうか。多少のアドバンテージにはなるな」

俺の力は隠しようがない。人狼の呪いは伝説的なものだからな。だが、ユウの能力は切り札になる。ばれていないのは有り難い。

「有り難う御座います。フータイさん。黙っていてくれたんですね?」

「ヤツらを有利にするような事を、わざわざ報告してやるほど愚かではないからな」

ユウの礼にそっけなく応じ、フータイは続けた。

「総帥の側近二人は、俺と字伏が相手をする。少年は決して手出しをするな。この際はっきり言うが、並のライカンスロープ

が束になったところで、敵う相手ではない」

「分かりました」

ユウは素直に頷く。彼は自分の役割を良く分かっている。万が一、俺達のどちらかが動けなくなる程の重傷を負った際に、

それを回復させるのがユウの役目だ。

ユウが健在である限り、例え俺達のどちらかが瀕死になったとしても、もう一度立ち上がる事ができる。

「では、往くぞ…!」

「ああ!」

「はいっ!」

フータイが先陣を切って階段を駆け上り、俺、ユウの順に続く。

虎人が腕の一振りでドアを破砕し、俺達は砕け散った木片の中を突っ切って部屋になだれ込む。

扉の中は小ホールになっており、シャンデリアの灯りの下、中ではライカンスロープの一団が待ち伏せていた。その数15。

舞い散る木片の中、俺は一瞬の間にそいつらの状態を把握する。どの顔にも、ドアを破って突然乱入された驚きが見て取れ

る。ノックして入って来るとでも思っていたのか?つくづくおめでたい奴らだ。カメラを破壊されてもなお待ち伏せに徹しよ

うとした時点で、こいつらの実力は知れている。

俺とフータイは同時に、それぞれ右手と左手に跳ぶ。左右に分かれた俺達に、驚きの冷めやらぬまま、ヤツらの間に逡巡と

動揺が走った。

こういう時、どちらか一方に的を絞られるか、あるいは即座に二手に反応されるとやりづらいものなのだが、こちらの思惑

通りに「迷う」という反応をしてくれた。俺とフータイを相手にしての一瞬の停滞、これは高くつく。

右手に走った俺が壁際へと辿り着き、壁を蹴って宙へと跳んだのは、ドアが破れて以降、最初の破片が床に落ちるのと同時

だった。

どよめきとともに視線が上に泳いだ中、虎人は急激に方向を変え、ヤツらのまっただ中に躍り込んだ。ヤツらの視線が再度

下に戻り、悲鳴と血しぶきが上がる。その時には後ろから走り込んで来たユウが、俺と視線を合わせていた。

俺の意図を汲み取ったユウは、小さく頷きつつ両脚の筋力を集中させ、宙へと跳躍した。

白い砲弾が飛び上がった時には、俺はシャンデリアの根本に取り付き、吊していたワイヤーを硬化させた爪で切断している。

ユウは落下を始めたシャンデリアの枠を掴み、俺は天井に手を、シャンデリアの中央に足を当てる。

フータイがヤツらの中から離脱したのは、絶好のタイミングだった。

俺の脚力とユウの腕力で勢いを得て、巨大なシャンデリアはヤツらの頭上に落下した。

怒号と悲鳴、破砕音、砕け散ったシャンデリアの残骸が宙に舞う中、シャンデリアを蹴り、投げ落とした俺とユウは、宙で

接触している。

ユウの足裏に自分の足裏を合わせ、俺はヤツらの上で身を横たえているシャンデリアに照準を合わせた。

ユウを足場に跳ね飛んだ俺は、シャンデリアの中央シャフトに、全体重と落下の勢いを加えた蹴りを入れた。

シャンデリアの下で、何頭もの絶叫が上がった。

だめ押しに、宙から落ちてきたユウがシャンデリアの上に着地し、さらに衝撃を加える。

「何か狙っているとは思ったが、なんとも派手な真似をする」

フータイはそう呟くと、面白がっているように目を細めた。その足下には、シャンデリアから逃れられた三頭のライカンス

ロープが横たわっていた。いずれも喉を裂かれ、ただ一撃で絶命している。

フータイの両腕はすでに血塗れだ。先程のたった一瞬、敵の群れに突っ込んだ際に、存分に爪に血を吸わせたのだろう。

「お前の趣味には合わないか?」

「いや、悪くない。なかなか痛快だった」

肩を竦めた俺に、フータイは、今度ははっきりと分かる笑みを浮かべて見せた。

シャンデリアの下敷きになって押し潰されたヤツらから、か細い呻き声が微かに上がってくる。まだ生きている者がいるの

だ。だが、すでに瀕死、もはや脅威ではない。

「さて、残るは…」

俺は行く手へと視線を向けた。シャンデリアから逃れたのは残り四頭。犬のライカンスロープが二頭、牛とワニが一頭ずつ。

俺とフータイが進み出ると、ヤツらはじりっと後退した。

表情からは明らかな怯えが見て取れる。俺達が格上の相手である事を理解したのだろう。

…ん…?妙だな…。

俺の鼻は、恐慌を来しかけているほどの怯えの匂いを、ヤツらから嗅ぎ取っていた。四頭共に戦意を喪失しても良さそうな

ものだ。それなのに退く様子は全く無い。

叫びを上げ、犬の一頭が突進し、俺は疑問を一時棚上げにする。

動き出した四頭を前に、ユウには下がっているよう身振りで伝え、俺とフータイは身を低くし、滑るように前進した。

振り下ろされる爪を頬の毛をかすらせながら避け、犬の脇をすり抜けつつ鳩尾に左膝を叩き込む。くの字に体を折って浮き

上がった犬の喉に左手をかけ、後頭部から床に叩き付けると同時に、喉に爪を食い込ませ、動脈を切断する。

鮮血が吹き上げて身を濡らす前に再加速し、その後方から迫っていた牛の懐に飛び込む。

俺のトップスピードに対応できず、あっさりと接近を許した牛の顔が強ばった。その胸へ、加速の勢いそのままに、硬化さ

せた四本の爪を突き込む。爪を束ね、槍と化していた右腕は牛の心臓を破壊し、胸を易々と貫通した。

牛の鳩尾に足をかけ、蹴り飛ばすと同時に腕を引き抜く。血の尾を引いて後ろに吹き飛んだ牛から視線を外し、俺は後方へ

と宙返りして着地する。足の下でゴシャッと、硬い物が砕ける湿った音がした。先に喉を抉られてもがいていた犬は、頭部を

踏み砕かれてようやく絶命した。

俺が二頭を仕留めている間に、フータイもまた戦闘を終えている。

一頭目は犬だった。素早く間合いを詰め、爪を横に振るった犬に対し、フータイは軽く首を反らして攻撃を避けた。

しかし横振りの一撃は牽制で、犬はそのまま両腕を左右に広げ、フータイに掴みかかった。その口が大きく開かれ、鋭い牙

が唾液に濡れて光る。捕らえて動きを止めた後に、牙で仕留めようという心積もりだったのだろう。

しかしフータイは掴みかかられるのも意に介さず、右腕を肩の高さで後方に引く。大きく広げられた犬の顎の中に、フータ

イの右手が飛び込んだ。

パンッと、何かが爆ぜるような音と共に、犬の頭部は下顎を残して四散していた。

なんという膂力…!犬の口腔に飛び込んだフータイの手は、口の中でデコピンの要領で五指を勢い良く広げ、内側から頭部

を破壊してのけたのだ。

頭部を失った犬の体は、脳が伝えた最後の命令に従って、身を捌いたフータイの脇を数歩駆け、前のめりに倒れた。

倒れてもなお犬の足がしばらくバタバタと動いているのを目にし、後ろで待機していたユウが口元を押さえて呻いた。…無

理もない。場数を踏んでいないあの子には少々刺激が強過ぎるな…。

まさに指先で一体屠ってのけたフータイめがけ、太い何かが宙を裂いて迫った。

ワニの強靱な尾が、大気を切り裂いて突風を起こす。が、高速で振るわれたそれすらも、虎人の体にはかすりもしない。

フータイは足の屈伸運動をするような格好で床に腹が触れるほどに身を低くし、尾の一撃をやり過ごしていた。筋骨隆々た

る大柄な体躯は、驚くほど俊敏で、驚くほど柔軟だ。

かわされたワニは、後ろ向きになった身を逆に捻って再び尾を振るった。間髪入れずに戻って来た尾がフータイを襲い、絨

毯を裂いて床を粉砕し、粉塵を上げた。

しかし虎人はすでにそこには居ない。先端は軽く音速を超えているだろう鞭のような尾をかわし、背を向けた状態のワニの

手前、数メートルの宙にフータイの姿が出現していた。

伏せた状態で身をたわめていたのは、回避の為だけではなかった。この一手、つまり、瞬時に間を詰める瞬発力を生み出す

為でもあったらしい。首を巡らせたワニの視界には、フータイの姿は突然現れ、急激に拡大したように見えただろう。そして

次の瞬間、その視界は永遠の闇に染まる。

驚くべき速度で跳躍したフータイは、ワニの頭部を蹴り砕き、その体を飛び越えて向こう側へと着地しつつ、床面に足の爪

を食い込ませ、抉り散らしながら制動をかけた。

フータイは俺のシルバーミーティアより僅かに遅い程度の速度を、床に伏せた状態から叩き出してのけた。地面に爪を食い

込ませる事で、最大筋力での跳躍の足がかりにしていたのだろう。…これは次回から参考にできるな…。頂いておこう。

「片付いたな」

「うむ」

俺の言葉に頷き、腕を振るって返り血を落とすと、フータイは行く手に聳える扉を見据えた。

高さ4メートル程の巨大な扉は、全面に彫刻が施され、神々しい装飾に彩られている。…この彫刻の絵は、何処かで見た事が…。

「ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの復活」…ですか?」

俺達のすぐ後ろにやってきたユウが、扉を見つめて呟いた。

「博識だな少年。いかにもその通りだ」

フータイはそう言って頷く。

「ネクタール…、つまりは命の糧となる伝説上の薬の名を冠したこの組織。その最終目的は、永遠の命にある」

「永遠の…?」

聞き返すユウに、フータイは口の端を吊り上げ、嘲笑を漏らした。

「なるほど人間にとっては、我らの生命力は驚異的なものだろう。だが、我らにも等しく死は訪れる。傷、病、老い…、何が

原因にせよ人間と同じように訪れる。確かに多少は死ににくいがな…」

「だが、俺達の驚異的な生命力に魅せられた人間は、錯覚する。ライカンスロープを研究すれば、不滅の存在となる手がかり

が得られるのではないかと」

俺の言葉に、虎人は首肯した。

「いかにも。そして程なく気付く。我らの生命力を持ってしても、不滅の存在となる事はおろか、寿命を僅かに延ばす事すら

叶わぬ事を」

そう。外的要因で死ににくいというだけで、俺達の寿命は人間と大して変わらない。肉体が老いにくいという特徴はあるも

のの、寿命は確実にやってくる。

「そしてヤツらは、命への冒涜とも言える愚かな行為に手を出した」

「命への冒涜?一体何です?」

ユウの問いに対するフータイの答えは、俺の予想していた通りのものだった。

「強い力を持った個体に、他の個体から奪った力を移植する。複数の獣の因子を寄り合わせ、より強い個体を生み出して行け

ば、いずれは…」

いずれは究極の個体に行き着く。と、そういう事か。…その技術が実現したものが…、

「そうして産み出された存在がキメラブラッド。成果は実際に目にしただろう」

フータイは俺の考えた通りの言葉を吐き捨てた。

「でも、そんな方法で永遠の命なんて…」

「いかにも。専門的な知識の無い俺でも、手に入るとは思えん。だが、禁断の実の味は、さぞや手放しがたいものなのだろう。

ネクタールはその技術に磨きをかけ続けている」

ユウは少し考えた後、またフータイに問い掛けた。

「…能力…。例えばそういう能力、死なないっていう能力を持った同種は居ないんですか?」

ユウの問いに、フータイは首を横に振る。

「聞いたことは無い。そもそも死なぬという時点で、その存在はもはや人間でも、ライカンスロープでもあるまいな。…いや…」

フータイは言葉を切り、そして付け加える。

「不死となれば、もはや生物ですらも無かろう。死あってこその生物だ」

「死なないなら…、生き物じゃない…?」

フータイの返答に、ユウは口の中でそう呟いた。

哲学的な概念の返答だが、言えている。俺達は生きているからこそ死ぬ。死ぬ事がない存在は、そもそも生きていると言え

るのだろうか?ネクタールは、どんな物を想像し、到達すべき不滅としているのか…?

「さて、長話はここまでだ」

なおも何かを聞きたがっている素振りを見せたユウを、手を上げて制し、フータイは口元に太い笑みを浮かべた。

「続きが聞きたければ、事が済んだ後にしろ。この老いぼれの話でよければ、いくらでも聞かせてやる」

苦笑を浮かべ、俺は言ってやる。

「老いぼれと言っても、お前まだ40以下だろう?」

「じきに手が届く。三十路を過ぎれば立派なロートルだ」

「………」

ユウは無言で俺の顔を窺い、来月で30になる俺は表情を消して押し黙った…。