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ホテル、シルバーフォックスでタマモさんと話した二日後。

ある程度調査が進んだ俺は、ヨウコを事務所に招き、調査の途中経過を報告した。

結局、姉の死が自殺ではないと言った彼女の勘は、正しかった事になる。

「証拠がある訳ではなく、あくまで推測に過ぎないが、お姉さんの死に伊藤という男が関わっているのは確かと思われる。遺

書とされたメモも、この通り…」

預かったメモを広げて見せる。鉛筆で薄く擦って浮き出てきたのはいくつかの言葉。文ではない、不自然に単語や言葉だけ

がメモに使われていた。

メモをこういうふうに使う様子を想像してみる。例えば「あの漢字はどう書くのだったろうか?」そう聞かれたら、俺なら

ば、手近なメモを使って書いて見せるだろう。

いくつかの言葉を書かせ、それと気付かぬように最期の言葉として適当と思われる言葉も混ぜる。つまり、ミズホは知らず

知らずの内に、自分の遺書を書かされていたのである。伊藤という名のヤクザの誘導によって。

クラブのホステスから聞いた情報と、俺の推測を伝え、当日の伊藤のアリバイに空白の時間がある事、その時間帯は丁度ミ

ズホが飛び降りた時刻と一致する事を告げる。

説明のしようがないので伏せているが、決定的なのは、そいつがCOOLという銘柄のタバコを吸っていたこと。手すりに残さ

れていた、俺が覚えてきた匂いだ。

この馴染んだ匂いだけは、微かに残っていただけでも間違えようがない。念のために確認したが、ミズホの婚約者はタバコ

を吸わない。昔から気管が弱いそうだ。

「…有り難う御座いました」

ヨウコはそう言うと、バックから金を取りだし机に置いた。調査費用としては不自然に多い額だ。調査終了後に、と約束し

ていた礼金よりも、少し多い。

「…これは…?」

言いかけた俺の言葉には答えず、ヨウコは机の上の伊藤の資料を掴む。

「お願いした調査は、ここまでで結構です。有難う御座いました」

「おい、どこへ…?」

ヨウコはペコリとお辞儀して、事務所を飛び出していった。…記者だけあって大した行動力だ。いや、この場合は向こう見

ず、と言うべきかな…。

俺は頭を掻き、ため息をつく。

落ち着いて証拠を揃え、警察に訴えるのがベストだ。なのにあの女は…。

まあ、肉親を殺されたなら、冷静ではいられないのも当然か…。少し多めに貰ってしまったし、このまま放っておくのも少

々寝覚めが悪いな…。



「お姉さんの自殺について、だったね?」

伊藤はヨウコを前に、穏やかな口調で言った。仕立ての良いスーツを着た、ちゃらちゃらとした男で、そこそこ顔が良い。

本人は気に入っているのかもしれないが、茶色く染めた頭が、三流ヤクザといった印象を与える。

ヨウコが伊藤を呼び出したのは、ミズホが飛び降りた屋上だった。沈み掛けた夕陽が、血のような赤い光を空に投げかけている。

「不幸な事だ。悔やまれるよ…」

白々しく、哀しんでいる様子を見せる伊藤に、ヨウコは言った。

「あなたが、自殺に見せかけて殺したんですね?」

ヨウコの言葉に、伊藤の目尻がピクリと動いた。役者としても三流だな。

「おいおい、何を言って…」

「証拠があるんです!」

ヨウコはそう言うと、バッグからDVDディスクを取り出す。

「姉はマンションの防犯対策が不満で、玄関に小型カメラを設置していました。姉が飛び降りた晩で止まっていたカメラの記

録には、貴方が部屋に出入りする様子が写っています。姉を屋上に連れて行って落としたのは、貴方です!」

ハッタリだ。そんな物があったなら、初めから俺には依頼などしない。が、伊藤はまともに動揺した。

「ば、馬鹿な?!そんなカメラはどこにも無かったぞ?!」

…少々阿呆だな。こいつ…。今の言葉で、少なくとも家捜ししたらしい事は察せられる。

「映像には貴方がはっきりと映っています。自首してください」

ヨウコは毅然とした態度で言い放つ。

「くそ…、上手くやったと思ったのによ…。警察にだって、殺したことはバレちゃいなかったのに…」

伊藤はうつむいて吐き捨てた。訂正する。こいつは相当な阿呆だ。

ヨウコはポケットから、取材に使うものなのだろう、小型の録音機を取り出した。

「自白、ですよね?今の…。録音させて貰いました」

お見事!俺は心の中で拍手を送る。

やっとハメられた事に気付いたのか、伊藤の顔が見る見る赤くなった。

「て、てめえ!ハメやがったな?!」

伊藤は懐に手を突っ込む。光物でも取り出すつもりだろう。

ヨウコは慌てて逃げようとした。が、彼女は手すり側に立っており、ドアとの間には伊藤が居る。手際よく追い詰めた割に、

逃げる時の事は考えていなかったのだろうか?

 全く持って無茶をする…。女がたった一人でヤクザを告発しようというのだ。こうなる事くらいは誰でも予想できる。危険

な事は容易に察せられただろうに…。

 …仕方がない。最悪の場合を考え、念のために「許可」をとっておいたのは正解だったな。

「そこまでだ」

俺は身を潜めていた貯水槽の後ろから姿を現す。二人の視線が俺に向けられた。

「アザフセさん?!」

ヨウコが驚いて声を上げた。

「だ、誰だテメエは?!」

肩をすくめ、俺は答える。

「ただのしがない探偵だよ。伊藤さん、あんたの告白は俺も聞いている。もう逃れられない、大人しく自首するべきだ」

伊藤は俺とヨウコを交互に見つめた後、視線を足元に向けた。その肩が、小刻みに震えている。

「…へ、へへへへ…。上手くいってたのによ…、こうなりゃもう…」

その時、これまで一度も俺を裏切らなかった本能が、強い警告を発した。「走れ!」と。

伊藤の手が懐に差し込まれ、黒光りする金属の塊が引き出される。

拳銃だ…!本来なら察知できるはずの火薬の臭い。それなのに、遠い昔に嗅ぎ慣れてしまったタバコの臭いに気をとられて

いたせいか、嗅ぎ付けられなかった!

銃声と共に、右脇腹に灼熱感。

蹴り飛ばされたような衝撃が腹部を襲い、俺は仰向けに倒れる。

突然目の前に飛び出し、代わりに撃たれた俺を、青ざめた顔で見つめるヨウコ。脇腹から溢れる鮮血に気付いた彼女は、口

元を押さえて悲鳴を上げた。

「騒ぐな!動くんじゃねえ!」

伊藤は声を張り上げ、銃を向けてヨウコを威嚇した。

ひ弱な人間の体は、たった一発の銃弾の衝撃で、ほとんど動かせなくなっていた。

伊藤の拳銃がゆっくりと俺の顔に向けられる。このままでは避けようがない。

最後の確認をしようと口を開きかけたその時、俺と伊藤の前に、ヨウコが立ちはだかった。細い両手を大きく左右に広げ、

俺を伊藤から守るように立ち塞がる。

表情は見えないが、その体は恐怖のためか、小さく震えていた。

「ごめんなさい。アザフセさんまで巻き込んでしまって…」

「気に…、するな…。アフター…サービスって、ヤツさ…」

無鉄砲だが、度胸は大したものだ。少しばかりこの女の事を見直した。

呼吸が乱れ話しづらいが、どうしても確認しておかなければならない事がある。

「…聞きたい、事がある…」

俺は伊藤に話しかける。

「…何故…、彼女の姉を殺した…?」

「ああん?!あの女はな、俺のプロポーズを断りやがったんだよ!婚約者がいるとかほざいてな!俺と、普通の会社員のそい

つ!どっちについてった方が得か、馬鹿でも分かる!なのにあの女、俺の顔に泥を塗りやがって!組の下っ端に示しがつかね

えじゃねえか!」

「…求愛を断られたから、腹いせに殺した…。そう聞こえるぞ…?」

「そう言ってんだよ!一般人が俺の誘いを断るなんざ、許されねえ事なんだよ!」

ヨウコの体がガクガクと震えだした。

「そ…んな…。そんな下らない理由で…、姉さんを…?」

怒り、戸惑い、悲しみ…、ヨウコの激しい感情の揺れが、体から発散される汗の香りで、手に取るように分かる。死を目前

にした俺の肉体が勝手に活性化し、嗅覚が鋭くなっているのだ。無理矢理押さえ込むのも限界に近い。が、ここまで聞ければ

もう十分だ。

今、ヤツが俺とヨウコを殺そうとしているのは身を守る為だ。動機を否定はしない。

だが、ミズホを殺したのは、三つのルールに反する。

万が一の事が起こった場合、どうするべきか?そうタマモさんが尋ねた時、本城の親分はこう言ったそうだ。「伊藤があん

たらのルールに外れた真似をしていたなら、あんたらのルールで裁いてくれ。事務所の者にはワシが話すし、責任は全てワシ

が負おう」と。

こうして俺には伊藤を狩る「許可」が、条件付きで与えられた。

裏の社会には裏の社会のルールが有る。裏の社会のそのまた影に潜む俺達も、そのルールは守らなければならない。だがし

かし「許可」を貰えば話は別だ。

殺すも止む無し。

そう判断した俺は、全身を縛り付けていた意思の束縛を解き放つ。

喉から、獣の咆哮が漏れた。

伊藤が俺を見つめ、ヨウコが驚いて振り返った。

束縛が解かれた開放感で、全身の細胞が歓喜に震える。

全身から銀の体毛が生え出し、瞬時に皮膚を覆い隠す。

体中の骨格が音を立てて変化し、筋肉が膨張する。

尾てい骨が伸び、尾が形成される。

鼻と顎が前にせり出し、鋭い牙に生え変わる。

劇的な肉体の変化はごく短時間だ。10秒と経たずに、俺の身体は本来の姿を取り戻し、全身に力が甦る。

ゆっくりと立ち上がる俺の姿を、二人が驚愕の表情で見つめていた。

人間の姿の時と比べ、組織自体が変化して量を増した筋肉と、骨格の変化によって、肉体は一回り膨れ上がり、上背も伸び

ている。

銀の毛並みを押し上げる発達した筋肉、長い毛に覆われた尾、前にせり出した鼻と顎、頭頂近くでピンと立つ耳、体毛と同

じ銀色の瞳、両手両脚の五指は硬く鋭い爪を備え、口腔には鋭い牙がずらりと並ぶ。

直立した狼。そう表現すればいいだろうか?肉体的なフォルムは人間に近いが、足は本物の狼同様、踵から先が伸びた形に

なり、爪先立ちに近い。

人狼、それが俺の正体だ。

銃創周りの腹筋が蠕動し、鉛弾をプッと体外に吐き出す。弾丸がコンクリートの床を転がり、伊藤が後ずさった。

「ば、ばけもの?!」

「お前達は俺達のことをよくそう呼ぶな。だが、俺達から見れば、無益な殺しを行うお前も、立派なばけものだ」

指を軽く握り、開き、感触を確かめる。普通の銃弾など何発喰らおうと問題ないが、傍にはヨウコが居る。万が一にも流れ

弾に当たって死なれては、身をもって盾になり、あげく正体まで晒したのが無意味になるうえ、寝覚めが悪い。

俺は伊藤の動きに注意を払いながら床を蹴る。ヨウコの体を抱え込み、横に飛んだ。

反射的に放たれた伊藤の銃弾が、直前まで俺の居た空間を貫く。腕は悪くない。が、いかんせん遅すぎる。

人狼の足は100メートルを3秒以下で走る。秒速41.7メートルで移動する俺の姿は、人間の目には、銀の尾を引く流

星のように映る。

ヨウコを抱えたまま貯水槽の後ろまで駆け、ヨウコを降ろす。

「あ、アザフセ…さん?」

「話は始末をつけてからだ」

呆然としながら俺を見上げるヨウコにそう告げる。…先日のような幸運は、続かないものだな。今度こそはごまかしは利か

ないだろう。俺に出来る選択は、口を封じるか、あるいは…。

伊藤が貯水槽に銃弾を浴びせ始め、俺は考え事を中断する。

恐慌状態に陥ったのか、見境なしだ。このままでは騒ぎになる。

俺は身を屈め、大きく跳躍して3メートルの貯水槽を軽く飛び越えた。耳元で風が唸り、全身の体毛が大気の感触に震えた。

大気を裂き、俺は宙から伊藤に迫る。

一瞬唖然として俺を見上げた伊藤だったが、怯えた表情で銃を構え、立て続けに引き金を引き絞った。

重ねて言うが、腕は悪くない。だが、人狼の本性を現した俺の動体視力と反射神経は、銃弾すらもはっきりと認識し、対処

する事ができる。

首を僅かに傾げて避けると、頬の毛を掠めて銃弾が通り過ぎていった。他の弾は避けるまでもない、膝の数センチ横を通り

過ぎ、肩の毛を掠め、銃弾は虚空へと飛び去る。

恐怖に歪んだ伊藤の顔がどんどん近付く。

右腕を素早く振るい、俺はヤツの横に着地した。

ポンッというコミカルな音と共に、伊藤の首から上が無くなっていた。コルクを抜いたシャンパンのように鮮血を吹き上げ

つつ、頭部をもがれた身体は数歩よろめき、そして倒れる。

俺はもぎ取ったばかりの伊藤の首を、髪を掴んで眼前にぶら下げた。

頭部だけになりながらも、伊藤は恐怖の表情を浮かべて俺を見つめていた。

「よう。気分はどうだ?」

伊藤が瞬きする。自分がどうなったのかも理解できていないのだろう。

カースオブウルブス。

人狼の呪いを受けて破壊された者は、完全に朽ち果てるか、かけた者が呪いを解くかしない限り、死ぬことは許されない。

決して不死になる訳ではない。ただ緩慢に朽ちながら、死に至った傷の痛みを味わう事になる。気が狂うような絶え間ない

苦痛の中で、死に至るその時を待ち続ける。そういう呪いだ。

伊藤もまた俺の呪いにより、朽ち果てるその時まで、死の安息を得る事はできない。

俺は伊藤の首をぶら下げたまま、ヨウコの居る貯水槽の裏へと回った。そこには替えの服を詰めたスーツケースがある。伊

藤の首は、その中に入れてきたビニール袋に包んで持ち帰るつもりだ。

ヨウコは、俺が伊藤の首をビニールにしまい込む様子を引き攣った顔で見つめていた。気絶しないだけ大したものだ。

「さて…、まずは選択する事から初めてもらわなければならないな」

俺の言葉に、ヨウコは不思議そうな顔をした。

さっきからそうだが、俺に向ける視線には、嫌悪も恐怖も混じってはいないような気がする。心音も落ち着いてきており、

平静な状態に近い。

「見ての通り、俺は人外の者だ」

ヨウコはコクリと頷く。…本当に分かっているのだろうか?

「そして、正体を知った人間を、放っておく事はできない。これは俺達のルールだ」

ヨウコは少し黙った後、尋ねた。

「つまり、私も殺されるんでしょうか?」

その言葉は少しだけ不安そうだったが、恐怖は感じさせない。

「普通はそうする。だが…」

これは、俺が犯したミスなのだ。

最初に伊藤の拳銃に気付けていれば、回避できたかもしれない状況だった。

おまけに、ヨウコは撃たれた俺を庇うという行為にすらでた。例えそれが普通の銃弾で死なない俺を庇うという、結果的に

は無意味な行いだったとしても、俺の基準で言えば賞賛されるべき勇敢な行為だ。

「…借りができてしまった。なるべくなら殺したくはない」

その呟きに、ヨウコは何度か瞬きした。

「同行して欲しい場所がある。そこで、俺達の取り纏め役に会って欲しい」

俺の一存では決められないが、タマモさんに頼んでみよう。ヨウコを、見逃してもらえないか、と…。

「さて、急ごう。人が来ると面倒だ」

人間の姿を取ろうとした俺は、替えの衣類を手にしたまま、ふと気になり、尋ねてみる。

「ヨウコさんは、俺の姿が恐ろしくないのか?」

ヨウコは俺を全く恐れていない。分泌される汗の香りや心拍数でそれが読み取れる。

「恐ろしい?」

ヨウコはキョトンとして俺を見つめた。

「俺の姿、どう見える?」

「はあ、綺麗な銀色ですね」

「…そういう事を聞いている訳ではないのだが…」

この女、大丈夫なのか?頭の方。

ヨウコは少し考え込んだ後、理解したかのように頷いた。

「ああ、なるほど」

ヨウコは、俺に笑いかけた。

「大丈夫ですよ。私、ワンちゃん大好きです。犬アレルギーとかも有りませんから」

「俺は狼だ!!!」

質問の意図が正しく伝わらない苛立ちに加えて犬呼ばわりされ、俺は思わず怒鳴っていた。…いかんいかん…。クールに、

スマートに、ハードボイルドに、それが俺の信条だ…。

「もういい…、行こう…」

「何処へ行くんですか?」

「歓楽街の…」

「えっ?!」

ヨウコは俺の言葉を遮って声を上げ、口元を押さえて顔を真っ赤にした。

「…安心しろ。人間の女に興味は無い…」

疲れる…。この女に関わると、どうしてこうも疲れるのだろうか?



「いらっしゃいませ、ヤチ様」

「やあショウコちゃん…、タマモさんは居るかい?」

疲れている俺の様子を見て、彼女は首を傾げた。その視線が後ろでキョロキョロしているヨウコに向けられる。

「わたし、こんな立派なホテルに入るの、初めてです」

ワクワクしているように言うヨウコ。

俺はため息をつき、「人に言えない話だ」とショウコちゃんに伝える。彼女はその言葉の意味を理解して頷くと、ススキの

間へと通してくれた。



静かなススキの間で、俺はヨウコと隣り合って座っていた。

いつもはくつろげる空間なのに、ひどく居心地が悪かった。

「これから、俺達の取り纏め役に会って貰う。くれぐれも失礼のないようにしてくれ」

俺がそう伝えると、ヨウコも緊張したのか、無言になり、身を固くしていた。

居心地の悪い時間が流れ、やがて、襖がそっと開いた。

「おまたせしたわねヤチ君」

タマモさんは微笑しながらそう言うと、俺の隣に座ったヨウコに視線を向けた。

「…そちらの女性は?」

俺はタマモさんに事の顛末を話した。

「今回の件は俺の失態が招いた。全て俺に責がある」

俺はタマモさんに頭を下げた。

「頼む。彼女を見逃して…」

「ヤチ君」

俺の言葉を遮り、タマモさんは冷たく言った。

「殺しなさい」

俺は顔を上げる。

「タマモさん…」

タマモさんの顔には、何の表情も浮かんではいなかった。

ヨウコは、自分が置かれている状況が分かっているのかいないのか、俺とタマモさんの顔を交互に見つめていた。

殺すのは簡単だ。やろうと思えば屋上で殺せた。それをしなかったのは…。

「…できない」

俺の返答にも、タマモさんは表情一つ変えなかった。

「それは何故?情でも覚えたのかしら?」

「違う!俺は…」

「私は構いませんよ?」

ヨウコは平然とした口調で言った。

「ヤチさんが助けてくれなければ殺されていましたし、姉の仇討ちをしてもらった以上、あまり悔いも残さないで死ねると思

いますし…」

この女…、死をどれほど軽く捉えているのだ?それとも…。

俺はヨウコの微かな汗の香りに気付く。

やはりそうだ。ヨウコは本気で言っている。死を恐れていない訳ではないが、受け入れる覚悟ができているのだ。自分を殺

すかどうかの話を、他人が目の前でおこなっているというのに、彼女は取り乱した様子さえ見せなかった。俺と伊藤の間に入

ったあの時も、同じ香りがした…。

「情じゃない」

俺はタマモさんに言った。

「誇りだ」

「誇り?」

意外そうに聞き返したタマモさんに、俺は頷く。

「彼女は俺を庇い、自分の命を盾にしようとした。借りを返さず逝かせるのは、俺の誇りが許さない」

タマモさんはスッと目を細めた。

「なら、どうするつもり?」

「貴女と一戦交える事になっても、彼女を生かす。例えその結果この街を追われても、俺が敗れて死ぬ事になろうとだ」

…馬鹿か俺は?気が付けばとんでもない事を口にしていた。この街に居続けた理由も、目的も、数日前に会ったばかりの女

一人のために全て放り出すというのか?

自問してみたが、頭は否定するものの、魂はそれで良いと言っていた。事実、後悔の念は無かった。

「そう…」

タマモさんは俯き、静かにそう言うと、キッと顔を上げた。

「合格ね」

…は?

タマモさんはニコニコと笑いながら俺を見つめた。

唖然としている俺に、タマモさんは笑みを浮べながら言った。

「安っぽい情にほだされて、見逃してあげましょう、なんて言うのなら、認めるのは難しいわ。そんな事を言っていたら、余

りにも際限がないもの」

タマモさんは優雅に微笑んだ。

「でも、ヤチ君は誇りの為に彼女を守りたいと言ったわね。それは立派な義の心よ。そして貴方はきちんと覚悟を示してくれ

たわ。その覚悟と、彼女の度胸に免じ、命は奪わない事にしましょう」

「待て。もしかして、俺を試したのか?」

「だって、軽い理由で見逃したらきりがないし、示しがつかないでしょう?貴方がどの程度本気か確かめたかったのよ」

…この雌狐…!怒鳴りたくなったが、ここは我慢だ…。機嫌を損ねて撤回されても困るからな。

「それでは、ヨウコさん?」

「あ、はい!」

突然タマモさんに声をかけられ、ヨウコはビシッと正座しなおした。

「ヤチ君は貴女の命を奪いたくないそうなの。そのためには貴女が、私達の同士になり命を賭して秘密を守る。と誓う必要が

あるわ」

「誓うって…?」

「口に出して宣誓するだけでいいのよ。私やヤチ君は、その言葉が真実か偽りか、見抜くことができるの。言葉が真実ならば、

貴女は自由になれる。偽りだった場合は、口外する気がなくなるまで、地下か何処かに幽閉する事になるわね」

微笑んだまま言うなよタマモさん。かなり怖いから。

「はい。同士になり、命を賭して秘密を守ります」

ヨウコは真面目腐って言う。

「はい結構よ」

タマモさんはあっさり頷いた。まあ、ウソじゃ無かったが…。

「一応、私達のしきたりでは、秘密を知り同志となる人間は、会合で皆に紹介する必要があるの。申し訳ないけれど、これか

ら緊急招集をかけるから、夜中まで待っていてくれるかしら?休憩用にホテルの部屋を用意させるわ」

ヨウコは高級ホテルの部屋に興味があるのか、目を輝かせていた。

タマモさんは立ち上がり、部屋を出ようとした所で足を止め、振り返った。

「あ、それと…。あとでサインいただけるかしら?私、ミステリーライン、創刊号から愛読しているの。もちろん貴女の記事

も毎月楽しみに読ませてもらっているわ」

…読んでたのかよ…。

ヨウコは少し驚いたように目を丸くし、それから微笑んだ。

「はい!喜んで!」