FILE19

衝撃と轟音。床の破片や絨毯の切れ端、そして赤いしぶきが飛び散る。

手足が千切れ跳ぶかと思うような衝撃とともに、地面も天井も分からなくなるほど激しく回転しながら吹き飛んだ俺は、床

に二度バウンドした後、誰かの腕に抱き止められた。

「ヤチさん!」

先程走り込んできたユウが、俺の顔を見下ろしている。

…俺は、生きているのか?

腕…、動く。足は…、震えが抜けていないが、大丈夫だ。胸、腹、問題ないようだ。

…なら…、これは何だ?全身からしたたり落ち、ユウの腕を赤く濡らすこの血は、どこからの出血だ?

一瞬飛びかけていた意識が完全に覚醒し、体の状況を確認した俺は、象へと視線を向けた。

「…フー…!」

声を上げかけたまま、俺は絶句していた。

全身を鮮血で染め上げ、こちらに背を向けて象と相対し、仁王立ちしているフータイは、左腕を根本から失い、左足の腿か

ら踵まで、まるで削り取られたように抉られていた。ドクドクとこぼれ落ちる鮮血は、やがて筋肉の収縮によって治まるが…。

フータイの前で、床にめり込んでいた象の鼻がゆっくりと持ち上がる。その下に、押し潰されてぐしゃぐしゃになり、抉れ

た床に張り付いているフータイの腕があった。

…思い出した。象の鼻が振り下ろされるその直前、床に倒れ込んだままの俺は、何者かに蹴り飛ばされた。…フータイが、

俺を救ってくれたのだ。虎人が助けに入らなければ、俺があいつの腕と同じ末路を辿っていたはずだ…。だが、俺を救った代

償として、フータイはその左腕を失ってしまった…!

「フータイ…、何故俺を…!?」

「左腕一本で百の兵を失わずに済むなら、安いものだ」

振り返りもせずにそう言うと、フータイは腰を落として身構える。

左腕を失い、左足もろくに動かない…。それでも激痛と力の喪失を堪えて立つその後ろ姿は、正に武人と呼ぶに相応しい気

迫と誇りに満ちていた。

象が、緩慢な動きでフータイににじり寄る。

「轟おぉぉぉおおおっ!」

虎人の口から放たれた咆吼が、部屋そのものを揺さぶり、俺の魂を震わせる。

戦いで失われ、残り少なくなった力を振り絞り、俺はユウの腕をほどいて両足の爪を床に食い込ませる。

動け!今動かずにどうする!守ると誓った…!仲間を守るとこの魂に誓ったはずだ!動け!字伏夜血!仲間を、フータイを

見殺しにするつもりか!

象の鼻が振り上げられる。フータイは右腕を頭上に持ち上げ、手刀を振りかぶる。

真空刃を放つつもりだろうが、あの足では攻撃を避けられない。フータイは、相撃ち覚悟で最後の一撃を放とうとしていた。

頼む、今一度、今一度だけ俺に音の速さを…!

祈るような気持ちで両足に力を込める。が、足りない…。この程度では、超加速には至れない…!

その時、俺の体がふわりと軽くなった。一瞬遅れ、背に暖かい感触を感じる。

「…ユウ。有り難う…!」

白熊が頷く気配を背に感じ、俺は床を蹴った。力を取り戻した後脚が、床を抉って俺の体を宙へと跳ばせる。

自身も重傷を負い、すでに一度俺に力を与えている。それでも、限界の近いその体で、ユウは俺に再び力をくれた。無駄に

はしない!

銀の矢となって宙を走った俺は、フータイの頭上を飛び越える。

刹那の瞬間、見交わした視線の中にあいつの信頼を感じたような気がしたのは、俺の思い上がりだろうか?

右腕を大きく引き、爪にありったけの力を注ぎ込む。バキバキと伸び、硬質化した爪は、薄く、細く、鋭く形成される。

ただ一度の接触に耐えられるだけの、限界ギリギリの強度と鋭さ。カミソリと化した五指の爪を束ね、鼻を振り降ろす寸前

の象の顔面へと肉薄する。

ボンッと、少々コミカルな音を立て、象の鼻が三分の一程を残して斬り飛ばされる。

砕けた爪の痛みを感じながら象を飛び越えた俺は、勢いを殺す事もできず、無様に天井に激突し、そのまま床に墜落した。

痛む体を叱咤して首を上げる。視界に象の後ろ姿を捕らえたその瞬間、キンッと、短く、甲高い音がした。

象が動きを止め、俺が斬り飛ばした鼻が、俺と象の間の床にドサリと落ちる。

一瞬、異様に長く感じる一瞬の後、象の頭頂部から、プシッと血がしぶいた。その背から股にかけて細く線が入り、そこか

ら細く血がしぶいた後、象の巨体は中央から裂け、分割された半身同士が互いによりかかるようにして、床に崩れ落ちた。

心臓を複数持とうと、いかに強力な再生力を持とうと、唐竹割りにされれば即死、関係のない事だ。それをあの巨体相手に

実践して見せるあたり、フータイもまた、ビャクヤに匹敵する怪物と言える。

溢れ出た鮮血と零れ出た臓腑。むせ返るような血臭の向こうで、手刀を振り下ろした体勢のまま、フータイは俺と目を合わせた。

まったく、大した男だ…。床に這いつくばったまま口元を歪め、親指を立ててやる。と…、

…俺は、一瞬自分の目を疑った。あのフータイが、なんと俺に対し、親指を立て返してニヤリと笑って見せたのだ。

そしてそのままぐらりと揺れると、膝がガクンと折れ、その場で尻餅をついた。

「…さすがに少々…、堪えたな…」

乱れた息の間から、フータイは苦しげに呟きを漏らした。

「力を分けます。じっとして…」

駆け寄ったユウに支えられながらも、フータイは手を上げてそれを制した。

「死に至る程の傷ではない。そこの腕の残骸を拾って貰えれば、あとは力が戻り次第、自力で何とかする。残り少ない力は、

字伏に…」

ふらつく足取りで歩み寄った俺に、フータイが視線を向けてそう言った。

「残すはあのコウモリと、総帥か…。死に損ないと人間の一人、普段なら物の数でもないが…」

「膝が笑っているその状態では、厳しかろう」

フータイはそう言うと、ずたずたになった腕を慎重に運んできたユウに目配せした。

「俺の傷は自力でなんとでもなる。お前は字伏に同行し、白波女史を救い出せ。残り少ない力、無駄にはするなよ?」

「はい…!」

頷いたユウから腕を受け取り、肩に押し付けながら、虎人は俺の顔を見上げた。

「済まぬが、後は任せた」

「ああ。任された」

応じつつ、俺は右手をさしだした。フータイは少し驚いたように、僅かに眉を上げたが、やがて目を閉じてフッと笑うと、

俺の手を握り返した。

「吉報を待つ」

「期待していてくれ」

短く言葉を交わし、奥のドアに向かって歩き出す俺を、疲労で重くなった体を引き摺ってユウが追いかけて来る。

「たぶん、あと一回しか力を与えられません…」

「十分だ。まぁ、出来れば使わせずに何とかするさ。今日は疲れた。お前をおぶって帰るのは、さすがに遠慮したいしな」

小声で言ったユウに頷き返し、俺は軽口で返す。

「僕だって疲れてます。ヤチさんこそ、帰りもちゃんと自分の足で歩いてくださいよね?」

俺の軽口に軽口で応じ、ユウは微笑む。本当に頼もしくなったな、この少年は…。



階段を登りきり、ドアを蹴り開けた俺は、正面に立つ三人に視線を固定した。

そこは総帥の私室でもあるのだろう。派手ではないが高級品らしき調度品の並ぶセンスの良い部屋で、部屋の中央には丸い

オークテーブルが据えられ、突き当たりの壁一面が夜景を一望できる窓になっていた。

その窓から夜景を眺め、こちらに背を向けたまま、ネクタール総帥である若い男が立っている。

その傍らには、すでに正体を現しているコウモリ。その腕、翼の中には…。

「ヤチ…!」

「無事だったか、ヨウコ…!」

最愛の女性の無事な姿を目にし、ひとまず安堵する。

「ごめんなさい…!私、私…!」

「今は何も言うな」

涙をこぼすヨウコに優しくそう告げ、俺はコウモリを、それから背を向けたままの総帥を睨む。

「ヨウコを放せ、そうすれば…」

「見逃してやる。と?」

「いいや、苦しまないよう殺してやる」

俺の返答に、総帥は夜景を眺めながら、小さく肩を震わせた。どうやら笑ったらしい。

「さて、白波さんと言ったな…」

総帥は窓の外から視線を外さぬまま、ヨウコに声をかけた。

「貴女は、何故その人狼を受け入れられた?」

沈黙。俺も、ヨウコも、この男が何故そんな事を聞くのかが分からなかった。

「人間とは異なる、いわゆるバケモノだ。何故受け入れられた?」

「…人間とか、ライカンスロープとか、その違いに何の意味がありますか?」

ヨウコはコウモリに捕らえられたまま、首を巡らせて総帥に視線を向ける。彼女には彼の横顔が見えているはずだった。

「理解しているのかな?ライカンスロープとは、人間とは異なる存在なのだよ。人間ではない。つまり獣だ。人間らしく振る

舞っているが、その本性は今の彼の姿が示す通り、獣なのだよ」

ヨウコは力を込めた視線で総帥の顔を睨み、一言一言はっきりと口にした。

「例え人間ではないとしても、彼は立派な人です。私は、ヤチを愛せた事を誇りに思います」

「…愛…?」

「ええ。私は、ヤチを愛しています。この世の何より、ヤチが大切です!」

その言葉で、誇らしさと、愛おしさが、俺の胸を満たす。

きっぱりと胸を張って言ったヨウコは、総帥を睨みながら続けた。

「獣というなら、私利私欲の為に自分と異なる存在を餌にしている貴方達こそ、よほどケダモノです!」

「…ケダモノ…」

総帥は小さく呟くと、肩を震わせた。

「ふ…、ふふ…、ふははっ、ははははははは!」

顔に手を当て、背を仰け反らせ、天を仰ぎ、総帥は声を上げて笑った。

俺の背を、ゾクリとした物が伝う。

哀憎怨怒…、負の感情が凝り固まったかのような哄笑、笑声を放ってはいるものの、この男、笑ってなどいない。

「貴女も、私をケダモノと呼ぶか…」

男は首を巡らせ、ヨウコを見つめた。…いや、見つめた訳ではない。男の目は、遙か遠くを見透かすように、ヨウコを突き

抜け、遠くを見ている。

その目を見たヨウコは、怯えたように身を固くした。

「私とその男と、何が違う?何処が違う?何故その男は、赤の他人の貴女に受け入れられ、私は実の親にすら受け入れられな

かった?」

男はゆっくりとヨウコに歩み寄る。その瞳に危険なものを感じ取った俺は、脚力を強化した。この間合いなら、反応される

前に…!

「動くな!」

俺の動きを察知したコウモリが、甲高い声で警告を発した。その翼から伸びた指先の爪が、ヨウコの首にヒタリと据えられる。

このやり取りに我に返ったのか、総帥の体から発散されていた禍々しい空気が霧散した。

「…これ以上待たせるのも申し訳ないな。手短に済ませよう」

総帥は俺にひたりと目を据える。

「旧ネクタールを壊滅させた白犬のライカンスロープ。奴は今何処にいる?」

「…さぁな。俺が知りたいくらいだ」

俺の返答を軽口と受け取ったか、総帥は敵意の籠もった笑みに口元を歪ませた。そして右手で懐から銃を抜き、俺に向ける。

それは小口径のリボルバーだった。あの口径の弾丸では、俺達を殺すのは難しい。

「この銃では自分は死なない。そう思っているな?」

総帥はそう言って含み笑いを漏らすと、左手を上着のポケットに入れ、一発の弾丸を取り出した。弾頭は、半透明のカプセ

ルのような物で、中には深紅の何かが詰まっている。

「この弾頭に入っている液体は、実に貴重な薬でね。今では製法も失われてしまったよ」

シリンダーを押し出し、銃弾を装填しつつ、総帥は暗い喜悦の表情を浮かべた。

「獣化因子抑制剤」

ポツリと口にしたその言葉に、俺が、ヨウコが目を見開いた。

「残り少ない貴重なサンプルだ。効果を発揮するだけの量を使うのは実に惜しいがね」

銃口が俺の胸に照準を合わせた。

「避ければ、彼女の命は無い」

この状況で無力な人間にされれば、結果は見えている。俺も、そしてヨウコも助かるまい。だが…、

俺はチラリとヨウコを見た。

…できない…。俺にはできかねる…。ヨウコを犠牲にし、俺一人生き存えるなど…!

一瞬にも満たない思考の末、覚悟はできた。俺はここで、愛する女と共に果てよう。

だが、次の一手はすでに仕込んである。俺が失敗しても、この場を制するのは我らが同胞だ。…そう、俺が死んでも、この

闘争は俺達の勝ちだ。

俺は死を受け入れるようにゆっくりと両手を広げ、胸を晒す。

愛する女の前だ。胸を張り、せめて見苦しくないように果てよう。命を奪えても、誇りと魂は奪えぬ事を、ヤツらの目に焼

き付けてやろう。

「ヤチ」

ヨウコの声に、俺は彼女に視線を向けた。

「必ず事務所へ帰ると、ユウ君も一緒だと、約束しましたよね?」

「…済まない」

この期に及んで詫びる事しかできず、情けない思いをしながら目を伏せた俺に、ヨウコは微笑んだ。

「約束、守ってくださいね?そして、絶対に負けないで…」

ヨウコはそう言うと、決意を秘めた表情で総帥を見据えた。

「私にも誇りがあります。誇りすら失い、人質をとるなどという卑怯な手段に手を染める貴方と、誇りを持って、仲間のため

に命を捨てる覚悟を決められるヤチ。貴方とヤチの違いはそれです」

ヨウコは不敵な、そして挑発的な笑みを浮かべた。

「同じ狼でも、貴方はヤチとは違う…!」

…?ヨウコ、何を言って…?いや、そんな事は良い、ヨウコ、何を考えている?

俺の視線に、ヨウコは穏やかな笑みで応じた。

「足手まといなんて、まっぴら御免です」

そしてヨウコは、口を一文字に引き結び、顎に力を入れた。

「ま…!」

意図を悟った俺の口から、制止の声が出る前に、ヨウコの口からタラリと血が零れた。

穏やかな笑みさえ浮かべ、目を閉じたヨウコの体から、ガクリと力が抜ける。

「こ、この女!舌をっ!?」

時間が制止したような一瞬。放されたコウモリの翼から、ヨウコは前のめりに倒れる。

目を閉じたヨウコの口元から零れた赤い血が、倒れる彼女の頬に線を引き、後ろに尾を引いた。

「オォォォォオオオオオオオオオオッ!!!」

俺の中で、獣の本能が、人の理性が、揃って慟哭を上げた。

呪いの咆吼は窓を砕き散らし、コウモリを呪縛する。

刹那の間も置かず、俺の体は銀の疾風と化した。

銃声と同時に放たれた獣化因子抑制剤は、俺の後方で壁に当たり、血痕のように赤いシミを作る。

背後で、階段下に待機させていたユウが飛び込んで来たのを気配で感じつつ、床に倒れ伏す寸前のヨウコを左腕で抱き上げ、

右腕をコウモリの顔面に突き込む。口腔に侵入した腕は、後頭部へと突き抜け、即座に発動した人狼の呪いがコウモリを縛る。

そのまま強引に腕を振るい、コウモリを地面に叩き付け、腕を引き抜きながらその胸を踏み潰す。

破壊の衝動に囚われた俺は、延髄と肺を破壊されても、なお意識を失えぬコウモリの両肩を踏み砕き、股関節を破壊し、四

肢をもいだ状態で蹴り飛ばす。

壁に激突し、崩れ落ちたコウモリから視線を外し、俺は屈み込んでヨウコを床に座らせる。

そして、俺の腕の中で、まるで、眠っているように穏やかな…、最愛の女性の顔を見つめた。

「ヨウコ」

眠るように目を閉じたヨウコの体は、まだ温かい。

「ヨウコ…」

なのに、ヨウコはもう…。

「ヨウコ…!」

俺の目からこぼれ落ちた滴が、ヨウコの頬に落ちた。

次の瞬間。ヨウコの目が、パッチリと開いた。

「うわっ!?」

思わず声を上げた俺の腕の中で、ヨウコは顔を顰めて口を押さえた。

「よ、ヨウコ!?お前、生きて…!」

ヨウコは口元に当てた手に、血と一緒に何かを吐き出した。その手の平に乗ったのは、中央辺りで折れ、短くなったカッタ

ーナイフの刃。

「いたた…、結構深く切れちゃいました…」

ヨウコは口の中に指を突っ込み、頬の内側を探ると、痛みに身を震わせた。

「こんな事もあろうかと、さらわれる時に口の中に仕込んでおいたんです。本当は縛られた時の脱出用だったんですけど、役

に立ちました」

ヨウコは言葉もない俺に、痛みと出血で少しおかしくなった発音でそう説明した。

「あれ?驚いてるんですか?」

「違う。怒ってるんだよ…!」

俺はヨウコをきつく抱き締めた。しなやかにしてしたたか。まったく、逞しい女だ…!

…良かった…。無事で本当に良かった…!

「さて、言いたい事は山ほどあるが、それは後だ」

俺はヨウコを放し、ユウへと視線を向ける。

総帥と向き合い、威嚇するように牙を剥いているユウの足下には、叩き落とされた際にひしゃげたリボルバー。

白熊と真正面から向き合う総帥の顔には、しかし焦りも怯えも見て取れない。敵ながら大した胆力と言える。

ユウは罠に備えて階段下で待機させておいたのだが、結果的には正解だった。絶好のタイミングで飛び出してくれたものだ。

俺達が二人揃った状態ならば、この場での決着は諦め、ヨウコを人質に取って脱出されていたかもしれない。コウモリを失っ

た以上、もはや逃走は不可能だが…。

俺は立ち上がり、総帥を睨む。

「前総帥を父と言ったな?ネクタールの旧幹部は、親しい者も含めて始末したと聞かされている。前総帥の親族も例外ではな

いはずだ」

総帥である若い男は、余裕すら感じさせる口調で応じ、肩を竦めた。

「そう、全員殺されたとも。だが、愛人に産ませた子まではチェックから漏れていたようだな?私は嫡子とは見なされていな

かったのでね」

「…なるほど、実の親に受け入れられなかったとは、そういう意味か」

納得しつつ、俺は総帥を観察する。どういう訳か、この男の匂いは嗅ぎ取り辛い。考えを見通せないのが不安材料になって

いるのか、どうにも落ち着かない。

この余裕…、この男、まだ何か隠しているのか?それとも抵抗は無駄と諦めたのか?

「受け入れられなかった…?ふ、ふふふ、ふはははははっ!」

総帥は腹を抱え、体を折って笑い出した。突然笑いの発作を起こした男に薄気味悪さを感じたか、ユウも、ヨウコも、気味

悪そうにヤツを見つめる。

「違うな。私が受け入れられなかったのは…」

体をくの字に折り、俯いたまま、総帥は呟く。

ゾクリと、俺の背を戦慄が走った。

 総帥のスーツが弾けるように内側から破れ、丸めた背を覆う黒い被毛が現れる。

 「ユウ君!気を付けて!」

ヨウコの声と同時に、ユウは仰け反るように半歩退く。その胸から、鮮血がしぶいた。

「っくぅ…!」

さらに数歩後退したユウは、胸を押さえて片膝を着いた。顔を上げた白熊の瞳に、眼前に迫る牙が映り込む。

肉と骨が叩き合う激突音。ギリギリで間に合った俺の飛び蹴りを交差させた腕で受け止め、夜を切り抜いたような黒い獣は、

吹き飛んだ姿勢から四つん這いになって着地する。

「…馬鹿な…、匂いなど全く無かったのに…!?」

ユウの前に立ちはだかり、軽い驚愕と共に呟いた俺に、黒い獣は血のように赤い口腔を見せて嗤った。

 総帥の身に起こった変化は急激で、驚くほど速かった。気付くのが一瞬でも遅れていたら…、危ない所だった…。

「お前達は消気術と呼んでいたな?私は幼い頃から人間のふりが上手くてね」

ユウは胸を押さえ、痛みに耐えながら自分を切り裂いた獣を見つめる。胸を裂いた傷は塞がる事無く、ボタボタと血を滴ら

せている。何らかの作用により、再生が阻害されているのだ。…いや、阻害している力の正体は、俺が良く知っている…。こ

の力は…、

「黒い…、人狼…!?」

ユウはその瞳に漆黒の獣を捉え、掠れた声で呟いた。

闇そのものを纏ったような、光沢の無い黒い被毛。全身を覆う漆黒の中で、灰色の爪と瞳だけが、刃物のような光を放って

いる。

…抜かった!ヨウコがさっき言っていたのに…!ヤツの事を、俺と同じ…「狼」だと!

ヤツの攻撃に付随した人狼の呪いにより、ユウの傷は再生を阻まれている。決して浅い傷ではない。動かすのも危険な程の

深傷だ!

「そんな…、貴方も同じライカンスロープなら、何故こんな真似を…?」

理解できないといった様子で問い掛けたユウに、黒い獣は哄笑で応じた。

「同じなどと言って貰っては困る。私は…、獣を越えるのだよ!」

我らの天敵たるネクタール。その総帥たる我らの同種に、ヨウコが怯えたような声で問いを発した。

「獣を、越える…?」

「そうとも!私は獣を越える!人間になるのだ!」

!?

俺達はヤツが口走った内容に絶句する。黒き人狼は得意げに笑みを浮かべて続けた。

「ライカンスロープの力を他の個体に移し替えるキメラブラッドも、強制的に人の姿を固着させる獣化因子抑制剤も、全ては

亡き父が、私を人間にする為に作り上げた技術だ!」

………。

「私は亡き父の意志を継ぎ、人間となる!人間となれば、父も私を受け入れてくれたはずだ!いや、父だけではない!社会が!

世界が!全てが私を受け入れてくれる!だから私は、獣を捨てて人間になるのだ!」

獣の口から放たれる哄笑が俺達を取り囲む。俺は、この男から感じた、背筋が寒くなる程の力の正体を知った。

それは意志の力。狂気すれすれの乾き。そして満たされぬ望み。狂おしい程の渇望が、黒き人狼から滲み出しているのだ。

「…憐れだな…」

俺の呟きが耳に届いたか、黒狼は笑い声を途切れさせ、俺を睨んだ。

「憐れ、だと?」

ヨウコが、ユウが、俺に視線を向けた。

「獣を捨てると言ったな…。それはつまり、己を否定するという事だ」

俺は黒狼に向かって一歩踏み出した。

「己を受け入れられない者が、何故他者に受け入れられる?そんな事も理解できずに足掻いているお前は、実に憐れだ…」

黒狼はギリリと歯を噛みしめ、俺を睨む。憐れな…、だが、この男もまたこの男なりに、肉親の情を、血を追い求めたのだろう。

「…幕引きにするか…」

俺の放った殺気に反応し、即座に動いた黒狼は、破れた窓から地上百数十メートルの外へと飛び出す。

 追おうとした俺の腕を、しかしユウが掴んで止めた。その手から温かい力が流れ込む。

「これで最後です…、少しで、申し訳ないですけど…」

「ユウ、また無茶を!」

白熊は疲労と出血で今にも倒れそうになっていた。叱責の言葉が出かかったが、それを呑み込み、俺はユウに頷く。

「無駄には使わない。必ず仕留める!…ヨウコ!」

俺の声に頷いた彼女に、俺は下にフータイが居る事を告げた。

「あいつが歩ける程度に回復しているようなら、ここへ呼んで三人で固まっていろ」

「分かりました」

窓から飛び出しかけた俺は、しかしヨウコに呼び止められた。

「気を付けて下さいね」

「ああ、すぐ戻る…!」

 何人もの仲間達に支えられ、何度も助けられ、俺はここ、最終決戦の舞台へと辿り着いた。

 その恩義に報いるためにも、ここで全ての決着をつける!

見送るヨウコとユウに笑みで応じ、黒狼の姿が消えた窓の外へと跳び出し、俺は夜気の中へと身を躍らせた。