FILE17

扉の前に立った俺達は、顔を見合わせた。フータイはユウの顔を見下ろして釘を刺す。

「繰り返すが、戦闘が始まったなら、少年は下がっておけ。俺と字伏が一頭ずつ仕留める。これから始まるのは、我ら以外が

介入できるようなレベルの闘争ではない」

不安そうな顔で頷いた白熊の頭に、俺はポンと手を置いた。

「そう心配するな。俺達なら大丈夫、どんな相手にも負けはしないさ。だが、いざという時は頼むぞ?」

「はい。任せて下さいっ」

安心させるために微笑んでやると、ユウはぎこちなく微笑んで見せた。

「さて、往くか」

「ああ、往こう」

俺とフータイは宗教画の彫られた扉の左右にそれぞれ手をかけ、力を込めて押す。

大扉に掘り込まれた救い主の顔に線が入り、左右に割れた。



重々しい音を立てて開いた扉の向こうは、天井がドーム上に高くなっている円形の広間だった。

彫刻を施された白木の壁。中央にシャンデリアの吊られた高い天井。中央にポツンと置かれた円卓と、それらを囲む8つの

椅子。会議用のものなのだろうか?円卓の傍に飲み物を載せて運ぶカートが置いてある以外に、目立った調度品は無い。

毛足の長い、赤い絨毯が敷き詰められた広間は、直径30メートルを優に越える広さで、一番奥の壁には片開きのドアがあ

る。階数から察するに、あの先が最上階に通じているのだろう。

そのガランとした広間が、俺達にとっての闘技場となる。相手もすでにお待ちかねの様子だった。

「ホァン。侵入者を捕えて来たのかい?」

円卓の向こう側に腰掛けた、仕立ての良いスーツに身を包んだ若い男が、俺達を眺めて笑みを浮かべた。中性的な整ったマ

スク。余裕の混じった声は甘く響く。

だが、…正直に告白する。この時、この若い男の言葉は、俺の耳にはほとんど入っていなかった。

幾多の闘争において俺を生き存えさせてきた本能が、今、全力で警告を発している…。

「君を側近に起用したのは、我ながら正解だったな」

男の言葉を遠くに聞きながら、俺はその両脇に立つ二人から目が離せなかった。

一人は壮年の男。フータイにも匹敵する巨漢で、厳つい顔には表情が無く、何の感情も浮かべていない両目で俺達をじっと

見据えている。

もう一人は精悍な顔立ちの中年。中肉中背の体付きで、値踏みするような視線を俺達に向けながらも、その口元には微かな

笑みを浮かべている。

背筋の毛が逆立ち、体中の神経がピリピリと張り詰める。匂いで分かる。二人ともキメラブラッドだ。だが、俺が神経を張

り詰めている理由は、ヤツらがキメラだからというのが理由では無い。…あのフータイが一人では勝てないと言った理由を、

俺は理解した。

俺の背後で、カチカチという小さな音が、先程から聞こえていた。

二人を目にしただけで、ユウは歯の根が合わぬほどに怯えきっている。修羅場を潜った経験の少ないユウにも、はっきりと

分かるのだ。自分が目にしている存在が、本物の化け物であるという事が…。

…二人とも、俺よりも僅かばかり強いかもしれない…。

「茶番はよせ」

フータイの堂々たる声が、俺を呪縛から解き放った。虎人は若い男を見据えて続ける。

「貴様は、この状況に気付かぬ阿呆ではあるまい。俺が彼らの奇襲を手引きしたのだ」

男は哀しそうな顔をし、大げさに肩を竦めて見せた。それは演技だ。奇妙な事だが、男はこの状況を面白がっている。

「残念だな。「そういう事」にしておくなら目を瞑ってやる、そういう意味だったんだが…」

男は言葉を切ると、ゆっくりと俺に視線を向けた。

「…字伏夜血」

俺が、そしてユウが、フータイが、男に視線を集中させる。

何故だ?こいつ、何故俺の名を知っている?フータイの様子からも、彼から情報が伝わった訳ではない事が察せられる。な

らば何故…?

「こうして会うのは初めてだな」

男は親しげな笑みを浮かべ、俺に語りかけた。

「でも、私はずっとお前の事を思っていたよ」

親しげな、柔らかい声…、…だが…、

「あの日からずっと、片時もお前達の事を忘れた事は無かった」

その言葉と表情に巧妙に隠し、潜ませたこの感覚は…、

「お前達兄弟が前ネクタールを壊滅させ、その総帥を、私の父を殺したあの晩からずっと」

憎悪と敵意。そして焦げ付くような殺意だ。

「俺の名はどうやって知った?」

毛先をチリ付かせる程の殺意を感じながらも、尋ねた俺は、すでに平静さを取り戻しつつあった。

「先程戻った彼が教えてくれたよ。君の友達にはずいぶんと酷い目に遭わされたようだが」

男が指をパチンと鳴らすと、奥のドアを開け、一人の男が姿を現した。

「!!!!!」

俺は驚きに目を見張り、背後ではユウが息を呑んだ。

見覚えのある、痩せ形の中年の男。俺達が捕らえ、シルバーフォックスで尋問を受けていたコウモリのライカンスロープだ。

だが、俺達の驚愕の理由はそこには無い。

「…よ…」

「ヨウコっ!!!」

ユウの言葉を遮り、俺は叫んでいた。

男の腕の中には、腕を後ろに回して縛られ、猿ぐつわを噛まされたヨウコの姿があった。

ヨウコは泣き出しそうな顔で俺を見つめていた。

「…ごめんなさい…」その目がそう訴えている。

うかつだった…!まさかヤツに自力で脱出するだけの余裕が残っているとは思ってもいなかった。全員が出払った隙を突い

て脱出したのか!

「彼は私に仇の片方の名と、その仲間の一人を提供してくれた」

若い男は微笑を浮かべてそう言うが、殺意の波は相変わらず俺に向けて放ったままだ。

「さて、レディーをこのままの扱いにしておくのも忍びない」

男は立ち上がり、

「上でささやかな持て成しをさせて頂こう。獅童、雑司ヶ谷、お客様の相手は頼んだよ」

そう左右の男達にそれぞれ告げ、奥へと歩き出す。

追おうとした俺の動きを察し、コウモリ男がヨウコの首に手をかけた。…妙な真似はするな。そういう事か…!

「そうそう、その人狼、命だけは残しておきなさい。私が直接聞きたい事がある」

男は足を止めてそう言うと、俺達を振り返って微笑んだ。

「抵抗は自由だ。…もっとも、そこの二人を相手に、抵抗など無意味だがね」

悠然とした足取りで、男はドアを潜り、俺に一瞥を投げて寄越した。

その横で、ヨウコが涙をいっぱいに溜めた目で俺を見つめている。

…そして、ドアは閉じられた。

「さて、始めよう」

中年の男はそう呟くと、親指で自分を指し示した。

「俺は獅童司(しどうつかさ)。そっちは雑司ヶ谷渦紋(ぞうしがやかもん)」

「殺し合う前に名乗るのが礼儀、という訳か」

憤怒を押し殺した俺の言葉に、シドウは笑みを浮かべた。

「少し違うな。死に行く者に名乗るのが礼儀なのだ。もっとも、お前は手足をもいだ状態で、少しは生かしておくつもりだが」

シドウが、ゾウシガヤが、それぞれ体に力を込めた。

シドウの首から長い金色の被毛が伸び、先端に毛の束が付いた尾が背後でのたくる。黄土色の短い被毛に覆われた筋骨隆々

たる体躯は、フータイにも負けぬほどに鍛え抜かれたものだ。百獣の王と評される獣は、広間をビリビリと振動させる咆吼を

放った。

ゾウシガヤの服が勢い良く破れ、その下から体が膨れあがる。顔の中心が前にせり出し、ズルズルと伸びる。丸太どころで

なく太い四肢に、鎧を思わせる分厚い皮膚に覆われた巨躯。身の丈4メートルにも達する巨大な象が、太く、長い鼻を一振り

して俺達を睨んだ。

金色の獅子と巨大な象のライカンスロープを前に、俺とフータイは飛びかかるべく身構える。

正体を現すことで、さらに化け物じみたプレッシャーが確かな物となる。だが、俺の身体はもう竦んではいない。

ヨウコが捕らえられている。一刻も早く助け出さなければならない。先手必勝だ!

目配せしあった俺とフータイは、同時に床を蹴った。俺は獅子に、フータイは象に、それぞれ突進する。

一呼吸で間合いに飛び込み、加速を乗せて俺が振るった右腕を、獅子は軽くスウェーしてかわす。やはりこの程度のスピー

ドには対応するか…。

反撃を許さず、続けざまに下から左の手刀を突き上げる。喉を抉って頭蓋を貫く角度で放った爪を、獅子は首を横に傾け、

たてがみを数本吹き散らさせてかわした。

さらに俺は左腕を脇に引き付けつつ、右の爪をピッチャーが全力投球するように上から振り下ろした。獅子は右足を一歩引

き、体を開いてそれをやり過ごす。俺の腕はヤツの眼前を通過し、背を見せる形になる。

好機と見て取り、獅子は身を捌き、右腕を引いた状態から、反撃に移るべく腕に力を込める。…が…!

俺は右腕を抱え込むように縦回転し、前につんのめるような形で前転する。頭めがけて打ち下ろされた獅子の拳は空を切り、

回転した俺の足がヤツの側頭部を襲う。間一髪でかわしたヤツの鼻先を踵が掠めた。

まんまとフェイントに引っかかった獅子に、俺は両手を地面に着いた逆立ちの状態で爪を床に食い込ませ、そこを支点に両

脚を開き、コマのように回転して振るった。縦の運動に慣れたヤツの目には厳しいはずだが、敵ながら獅子もさすがだ。蹴り

に反応し、軽く飛び退る。しかし、これもまた俺の想定の内だ。

開いた足を引き戻し、俺は逆立ちの姿勢で閉じた両脚を引き付け、両腕で跳躍する形で獅子の胴を蹴り飛ばした。

その蹴り足に、違和感があった。

逆立ちの姿勢から素早く体勢を整えた俺は、蹴り飛ばされてなおも何事もなかったように着地する獅子に視線を向けた。

「あのチーターと同じか…!」

獅子の胴、俺が蹴りを叩き込んだ鳩尾部分には、金属のような光沢を持つ、金色の鱗が出現していた。

蹴りの威力は硬質の鱗で削がれ、大したダメージにはならなかったらしい。獅子は鱗を鋭い爪で触れながら獰猛な笑みを浮

かべた。

「見事としか言いようのない体術…、まるで軽業師だな!そのうえこの一撃の重さはどうだ!」

獅子は喜色を浮かべ、笑みの形に口を歪めたまま、熱いと息を吐き出した。

「これほどの使い手と会うのは久々だ。フータイのおまけと思っていたが、失礼した。なかなか歯応えのある獲物だな。存分

に狩りを楽しませてもらおう」

「お褒めいただき恐悦至極。が、俺は少々急いでいる。悪いが満足するのを待っている余裕はないので…、一秒でも早く死ね…!」

獰猛な笑みを投げ返し、俺は再度獅子に突進した。



一方では、俺と同時に突進したフータイめがけ、象が鼻を振るって応戦していた。

先程のワニの尾をも凌駕する鼻の鞭を、フータイはいささかも速度をゆるめず、流れるような体捌きでかわし、懐に飛び込んだ。

象の拳が唸りを上げ、懐に入ったフータイを叩き潰すべく振り下ろされる。最小限の動きで、またしても身をかわしたフー

タイの足下で、鉄柱を打ち込む重機のような拳が、床を粉砕して粉塵を上げる。

ウェイトの差もあるからだが、ユウの馬鹿力の数倍にも匹敵するパワーだ。一撃食らえばミンチになる。いかな俺達ライカ

ンスロープでも、即死は免れないだろう。

一閃。俺の目にも霞むほどの速度で、アーチを描くように下から振るわれた右の爪が、象の眼前で翻り、鼻を根元から斬り

飛ばす。

床に落ちた鼻がのたくるのには見向きもせず、フータイは爪を振り切って前屈みになった状態から、素早く一歩踏み出した。

腹に響くような踏み込みの振動。次いで、肩と背を利用して体当たりした虎人によって、象の巨躯が吹き飛ばされた。

名前は失念したが、あれは確か中国拳法の技だ。想像を絶する速度の体重移動と、相互の呼吸を読む事で為せる技なのだろ

う。真似しろと言われても俺にはとうてい無理だ。

追撃に移ろうとしたフータイは、しかし顔を顰めて足を止める。虎人の右足に、切断された象の鼻が巻き付いていた。

膝下まで巻き付き、締め上げようとしたそれを、素早く足を振り上げ、踵落としの要領で地面に叩き付ける。

砕けた床の粉塵と共にバウンドした鼻は、象の元へと転がると、まるでそういう生き物であるかのようにモゾモゾと動き、

本来在るべき場所、象の顔へと戻ってゆく。身を起こした象の顔で、鼻が自ら切断面を合わせると、すっかり元通りに固着し

た。驚くべき修復速度だ。

「切断された部位の遠隔操作に高速修復…、これがお前の能力か」

相手を圧倒しつつある状況でも一片の油断も無く、フータイは身構えた。

無言のまま、問いには応えずに立ち上がった象に、フータイは口元に微かな笑みを浮かべた。

「仕組みは分からんし、確かに厄介だが、対処できぬ訳でもないな」

その虎人の言葉にも、象は無反応のまま、無造作に歩を進めた。

「細切れになれば、動いたところで脅威でも何でもない」

虎人は、その双眸に鋭い光を湛えて呟いた。



高速で打撃、斬撃、打突を交錯させ、俺は獅子としのぎを削る。

速度は俺の方がやや上だが、攻撃がかち合えばウェイトとパワーで俺が押される。気を抜いて一撃貰ってしまえば、一瞬で

押し込まれるだろう。ラッシュに入られたらじり貧になるのは目に見えている。ペースを握らせたらアウトだ。

かといって得意のヒットアンドウェイに持ち込むのは効果的ではない。近接高速戦にも対応してくる相手だ。一撃離脱にも

瞬時に形成される硬質の鱗で難なく対応し、防いでくるだろう。ならば…!

袈裟懸けに振るった一撃を避けられた俺は、そのまま腕を抱え込むように身を低くし、鞍馬の要領で床すれすれを払う水面

蹴りを放った。ヤツには素早く伏せた俺が目の前で消失したように見えただろう。俺の足はヤツの両足首を捉えた。足に響い

た感触が、ヤツの関節を粉々に破壊した事を伝えてくる。

俺の能力、カースオブウルブスは、ライカンスロープの能力の働きを阻害する効果も持っている。俺が負わせた傷は、一定

期間は高速修復が不可能になる。この戦闘中に回復される事は無い。

側転するようにして頭と足の位置を入れ替えつつ吹き飛んだ獅子は、しかし…。

「…馬鹿な…!?」

俺は思わず呻いていた。蹴り砕いたはずの両足で、獅子は何事もなかったように床に着地した。

呪いの発動は間違いない。骨が砕けた感触も錯覚ではなかった。痛みを堪えて立っているなどというメンタル的な問題では

ない。物理的に立つ事は不可能なはずだ!

ヤツが両足を観察し、俺はやっとそれに気付いた。足首を覆う金色の鱗…、まさか?

「まさか一撃で蹴り砕かれるとは思わなかった…。大した脚力だな…」

獅子は微かに顔を顰めて呟いた。

「傷を負わされなければ恐れるに足りない能力だが、こういった状態になると厄介さが痛感できる」

「…鱗を使って折れた足首を固定したのか…。さしずめ外骨格だな」

「少々痛むが戦えない程ではない。残念だったな」

戦闘不能にできなかったのは確かに残念だが、足首をギプスで固定したようなものだ。これで動きは鈍る。

最初から俺を殺すつもりでかかってくれば、仕留めるチャンスはここまでに二度もあった。なのに総帥の命に従い、捕らえ

ることを優先したせいで、付け込む隙が生まれた。俺を無傷で捕らえられると、舐めてかかったのがお前の敗因だな。

一気にかたをつけるべく、身を低くして構えた俺に、獅子は未だ衰えぬ闘志を宿した両目を向けた。

「俺の能力、まだ見せていなかったな?」

囁くような言葉と同時に、体が強ばるような感覚を覚えた。疑問を感じた瞬間、俺は既に目前に迫っていた獅子に気付く。

反射的に身を反らした俺の胸を、豪風のように通過した腕が掠める。一瞬遅れて右肩から左の脇腹にかけて灼熱感が走り抜

け、血がしぶいた。

胸を押さえて後退した俺は、激痛によろめいた。爪で切り裂かれた傷は、掠めただけにもかかわらず肋骨を半ばまで切断し

ている。何という切れ味と腕力…!一瞬でも反応が遅れれば、完全に胸を裂かれていただろう。この程度で済んだのは僥倖と

言える。

いや、今考えるべきはそんな事では無い。…何だったのだ、今のは…!?

俺は注意深く獅子を観察した。足は無論まだ癒えていない。にもかかわらず、俺がかろうじて反応できる程の速度で接近された。

…能力…。ヤツは確か、自分の能力を見せていなかったと言った。つまり、これはヤツの能力なのか?

 その能力はつまり、俺の目でも捉えきれぬ程の高機動能力?どんな仕組みなのかは分からないが、その能力は折れた足も係

なく使用できるようだ。

「どうした?棒立ちになって」

身が強ばる感覚と共に間近で聞こえた声。傷の痛みすら忘れ、俺は何も考えず、咄嗟に横に跳んだ。確かにこの両目で見て

いた獅子の姿は、瞬時に消失している。

頭上から落ち掛かった獅子の右腕が、俺の背を掠めて鮮血をしぶかせた。

転がって身を起こし、ヤツを睨む。爪に付着した血を舌で舐め取り、獅子は俺を見下ろして傲然と笑む。

まただ!目を離さなかったにもかかわらず、ヤツの姿を見失い、一瞬で間合いを詰められた!

だが、傷は負わされたものの、今の接触でヤツの能力について少しだけ分かった。

「…瞬間移動、というやつか?」

俺の言葉に、獅子は眉を上げ、面白そうに目を細めた。…かまをかけてみたのだが、やはりそうなのか?

今の接触の際に、獅子は俺の頭上から攻撃をしかけた。つまり、跳ぶ、そして落下するという攻撃だ。どんなに速く動けて

も、落下速度というのはどうしようもない。天井を蹴って勢いをつけて落下すれば別だが、今回はその様子は無かった。それ

なのに俺はかろうじて反応できたに過ぎない。

さらに、高速で動いた際に生じるはずの、特有の大気の乱れが殆ど無い。途中で跳躍したにせよ、センサーとしての役割も

果たす俺の被毛は、微かな揺らぎしか捉えていない。つまり、高速接近された形跡はない。

信じ難い事だが、ヤツが瞬間移動して俺の頭上に現れ、攻撃を仕掛けたと仮定すれば、タイムラグのない落下攻撃も、大気

をほとんど乱さない移動も説明がつく。

しかし、ここで一つ問題が生じる。能力の目星がついたとして、どう対処する?攻撃の寸前まで気配を察知できない相手に、

どう対処すれば…?

えぇい!守りに入っても勝てはしない、攻撃あるのみだ!ヤツがやっているのは、動きの違いはあれども俺の得意としてい

る一撃離脱。ならば同じように、動き回る相手には攻撃の照準は絞り辛くなるはず…、

「先手を取れば、能力など関係ない。とでも?」

身を屈め、突撃に備えた俺の目の前に、獅子の顔があった。三度目…!再生途中の傷の痛みすらも忘れ、体が強ばった。

左側頭部から顔面にかけて走ったガツンという衝撃と共に、俺は床に打ち付けられ、バウンドして転がった。…くっ!動き

出す前に捉えられるとは…!

跳ね起きようとして初めて体の痺れに気付く。脳が揺さぶられて足に来たらしい。

ふらつく足を叱咤して身を起こすと、視界がやけに狭い。顔からボタボタと落ちる血が、足下に血溜まりを作っている。

…左目を潰されたか…。

手で触れ、顔の左側を確認すると、左側頭部から左目を通り、額の中央までがザックリと抉られていた。

約半分になった視界を動かし、ヤツの姿を捉える。足の感覚が戻らない。…今来られたら…、まずいな…。

「その傷ではもう凌げないだろう。そろそろ抵抗できぬように四肢をもぎ取らせて貰う。まずは…、そうだな、右腕から貰おうか」

獅子は目を細め、薄く笑った。

体が強張ったと同時に視界が白く染まり、ヤツの姿を見失う。

飛び散る鮮血が俺の体を染め、ドサリという音と共に、付け根から切断された右腕が床に転がった。