FILE18
床に転がった右腕。深紅の絨毯を、鮮血がなお赤く染め上げる。
「ぐぅうっ…!」
残った左腕をなぎ払うように振るわれ、獅子は予想外の反撃に慌てて飛び退る。
鮮血が吹き出す肩口を押さえ、力尽きたように屈み込んだのは…、
「ユウ!?」
俺とシドウの間に割って入り、身代わりとなって腕を失ったユウの傍らに、俺は慌てて屈み込んだ。
「ちっ!」
後ろへと跳躍して間合いを取った獅子は、目的を果たせずに舌打ちする。
左目を失ったこの状態では、自分の身はおろかユウも守れない。一気に攻め立てられなかったのは幸運だった。
「下がっていろと、フータイにも言われただろう!?」
…大丈夫、傷口も綺麗だし、この程度なら修復可能だ…。
「ユウ…!なんて無茶な真似を…!」
獅子はフータイにも匹敵する実力をもった強敵だ。ライカンスロープとして目覚めたばかりで、ろくに戦いの知識も無く、
何の戦闘訓練を受けていないのはもちろん、闘争の経験自体が無いに等しいユウでは歯が立つはずもない。…それなのに我が
身も省みず、盾になって俺を…!
付け根から切断された白い腕を拾い、肩に押し付けて固定させながら、俺はギリッと牙を噛みしめた。
守ってやるはずのユウに助けられ、あげく傷まで負わせてしまった…。自分の不甲斐なさに腹が立つ!
「押さえていろ。なるべく動かさないよう…」
「どうしたんですか…、ヤチさん…!?」
一瞬の間に割って入った白熊は、俺の言葉を遮り、苦鳴を押し殺して口を開いた。
「…さっきから、…なんだか様子がおかしいですよ?」
激痛を堪えて顔を顰めつつ、ユウは腕を押さえながらそう言った。腕を切断されるという重傷、痛みのあまり声は震えていた。
「相手が目の前に来るまで無反応で棒立ちになっていたり、跳ばれてもぼーっとしたまま、目でも追わなかったり…」
「…何…?」
俺はユウから視線を外し、獅子を睨む。有り難いことに、攻めてくる気配は無い。…しかし、どういう事だ?ユウにはヤツ
の動きが見えていたのか?
「ユウ、俺にはあいつが瞬間移動しているように見えた。気付けば、コマ落としのように目前に出現しているように…。お前
にはどう見えていた?」
「え…?」
ユウは俺の顔をちらりと見て、それから獅子に視線を向ける。その顔には訝しげな表情が浮かんでいた。
「普通に…、いえ、足が上手く動かないようだから、さっきと比べればずいぶん遅い動きで駆け寄って、攻撃を仕掛けている
ように見えましたが…、違うんですか?」
…おかしいぞ、何なんだこの矛盾は…?間近で向かい合っている俺には瞬間移動に見え、離れていたユウにはヤツの動きが
はっきり見えただと?
そして俺はある事に気付く。今、ユウが割って入った動き…、これも俺には見えなかった。眼前に現れるまで全く気づけな
かった。…まるで、ヤツが動いた時のように…。
…まさか…?
「…ユウ。助かった。下がっていてくれ」
ユウは頷くと、俺の胸に手を伸ばした。ユウの手が胸に軽く触れたとたん、体中の傷が熱を持つ。流れ込む力で活性化され、
傷が普段の数倍にも及ぶ速度で修復されてゆき、潰された左目が再生する。
…自分の方が重傷だというのに、また俺を先に…。だが、手強い相手を前に、万全の状態で望めるのは有り難い。
「恩に着る」
「大丈夫ですか?戦力にはなりませんけれど、僕も盾ぐらいになら…」
白熊は不安げに俺の顔を見つめた。…何とも情けない…。本来なら俺が守ってやるべきユウに、ここまで心配させてしまう
とは…。
「大丈夫だ。何とかしてみるさ」
自分の傷も後回しにして、力を与えてくれたユウに感謝しつつ、安全圏まで下がらせ、俺は立ち上がって獅子を睨んだ。
俺の傷が回復し、ユウが下がる間にも獅子は攻撃を仕掛けて来なかった。俺の考えが正しければ、「仕掛けなかった」ので
はなく、「仕掛けられなかった」のだ。
「さて、化けの皮を剥がしてみるか…」
俺は戻った視界を確認しつつ、目を細め、攻撃に備えた。
俺が獅子と死闘を演じている一方で、フータイもまたその力を存分に振るっていた。
心、技、体、己の肉体と能力を武器とする俺達の闘争において、精神力、戦闘技術、身体能力は闘争の行方を決する最重要
ファクターだ。その三点において、フータイは他の追従を許さない高みに在る。
揺るがぬ心と類い希な戦闘センス。それに鍛え抜かれた力と技。自分の十倍近い質量を持つ象と相対し、しかし虎人は一歩
も譲らず、むしろ圧倒すらしている。だが…、
「ネクタールの研究、あながち鼻で笑えたものでもないのかも知れんな…」
返り血に染まった腕を一振りして血しぶきを払い、フータイは象の巨躯を見上げた。
何十、何百の傷を刻みつけ、その巨躯を深紅に彩ってやったにも関わらず、象はダメージを負った様子も見せずに、感情の
篭らぬ目でフータイを見つめ返す。
その肩口、骨が見えるほどに深々と、ほぼ半分まで切り裂かれた状態の傷口が、ぞわりと蠢いた。切断面からゾロッと肉の
触手が伸び、絡み合うと、引っ張り合うようにして傷が癒着する。線となった傷はジッパーを引き上げたように閉じ、やがて
痕跡も残さずに消えた。
「その再生力…、我らの範疇を越えたレベルにあるな…」
さしもの虎人も驚嘆の念を隠し得ない。本来ならば一撃で再生力の限界を越える傷を与えられるフータイが、その全力を持っ
てしても仕留め切れない、常識の範疇に無いタフさと、ライカンスロープを遥かに凌駕する再生能力だった。
さらに、あの象は切断され、肉体から離れた部位をも遠隔操作するという能力を持っている。その能力によるものか、腱を
絶っても、骨を破壊しても、象の手足はダメージを物ともせず、全く関係なく動く。しかもその傷はすぐに修復されてしまうのだ。
…不死身…。外傷によっての死を避けるという意味でなら、象の肉体はネクタールの研究の成功例と言えるだろう。
「無限に再生できるものか、一つ試してみるか…」
虎人はこの状況にあっても、まるで楽しむかのように口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「瞬間移動ではなかったか。まったく、想像を飛躍させ過ぎたな…」
俺の呟きに、獅子はフンと鼻を鳴らした。
そう、ヤツの能力が瞬間移動だというのは、俺の勝手な思い込みだ。獅子はあえて否定しない事で俺の判断ミスを誘ったの
だろう。瞬間移動という未知の現象に対して対策を練れば、ますますヤツの能力の正体からは遠ざかる。
「お前の能力は、一種の幻覚だ」
「ほう?」
獅子は俺の言葉に、興味深そうに眉を上げた。
「お前が接近する瞬間、体が強ばる感覚があった。そして、負っている傷の痛みを忘れた。初めはお前の能力に感じているプ
レッシャーで体が強張り、奇襲に対応する事に集中するあまり、傷の痛みを忘れたのだろうと捉えていた。…だが違う。実際
にはどちらの感覚も、お前の奇襲のほんの少し前に訪れていた」
せっかくユウが癒してくれたばかりだが、俺はヤツに気付かれないよう、左手の指を閉じ、爪の先で手の平に傷を刻んだ。
「お前はなんらかの手段によって、俺の感覚を…、いや、意識すらも、一瞬だけ消し飛ばしている。自分が瞬時に移動する能
力ではない。相手を一瞬停止させる能力、それがお前の真の能力だ」
そう、意識も停止させられる。ユウが割り込んだ際に反応できなかったのも、俺の意識が飛んでいたからだ。だからこそ、
二人が突然目の前に出現したように感じたのだ。
「…ふ、ふははははっ!よくぞ、よくぞそこまで!己の感覚の違和感に気付き、そこまで看破したか!説明を受けずに俺の能
力を悟ったのは、お前が初めてだ。大した慧眼だな」
はぐらかされるかとも思ったが、獅子は突然笑い出し、俺の推理した能力の正体を、意外にもあっさりと認めた。
「それはどうも。俺はこれでも探偵でね。推理や看破は職業上必須なのさ」
軽口で応じながらも、俺は獅子の余裕に若干の薄気味悪さを感じていた。
誤魔化すことなくあっさりと肯定した。これはつまり、種明かしをしてもなお、自分の能力が破られる事が無いという自信
の表れだ。実際、ヤツがどんな手順を踏んで俺を幻惑しているのかまではまだ分かっていない。…あるいはこの能力には、回
避手段自体が存在しないのかもしれない。
…それでも、絶対無敵の能力などではない事が、先程割って入ったユウのおかげで分かっている。対処できない超常現象な
どでない以上、何か突破口があるはずだ…!
俺は手の平の傷の疼きに意識を集中させる。これはヤツの攻撃タイミングを察知するレーダーだ。意図的に再生はさせてお
らず、血を流させたままにしている。
その瞬間は、唐突にやってきた。一瞬の痛覚の消失、それと同時に獅子が眼前に肉薄している。
対処に使える時間的余裕は変わらないが、奇襲を受ける瞬間が分かれば、心構えは違う。
俺は獅子の攻撃をなんとか身を捌いてかわす。振るわれた右腕をバック宙しながら蹴り上げ、手首を粉砕する。俺は獅子の
苦鳴を耳にしながら、離れた所に着地した。
推測するに、この能力は連続使用に制限がある。間髪入れずに使用できるのなら、俺はすでに狩られている。
付け加えるなら、意識を飛ばせるのは一瞬だ。長時間腑抜けにしていられるなら、勿論俺はすでに四肢をもがれているはずだ。
そしてもう一つ推測しているのは、恐らくこの能力が、一度に一人しか対象にはできないという事だ。
無防備だったにもかかわらず、ユウが割り込んだ直後の俺達が攻撃を受けなかったのは、使用しても俺達の一方には効果が
無いから、つまり、能力を受けなかった方によって、力の正体を見破られる可能性があったせいだ。
これらの事から察するに、ヤツの足の状態から、この能力の射程とでもいうべき物が見えてくる。
ならば、間合いギリギリの位置で迎え撃ち、ヤツを捉えた瞬間に反撃を叩き込むという、後の先を狙う作戦は、比較的マシ
な手段だろう。
考えようによっては、背中合わせに歩き、向き合って打ち合う西部劇の一コマにも似ている。さながら、「どっちが速いか、
試してみようぜ?」といった具合だ。
自慢じゃないが反応速度には自信がある。防ぐ手段は見つからないが、俺がミスしない限り、まだ勝ち目は消えない!
俺は手首を押さえて唸りを上げる獅子に、片手を上げてチョイチョイと手招きし、挑発するように笑みを浮かべた。
弧を描いて振り上げられた右足が、象の下顎を蹴り上げ、上顎に埋没させる。
続けざまに左足で飛び上がったフータイは、跳んだその足で同じヵ所を蹴り、下顎を完全に粉砕する。その気になればワゴ
ン車も高々と蹴り上げられるであろう、凶悪な破壊力を伴った二起脚だ。
しかし、直撃して顎を粉砕されたにもかかわらず、象は痛みを感じていないかのように、宙に浮いた虎人めがけてその豪腕
を振るった。受けようものなら全身の骨が粉々に砕かれそうな横振りの一撃を、フータイは接触の瞬間に足裏を合わせ、拳の
先に乗るような形で威力を減殺させて跳び避ける。
決定打を与えられないのはフータイだけではない。どんな大砲も当たらなければ無意味なように、象の攻撃もまた、卓越し
た体術を誇るフータイを捉えられない。二人の戦いは長期戦の様相を呈していた。
宙で身を翻し、着地したフータイと、獅子の攻撃を再び避け、跳び退った俺の背が軽く触れた。
僅かに首を傾げて視線を交わし、俺は口の端を吊り上げる。
「流石のお前も、手こずっているようだな?」
フータイも口元に太い笑みを浮かべる。
「お前の方こそ、だいぶ苦戦しているように見えるが?」
獅子と象が俺達を挟み、その位置は丁度対角線を描いた。
「…一つ、策がある」
「…何だ?」
俺が小声で告げると、フータイは微かに眉を動かし、それから不敵に笑った。
「…ふん…!面白い。乗ろう…!」
「タイミングは、今伝えた俺の反応に合わせてくれ。こっちは一瞬無防備になる。頼むぞ」
虎人は頷き、俺の尾に自分の尾を絡ませた。俺は尾から力を抜き、獅子を見据えてその瞬間を待つ。
その感覚は、またしても不意にやって来た。体が強張り、痛覚が消える。
感覚が戻った俺の目の前には縞模様の虎人の背。獅子の能力の発動を悟った俺は、素早く振り向いた。
対象のスイッチ。それが、俺が思いついた奇策だ。
俺の尾を通して体の強張りを察し、フータイは俺の前に回り込み、獅子を迎え撃つ。そして俺は再生能力を阻害する特性を
生かし、象を戦闘不能にするだけの最大攻撃を仕掛けるというものだ。
「な!?ぐぅっ!」
獅子の驚愕、そして苦悶の声を背に聞きながら、俺は突進してくる象を見据え、軽く跳ねる。本来壁を蹴る両足は、背中向
けのまま上げられた虎人の、強靱な足に合わせられた。
フータイの足の裏に、俺の足裏がピタリと重なる。虎人の蹴り足に、人狼の跳躍力が加わる。かつてない加速を得た俺の体
は、銀の隕石となって放たれた。
爪を最大まで硬化させた右腕を、槍の穂先のように突き出し、俺は流星と化して象の胴へと激突した。衝撃で全身から血が
しぶき、銀の被毛が舞い散る中、一本の槍となった俺の腕は、象の鳩尾に肩までめり込む。
象の強靱な皮膚を貫き、臓腑を引き裂き、俺の手は象の体内で背骨を掴んだ。
絶叫を上げ、無茶苦茶に暴れる象の腹にくっついたまま、俺は左手をヤツの体に沿え、強く握り締めた背骨を、渾身の力を
込めて引いた。
ボギン、という音と共に象の体が後ろへ、くの字に折れる。
背骨をへし折った右腕を引き抜き、倒れてゆく象の体を蹴り、着地と同時に振り向くと、フータイと獅子が、間近で睨み合っ
たまま立っているのが視界に入った。
「…やられたな…。種を明かすと、俺の能力は「王への服従」…、視線を合わせた者を瞬間催眠に落とし、忘我の内に仕留め
る能力だ…。本来は一対一で効果を発揮する一撃必殺の能力だが…。…ふっ…、まさかこんな手で破られるとは…。…一度の
使用で仕留められなかったのは、誤算だったな…」
獅子の口からゴボリと血が溢れた。
獅子の左手は、虎人の右の脇の下に挟み込まれて捉えられ、対してフータイの左腕は、手首まで獅子の左胸に突き込まれて
いる。フータイの腕を止めようとしたのだろう獅子の右手は、胸の高さに上げられたまま、しかし手首の所からダラリと力な
く下がっていた。
一瞬の交錯で獅子の攻撃を受け止め、反撃を入れ、同時に俺の発射台として後ろへ蹴りを出す。爪を地面に食い込ませた右
足一本で体を支え、それだけの芸当をやってのけたフータイこそ、獅子や象以上の化け物だ。
「…まさか、寸前で対象を入れ替えられるとは…。ふ、ふふふっ…、せめて、先程右手を蹴り砕かれていなければ、こんな結
果にはならなかったろうに…」
フータイが左手に力を込めると、獅子の胸が、背が裂け、鮮血がしぶいた。真空の刃を体内で発生させられ、全ての心臓を
破壊された獅子は、ビクリと痙攣した後、ゆっくりと、仰向けに倒れた。
複数の心臓を持つキメラブラッドといえど、あの象のような再生能力をもたない限り、これでは一溜まりもない。
俺はシルバーミーティアの衝撃で痛む体を叱咤し、足を引きずって歩き出す。…ヨウコ、頼むから無事でいてくれよ…。
「片付いたな。だいぶ時間を食った。急いで…」
「ヤチさんっ!」
「気を抜くな字伏!」
俺の言葉を遮り、ユウとフータイの声が上がった。
背後で風斬り音。考える前に体が床に伏せた。間を置かず、俺の背と後頭部を、何かが掠めて通り過ぎた。
かすっただけの衝撃で床に叩き付けられた俺は、何とか首を捻って背後を見る。
背骨を破壊され、両腕で動かぬ下半身を引き摺り、相変わらず感情の篭っていない瞳で俺を見据え、象はすぐ傍まで迫っていた。
瞬時に、今の攻撃はあの鼻で薙ぎ払われたのだと察する。理解し、次の攻撃に備えようとした瞬間、俺は愕然とした。…体
が…動かない!
シルバーミーティアの衝撃によって負ったダメージと、たった今後頭部を掠めた一撃で、脳震盪と激痛によって体が言うこ
とを聞かなくなっている!
象の鼻が高々と振り上げられた。威力はフータイとの戦闘で十分に見ている。あれを食らえば、俺の体は一撃でミンチにさ
れるだろう…。
「ヤチさん!逃げて!」
ユウが叫びながら床を蹴り、必死の形相で駆けてくる。巻き込まれるから来るな!と言おうとしたが、大丈夫だ。間に合い
そうにない。
振り下ろされるべく、高々と差し上げられた戦槌のような鼻を前に、不思議な事だが恐怖は無かった。
ただ、ヨウコの事だけが、気がかりでならなかった。
必ず帰ると言った、あの約束を守れない事が心残りだった。
だが、まだフータイが無傷な以上。ヨウコはきっと大丈夫だ。
ネクタールも壊滅するだろう。あいつなら間違いなく、象を仕留め、ヨウコを救い、総帥を殺してくれるはずだ…。
…寂しいものだな…。愛した女一人守れず、誰かに後を託して逝くというのは…。
「…済まない…。ヨウコ…」
振り下ろされる鉄槌を眺めながら、俺はヨウコに詫びた。